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第六章『門』
5 猫ちゃんの主人、物語の外側を語る
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「漱石作品の中では、キャリアの前半は、結婚の描写も仲が良い夫婦が書かれる事が多かったと思う。それがキャリア後半になると、『上手く行かない結婚』の描写が多くなってくる。まあ結婚以外にも、漱石には気苦労があったんだろう。病気も悪くなっていったしね」
「……それで?」
主人の話に、雪子が『何を言いたいんですか?』と尋ねてくる。
「私が言いたいのは二つだ。一つは、『君が小説家になれたとしても、それで幸せになれるとは限らない』。もう一つは、『幸せでも不幸せでも、小説の書きようはある』。自由自在なんだよ、小説の書き方というものは」
「良く分かりません。私はどうすれば良いのか、アドバイスを頂けませんか」
雪子の方は必死である。落ち着かせるように、主人は話を続けた。
「私としては、まずは君が、幸せになる事を勧めるね。さっきも言った通り、小説は君が幸せでも不幸せでも書けるものだ。だったら、君は幸せになった方が良いに決まっている」
「……どうすれば幸せになれますか」
「その辺りは人に寄るからねぇ。漱石も知りたがってたんじゃないかな、どうすれば幸せになれるのか。恋愛、結婚、やりがいのある仕事、金銭的な余裕……そして少しばかりの信仰心」
主人は幾つかの要素を挙げていった。
「君は若いから、まだ体は健康だろう。なら心に余裕を持つ事だね。そして人生経験を積んで幸せになっていけば、小説家にならなくとも君の悩みは解決すると思うよ」
焦らず、じっくり行きなさい。主人が言いたいのは、そういう事らしい。
「……何だか、大人ぶってて、ずるい」
雪子の方は少し拗ねている。今の状況を変えたいのだから、長期的な話をされても不満なのだろう。主人は苦笑している。
「なら貴方の……いえ、先生の人生経験を話して頂けませんか。結婚されてるんですよね? 小説家になるまでに、どんな苦労があったのか。奥さんとの馴れ初めとか」
「それも取材かね?」
「個人的に参考にしたいんです。お願いします、それを聞いたら帰りますから」
雪子は中々、押しが強い。泣く子と地頭には勝てないというのは、昔から言われる事である。
「……私は作家としてのデビューが遅くてね。君のような若い子の参考には、ならないよ。まあ漱石の作家デビューも三十代後半だが」
そう言って主人は、空を見上げた。
「君に話すとすれば、妻との事に付いてかな。これから勝手に独り言を呟くから聞いててくれ」
「……私はね。子供の頃から、認められた試しが無かった。グズで、頭が悪くてね。
親も私を見限っていたし、私の方も周囲を見限っていた。大人になる頃には社会不適格者の出来上がりさ。まともな就職など無理で、日雇いのバイトで食い繋いでた。
ただ一人、私に好意を寄せてくれた女性が居た。それが今の妻でね。彼女は頭が良くて、人並み以上の稼ぎがあった。『何で私なんかを?』と思ったし、今も不思議に思ってる。私に分かったのは、絶対に、彼女を手放してはいけないって事だけだった」
天に向かって、主人が語り掛けるかのように話す。雪子は黙って聞いていた。
「結婚はしたものの、私の稼ぎは上がらない。私は職場での人間関係が上手く行かなくなって、ついには無職さ。これは何とかしないといけない。そう思って小説を書き始めた。
読書は昔から、少しずつ続けていたんだ。グズな私でも、本は逃げて行かないからね。自分のペースで読む分には、幾らでも読書は続ける事が出来た。
その甲斐があったのか、投稿していた小説の一つが認められて新人賞を獲った。小さな賞だけどね。これで状況は良くなるかと思ったんだが」
一つ、ため息をつく。再び、話し出した。
「……その後に書いた小説が売れなくてね。売れない小説家というのは惨めなものさ。
出版社は私よりも若くて才能がある作家としか、話したがらない。私には担当の編集者が一人、居るだけだ」
その一人というのが、先日、主人を押し倒した女編集者であろう。
「妻は子供を欲しがっていたのに、私の収入が乏しくて実現できない。妻は猫を拾って可愛がったが、それでも心が満たされない。私と妻は諍いが増えてきた。このままでは不味い、という時に、今の息子を妻は妊娠した」
「……おめでとうございます」
主人の言葉に、控え目に雪子がコメントする。
「めでたい話なんだが、困った事に、我が家の経済を支えているのは妻でね。妊娠中は仕事を休まなければならない。その期間は妻が貯めた金で何とかしたんだが、出産したら出産したで、今度は仕事に復帰するまでの空白期間に妻は苦しんだ。
只でさえ、女性が働きにくい職場なのに、更に出産というハンデを背負って妻は戦っている」
空は曇ってきた。今は梅雨の時期なのであろう。
「……今の妻は、仕事に専念しようとしていてね。だから、今は私と離れて暮らしている。
私はね、自分の小説が売れないのは仕方ないとも思える。それは単に才能が足りないだけだ。
だけれども、私の人生に巻き込まれて、妻が不幸せである事には耐えられない……耐えられないよ……」
天に懺悔するかのように主人は、そう呟いた。
「……それで?」
主人の話に、雪子が『何を言いたいんですか?』と尋ねてくる。
「私が言いたいのは二つだ。一つは、『君が小説家になれたとしても、それで幸せになれるとは限らない』。もう一つは、『幸せでも不幸せでも、小説の書きようはある』。自由自在なんだよ、小説の書き方というものは」
「良く分かりません。私はどうすれば良いのか、アドバイスを頂けませんか」
雪子の方は必死である。落ち着かせるように、主人は話を続けた。
「私としては、まずは君が、幸せになる事を勧めるね。さっきも言った通り、小説は君が幸せでも不幸せでも書けるものだ。だったら、君は幸せになった方が良いに決まっている」
「……どうすれば幸せになれますか」
「その辺りは人に寄るからねぇ。漱石も知りたがってたんじゃないかな、どうすれば幸せになれるのか。恋愛、結婚、やりがいのある仕事、金銭的な余裕……そして少しばかりの信仰心」
主人は幾つかの要素を挙げていった。
「君は若いから、まだ体は健康だろう。なら心に余裕を持つ事だね。そして人生経験を積んで幸せになっていけば、小説家にならなくとも君の悩みは解決すると思うよ」
焦らず、じっくり行きなさい。主人が言いたいのは、そういう事らしい。
「……何だか、大人ぶってて、ずるい」
雪子の方は少し拗ねている。今の状況を変えたいのだから、長期的な話をされても不満なのだろう。主人は苦笑している。
「なら貴方の……いえ、先生の人生経験を話して頂けませんか。結婚されてるんですよね? 小説家になるまでに、どんな苦労があったのか。奥さんとの馴れ初めとか」
「それも取材かね?」
「個人的に参考にしたいんです。お願いします、それを聞いたら帰りますから」
雪子は中々、押しが強い。泣く子と地頭には勝てないというのは、昔から言われる事である。
「……私は作家としてのデビューが遅くてね。君のような若い子の参考には、ならないよ。まあ漱石の作家デビューも三十代後半だが」
そう言って主人は、空を見上げた。
「君に話すとすれば、妻との事に付いてかな。これから勝手に独り言を呟くから聞いててくれ」
「……私はね。子供の頃から、認められた試しが無かった。グズで、頭が悪くてね。
親も私を見限っていたし、私の方も周囲を見限っていた。大人になる頃には社会不適格者の出来上がりさ。まともな就職など無理で、日雇いのバイトで食い繋いでた。
ただ一人、私に好意を寄せてくれた女性が居た。それが今の妻でね。彼女は頭が良くて、人並み以上の稼ぎがあった。『何で私なんかを?』と思ったし、今も不思議に思ってる。私に分かったのは、絶対に、彼女を手放してはいけないって事だけだった」
天に向かって、主人が語り掛けるかのように話す。雪子は黙って聞いていた。
「結婚はしたものの、私の稼ぎは上がらない。私は職場での人間関係が上手く行かなくなって、ついには無職さ。これは何とかしないといけない。そう思って小説を書き始めた。
読書は昔から、少しずつ続けていたんだ。グズな私でも、本は逃げて行かないからね。自分のペースで読む分には、幾らでも読書は続ける事が出来た。
その甲斐があったのか、投稿していた小説の一つが認められて新人賞を獲った。小さな賞だけどね。これで状況は良くなるかと思ったんだが」
一つ、ため息をつく。再び、話し出した。
「……その後に書いた小説が売れなくてね。売れない小説家というのは惨めなものさ。
出版社は私よりも若くて才能がある作家としか、話したがらない。私には担当の編集者が一人、居るだけだ」
その一人というのが、先日、主人を押し倒した女編集者であろう。
「妻は子供を欲しがっていたのに、私の収入が乏しくて実現できない。妻は猫を拾って可愛がったが、それでも心が満たされない。私と妻は諍いが増えてきた。このままでは不味い、という時に、今の息子を妻は妊娠した」
「……おめでとうございます」
主人の言葉に、控え目に雪子がコメントする。
「めでたい話なんだが、困った事に、我が家の経済を支えているのは妻でね。妊娠中は仕事を休まなければならない。その期間は妻が貯めた金で何とかしたんだが、出産したら出産したで、今度は仕事に復帰するまでの空白期間に妻は苦しんだ。
只でさえ、女性が働きにくい職場なのに、更に出産というハンデを背負って妻は戦っている」
空は曇ってきた。今は梅雨の時期なのであろう。
「……今の妻は、仕事に専念しようとしていてね。だから、今は私と離れて暮らしている。
私はね、自分の小説が売れないのは仕方ないとも思える。それは単に才能が足りないだけだ。
だけれども、私の人生に巻き込まれて、妻が不幸せである事には耐えられない……耐えられないよ……」
天に懺悔するかのように主人は、そう呟いた。
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