42 / 64
第七章『草枕』
1 猫ちゃん、掲示板になる
しおりを挟む
夢の中で吾輩、ネット掲示板になっていた。何を言っているか分からないと思うが、吾輩も何が何だか分からない。全てが文字で形成されている世界であり、吾輩は掲示板であった。
『うーむ』と吾輩、唸ってみた。これも文字で出てきた。文字が掲示板の上に書き出される。
あるのは文字だけで、本体が無い。全てが文字で出来ていて、これは小説も同じかも知れぬ。
詩人が思考し続ければ、そこには美しい世界が現れるのだろう。漱石先生の『草枕』は、正にそんな冒頭部分であった。絵描きの主人公が山道を歩き続ける場面は有名である。
『あれ、猫ちゃん。何やってるっすか、掲示板なんかに成っちゃって』
ゲストが現れて掲示板の文章が増えた。吾輩は掲示板だから、その掲示板に書き込んだ者の個人情報が見える。これは山師の娘で、髪が赤かったから赤子と吾輩が呼ぶ者だ。
『吾輩が猫というのは、そちらから見えるのかね』
『見えるっすよ。掲示板にも名前があるじゃないっすか、二五チャンネルとか猫チャンネルとか。個性があるんで、パパ上の友人さんが飼ってた猫ちゃんだって分かるっす』
猫チャンネルは吾輩が、よく書き込んでいるネット掲示板であった。この娘も利用者か。
『あら猫ちゃん、この間ぶりっす』
山師の娘の二人目が現れた。久しぶりと言いたいらしい。これは髪が青い青子である。
『君達は夢の中でも一緒に現れるのだね』
『当ったり前じゃないっすかー、三つ子なんすから。同じ夢を見るのは珍しくないっす』
『最近はユッキーが、ウチらとの付き合いが悪いんで。今も夢には出てこないっすね』
ユッキーというのは雪子であろう。掲示板で個人情報を書き込むべきでは無いのだが、夢の中だから問題も無さそうであった。
『まあ吾輩も、よく龍之介くんと一緒の夢を見てるから、珍しくも無いのかね』
『そーそー。ユッキーも猫ちゃんと話に来ればいいのに』
『あれは男っしょ、男が出来たっしょ。けしからん三女っすよ』
雪子の付き合いが悪くなったのは異性が原因と思い込んでいる。この程度の了見だから、雪子からもウンザリされるのだろう。
あーだこーだと娘達が話し続けて、その会話が文字となって掲示板の上を流れる。その文字が川の流れのように上から下へと発生していく。『草枕』の冒頭の自然描写を吾輩、思い出した。
『山路を登りながら、こう考えた』で文章は始まる。あまりにも有名な箇所だから長々とした引用は避けるが、『とかくに人の世は住みにくい』とある。これは人間関係が嫌になったとか、そんな単純なものでは無い。国と国の争いがあった時代なのだ。何処の国に行っても同じだろうという諦観が主人公にはある。
ところで主人公の一人称は「余」である。当時でも変わった人称であったろう。まあ向こうとしても、自分の事を吾輩と呼んでいる猫には言われたくあるまい。
絵の題材を求めて山道を登っていた主人公は、那古井という温泉地を目指している。これは架空の地名だがモデルは熊本の温泉地だそうで、今も小説にちなんで那古井館というのがあるらしい。若い頃の漱石先生は山登りが好きで、温泉に行った事もあるという。
『草枕』は漱石先生が四十才になる少し前に書いた作品であった。漱石先生のキャリアで言うと初期に当たる。日本の戦争が終わったばかりの頃で、その戦争は小説の題材として使われる。
『何を黙り込んでるっすかー、猫ちゃん』
『ウチらはゲストっすよー。客人をもてなす義務が猫ちゃんにはあるっす』
何だか絡まれた。ネット掲示板に、そんな義務は無かったと思うのだが。
『いや、漱石先生の小説に付いて考えててね。どうせなら、君達にも話そうか』
吾輩も誰かに話す事で、思考の整理をしたかった。この娘達が小説を理解するかは怪しいと思ったが、『草枕』に付いて話してみる。
『あまり、ストーリーらしい物は無いんだけどね。絵描きの男が、絵の題材を求めて一定期間、温泉地に逗留する。その間の出来事を書いた作品さ』
『事件は起きないんすか。殺人事件とか名探偵とか出ないんすか』
『絡みも無いんすか。男女の絡みとか男同士とか女同士とか』
やはり吾輩、話す相手を間違えたかなぁと、そう思った。
『むしろ人間同士の、面倒な絡み合いや人情噺を避けたがっているのが主人公でね。一定期間、取材をして帰るだけのつもりだから、誰とも深い関係には成りたくないんだよ』
主人公は三十才くらいの男で、おそらく独身である。このまま一生、独身で生涯を終えそうな気もするキャラクターだ。何より一人称が『余』である。
『結婚を嫌がる風来坊タイプの主人公には、お似合いというか、結婚と相性の良くない女性が出てきて色々と会話をする。主人公より年齢は若いのかな。名前は那美と言って、この女性との会話が作品の見どころではあるね』
主人公(無名である)と、離婚して独身の那美は、時に惹かれ合いながらも最後まで深い関係にはならない。だからこそ生まれる、友情のような淡い関係は、中々に読み応えはあった。
この那美は小説の最後で、泣きはしないが一種、悲しみの表情を見せる。那美とは、涙から取った名前かも知れない。
『うーむ』と吾輩、唸ってみた。これも文字で出てきた。文字が掲示板の上に書き出される。
あるのは文字だけで、本体が無い。全てが文字で出来ていて、これは小説も同じかも知れぬ。
詩人が思考し続ければ、そこには美しい世界が現れるのだろう。漱石先生の『草枕』は、正にそんな冒頭部分であった。絵描きの主人公が山道を歩き続ける場面は有名である。
『あれ、猫ちゃん。何やってるっすか、掲示板なんかに成っちゃって』
ゲストが現れて掲示板の文章が増えた。吾輩は掲示板だから、その掲示板に書き込んだ者の個人情報が見える。これは山師の娘で、髪が赤かったから赤子と吾輩が呼ぶ者だ。
『吾輩が猫というのは、そちらから見えるのかね』
『見えるっすよ。掲示板にも名前があるじゃないっすか、二五チャンネルとか猫チャンネルとか。個性があるんで、パパ上の友人さんが飼ってた猫ちゃんだって分かるっす』
猫チャンネルは吾輩が、よく書き込んでいるネット掲示板であった。この娘も利用者か。
『あら猫ちゃん、この間ぶりっす』
山師の娘の二人目が現れた。久しぶりと言いたいらしい。これは髪が青い青子である。
『君達は夢の中でも一緒に現れるのだね』
『当ったり前じゃないっすかー、三つ子なんすから。同じ夢を見るのは珍しくないっす』
『最近はユッキーが、ウチらとの付き合いが悪いんで。今も夢には出てこないっすね』
ユッキーというのは雪子であろう。掲示板で個人情報を書き込むべきでは無いのだが、夢の中だから問題も無さそうであった。
『まあ吾輩も、よく龍之介くんと一緒の夢を見てるから、珍しくも無いのかね』
『そーそー。ユッキーも猫ちゃんと話に来ればいいのに』
『あれは男っしょ、男が出来たっしょ。けしからん三女っすよ』
雪子の付き合いが悪くなったのは異性が原因と思い込んでいる。この程度の了見だから、雪子からもウンザリされるのだろう。
あーだこーだと娘達が話し続けて、その会話が文字となって掲示板の上を流れる。その文字が川の流れのように上から下へと発生していく。『草枕』の冒頭の自然描写を吾輩、思い出した。
『山路を登りながら、こう考えた』で文章は始まる。あまりにも有名な箇所だから長々とした引用は避けるが、『とかくに人の世は住みにくい』とある。これは人間関係が嫌になったとか、そんな単純なものでは無い。国と国の争いがあった時代なのだ。何処の国に行っても同じだろうという諦観が主人公にはある。
ところで主人公の一人称は「余」である。当時でも変わった人称であったろう。まあ向こうとしても、自分の事を吾輩と呼んでいる猫には言われたくあるまい。
絵の題材を求めて山道を登っていた主人公は、那古井という温泉地を目指している。これは架空の地名だがモデルは熊本の温泉地だそうで、今も小説にちなんで那古井館というのがあるらしい。若い頃の漱石先生は山登りが好きで、温泉に行った事もあるという。
『草枕』は漱石先生が四十才になる少し前に書いた作品であった。漱石先生のキャリアで言うと初期に当たる。日本の戦争が終わったばかりの頃で、その戦争は小説の題材として使われる。
『何を黙り込んでるっすかー、猫ちゃん』
『ウチらはゲストっすよー。客人をもてなす義務が猫ちゃんにはあるっす』
何だか絡まれた。ネット掲示板に、そんな義務は無かったと思うのだが。
『いや、漱石先生の小説に付いて考えててね。どうせなら、君達にも話そうか』
吾輩も誰かに話す事で、思考の整理をしたかった。この娘達が小説を理解するかは怪しいと思ったが、『草枕』に付いて話してみる。
『あまり、ストーリーらしい物は無いんだけどね。絵描きの男が、絵の題材を求めて一定期間、温泉地に逗留する。その間の出来事を書いた作品さ』
『事件は起きないんすか。殺人事件とか名探偵とか出ないんすか』
『絡みも無いんすか。男女の絡みとか男同士とか女同士とか』
やはり吾輩、話す相手を間違えたかなぁと、そう思った。
『むしろ人間同士の、面倒な絡み合いや人情噺を避けたがっているのが主人公でね。一定期間、取材をして帰るだけのつもりだから、誰とも深い関係には成りたくないんだよ』
主人公は三十才くらいの男で、おそらく独身である。このまま一生、独身で生涯を終えそうな気もするキャラクターだ。何より一人称が『余』である。
『結婚を嫌がる風来坊タイプの主人公には、お似合いというか、結婚と相性の良くない女性が出てきて色々と会話をする。主人公より年齢は若いのかな。名前は那美と言って、この女性との会話が作品の見どころではあるね』
主人公(無名である)と、離婚して独身の那美は、時に惹かれ合いながらも最後まで深い関係にはならない。だからこそ生まれる、友情のような淡い関係は、中々に読み応えはあった。
この那美は小説の最後で、泣きはしないが一種、悲しみの表情を見せる。那美とは、涙から取った名前かも知れない。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
異世界に転移してしまった私、古民家をもらったのでカフェを始めたら大盛況。国王陛下が頻繁に来るのですが、どうしたらいいですか?
来栖とむ
ファンタジー
ブラック企業で疲れ果てた30歳の元OL・美里(みさと)が転移した先は、見渡す限りの深い森。
そこで彼女が授かったのは、魔女の称号……ではなく、一軒の**「日本の古民家」**だった!
亡き祖母が遺したその屋敷には、異世界では失われたはずの「お醤油」「お味噌」「白いお砂糖」という禁断の調味料が眠っていて――。
「えっ、唐揚げにそんなに感動しちゃうの?」
「プリン一口で、国王陛下が泣いちゃった……!?」
おにぎり、オムライス、そして肉汁溢れるハンバーグ。
現代日本の「当たり前」が、この世界では常識を覆す究極の美食に。
お掃除のプロな親子や、お忍びの王様、さらにはツンデレな宮廷料理人まで巻き込んで、
美味しい香りに包まれた、心もお腹も満たされるスローライフが今、始まります!
番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。
田舎農家の俺、拾ったトカゲが『始祖竜』だった件〜女神がくれたスキル【絶対飼育】で育てたら、魔王がコスメ欲しさに竜王が胃薬借りに通い詰めだした
月神世一
ファンタジー
「くそっ、魔王はまたトカゲの抜け殻を美容液にしようとしてるし、女神は酒のつまみばかり要求してくる! 俺はただ静かに農業がしたいだけなのに!」
ブラック企業で過労死した日本人、カイト。
彼の願いはただ一つ、「誰にも邪魔されない静かな場所で農業をすること」。
女神ルチアナからチートスキル【絶対飼育】を貰い、異世界マンルシア大陸の辺境で念願の農場を開いたカイトだったが、ある日、庭から虹色の卵を発掘してしまう。
孵化したのは、可愛らしいトカゲ……ではなく、神話の時代に世界を滅亡させた『始祖竜』の幼体だった!
しかし、カイトはスキル【絶対飼育】のおかげで、その破壊神を「ポチ」と名付けたペットとして完璧に飼い慣らしてしまう。
ポチのくしゃみ一発で、敵の軍勢は老衰で塵に!?
ポチの抜け殻は、魔王が喉から手が出るほど欲しがる究極の美容成分に!?
世界を滅ぼすほどの力を持つポチと、その魔素を浴びて育った規格外の農作物を求め、理知的で美人の魔王、疲労困憊の竜王、いい加減な女神が次々にカイトの家に押しかけてくる!
「世界の管理者」すら手が出せない最強の農場主、カイト。
これは、世界の運命と、美味しい野菜と、ペットの散歩に追われる、史上最も騒がしいスローライフ物語である!
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗@オートスキル第1巻発売中
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる