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第八章『行人』
6 龍之介くん、ベッドでミチクサを読む
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「でも法律上、夫の弟と、未亡人である妻は結婚できないはずでは?」
「現行の民法では、龍之介くんが言う通りだ。でも当時は可能だったんだよ」
戦争で長男が死ぬ事は、昔からある事であった。そういう事態のために、長男が死んだ場合、次男が兄嫁と結婚する事は許されていたのである。
「ちなみに一家の嫁が、亡夫の弟と再婚する事を何と言うか知ってるかい? 『弟直し』というんだ。直というキャラクターの名前が、ここから取られていたら面白いね」
つまり一郎が、二郎の事を恋敵と捉えるのも、全く理由が無い訳ではないのだ。一郎が死ねば、直は二郎と再婚するだろう。少なくとも一郎はそう考えていただろうし、直もそう期待していたのではないか。「自分を死ぬまで殴り続けるかも知れない夫」の死を望むのは、むしろ当然だと吾輩などは思ってしまう。
「第三部である『帰ってから』では、直が二郎に結婚を勧めてたけど、あれも二郎の気持ちを測ろうとしていたんだと吾輩は思うね。直は二郎に、独身で居て欲しかったんじゃないかな」
そして直の思惑通り、小説の最後まで二郎は独身のままだ。この展開から、漱石先生が考えていた『行人』のその後は、一郎が死んで二郎が兄嫁と結婚していたと吾輩は推測する。
「ドロドロしてますねぇ。当時の新聞小説では書けないんじゃないですかね」
「だから書かなかったんだと吾輩は思うね。二郎は一郎に対して深く懺悔しながら、それでも直と幸せに暮らすんだよ。そういうのは燃えるんじゃないかなぁ、背徳的で」
吾輩と龍之介くんは笑う。これは不真面目な話だろうか。むしろ漱石先生は、この程度の話は構想していたと思うのだが。
「一郎の不信が、どんどん強まっていきますよね。あれは何故ですかね、吾輩さん」
「妻である直への不信が酷くなっていくんだよね。あれはつまり、セックスレスが原因だと思うよ。これも大正時代には書けないだろうね」
一郎と直の間には、男子が生まれなかった。直も跡継ぎを生むようにとプレッシャーを掛けられて居ただろうが、それは一郎も同様だったであろう。神経質な一郎はプレッシャーに負けて、夜の夫婦生活を致す事が出来なかったのではないか。
「このセックスレスが原因で、夫婦が不仲になっていったとしたら。それは一郎も直も、周囲に原因を言えないと思うんだよ。一郎は自分が、男として欠陥があるように感じて、直に暴力を振るって精神的にもおかしくなっていったんじゃないかね」
「二郎は呑気な次男坊ですしね。一郎よりは、子作りの才能があるかも知れません」
「そうそう。そうやって一郎は、まず『直は俺より二郎を選ぶんじゃないか』と疑うようになって。そして二郎に避けられるようになって、直と二郎が裏で示し合わせてるように感じたと。一郎の頭の中では、妻と弟から裏切られた訳だから、それはショックが大きかったんだろう」
そして、もう一つ、吾輩が思う悲劇的なポイントがある。
「『行人』の主人公は一郎だとして、主人公が苦悩する小説って、その後も数多く出てるよね。でも、こう言ったら何だけど、主人公の苦悩っていうのは自殺すれば逃れられるんだよ。ところが一郎は自殺する事が出来ない。何故か? 自分が死んだら、直を二郎に奪われてしまう。それが一郎は嫌なんだ」
「何と、まぁ……」と、龍之介くんが嘆息する。
「直は最後の方で、自分が一郎から愛想を尽かされたと思ってた。でも、それは違うと吾輩は思う。一郎は常に直を愛しているんだよ、だから激しく嫉妬し続けるんだ」
一郎も漱石先生も、苦悩を抱えながら、それでも可能な限り生き続けた。一郎は妻への愛ゆえに生き続けようとし、漱石先生は何より小説を書き続けたかったのだろう……もちろん妻や子供達への愛もあっただろう。
「一郎が最終的にどうなったかは分からないし、二郎と直がどうなったかも分からない。皆が懸命に、自分の人生を生きていくんだ。それが最も大事なメッセージなのかもね、という辺りで吾輩の解釈を終えちゃいます」
「お疲れ様でしたー」
吾輩と龍之介くん、共にベッドに入る。龍之介くんは手元に電子書籍を出現させた。吾輩達が居るホテルは電脳空間なのである。
「まだ読書をするのかね、龍之介くん」
「眠っちゃったら、吾輩さんとの夜が終わっちゃいますから。勿体ないですよ、それは」
何を読んでいるのかが気になって、吾輩、覗き込んでみる。
「おおっ、伊集院静先生が書いた『ミチクサ先生』か。東京オリンピックの少し後に刊行された、夏目漱石先生が主人公の小説だね」
「いい作品ですよね。百年前に書かれた小説が、まだ読み続けられているのが素晴らしいです」
あれから百年が経ったのかと、吾輩、しみじみする。まさか猫の吾輩が、これほど長く生きる事になるとは全く思わなかった。
科学も発達していて、何とかバースという技術も飛躍的に発展した。年寄りとなった吾輩も龍之介くんも、電脳空間というのか仮想空間というのか、そこで楽しく自由な姿で動き回る事が出来ている。食事の味も完璧に再現されるのだから驚くしかない。
「僕も百才になりましたけど、昔の百才の方よりは全然、健康ですからね。医療も発達してて、ありがたい限りです」
「今の医療技術が、漱石先生の時代にあったら良かったのにねぇ。吾輩、そう思うよ」
ちなみに、お白さんも健在である。今もBLの「喘げ」シリーズ最新作に熱中している。猫もBLゲームを楽しめるようになったのだから、良い時代になったものだ。
吾輩、伊集院静先生が書いた『ミチクサ先生』を思い起こす。一時期、漱石先生には神経症のイメージが付いて回った。しかし『ミチクサ先生』では、周囲の人々と快活に会話をする、漱石先生の姿が書かれている。漱石先生が数多くの門人を育て、数多くの人々から愛されたのも、また事実なのだ。
漱石先生と家族の間には、不和もあったかも知れない。しかし漱石先生が亡くなる時、家族は大泣きしたそうだ。そこには、やはり愛があったのだと吾輩は信じている。
「百年後も残る小説って、どれほどあるでしょうね。伊集院先生は流石ですよ、直木賞作家というのは伊達じゃありません」
吾輩、主人が百年前に小説を書いていたなぁと思い出す。あの作品は一体、どうなったのだろう。年を取ると細かい事は忘れてしまうものだ。
今ではタイムマシンもある。時空管理局に禁止されているから詳しくは言えないが、百年の間には様々な事があった。病気や戦争が世界を騒がせた。しかし、吾輩も龍之介くんも、こうして生きている。
未来は決して、暗い話ばかりではない。だから希望を持って、今の時代を生きてほしいというのが吾輩のメッセージだ。漱石作品のキャラクターも、漱石先生も、自分の時代を精一杯に生きた。同じ事は皆に出来るのだと、そう吾輩は伝えたい。
「現行の民法では、龍之介くんが言う通りだ。でも当時は可能だったんだよ」
戦争で長男が死ぬ事は、昔からある事であった。そういう事態のために、長男が死んだ場合、次男が兄嫁と結婚する事は許されていたのである。
「ちなみに一家の嫁が、亡夫の弟と再婚する事を何と言うか知ってるかい? 『弟直し』というんだ。直というキャラクターの名前が、ここから取られていたら面白いね」
つまり一郎が、二郎の事を恋敵と捉えるのも、全く理由が無い訳ではないのだ。一郎が死ねば、直は二郎と再婚するだろう。少なくとも一郎はそう考えていただろうし、直もそう期待していたのではないか。「自分を死ぬまで殴り続けるかも知れない夫」の死を望むのは、むしろ当然だと吾輩などは思ってしまう。
「第三部である『帰ってから』では、直が二郎に結婚を勧めてたけど、あれも二郎の気持ちを測ろうとしていたんだと吾輩は思うね。直は二郎に、独身で居て欲しかったんじゃないかな」
そして直の思惑通り、小説の最後まで二郎は独身のままだ。この展開から、漱石先生が考えていた『行人』のその後は、一郎が死んで二郎が兄嫁と結婚していたと吾輩は推測する。
「ドロドロしてますねぇ。当時の新聞小説では書けないんじゃないですかね」
「だから書かなかったんだと吾輩は思うね。二郎は一郎に対して深く懺悔しながら、それでも直と幸せに暮らすんだよ。そういうのは燃えるんじゃないかなぁ、背徳的で」
吾輩と龍之介くんは笑う。これは不真面目な話だろうか。むしろ漱石先生は、この程度の話は構想していたと思うのだが。
「一郎の不信が、どんどん強まっていきますよね。あれは何故ですかね、吾輩さん」
「妻である直への不信が酷くなっていくんだよね。あれはつまり、セックスレスが原因だと思うよ。これも大正時代には書けないだろうね」
一郎と直の間には、男子が生まれなかった。直も跡継ぎを生むようにとプレッシャーを掛けられて居ただろうが、それは一郎も同様だったであろう。神経質な一郎はプレッシャーに負けて、夜の夫婦生活を致す事が出来なかったのではないか。
「このセックスレスが原因で、夫婦が不仲になっていったとしたら。それは一郎も直も、周囲に原因を言えないと思うんだよ。一郎は自分が、男として欠陥があるように感じて、直に暴力を振るって精神的にもおかしくなっていったんじゃないかね」
「二郎は呑気な次男坊ですしね。一郎よりは、子作りの才能があるかも知れません」
「そうそう。そうやって一郎は、まず『直は俺より二郎を選ぶんじゃないか』と疑うようになって。そして二郎に避けられるようになって、直と二郎が裏で示し合わせてるように感じたと。一郎の頭の中では、妻と弟から裏切られた訳だから、それはショックが大きかったんだろう」
そして、もう一つ、吾輩が思う悲劇的なポイントがある。
「『行人』の主人公は一郎だとして、主人公が苦悩する小説って、その後も数多く出てるよね。でも、こう言ったら何だけど、主人公の苦悩っていうのは自殺すれば逃れられるんだよ。ところが一郎は自殺する事が出来ない。何故か? 自分が死んだら、直を二郎に奪われてしまう。それが一郎は嫌なんだ」
「何と、まぁ……」と、龍之介くんが嘆息する。
「直は最後の方で、自分が一郎から愛想を尽かされたと思ってた。でも、それは違うと吾輩は思う。一郎は常に直を愛しているんだよ、だから激しく嫉妬し続けるんだ」
一郎も漱石先生も、苦悩を抱えながら、それでも可能な限り生き続けた。一郎は妻への愛ゆえに生き続けようとし、漱石先生は何より小説を書き続けたかったのだろう……もちろん妻や子供達への愛もあっただろう。
「一郎が最終的にどうなったかは分からないし、二郎と直がどうなったかも分からない。皆が懸命に、自分の人生を生きていくんだ。それが最も大事なメッセージなのかもね、という辺りで吾輩の解釈を終えちゃいます」
「お疲れ様でしたー」
吾輩と龍之介くん、共にベッドに入る。龍之介くんは手元に電子書籍を出現させた。吾輩達が居るホテルは電脳空間なのである。
「まだ読書をするのかね、龍之介くん」
「眠っちゃったら、吾輩さんとの夜が終わっちゃいますから。勿体ないですよ、それは」
何を読んでいるのかが気になって、吾輩、覗き込んでみる。
「おおっ、伊集院静先生が書いた『ミチクサ先生』か。東京オリンピックの少し後に刊行された、夏目漱石先生が主人公の小説だね」
「いい作品ですよね。百年前に書かれた小説が、まだ読み続けられているのが素晴らしいです」
あれから百年が経ったのかと、吾輩、しみじみする。まさか猫の吾輩が、これほど長く生きる事になるとは全く思わなかった。
科学も発達していて、何とかバースという技術も飛躍的に発展した。年寄りとなった吾輩も龍之介くんも、電脳空間というのか仮想空間というのか、そこで楽しく自由な姿で動き回る事が出来ている。食事の味も完璧に再現されるのだから驚くしかない。
「僕も百才になりましたけど、昔の百才の方よりは全然、健康ですからね。医療も発達してて、ありがたい限りです」
「今の医療技術が、漱石先生の時代にあったら良かったのにねぇ。吾輩、そう思うよ」
ちなみに、お白さんも健在である。今もBLの「喘げ」シリーズ最新作に熱中している。猫もBLゲームを楽しめるようになったのだから、良い時代になったものだ。
吾輩、伊集院静先生が書いた『ミチクサ先生』を思い起こす。一時期、漱石先生には神経症のイメージが付いて回った。しかし『ミチクサ先生』では、周囲の人々と快活に会話をする、漱石先生の姿が書かれている。漱石先生が数多くの門人を育て、数多くの人々から愛されたのも、また事実なのだ。
漱石先生と家族の間には、不和もあったかも知れない。しかし漱石先生が亡くなる時、家族は大泣きしたそうだ。そこには、やはり愛があったのだと吾輩は信じている。
「百年後も残る小説って、どれほどあるでしょうね。伊集院先生は流石ですよ、直木賞作家というのは伊達じゃありません」
吾輩、主人が百年前に小説を書いていたなぁと思い出す。あの作品は一体、どうなったのだろう。年を取ると細かい事は忘れてしまうものだ。
今ではタイムマシンもある。時空管理局に禁止されているから詳しくは言えないが、百年の間には様々な事があった。病気や戦争が世界を騒がせた。しかし、吾輩も龍之介くんも、こうして生きている。
未来は決して、暗い話ばかりではない。だから希望を持って、今の時代を生きてほしいというのが吾輩のメッセージだ。漱石作品のキャラクターも、漱石先生も、自分の時代を精一杯に生きた。同じ事は皆に出来るのだと、そう吾輩は伝えたい。
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