サハラ砂漠でお茶を

あおみなみ

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第5章 新居

つかの間の隣人

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 話は少し前後するが、思い出と言えるほどのかかわりはなかったのに、印象に残っている人について少し話したい。

▽▽

 私が現在入居している古い二軒長屋の片袖は、近くの大学の先生が借りていた。
 といっても、何かと便利だから書斎兼ねぐらとして借りていただけで、隣県に本当のお宅があるらしい。そちらに帰っていることが多いので、入居後1カ月くらい、実際に顔を合わせることはなかった。
 何度かご挨拶に行っても不在だったので、ポストに一応、ご挨拶回り用に買ったタオルだけ入れ、あきらめた。
 夜遅く時々感じる物音や気配で「ああ、今日はいらっしゃるのかな」と分かる程度だ。

 思えば前住んでいたアパートだって、近隣者との縁はこんなものだった。

▽▽

 住み始めてから2回目の家賃を持って、大家さん夫婦が経営する和風喫茶「よ志だ」というお店を訪れたとき、偶然その方と会った。

 大家さんが「この子ですよ、先生のお隣さん」と、初老の小柄な男性に私を紹介した。
 くしゃっとした赤ら顔で、髪はかなり薄い。笑顔に何とも言えない愛嬌のあるオジサマである。

「ああ、初めまして。僕、夜うるさくない?」
「え…いや、そんなことは…」
「ああ、ならいいんだけどね。前あなたのところに住んでいた人はうちの学生で、「先生、夜中にうるさいよ」って抗議受けちゃったモンだからさ」
「大丈夫ですよ。こちらこそ、ご迷惑をかけていることがあったらおっしゃってください」

 私は幸か不幸か聞いたことがないのだが、夜中に酔っぱらって帰ってきて、日本の演歌をドイツ語で歌ったりすることがあったらしい。
 (そんなん逆に聞きたいわ!)と思ってしまった。

 「先生」こと青林せいりん大学工学部教授の原島センセイは、大の酒好きで甘党で、この界隈のスナックや居酒屋ではちょっとした「顔」であり、さらには「よ志だ」の常連でもあるらしい。
 そのときはクリームあんみつをおいしそうに召し上がっていて、「初対面記念で君にもおごっちゃうね」と、同じものをごちそうしてくださった。

▽▽

 お酒好きがたたったのが、それ以外のご事情でか分からないが、私が退職して在宅仕事に入った頃、突然、原島先生のお部屋が「整理」され始め、大家さんには「原島先生、亡くなったんだよ」と説明された。

「先生は君のこと「いい子だね」って褒めてたよ」
 褒められるようなことをした覚えもないが、特に失点もない、多分、無難な隣人という記憶のまま、先生は突然逝かれた。

 クリームあんみつの、寒天だと思って口に入れた桃色のものが「ようかんの角切り」だったときには口がビックリしたけれど(どうやらこれは先生の限定で、通常は寒天らしい)、おいしかったし、忘れられない味になってしまった。

「あの――クリームあんみつ一つください」
「ようかんにする?寒天にする?」
「じゃ――お手間でなければ半々で」
大家さんはクスッと薄くわらって「かしこまりました」と言った。

 先生のドイツ語の演歌、聞きたかったな。

▽▽

 さて、もう1人の隣人というか、喫茶「Sahara」の方も、マスターの創さん目当てで何となく顔を出してしまう。
 大抵、中途半端な時間に顔を出してブレンドを頼むが、時々はお昼時に卵サンドでランチすることもあった。

 文字起こしの仕事は、思ったよりも切れ目なくあったものの、やはり稼げるだけ稼ぎたいという思いがあって、それとは別にアルバイトを探すことも検討した。

 退職や引っ越しの理由を創さんは知らないが、何となくワケアリ感はくみ取ったらしく、仕事についていろいろと質問してきたり、「ちゃんとご飯食べてる?」などと、オカンめいたこと言われることも多い。

 そんな中で、ぼやっと「アルバイトを探している」という話もした。

「都会だと単発のイベントスタッフの口とかも多いんだろうけど、この辺だとなあ…」
「そうなんですよね。まあ、まだそんなに切迫しているわけでもないんですけど、今後はひとりで頑張らなきゃいけないし」

 どこにも属さないフリーランスだから、私はそんな程度の意味で言ったに過ぎないが、創さんは「ひとり」の部分を聞き逃さなかった。

「まだ若いのに、何言ってんだか」
「はは…」

 そう言われても気づいたけれど、結婚はもちろん、恋愛にも縁がないだろうと思っていることが、つい口を突いて出てしまったようだ。

 創さんは大家さん夫婦のお嬢さんと結婚し、女の子を1人もうけたが離婚して、「今は気ままにやっている」という身である。
 元奥さんは既に再婚して、会ったことはないが、比較的近所に住んでいるらしい。

 軽率にも創さんに一目ぼれし、今住んでいるところへの入居も決意したわけだけど、もとより恋愛に関して積極性の薄い自分が、気ままでオトナな彼とどうこうなれるビジョンはない。ただ、今みたいにそばにいられたらと思っているだけだ。

「そういえば原島センセイのこと、残念だったね」
「はい…印象的な方だったから、もっとお話ししたかったです」
「美由ちゃんみたいに若くてかわいい子にそう言ってもらえたら、センセイもあの世で喜んでるだろうね」
「またまた~」

 社交辞令の軽口だと分かっていても、創さんの口から出る「若くてかわいい」って言葉、今すぐ持ち帰って、それをに350ミリリットルのビール2本くらいは飲めそう。

 かわいいって言葉には汎用性があるし、私なんかに使ってくれる心の広い方は時々いらっしゃる。

 でも私、この秋には27になる予定だった。

 当時、まだそんな言い回しはしなかったものの、Around30アラサーというやつである。
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