教科書

あおみなみ

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みく、小学3年生

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 小学校3年生の小島こじまみくには、心許せる相手がいません。

 クラスに仲のいい子がいないわけではありませんが、誰かが彼女の肩に腕を回し、「友達だよ」って言ったとしても、それを額面通り受け取るのさえためらってしまうほど、自己肯定感が低いのでした。

 家でも、親に虐待されているわけではないけれど、「算数のノートがもうすぐなくなりそう」「体操服がちょっときつい」と言っただけで、「はーっ、本当にお金かかるわねえ」と大きなため息をつきながら、茶色のがま口をいまいましげに開く母と、何でもかんでも「お母さんに言いなさい」で済ませる父と、彼女の頭からつま先まで全否定するような、強気で意地の悪い6年生の姉がいるだけです。

 みくが1年生ぐらいまでは、かわいがってくれるおじいちゃん、おばあちゃんがいましたが、今はそろって仏壇の中の写真として笑っているだけ。
 悲しいことや嫌なことがあったとき、仏間で2人の遺影に語り掛けるときだけ、みくは心穏やかになれましたが、もしそんな姿を姉に見つかれば、「あんたバッカじゃないの?」と盛大に笑われることが分かっていたので、家族の目を盗んでこそこそと身を縮め、小さな声で語り掛けるようになってしまいました。

***

 みくはある日、自分の算数の教科書がないことに気づきました。

 まだ小学生で姉と同じ部屋で寝起きしているみくの、自分の私物を置くスペースは限られてるので、その狭い範囲をきちんと丁寧に探せば、何かの間に挟まっていたとかで、簡単に出てくるかもしれませんが、もしも「外的要因」でなくしているのだとしたら?
 つまり、例えば教室の誰かに隠されたり、盗まれたり、捨てられたりしているからないのだとしたら?

 今までそんなに分かりやすいいじめに遭ったことはないものの、いつもみんなからいじられたり、見下されたりしているような被害妄想にさいなまれるみくにとって、それは可能性の一つとして考えなければなりません。

 いろいろと考えているうちに気分が悪くなってしまったみくは、1時間目の体育の授業を休み、保健室で寝かせてもらうことにしました。
 30分も寝ると気分は回復し、養護教諭の「もう大丈夫なの?」という言葉に頭をぺこりと下げて、教室に戻りました。

 まだクラスメイトたちは授業から戻っていないので、教室は無人です。
 2時間目の算数の教科書を「忘れた」といえば、きっと先生にちょっと叱られるだけで済むでしょうが、みくは大人から軽く叱られただけで「お前はどうしようもない」と責め立てられるように感じ、時には涙してしまうことがあるほど小心者でした。

 また、「叱られる」を何とかやり過ごしたとして、教科書が家になかった場合、親に言って新しいものを買ってもらうしかありません。それを想像すると、また軽い頭痛がしてきました。

 そんなとき、たまたま塩屋しおやアキラ君の乱雑にノートや教科書を詰め込まれた机の中が見えました。

 塩屋君はとてもぼんやりした子で、成績は著しく悪く、生活態度も非常にだらしなかったので、よく担任の先生に叱られていました。

 その一方で、塩屋君のお母さんは、学校の近くで国語と算数の小さな私塾を開いていました。
 どちらかというと、学校の勉強についていけないタイプの児童が多い塾らしいのですが、教え方も優しく丁寧で、暮れには手づくりのケーキを焼いて、クリスマスパーティーを開いてくれることもあると聞いたことがあります。

 叱られたくない一心いっしんのみくは、塩屋君の机から、算数の教科書をこっそり抜き取り、自分の机の中にさっと移動させました。
 この一連の行動の間、みくはほぼ何も考えていなかったのですが、後から「塩屋君のお母さんなら優しいから、教科書をなくしてもと思う」「塾の先生とかだったら、余分な教科書もあるかもしれない」などなど、自分に都合のいい言い訳を次々と思いつきました。

 そのすぐ後、クラスメイトたちが体育の授業から戻ってきて、みくに「あー、サボリ女だ」とか「もう大丈夫なの?」などと次々に声をかけてきたので、みくはいすをぐっと机側に引き寄せるように座り、適当に返事をしました。
 塩屋くんをちらりと見ると、いつもの眠たそうな顔をしているだけ。机の中を探る様子も見られません。

***

 果たして2時間目、算数の時間。
 みくは何食わぬ顔(に見えるかもしれませんが、心臓が口から飛び出しそうになっていました)で塩屋君の教科書を机の上に広げ、授業を受けていました。

 塩屋くんは「持ってきたはずの教科書がない。でも、ひょっとしたら忘れたのかもしれない」ということを、非常に要領悪そうに担任に説明し、「仕方ないですねえ。じゃ、お隣さんに見せてもらってね」と言われていました。

 だらしなく、何となく小汚い印象の塩屋くんは女子に嫌われていたので、お隣のリサちゃんは、担任にそう言われて泣きそうな顔になっています。きっと授業後に友達から、「サイナンだったね」などと慰められることでしょう。

 ゆがんだ形で取り繕われた教室では、全く問題なく授業が進行しました。
 みくはとにかく、自分の手元にある教科書が塩屋君のものであるのがばれないようにすることに必死で、授業を聞いていてもうわの空になっていましたが、幸い当てられることもなかったので、45分の授業が無事終了しました。

 みくも一応、塩屋くんに対して罪悪感が全くないわけではありません。
 それでも、「私にはため息ばかりついているお母さんしかいないから」「塩屋くんと違っていつもは忘れ物なんかしないって先生に思われてるから」と考えているうちに、「だから私が塩屋くんの教科書をこっそり借りたって、別にいいじゃん」と、開き直りに近い気持ちが湧いてきたのでした。

***

 家に帰ってよく探すと、入れた覚えのないバッグに教科書が入っていました。
 それが姉のいたずらなのか、自分が忘れただけなのかは分からないものの、とにかく一安心です。

 となると、持ち帰ってしまった塩屋くんの教科書をどうしたらいいでしょう。
 もう不要となると、勝手な話ですが、何だか教科書それが急に汚らしいものに見えてきました。
 クラスのみんなが「塩屋くんのさわったものは汚い」といって、さわるのを嫌がることがあるのです。

 「私の荷物に紛れていた」とか適当なことを言って返してもいいし、またこっそりと机に戻すのも手です。
 しかし自分の教科書がちゃんと見つかったみくには、そのどちらもピンと来ませんでした。

 どうしようかと悩んでいたら、塩屋君は週明けには新品の教科書を持ってきているのがみくの席からも見えました。

(ほーら、やっぱりだ……)

 みくは塩屋くんの教科書を、書店で漫画雑誌を買ったときにもらった薄い紙袋に入れて、学習机の一番深い引き出しの奥にしまい込んでいました。
 多分小学校を卒業するまでそのままで――というより、その存在すら忘れてしまうことでしょう。

 塩屋くんが(何でボクの教科書ないんだろう?)と不思議に思ったものの、優しい母親が手際よく購入し、「もうなくさないでね」と渡したとき、(ま、いいか)という気持ちになっていたのと同じように、それはもうきれいさっぱりと。

【『教科書』Fin】
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