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しおりを挟むその日の朝、台所に行ってみると、お母さんの姿はどこにもなかった。
いつもなら朝御飯を作っている時間なのに、食事の用意をしている様子はなかった。
時計を確認してみても、いつもより早いというわけでもなかった。今日は平日、ぼくは学校、お父さんは仕事がある。
ぼくは両親の部屋に行った。お母さんはベッドにまだ寝ていて、その隣にお父さんが立っていた。
「あ、直人、おはよう」
「お母さん、まだ寝てるの?」
「ああ、ちょっと起き上がれないみたいなんだ」
お母さんは最近、体調を崩している。愚痴のように体がだるい、頭が痛いとかとこぼしていてた。一応病院に行って検査を受けたらしいけど、どこにも異常は見つからなかったらしいので、病気というわけではないみたいだけど。
「まだよくならないんだ」
「そうだな。ここまで異変が続くと心配だよな。とりあえずお父さん休みをもらったから、今度病院に連れていってみるよ」
「検査では異常はなかったんだよね」
「別の病院で確認したいんだ。医者が見落とす可能性もゼロじゃないからな」
「気持ちの問題かもしれないよね」
この前のことが原因かもしれない、とぼくは思った。ぼくたちが伝承館を訪れた直後にお母さんはおかしくなったから。過去に触れたことで心のバランスが崩れてしまったのかもしれない。
「精神的なものか。確かに不馴れな町で生活をしていると、体調が悪化すると聞いたことはあるからな」
「逆じゃないの?お母さんはこの町の出身だよね。だからこそ思い出に苦しめられているんだよ」
「……」
お父さんは廊下に立つぼくのほうまで歩いてきた。
「それはきっと、両方あるんだよ。」
「両方?」
「直人、この町はお母さんが住んでいた町とは違う。名前こそ同じだけれど、場所も建物も変わっているんだ。お母さんにとってはそこが大変なところなんだよ」
お母さんと結婚してから、お父さんは一度もこの町は訪れたことがなかったらしい。
何度も旅行をかねて訪ねてみようと誘ったものの、いつもお母さんはやんわりと断った。
でも、こちらへの転勤が決まったとき、お母さんはここに住みたいと言った。それはきっと今回の転勤が運命のように感じたからに違いないから。
ずっと避けてきた過去が向こうから近づいてきて、お母さんの心に張ってあったバリアが少しだけ剥がれた。
でも、この町はお母さんが住んでいたときの町じゃない。なにもかもが変わってしまっている。
過去に向き合う覚悟を決めたとき、お母さんは頭に思い浮かべていたあの町がもうないことを知ってしまった。
「お母さんだってもちろんわかっていた。あの町がもうないことくらい。でも、頭で理解するのと実際にその目で確認するのではやっぱり大きな違いがあるんだよ」
お母さんはただ、過去の恐怖を引きずっているというわけじゃない。
直視しようとしていた現実がとっくになくなっていたことへの絶望感、そして現実から逃げていたことへの責任感に押し潰されそうになっているのではないかとお父さんは説明した。
「だからお父さんはこの前、あの施設へと連れていったんだ。少しでも本物の過去に触れられれば、気持ちを新しくできるんじゃないかと思ったんだよ」
「でも、お母さんは」
「体調を崩してしまった。心が揺れ動いたまま、それを止める方法が見つかっていないのかもしれない。それでも、これはお母さんが避けては通れない道なんだ」
「いずれ治るものなの?」
「お母さんひとりでは無理かもしれない。だからこそ、お父さんと直人で支えてあげないといけないんだよ」
本当にそれだけが原因なのだろうか、とぼくはそう思った。
ぼくの頭には久瀬さんから聞いたあの話がずっと浮かんでいた。
もしもお母さんが人魚だったなら。それが本当の原因だったなら。
ぼくたち親子にはなにもできないのかもしれない。
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