"marry me"には主語がない

北へ。

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オブラートはごまかすためにあるんじゃない

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 佐渡ヘ着くと、車の運転は彼女がすると言った。僕は素直にそれに従い、助手席に座った。
 両津港から佐渡の中心地を抜けて相川方面へと抜けて、北上していく。北上に伴い人家は減っていく。僕と彼女はエアコンを切って窓を開け放っていた。
「気持ち良い」彼女が言った。
「暑さが残っていて良かった。涼しくなっていたらこの風は感じられなかったからね」
「本当に」彼女は車のスピードを上げる。
「ねえ、少し仕事の話をしても良い?」
 特に取り決めをしたわけではないが、僕と彼女の間ではプライベートの時に仕事の話をするのはタヴーな雰囲気になっていた。僕は、問題ないよ、と頷いた。
「最近少し、ピンチなの」
 彼女の目が細くなった。日差しの眩しさのせいかとも思ったが、一瞬溢れそうになった涙がこぼれないようにしたようにも見えた。
「調子が悪い?」僕が尋ねる。
「まあ、そう。営業にいたころはね、色々なアイディアが次々に浮かんできたの。でも、今は凡庸なアイディアばっかり。自分でもイケてないなあって思いながら仕事してるから、まいっちゃう」
 自分の才覚を武器に強気に生き、自分という宝石を守ってきた彼女。その彼女が自分の才覚を信用できなくなった時、残されたのは今まで彼女を快く思っていなかった厄介な連中からの非難と自己不信になのは、想像に難くない。
「やっぱり営業にいたころのほうが良かったかな。修也くんと仕事をしていたころは、こんなことなかったのに」
 僕は一瞬逡巡したが、一つの提案をした。
「どうしてもというのなら、会社なんて辞めちゃえば?」
 彼女は驚いたように目を丸くした。瞬間、左の眼から一筋の雫が零れ落ちた。無意識だったのだろう、彼女は「あれれ」と言って手首のあたりでそれを拭った。
「なるほどねえ、それは考えていなかったな」涙を拭った彼女は何もなかったように言った。
「僕はそう思うよ。冗談じゃなく。一緒に働いていたから、少し休めば晶が調子を取り戻すだろうことは知っているし、本来の晶なら会社になんかしがみつかなくても、稼ぐ術はたくさんある。欲しがる会社も多いと思う」
 僕は窓際に肘をつき、掌に顎をのせて窓の外を見た。少し高めの波は一定のリズムで音をたてて打ち寄せては引いていく。
「ありがとう。旅行中にこんな相談をしてごめんね。でも、大丈夫。もう少しだけ頑張ってみるから」
 僕は海を見たまま少し考えた。
「心配だな。『もう少し頑張る』という言葉は経験上、かなり限界が近い。辞めろ、とは言わないけど、旅行以外にもゆっくりする時間が必要なんじゃないかな、というのが本音だよ」
 僕のその言葉を聞いて、少しの間があった。
「ねえ、もしかしてだけど」彼女は言った。「それは、仕事を辞めたら僕が食べさせます、という修也くんなりにオブラートに包んだプロポーズなのかな」
 僕が驚いて彼女のほうを見ると、彼女も少しこちらに目線を向けた。半分本気で、半分はからかっているような、そんな笑顔だった。僕は少し考えたけれど、結論はすぐに出た。
「ごめん。そこまで考えた発言ではなかった」実は結婚についてはこの旅行中に話す予定だったのだが、その気がなかった発言を流れでプロポーズの言葉にすることは、したくなかった。
「冗談よ、ごめんね変なこと言って」彼女は満足そうに笑った。
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