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第31話 泥と真珠
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王都へ続く街道は、まだ朝靄に包まれていた。
馬車の車輪がぬかるみを跳ね、木の香りと土の匂いが混ざる。
クラリッサは窓から外を見つめ、薄い唇を引き結んでいた。
「……懐かしい匂い、ですわね」
「王都の空気か?」と、向かいの席からレオンが問う。
「ええ。でも、あの頃とは違いますの。
もう、紅茶の香りよりも――畑の土の匂いのほうが落ち着きますのよ」
「それは……悪くない変化だ」
クラリッサは小さく笑った。
辺境での生活が、彼女の“誇り”を変えたのだ。
かつて彼女にとって誇りとは“美しく見せること”だった。
だが今は違う。“生き抜くこと”こそが誇り。
そして、“人を支える強さ”こそが、真の貴族の品格だと知った。
「王都に戻ったら、まずどこへ?」
「宗教院の旧館ですわ。封印されたままの“香りの台帳”を見たいのです」
「“鏡花の香”の記録か」
「ええ。――あの罪の香りを、今度こそ“希望”に変えますの」
レオンはその横顔を見つめ、ほんの一瞬、息をのんだ。
彼女の瞳は、もうかつての“断罪された令嬢”のそれではなかった。
どんな王も神も、彼女を跪かせることはできない。
それが、辺境で鍛えられた令嬢――クラリッサ・ヴァレンティーヌの今の顔だった。
街道の先には、馬を引く青年たちの姿が見えた。
その中の一人が駆け寄り、慌てた声を上げる。
「クラリッサ様! 村が――!」
「落ち着いて。どうしましたの?」
「村が、王都商会の傭兵団に包囲されました! “特産品の独占権”を奪うために!」
クラリッサは目を見開く。
「……初恋草ブレンドを、狙って……?」
青年はうなずく。
「“ヴァレンティーヌブランド”を名乗る偽物商会が、
王都で流行を作ってるそうです!」
クラリッサの指先がピクリと動いた。
「……王都は、まだ“奪うこと”しか知らないのね」
レオンが静かに立ち上がる。
「戻るか」
「ええ、もちろん。――“扇子を畑で振るう”日々は終わりましたの。
今度は、“農具を社交界で振るう”番ですわ」
クラリッサは窓の外に手を伸ばし、初恋草の花を一輪摘んだ。
「誇りを奪う者には、香りで返して差し上げますの」
馬車が再び動き出す。
王都と辺境――二つの世界をつなぐその道を、
“農具と扇子を携えた令嬢”がゆっくりと進んでいく。
王都の門をくぐった瞬間、空気が変わった。
香水と香油の濃い香りが漂い、
人々の視線がクラリッサをすれ違いざまに刺す。
――二年前、断罪された公爵令嬢。
――いまや“辺境の変人”。
そんな噂がすでに都じゅうを駆け巡っていることを、
クラリッサは知っていた。
「懐かしいわね、レオン」
「懐かしむような場所か?」
「ええ。過去は、使いようですもの」
彼女は涼しげに扇子を開く。
かつての彼女のような金糸のドレスではなく、
今のクラリッサは、淡い灰色の麻布のドレスに身を包んでいた。
裾には、旅の泥が残る。
しかしその姿は、どの貴族夫人よりもまっすぐで美しかった。
その日、王都中央商館では盛大な試飲会が開かれていた。
テーマは「新たなる香りの時代」。
王都商会が誇る“ヴァレンティーヌ・ブレンド”の披露会だ。
――もちろん、それは偽物。
主催者のバートラム商会令嬢、セシリアが微笑む。
「皆様、本日はようこそ。こちらが“復活のヴァレンティーヌ香”でございます」
彼女の声に、観客が拍手を送る。
その一角に、帽子のつばを深く下ろしたクラリッサが立っていた。
「……香りを“復活”させた、ですって?」
彼女の低い声に、場の空気がわずかに張りつめる。
セシリアがゆっくりと振り向く。
「まあ。お久しぶりですわね、クラリッサ様――いえ、“元”公爵令嬢でしたかしら?」
「お見事。言葉の刃だけは錆びついておりませんのね」
周囲の視線が一斉に二人に注がれる。
セシリアは侮蔑を隠さずに微笑んだ。
「あなたが消えたあと、王都はようやく清らかになったの。
でも――まだ泥の香りが残っているのね」
クラリッサは笑った。
「泥? ええ、辺境の畑でたっぷりかぶりましたわ。
でも、ご存じかしら? 泥は“育つための証”ですのよ。
……あなたの香りには、その証がありませんわね」
場の空気が一気にざわめく。
セシリアの頬がわずかに引きつる。
「それは、挑発のつもり?」
「いいえ、教育ですわ」
クラリッサは扇子を閉じ、懐から一輪の小瓶を取り出した。
「本物の“ヴァレンティーヌ・ブレンド”は、こちら」
コルクを外した瞬間、空気が変わった。
甘く、清らかで、それでいて土の匂いを帯びた香り――。
“初恋草”の香り。
人々が息を呑む。
「……これが、本物の香り……?」
「王都のものとは全然違う……!」
クラリッサはゆっくりと微笑み、言葉を重ねた。
「この香りには、泥の跡がありますの。
誰かが働き、誰かが支え、誰かが笑ってくれた――その証。
あなたの“再現品”には、それが欠けておりますのよ」
セシリアの瞳に怒りが宿る。
「辺境で拾った雑草ごときで、王都に逆らうつもり?」
「雑草ですって? 違いますわ、“希望草”ですの」
クラリッサの声は凛としていた。
「どんなに踏まれても、香りを失わない。
それが――わたくしたち辺境の令嬢の誇りですの」
沈黙の中で、誰かが拍手をした。
最初は一人、次に二人、そして会場中が拍手に包まれた。
クラリッサは一歩前に出て、最後の一言を放つ。
「泥は恥ではありません。
真珠もまた、貝の中の“傷”から生まれるのですわ」
セシリアは何も言えなかった。
その頬に浮かんだ薄笑いが、次第に固まっていく。
レオンが彼女の背後から静かに立ち、囁いた。
「“泥と真珠”、か……お前らしい比喩だ」
「当然ですわ。――わたくし、図太くて優雅な女ですもの」
会場の光が反射し、扇子の銀の縁が輝いた。
その瞬間、“辺境の公爵令嬢クラリッサ・ヴァレンティーヌ”は、
再び王都の舞台に立った。
馬車の車輪がぬかるみを跳ね、木の香りと土の匂いが混ざる。
クラリッサは窓から外を見つめ、薄い唇を引き結んでいた。
「……懐かしい匂い、ですわね」
「王都の空気か?」と、向かいの席からレオンが問う。
「ええ。でも、あの頃とは違いますの。
もう、紅茶の香りよりも――畑の土の匂いのほうが落ち着きますのよ」
「それは……悪くない変化だ」
クラリッサは小さく笑った。
辺境での生活が、彼女の“誇り”を変えたのだ。
かつて彼女にとって誇りとは“美しく見せること”だった。
だが今は違う。“生き抜くこと”こそが誇り。
そして、“人を支える強さ”こそが、真の貴族の品格だと知った。
「王都に戻ったら、まずどこへ?」
「宗教院の旧館ですわ。封印されたままの“香りの台帳”を見たいのです」
「“鏡花の香”の記録か」
「ええ。――あの罪の香りを、今度こそ“希望”に変えますの」
レオンはその横顔を見つめ、ほんの一瞬、息をのんだ。
彼女の瞳は、もうかつての“断罪された令嬢”のそれではなかった。
どんな王も神も、彼女を跪かせることはできない。
それが、辺境で鍛えられた令嬢――クラリッサ・ヴァレンティーヌの今の顔だった。
街道の先には、馬を引く青年たちの姿が見えた。
その中の一人が駆け寄り、慌てた声を上げる。
「クラリッサ様! 村が――!」
「落ち着いて。どうしましたの?」
「村が、王都商会の傭兵団に包囲されました! “特産品の独占権”を奪うために!」
クラリッサは目を見開く。
「……初恋草ブレンドを、狙って……?」
青年はうなずく。
「“ヴァレンティーヌブランド”を名乗る偽物商会が、
王都で流行を作ってるそうです!」
クラリッサの指先がピクリと動いた。
「……王都は、まだ“奪うこと”しか知らないのね」
レオンが静かに立ち上がる。
「戻るか」
「ええ、もちろん。――“扇子を畑で振るう”日々は終わりましたの。
今度は、“農具を社交界で振るう”番ですわ」
クラリッサは窓の外に手を伸ばし、初恋草の花を一輪摘んだ。
「誇りを奪う者には、香りで返して差し上げますの」
馬車が再び動き出す。
王都と辺境――二つの世界をつなぐその道を、
“農具と扇子を携えた令嬢”がゆっくりと進んでいく。
王都の門をくぐった瞬間、空気が変わった。
香水と香油の濃い香りが漂い、
人々の視線がクラリッサをすれ違いざまに刺す。
――二年前、断罪された公爵令嬢。
――いまや“辺境の変人”。
そんな噂がすでに都じゅうを駆け巡っていることを、
クラリッサは知っていた。
「懐かしいわね、レオン」
「懐かしむような場所か?」
「ええ。過去は、使いようですもの」
彼女は涼しげに扇子を開く。
かつての彼女のような金糸のドレスではなく、
今のクラリッサは、淡い灰色の麻布のドレスに身を包んでいた。
裾には、旅の泥が残る。
しかしその姿は、どの貴族夫人よりもまっすぐで美しかった。
その日、王都中央商館では盛大な試飲会が開かれていた。
テーマは「新たなる香りの時代」。
王都商会が誇る“ヴァレンティーヌ・ブレンド”の披露会だ。
――もちろん、それは偽物。
主催者のバートラム商会令嬢、セシリアが微笑む。
「皆様、本日はようこそ。こちらが“復活のヴァレンティーヌ香”でございます」
彼女の声に、観客が拍手を送る。
その一角に、帽子のつばを深く下ろしたクラリッサが立っていた。
「……香りを“復活”させた、ですって?」
彼女の低い声に、場の空気がわずかに張りつめる。
セシリアがゆっくりと振り向く。
「まあ。お久しぶりですわね、クラリッサ様――いえ、“元”公爵令嬢でしたかしら?」
「お見事。言葉の刃だけは錆びついておりませんのね」
周囲の視線が一斉に二人に注がれる。
セシリアは侮蔑を隠さずに微笑んだ。
「あなたが消えたあと、王都はようやく清らかになったの。
でも――まだ泥の香りが残っているのね」
クラリッサは笑った。
「泥? ええ、辺境の畑でたっぷりかぶりましたわ。
でも、ご存じかしら? 泥は“育つための証”ですのよ。
……あなたの香りには、その証がありませんわね」
場の空気が一気にざわめく。
セシリアの頬がわずかに引きつる。
「それは、挑発のつもり?」
「いいえ、教育ですわ」
クラリッサは扇子を閉じ、懐から一輪の小瓶を取り出した。
「本物の“ヴァレンティーヌ・ブレンド”は、こちら」
コルクを外した瞬間、空気が変わった。
甘く、清らかで、それでいて土の匂いを帯びた香り――。
“初恋草”の香り。
人々が息を呑む。
「……これが、本物の香り……?」
「王都のものとは全然違う……!」
クラリッサはゆっくりと微笑み、言葉を重ねた。
「この香りには、泥の跡がありますの。
誰かが働き、誰かが支え、誰かが笑ってくれた――その証。
あなたの“再現品”には、それが欠けておりますのよ」
セシリアの瞳に怒りが宿る。
「辺境で拾った雑草ごときで、王都に逆らうつもり?」
「雑草ですって? 違いますわ、“希望草”ですの」
クラリッサの声は凛としていた。
「どんなに踏まれても、香りを失わない。
それが――わたくしたち辺境の令嬢の誇りですの」
沈黙の中で、誰かが拍手をした。
最初は一人、次に二人、そして会場中が拍手に包まれた。
クラリッサは一歩前に出て、最後の一言を放つ。
「泥は恥ではありません。
真珠もまた、貝の中の“傷”から生まれるのですわ」
セシリアは何も言えなかった。
その頬に浮かんだ薄笑いが、次第に固まっていく。
レオンが彼女の背後から静かに立ち、囁いた。
「“泥と真珠”、か……お前らしい比喩だ」
「当然ですわ。――わたくし、図太くて優雅な女ですもの」
会場の光が反射し、扇子の銀の縁が輝いた。
その瞬間、“辺境の公爵令嬢クラリッサ・ヴァレンティーヌ”は、
再び王都の舞台に立った。
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