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エリスの祈り
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南方教都《セレヴァナ》。
白大理石の尖塔と金色の鐘楼が並ぶ、祈りの都。
朝の鐘が鳴るたびに、香の煙が街を包み、人々は胸の前で十字を切る。
その静謐な空気の中に、ひときわ柔らかな香りが漂っていた。
それは“聖油”ではなく――“花の香”。
ミルラと初恋草を調合した、癒しの香り。
香りの主は、若き修道女エリス・アシュフォード。
王国香り学院の卒業生であり、かつての貴族ユージンの妹。
彼女は今、聖堂の片隅で人々の傷を癒やしていた。
「修道女様、この香り……心が少し軽くなります。」
「ふふ……それはよかったです。風に感謝を。」
エリスは微笑み、傷ついた兵士の腕にそっと聖油を塗った。
彼女が創ったのは、“痛みを忘れさせる香り”ではない。
痛みを受け入れる勇気を与える香り。
だが、その評判はやがて教会上層部の耳に届く。
「聖典にない香油を用いるとは、異端の兆しだ。」
「“香り”は人心を惑わす。祈りに混ぜるなど、神への侮辱。」
エリスはその言葉に静かに頭を下げたが、心の奥では震えていた。
――兄が恐れていた“秩序の影”が、ここにもある。
その夜。
エリスは修道院の小さな礼拝堂に一人で残っていた。
月光がステンドグラスを照らし、香の煙がゆらゆらと揺れる。
机の上には、クラリッサから届いた封書があった。
“王立香り学院”の紋章とともに、懐かしい香りが滲んでいる。
震える手で封を切る。
> 「エリス。祈りとは、誰かに許されるためのものではなく、
> 誰かを想う“香り”のようなものですわ。
> もしあなたの祈りが心から生まれるなら、それは必ず届きますの。」
読み進めるうちに、エリスの頬を一筋の涙が伝った。
「……クラリッサ様……私、間違っていたのかもしれません。
祈りは“正しく”あることじゃなくて、“真っ直ぐ”であること――。」
翌朝。
教会の前で、多くの人々が列を作っていた。
病を抱える者、心を失った者、家族を失った者。
彼女は決意したように香炉を取り出し、手のひらに数滴の香油を落とす。
「これは聖油ではありません。
でも、あなたの心が風に触れるよう、祈らせてください。」
煙が立ち上り、淡い香りが人々を包み込む。
その中で、泣いていた子どもが笑い、
老女が「息が楽になった」と呟いた。
――それは“奇跡”と呼ぶにはあまりに静かで、
けれど確かに、魂を震わせる光景だった。
その晩、枢機卿はエリスを呼び出した。
「修道女エリス。お前の香りが“祈りに勝った”と民が噂している。どう釈明する?」
「勝ったのではありませんわ。」
エリスはまっすぐな瞳で答える。
「香りは祈りの“かたち”ですの。
目に見えぬ想いを、誰かに届けるための風。
それが神の御心に背くというなら――
わたくしは、その風を信じて罰を受けます。」
沈黙。
やがて、老枢機卿はゆっくりと立ち上がり、香炉に手を伸ばした。
「……この香り、懐かしい。かつて私が若い頃、戦場で嗅いだ香だ。」
「それは、ヴァレンティーヌ家の初恋草です。」
「クラリッサの香りか……。あの娘は、神より風を信じた女だった。」
老枢機卿は微笑んだ。
「行け、修道女エリス。お前の祈りが正しいかどうか、風が決める。」
夜の礼拝堂に戻り、エリスは静かに香を焚いた。
その香りは、もはや恐れの香ではなく――赦しの香りだった。
「兄様……クラリッサ様……私、ようやく分かりました。
祈りとは、風に残す想い。
香りは、それを人の心へ運ぶ翼ですのね。」
外では、夜風が鐘楼を揺らす。
鐘の音と共に、花の香が街中へ広がっていく。
その夜、セレヴァナの人々は初めて“祈りの香り”を感じたという。
そして翌朝、教会の門に貼られた布告が一枚。
> 『香りによる祈祷を、正式な儀式として認める』
――風が、また一つ、壁を越えた。
白大理石の尖塔と金色の鐘楼が並ぶ、祈りの都。
朝の鐘が鳴るたびに、香の煙が街を包み、人々は胸の前で十字を切る。
その静謐な空気の中に、ひときわ柔らかな香りが漂っていた。
それは“聖油”ではなく――“花の香”。
ミルラと初恋草を調合した、癒しの香り。
香りの主は、若き修道女エリス・アシュフォード。
王国香り学院の卒業生であり、かつての貴族ユージンの妹。
彼女は今、聖堂の片隅で人々の傷を癒やしていた。
「修道女様、この香り……心が少し軽くなります。」
「ふふ……それはよかったです。風に感謝を。」
エリスは微笑み、傷ついた兵士の腕にそっと聖油を塗った。
彼女が創ったのは、“痛みを忘れさせる香り”ではない。
痛みを受け入れる勇気を与える香り。
だが、その評判はやがて教会上層部の耳に届く。
「聖典にない香油を用いるとは、異端の兆しだ。」
「“香り”は人心を惑わす。祈りに混ぜるなど、神への侮辱。」
エリスはその言葉に静かに頭を下げたが、心の奥では震えていた。
――兄が恐れていた“秩序の影”が、ここにもある。
その夜。
エリスは修道院の小さな礼拝堂に一人で残っていた。
月光がステンドグラスを照らし、香の煙がゆらゆらと揺れる。
机の上には、クラリッサから届いた封書があった。
“王立香り学院”の紋章とともに、懐かしい香りが滲んでいる。
震える手で封を切る。
> 「エリス。祈りとは、誰かに許されるためのものではなく、
> 誰かを想う“香り”のようなものですわ。
> もしあなたの祈りが心から生まれるなら、それは必ず届きますの。」
読み進めるうちに、エリスの頬を一筋の涙が伝った。
「……クラリッサ様……私、間違っていたのかもしれません。
祈りは“正しく”あることじゃなくて、“真っ直ぐ”であること――。」
翌朝。
教会の前で、多くの人々が列を作っていた。
病を抱える者、心を失った者、家族を失った者。
彼女は決意したように香炉を取り出し、手のひらに数滴の香油を落とす。
「これは聖油ではありません。
でも、あなたの心が風に触れるよう、祈らせてください。」
煙が立ち上り、淡い香りが人々を包み込む。
その中で、泣いていた子どもが笑い、
老女が「息が楽になった」と呟いた。
――それは“奇跡”と呼ぶにはあまりに静かで、
けれど確かに、魂を震わせる光景だった。
その晩、枢機卿はエリスを呼び出した。
「修道女エリス。お前の香りが“祈りに勝った”と民が噂している。どう釈明する?」
「勝ったのではありませんわ。」
エリスはまっすぐな瞳で答える。
「香りは祈りの“かたち”ですの。
目に見えぬ想いを、誰かに届けるための風。
それが神の御心に背くというなら――
わたくしは、その風を信じて罰を受けます。」
沈黙。
やがて、老枢機卿はゆっくりと立ち上がり、香炉に手を伸ばした。
「……この香り、懐かしい。かつて私が若い頃、戦場で嗅いだ香だ。」
「それは、ヴァレンティーヌ家の初恋草です。」
「クラリッサの香りか……。あの娘は、神より風を信じた女だった。」
老枢機卿は微笑んだ。
「行け、修道女エリス。お前の祈りが正しいかどうか、風が決める。」
夜の礼拝堂に戻り、エリスは静かに香を焚いた。
その香りは、もはや恐れの香ではなく――赦しの香りだった。
「兄様……クラリッサ様……私、ようやく分かりました。
祈りとは、風に残す想い。
香りは、それを人の心へ運ぶ翼ですのね。」
外では、夜風が鐘楼を揺らす。
鐘の音と共に、花の香が街中へ広がっていく。
その夜、セレヴァナの人々は初めて“祈りの香り”を感じたという。
そして翌朝、教会の門に貼られた布告が一枚。
> 『香りによる祈祷を、正式な儀式として認める』
――風が、また一つ、壁を越えた。
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