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帽子屋

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3日目の世界(10)

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「電気のスイッチはここね。フロアの奥は、俺たちのシマの近くにあるドアのところ。複合機の壁のところにあるから」
 梅先は入口を入ってすぐの壁に手を伸ばし照明をつけた。総務と応接室、社長室といった開発のエリアとは逆側の蛍光灯が光り出す。
 ふ、ふつうだ。いたって普通に会社に入れましたよ……。
 私的異常事態の発生に、変な緊張感をともなって会社の入口をまたいだが、なんの抵抗も反応もない。
 おじゃまします……。
 半分疑心暗鬼にとりつかれ、びくびくしながら数歩進むが全くなんの問題もない。なにかを感じるといえばいまは空調がとまっているせいか、多少濁ってよどんだ空気ぐらいなものだった。もちろんちらりと見た時計、ツールにもなにも反応はなく、刻々とアナログな秒針がときを刻んでいく。
 梅先を見れば、総務兼受付で手書きで氏名の書かれた紙の勤務カードを取り大きなデジタル時計のついた打刻機に差し込んだ。ヤニで黄ばんだそれは年季が入っている。ガチャンと渋い音を立てて時刻をボール紙に打ち付けた。梅先はそれをもとのカードホルダーに戻す。
 ふつう……梅先さん、とってもふつうに出勤してる。
 いったいどういうことなんだろう。やっぱり社内内部侵入説?それともどこかの調査員さん?
 梅先の通常運転に多少安堵したナルはならって勤務カードに打刻したが、罫線が引かれた欄から印字がはみ出ていた。見れば梅先の打刻も曲がっている。このご時世にしかもシステム会社(一応)でなんともアナログな勤怠管理は、打刻機の経年劣化による印字ズレなどたいした問題ではないらしい。
 この中途半端な印字、気になる……直したい……これじゃこの時間が今日なのか昨日なのかわからないじゃないですか。ちょうど日付と日付の間の線の上に時刻がのってます……。
 しかし異世界から来た調査員(一応)には大問題だった。
「鳴海さん、こっち側の電気ここだから」
 勤怠カードを見つめるナルに、向こうから梅先の声がきこえる。見れば、複合機近くの壁に手を伸ばして照明をつけていた。
 き、気にしちゃダメだ。ダメだ。ダメだ。軽くならないといけないんだった!
 梅先の呼び声と、週末に科戸に言われたことを思い出しはっと我に返る。慌ててカードを戻して梅先のもとへと向かう。
 軽く。軽く…でも、気になる……軽くって難しい。
 適度に適当、気軽な対応スキルを身に付けるよう科戸に言われたものの、その気軽さ習得は相当に悩ませるものだった。
「電気、有難うございます」
「場所、大丈夫だよね」
「はい」
 梅先は鞄を机の上に置き、上着を脱いでいる。
「よくよく考えたらコーヒーの淹れ方とか教えてもらってないよね?」
「はい」
「じゃ、鬼切さん来る前に俺、一緒にやりながら教えるね」
「お願いします」
「鳴海さんもジャケット脱いだほうがいいかもしれないよ。給湯室の水道、コツがあるから」
 暖房の入らないひんやりとしたフロアで梅先が上着を脱いだのは、水道を気にしているらしい。
「?」
 よくわからないがとりあえず上着は脱ぎ、しわにならないよう椅子の背にかけた。

「!!!」
 あ、危な……また、この世界にない変な音出しちゃうとこでした……。
 もう数センチ、そしてコンマ数秒、シンクから体を離すのが遅れていたら……それを考えると恐ろしいほどの水しぶきがシンクから跳ね上がり、周囲には水溜りが出来始めている。
「大丈夫?ぬれなかった?」
 慌てて梅先が蛇口を閉める。
「ね、この蛇口、ほんと気をつけてね。最初は全然水が出ないんだけど、ちょっと気を許してあけるととんでもない量が出てくるから」
 そう言って梅先はそろりそろりと、まるで爆発物解体の第一歩のような回し方で水を出すと大きなピッチャー、2リットルは入るポリプロピレンの手付き容器に水を溜めていく。
「だ、大丈夫です」
 見れば薄っすらとスカートやブラウスに水はねのあとはあるものの、被害は小さい。
 良かった……着替え持って来てないですし、僕、乾かせないし。科戸さんだったら瞬間的に乾かせるんだろうけど。お洗濯だってその気になったら脱水も乾燥も出来ちゃうんだから。でも乾燥だったら長官の方がふかふかかなあ……うーん、でも僕、あの一生懸命働いてくれる洗濯乾燥機(ドラム式)さんが大好きですけどね。僕と同じで魔法も使えないのに毎日頑張ってくれてますから。
最上位の能力を有し数多の世界で名のある両名が聞けば、能力を(むしろ自分たちの存在を)なんだと思っていやがると目くじらを立てつつも、洗濯物ふわふわ合戦を開始しかねない。そして迷惑なほどの能力の無駄遣いの挙句、結局軍配はこの世界のドラム式洗濯乾燥機に上げられ両名あえなく玉砕。振り上げたこぶし、巻き起こった烈火、烈風が着地点を見出せないまま世界に大混乱を及ぼしかねない思考、もっとも思考の持ち主はまったくその影響作用を認識せずは、キュっと素早く閉められた蛇口の音で終了した
「水を出すときは、慎重かつゆっくりと水道管を流れる水の勢いを感じながら。そして止めるときは可能な限り素早く、これがコツね」
 至極真面目な顔で梅先は説明しナルも肝に銘じたように頷いた。
 給湯室を出るときに地の底のほうから水道管を伝ってなにかの笑い声が聞こえたが、梅先には聞こえてないよう、ナルも気付かない振りをした。
 ほんと、危なかった。やっぱりここ、暇で退屈、ちょっと人間にいたずらしちゃえ、みたいなかたいらっしゃる……気付かれなかったかな……水にびっくりしてこの世にない音とか出しちゃったらまずいです。トイレも給湯室も気を付けなきゃ。
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