ゆるしいろの喧騒

琴梅

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ゆるしいろの喧騒(10)

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 ――はて?
 突然だが、朝である。
 目を開けていないのに瞼の向こう側が眩しいと感じるぐらいには、紛うことなき朝である。
(しかも晴れやかないい朝ときたもんだ。)
 小鳥の囀りが窓の向こうから仄かに聞こえる。外は風もなくスピード違反の車もなく、穏やかそうだ。
 リビングから母さんの話し声が聞こえていて、僕はふと、目覚まし時計が鳴っていないことに気がついた。まあ、それ自体は別段珍しいことではない――規則正しい生活をしている僕は、普段から目覚まし時計の音では起こされない――のだけれど。
 何か(ここでいう目覚まし時計)や誰かに起こされる前に自然と目が覚めるのだ。体内時計の賜物である。
 心理学的には、それはストレスや警戒心の顕れであり、疲れが取れていない可能性があるらしいけれど、そんなことはどうだっていい。僕自身は毎日快活――とまでは行かなくとも、そこそこ心身ともに健康に生きているのだから。
 なんといっても、僕は中学三年間無遅刻無欠席――皆勤賞なのだ。科学がなんぼのもんじゃ・・・・・・は少し言いずぎだけれども。
 だから今、この冒頭で疑問を呈したのは、朝(しかもいい朝)であることでも、目覚まし時計が鳴っていないことでも、ない。
 問題は、僕が目を開けるより先にそれを感じたことにあった。
 その違和感を「まあいっか、日が長くなったんだろう」で片付けられるほど、僕はおおらかではない。どちらかと言えば、何故と思ったら口に出す、几帳面な性格である。
 たるるにやーい新八と言われるのも、たしかに頷ける。
 まあ、不承不承ながら。
 あっちこっちに矛先が変わっていく思考でそんな事を浮かべながら、僕はゆっくりと瞼を上げた。瞬きをする度に、ドライアイ気味の眼球に瞼の内側がぎこちなく貼り着くような感触がして気持ち悪い。ドライアイには潤いだ、と手探りで枕元に置いてある目薬を掴もうとして、ほんの僅かに上げたばかりの腕をぱたりと布団の上に沈めた。
 ああ、そういえば目薬を切らしているんだった。昨日の帰りにドラッグストアに寄ろうと思っていたことをこんな今になって思い出す。
 なんで帰りに買いに行かなかったんだ昨日の僕は。群青林の通り沿いには小さな薬局があるし、そうじゃなくても五分ぐらい歩けば大きな通りにある大手ドラッグストアに辿り着くというのに。
 とはいえ――〝ご存知の通り〟昨日はそれどころでは無かったのだから、昨日の僕に文句を馳せたところで意味は無いし、お門違い甚だしいのだけれど。
 ややあって不自由なく動くようになった目で辺りをぐるりと見渡す。そこには驚くべき光景が広がっていた――なんてファンタスティックなことはなく、ごくごく普通の、いつも通りの、丸十七年と二ヶ月間寝起きに睨みつけていた白い壁紙と、丸い蛍光灯があるだけだった。
 これが知り合いの子が勧めてきたゲーム――所謂ギャルゲーというものなら、まず初めに可愛い妹か可愛い幼馴染キャラ(ツンデレ、ツインテールがマストらしい)が、僕を起こそうと顔を覗き込んでいるのがセオリーらしいのだけれど、現実はそう理想的にはいかないものである。(世間一般的には可愛いらしい)(顔は確かに可愛いと思う)幼馴染はいるけれど、ツインテールではないし、そもそも僕を起こしてくれるような奴じゃない。
 あいつは僕のためなんかに早起きはしないだろう。
 誤解される前に申し開きをしておきたいのだが、理想的というのは、なにも僕の理想というわけではない。あくまでもゲームとしての――かねてはプレイヤー達の、理想である。
 朝は一人でゆっくりマイペースに紅茶を嗜み、庭の小鳥を見て微笑む――
 ――これが僕の理想だ。
 とかなんとか言い訳をだらだらと並べて揃えて誰に向けるでもなくぶちくされてみたけれど、こんな長々と語ることでもなかったなと思う。
 単純な話、誰だって好きな人から可愛く起こされたいし、疲れた日の翌朝は眠たいのだ。
 と、いうのもまた、無駄な言い訳に値するわけで。
「眠い」
 起きがけの思考は、短絡的で本能的だ。
 無機質な白い天井の、でこぼこした質感を、しょぼくれた寝ぼけ眼で睨めつけながら、僕は溜め息と一緒にそう吐き出した。
 幼少の頃(あれは確か小学二年生の冬休みだったか)に、たるるとこの部屋でチャンバラをした時に付いた、十センチ程の傷汚れが、褪せることなく蛍光灯の右端に付着している。
 ――僕は未だに、あれをチャンバラだなんていう子供のお遊びと同義だったとは思っていない。
 僕達はその時の事を俯瞰で見ていた訳では無いので、客観的な説明は出来ないのだけれど、その壮絶さは〝空いた口が塞がらない、を文字通りの意味で体験したのはそれが初めてだ〟と、後に母さんは語る。
 その後、はっと我に返った母さんに、
「お馬鹿さん! やるなら準備体操をして、防具を付けてからにしなさい!」
 と僕達は叱られたのだった。
 うーん・・・・・・今思えば、叱るところはそこじゃないような気がするのだけれど。
 他にあったじゃん、普通に危ないとか、外でやれとか、家が壊れるでしょう、とか。
 まあ――まあいい、そんなことは。
 そんな懐かしい思い出の引き金になった天井の傷汚れは、飾り気ひとつない――無さすぎてモデルルームみたいじゃんとたるるに言われたこの部屋が、紛れもなく神子柴家の僕の部屋であることを認めていた。
 僕が未だにドライアイ気味の目を宥めながら、だらだらと在りし日の思い出に意識を沈めている間にも、目覚まし時計の音が鳴る気配はない。現実逃避をしているこの部屋の中で、秒針が進むかち、かち、というくぐもった音だけが、刻一刻と過ぎていく時間を認識しているみたいだった。
 急き立てるでも引き止めるでもない、等間隔の音は、だらけたい今の僕にとっては前者にしか聞こえないわけで。
(起きなきゃダメだ起きなきゃダメだ起きなきゃダメだ・・・・・・なんちゃってー。つまんね)
「はあ」
 僕は重たい身体をもたげて、枕元にある時計を乱雑に引っ掴んだ。跳ねた髪の毛が頬と時計に細い影を作る。まだ微かにしょぼくれている目を細めて、その指針の位置を確認した。
 午前六時二十分。二十九秒。
 ――今度は刮目した。
 いつもより右に進んだ時計を、ぼふりと枕に沈める。
 まじか。
 今から起きたとして、歯を磨いて顔を洗って朝ごはんを食べたら、髪の毛を整える時間がない。櫛を通す時間はあるだろうけれど、僕の髪質は普段から想像出来ないほど、なかなかどうして頑固なのだ。櫛を通す――それだけではどうにもならない。一度くっきりと癖が付いたらしっかりと濡らすか、ヘアアイロンを当てるまで意地でも直らない。括ってしまえばいいんだけれど、それはそれでだるいし、長さ的にも時間がかかる。学校であたるるにやってもらおうかな、もうそれでいいや。と、自己完結させて頭の中で身支度のフローチャートを組み立てたはいいものの、一向に布団から這い出る気にならないという障壁が目の前に覆い塞がった。
 言うが易しとはよく言ったもので、口からは「起きなきゃ」「もう六時半になっちゃうし」「布団からでないと」と意気揚々とした正論がいくらでも零れてくるのに、その実、手はしっかりとふかふかの布団に沈んだままである。(しかも手には目覚まし時計という錘付き。)
 どうしようかな、このまま二度寝に身をやつしてしまおうか――
 ――なんて。
 そんな度胸もない僕は、先程目の当たりにした現在時刻を頭に浮かべながら、掛け布団をきっちりと折りたたんだ。僕なりの後戻り対策である。
 それにしても、たるるから「おじいちゃんみたいな起床時間じゃん、うける。でも寝るのはそんなに早くないから夜遅く寝るタイプのおじいちゃんじゃん。待って何それ意味わかんないわ」と言われるくらい早起きがトレードマークと化しているこの僕が、そんな自堕落な事を思い走ってしまうなんて。今日はとことん目覚めが悪い。
 仄聞する〝寝た気がしない〟とはこういう事を言うのだろう。
 わーい、初体験。
 原因は委細承知、明々白々、誰がどう考えても――いや考えなくともお察しの通り、昨日のこと一択なのだけれど。つぶさにいえば、昨日の夕方から帰宅するまでの出来事――事件であり、事象である。
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