風が紡ぐ愛の歌【完結】

しょこら

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「う……ん…」
 冷たく硬い岩の感触にフォーラは意識を取り戻した。
 暗闇の中で、何かが焼けるような匂いに眉を顰める。
 腐臭と血の匂い。
 体中が痛んで、すぐには起き上がることができなかった。
 動いた拍子に結い上げてあった髪に挿した髪飾りが音を立てて落ちた。
 その音のあまりの反響の大きさに驚く。
 ここはいったいどこなのか。
 暗闇でなにも見えない。周りに何があるのかも全く分からない。
 ただ風があることだけが救いだった。
 フォーラが体勢を整えようと身じろぎしたとき、ふいに光が灯った。
「気が付いたか?」
 気遣う様な優しい声がどこからか届く。声は反響してどこから聞こえたのかも分からない。
 突然の光の出現にフォーラは目を細め、その声の主の気配を探る。
「どなた?どちらにいらっしゃるの?」
「そなたの、目の前に…」
 声の主は少し笑いを含んだ声でそう答えた。
 フォーラは正面に視線を戻し、そして驚きに言葉を失った。
 美しい緑玉に彩られた、大いなる存在。
 強大な力を有しつつ、しかしその姿はとても優美な曲線を描く。遥か太古に失われたはずの龍族。
 その青い瞳に宿る光は英知に富み、力強く、優しさに溢れている。
「神龍……で、いらっしゃるの?」
「我の存在を知っているのか?」
「亡き父より、伺ったことがございます。至高界の守護者であらせられるのでしょう?」
 神龍はその青い瞳でフォーラを見つめた。
 澄んだ輝きを宿すその瞳に見つめられたら、罪人はそれだけで死んでしまいそうだ。そんな瞳にもフォーラは臆することなく微笑を返した。
「なるほど。『風神』の血に連なる者か。…そのまなざしを我も覚えておるよ。名を伺ってもよいかな、小さな貴婦人よ」
 小さな貴婦人と呼ばれてフォーラは驚く。
 亡き父が良くフォーラにそう言って呼びかけてくれたものだった。
「わたくしの名はフォーラです。神龍」
 神龍は嬉しそうに目を細めた。
「フォーラ。そなたを守護するいくつもの風が取り巻いているのが見えるよ。我らの戦いにそなたを巻き込んでしまって申し訳ない」
「いいえ。あなたはわたくしを護ってくださったのでしょう?」
 巨大な影に覆われたとき、フォーラは邪悪な力にすべてを失うはずだった。激しい衝撃を受けたフォーラは意識を失った。だがその刹那に緑の光がフォーラを包み込んだことを覚えていた。
「この傷も、あのときのものではありませんか?」
 神龍の体は傷だらけで、まだ血が止まっていない傷もある。硬い鱗が無残に切り裂かれ、黒ずんだ傷跡から腐臭が漂う。痛々しいまでの姿にフォーラはそっと手を伸ばす。
「我に触れてはいけない」
 厳しい拒絶の言葉にフォーラの手が止まる。
「この穢れた血は魔龍のもの。触れてはいけない」
「神龍…」
 猛毒とも言われる魔龍の血。神龍の鱗ですらそれを防ぐことはできないのかとフォーラは慄いた。
「我に気遣いは無用だ。そなたを傷つけてしまうことの方が恐ろしい。そなたを守護するその風の中で一番恐ろしいのは…ふむ。雷公に愛されし者かな。彼に怒られてしまう」
 神龍がほんの少し笑いを含んで言った言葉にフォーラは同じく微笑を返す。雷公に愛されし者が誰を指すのか分かるからだ。
「それはわたくしの大切な夫君ですわ。でも命の恩人である神龍にそのような態度を取ることはわたくしが決して許しません」
「そなたが弁護してくださるのか、それはいい!」
 神龍は声を上げて笑った。
「だが、我はフィーラ・メアに穢れを持ち込んでしまった。それは許されるべきことではない」
 精霊界は至高界に大きな影響を与えるがゆえに、穢れは禁忌とされていた。
 魔龍との戦いの中、大きな力の衝突がお互いをはじき返した。
 神龍の飛ばされた先がこのフィーラ・メア。天空城の真上だったらしい。
「おそらく魔龍もこちらに飛ばされているだろう。魔龍の存在はこのフィーラ・メアには猛毒にも等しい。我らの戦いをこの美しい世界に持ち込んでしまって本当に申し訳ない」
 フォーラはゆっくりと首を振った。
 フィーラ・メアに関するすべての権限は弟であるフォール・セティにある。裁きに関しては彼が判断することだ。フォーラはもう一度首を振る。労りを込めて、微笑む。
「とても長い間、戦っていらっしゃるのですね」
「それが我に課せられた使命であるがゆえに、苦とも思わぬ。小さな貴婦人、そのような顔をしないでおくれ」
 フォーラはくすぐったそうに笑うと、両手を残念そうに眺め、かすかに息をついた。
「とても残念ですわ。いま、ここに竪琴があれば歌うことができるのに。…わたくしにできることはそれぐらいですのに…」
「嬉しいことを。さあ、彼の君も心配していることだろう。小さな貴婦人、我の体から、魔龍の血で穢れていない鱗を一枚取ってもらえないかな?」
「お安い御用ですわ」
 フォーラはゆっくりと神龍の体を見て回り、一か所だけ残っていた綺麗な緑玉の鱗を取り出した。それは、神龍の心臓のすぐ真上に位置するものだった。
 神龍はそれを地面に置くように指示する。美しい光沢を放つ鱗石は、フォーラの姿を鮮明に映すほど艶やかでなめらかだった。
「名を呼んでみなさい」
 神龍の言葉の意味を掴みあぐねて、フォーラは小首をかしげる。
「そなたがいま一番会いたいと願う者の名を唱えるといい」
 フォーラは鱗石に視線を落とした。
 見慣れた自分の顔が映っている鱗石に向けて、意を決して呼びかけた。神龍の促すままに。
「ラディン」
 刹那、緑の光が鱗石から放たれた。
 とっさに目を閉じたフォーラの周りで、空気が変わったのが分かった。そっと目を開けると、あたりの景色が変わっていた。
 光もない暗闇とは違う。月明かりに照らされた夜の闇。深い木立と涼やかな虫の鳴き声。しっとりとした風がやわらかく吹き寄せてくる。
 その先に、彼がいた。
 木に背を預け、穏やかな光を投げかけてくる真円の月を見上げて佇んでいる。
 気配を感じたのだろうか。
 彼はゆっくりとこちらに振り返った。
 その瞳が驚愕に見開かれる。お互いに言葉を失ったまま、しばらく見つめあった。
 沈黙を破ったのはラディンの方だった。
「フォーラ!!」
 ラディンが手を伸ばす。
 すぐそばに、手を伸ばせば届く距離にお互いがいたからだ。
 だが、ラディンの手がフォーラに届く前に、ラディンの姿はかき消されてしまった。
 呆然と、しばらくフォーラはその場から動けずにいた。
 姿も、声も、ちゃんと届いていたのに、触れる前に消えてしまった愛しい人の気配に、金縛りにあったかのように身動き一つできなかった。
「今のは…どういうことですの?」
 フォーラはいまだ呆然としたまま問いかけた。だが、神龍からの返事はなかった。
 はるか上空を厳しく見上げている神龍の姿がそこにあった。つられてフォーラも見上げる。重苦しいほどの気配が濃厚に立ち込めていた。フォーラ自身も覚えのある邪悪な気配。
「そなたを彼の君の元へ送り返して差し上げたかったのだが…どうやら先に奴に見つかってしまったようだ」
 天板に亀裂が走る。小石がぱらぱらと落ちてきた。そして、邪悪な気配もさらに濃くなってきた。押しつぶされそうな重圧感にフォーラは胸を押さえる。
「逃げなさい、早く!」
「でも…っ」
「その鱗石を持って、さあ、早く!」
 強く促され、鱗石を拾い上げると、重くのしかかっていた気配が和らいだ。
「そなたに出会えて嬉しかったよ。…我の戦いは無駄ではなかった。平和な世界が続いているというのなら、…本望だ」
 振り返ったときには、神龍はすでに飛び立った後だった。
 天板が音を立てて崩れ落ちた。
 慌ててフォーラは身を翻す。そのフォーラの上に岩や小石が降り注ぐ。鱗石を抱きかかえてうずくまった。
 噴煙に咳込みながら起き上がる。幸運なことにかすり傷だけで済んだ。
 激しい力の衝突が上空で起きた。
 けたたましいほどの雷が降り注ぐ。
 鮮やかな雷光に照らされながら、フォーラは神龍と魔龍の戦いを見つめていた。
「何もかも分かっていたと…」
 フォーラは呆然とつぶやいた。
 神龍が時空を超えてきたことを。
 神龍が全てを知っているのだという事実に、衝撃を隠せなかった。
 そう。
 神龍も、魔龍も、なのだということを。
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