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眠りの館

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 月が出ていた。
 誰もいない、静まり返った学院内のある一室にファルカはいた。
 広い円形のホールで、半年前に卒業試験が行われた場所だ。
 今でもはっきりと覚えている。
 今期、試験を受けたのは八名。ラグはその内の一人だった。
 ファルカは壁際で見学していた。受験者以外でも見学は自由に許されている。次期試験を受ける者にとっては勉強にもなるからだ。
 ラグは慎重に魔方陣を描いていた。一度だけ顔を上げて、ファルカを見て笑った。あの笑顔が大丈夫だと言っている様で逆にファルカを落ち着かせてくれていた。
 ファルカは記憶を頼りに、ラグが描いた魔方陣を辿り、新たに描き記していく。
 手が震える。
 こんなにもはっきりと覚えているのだ。
 夢なんかであるはずがない。エイリィのいうとおり、誰かが、何かが干渉しているとしか思えない。
 それが何のためなのか、ファルカには見当もつかない。
 けれど、泣き寝入りするのだけは嫌だと思った。
 本当にラグが存在しない人だというのなら、私のこの気持ちはどこに行けばいいの?
 答えてくれる人は誰もいない。

 魔方陣を描き終えて、ファルカはポケットから金細工のブレスレットを取り出した。
 このブレスレットをつけた手のぬくもりを覚えている。大きくて温かかった。
 そっと口付けて 、魔方陣の中央に置いた。
「来たれ、炎よ」
 ファルカが唱えると、激しく炎が吹き上がった。
 ファルカは一歩後ろへと下がる。
 まぶしいほどに明るく燃え上がる炎は、ファルカの身長よりもはるかに高く舞い上がり、まるで意思があるかのようにゆらゆらと蠢いて見えた。炎の中に、人の顔のようなものが浮かび上がってきた。
 ファルカはブレスレットを掲げ、よく通る声で叫んだ。
「そのブレスレットの持ち主を探している。半年前、同じ炎が彼をさらった。彼は、ラグは、どこにいる!?」
 にやりと炎の中の顔が笑ったような気がした。
 ファルカははっと息を呑む。
 炎の触手が勢いよく伸び、あっという間にファルカを捕らえた。
「きゃああああっ」
 炎はファルカを覆いつくし、魔方陣の中へと引きずり込むと何事もなかったように消え去った。
 ブレスレットも消えていた。
 静かに魔方陣は淡い点滅を繰り返す。
 しかし、しばらくすると、それさえも消え去って、魔方陣の痕跡も消えた。



「ファルカ、起きて。ねぇ、ファルカ。起きて」
 身体を揺さぶられて、ファルカは目を覚ました。
 頬に当たる芝生の感触が柔らかい。お日様と緑の匂いが懐かしさを感じさせる。
 何か優しい夢でも見ていたようなそんな錯覚があった。
 深みのある穏やかな優しい声。
 聞いたことのない大人の男の声に、ファルカは半ば寝ぼけたまま、顔を上げてその人物を見た。
「ああ、良かった。気がついたんだね、ファルカ」
 長い乳白色の髪と柔らかな空色の瞳。優しく、どこか上品な笑顔は誰かに似ていた。
「もしかして、プルレ……?」
「そうだよ、ファルカ」
 プルレはにっこりと笑って頷いた。
 半信半疑で問いかけたことを肯定されて、ファルカは一気に眠気が覚めた。
「は? なにそれ、なんでそんないきなり大きくなっちゃってるのよ!? っていうか、ここはどこなの?」
 慌てて起き上がり、辺りを見回して見ると、綺麗に整えられた庭園の一角にいるようだった。見たこともない場所にファルカは呆然とする。明るい日差しが庭を照らしているのに、視線をもう少し上に向けてみると、どんよりとした影に覆われた大きなお屋敷が目に飛び込んできた。
 どこか禍々しい、不気味な雰囲気。背筋に寒いものが走った。
「ここは精霊界。眠りの館の、どうやら庭のようだね」
 緊張した面持ちでプルレはいう。
 精霊界、眠りの館、初めて聞く言葉ばかりだが、それよりも突っ込みどころが目の前にいる。
「ねぇ、もしかして、それが本当の姿、とか言う?」
「まあ、ね。ある人との約束でね。人間界では子供の姿じゃないといけないんだ」
 プルレは肩をすくめて笑った。ほんの少しバツが悪そうにしているのは罪悪感からだろうか。
「ある人って?」
 ファルカの問いにプルレは心苦しそうな顔をした。
「……ラグ」
 ファルカは息を呑む。
「そう、君が良く知っているラグだよ」
「プルレはラグを知っているの? じゃあ、ラグは精霊界にいるの!?」
「いるよ。君の記憶は正しい。君だけが、正しい記憶を持ち続けていた。本来ならば、忘れ去っていたはずなのに……」
 呆然としたまま、ファルカはプルレの話を聞いた。信じていたけれど、あまりにも否定され続けてきたので、にわかに信じられなくなっていた。
 不安で仕方がなかったから。
 ここに、この世界に。
 ラグがいる。
「今、ラグはどこにいるの? どこに行けば、会えるの? プルレ、知ってるんでしょ?」
 プルレは困ったように口をつぐむ。
「プルレ?」
「知っている。けど、彼に会うためには、君は試練を受けなくてはならない」
「試練? どうして?」
 プルレは先ほどの薄暗く重苦しい雰囲気の屋敷を指差す。
「ラグは女王の呪いであの屋敷に囚われている。ラグにかけられた呪いを解かない限り、彼に会うことはできない」
「それが、試練なの? ならやるわ。考える必要もないわ!」
「ちょっと落ち着いて、ファルカ。呪いが何かとか気にならないの?」
 慌てふためいてプルレは宥める。
「いろいろ気になるけども、ここにとどまっている理由もないでしょ?」
「うん、まあ、そうかもしれないけど。…うん、ファルカだよなぁ」
 プルレはぶつぶつとなにやらこぼしている。
 実際、女王っていうのは誰なのか。なぜラグを捕えたのか。分からないことばかりだ。
「わかったよ。とにかく女王の館に行こう。でも気をつけて。女王の子守唄は聞いちゃいけないよ。僕もできるだけの手助けはするから」
 差し伸べられた手をとって、ファルカは立ち上がる。小さな子供の手とは違う、大きな手に戸惑う。
「なんだか……すごく変な感じ」
「何が?」
「なんでもない。急ぎましょう。ぐずぐずなんてしていられないわ」
 見るだけで嫌な気持ちになるあの屋敷へ行かなければいけないのは気が進まないが、あそこにラグがいるとなれば話は別だ。
 もうすぐ、ラグに会える。
 それだけがファルカに力を与えていた。


 おやすみ ぼうや
 わたしのかわいいぼうや
 おやすみよ


 どこからか、か細く聞こえてくる歌声がある。
 これがプルレの言っていた女王の歌う子守唄なのだろうか。
 どこから聞こえているのか分からない。直接、耳に届いているようで、音の出所がつかめない。


 楽しい夢をみせておくれ
 かわいい わたしのぼうや


 抗え切れない睡魔がファルカを襲う。
 一生懸命、耳をふさいでも、木霊のように耳に響いてくる。
 眠っちゃだめだと本能が警告する。
 けれど視界は霞がかかったようにあやふやで、身体から力が抜けて行き、ファルカはその場にひざを着いた。


 おやすみ ぼうや
 わたしのかわいいぼうや
 おやすみよ
 すべてわすれて おやすみなさい


「……ラグ」
 ずっとずっと気にかかっていたことがある。
 もしかしたら、ラグは自ら姿を消したのではないのか。
 姿を消す数日前から、ときおり、思いつめたようなラグの横顔を見ることがあった。
 何を思っているのか、何を気にかけているのか、教えてはくれなかった。
「心配ないよ」といつも自信たっぷりに笑っていたから、ファルカも深入りしなかった。
 何を悩んでいたの?って、あの時、ちゃんと聞けばよかった。
 そうすれば、もしかしたら、ラグは姿を消すこともなかったかもしれない。
 なんとなく、そう思うだけなのだけれど。
 ラグは何かの覚悟をしていたのかもしれない。
 でもそれがどういう理由でなのか、何も分からないし、見当もつかない。
 どうして、姿を消してしまったのか。
 理由があるならあるでかまわない。
 でもそれならファルカの記憶も消していけば良かったのだ。
 そうすれば、彼はなんの憂いもなく、すべてから決別できたはずなのだから。
 ファルカも苦しい思いをせずに済んだはずなのに。
 ファルカの左手首にあるブレスレットが、かすかに点滅していた。
 ぴくりとファルカは身じろぎする。
 けれど全身を襲う虚脱感は考えることも許さないかのように思考をも薄弱にする。
 もう忘れてしまえと何かがささやく。
 すべて忘れて眠ってしまえと。
 そうすれば楽になれるのかもしれない。
「違うよ、そうじゃない。ラグを信じてあげて」
 プルレがなぜか切羽詰ったような声でそう言った。
 きっとプルレは知っていたのだ。
 本当のことを。
 彼がどうしていなくなってしまったのか、本当の理由を。
「そうだよ。僕は知っている。でもそれは僕の口からは言えない」
 それってずるい。
 ずっとずっとつらくて、仕方がなかったのに。
 どこに行ってもラグはいなくて、誰に聞いてもラグを知らなくて。私だけがおかしいんだって……。
「ごめんね。でも、それは直接本人に聞いてよ。聞きたいんでしょ? だから、目を覚まして、ファルカ!!」
 今にも泣きそうなプルレの叫び声にファルカは我に返った。
 はっとして起き上がる。
 険しい顔でどこかをにらみつけていたプルレがほっとしたようにファルカを見た。
 ブレスレットが激しく点滅を繰り返していた。エイリィが警告してくれているように感じた。
 ファルカはそれを額に押し当ててみた。
 すると、眠気が引いていき、意識もはっきりした。
「私……眠っちゃっていた?」
「うん、危なかったよ、ファルカ」
 ぐるぐると風が勢い良く、ファルカとプルレの周りを取り囲んでいる。
「風の壁で歌声を防いでいる。でもこれじゃ先に進めないんだ」
「ねぇ、ラグはこの屋敷のどこにいるの?」
「もうすぐそこだよ。ほら、扉が見える。あの向こうにいるはずだよ」
 旋回する風の向こう側に、確かにプルレの言う扉があった。
「ねぇ、もしかして……ラグも眠らされているの?」
「そうだよ。この半年、ずっと眠り続けている。彼の母親が呪いをかけた。ラグは人の子でもあるけど、炎の精霊の女王レミィ・ローザの息子でもあるんだよ」
 ラグが精霊の血を引いているなんて知らなかった。それに……。
「どうして母親が呪いなんて……」
「……ごめん、ファルカ。僕が教えてあげられるのはここまでなんだ。僕はラグに頼まれて、君の元へ行き、守護精霊になった。僕とラグは小さいころからの友だちなんだ。だからラグのことは君と同じぐらい良く知っている。僕は彼の望みをかなえてあげたいと思った。だから、彼の頼みにも応じた。ラグがいない間は、僕がファルカを守るって」
 ファルカはじっとプルレの空色の瞳を見つめた。まっすぐでとても綺麗な瞳だった。この目の清らかさがプルレを良く表していると思った。
「うん、私、プルレには感謝しているよ。ラグの友達だって聞いて、今すごく、嬉しかった」
「いいかい、僕がこの風の壁を解いたら、ファルカは一気に扉へ飛び込むんだ」
 優しい笑みでプルレは告げる。
「ありがとう、プルレ」
「いいかい、いくよ?」
 合図とともに風の壁が解かれた。
 ファルカははじかれた様に走り出す。
 とたんに耳に飛び込んでくるのは、女王の子守唄。
 ファルカの足が鈍る。それでも走るのをやめはしない。
 扉はもうすぐ目の前だ。
 ファルカは取っ手に手を伸ばす。
 その瞬間、ファルカの前で、赤と黄金の炎が一直線に燃え上がった。
「きゃあ」
 ゆらゆらと揺れる炎は、豊かに流れ落ちる金色の髪へ、たおやかな肢体へと変化し、炎の中から、艶やかな女性が姿を現した。
 冷ややかにファルカを見下ろす炎の精霊の女王、レミィ・ローザだった。
「小賢しい小娘だこと。よもや、ここまでくるとは思いもしなかったわ」
 灼熱の炎が女王の怒りを物語っている。ファルカは声も出せずに震え上がった。
 なんて激しく、艶やかで美しい存在なのだろう。
 圧倒的な美と力の存在を前にファルカは動けなくなった。
「ファルカ!」
 風がファルカを守るように旋回する。長い乳白色の髪がなびいて、美しい青年がファルカの横に立った。プルレの、味方の存在にファルカは少し安心した。
「なぜ、ラグに呪いをかけたのですか? ラグはあなたの息子じゃないんですか? どうして呪いなんて」
「忌々しい小娘が!」
 激しい嵐のような一喝にファルカはよろめく。
「あれは我が息子じゃ。誰よりも手塩にかけて慈しんできた愛し子じゃ。そなたにとやかく言われる筋合いはない」
「お願いです。ラグに会わせてください」
 勇気を振り絞ってファルカは懇願する。
「嫌じゃ」
 一刀両断、女王はにべもなくファルカの願いを切り捨てる。
「あれは我のものじゃ。人間の小娘などに惑わされおって…ゆえに仕置きをしたのじゃ」
「お仕置きって…」
「そうじゃ。そなたも眠ってしまえばよい。特別に、我が館に招いてやろう」
 女王は楽しそうに笑い声を上げた。
 炎が勢いよく舞い上がり、ファルカとプルレを取り囲む。
 悲鳴を上げるよりも早く、光と熱がファルカの意識を奪い去った。
 赤から金へ輝くように燃え上がる炎に包まれた美しき女王に誘われ、ファルカは再び眠りの館へと招かれていった。


 音楽が聞こえる。
 ひどくマイナーな音なのに、リズミカルで楽しげにも聞こえる。
 どこからか笑い声も聞こえてきて、お祭りのようなにぎやかさを感じた。
 肉を焼く香ばしい匂いや甘い砂糖菓子の匂いもする。
 冷たくて硬い感触を体中に感じて、ファルカはそっと目を開けた。
 真っ暗で何も見えなかった。
 だけどどこかからか聞こえてくる喧噪と食べ物の匂いが、すぐ近くにあることを示している。
「プルレ、どこ?」
 さっきまでそばにいたプルレの気配がない。
 女王に招かれたのはファルカだけだったのかと落胆した。
 だんだん暗闇に目が慣れてきて、うっすらと部屋の様子が見えてきた。
 カーテンの隙間から明かりが僅かながらこぼれていた。
 起き上がってカーテンを開く。
 舞台裏の物置のような、大道具や衣装が散乱している。
 紫色のマントや帽子、黒いドレス。部屋の隅にはいくつもの壊れて欠けた大きなカボチャのオブジェが転がっていた。
「これは…どうみても…ハロウィンね」
 どうやら部屋の向こうではハロウィン・パーティの真っ最中のようだった。




 続く
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