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第1章 ウツロへ集いし者たち

第32話 姫神志乃

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「はあっ!」

「ふんっ!」

 夕方。

 さくらかんの地下に設けられた道場で、ウツロと姫神壱騎ひめがみ いっきは鍛錬を行っていた。

 もうどれくらいの時間、こうして打ちあってきただろうか。

 二人は道着を汗だくにし、しかしまだ剣を振るうことを止めようとはしない。

「おまえらさ、少しは休んだらどうだ?」

 かたわらでつきそっている南柾樹みなみ まさきが声をかけた。

「いや、柾樹、これはお互いのためなんだ。なんというか、その、心が落ち着かなくてね」

「ウツロの言うとおり、何もしていないと、不安で押しつぶされそうなんだ」

 ウツロと姫神壱騎が交互に答える。

 無理もない。

 ウツロは龍影会りゅうえいかいやディオティマの接近に、内心おびえているところがあったし、姫神壱騎はといえば、週末に宿敵・森花炉之介もり かろのすけとの御前試合を控えている。

 焦燥が精神にへばりついてくるかのようだ。

「歩き疲れて休んだときにこそ、見えてくるものもある。そうじゃねえか?」

 南柾樹がもう一度声をかける。

「哲学的だな、珍しい」

「俺ってよっぽど頭悪いと思われてんの?」

 ウツロとこんなやり取りをした。

「柾樹の言うとおりかもしれない。ウツロ、少し休もうか?」

「そうですね、確かに、キリがないような気がしてきた」

 彼らは流れでいったん休憩をすることにした。

「わかればよろしい」

 南柾樹は二人にタオルを差し出す。

「ありがとう、柾樹」

「つきあわせてすまない」

 姫神壱騎とウツロは体の汗をふいている。

「どうせ暇だし、気にすんなって。そろそろ晩飯の時間だから、二人とも着替えて上に――」

 南柾樹が言いかけたとき、上階からの階段をどたどたと駆け下りてくる音が聞こえた。

「みなさん、ちょっと上へ来てください!」

 真田虎太郎さなだ こたろうがぜえぜえ言いながら叫んだ。

「ど、どうしたんだよ、虎太郎?」

「あやしい方がいきなりお見えになって、何かよくわからないことを申しているのです!」

 表現がいかにも虎太郎だなと三人は思ったが、とにかく何かが起こっているらしい。

 ウツロと姫神壱騎は手早く身支度をすることにし、南柾樹は真田虎太郎に先導され先に上階へと上がった。

   *

「さくら館と言うのはここでよろしいのですよね!? わたしの息子がここにいるはずなのです! どうかお引き合い願えないでしょうか!?」

「落ち着いてください! まずは事情を説明していただかないと!」

 着物姿の中年女性を、龍崎湊りゅうざき みなとが引きとめている。

「誰? あのおばさん」

 到着した南柾樹が星川雅ほしかわ みやびにたずねる。

「さあ。お母さまの患者とか?」

「おいおい、頼むぜえ」

 彼女はずいぶんのんきにかまえている。

「ウツロたちは?」

「着替えたらすぐに来るよ。しかしそちらの方だとしたら、やけに身なりがちゃんとしてるじゃねえか」

 万城目日和まきめ ひよりもそれほど心配しているようには見えない。

「息子がどうのって言ってるけど……もしかしたらその、アルツハイマーとか……?」

 真田龍子さなだ りょうこは唯一、その婦人のことを気にかけている。

「どうする? 警察に電話する? それとも、お母さまを呼ぶ?」

 星川雅は退屈そうに言った。

「バカか、雅! あのババアが来た日にゃ、俺やウツロが八つ裂きにされるだろ!?」

「ババアって言った? 人の母親をつかまえて」

 あたふたする万城目日和に、星川雅は目玉をギョロっとさせた。

 実は内心よい気分だったのであるが。

「よし、皐月さつき先生を呼びましょう」

「龍子、正気かよ!?」

 真田龍子の爆弾発言に、万城目日和を唾を吹いた。

「目障りなトカゲと毒虫を処刑してもらうのよ、ほほほ」

「鬼畜? ねえ?」

「害虫駆除には手段を選びません!」

「何だとコラ! 俺がてめえを駆除してやるよ!」

「おお、かかってこいやあ!」

「ブタはブタ小屋にでもすっこんでろ!」

「言ったな? 爬虫類の分際で!?」

「きいいいっ!」

「きしゃあ~っ!」

 南柾樹と星川雅の額に冷や汗が浮き出てくる。

 これは闘争の本質なのだ。

 トマス・ホッブズも指摘したように、人間とは元来、戦いあうように設計されているのだ。

 二つの闘気がぶつりあう瞬間、ウツロと姫神壱騎が向こうからやってきた。

「母さん……」

「……」

 って、ええっ!?

 みんなは一様に心の中で絶叫した。

「ああ、壱騎! やっぱりここにいたのですね! 御前試合のことを静香しずかさまから拝聴し、盛岡からすっ飛んできたのですよ!」

「あはは……」

 姫神壱騎はこめかみを指でさすった。

「みなさん、改めまして。姫神壱騎の母・志乃しのでございます」

 それを早く言ってくれればいいのに。

 一同はそう思った。

 そしてここに、次なる嵐の予感を感じ取ったのである。
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