アオハル・イン・チェインズ 桜の朽木に虫の這うこと（二）

第１章 佐伯悠亮としての日常

第２６話 さくら館の面々

　ウツロ、真田龍子さなだ　りょうこと南柾樹みなみ　まさきが洋館アパート「さくら館かん」へ入ったとき、三人は一様いちようにギョッとした。

　ロビーのソファに腰かけた割烹着かっぽうぎの少年と着流きながしの中年男が、テーブルをはさんでこちらを見つめていたからだ。

「姉さん、ウツロさん、柾樹さん、お帰りなさい」

　割烹着の少年・真田虎太郎さなだ　こたろうが、大きな目をさらに丸くして声をかけてきた。

「た、ただいま……」

　敵が侵入しんにゅうしたのではないかと警戒けいかいしていた三人は、一気に拍子抜ひょうしぬけしたため、えらく間まの抜けた返事をしてしまった。

　同時に真田虎太郎の姿、浅黒あさぐろい肌はだと真っ白な割烹着のコントラストが面白いなどと考えていた。

「おや、雅みやびちゃんは一緒じゃないのかい？」

　今度は真田虎太郎の隣となり、ボサボサ頭に無精ぶしょうひげの着流し男のほうが話しかけてきた。

「ああ、暗学あんがく先生。雅は保健室の仕事があるみたいで……」

「ふうん、そうなんだ」

　とっさに取とり繕つくろった真田龍子に、着流しの中年男は退屈な返事をした。

　彼の名は武田暗学たけだ　あんがく――

　黒龍館大学こくりゅうかんだいがく文学部の哲学教授で、ここ「さくら館」に居候いそうろうをしている変わり者と認識されている。

　本名は耕太郎こうたろうというのだが、真田虎太郎とかぶっているのと、「学問に暗い」という遠慮から、「暗学」などという雅号がごうを名乗っている。

　自称「三文文士さんもんぶんし」であり、趣味で小説を書いたり俳句を詠よんだりしていて、書籍も出してはいるが、本人いわく、売れていない。

　ミステリー小説に登場する名探偵のような容姿だが、不潔な性分しょうぶんなので、特に星川雅ほしかわ　みやびからは毛嫌けぎらいされている。

　いまもまた、頭をボリボリかいて、テーブルの上にフケをまき散らしているので、エントランスの三人は顔をしかめた。

「先生、虎太郎、こんなとこで何してんだよ？」

　南柾樹が引きつる顔を隠しながらたずねた。

「ああ、柾樹さん。夕ご飯の仕込みが終わったので、先生から哲学の講義を受けていたんです。いまはカントの純粋理性批判について教わっていました」

　めまいのする単語が飛び出したので、南柾樹は白目しろめを向いた。

「カントか、そそられるね……俺もぜひ混ぜて……」

　ウツロは心の中でよだれを出したが、アパートの門前もんぜんにとまっていた高級車のことを思い出し、そのことを二人に聞くことにした。

「先生、表おもてにとまっていた車は……」

「ん？　ああ、浅倉卑弥呼あさくら　ひみこが来てるんだよ。テレビによく出てるでしょ？　ほら、税理士法人オロチのボスさ。湊みなとちゃん、なんだか厄介やっかいな案件に手え出しちゃったみたいだね。それで向こうの先生が押しかけてきたってわけ。なんかヤバそうな雰囲気ふんいきだったよ」

「浅倉……」

　その名字みょうじはつい最近どこかで聞いたような……

　ウツロはそんなことを考えた。

「浅倉卑弥呼って、あのキツそうなオバサンだよね？　『ちしっ！』とかいう口癖くちぐせの」

「ヤバい案件ってなんだろうな？　湊さん、大丈夫かよ？」

　真田龍子と南柾樹は顔を見合わせて心配そうな顔をした。

「さっき山王丸さんのうまるくんが青い顔で資料室へ入っていったから、何かしら悶着もんちゃくがあったのかもね」

　武田暗学はずいぶんとのん気な感じでしゃべっている。

　龍崎湊りゅうざき　みなとは「さくら館」の住人のひとりで、ここに事務所をかまえている弁護士だ。

　自宅が職場になっているので、業界では「タクベン」とも呼ばれる。

　いっぽう影ではアルトラ使いを管理・監督する組織「特定生活対策室」の朽木支部長くちきしぶちょうをやっており、酒癖さけぐせは悪いが、ウツロたちのよき理解者である。

　山王丸隼人さんのうまる　はやとは黒龍館大学法学部の学生で、勉強のためアルバイトで龍崎湊の雑務ざつむを手伝っている。

「浅倉卑弥呼か、ふむ……」

　メディアでも有名な税理士先生が、まさか「組織」の放った刺客しかくということはないだろう。

　ウツロはそう考えた。

「おい、ちょっとのぞいてみようぜ」

「え、マズいって」

「万が一ってこともあるだろ？」

「うーん、そうかなあ」

　ウツロの意図いとを悟さとっていた二人だが、真田龍子を制して、南柾樹はそう申し出た。

「念のためにね」

　険けわしい顔でウツロも賛同さんどうする。

「みなさん、何かあったんですか？」

　真田虎太郎が不思議そうな顔でたずねた。

「いや、虎太郎くん。噂うわさの敏腕税理士の顔を一目ひとめ見てみたくてね」

　うまい感じにウツロがごまかした。

　『組織の刺客』が乗り込んでいるかもしれないという疑念を知られては、彼らにも危険がおよんでしまう可能性がある――

　そう配慮してのことだった。

「そ、そうですか。浅倉先生は湊さんの部屋にいますので、そーっとお願いします」

　真田虎太郎は脂汗あぶらあせを垂らしながら答えた。

「よっしゃ、じゃあちょっと行ってみようぜ」

　南柾樹にしたがって、ウツロと真田龍子もそろそろと事務所のほうへ歩いていった。

　左手のコーナーに消えていく三人を、真田虎太郎は見送った。

　彼は、いや彼らは気づかなかった。

　いちばん後ろのほうで、武田暗学が鋭するどい目つきをしていたことを――

（『第２７話　税理士・浅倉卑弥呼あさくら　ひみこ』へ続く）