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風の吹く丘でフリースクールに通う子どもたちと
しおりを挟む序章
四月の空は、どこか心細い。それでも、真理は今日から「先生」と呼ばれる。
教師4年目として、配属されたのは、郊外にあるフリースクール「風の丘」
ここには、学校に通えなくなった子、心を閉ざした子、居場所を探している子が通ってくる。
前任の先生に言われた。「ここは教える場所じゃなくて、一緒にいる場所だからね」
その言葉の意味を、真理はまだ知らなかった。
第ニ章 君の声を聞かせて
教室に入ると、八人の子どもたちがそれぞれの机に向かっていた。
ノートを、開く子、本を読む子、窓をぼんやり眺める子。
その中で、ひときわ静かな子がいた。
髪で顔を隠し、背を丸めて座っている少女。名簿をみると、「鈴木かなで」と書かれていた。
「かなでさん、おはよう」
真理が声をかけても、彼女は小さくうつむくだけだった。その横顔は、怯えと緊張に満ちていた。
「かなでちゃんは、選択性場面緘黙症なんです」
教室の隅にいたカウンセラーの先生が小声で教えてくれた。
「家では話すんです。でも、学校や大勢の人の前だと声がでなくなるんです」
真理はうなずくしかなかった。未知の経験に初日から難しい壁にぶつかった気がした。
次の日も、その次の日もかなでは、かなでは何も話さなかった。真理が「おはよう」と言っても、かすかにうなずくだけ。
けれど、そんな日々が続いた一ヶ月後、真理の机の上に1枚のメモが置かれていた。
「先生、絵、うまいですね」
真理は思わず息をのんだ。声ではなく、文字で返ってきた挨拶。それは、この教室で初めて受け取った「おはよう」だった。
それから、彼女と真理は「交換日記」なるものを始めることにした。文字なら、彼女への負担が減るのではないかと考えたからだ。
「先生、あのね、私はねこがすきです」
「今日、お母さんと買い物にいきました」
「先生、昨日泣いていましたか?」
最後の一文を見たとき、心が震えた。
彼女は見ていた。声は出さなくとも、誰かを感じ取っている。
その瞬間、真理はようやく気づいた。沈黙は拒絶でもなく、心の信号なのだと。声のない場所にも心は流れているのだ。
次の朝、真理は交換日記にこう書いた。
「ありがとう。かなでちゃん。先生、嬉しいよ」
かなでは少しの間、その文字をみつめ、ゆっくりと唇を動かした。声にはならなかった。けれど、口の形ははっきりと読めた。
「……おはよう」
真理は胸の奥が、温かい涙で満たされていくのを感じた。
それは、春の陽だまりのような優しい始まりだった。
第三章 蓮の守りたかったもの
その日は、春の雨が降っていた。灰色の雲の下で、子どもたちは教室の中に閉じ込められたように、静かに息を潜めていた。
蓮は窓辺に座り、雨粒が流れるガラスを指でなぞっていた。かなでは、いつものようにノートに絵を描いている。
(私は、ちゃんと子どもたちの心に届いているのだろうか?)
ここに来て一ヶ月半。子どもたちの笑顔も言葉も少しずつ増えてはきた。
けれど、蓮の目の奥にある「凍りついたような光」はまだ溶けていない。
放課後、真理は教室でひとり雨音を聞きながら、机に、突っ伏していた。思い出すのは、前の学校での失敗。成績の悪い子を叱りすぎて、泣かせてしまった。その子は次の日から、学校へ来なくなり、真理とまた、自分を責め続けてきた。
「教師ってなんなのだろう?」
ぽつりと、呟く声が雨音に溶けた。
そのときドアがきしむ音がした。顔を上げると、そこに連が立っていた。
「……先生、泣いてんの?」
「……えっちょっと目にゴミが入っただけ」
無理に笑うと、蓮は窓際まで来て、黙って傘を差し出した。
「俺、置いていくから。これ使えば?」
「ありがとう。でも、蓮はどうするの?」
「……どうでもいいよ。俺は濡れても平気だから」
雨の音が、ふたりの間を埋めた。
真理は、そっと傘を受け取りながら言った。
「ねぇ、蓮。あなた誰かを守りたかったんじゃない?」
その言葉に、蓮の指がぴくりと震えた。
「……なんでそんなこと」
「あなたの絵を見たの。ノートの横に描いていた、小さい子と、風車の絵。あれは妹さん?」
蓮は息をのんだ。
目の奥に、光が揺れた。
「……事故だったんだ。俺、手を離した。妹、車に……」
言葉が途切れ、肩が震えて唇が噛みしめられる。
真理は何も言わず、そっと手を伸ばした。
「蓮。あなた、困った子なんかじゃない。ずっと自分を責めてきて、困っていた子なんだね」
その瞬間、蓮の目から涙がこぼれた。泣くことを許されなかった少年の涙だった。
「……守れなかったんだ」
「でも、これからは誰かを守れるよ。例えば、今そばにいる、かなでちゃんとか」
蓮は真理をゆっくり見た。
「……俺が?」
「そう、あなたが一番、彼女の気持ちがわかると思うの」
「……先生ありがとう」
その声は震えていたけれど、そこには温かさが宿っていた。
蓮の心に、初めて風が吹いた日だった。
春が過ぎ、初夏の風がフリースクールの庭を渡っていた。窓を開けると、遠くで仔猫の鳴き声がし、小さな命の音が流れ込む。
第三章 風の仕業
「今日はみんなで作る物語をやってみよう。一人が一文ずつ書いて次の人につなげていくの」
黒板の前で、真理はそう言った。
「面白そう!」
「俺最後にオチを書いてもいい?」
子どもたちの笑いが広がる中、かなではいつものように机の端で、小さく首をすくめていた。
隣の席の蓮がちらりと見て、そっと鉛筆を差し出した。
「一緒にやろう……俺も文字書くの、苦手だからさ」
かなでは少しだけ目を見開き、ゆっくりとノートを開いた。
物語は、たどたどしくも温かく続いていった。
「森の中で小さなうさぎが迷子になりました」
「うさぎは泣きながら、歩きました」
「そこに風の精が現れて……」
そして、順番がかなでのところに回ってきた。
教室の空気が、少しだけ張り詰める。
かなでは鉛筆を持つ指を震わせ、一度蓮を見上げた。
蓮は小さくうなずいた。—大丈夫。君を誰も笑わないー
かなでは小さな字で書いた。
「風はやさしく うさぎのなみだを ふきとばしました」
この瞬間、真理の胸の奥で何かがはじけた。
言葉は、声にならなくても届く。
だが、そのあとだった。
窓の外から、突然突風が吹いた。
机の上のノートがぱらぱらと舞い上がる。子どもたちが慌てて紙を押さえる中、かなでの書いたページが、風に乗って窓の外へ、飛んでいった。
「…あっ!」
かなでが立ち上がった。反射的に声が出た。
「まって!」
一瞬の静寂。
教室中が、その一言に息をのんだ。柔らかく、震えるような声。でも、確かに響いた。
風がやみ、陽が差し込む。舞い上がった紙は、ふわりと空中で回転し、蓮の手のひらに落ちた。
彼は紙を拾い、そっとかなでに渡した。
「ほら、風がちゃんと返してくれた」
かなでは涙を浮かべながら、笑った。
「……ありがとう」
その声は細くて壊れそうで、けれど、誰より強かった。
真理は思わず目頭を押さえた。
蓮が言った。
「風の精、ほんとにいたな」
その日の放課後、黒板の隅でかなでの字で小さく書かれていた。
「ここには やさしい かぜがふく」
それを見て、真理はそっと目を閉じた。彼女の声が、確かにここに生まれたのだ。沈黙の向こうで、風が一人の少女の心を自由にした。
第四章 真理のたからもの
夜の雨は長く降り続いていた。真理は一人、教室に残っていた。机の上には、子どもたちの作文の束。
「すきなもの」「たからもの」
それぞれの文字が幼くもまっすぐで、ページをめくるたび胸の奥が熱くなる。
けれど、最後のページをめくったとき、心の奥で小さく崩れる音がした。
「せんせいのたからものは、なんですか?」
その一文を読んだ瞬間、真理は動けなくなった。
私の宝物……?
再び思い出す。あの日、学校で泣きじゃくる子の顔。自分の言葉が刃のように刺さり、あの子を学校から遠ざけてしまった。私の宝物は子どもたちだと心から言えるだろうか?
「……私なんて、教師失格だ」
ぽつりとつぶやいた声が、教室に沈んだ。
窓の外の雨音だけが、規則的に響いている。時計の針が、夜の九時を指した頃だった。
そのとき、廊下から足音がした。小さな靴音が、近づいてくる。
「——先生?」
ドアが開少しいて、蓮とかなでが顔を出した。二人とも傘を持って、少し濡れていて息を切らせている。
「帰ったはずじゃ……」
「かなでがね、言ったんだ。“先生泣いている気がする"って」
真理は言葉を失った。かなでは手に手提げ袋を抱えて、おそるおそる中から厳重にしまってあったビニール袋から、小さな風車を取り出した。
「……これ、みんなで作ったの。先生の机に置きたかったのに、忘れちゃって」
風車は、折り紙でできていて、少しゆがんでいた。
でも、赤、青、黄色の羽が光に濡れて、まるで小さな命のように揺れていた。
蓮が言った。
「先生、俺…前は風なんて嫌いだった。何かを奪うものだと思っていた。でも、今は風があるから、前に進める気がするんだ」
かなでが、静かに続けた。
「私もあの時、風が吹いたから、声が出たの」
真理の頬を熱い涙が伝った。
二人の、言葉が優しく胸を撫でていく。
「ありがとう。先生ね、あなたたちを導くつもりでいたけれど、本当はみんなに導かれていたんだね」
蓮が微笑んだ。
「それでいいじゃん。先生も俺らの仲間だし」
かなでが、風車を真理の手にそっと置いた。
「先生のたからもの、これにして」
真理は、震える手でそれを握った。
「うん…これが、私のたからもの」
昨日の雨はやみ、雲の切れ間から朝の光が、差し込んだ。
カーテンが風に揺れ、風車が、小さくくるりと回った。光が弾けて、その瞬間、真理の胸に宿っていた重さが静かにほどけていく。
真理は微笑み、子どもたちを抱きしめた。
「ありがとう。生きるって苦しいこともあるけれど…こんな朝があるから、大丈夫だね」
風が教室を通り抜けた。
誰もいない黒板の上には、昨日の文字がまだ残っている。
「ここには やさしい かぜがふく」
それが、この場所のすべてを物語っていた。
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