不実なジジの完璧な許嫁

若島まつ

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 アングル伯爵が貸してくれた馬車は、安い辻馬車よりもずっと快適だ。王都の大通りには相変わらず高貴な人々が行き交い、夏空は青く輝いている。
(ばかだった)
 ジジは自分を恥じた。
 遠くの木陰からティアとエクトルの後ろ姿をこっそり窺っていたのは、自分の成果を確認したかったからだ。
 しかし、目論見通りエクトルがティアの手を掴み、情熱的な口付けを交わすのを目にした瞬間、心臓を太い槍で突かれたようになった。
 まさか自分の中にこんなに醜くてやましい気持ちがあるなんて、知らなかった。
 あの瞬間、昨晩の口付けを思い出してティアを羨み、悲しみに襲われた。二人の幸せを思う心は変わらない。それなのに、苦しくて胸が千切れそうだ。
 だから逃げるように庭園を後にし、元の黒いドレスに着替えてアングル伯爵夫妻に礼を告げ、かつてのイヴリー邸へ戻る事を選んだ。
 エクトルから渡されたものはすべて置いてきた。今の自分にはあまりにも不釣り合いだから。

 戻ってきた屋敷は、相変わらず薄暗い。
 ジジは母のドレスを脱ぎ、首まで覆う慎ましいドレスに着替えて、かつて父が使っていた書斎の窓を開けた。
 夏風の青々しい匂いが満ち、重く沈んでいた心が少しだけ軽くなる。
(エクトルとティアはきっと大丈夫)
 あとは最後の作戦『悪女去る』が遂行されれば全ての作戦が完了する。
 ジジは書斎の机の鍵を開け、いくつかの書類を取り出して署名をした。
 この屋敷と屋敷の中に残されたものすべてを王国政府に寄贈する内容と、領地の所有権及び運営に関わる権利の一切を放棄するという内容だ。
 更に、神殿に入るための書類にも目を通し、署名した。これが生涯を神々に捧げるという誓願書になる。
 最後の書類にサラサラと署名を終えると、ジジは椅子の背もたれに深く身を預けて目を閉じた。
(これで終わり。全部うまくいくわ)
 悲しみは一時的なものだ。波の音を聞きながら穏やかな日々を過ごすうちに、淘汰されていくに違いない。
 風の音に混じって屋敷の前の通りを人馬が行き交う音が聞こえる。蹄鉄が石畳の道を叩く音は、子供の頃から好きだった。大好きな父が久しぶりに帰ってくるときの音だからだ。
 ――その時。
「ん?」
 部屋の中の空気が大きく動いて、ジジは目を開いた。階下で屋敷の扉が勢いよく開け放たれたのだ。
「ジジ!」
「えっ」
 エクトルの声だ。
「ジゼル・イヴリー!」
 しかもかなり怒っている。
(どっ、どうして?ティアは?どうしよう。隠れなきゃ)
 ダンダンと踏み鳴らされる足音が近付いてくるにつれて、ジジのパニックがひどくなる。
 足音がとうとう扉の前に迫った時、ジジは椅子の上で膝を曲げて小さくなり、咄嗟に膝掛けを頭から被った。椅子と同化したつもりだった。
 が、そんな手が通用するはずがない。
 がば、と膝掛けが剥ぎ取られた瞬間、目の前に怒りを露わにしたエクトルが迫っていた。手には、先ほど最後に署名した書類が握られている。
「これ、何」
「こ、婚約を解消する書類……」
「君は、本気で――」
 怒りの表情の中に苦悩が見えた。悲しみと、失望かもしれない。
 エクトルはジジの前に膝をつき、椅子の肘掛けを両手で掴んで、懇願するようにジジを見上げた。
「すべて受け入れるから本当のことを教えてくれ、ジジ。南部に王家より古い家なんてない。君の間男は既婚者とか罪人とか、真っ当なやつじゃないんじゃないか?神殿宛ての書類だって、駆け落ちの常套手段だ。だから邪魔になった僕をあのレティシア・ランスに体よく押し付けようとしてるんだろう」
「体よく押し付けるだなんて!」
 ジジは仰天した。エクトルがそんなふうに考えているなんて思いもしなかった。
「あの、確かに嘘を吐いたわ。ごめんなさい。でもそれは、あなたがとても大切な人だから――」
「許さない」
 エクトルが唸るように言った。乱れた前髪の奥から石のように冷たい目が覗き、ジジを動けなくした。ジジの背筋に冷たいものが流れる。
「君は昔からそうだ。僕の気持ちなんか、知ろうともせず」
 この瞬間、エクトルを拒めなかったのは、その目の奥に激しい苦悩が見えたからだ。
 こんな顔をしているエクトルを拒むことは、ジジにはできない。
 エクトルが両腕を檻にして閉じ込めてきても、腹を空かせた猛獣が獲物に襲いかかるような激しさで抱きしめられても、ジジは受け入れた。
 そして、春の嵐のように激しい口付けも。――
「え、エクトル……」
 腫れた唇の隙間からジジが呻くと、エクトルはジジの顎を抑えてもう一度噛み付くように唇を塞ぎ、ジジが胸のところで握っている拳を手のひらに包んだ。
 エクトルの言葉の意味や行動の理由を考えようとしても、混乱と熱情に襲われて、思考さえ儘ならない。
(おなかが、あつい)
 舌が根本から這い上がり、歯の裏をなぞって、もう一度絡んでくる。粘液の絡む音が頭の中で響いて、羞恥を感じるべきなのに不可思議な快感がそれを覆い隠し、いつのまにかエクトルの手を握っていた。
(あ……)
 ドレス越しに、エクトルの手が腰から背中へと這い上がってくる。こんなふうに触れられるのは初めてだ。エクトルの手がこんなに熱いということも、知っていたようで知らなかった。
(い、いいのかな)
 頭の中にティアの顔が思い浮かんだが、口付けの激しさに意識が溺れ始めて、どうしても拒むことができない。
「ん……」
 何度も吸い付かれ、噛み付かれて、唇の感覚が鈍くなっている。唾液が顎に垂れ、頬が上気し、狭い椅子の上に拘束された身体が内側から熱くなる。
 唇を離したエクトルの顔は、今まで見たことのあるどの表情とも違っていた。
 苦悩と焦燥を映した空色の目には睫毛の影が伸びて翳り、頬から耳にかけて血色がのぼっている。
 ジジは、この男を知らない。
 今まで小さく聞こえていた自分の鼓動が、一気に近くで鳴り出した。身体の中を風が強く吹き付け、指先まで痺れるような感覚だ。
 再び言葉を発するより先に唇を塞がれ、エクトルの手がそっとドレスの襟に伸び、編み上げられた紐を解き始めた。
 指がうなじを掠めると、肌の上をぞくりと快感が走った。開かれた襟の中に、エクトルの手が入ってくる。
「――!」
 乳房をアンダードレスの上から手のひらで覆われ、先端が否応なしに硬くなったのがわかる。
 ジジの性体験などちょっと際どい恋愛小説を読んで自分の身体に触れてみた程度のもので、異性と触れ合って生じる興奮がどんなものかは知らなかった。そしてエクトルを手放すと決めた今、ついぞそれらを知らぬまま老いてゆくのだと思っていた。
 それが、エクトルの手によって変えられてゆく。
「あ……!」
 暴かれた首に、エクトルが噛み付いた。
「痛い?」
 声だけでゾクリと身体が震える。
 ジジは首をふるふると振ってエクトルの肩にしがみついた。柔らかい髪が首筋をくすぐり、薄衣越しに乳房の中心を啄まれる。
「ひゃっ、う」
 ぞわぞわともどかしい快感が這い回って、もっと強い刺激が欲しくなる。
(怖い)
 自分の身体が何か別の生き物になってしまいそうだ。
「エクトル……エクトル待って」
「何」
 エクトルは胸元から顔をあげ、不満げに眉間に皺を寄せた。
(うう!か、可愛いなんて思っちゃいけないわ)
 ジジはこれ以上エクトルの顔に絆されないようギュッと目を瞑り、両腕で胸を隠した。
「やっぱりだめ!ティアが……」
 ふ、とエクトルが嘲るように笑った。
「いい加減にしてくれ。まだ僕とレティシア・ランスに何かあると思ってるなら、勘違いも甚だしい。僕が君以外の女に靡くような男だと思われてたなんて、心の底から腹が立つ」
 ジジはまぶたを開いた。エクトルの顔は、本当に怒っている。
「え?でも――」
 確かに一年前の宴の夜、エクトルとティアの密やかな会話を聞いた。あの時ティアは「あなたとわたしのしたことはジジを悲しませる」と言い、エクトルは「僕たちは共犯だ」「秘密は墓まで持って行け」と言っていた。
(あれは、二人が恋に落ちたということじゃないの?さっき見た口付けは、わたしの見間違いってこと?)
 言われてみれば口付けしそうなほどに距離が縮まっていたが、後ろ姿だったから確証はない。
 エクトルの強い視線がジジから言葉を奪った。何からどう訊ねるべきなのか、一気に押し寄せてきた混乱と熱で判断ができない。
「君こそ他に男がいるんだろ。もう寝たのか?」
 苦悩するエクトルの顔が近付いてきて、胸を守っていた両腕を掴んで外された。アンダードレスは身につけているのに、ひどく無防備になった気がする。
「ご、ごめんなさい。それは――」
 嘘だったと白状する前に唇を重ねられて、何も言えなくなった。心臓が破裂してしまいそうだ。
「やっぱりいい。いま聞いたら手酷くしそうだから」
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