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7 忠告 - un conseil -
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翌日、早朝からルキウスに来客があった。
ルースの東隣の領地を治めるルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールだ。ルキウスとは、曽祖父母であるレオネ王とルミエッタ王妃の血を通じて血縁関係にあり、いわゆる再従兄にあたる。
アルヴィーゼ・コルネールは日が昇る前にルース城へ到着し、旅装も解かないまま門を通り、城の中へ足を踏み入れ、最上階へ上がった。門番も使用人も、この突然の来訪者を止めたりせずに身を低くする。それどころか、気を利かせて燭台まで持たせる手厚さだ。この貴人が誰か、姿を見て分からない者は、この城には一人としていない。
ルキウスの寝室の扉をノックもせずに開いて奥の寝台に近付くと、閉じられた天蓋のカーテンを開けて、布団にくるまってすやすやと寝息を立てている再従弟に鋭く呼びかけた。
「リュカ!」
――とは、ルキウスの幼い頃からの愛称だ。この名で呼ぶのは両親と二人の姉の他、アルヴィーゼに限られている。
「リュカ、起きろ」
アルヴィーゼはルキウスの被っていた布団と毛布を引き剥がし、上裸で寝ていたルキウスの肌を冷たい早朝の空気に晒させた。
「…ンだよ。…今何時?」
「五時二十三分だ」
「まじか…」
ルキウスはもぞもぞと身動きしてまだ暗いベッドの上をごろりと転がり、枕に顔を埋めた。
「あれ…、ルイ?」
ルキウスはこの時ようやく枕から顔を半分だけ上げてベッドの脇に立つ人物を見た。‘ルイ’もまた、アルヴィーゼの幼い頃の愛称だ。十四歳年上のこの再従兄を、男兄弟のいないルキウスは幼い時分から兄のように慕っている。
アルヴィーゼは持っていた燭台を猫脚のサイドテーブルに置き、また目を閉じようとしたルキウスの頬をピシ、と平手で弾いた。王太子であるルキウスにこんな荒っぽい仕打ちができるのは、この男くらいのものだ。
ルキウスは観念して目を開いた。ベッドの脇に、黒っぽい外套を纏ったアルヴィーゼが立っている。
アルヴィーゼは、その多くが明るい髪色を持つエマンシュナ人には珍しく、真っ黒な髪をしている。曽祖母のルミエッタから娘のミネルヴへ、そしてその孫アルヴィーゼへと受け継がれたものだ。目は、ルキウスと同じく緑色で、ルキウスの方が青みが強く、アルヴィーゼの目は南の海のようなエメラルドグリーンをしている。
彼らが持つ緑の目は、謂わばアストル王家の象徴だ。歴代の王のうち、ほとんどの者が緑色の目をしていたと伝えられている。真偽のほどは肖像画や古い時代の文献で見るほかないが、少なくとも偉大な功績を残した曽祖父レオネ王の目が緑色だったことは確実だ。存命の頃のレオネ王に会ったことがある者が、ルキウスを見て口々に言うからだ。髪も目の色も、よく似ている。まるで生まれ変わりのようだと。
しかし、ルキウスにとっては、アストルの緑の目など呪縛でしかない。
そして今、自分の目の前に立つアルヴィーゼはその緑色の目を細め、黒い眉の間に皺を刻んでいる。今日はあまり機嫌がよろしくない。――いや、この男は機嫌が良い時の方が少ないかもしれない。愛する妻と離れていなければならない時は、常にそうだ。
「いいか。手短に済ます」
と、アルヴィーゼはベッドにぼんやりと寝そべったままのルキウスを見下ろし、容易ならぬことを言った。
「王都でお前を廃嫡させる動きが出ている」
「…それはまた――」
由々しき事態だ。さすがに目が覚めた。
「大きく出たね。王の息子は俺しかいないのに」
ルキウスはグラグラとはらわたが煮えるような思いをしながら、顔だけは平静を装った。
「主にこれまでの素行の悪さと、この間のオルデンの一件だ。奇襲を受けて負けも同然の醜態を晒した挙げ句、制圧が遅れたために結局何の役にも立たず終わったことが王国議会で糾弾されてる。‘怠慢’だと」
「素行の悪さは否定しないけど、ギエリの件は、本隊が勝手に計画を早めたんだ。俺は予定通り慎重にことを進めようとしてた。犠牲を出さずに」
「わかってる」
アルヴィーゼは言った。
「意図的だ」
この言葉を聞いて、ルキウスは失笑した。
「誰かが俺をハメようとしてる?」
「心当たりがあるだろう」
「…ヴァレルの叔父貴」
アルヴィーゼは頷いた。
ヴァレル・アストル将軍はギエリ侵攻の計画を早めた張本人だ。ルキウスの父レオニード王の従弟であり、アルヴィーゼの父の従兄でもある。そして、ルキウスの次に当たる第二位の王位継承権を持っている。が、今までその野心をあからさまに示したことはなかった。どちらかというと物静かで、それほど自己主張を激しくする質ではない印象だ。
「あの人、国王になりたいのか?」
「知るか。俺は気を付けろと忠告しに来ただけだ。あとはお前がやれ。コルネールはくだらん権力闘争に首を突っ込む気はない」
アルヴィーゼはにべなく言ってルキウスに背を向け、扉へ向かった。
「よく言うよ」
ルキウスもベッドを下りて裸足のままその後を追った。
「朝食、食べていかないの?」
「面倒な王都の議会から解放されたついでに寄っただけだ。すぐ領地へ帰る」
淡々と答えるアルヴィーゼを見て、ルキウスは少しおかしくなった。
「今帰れば家族と朝食が取れるしね」
「そうだ」
アルヴィーゼはニコリともせずに言い、寝室の扉を開けた。
「ねえ、ルイ。真面目な話、君は何十番目かの王位継承権も持ってるし、西方の権力を掌握してる上、中央にも顔が利く。おまけに莫大な財力も。コルネールが権力闘争に関わらない方が難しいだろ」
「だから、どちらに転ぶ気もないと言っているんだ。俺は俺の家族を守れればそれでいい」
断固とした口調だ。本当に政治的な闘争に巻き込まれたくないのだろう。そもそも、これほど大きな影響力を持ちながら、コルネール家が中央に向けて政治的な意欲を見せたことは一度もない。
「変わったよね」
奥方に出逢うまでは、こんなに愛情深い男ではなかった。若い頃は宴の度に違う女性を連れていて、社交的な顔を見せるくせに誰にも心を開かない。ルキウスは当時はまだ子供だったが、そういうアルヴィーゼの姿を見る度に生きづらそうだと思ってもいた。――今は、自分がそうだ。
「イオネは元気?」
ルキウスが訊くと、アルヴィーゼの目が少し柔らいだ。生まれたときからの付き合いだからこそ分かる変化だ。そのアルヴィーゼがこの世で最も愛し、心を許している存在が、妻のイオネだ。若くして名門大学で教鞭を執り、今は公爵夫人と大学教授、言語学者、翻訳家という、いくつもの職をこなしている多才な女性だ。その上、恐ろしく端正な容姿のアルヴィーゼと並んでも引けを取らない美貌の持ち主でもある。
「ああ。身重なのに、よく働いている」
「三人目だっけ?すごいな」
「休めと言っても聞かない」
「ハハ、彼女らしいな」
この時、アルヴィーゼの和らいだ表情が凍り付いた。この男には珍しく、動くのを忘れたように呆気に取られている。
目の前の廊下を、大きな白い獣が悠然と闊歩していたからだ。
「…あれは何だ」
ルキウスはぎくりとした。オルフィニナと交わした誓書はそろそろ王城の父に届く頃だが、まだ当事者を除いては誰もルキウスがオルフィニナの身柄を預かっていることを知らないし、無論、彼女と一緒に大きなオオカミがここへやって来たことも知らない。
この状況でアルヴィーゼに知られてしまうのは、あまり都合がよくない。
そんなルキウスのことなどお構いなしに、オオカミは二つ隣の部屋の前で止まり、後ろ足で立って器用に扉を開け、やすやすと中へ入って行ってしまった。オルフィニナの部屋だ。
アルヴィーゼは説明を求めるように無言でルキウスを見た。大きな獣に驚かないルキウスの様子を見て、あれがどこからともなく侵入してきた未知の獣ではないと理解しているのだ。
「客人の連れの、エデンだ」
ルキウスは白々と答えた。
「オオカミ連れの客人を迎えたとは、初耳だ」
「オオカミに見える?育ちすぎた犬に見えなかった?」
「俺の目をくだらない屁理屈でごまかせると思うな」
アルヴィーゼはピシャリと言ってオオカミの入っていった部屋に近付いた。
「ルイ、そこは――」
律儀にもオオカミが扉を閉めていたが、ルキウスが止める間もなく、アルヴィーゼは遠慮なくそれを開けた。
中には袖のない白のアンダードレス姿のオルフィニナがいた。そのそばには、彼女のローブを持って立つクインと、その足元に寝そべって寛ぐエデンがいる。
突然の闖入者に怒声を発したのは、クインだ。アミラ語で何事かを短く言った後、眉をひそめたオルフィニナに叱責された様子から見て、多分、ルキウスとアルヴィーゼを口汚く罵倒したのだろう。
「わたしの騎士が無礼をした」
オルフィニナは誰だか知らない男に下着姿を見られたにも関わらず、怒ろうとも身体を隠そうともせず、まるで何でもないことのように平然として、グルグルと威嚇を始めたエデンの頭を優しく撫でた。
「…こちらこそ邪魔をした、マダム」
アルヴィーゼは全く悪びれずに言って扉を閉めると、急に不機嫌になった再従弟に向かって腕を組み、凄んで見せた。
「どういうことだ。アミラ語を話していたぞ。なぜアミラ人がここにいる」
「彼女は、オルフィニナ・ドレクセン」
アルヴィーゼが一段と険しい顔になる。ルキウスは構わず続けた。
「あのデカくてムカつく奴は従者のクイン・アドラーで、オオカミは彼女の飼い犬だ。彼女がオルデンに置いていこうとしたけどついて来ちゃったんだよ。でも別に大きい犬が城に一匹増えるくらいは問題ないから――」
「オオカミの話はいい」
アルヴィーゼは苛立って語気を荒げた。
「問題はドレクセンだ。アミラの王家の人間をなぜ連れてきた」
「オルデンで彼女が投降したから、俺が身柄と自由を預かったんだ。互いに誓書を交わして合意してる。もうすぐ王都の父上にも誓書の写しが届くはずだ」
ルキウスの口調も苛立っている。自分でもなぜこんな気分になるのか分からない。ただ、下着姿のオルフィニナのそばにクインがいるのを見た瞬間から、最悪の気分になった。
「捕虜ならそれらしく待遇しろ。自分の寝室の近くに置いて、彼女をどうする気だ。自分の立場を理解しているのか」
「分かってる。貴族の奥様方を食い散らかしてえらく評判が落ちたってことも、そのせいで敵を作ったことも」
「分かっているならもっと慎重に行動しろ。誰にも足元を掬わせるな」
「ご忠告どうも」
反抗的に言ったルキウスに向かって、アルヴィーゼはイライラと舌を打ち、背を向けた。
「…なあ、ルイ」
アルヴィーゼの背中に向かってルキウスが言った。アルヴィーゼが振り返ると、ルキウスはひどく深刻な顔つきで口を開いた。
「従者だからって男が女主人の着替えを手伝うの、どう思う?おかしくないか?」
アルヴィーゼはもう一度大きく舌を打ち、「知るか」とだけ言って去って行った。自分が妻の着替えを他の男に見られたら相手を殺そうとするだろうに、他人の事情には一切興味がないのだ。
ルキウスはオルフィニナの部屋の青い扉を睨み、この苛立ちを風呂に入って忘れることにした。
まったく、胸糞悪い。
ルースの東隣の領地を治めるルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールだ。ルキウスとは、曽祖父母であるレオネ王とルミエッタ王妃の血を通じて血縁関係にあり、いわゆる再従兄にあたる。
アルヴィーゼ・コルネールは日が昇る前にルース城へ到着し、旅装も解かないまま門を通り、城の中へ足を踏み入れ、最上階へ上がった。門番も使用人も、この突然の来訪者を止めたりせずに身を低くする。それどころか、気を利かせて燭台まで持たせる手厚さだ。この貴人が誰か、姿を見て分からない者は、この城には一人としていない。
ルキウスの寝室の扉をノックもせずに開いて奥の寝台に近付くと、閉じられた天蓋のカーテンを開けて、布団にくるまってすやすやと寝息を立てている再従弟に鋭く呼びかけた。
「リュカ!」
――とは、ルキウスの幼い頃からの愛称だ。この名で呼ぶのは両親と二人の姉の他、アルヴィーゼに限られている。
「リュカ、起きろ」
アルヴィーゼはルキウスの被っていた布団と毛布を引き剥がし、上裸で寝ていたルキウスの肌を冷たい早朝の空気に晒させた。
「…ンだよ。…今何時?」
「五時二十三分だ」
「まじか…」
ルキウスはもぞもぞと身動きしてまだ暗いベッドの上をごろりと転がり、枕に顔を埋めた。
「あれ…、ルイ?」
ルキウスはこの時ようやく枕から顔を半分だけ上げてベッドの脇に立つ人物を見た。‘ルイ’もまた、アルヴィーゼの幼い頃の愛称だ。十四歳年上のこの再従兄を、男兄弟のいないルキウスは幼い時分から兄のように慕っている。
アルヴィーゼは持っていた燭台を猫脚のサイドテーブルに置き、また目を閉じようとしたルキウスの頬をピシ、と平手で弾いた。王太子であるルキウスにこんな荒っぽい仕打ちができるのは、この男くらいのものだ。
ルキウスは観念して目を開いた。ベッドの脇に、黒っぽい外套を纏ったアルヴィーゼが立っている。
アルヴィーゼは、その多くが明るい髪色を持つエマンシュナ人には珍しく、真っ黒な髪をしている。曽祖母のルミエッタから娘のミネルヴへ、そしてその孫アルヴィーゼへと受け継がれたものだ。目は、ルキウスと同じく緑色で、ルキウスの方が青みが強く、アルヴィーゼの目は南の海のようなエメラルドグリーンをしている。
彼らが持つ緑の目は、謂わばアストル王家の象徴だ。歴代の王のうち、ほとんどの者が緑色の目をしていたと伝えられている。真偽のほどは肖像画や古い時代の文献で見るほかないが、少なくとも偉大な功績を残した曽祖父レオネ王の目が緑色だったことは確実だ。存命の頃のレオネ王に会ったことがある者が、ルキウスを見て口々に言うからだ。髪も目の色も、よく似ている。まるで生まれ変わりのようだと。
しかし、ルキウスにとっては、アストルの緑の目など呪縛でしかない。
そして今、自分の目の前に立つアルヴィーゼはその緑色の目を細め、黒い眉の間に皺を刻んでいる。今日はあまり機嫌がよろしくない。――いや、この男は機嫌が良い時の方が少ないかもしれない。愛する妻と離れていなければならない時は、常にそうだ。
「いいか。手短に済ます」
と、アルヴィーゼはベッドにぼんやりと寝そべったままのルキウスを見下ろし、容易ならぬことを言った。
「王都でお前を廃嫡させる動きが出ている」
「…それはまた――」
由々しき事態だ。さすがに目が覚めた。
「大きく出たね。王の息子は俺しかいないのに」
ルキウスはグラグラとはらわたが煮えるような思いをしながら、顔だけは平静を装った。
「主にこれまでの素行の悪さと、この間のオルデンの一件だ。奇襲を受けて負けも同然の醜態を晒した挙げ句、制圧が遅れたために結局何の役にも立たず終わったことが王国議会で糾弾されてる。‘怠慢’だと」
「素行の悪さは否定しないけど、ギエリの件は、本隊が勝手に計画を早めたんだ。俺は予定通り慎重にことを進めようとしてた。犠牲を出さずに」
「わかってる」
アルヴィーゼは言った。
「意図的だ」
この言葉を聞いて、ルキウスは失笑した。
「誰かが俺をハメようとしてる?」
「心当たりがあるだろう」
「…ヴァレルの叔父貴」
アルヴィーゼは頷いた。
ヴァレル・アストル将軍はギエリ侵攻の計画を早めた張本人だ。ルキウスの父レオニード王の従弟であり、アルヴィーゼの父の従兄でもある。そして、ルキウスの次に当たる第二位の王位継承権を持っている。が、今までその野心をあからさまに示したことはなかった。どちらかというと物静かで、それほど自己主張を激しくする質ではない印象だ。
「あの人、国王になりたいのか?」
「知るか。俺は気を付けろと忠告しに来ただけだ。あとはお前がやれ。コルネールはくだらん権力闘争に首を突っ込む気はない」
アルヴィーゼはにべなく言ってルキウスに背を向け、扉へ向かった。
「よく言うよ」
ルキウスもベッドを下りて裸足のままその後を追った。
「朝食、食べていかないの?」
「面倒な王都の議会から解放されたついでに寄っただけだ。すぐ領地へ帰る」
淡々と答えるアルヴィーゼを見て、ルキウスは少しおかしくなった。
「今帰れば家族と朝食が取れるしね」
「そうだ」
アルヴィーゼはニコリともせずに言い、寝室の扉を開けた。
「ねえ、ルイ。真面目な話、君は何十番目かの王位継承権も持ってるし、西方の権力を掌握してる上、中央にも顔が利く。おまけに莫大な財力も。コルネールが権力闘争に関わらない方が難しいだろ」
「だから、どちらに転ぶ気もないと言っているんだ。俺は俺の家族を守れればそれでいい」
断固とした口調だ。本当に政治的な闘争に巻き込まれたくないのだろう。そもそも、これほど大きな影響力を持ちながら、コルネール家が中央に向けて政治的な意欲を見せたことは一度もない。
「変わったよね」
奥方に出逢うまでは、こんなに愛情深い男ではなかった。若い頃は宴の度に違う女性を連れていて、社交的な顔を見せるくせに誰にも心を開かない。ルキウスは当時はまだ子供だったが、そういうアルヴィーゼの姿を見る度に生きづらそうだと思ってもいた。――今は、自分がそうだ。
「イオネは元気?」
ルキウスが訊くと、アルヴィーゼの目が少し柔らいだ。生まれたときからの付き合いだからこそ分かる変化だ。そのアルヴィーゼがこの世で最も愛し、心を許している存在が、妻のイオネだ。若くして名門大学で教鞭を執り、今は公爵夫人と大学教授、言語学者、翻訳家という、いくつもの職をこなしている多才な女性だ。その上、恐ろしく端正な容姿のアルヴィーゼと並んでも引けを取らない美貌の持ち主でもある。
「ああ。身重なのに、よく働いている」
「三人目だっけ?すごいな」
「休めと言っても聞かない」
「ハハ、彼女らしいな」
この時、アルヴィーゼの和らいだ表情が凍り付いた。この男には珍しく、動くのを忘れたように呆気に取られている。
目の前の廊下を、大きな白い獣が悠然と闊歩していたからだ。
「…あれは何だ」
ルキウスはぎくりとした。オルフィニナと交わした誓書はそろそろ王城の父に届く頃だが、まだ当事者を除いては誰もルキウスがオルフィニナの身柄を預かっていることを知らないし、無論、彼女と一緒に大きなオオカミがここへやって来たことも知らない。
この状況でアルヴィーゼに知られてしまうのは、あまり都合がよくない。
そんなルキウスのことなどお構いなしに、オオカミは二つ隣の部屋の前で止まり、後ろ足で立って器用に扉を開け、やすやすと中へ入って行ってしまった。オルフィニナの部屋だ。
アルヴィーゼは説明を求めるように無言でルキウスを見た。大きな獣に驚かないルキウスの様子を見て、あれがどこからともなく侵入してきた未知の獣ではないと理解しているのだ。
「客人の連れの、エデンだ」
ルキウスは白々と答えた。
「オオカミ連れの客人を迎えたとは、初耳だ」
「オオカミに見える?育ちすぎた犬に見えなかった?」
「俺の目をくだらない屁理屈でごまかせると思うな」
アルヴィーゼはピシャリと言ってオオカミの入っていった部屋に近付いた。
「ルイ、そこは――」
律儀にもオオカミが扉を閉めていたが、ルキウスが止める間もなく、アルヴィーゼは遠慮なくそれを開けた。
中には袖のない白のアンダードレス姿のオルフィニナがいた。そのそばには、彼女のローブを持って立つクインと、その足元に寝そべって寛ぐエデンがいる。
突然の闖入者に怒声を発したのは、クインだ。アミラ語で何事かを短く言った後、眉をひそめたオルフィニナに叱責された様子から見て、多分、ルキウスとアルヴィーゼを口汚く罵倒したのだろう。
「わたしの騎士が無礼をした」
オルフィニナは誰だか知らない男に下着姿を見られたにも関わらず、怒ろうとも身体を隠そうともせず、まるで何でもないことのように平然として、グルグルと威嚇を始めたエデンの頭を優しく撫でた。
「…こちらこそ邪魔をした、マダム」
アルヴィーゼは全く悪びれずに言って扉を閉めると、急に不機嫌になった再従弟に向かって腕を組み、凄んで見せた。
「どういうことだ。アミラ語を話していたぞ。なぜアミラ人がここにいる」
「彼女は、オルフィニナ・ドレクセン」
アルヴィーゼが一段と険しい顔になる。ルキウスは構わず続けた。
「あのデカくてムカつく奴は従者のクイン・アドラーで、オオカミは彼女の飼い犬だ。彼女がオルデンに置いていこうとしたけどついて来ちゃったんだよ。でも別に大きい犬が城に一匹増えるくらいは問題ないから――」
「オオカミの話はいい」
アルヴィーゼは苛立って語気を荒げた。
「問題はドレクセンだ。アミラの王家の人間をなぜ連れてきた」
「オルデンで彼女が投降したから、俺が身柄と自由を預かったんだ。互いに誓書を交わして合意してる。もうすぐ王都の父上にも誓書の写しが届くはずだ」
ルキウスの口調も苛立っている。自分でもなぜこんな気分になるのか分からない。ただ、下着姿のオルフィニナのそばにクインがいるのを見た瞬間から、最悪の気分になった。
「捕虜ならそれらしく待遇しろ。自分の寝室の近くに置いて、彼女をどうする気だ。自分の立場を理解しているのか」
「分かってる。貴族の奥様方を食い散らかしてえらく評判が落ちたってことも、そのせいで敵を作ったことも」
「分かっているならもっと慎重に行動しろ。誰にも足元を掬わせるな」
「ご忠告どうも」
反抗的に言ったルキウスに向かって、アルヴィーゼはイライラと舌を打ち、背を向けた。
「…なあ、ルイ」
アルヴィーゼの背中に向かってルキウスが言った。アルヴィーゼが振り返ると、ルキウスはひどく深刻な顔つきで口を開いた。
「従者だからって男が女主人の着替えを手伝うの、どう思う?おかしくないか?」
アルヴィーゼはもう一度大きく舌を打ち、「知るか」とだけ言って去って行った。自分が妻の着替えを他の男に見られたら相手を殺そうとするだろうに、他人の事情には一切興味がないのだ。
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