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26 オルデンの酒場 - à la taverne à Oldenn -
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ここ数日、ルース城が騒がしい。
王太子が捕虜にした敵の女公を伴い、王都へ帰ることが決まったためだ。
民衆はアミラとの戦が事実上の勝利で終わった後、初めて公に王太子の姿を目の当たりにすることになる。謂わば、凱旋の行軍である。
王太子に追従する者たちは相応の軍備を整えなければならず、しかもそれらは実用的というだけでは全く充分ではない。常に民衆の目を驚かせるほどの様相でなければならないのだ。
よって、当然、道中ルキウスが着る軍装は一段と堂々たるものでなければならない。そのため、所持しているうち最も格式高い三着の軍服に加えて更に三着を新調し、合わせて六着用意した。おおよそ行軍にかかるであろう日数分だ。
オルフィニナも同様だ。オルフィニナはもはや捕虜ではなく、王太子ルキウスの婚約者である。そして、二人で交わしたこの密約を、民衆はまだ知らない。
だからこそ、彼女の装いを絢爛に仕上げる必要がある。アミラの女公は王太子に尊重され、大切に扱われている女性であることを民衆に示し、二人が極めて親密な関係にあることを印象づけるためだ。
この準備に、十日を要する。
六着のドレスと三着の軍服を新調する期間としてはあまりに短いが、ルースだけでなく、貿易の要衝である隣のルドヴァン地方の仕立て屋や工房にも依頼をし、それぞれの店に莫大な金を出して大急ぎで作らせている。全ての手配りは無論、バルタザルが行っている。
寝る間も惜しんでいるのは、バルタザルだけではない。ルキウスもオルフィニナも、この準備のために多くの時間を割いている。
ルキウスは通常の政務に加えて、道中立ち寄るべき地方有力者を選んだり、場合によっては自ら筆を取って手紙を出したりせねばならず、同行する兵士たちの行軍の訓練を自ら陣頭指揮を執って行うこともあった。
オルフィニナはと言えば、ルース城内のサロンに引きこもって毎日座学に勤しんでいる。
王都へ王太子が凱旋した際に祝いに来るであろう者たちと、道中通るであろう地域の領主や有力者の名前、家格、彼らの家族の名や、ある程度の系譜、細かい地理まで頭に入れておくために、隣のルドヴァン地方から王国の歴史や地域ごとの作法などに明るい学者を講師として招き、膨大な資料と終日睨み合っているのだ。
サロンの美しい草花模様の壁に飽きると、今度は馬場に出て愛馬の背に乗り、ゆっくりと歩かせながら、分厚い本を開いて系譜を見る。元来、机に向かっているよりも外で馬を駆る方が好きな性格だ。そのせいか、室内で椅子に座るよりも馬上で本を見る方が集中できる。
そして、その傍らには分厚い本を何冊も積んだ車輪付きの木箱を紐で曳きながら歩くスリーズと、ひょろりとした白髭の学者がいる。ここ数日のルース城では、その様子がすっかり馴染みの光景となっている。
「あ、そうだ。スリーズ、あなたさえよければ、アストレンヌへ一緒についてきてくれないかな。新調したドレスはどれも一人で着るには大変だから、手伝ってくれる侍女が必要なのだけれど」
オルフィニナが思い出したように分厚い書物から顔を上げたのは、そういう昼下がりのことだ。
「はいっ!!精一杯勤めさせていただきます!!」
スリーズが元気いっぱいに涙を浮かべて返事をすると、オルフィニナは白髭の学者と顔を見合わせて笑い声を上げた。
同じ頃、クインも仕事をひとつ任されている。
(くそ忌々しい任務だ)
内心で悪態をつきながら、単騎オルデンに続く山道を駈けた。
領主が変わってしばらく経ったオルデンを視察し、女公オルフィニナならびに王太子ルキウスに現況を報告する。――というのは表向きの理由で、内実はオルデンに残っているベルンシュタインを使うためだ。
「噂の種を蒔け」
と、オルフィニナは命じた。
噂――と言っても、民衆の間でオルフィニナとルキウスにまつわる事実を声高に広めれば良い。
則ち、エマンシュナに降った女公が王太子と共に王都へ向かうこと、王太子が彼女のために豪華なドレスや装飾品を一流の職人たちに作らせていること、更にはその莫大な費用が全て王太子の私費で賄われていることなどを、オルデンに潜伏しているベルンシュタインの人間が面白おかしく民や行商人に向けて話せば、時間をかけずに噂は広まる。
しかし、一番重要なことは、クインが口にも出したくない事実だ。
「ルキウス王太子はオルフィニナ女公と良好で親密な関係を築いている」
クインはいつも通り淡々と任務をこなしていたが、このことを口に出す時だけは流石に顔が引き攣った。
「ハハァ」
酒場の喧騒の中で大きな口を左右に引き伸ばした大男は、少年時代からベルンシュタインの一員としてクインと行動を共にしてきた幼馴染のジギという男だ。オルフィニナとも、まだ彼女がアドラー姓を名乗っていた頃からの付き合いだ。オルフィニナが王家に迎えられてからは、主君として忠誠を誓い、その清廉な人柄を敬慕している。
「こいつは驚いた。お前がそんな顔をするってことは、本当なんだな」
クインは幼馴染の苔むした岩のようなヒゲ面をギロリと睨め付けた。一方でジギは、クインの不機嫌顔には慣れている。大きな灰色の目を細め、ニヤニヤと白い歯を見せた。
「面白いことになってるな。ニナさまがエマンシュナの王子とねぇ」
「何も面白くねえよ」
不愉快そうに悪態をつくクインに、ジギは自分の顔と同じくらいの大きさのマグカップを差し出した。中には、なみなみとビールが注がれている。
「いらねえ」
「そう言うな。おい、みんな!ニナさまを王子に取られちまったかわいそうなクインを一緒に慰めてくれ!」
と、ジギが雷が鳴るように豪快な声で叫ぶと、周囲からワッと酒を手にした仲間が集まってきた。
オルデンの中心部に位置するこの酒場は、オルフィニナがオルデン領主となって以来、ベルンシュタインの溜まり場になっている。
客の半分は組織の存在も知らないただの領民たちだが、小さな町だから客同士はみな顔見知りだ。
クインを女公殿下の騎士だと認識した上で、肩を組み、頭を撫で繰り回して髪をくしゃくしゃにし、背をバシバシ叩いた。小洒落た赤い帽子の常連客が店の壁に掛かっていたギターを取って弾き始めると、居合わせた客たちが切ないながらも陽気な旋律に合わせて、つれない貴婦人を想う孤独な男の歌を歌った。失恋の時に定番の流行歌だ。
「なあ、マジな話――」
ジギはギターの音と酔っ払いたちのひどい大合唱の中で、密やかにクインに耳打ちした。
「ニナさまはあの青二才に惚れてるのか?」
クインはマグカップの中のビールを飲み干した後、口を開いた。
「青二才がニナに惚れてる」
ただの執着だと思っていたが、どうやら違う。あの男は本気だ。でなければ、本来使用人に任せるべき看病を自ら進んでするはずがない。
「ニナさまの方は?」
ジギは鳶色の太い眉を吊り上げた。長年仕えている身としては、オルフィニナの心情の方が気になるのだ。
「…よくわからない」
「わからねえのかよ。お前、幼馴染で兄貴だろ?」
ジギが背を叩こうとしたのを、クインは俊敏に躱した。戯れにもこの男の怪力で叩かれては堪らない。
「多分、本人もわかってない。ただ、よほど気を許してるのは確かだ」
「ハハァ」
ジギはまたニッと口を左右に引き伸ばした。
「じゃあ、とうとう本格的に失恋だな、クイン」
「だから、どうしてそうなる。どいつもこいつも」
クインは辟易したが、ジギは気に留めず、その肩に丸太のような腕を置いた。
「まあ、俺たちのニナさまが気を許すなら、それ相応の男なんだろうよ、その青二才は」
クインは鼻で笑った。
「どうかな」
「そうさ。あの方の人物眼は確かだ。ニナさまがお認めになったってんじゃ、お前には気の毒だが俺たちも協力しないわけにいかねぇわな。なあ、ビルギッテ」
ジギはちょうど大合唱の輪から抜けてきた赤毛の女に呼びかけた。領民の女性たちと同じように髪を結い、シナモン色の木綿のドレスを着た、目鼻立ちがそこそこ整っている程度で特に目立ったところのない女だが、諜報や暗殺を専門とするベルンシュタインではそれこそ歓迎される要素と言える。
ビルギッテもまた、ジギと同じくクインとは子供時代からの腐れ縁だ。
「そうね」
ビルギッテは涼しげに微笑んで、カウンターの向こうにいる茶色い髭の店主からビールの入った大きなマグカップを二つ受け取った。そのうちの一つをクインに渡して隣の椅子に腰掛けた時には、微笑はすっかり消えている。鋭い目だ。
「でもあたしに言わせてみれば、クインなんか全然かわいそうじゃないわ。何が騎士よ。みんなのニナさまなんだから。あんただけついてくの許されて、こっちは腹立ってんのよ。幸せと思いなさいよ」
クインは暗い目でビルギッテを睨めつけた。
「てめぇに言われる筋合いねぇんだよ」
ビルギッテはチッ、と舌打ちしてガチャン!と乱暴にマグカップをクインのカップにぶつけると、ぐびぐびとビールを喉に流し込んだ。
「お前もニナさまが大好きだからなぁ。本当に恋してるのかと思うくらいになぁ」
ジギがウンウンと頷いて、睨み合いながらビールを飲む二人の肩に腕を乗せた。
「だが俺も忘れてもらっちゃ困るぜ。クインみたいに重くて身の程知らずなのとは違うが、ギッテの気持ちは分かる。俺たちにとっては大事な姫さまだもんなあ?」
ビルギッテはちょっと迷惑そうに眉を寄せ、無言でカップに口を付けた。
「…とにかく、ニナとルキウス・アストルが親密にしていることを広めてくれ。ギエリの情報も欲しい。現城主のルノーは完全にルキウス・アストル側の人間だ。お前たちに公的な越境の権限を与えるよう渡りはつけてある。情報は直接俺かニナに届けろ」
クインは酒場の喧噪の中で声をひそめた。
「――あんた、誰にも言ってなかったのね。ジギのやつはもう知ってるのかと思ってた」
ビルギッテがクインに言ったのは、月明かりの差す暗いベッドの上だ。
ついさっきまで互いに行き場のない苛立ちをぶつけ合うように身体を重ねていたのに、それがまるで無かったことのように、今は互いに呼吸の乱れもなく冷然としている。
クインとビルギッテの関係は、十代の頃からいつもこうだ。たまに互いの利害が一致して動物的な欲求を満たすだけ満たしたら、あとはただの白々とした腐れ縁の仲に戻る。
いつの間にか騒音が響いていた階下の酒場からは話し声が聞こえなくなっているから、皆帰ったか、或いは酔い潰れてお開きになったのだろう。
「何を」
クインは精悍な裸体を起こしてベッドに腰掛け、一時間ほど前に脱ぎ捨てたシャツを拾って頭から被った。
「あたしが、ニナさまにずっと恋してること」
ビルギッテは素肌を毛布に包みながらサイドテーブルに置かれた陶のパイプに手を伸ばし、手燭の火を煙草の葉に移して、細い煙を燻らせた。
「他人に喋るほどお前のことに関心がない」
「何よ。ニナさまのことは、あんただってあたしと同じじゃないのよ」
「てめぇと一緒にするな」
「ああ。そうね、あんたとは違うかも」
ビルギッテは鋭い声で言った。
「あたしはニナさまがエマンシュナの王太子と仲良くやってるって聞いて嬉しいもの」
「はぁ?」
クインはついさっきまで自分の身体の下で肉体的な快楽に喘いでいた女に、冷ややかな視線を向けた。ビルギッテの暗い色の目は、クインを見てはいない。
「あたしは、嬉しいよ。ニナさまがやっと隣に立てる人を手に入れたなら。今回のことで思い知ったのよ、あたしたちみんな。今までずっとあたしたちがニナさまを守ってるつもりだったけど、とんでもない思い上がりだったわ。いつだってニナさまがあたしたちを守ってる。慕われれば慕われるほど、ニナさまはそういう人たちを守ろうとする。きっと、王家の名を与えられた時から、ずっとそうだったのよ。そんなの、誰が一緒にいたって、ひとりぼっちと変わらないじゃない」
ビルギッテはパイプを吸って煙を吐き出し、肩を竦めて見せた。
「でも今、ニナさまは自分が守るのと同じくらい守ってくれる人を見つけたのよ。でしょ?アミラ王直属のベルンシュタインを一緒に使うなんて、相当信頼してる証拠だわ。だから、嬉しいの。ニナさまが一人じゃないのが」
「おめでたいやつだ」
クインはそれだけ言うと、ズボンを履いてブーツの紐を結び、立ち上がった。これ以上この話を続ける気はない。
「ギッテ。お前はギエリに行け」
「ニナさまのためなら、喜んで」
ビルギッテは犬歯を見せてニッコリ笑った。
「何をしたらいい?」
「イゾルフ王太子とミリセント王妃の安否を確認して、手遅れなら戻って報告しろ。無事ならそばで守れ。目立たないように。それから――」
と、クインは忌々しげに唇を歪めた。
「イェルクを探れ」
「何よ、イェルクが王太子殿下の護衛役でしょ。あんた兄貴と喧嘩でもしてるわけ?」
「あいつは信用できない」
「ふぅん」
ビルギッテが興味なさそうに言った。
クインが彼女を信頼している理由は、どんな環境下でも周りに溶け込んで情報を得られるというだけではない。こういう他人への興味の薄さだ。無益な詮索はせず、余計な情報に踊らされることがない。
そして最も大きな理由は、ある一事において、絶対的に自分と同じ感性を持ち合わせていることだ。
「だがお前は、死んでもニナを裏切らない」
「当然よ」
ビルギッテは誇らしげに笑った。
王太子が捕虜にした敵の女公を伴い、王都へ帰ることが決まったためだ。
民衆はアミラとの戦が事実上の勝利で終わった後、初めて公に王太子の姿を目の当たりにすることになる。謂わば、凱旋の行軍である。
王太子に追従する者たちは相応の軍備を整えなければならず、しかもそれらは実用的というだけでは全く充分ではない。常に民衆の目を驚かせるほどの様相でなければならないのだ。
よって、当然、道中ルキウスが着る軍装は一段と堂々たるものでなければならない。そのため、所持しているうち最も格式高い三着の軍服に加えて更に三着を新調し、合わせて六着用意した。おおよそ行軍にかかるであろう日数分だ。
オルフィニナも同様だ。オルフィニナはもはや捕虜ではなく、王太子ルキウスの婚約者である。そして、二人で交わしたこの密約を、民衆はまだ知らない。
だからこそ、彼女の装いを絢爛に仕上げる必要がある。アミラの女公は王太子に尊重され、大切に扱われている女性であることを民衆に示し、二人が極めて親密な関係にあることを印象づけるためだ。
この準備に、十日を要する。
六着のドレスと三着の軍服を新調する期間としてはあまりに短いが、ルースだけでなく、貿易の要衝である隣のルドヴァン地方の仕立て屋や工房にも依頼をし、それぞれの店に莫大な金を出して大急ぎで作らせている。全ての手配りは無論、バルタザルが行っている。
寝る間も惜しんでいるのは、バルタザルだけではない。ルキウスもオルフィニナも、この準備のために多くの時間を割いている。
ルキウスは通常の政務に加えて、道中立ち寄るべき地方有力者を選んだり、場合によっては自ら筆を取って手紙を出したりせねばならず、同行する兵士たちの行軍の訓練を自ら陣頭指揮を執って行うこともあった。
オルフィニナはと言えば、ルース城内のサロンに引きこもって毎日座学に勤しんでいる。
王都へ王太子が凱旋した際に祝いに来るであろう者たちと、道中通るであろう地域の領主や有力者の名前、家格、彼らの家族の名や、ある程度の系譜、細かい地理まで頭に入れておくために、隣のルドヴァン地方から王国の歴史や地域ごとの作法などに明るい学者を講師として招き、膨大な資料と終日睨み合っているのだ。
サロンの美しい草花模様の壁に飽きると、今度は馬場に出て愛馬の背に乗り、ゆっくりと歩かせながら、分厚い本を開いて系譜を見る。元来、机に向かっているよりも外で馬を駆る方が好きな性格だ。そのせいか、室内で椅子に座るよりも馬上で本を見る方が集中できる。
そして、その傍らには分厚い本を何冊も積んだ車輪付きの木箱を紐で曳きながら歩くスリーズと、ひょろりとした白髭の学者がいる。ここ数日のルース城では、その様子がすっかり馴染みの光景となっている。
「あ、そうだ。スリーズ、あなたさえよければ、アストレンヌへ一緒についてきてくれないかな。新調したドレスはどれも一人で着るには大変だから、手伝ってくれる侍女が必要なのだけれど」
オルフィニナが思い出したように分厚い書物から顔を上げたのは、そういう昼下がりのことだ。
「はいっ!!精一杯勤めさせていただきます!!」
スリーズが元気いっぱいに涙を浮かべて返事をすると、オルフィニナは白髭の学者と顔を見合わせて笑い声を上げた。
同じ頃、クインも仕事をひとつ任されている。
(くそ忌々しい任務だ)
内心で悪態をつきながら、単騎オルデンに続く山道を駈けた。
領主が変わってしばらく経ったオルデンを視察し、女公オルフィニナならびに王太子ルキウスに現況を報告する。――というのは表向きの理由で、内実はオルデンに残っているベルンシュタインを使うためだ。
「噂の種を蒔け」
と、オルフィニナは命じた。
噂――と言っても、民衆の間でオルフィニナとルキウスにまつわる事実を声高に広めれば良い。
則ち、エマンシュナに降った女公が王太子と共に王都へ向かうこと、王太子が彼女のために豪華なドレスや装飾品を一流の職人たちに作らせていること、更にはその莫大な費用が全て王太子の私費で賄われていることなどを、オルデンに潜伏しているベルンシュタインの人間が面白おかしく民や行商人に向けて話せば、時間をかけずに噂は広まる。
しかし、一番重要なことは、クインが口にも出したくない事実だ。
「ルキウス王太子はオルフィニナ女公と良好で親密な関係を築いている」
クインはいつも通り淡々と任務をこなしていたが、このことを口に出す時だけは流石に顔が引き攣った。
「ハハァ」
酒場の喧騒の中で大きな口を左右に引き伸ばした大男は、少年時代からベルンシュタインの一員としてクインと行動を共にしてきた幼馴染のジギという男だ。オルフィニナとも、まだ彼女がアドラー姓を名乗っていた頃からの付き合いだ。オルフィニナが王家に迎えられてからは、主君として忠誠を誓い、その清廉な人柄を敬慕している。
「こいつは驚いた。お前がそんな顔をするってことは、本当なんだな」
クインは幼馴染の苔むした岩のようなヒゲ面をギロリと睨め付けた。一方でジギは、クインの不機嫌顔には慣れている。大きな灰色の目を細め、ニヤニヤと白い歯を見せた。
「面白いことになってるな。ニナさまがエマンシュナの王子とねぇ」
「何も面白くねえよ」
不愉快そうに悪態をつくクインに、ジギは自分の顔と同じくらいの大きさのマグカップを差し出した。中には、なみなみとビールが注がれている。
「いらねえ」
「そう言うな。おい、みんな!ニナさまを王子に取られちまったかわいそうなクインを一緒に慰めてくれ!」
と、ジギが雷が鳴るように豪快な声で叫ぶと、周囲からワッと酒を手にした仲間が集まってきた。
オルデンの中心部に位置するこの酒場は、オルフィニナがオルデン領主となって以来、ベルンシュタインの溜まり場になっている。
客の半分は組織の存在も知らないただの領民たちだが、小さな町だから客同士はみな顔見知りだ。
クインを女公殿下の騎士だと認識した上で、肩を組み、頭を撫で繰り回して髪をくしゃくしゃにし、背をバシバシ叩いた。小洒落た赤い帽子の常連客が店の壁に掛かっていたギターを取って弾き始めると、居合わせた客たちが切ないながらも陽気な旋律に合わせて、つれない貴婦人を想う孤独な男の歌を歌った。失恋の時に定番の流行歌だ。
「なあ、マジな話――」
ジギはギターの音と酔っ払いたちのひどい大合唱の中で、密やかにクインに耳打ちした。
「ニナさまはあの青二才に惚れてるのか?」
クインはマグカップの中のビールを飲み干した後、口を開いた。
「青二才がニナに惚れてる」
ただの執着だと思っていたが、どうやら違う。あの男は本気だ。でなければ、本来使用人に任せるべき看病を自ら進んでするはずがない。
「ニナさまの方は?」
ジギは鳶色の太い眉を吊り上げた。長年仕えている身としては、オルフィニナの心情の方が気になるのだ。
「…よくわからない」
「わからねえのかよ。お前、幼馴染で兄貴だろ?」
ジギが背を叩こうとしたのを、クインは俊敏に躱した。戯れにもこの男の怪力で叩かれては堪らない。
「多分、本人もわかってない。ただ、よほど気を許してるのは確かだ」
「ハハァ」
ジギはまたニッと口を左右に引き伸ばした。
「じゃあ、とうとう本格的に失恋だな、クイン」
「だから、どうしてそうなる。どいつもこいつも」
クインは辟易したが、ジギは気に留めず、その肩に丸太のような腕を置いた。
「まあ、俺たちのニナさまが気を許すなら、それ相応の男なんだろうよ、その青二才は」
クインは鼻で笑った。
「どうかな」
「そうさ。あの方の人物眼は確かだ。ニナさまがお認めになったってんじゃ、お前には気の毒だが俺たちも協力しないわけにいかねぇわな。なあ、ビルギッテ」
ジギはちょうど大合唱の輪から抜けてきた赤毛の女に呼びかけた。領民の女性たちと同じように髪を結い、シナモン色の木綿のドレスを着た、目鼻立ちがそこそこ整っている程度で特に目立ったところのない女だが、諜報や暗殺を専門とするベルンシュタインではそれこそ歓迎される要素と言える。
ビルギッテもまた、ジギと同じくクインとは子供時代からの腐れ縁だ。
「そうね」
ビルギッテは涼しげに微笑んで、カウンターの向こうにいる茶色い髭の店主からビールの入った大きなマグカップを二つ受け取った。そのうちの一つをクインに渡して隣の椅子に腰掛けた時には、微笑はすっかり消えている。鋭い目だ。
「でもあたしに言わせてみれば、クインなんか全然かわいそうじゃないわ。何が騎士よ。みんなのニナさまなんだから。あんただけついてくの許されて、こっちは腹立ってんのよ。幸せと思いなさいよ」
クインは暗い目でビルギッテを睨めつけた。
「てめぇに言われる筋合いねぇんだよ」
ビルギッテはチッ、と舌打ちしてガチャン!と乱暴にマグカップをクインのカップにぶつけると、ぐびぐびとビールを喉に流し込んだ。
「お前もニナさまが大好きだからなぁ。本当に恋してるのかと思うくらいになぁ」
ジギがウンウンと頷いて、睨み合いながらビールを飲む二人の肩に腕を乗せた。
「だが俺も忘れてもらっちゃ困るぜ。クインみたいに重くて身の程知らずなのとは違うが、ギッテの気持ちは分かる。俺たちにとっては大事な姫さまだもんなあ?」
ビルギッテはちょっと迷惑そうに眉を寄せ、無言でカップに口を付けた。
「…とにかく、ニナとルキウス・アストルが親密にしていることを広めてくれ。ギエリの情報も欲しい。現城主のルノーは完全にルキウス・アストル側の人間だ。お前たちに公的な越境の権限を与えるよう渡りはつけてある。情報は直接俺かニナに届けろ」
クインは酒場の喧噪の中で声をひそめた。
「――あんた、誰にも言ってなかったのね。ジギのやつはもう知ってるのかと思ってた」
ビルギッテがクインに言ったのは、月明かりの差す暗いベッドの上だ。
ついさっきまで互いに行き場のない苛立ちをぶつけ合うように身体を重ねていたのに、それがまるで無かったことのように、今は互いに呼吸の乱れもなく冷然としている。
クインとビルギッテの関係は、十代の頃からいつもこうだ。たまに互いの利害が一致して動物的な欲求を満たすだけ満たしたら、あとはただの白々とした腐れ縁の仲に戻る。
いつの間にか騒音が響いていた階下の酒場からは話し声が聞こえなくなっているから、皆帰ったか、或いは酔い潰れてお開きになったのだろう。
「何を」
クインは精悍な裸体を起こしてベッドに腰掛け、一時間ほど前に脱ぎ捨てたシャツを拾って頭から被った。
「あたしが、ニナさまにずっと恋してること」
ビルギッテは素肌を毛布に包みながらサイドテーブルに置かれた陶のパイプに手を伸ばし、手燭の火を煙草の葉に移して、細い煙を燻らせた。
「他人に喋るほどお前のことに関心がない」
「何よ。ニナさまのことは、あんただってあたしと同じじゃないのよ」
「てめぇと一緒にするな」
「ああ。そうね、あんたとは違うかも」
ビルギッテは鋭い声で言った。
「あたしはニナさまがエマンシュナの王太子と仲良くやってるって聞いて嬉しいもの」
「はぁ?」
クインはついさっきまで自分の身体の下で肉体的な快楽に喘いでいた女に、冷ややかな視線を向けた。ビルギッテの暗い色の目は、クインを見てはいない。
「あたしは、嬉しいよ。ニナさまがやっと隣に立てる人を手に入れたなら。今回のことで思い知ったのよ、あたしたちみんな。今までずっとあたしたちがニナさまを守ってるつもりだったけど、とんでもない思い上がりだったわ。いつだってニナさまがあたしたちを守ってる。慕われれば慕われるほど、ニナさまはそういう人たちを守ろうとする。きっと、王家の名を与えられた時から、ずっとそうだったのよ。そんなの、誰が一緒にいたって、ひとりぼっちと変わらないじゃない」
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「でも今、ニナさまは自分が守るのと同じくらい守ってくれる人を見つけたのよ。でしょ?アミラ王直属のベルンシュタインを一緒に使うなんて、相当信頼してる証拠だわ。だから、嬉しいの。ニナさまが一人じゃないのが」
「おめでたいやつだ」
クインはそれだけ言うと、ズボンを履いてブーツの紐を結び、立ち上がった。これ以上この話を続ける気はない。
「ギッテ。お前はギエリに行け」
「ニナさまのためなら、喜んで」
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「何をしたらいい?」
「イゾルフ王太子とミリセント王妃の安否を確認して、手遅れなら戻って報告しろ。無事ならそばで守れ。目立たないように。それから――」
と、クインは忌々しげに唇を歪めた。
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「何よ、イェルクが王太子殿下の護衛役でしょ。あんた兄貴と喧嘩でもしてるわけ?」
「あいつは信用できない」
「ふぅん」
ビルギッテが興味なさそうに言った。
クインが彼女を信頼している理由は、どんな環境下でも周りに溶け込んで情報を得られるというだけではない。こういう他人への興味の薄さだ。無益な詮索はせず、余計な情報に踊らされることがない。
そして最も大きな理由は、ある一事において、絶対的に自分と同じ感性を持ち合わせていることだ。
「だがお前は、死んでもニナを裏切らない」
「当然よ」
ビルギッテは誇らしげに笑った。
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