レーヌ・ルーヴと密約の王冠

若島まつ

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47 凱旋の宴 - la louve et le lion -

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 王太子が帰還したアストレンヌでは、昼から宴が開かれた。オルフィニナの装いは、ルースを発つ前に誂えたドレスのうち、最も仕立ての巧緻なものだ。
 白を基調とした絹と木綿の生地で仕立てたドレスで、高めのウエストラインから軽やかな襞が美しく流れるように広がり、スカートの裾には、足元に広がる花畑のようにヤグルマギクやギンバイカなどの花が淡い色調で縫い取られて、袖は贅沢にも緻密な花模様のレースで作られ、オルフィニナの細い腕に沿うように作られている。
 スリーズがレグルス城の女中たちと一緒にオルフィニナの髪を結い終わった頃、続き部屋の扉からルキウスが顔を出した。互いの寝室が部屋の奥にある扉で繋がっているから、ルキウスはまるで窓を開けるくらいの気軽さで、こうしてオルフィニナの部屋にちょくちょく現れる。最初は咎めていたものの、一日のうちに何度も繰り返されるので逐一小言を言うのも馬鹿馬鹿しくなり、もう諦めてしまった。
 正装のルキウスが戸口に立つと、スリーズがピッと背筋を伸ばし、他の女中たちを伴ってサアッとその場を去った。ルキウスがオルフィニナの元に現れると、決まってとても慎ましやかとはいえない口付けが始まり、「何を見ている」と言わんばかりにルキウスが視線で追い出そうとしてくるからだ。初めこそ顔を真っ赤にして狼狽えていたスリーズも、その頻度の多さにすっかり慣れてしまった。
 今もそうだ。ルキウスは鏡の前に立つオルフィニナの腰を抱いて頬にキスをし、唇を触れ合わせようとした。
 が、この時ばかりはオルフィニナはルキウスの口をグイと手のひらで押さえ、拒んだ。
「化粧が落ちる」
 ルキウスはむっつりと唇を結び、無言でオルフィニナをまじまじと見つめている。居心地の悪さに、オルフィニナは堪らなくなった。
「なに?」
「きれいだ」
「そ――」
 不意打ちだ。てっきりキスを拒んだことに対して文句を言われると思っていた。
「そうか」
 顔が熱い。
「あなたも、素敵だ」
 ルキウスは、雪のように真っ白なシャツに金の飾緒が付いた銀灰色の上衣を着、脚の長さが際立つ細身のズボンと獅子の紋章が装飾された黒い革のブーツを履いて、その男振りを上げている。
「知ってる。でも君の方がずっと…」
 ルキウスの柔らかい髪が首をくすぐり、広く開いた襟から覗く肩に唇が触れた。ルキウスがはぁ、と溜め息をついた。
「…このまま君を閉じ込めておきたい。君を不埒な目で見る奴がたくさんいると思うと、むかつくな」
「あなたが最たるものだろう」
「俺はいいだろ。夫なんだから」
 不満そうに言いながら、ルキウスの口元は笑っている。
「まだ違う」
 オルフィニナは性懲りも無く頬に触れようとしたルキウスの唇を手のひらで覆い隠し、その頭を後ろへ押し戻した。不満そうに目を細めたルキウスをおかしく思って手を離したとき、後ろに撫でつけていた髪が乱れ、鈍い金色の髪がはらりと落ち、孔雀色の目を隠した。
 ルキウスは、この時のオルフィニナの挙動を微動だにせず目に焼き付けた。オルフィニナが爪先で立ち、たった今キスを拒んだばかりの男の髪に触れ、整えている。
 髪を直すだけ直して手を引っ込めようとしたオルフィニナの手を、ルキウスは掴んだ。ほとんど条件反射だ。
「君、ずるいよな。突き放すようなことを言って、そうやって自分から近づいてくる。俺をどうしたいんだ」
 オルフィニナは目を丸くして、珍しく困惑をその顔に表した。
「髪を直しただけだよ」
「それでも、俺には耐え難い。それくらい君が可愛くて仕方ないんだ」
 重なってくる唇を、オルフィニナは今度は拒まなかった。唇が優しく触れ合い、すぐに離れた。ルキウスの視線は、どこか憂鬱そうだ。
「君の髪を解く役目は、俺にくれ」
 あまりに真剣な声色だ。オルフィニナはおかしくなって笑い声を上げた。
「お遊びはそれくらいにして、ほら」
 オルフィニナはルキウスに右手を差し出した。親指に、狼の指輪が輝いている。
 ルキウスはその手を取ると、甲にキスをし、指環にもキスをした。
俺の女王陛下マジェステ・マ・レーヌ
 誘惑するようにルキウスが見上げてくる。オルフィニナは急に襲ってくる胸の閉塞感を無視し、鷹揚に笑んだ。
「ヴァレル・アストル大公がどんな顔をしているか、見てやろうじゃないか。王太子どの」
 ふ、とルキウスが愉しそうに笑い、オルフィニナの唇にもう一度羽が触れるようなキスをした。
「君のそう言うところ、好きだ」
 オルフィニナは顔が熱くなるのを堪えるように唇を結び、ルキウスの唇についた紅を指で拭ってやった。

 アミラから狼の女公がアストレンヌにやって来た。――という一報は、センセーショナルな物事に目がないアストレンヌの諸侯の好奇心を大いに刺激した。
 それも、ルドヴァンからの道中でルキウスが女公をあちこちの集まりに同伴し、婚約者として紹介して回り、更にはオルフィニナ自身がその見識の深さと才覚、そしてその美貌を知らしめたことで、今やギエリを陥落させた英雄ヴァレル・アストル大公の王都凱旋よりも大きな話題となっている。
「出鼻を挫かれた大公が女公殿下を潰そうと躍起になっていますよ」
 主人達に先立って大広間の後方に控えるバルタザルがクインに小さく耳打ちした。
「‘女王’だ」
 クインが言った。今夜、この場で、オルフィニナは自身がアミラ王であることを、そしてルキウスとオルフィニナが正式な婚約を交わしていることを臣下たちの前で宣言する手筈になっている。
「はっ。そうですよね。オルフィニナ女王陛下サ・マジェステ・ラ・レーヌ・オルフィニナオルフィニナ女王陛下サ・マジェステ・ラ・レーヌ・オルフィニナ…」
 スリーズは呪文を唱えるように繰り返し呟いて公的な呼び名を練習した。
「あなたも堂々としてください。女王陛下の侍女なのですよ」
 バルタザルが穏やかに言うと、素直なスリーズは顔を赤くしてシャキッと背筋を伸ばした。
 今夜は、側近達も正装だ。金銀の飾緒を胸に飾り、クインは黒、バルタザルはエマンシュナ伝統の深緋色の軍装で、腰に騎士の剣を差している。彼らの圧に負けないようにと思って、オルフィニナが一緒に選んでくれたコバルトブルーのドレスを着てきたが、気合いを入れて普段使わないコルセットをきつく締め上げてしまったために、ひどく息苦しい。だんだん緊張が激しくなり、胃も痛くなってきた。
「うう…お二人ともさすがに場慣れしていらっしゃいますね。わたし、ものすごく緊張しています。間違えないようにしないと…。オルフィニナ女王陛下サ・マジェステ・ラ・レーヌ・オルフィニナオルフィニナ女王陛下サ・マジェステ・ラ・レーヌ・オルフィニナ…」
 クインは胃のあたりをさすりながら呪文を繰り返すスリーズの姿がおかしくて、ニヤリと唇を吊り上げた。
「ああ、ほら」
 バルタザルが大広間の大きく開かれた扉を視線で示した。
「‘英雄’ヴァレル・アストル大公のお出ましですよ」
 深い緋色の軍服に多くの勲章を飾り、後方には四人の屈強な騎士を従えている。歩き方からして、いかにもこの場が自分のために設けられたと主張しているようだ。が、クインが注目したのは別のことだ。
「髪が黒い」
 それも、漆黒。――クインの知る黒髪のエマンシュナ人は、他にルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールただ一人だ。
「ルミエッタ王妃から続くイノイルの王家の血が強く出ているんでしょう。それを誇りに思ってもいらっしゃる」
 バルタザルの言葉には、どことなく批判的な含みがある。エマンシュナ人であるならば、いくらその血を引いていようと、イノイルの王家の血よりもアストル家の血を誇るべきだと思っているのだろう。主君に骨の髄まで忠実な男だ。
 クインはヴァレルの堂々たる姿を遠くから観察した。
「確かにそのようだ」
 そうでなければ軍人らしく髪を短く切り揃えているだろう。ヴァレル・アストルは波打つ黒髪を肩より長く伸ばし、アストル家の旗標と同じ緋色の紐でひとつに束ね、誇らしげに靡かせている。
「威風堂々としたお姿、格好良いです。さすがは王太子殿下の宿敵ですね」
 スリーズが目を輝かせて言った。
「呑気だな」
「でもどっちかというと、ルミエッタ王妃よりもオーレン王を意識してらっしゃる感じがします」
 無邪気なスリーズの一言で、クインとバルタザルが密かに視線を交わし合った。
 この娘の感覚は鋭い。
 オーレン王は、百年以上前、エマンシュナと戦争していた時代のイノイルの国王で、ルミエッタ妃の父親だ。伝記や絵画の中のオーレン王は、ちょうど今のヴァレルのように波打つ黒髪を一つに束ねた軍人の姿で描かれる。獅子王レオネの舅であり、イノイルの英雄である一方で、主君を弑して自らが国王になった叛逆の武人でもある。
 イノイルの姫を娶り和平を成し遂げた調和の象徴と、自らの軍才でもって国王に成り上がった叛骨の象徴。――もしもヴァレル・アストルがレオネ王よりもオーレン王を崇拝しているとなれば、その精神にあるものが何であるか、想像は容易だ。
 この場を、ヴァレル・アストルは雄々しく泰然とした姿で自分のものにした。集まった人々は恭しくアミラの王都を降伏させた英雄に膝を折り、その戦功を讃えた。
(フン、英雄ね)
 クインは誇らしげに称賛の声に手を挙げて応えるヴァレルの姿を蔑んだ。
 あれはただの売国奴だ。フレデガルと同じく、戦の悲劇を私利私欲のために利用しようとしているに過ぎない。
(戦で死んだ命をなんだと思ってやがる)
 叶うなら今すぐあの首を落としてやりたいところだ。
「僕はあの方が嫌いです。あなたが彼を嫌う以上に」
 心中を見透かしたように、バルタザルが声を潜めてクインに暗く笑いかけた。
 そして、次に姿を現したものに大広間の諸侯がどよめいた。
 エデンだ。
 大きな白いオオカミが悠然と中央の床に描かれた有翼の獅子の上を闊歩している。王都周辺の諸侯がこれほど大きな白い獣を見たのは、おそらく初めてだったろう。
 それほど間を置かずに、王太子ルキウスと、その手にエスコートされる婚約者オルフィニナが現れた。
 ヴァレルとは、諸侯の反応が違う。歓声や賛美の言葉が出ないのは、彼らが二人の姿に声をなくすほど見惚れているからだ。王太子と次のアミラ王として噂されている貴婦人は、若く、目の覚めるような美男美女で、二人を包む空気までもが輝くほどの神々しさに満ちている。
 ‘神獣’エデンがオルフィニナの足元で腰を下ろすと、それを合図と受け取ったのか、次々に諸侯が挨拶のために周囲に集まった。
 ルキウスとオルフィニナは笑顔で応じ、これまでの彼らの協力と宴の出席への感謝を述べた。
 そして――
「大公」
 ルキウスが完璧な王太子の笑顔を浮かべ、ヴァレル・アストルに声をかけた。
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