レーヌ・ルーヴと密約の王冠

若島まつ

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73 戴冠前夜 - die Nacht vor der Krönung -

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 ルキウスに報がもたらされたのは、ルースへ進軍している途上のことだった。
「五日後にアミラ女王の戴冠式が行われます」
 ルキウスはアミラ訛りの急使を近くへ招いて馬を並べさせ、副官として同行しているルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネール以外の者を後方に下がらせた。
「君の主人は誰だ」
 急使は左の手のひらをルキウスの目の前に広げ、複雑な紋様で描かれたオオカミの刺青を見せた。
 ルキウスは奇妙な気持ちになった。この刺青が何を表すかルキウスが理解していることを、彼らは知っている。
 遠く離れて言葉も交わしていないのに、この若い急使の言動の影に、オルフィニナの存在を強く感じた。
「あなたは信用できると、クインが言っていました。ギエリ城内に潜伏している仲間が、これを」
 急使はそう言って、紙片をベストの内側から取り出した。
 ルキウスはそれを受け取ってサッと目を通すと、こめかみに青筋を立ててアルヴィーゼの手にそれを押し付けた。
「あの男の目的がわかったな」
 アルヴィーゼが冷笑し、紙片を破り捨てた。
 たった今散り散りに飛ばされていった紙片には、オルフィニナが見聞きしたイェルク・ゾルガの目的が記されていた。
「王の父とは。自分が王になるつもりがないだけ謙虚というべきか」
 アルヴィーゼが嘲笑するように言うと、ルキウスは「違うな」と吐き捨てた。
「あれは特殊部隊の暗殺者を何人も育ててきた男だ。王弟も操られた。自分の子を侵略者として育てることなんか、簡単だろうな。折良くオルフィニナとの子ができれば俺のたねだと言ってエマンシュナの継承権を主張することもできる。あれがオルフィニナとアミラを手に入れたら、次は俺たちの王国を侵攻し始めるだろう。だけど、俺はオルフィニナとその子に危害を与えることはできない。あいつはそれを分かってる」
 最後の夜にオルフィニナが避妊薬を飲まずに身を任せてきた理由が、ルキウスには分かった気がした。それも戦略の一つだったのだ。妊娠の兆候があるかがわかるまでは、それを理由にイェルクとの行為を拒むことができる。
 そして、妊娠が確実となれば、確実に堕胎させられるだろう。自分の子を身籠もらせるためだけに。――危険な賭けだ。
(許すかよ)
 全身の血が燃えるようだ。怒りと焦燥で、今にも発狂しそうだった。今すぐに馬を駆ってギエリ城へ猛進し、身ひとつで彼女を取り戻したい。が、そういう衝動が起きそうになるたびに、耳の奥に残るせせらぎのような声が「あなたを信じている」と、囁いてくる。
 この信頼に応えられる男でなければ、国王はおろか、女王の夫など務まるはずがない。
「ニナは黙ってやられる女じゃない。必ず戴冠式で動く」
「ならさっさと片付けて領地に帰らせてくれ。子を産んだばかりなのにすぐに仕事をしたがる妻を制止できるのは俺しかいないからな」
「そうだな。さっさと終わらせよう」
 ルキウスは再従兄はとこに向かって唇を吊り上げ、馬の腹を蹴った。

 戴冠式の前日、ギエリ城は続々と到着する賓客の対応でにわかに慌ただしくなった。
 人が集まれば集まるほど、城の守りは脆くなる。それを承知の上でイェルクが急ごしらえの戴冠式をできる限り大規模なものにしようとしたのは、新たな女王の威厳を示し、その後ろではイェルク・ゾルガ将軍が更に大きな権力を握っていると強く印象付けるためだ。
 戴冠式で新王に冠を被せる役目は、伝統に則れば先王の妻である母后ミリセントのものであるはずだが、イェルクの計画は違う。ミリセントからイェルクが王冠を受け取り、それをオルフィニナに被せることで、自らの権力が国王を凌ぐことを示すつもりなのだ。

 イェルク・ゾルガにとってこれほど血の滾るような夜はなかった。
 幼い頃から、父親として慕っていたルッツ・アドラーがこの国において異質な存在であることはわかっていた。
 王の目であり耳であるはずのベルンシュタインの長が、表向きには何の爵位も与えられず、ただの側近として認知されていることは、イェルクにはひどく不条理に思えた。
 自身の出生の秘密を知ってからは、王国を憎悪した。
 かつて古代帝国の皇帝であった一族の純血を守るべく、近親相姦を繰り返して無能な王を生み出し続けた血族など、滅んで然るべきだと思った。
 しかし、オルフィニナは無能なドレクセンなどではない。王族と呼ぶにはドレクセンの血が薄すぎ、慈愛が深すぎる。そして、イェルクが育てた戦士でもある。
 フレデガルを殺したのはほとんど衝動だったが、過ぎてみれば、あれは運命の仕業だと思えた。運命が、自分にそうさせたのだ。
 イェルクはひとり衣裳部屋に立って戴冠式のために用意したドレスを眺め、眩いものを見るように目を細めた。
 白絹の布地に無数の星の紋様が光沢のある糸で織り出され、胸にはアミラの神獣であるオオカミが銀の糸で縫い取られているトレーンの長いドレスで、かつてミリセントが王妃として戴冠する時に身につけていたものだ。
 今、このドレスに相応しい女は、オルフィニナ以外にはいない。

 ビルギッテは何日も前から食事を拒絶し、見るからに病的なほど痩せていた。人質を「死なせるな」という厳命を受けていた兵たちは、部屋で倒れているビルギッテを見つけるなり度を失い、動かなくなった身体を運び出そうと扉を開けた。
 この瞬間、ビルギッテは跳び上がった。
 その弱々しい姿からは信じがたいほどの力で兵を床に倒し、すかさず剣を抜いたもう一人の兵は、いつの間にか背後に立っていたクインに急所を突かれ、昏倒した。
 二人は兵士の服を奪い、彼らをそれぞれの部屋に運び込んで毛布を被せ、部屋を抜け出した。

 オルフィニナの湯浴みには、必ずスヴァンヒルドが付き添っている。この数日、オルフィニナはあらゆる方法でスヴァンヒルドとの信頼関係を築こうとしたが、スヴァンヒルドはオルフィニナに対して一言も声を発することなく、茶を給仕したりドレスの着付けを手伝うのみだった。
(無理もない)
 今も、黙したまま木綿の浴布を手に持ち、オルフィニナが陶の浴槽から出てくるのを直立して待っている。
 しかし、この夜は違うことが起きた。
「旦那さまに、女王陛下に妊娠の兆候がないと報告しました」
 初めてこの女の声を聞いた気がした。表情は冷たいままだが、声は明らかに動揺している。
「今夜、わたしの寝室へ来るのか」
「はい」
 五日前に月のものが始まり、今はまだ微量の出血がある。これを拒む理由にすることはできるが、果たしてイェルクが引き下がるかはわからない。
「馬にでもなった気分だな」
 ここのところイェルクは、オルフィニナに対して過剰なほど紳士的だった。食事の誘いも、庭園の散歩も、まるで本物の恋人に接するように振る舞ってくる。かと思えば、昔のように稽古を付けると言い、オルフィニナを鍛錬場に誘って木刀を握らせ、兵たちの前でじゃれ合うように試合をすることもあった。
 こうしてオルフィニナの警戒心を解き、臣下たちには二人の関係が一方的なものではなく、女王が心を許していると見せつけようとしていたのだ。

 夜半、寝室の扉が開いてイェルクが現れた時、オルフィニナは書き物机に向かっていた。
「どうかな」
 とオルフィニナがイェルクに見せたのは、戴冠式で宣言する女王としての宣誓の言葉だ。「宰相イェルク・ゾルガ将軍と共にこの国の柱になることを誓う」と、記されている。
「その言葉に嘘がなければいいのだが」
 イェルクはオルフィニナの肩に腕を回し、額にキスをした。
 唇が、ゾッとするほど冷たかった。
「お前がわたしに敬意を払う限りは、偽りはない」
「そうか」
 イェルクが細めた目の奥で、冷たい光が踊っている。イェルクはオルフィニナの手を掴んで立ち上がらせると、恋人のような仕草で手の甲に唇をつけ、目を覗き込んできた。
「そう言うからには、わたしの敬意は認めてくれたのだろう?ニナ」
 イェルクの手が頬に触れ、腕が腰に回ってくる。まるで毒蛇に絡みつかれている気分だ。
「……生憎今夜は日が悪い」
「いや、ニナ。月の障りの間も妊娠する可能性はある」
 オルフィニナが不気味に感じたのは、これから一夜を共にしようという女を見つめているはずの目が、何の情欲も映していないことだ。
 オルフィニナが知っている目は、違う。理性を捨ててしまいたくなるほどの熱を帯びて、全力で愛を乞い、お前のすべてが欲しいと叫ぶような、緑色の炎が燃える目だ。
 イェルクの冷たい唇が重なってくる。オルフィニナは身体を押しのけたい衝動に耐え、無遠慮に入り込んでくる舌を受け入れた。
(これも違う…)
 オルフィニナは身体中の血が冷えていくのを感じながら、心の奥底でルキウスを思い出していた。最後に肌を重ねた夜の、あの熱が、今は泣きそうなほど恋しい。
 寝衣の裾の下に這いだしたイェルクの手を、オルフィニナは強く掴んだ。
「日が悪いと言った。出血のある間は感染症の危険がある。最悪不妊になるかもしれない。だから同意できない」
「ふむ」
 と、イェルクは身体を離し、思案するように顎に触れた。
「そうだな。大切な身体だ」
 オルフィニナは内心で安堵したが、考えが甘かった。
「湯殿でしよう。清潔にすればいい」
「それでは不十分だ」
「いいや、違うだろう。ニナ」
 イェルクが低い声で言った。
「お前がわたしを拒むのは、ルキウス・アストルに心底惚れているからだ」
 オルフィニナの背筋に冷たいものが流れた。心の中の大切な場所に、無遠慮に踏み入られたような気がする。
「……違う」
「信用できるとでも?」
「ではどうすれば信用する?わたしは戴冠式が終わればお前を女王の半身としてそばに置くことを約束した。だが肝心のお前がわたしを信じないのなら、これ以上の交渉は無意味だ」
 イェルクの目が剣呑に光る。オルフィニナは、目を逸らすことなく見つめ返した。
「――指環をわたしにくれ」
 由々しきことだ。
 国王の即位に必要な指環を僣越にも臣下が所望するなど、本来であれば厳罰に値する。が、国王よりも権力を持とうとしているイェルクにとっては、当然の理屈だった。
 仲間と家族の安全を守るためには、オルフィニナはこれを拒絶できない。
「強欲だな」
 オルフィニナは親指から指環を外し、イェルクに差し出した。
「知っていただろう。だが、これは担保のようなものだ。戴冠式でわたしがお前に王冠を被せ、指環も嵌めてやる。そしてその後、お前を抱く」
 イェルクの目が満足そうに細まった。
「わたしたちはひとつだ」
 もう一度イェルクの唇が近付いてきたとき、寝室の扉が激しく叩かれ、兵士の声が響いた。
「クイン・アドラーと女が逃げました!」
 イェルクはゆっくりとオルフィニナから離れ、氷のように冷たい目をした。
「……知っていたのか」
「まさか。接触できなかったのを知っているだろう」
 初めてイェルクの目に怒りの色が滲んだ。オルフィニナが感じたのは、安堵よりも寧ろ、高揚だ。
「クインは鶏の骨一本あれば鍵など簡単に開けてしまうぞ。骨付きの肉は出すなと命じなかったのか?」
 イェルクはイライラと舌を打った。
「ここから出るな」
 そう言って、イェルクは寝室を出た。
 ベルンシュタインは王の目であり、耳であり、手足でもある。
(そして手足は必ず王のもとに還る)
 オルフィニナは窓の外の暗闇に笑いかけた。
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