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第4章

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 車に乗ってから20分で到着した桑原幸人の家は、ぼくの想像をはるかに超えていた。ドラマや映画で見るような大豪邸なんて、結局どこかフィクションであり、現実なものと受け入れられなかったのだけれど、これまで生きてきたぼくの21年という歳月はあまりにも狭い世界の話だった。

「びびったでしょ」と川嶋は言った。

「はい。こんな家、見たことありませんよ」とぼくはごくりと唾を飲み込んだ。

「この辺は大きな家ばかりよ。物珍しいなら後で見て回ってくれば? でもその中でも先生の家は一番かもね。なんたって敷地面積が2000坪あるんだから」

 2000坪といわれても、ぼくにはどのくらい広いのかよく理解できなかった。

 家の外観は、成功者ということを全面にアピールするかのような、洋風の作りをしていた。さらに音楽家、もしくは文化人としての威厳のようなものも感じさせた。それは、家の周りに白い木々がそそり立っていたからかもしれない。川嶋がその木を白樺と教えてくれた。

 門の両隣には高そうな石を積み上げて作り上げた門柱があり、ツタが絡み合った頑丈そうな扉が構えられていた。白樺の木々と一緒に豪邸を見ると、この家が神秘的に思えた。この一帯の空気すら高級なものに感じてしまう。ぼくの実家だって田舎にあるだけあり、決して小さいわけではなかった。ぼくの部屋はあったし、ドラムの練習部屋も両親の部屋もあった。広さに不自由を感じたことなんてない。だけど、桑原幸人の豪邸を前にしたら、実家なんて犬小屋だった。

 急に母親の言葉を思い出した。

 母親はぼくに華がないと言った。確かにそうなのかもしれない。だからオーディションにも落ちまくったのだろう。ぼくは例え自分がプロのドラマーになれたとしても、こんな家に住めるようにはなれないだろうし、豪邸に住むのに似つかわしいオーラを持てる人間になれる気もしなかった。

 一方、桑原幸人は華をものすごく感じる人間だった。強い電力を持っていると言えばいいのだろうか。話しているだけで、明るく照らされている気がした。

 実家の両親はもう起きているだろう。リビングに置かれたぼくのからの置き手紙を読んで何を思っただろうか。ぼくのことをダメな息子だと思っただろうか。それとも激怒してぼくのことを勘当しただろうか。荷物が目一杯つめこまれたキャリングケースの重さに胸が苦しくなった。

「怖じ気づいた?」

 川嶋がぼくを心配そうに見つめていた。

「いえ」とぼくは首を振って精一杯強がってみせた。

「嘘つけ。でもね、あんたの気持ち分かるわ。あたしもさ、最初ここに来たときはやっていけんのかしらって思ったものね。住む世界がちがいすぎるんだもの。でも人間ってすごいものでね、すぐに慣れるわ。ほら、行くわよ」と川嶋はぼくの背中を叩いた。

 門の扉を開け、石畳を進み、玄関の前に立った。

 玄関のドアは、3メートルはありそうだった。ぼくにはそれは目の前に立ちはだかるぶ厚い壁に思えてならなかった。

 川嶋は慣れた手つきでドアを開けると、「入りな」と言ってさっさと中に入っていった。

 家の中に入るとフワっと上品な花の香りに包まれた。玄関のすぐ脇の駄箱にきれいな花が飾られていた。なんという花なのか、ぼくには分からない。

「先生がリビングで待ってるから」

 ぼくはそこで立ち止まって足下を見回した。靴を脱ぐ場所がなかった。驚いたことに、あの門から伸びた石畳がずっと家の中にまで続いていて、靴を脱がないスタイルの家だったのだ。

 靴のまま川嶋の後ろを付いていき、ビクビクしながら短い廊下を歩いた。1枚の、これまた大きなドアの間に着くと彼女は、「ここよ」と言ってドアを開けた。開け放たれたドアの向こうにはホテルのロビーのようなリビングが広がっていた。

「ただいま戻りました」

 川嶋は深々とお辞儀をした。その声と態度にはさっきまでのがさつがなく、高い教育と訓練を施された一流のメイドの雰囲気が漂っていた。

 川嶋は振り返ると、「鷹取様、どうぞお入りください」とぼくを招き入れた。彼女の変わり身の早さに驚きと尊敬の念を覚えつつ、リビングに足を踏み入れた。

 リビングの中央にある高級そうなソファに桑原幸人が腰を下ろしていた。口には葉巻がくわえられていた。その姿はまるで映画のワンシーンを演じる俳優のように優雅だった。

「やぁ、鷹取君。ついにこの日が来たね。遠いところまでやってきてくれてありがとう」

 桑原幸人は立ち上がると、まるでぼくをきつく抱きしめるかのように両腕を広げた。

 ぼくは桑原幸人の正面に立つと一礼した。「今日からよろしくお願いします」

「そんなに固くなる必要はないよ。一緒に暮らすんだ。肩の力を抜いて楽しくいこうじゃないか。まぁ、座りなさい。疲れただろう」

 桑原幸人は川嶋に何か冷たい物を持ってくるように指示すると、ソファに腰を下ろした。ぼくは桑原幸人の正面に、失礼します、と断ってから座った。

「N市は初めてだっけ?」

「はい。初めてです」

「印象はどう?」

「住む世界が違うって感じがします。ここにいる人たちも空気も何もかも。先生の家も大きすぎてびっくりしました」

 川嶋が桑原幸人を先生と呼ぶのが早くも移ってしまったらしい。でも桑原幸人は何も気にならなかったようで、そのまま話は続いた。

「この街は過ごしやすいところではあるけれど所詮は田舎だよ。何かと不自由に思うかもしれない」

「とんでもありません。ぼくが住んでいた町のほうが田舎です。駅にはジャージ姿の学生とおじいちゃんおばあちゃんしかいないし、駅前には軽トラと原チャリくらいしか走ってません。外国のスポーツカーなんて走ってたら町中大騒ぎです」

 そこで川嶋が飲み物を運んできた。

 持ってきたものはビールだった。キンキンに冷やされて氷がうっすら張ったピルスナーに注がれたそれはとても美味しそうに見えた。昼間から飲んでいいものかと思ったけれど、桑原幸人が手に取ったのでぼくも受け取って乾杯した。

「免許は持っているんだよね?」

 ぼくはビールをごくりと一口飲んでから、「はい」と答えた。

 とても美味しいビールだった。実家で父親が飲んでいた缶の発泡酒とはわけが違う。このビールもきっと高いビールなのだろう。

「ならあの車は私が使っていないときは自由に乗ってくれて構わないよ」

「そんな!」とぼくは驚いて声をあげた。「あんな高級車をどこかにぶつけでもしたら弁償できません。ぼくの実家の車は軽自動車だったんですよ。大きさも違うし、そもそもハンドルの位置も違うじゃないですか」

「そんなもの慣れるよ。それに、あの車に乗っていたほうが街の女の子たちをナンパしやすいんじゃないのかな」

「ナっ、ナンパですか?」

 予想外の言葉にぼくはどもってしまう。それに、ナンパなんてぼくは人生で一度もしたことがない。

「おや、そっち方面は奥手なのかい? なかなかの男前だからガンガン遊んでいるのかと思ったよ」と桑原幸人は豪快に笑い、一気にビールを空けた。

 ぼくは恥ずかしくなって顔を伏せる。チラリと横に立つ川嶋を盗み見た。彼女はすました顔で立っていたが、口元がもぞもぞと動き、プルプルと体を震わせていた。明らかに笑うのをこらえている。

「車もそうだが、家の中にあるものは自由に使うといい」と言うと、桑原幸人は両手を広げた。

 ぼくは改めてリビングの中を見回した。

 壁に鹿の首の剥製や油絵が飾られていた。冬に活躍するであろう暖炉があって、その前にはチェスの台があった。あまり日本的なものはなく、家具から調度品の何から何まで外国製品で統一されているようだった。自由に使えと言われても、ぼくには手を触れてはいけないものばかりに見える。新幹線で数時間揺られて訪れただけなのに、本当に遠い世界に来てしまったのだ。

「まず何はともあれ娘二人を紹介しないといけないな。明美君。ちょっと呼んできてくれないか」

 かしこまりました、と川嶋は一礼するとリビングを出た。
 
「あの」とぼくは言った「川嶋さんはいつもここではあんな上品な感じなんですか?」

「ん? そうだけど何か問題でも?」

 桑原幸人はどうしてそんな質問をするのか分からないといった表情を浮かべた。

「いえ。なんでもありません」

 きっと桑原幸人の前では、川嶋は本性を見せていないのだろう。ますます彼女に感心してしまう。

「連れてまいりました」と川嶋がリビングに戻ってきた。

 川嶋の背後には白いワンピースを着た女の子が一人だけ立っていた。腰まで伸びた長い髪と白い肌が美しい光沢を放っている。彼女を見た瞬間、ぼくの背中には電流が走ったかのような痺れを覚えた。こんな人がいるのかと思えるほど、美人だった。

 急激に心臓の鼓動が速くなった。ぼくのような庶民が目を会わせてはいけないんじゃないか。そんな気がした。

「長女の凛です。よろしくお願いします」

 桑原凛はぼくの正面に立つと、にっこりと微笑んだ。

「あっ……えっと……今日から先生の付き人をさせていただく鷹取日春です。よろしくお願いします」とぼくは言った。

「こちらこそよろしくお願いします」

 桑原凛の正面に立つだけで恥ずかしくて、ぼくの血管は切れそうだった。

「なんだなんだ。顔が真っ赤じゃないか。まさか女の子と話をするのが初めてじゃないだろう?」と桑原幸人はからかうように言った。「ぼくの娘だ。照れることはない。妹だと思って接してやってくれ」

 そうなんこと言われても困る。こんな美人の娘とどう接すればいいというのだ。ぼくはこれまで彼女ができたこともない男なのだ。

 だけど、桑原凛はぼくに驚くようなお願いをしてきた。「私のことは呼び捨てしてください」

「えっ、名前でですか?」とぼくは言った。「そんなの無理です」

「遠慮しないでください。そのほうが親近感が湧いていいかと思います。明美さんとも名前で呼び合っています。この際、明美さんのことも名前でお呼びすればいいですわ。お父様、よろしいですよね?」

「あぁ、構わないよ。呼び方なんで自由に決めればいいさ」と桑原幸人は何が楽しいのか、ニヤニヤとしながら言った。

「なら決まりですね。私のことは凛、明美さんのことも名前で呼んでください。私も日春さんと呼ばせていただきます」

 そこまで言われたらもう何もぼくには言えなかった。分かりましたとしか言えなかった。桑原凛といい、川嶋明美といい、ここに暮らす人間は本当に壁が薄いようだ。そう思っていると、パタパタパタと軽快な足音が響いてきた。

 何かと思って顔を上げると、少女が勢いよくこっちに走りよってきていた。

「パパー!」

 女の子はそう大きな声で呼ぶと、桑原幸人に飛びついた。

「おっと、プリンセスのお出ましだ」と抱きつかれた勢いで、桑原幸人は倒れそうにながら言った。

 少女は凛と同じ服を着ていた。凛が着ている服をそのままサイズダウンさせたものだ。凛と同じく髪の毛は腰まで伸びていた。歳は小学校の高学年だろうか。目は少し釣りあがっていて、猫のような顔つきをしていた。まだまだあどけなさが抜けていない。

「妹の蘭だ」と桑原幸人は娘を床に下ろすと言った。「ほら、彼が前に話をした鷹取日春君だよ」

「こんにちは。お兄ちゃん」と蘭がとびきりの笑顔を浮かべた。

「お兄ちゃん?」

 ぼくはいきなりお兄ちゃんと呼ばれたことに驚いた。

「そう。お兄ちゃん。だってあたしのお兄ちゃんになってくれるんでしょ?」と蘭はぼくの腕に絡みついてきた。発展途上の胸をぐいぐいと押し当ててくる。

「おやおや。早速プリンセスに一目ぼれされてしまったかな」と桑原幸人は満足そうに言った。

「ねぇねぇ、もうあいさつはすんだんでしょ? ならあたしの部屋に来てよ。一緒に遊ぼう」

 そう言うと蘭はぼくの腕を引っ張ろうとする。

「わわわっ! ちょっと待ってください!」とぼくは言った。

「こら、蘭、いきなりそんなことしてはいけません。日春さんはいま来られたばかりなんですよ。遊ぶのはまた後でにしてもらいなさい」

 凛が母のような口調で蘭を叱った。

 すると蘭はむすっとした顔を浮かべ、ぼくの腕を離した。「ねぇねぇ、お兄ちゃん、耳貸して」

「なんでしょう」とぼくは耳を傾ける。

「あたしのおっぱいどうだった?」

 予期せぬ質問に急激に顔に血が上る。大量に汗が吹き出す。

「あーっ! お兄ちゃんってエッチー! 顔真っ赤にしてやんのー!」と蘭はぼくを指差す。「あははは! タコみたい!」

 ぼくがなんて答えればいいのか分からず困っているのが楽しいのか、桑原幸人は「すっかり打ち解けたようだね」とのんきに言った。

 どうもこの姉妹は正反対の性格をしているようだ。妹の蘭は明美に近い性格をしているらしい。

「蘭はね、鷹取君が来るのを楽しみにしていたんだ。お兄ちゃんができるってそれはもう大はしゃぎだったんだよ」

「お兄ちゃんができる、ですか……」

 そう言われてもぼくにはピンとこなかった。年齢的に当然ぼくは兄的な存在になるのかもしれないが、ぼくは一人っ子だし、体育会系の部活にいたわけではないので上下関係にも不慣れだ。だからどうしていいのか分からない。

「あたしのお兄ちゃんになるの嫌なの?」と蘭が悲しそうな表情を浮かべた。

「いや、そんなことはないですよ。でも、お兄ちゃんなんて、あんまり呼ばれ慣れないものなので」

「んじゃぁ、慣れてね。お兄ちゃん」

 どうも調子が狂ってしまう。ぼくは何も言わず、笑い返すしかなかった。でもほほの筋肉が引きつっているのが自分でも分かった。

「蘭、良かったわね」と凛は言うと、深々と頭を下げてから、「姉妹ともどもよろしくお願いします。では私は失礼します」と上品に微笑むと、リビングを出ていった。

 ぼくはその微笑みに、ぞくりとした感覚を覚えた。あまりにもその笑顔が可憐に思えた。とたんに胸が締めつけられる。なんて素敵な笑顔を持っている人なんだ。

 ふと、下から刺すような視線を感じた。

 蘭だった。睨みつけるような視線をぼくに送っていたのだ。かと思うとすぐに子供らしい笑顔に戻った。

「お兄ちゃん、お姉ちゃんのこと気に入ったの?」と蘭は言った。

「……えっ?」

「あははは! お兄ちゃんの顔がまたタコになった!」

 蘭はぼくを笑い飛ばすと、「じゃーねー」と言って飛行機を真似するかのように両腕を広げ、飛ぶようにリビングを出ていった。

「楽しくなりそうだろ?」と桑原幸人はぼくの肩に手を置いた。

 その問いに、ぼくは曖昧に答えた。

 姉妹二人がいなくなると、リビングが急に静かになった。

 一瞬見せた蘭の鋭い表情はなんだったのだろう。誰もあの表情には気がついてはいなかったようだ。

 ぼくは姉妹が消えていったドアをじっと眺めた。
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