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第14話:森の咆哮と初めての温もり
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昨日の昼食の一件以来、シルヴィアの態度は微妙にではあるが、確実に変化していた。薬草園の手伝いという名目で小屋の近くに来る頻度は以前と変わらないものの、アキオや子供たちと顔を合わせても、すぐに森へ帰ろうとはせず、彼らの作業や会話に静かに耳を傾けている時間が増えた。子供たちの無邪気な呼びかけにも、以前のような鋭い拒絶ではなく、困惑しつつもどこか受け入れているような雰囲気が漂っていた。
その日、アキオは薬草園に植える新しい苗を探すため、シルヴィア、そして勉強熱心なアルトを伴って、いつもより少しだけ森の奥深くへと足を踏み入れていた。春の森は生命力に満ち溢れ、様々な植物が競うように芽吹いている。
「この辺りには、強壮作用のある薬草が自生しているはずだ。だが、似たような毒草も多い。見分けには細心の注意を払え」
シルヴィアが、いつものようにぶっきらぼうながらも的確な指示を出し、アキオとアルトがそれに従う。そんな穏やかな探索が続いていた、その時だった。
ズウゥゥン……!
森のさらに奥から、地鳴りのような低い振動と共に、腹の底に響くような不気味な咆哮が轟いた。それは、アキオがこれまでに森で遭遇したどんな獣の声とも違う、圧倒的な威圧感を伴うものだった。
「な、なんだ今の音……!?」アルトが顔を青くする。
アキオも背筋に冷たいものが走るのを感じたが、それ以上に異変があったのはシルヴィアだった。彼女は咆哮が聞こえた瞬間、血の気が引いたように顔面を蒼白にさせ、わなわなと震え始めたのだ。その深緑の瞳には、かつてないほどの恐怖と絶望の色が浮かんでいる。
(まさか……あの時の……!)
シルヴィアの脳裏に、忌まわしい過去の記憶が鮮明に蘇っていた。燃える森、逃げ惑うエルフの仲間たち、そして全てを蹂躙する巨大な魔物の影――。
「う……あ……」
呼吸が浅くなり、足が地面に縫い付けられたように動かない。パニックに陥りかけたシルヴィアの細い肩を、アキオの手が力強く掴んだ。
「シルヴィアさん、しっかりしろ! 危ない、隠れるぞ!」
アキオはシルヴィアの異変の深刻さを瞬時に悟り、アルトにも手招きして近くの巨大な倒木と岩が作り出す影へと身を潜めようとした。
しかし、シルヴィアは恐怖で完全に我を失いかけていた。アキオの声も届いていないかのように、ただ小さく震えるばかり。そして、まるで最後の拠り所を求める幼子のように、すぐそばにいたアキオの胸に、ほとんど無意識にしがみついた。それは、エルフの誇りも何もかもかなぐり捨てた、本能的な行動だった。
「っ……!」
アキオは不意のことに驚いたが、シルヴィアの全身が小刻みに震えているのを感じ取り、咄嗟に彼女の華奢な背中を強く抱きしめた。
「大丈夫だ、シルヴィアさん。俺がいる。落ち着いて、深呼吸しろ」
アキオの太く逞しい腕の中で、彼の落ち着いた声と、規則正しい心臓の鼓動が、シルヴィアの耳に直接響いてくる。そして何よりも――温かい。今まで感じたことのない、人間の確かな温もり。それはまるで、凍てついた心を溶かす陽だまりのように、じんわりとシルヴィアの全身に染み渡っていく。恐怖に支配されていた心が、不思議と穏やかになっていくのを感じた。これが、人が持つ温もりなのか……。
どれほどの時間が経っただろうか。森の奥からの不気味な咆哮と地響きは、徐々に遠ざかっていった。危機は去ったようだ。アルトも、息を殺してアキオとシルヴィアの様子を心配そうに見守っていた。
「……もう、大丈夫そうだ」アキオが静かに言う。
しかし、シルヴィアはしばらくの間、アキオの胸から顔を上げることができなかった。その温もりが、あまりにも心地よくて、そしてあまりにも長い間渇望していたものだったから。長年、人間を拒絶し、孤独に生きてきた彼女の心の壁が、この温もりによって音を立てて崩れ落ちていくのを感じていた。
ようやく顔を上げたシルヴィアの瞳は、涙で潤んでいた。頬は上気し、いつもの刺々しい雰囲気はどこにもない。そこには、戸惑いと、羞恥と、そして隠しきれない甘えのような感情が入り混じった、見たこともないほど無防備なエルフの少女の顔があった。
「……あ……りが……とう……アキオ……」
か細い声で、シルヴィアは初めてアキオの名を呼んだ。
この一件以来、シルヴィアのアキオに対する態度は、劇的と言っていいほど変わった。以前のように常に一定の距離を置くのではなく、気づけばアキオのすぐそばにいることが増えた。薬草園の手伝いをする時も、アキオの隣に立ち、彼の作業を熱心に見つめたり、時には、自分からアキオの服の袖をそっと掴んで何かを尋ねたりするようになった。言葉数はまだ少ないが、その声のトーンは明らかに柔らかくなり、アキオに向ける眼差しには、以前にはなかった深い信頼と、そして本人もまだ気づいていないであろう淡い恋慕の色が宿り始めていた。
子供たちに対しても、以前のような厳しい態度は影を潜め、時折、困ったように眉を寄せながらも、彼らの無邪気な質問に答えたり、遊び相手になったりすることさえあった。
シルヴィアの急な変化に、アキオも、そしてアヤネたち子供たちも、最初は少し戸惑った。しかし、彼女がようやく心を開いてくれたこと、そして自分たちを頼ってくれるようになったことを、家族全員が心から喜んでいた。
アキオは、シルヴィアが垣間見せたトラウマの深さを思い、彼女の心を癒し、この場所が彼女にとって本当に安心できる居場所となるように、これまで以上に大切に接していこうと強く思う。
森の奥で孤独に生きてきたエルフの薬師は、五十路の職人とその家族の温もりに触れ、新たな一歩を踏み出そうとしていた。二人の関係は、そして家族の絆は、この森の奥で、静かに、しかし確実に深まっていた。
その日、アキオは薬草園に植える新しい苗を探すため、シルヴィア、そして勉強熱心なアルトを伴って、いつもより少しだけ森の奥深くへと足を踏み入れていた。春の森は生命力に満ち溢れ、様々な植物が競うように芽吹いている。
「この辺りには、強壮作用のある薬草が自生しているはずだ。だが、似たような毒草も多い。見分けには細心の注意を払え」
シルヴィアが、いつものようにぶっきらぼうながらも的確な指示を出し、アキオとアルトがそれに従う。そんな穏やかな探索が続いていた、その時だった。
ズウゥゥン……!
森のさらに奥から、地鳴りのような低い振動と共に、腹の底に響くような不気味な咆哮が轟いた。それは、アキオがこれまでに森で遭遇したどんな獣の声とも違う、圧倒的な威圧感を伴うものだった。
「な、なんだ今の音……!?」アルトが顔を青くする。
アキオも背筋に冷たいものが走るのを感じたが、それ以上に異変があったのはシルヴィアだった。彼女は咆哮が聞こえた瞬間、血の気が引いたように顔面を蒼白にさせ、わなわなと震え始めたのだ。その深緑の瞳には、かつてないほどの恐怖と絶望の色が浮かんでいる。
(まさか……あの時の……!)
シルヴィアの脳裏に、忌まわしい過去の記憶が鮮明に蘇っていた。燃える森、逃げ惑うエルフの仲間たち、そして全てを蹂躙する巨大な魔物の影――。
「う……あ……」
呼吸が浅くなり、足が地面に縫い付けられたように動かない。パニックに陥りかけたシルヴィアの細い肩を、アキオの手が力強く掴んだ。
「シルヴィアさん、しっかりしろ! 危ない、隠れるぞ!」
アキオはシルヴィアの異変の深刻さを瞬時に悟り、アルトにも手招きして近くの巨大な倒木と岩が作り出す影へと身を潜めようとした。
しかし、シルヴィアは恐怖で完全に我を失いかけていた。アキオの声も届いていないかのように、ただ小さく震えるばかり。そして、まるで最後の拠り所を求める幼子のように、すぐそばにいたアキオの胸に、ほとんど無意識にしがみついた。それは、エルフの誇りも何もかもかなぐり捨てた、本能的な行動だった。
「っ……!」
アキオは不意のことに驚いたが、シルヴィアの全身が小刻みに震えているのを感じ取り、咄嗟に彼女の華奢な背中を強く抱きしめた。
「大丈夫だ、シルヴィアさん。俺がいる。落ち着いて、深呼吸しろ」
アキオの太く逞しい腕の中で、彼の落ち着いた声と、規則正しい心臓の鼓動が、シルヴィアの耳に直接響いてくる。そして何よりも――温かい。今まで感じたことのない、人間の確かな温もり。それはまるで、凍てついた心を溶かす陽だまりのように、じんわりとシルヴィアの全身に染み渡っていく。恐怖に支配されていた心が、不思議と穏やかになっていくのを感じた。これが、人が持つ温もりなのか……。
どれほどの時間が経っただろうか。森の奥からの不気味な咆哮と地響きは、徐々に遠ざかっていった。危機は去ったようだ。アルトも、息を殺してアキオとシルヴィアの様子を心配そうに見守っていた。
「……もう、大丈夫そうだ」アキオが静かに言う。
しかし、シルヴィアはしばらくの間、アキオの胸から顔を上げることができなかった。その温もりが、あまりにも心地よくて、そしてあまりにも長い間渇望していたものだったから。長年、人間を拒絶し、孤独に生きてきた彼女の心の壁が、この温もりによって音を立てて崩れ落ちていくのを感じていた。
ようやく顔を上げたシルヴィアの瞳は、涙で潤んでいた。頬は上気し、いつもの刺々しい雰囲気はどこにもない。そこには、戸惑いと、羞恥と、そして隠しきれない甘えのような感情が入り混じった、見たこともないほど無防備なエルフの少女の顔があった。
「……あ……りが……とう……アキオ……」
か細い声で、シルヴィアは初めてアキオの名を呼んだ。
この一件以来、シルヴィアのアキオに対する態度は、劇的と言っていいほど変わった。以前のように常に一定の距離を置くのではなく、気づけばアキオのすぐそばにいることが増えた。薬草園の手伝いをする時も、アキオの隣に立ち、彼の作業を熱心に見つめたり、時には、自分からアキオの服の袖をそっと掴んで何かを尋ねたりするようになった。言葉数はまだ少ないが、その声のトーンは明らかに柔らかくなり、アキオに向ける眼差しには、以前にはなかった深い信頼と、そして本人もまだ気づいていないであろう淡い恋慕の色が宿り始めていた。
子供たちに対しても、以前のような厳しい態度は影を潜め、時折、困ったように眉を寄せながらも、彼らの無邪気な質問に答えたり、遊び相手になったりすることさえあった。
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アキオは、シルヴィアが垣間見せたトラウマの深さを思い、彼女の心を癒し、この場所が彼女にとって本当に安心できる居場所となるように、これまで以上に大切に接していこうと強く思う。
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