Exalt or Fall

伊阪証

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墜落

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人は死んだあと、自ら塔を選ぶ。

空よりも高く、地よりも深く、神塔はただそこに在る。
天国と呼ばれる階層もあれば、地獄と呼ばれる階層もあるが、
それはあくまで俗称でしかない。
神塔とは、魂が自らに必要な過程を経るための構造にすぎない。

癒されたい者には、癒しが。
苦しみたい者には、苦しみが。
もう一度考えたい者には、対話と再現が。
忘れたい者には、静寂と破棄が。

だがそれらは、望めば誰にでも与えられるわけではない。
神塔には上限と下限がある。
魂がその身に受け止められるだけの癒し、
魂がその精神で受け入れられるだけの苦しみ――
その範囲でのみ、塔は応える。

身の丈に合わない慰めは、塔に届かない。
過剰な罰は、塔が拒絶する。

ゆえに、魂は選ぶ。
自らの状態と向き合い、相応の階層を登るか、あるいは降りる。

ここは、そうした魂たちが集まる場所。
世界を滅ぼし、あるいは国を捨て、それでもなお「次こそは」と願った者たち。
彼らは天国を望まなかった。
癒しの意味を自分で定めるために、
地獄の底を選んだ。

地獄は、今も拡張され続けている。
罪と苦しみが複雑になり、分類できぬ層が増え、
誰も知らない構造が増殖する。

その深層に、王たちはいる。

彼らは罰されたのではない。
ただ、自分自身に納得できなかっただけだ。

彼らは次こそ、自分の選択と向き合えるようにと願っている。
そして今日――
その階層に、一人の少女が降りてくる。

彼女は〇〇であることを隠し、
ただの旅人として、王たちに声をかける。

「上へ行く道を、案内してほしいんです」

その目的は、王たちを引き戻すこと。
だが、彼らの意志は変わらなかった。
そして少女は仕方なく、その背に従う。

極限の世界に挑む、意味はあるか。
或いは・・・。

誰の言葉にも、もう耳を傾けなかった。言い訳でも反論でもない。言葉の応酬そのものを、彼は試練の仕組みとして理解していた。
次の問いが来る前に、机を叩いた。紙束は舞い上がり、幻影の資料は音もなく崩れた。
問われる前に、語った。責任を問われる前に、すべてを引き受けた。問答を遮り、過去の判断を、そのまま言葉に置き換えていった。
それは弁明ではなく、再現でもなかった。自分で作った罰に、自分で答えるだけだった。
幻影の椅子がひとつ、またひとつと崩れ落ちる。対話の場は形を保てず、言葉の壁が崩れていく。
問いはもう来なかった。残っていた幻影の一人が立ち上がり、彼の目を見て言う。
「これ以上、何を望む」
カーティスは立ち上がり、淡々と答えた。
「まだだ。私はまだ、終われない」
空間がきしみ、机が沈み、全体がひとつの構造物として崩壊していく。議場そのものが砕け、その先に階段が現れる。
誰も彼を止めなかった。止める必要がなかった。
これは裁きではない。誰の命令でもない。
彼が、自分の意思で課した罰だった。
だから、彼自身の足で登るしかない。
カーティスは、ただ静かに歩き出す。

階段は深く、何層も先にまで続いていた。前の層が言葉の試練だったなら、この層は肉体への罰だった。
地を這うような音。湿った風と共に、獣のような咆哮が響く。壁のない通路を埋めるように、膨れ上がった肉塊の魔物が這い出てくる。
カーティスは目を細め、懐から抜いた剣を構える。華奢な体格に不釣り合いな重厚な刃だった。
獣のような形をしていながら、どこか人の顔が混ざっている。怒りや嘆きや歪んだ言葉が断続的に漏れ、混濁した意味を撒き散らしていた。
それを黙って受け止め、切り捨てる。脚を払うと一瞬だけ崩れ、呻き声と共に肉塊が砕けていく。
背後から尾が襲いかかる。反応はすでに記憶に刻まれていた。回避ではなく、迎撃。真横から斬り込むように、剣を振るう。
肉と骨の中間のような音。裂けた体内から、黒い霧が吹き出した。苦悶も、咎も、言い訳もない。ただ消えるだけだった。
地面が戻る。扉が開く。先へ進める合図はそれだけだった。
歩き出した彼の前に、再び現れたのはあの会議室だった。今度は誰も座っていない。円卓の中央には、湯気の立つ茶が置かれている。
カーティスは剣を背に戻し、椅子を引いた。座るだけで、体の奥から疲労が浮かび上がってくる。
茶に口をつけ、目を閉じる。小さく息を吐いたあと、誰もいないはずの空間に言葉を落とした。
応答はない。それでも彼は、また立ち上がる。階段はすでに開いていた。

足音が止んだ。彼は剣をわずかに持ち替え、前方を見据える。床は虚空に浮かんでおり、壁も天井も存在しない。ただその先に、異形の影が立っていた。甲冑のように硬化した肉塊と、砕けた盾、ひしゃげた笛が貼り付けられたような形状だった。すべて彼が失った国の象徴だった。言葉はない。それでも、彼には分かっていた。この怪物は、対話を拒絶したまま暴力に走った“あの日の結末”そのものだ。

彼は歩いた。恐怖も迷いもなかった。自分で望んでこの層に降りてきた以上、これを斬らなければ上には戻れない。怪物が動いた。音もなく、ただ巨大な槍のような突起を突き出してくる。彼は避けない。受けて、切る。剣の重さに体が沈んだが、構えは崩れない。斬撃は深く、鈍く、確実だった。返すように突き上げられた尾が背後から襲う。反応は遅れなかった。彼は一歩横にずれ、そのまま胴体を断ち切った。

血は出ない。だが、内側から濁った音が漏れた。「許されない」その声は、自分自身のものだった。幻影の語りではない。過去の選択と、後悔と、それを認めたくない声。彼はその声を黙殺し、剣を肩に戻す。怪物は崩れた。倒れるでも消えるでもなく、剥がれるようにして砕けていく。

彼は息をつかず、階段を見た。すでに開いている。次がある。ここはもう、彼にとって罰ではなくなった。

階段が閉じてしばらくしてから、空中に漂っていた光が一ヶ所に集まり、丸く膨らんだ。光の輪郭がそのまま少女の姿に変わり、床にふわりと降り立つ。着地の衝撃はなく、靴の底に一粒の灰もついていなかった。
少女はすぐに辺りを見回した。どこにも人影はない。扉はすでに消えていて、気配も感じられなかった。
「・・・やっぱり、もう行っちゃってた。」
小さくため息をつき、肩から提げた袋に目を落とす。袋の口からは白い羽根が一本だけ飛び出しており、それを指でつまんで中に押し戻した。
足元には、熱の名残が微かに残っていた。少女は膝をつき、指先でそっとなぞるように触れる。感触も温度も、もうほとんど残っていない。
「追いつけるよね・・・大丈夫、大丈夫。」
彼女は自分に言い聞かせるように呟くと、立ち上がって階段の名残を見つめた。そこにはわずかに光が残り、進む者だけに開く道を示していた。少女はうなずき、もう一度息を吸ってから、その光へと一歩を踏み出した。

降下の光が途切れると、すぐに空気が変わった。足元の感触が重く、音が吸い込まれていくようだった。ディアーナは軽く足踏みをし、辺りを見回す。
「・・・ここ、さっきより冷たいかも。」
声は吸い込まれるように消えていった。すぐに背後の空間が揺れ、何かがゆっくりと起き上がる気配がした。少女は肩の袋を握り、慎重に振り返った。
「誰かいるの・・・?」
影が伸び、床の下から這い出すようにして姿を現す。細長く歪んだ手、目も口もない顔。動きはゆっくりだが、確かな敵意だけが伝わってきた。
「ちょ、ちょっと待って・・・! わたし、何もしてないのに・・・!」
叫んでも影は止まらなかった。黒い腕が地を砕くように振り下ろされ、少女の体は大きく弾かれた。細い体が転がり、床にぶつかる音が空間に響いた。
床を転がった勢いのまま、ディアーナは手をついて跳ね起きた。スカートの裾を押さえる暇もなく、乱れた髪が視界をふさぐ。
「ま、待って、無理だからほんとに無理っ!」
逃げようとした瞬間、影の腕が真横から薙ぎ払われる。咄嗟に腰をひねり、寸前で床に伏せた。肩にかすった風圧だけで体が滑る。
「ちょっ、ずるい! それ反則!」
叫びながら、転がるように通路の奥へ駆け出す。かかとの音が甲高く響き、袋の中から羽根が何枚も舞い上がった。
影は速度を緩めず追ってくる。床を這うようにして、天井からも同じ形の腕が下りてくる。
「無理! 無理って言ってるのに、聞いてよぉ!」
声は届かない。だが少女は止まらなかった。転びそうになりながら、通路の端にある柱の影に滑り込む。
息を殺し、わずかに袋を開く。中には小さな欠片と、折れた飾りが詰まっていた。
「これで当たってくれたら奇跡・・・!」
勢いよく欠片を投げつける。白い光が閃き、影の進行が一瞬だけ止まる。その隙に彼女はまた走り出す。
「ねえ、誰かいないの!? 助けてくれてもいいんだよ!?」
何度も角を曲がった。突き当たりを蹴って反転し、暗がりへ滑り込んで、それでも影はずっと追ってきた。音を立てず、姿も見えないまま、ただ真後ろだけをなぞるように。
「なんで! どうしてそんなに、しつこいのっ!」
振り返っても何も見えないのに、気配だけは消えなかった。足がもつれ、転びそうになった瞬間、肩の袋から何かがこぼれ落ちる。
「あっ・・・。」
拾おうとしたが、時間がなかった。かかとの下から闇が伸び、床の色が歪む。靴の裏を捕まれかけたが、彼女はそれを蹴って跳ね退けた。
「ずるい・・・。そんなの、ずるいよ・・・。」
息が荒くなる。呼吸が崩れて、口の中が渇く。どこを走っているのか分からなくなってきた。構造がおかしい。建物の形が変わっていく。
「ぜったい、怒ってるよね・・・。私、何したの・・・。」
声に涙が混ざり、視界が揺れる。どこまでも逃げられない。
道が消えた。目の前にあったはずの通路が、いつの間にかなくなっていた。気づいたときには、足元が空中にあった。
「うそ・・・。ちょっと、待って・・・。」
重力も音もなく、空間が反転するように少女の体を呑み込んだ。

落下の感覚だけが続いていた。重力も時間も歪み、どこまで堕ちていくのかも分からない。視界は回転し、耳鳴りが止まらない。
「・・・助け・・・て・・・。」
その声は、自分自身にさえ届かなかった。
瞬間、すべての動きが止まった。空間が静止し、宙を漂うディアーナの体を、無数の赤い糸がやさしく受け止めた。糸は血のような光沢を帯びて揺れている。
「落ちるには、まだ早いわね。」
声は上から。視界を上げると、宙に立つ女性の姿があった。長い髪は雪のように白く、身にまとう衣は深紅。笑っているようで、どこか哀しげだった。
「あなた、誰・・・?」
「エスメラルダ。地獄に落ちた王よ。失血王って、呼ばれてたわ。」
ディアーナは、目を見開いた。
「王様なのに・・・助けてくれるの?」
「王様だからよ。ここで死なれると、私も困るの。」
言葉とともに、赤い糸が少女をそっと持ち上げ、暗闇の中へ引き寄せる。冷たい空気が、ほんの少し和らいだ。
「でも、なぜ・・・。」
「初恋、って言ったら信じる?」
その微笑みは、どこか本気で、どこか冗談だった。だが、少なくとも自虐的な嘘であった。
一体、また一体。
影の群れは迷いなく襲いかかってくるが、剣は遅れずに応じた。血を凝縮した剣がひと閃ごとに別れ、獣の喉を裂き、牙を跳ね返す。
だが、数が減るにつれて空気が変わっていった。影が学び始めた。奇襲の角度、硬い部位、動きの速度。
「・・・さすがに、鈍ってるわね。」
息を一つ整え、足元の血を呼び戻すように手を伸ばす。
「前は、これで何も守れなかった。」
影が一斉に突っ込んできた。エスメラルダは剣を抜かない。代わりに、体ごと突き出して受け止める。
衝撃で背中が地を滑る。足元の床に罅が走り、靴が裂けた。
「でも今は・・・この子だけは、絶対に通さない。」
指を鳴らす。
遅れて、空間が割れた。血ではない。光でもない。言葉にできない何かが走った。影たちが止まり、その場に沈む。まるで命を、理由ごと奪われたように。
ディアーナの耳には何も聞こえなかった。ただ、すべてが終わっていた。
「大丈夫よ。あなたには、まだ間に合う。」
静かにそう告げたエスメラルダの指先から、血が一滴だけこぼれ落ちた。
「よくも・・・血を流させてくれたわね。」
呟く声は低く、静かだった。床に落ちた血の滴が、ひとしずく、裂けた靴の隙間を染めていた。エスメラルダはそれを見つめ、表情を変えないまま、前に足を出す。
影が吠える。牙が開く。腕が振るわれる。
そのすべてが、彼女の足元で止まった。
「・・・下がってなさい。」
それはディアーナに向けられたものだったが、命令に従ったのは影のほうだった。突進してきた一体が動きを止め、そのまま首を傾げるように崩れた。
まだ剣は抜かれていない。
エスメラルダは、足元の血を指先でなぞる。それだけで血が浮き、宙に立ち上がった。まるで生きているかのように震えながら、彼女の背後で弧を描く。
「この程度で止まるなら、最初から私を襲わないことね。」
言葉と同時に、血が弾けた。赤い鞭のように伸び、次の影を空中で裂く。裂け目は焼けたように広がり、影の形ごと崩れ落ちた。
さらに三体が跳ぶ。エスメラルダは指を三本、まっすぐに突き出す。
そこから血糸が射出された。音もなく、動きもなかった。ただ、三体が空中で停止し、砕けた。
「貴方たちは、王を恐れたことがある?」
声には色がなかった。感情ではなく、理のような響きだった。
剣が現れた。宙に浮いた血が、刀身の形に沿って自らを縫い合わせていく。細い。だが、美しい。完成した瞬間、空気が変わった。
地が揺れたのは、その一太刀のあとだった。
斬撃は見えなかった。だが十体の影が、同時に崩れ落ちた。床も、壁も、空間の端も、すべて赤い線で切断されていた。
「私はここで終わるけど、貴方たちの終わりは、もっとずっと先にあるのよ。」
血が再び刀から離れ、霧のように散っていく。静寂の中で、ただその声だけが残された。
戦いの気配がすっかり消えたあと、空間には乾いた音ひとつなく、静けさだけが残っていた。ディアーナは地面に腰を下ろし、肩からかけていた袋をほどく。手際よく口を開き、小さな容器を取り出すと、エスメラルダに差し出した。
「サンドイッチ、食べる?」
容器の中には、ふわふわのパンと甘い卵焼き。見た目だけで、作った人間の優しさが伝わるようなそれだった。
エスメラルダはちらりと視線を落とし、口元だけで笑った。
「自分で食べなさい。」
そう言って、彼女はそのまま向きを変える。だがすぐに、少しだけ肩越しに声をかけた。
「・・・まぁ、血糖値気にしてるから。」
軽く、冗談めいていた。
だがその声の奥に、わずかに別の気配が混じっていた。
一度だけ、誰かに振る舞ったことがある。まだ王であり、まだ人を信じていた頃。
だがその場で手を伸ばしてくれた者はいなかった。皿に置かれたまま、冷えていく甘いパンを、彼女は最後まで見届けた。
そのあと、誰も責めはしなかった。だが誰も、振り返りもしなかった。
「・・・人の血にはね、いろんな意味が詰まってるの。家族だったり、伝統だったり、期待だったり。」
ディアーナがうなずくと、エスメラルダは続けた。
「でも、それだけで決まると思ってたら、きっと誰も報われないわ。」
声は淡々としていたが、そこにはあたたかさがあった。彼女は血統を重んじている。だが、それを盾にも剣にも使おうとしない。
それが、失血王の現在だった。
ディアーナはそっとパンをかじった。彼女の横顔を見ながら、エスメラルダは目を細める。
「そう。ちゃんと食べなさい。それが生きてる証拠なんだから。」
エスメラルダは姿勢を崩すことなく、ディアーナの様子を観察していた。少女はすっかり緊張が緩んでいた。リュックの中から小さな水筒を取り出し、軽くすすって、またサンドイッチの切れ端を口に運ぶ。咀嚼の音は小さく、礼儀をわきまえているつもりなのだろう。けれど、あまりにも不用心だった。
この空間は、ただでさえ上の階とは異なる。魔物の密度、空気の重さ、そして理不尽なまでの空間の歪み──そこに、無垢すぎる魂が平然と座っている。それは、あまりにも場違いだった。
本当に、ただの少女なのだろうか。冤罪で殺された者──その可能性は捨てきれなかった。地獄は不完全だ。時に、裁ききれなかった者の魂もここに降りてくる。だが、同時に。
王を騙し、城を奪い、人々を愚弄し続けた悪女たちも、またこの地に現れる。
姿だけで判断することは、エスメラルダにはできなかった。王だったからこそ、見た目や仕草にだまされて国を失ったことがある。
──良血に裏切られたあの日。
ふと、背筋をひやりと走る感覚が戻る。それでも彼女は、静かにその場に立ち続けた。ディアーナがこちらに気づき、小さく笑いかけてくる。緊張のない笑みだった。
その表情に、判断がわずかに揺らぐ。剣を振るうほどではない。だが、血がまだ収まっていなかった。戦闘の興奮が、骨の奥で燃えている。
地獄の魔物を相手に放った力は、簡単には静まらない。呼吸を整えようとしたが、動悸のペースが戻らなかった。指先が疼く。空気が重く、焦点が合わない。
エスメラルダは血を引いた。見えない糸が、地の血を吸い上げ、形を変える。制御のきかないままに、一本の細い矢が少女の足元に向かって伸びた。
「やめ──」
その言葉が、ディアーナの口から出るより早く、鋼の音が跳ねた。
盾だった。鋭く振るわれた一撃が、血の矢を砕くと同時に、エスメラルダの肩に衝撃を叩きつけた。肋骨の裏にまで震えが突き刺さる。体が跳ね、床を転がる。
わずかに視界が赤く滲んだ。
「・・・っ、誰・・・」
声に出すよりも早く、見えたのは鋼の盾。盾の主は、すでに構えを解いていなかった。
カーティスだった。怒気はなかった。ただ、その存在だけが剣より重く、盾より堅かった。
けれど、エスメラルダの視線はその盾の向こうに吸い寄せられた。
ディアーナの肩口──戦闘の拍子に裂けた布の下から、何か白いものがのぞいていた。
それは羽根だった。
小さく、柔らかく、存在を隠すように折りたたまれていたはずのそれが、血と風にさらされて今、彼女の背から露わになっていた。
エスメラルダは言葉を失った。剣を抜くでもなく、問いただすでもなく、ただ呼吸だけが深くなった。
まさか、とも、やはり、とも言えなかった。目の前の少女が何者なのか、ようやくその一端が、形をもって明らかになった。
「・・・あ。」
ディアーナが気づいたのは、カーティスとエスメラルダの視線が自分の肩口に集まってからだった。視線の熱に気づいて、そっと首をすくめて振り返る。
肩から裂けた布地のすき間に、白いものがはみ出している。ふわっとした羽根が一枚、外気に触れてゆるやかに揺れていた。
「ち、違っ・・・いや違うっていうのも変かな、うーん・・・えっと・・・これは、その・・・飾り!」
慌てて肩を抑えるが、すでに羽根は二枚目も顔を出していた。
「ちょっと大きめの、こう・・・オシャレな・・・あの、ファッションアイテム的な? ね?」
誰も返事しない。カーティスは無言。エスメラルダも目を細めたまま動かない。
「その・・・ほら、寒いとき羽織るじゃん? ううん、羽織らないか、羽は・・・でも、だから、えーと・・・」
目が泳ぐ。手が泳ぐ。肩を押さえるほど羽根が増える。
「羽毛! そう、羽毛がちょっと暴れてて! 袋から・・・いや袋じゃないし、えーと・・・」
声がどんどん小さくなっていく。
「・・・バレちゃった・・・。」
最後のひとことだけ、はっきり聞こえた。誰も突っ込まない中、少女は顔を真っ赤にして羽根を背中に押し込もうと必死だった。
「言わないでっ!」
ディアーナが叫ぶ。背中の羽根を両腕で隠そうとするが、白く柔らかな光は揺れて止まらなかった。
「お願い、今だけ・・・今だけ見なかったことにして・・・!」
「天使様!」
カーティスが腕を広げ、胸に熱を込めて叫ぶ。
「ついに、ついにこの目で確信しました! この罪深き地に降り立った奇跡の存在を! 我らを導く方を!」
「ち、ちが・・・違う、違うからっ!」
「神の遣いがこの地獄に現れたのは、我らが今ここで悔い改め、魂を正すべきという啓示! ああ、なんと尊い導き!」
「導かないしっ、むしろ案内されてきたしっ・・・!」
「天使ちゃん。」
低く滑るような声が背後からささやく。
「なにその羽・・・すごく柔らかそう。どこで洗ってるの? それとも、血で洗ったのかしら。」
「や、やめてください! そんな目で見ないで・・・触らないでっ・・・!」
「なるほど。あなたは何も知らないふりをしていた。でもこの翼は、知ってる。ここが罪の底だってことを。」
「違う、ほんとに何も知らないってばぁ・・・!」
「天使様。我らは今ここに、真なる光の証人となりました!」
「天使ちゃん、選ばれたってことは責任があるのよ? ほら、下まで来たからには全部付き合ってもらわなきゃ。」
「わたし関係ないぃぃぃぃっ!!!」
叫ぶディアーナの耳元で、二人の演説が“交互”ではなく“同時に”降り注いでくる。
「人は正しさを見失うとき、神の影を求めるのです! それが貴女だ、天使様!!」
「ここで生き延びてることこそ、信仰じゃないかしら? 何かを守ってるか、忘れてるか。そのどちらかだけど──見逃せないわね。」
「正義を! 導きを! 赦しを我らに!」
「観察って大事よ。羽の開き方、呼吸の浅さ、視線の泳ぎ。全部、天使らしいもの。」
「わたし耳が三つあっても追いつかないんだけどぉぉぉぉっ!!」
ディアーナの両腕が引かれる。左右からカーティスとエスメラルダががっちりと握っている。
「天使様! 御心のまま、階層を進みましょう!!」
「逃げたって無駄よ。選ばれたって、そういうこと。」
「ま、待って、なんでそうなるの!? 誰か止めてええぇぇっ!!!」
叫びは階段に吸い込まれ、次の階層の暗闇へ消えていった。

耳増やしても意味ないと言うのは野暮だぜレディー。
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