密室探偵、密着に苦しむ。

伊阪証

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チュートリアル編(1~12話まで)

第二話「盲目」

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容疑者候補出すとキャパオーバーしちゃう作者vsミステリー


彼女は進行方向右手に位置する、極小のトイレの扉を押し開けた。 室内は、ステンレスの冷たい壁に囲まれた、人間一人が辛うじて直立できる程度の容積しかない。彼女は身体を二つ折りにし、隆起した太ももとバストの質量を、その狭隘な空間へと無理やり滑り込ませた。
扉を閉めた瞬間、物理的な「死角」が完成した。
彼女が個室の中で向きを変えようとした際、三メートルの身長ゆえに不自然に屈曲した背中が天井の角に、そして膝に押し上げられた巨大な肉の膨らみが扉の内側に同時に接触した。
「……あ。」
短い吐息が、ステンレスの壁に反射した。 彼女が扉を開けようと指をかけたが、ノブはびくともしなかった。百二十センチメートルを超えるバストのボリュームが扉を内側から物理的に圧迫し、開閉に必要な「引きしろ」を完全に消失させていた。
一ミリメートルの余白もない。 彼女の肉体は、トイレという立方体の中に完璧な「楔(くさび)」として打ち込まれてしまった。特注スーツの生地が壁面と激しく摩擦し、彼女の体温で熱せられた空気が、逃げ場を失って個室内をサウナのように変質させていく。
「……助けて、とは言わん。だが、この扉は私の肉を食いすぎている。」
彼女の低い、湿った声が個室内に籠もる。 外の通路では、助手である少年が、閉じられた扉の前に立ち尽くしていた。
「……探偵さん、扉の隙間から肉がはみ出しています。ロックの爪が、あなたのスーツの生地に噛み込んで、物理的に解除不能な状態です。」
少年の淡々とした報告が、扉越しに響く。彼女は答えず、ただステンレスの壁に押し付けられた自身の肉が放つ「ぎちぎち」という微細な拍動に耳を澄ませた。
その時、彼女の背中が密着している壁の向こう側——隣接する一等個室から、一つの不自然な音が聞こえてきた。
重い物体が、毛足の長いカーペットの上に「ドサリ」と落ちる音。 そして、その直後に響いた、電子錠が強制的に「内側から」焼き切れるような異音。
身動きの取れない檻の中で、彼女の鋭敏な感覚が、列車内に漂い始めた微かな血の匂いを捉えた。
助手が弾かれたように駆け出し、隣室の扉へ手をかけた。その指がノブを回しきるより早く、トイレの個室から伸びた異常に長い腕が、少年の胸元を横木のように遮った。
「……止まれ。」
彼女の低い声と同時に、鋭い布の裂ける音が青い通路に響いた。三メートルの巨躯を包む特注スーツのジャケットが、腕を急激に伸ばした際の張力に耐えかね、肩口から背中にかけて白く裂けていた。
彼女は個室の壁に肉を擦りつけながら、器用にジャケットを脱ぎ、それを扉の隙間から少年に向かって放り投げた。
「……まだ若いお前が、その扉の先を見る必要はない。」
彼女の巨躯はトイレの中に「ぎちぎち」と楔のように打ち込まれたままだ。膝に押し上げられたバストが、呼吸のたびにドアの内側を圧迫し、不快な摩擦音を奏でている。
「……死体を見るな。空想の中の死と、目の前にある物理的な現象としての死は、決定的に異なる。密室において死体は即座には発覚しない。発見が遅れれば、腐敗は不可逆的に進む。それは、一度視界に入れば当分の間、特定の飲食物を身体が拒絶するほどにおぞましい光景だ。そして何より、そこには感染症という物理的な実害が充満している。」
彼女は膝の間に顔を埋めるようにして、ステンレスの壁に背中を預けた。少年の手元には、彼女の体熱と香水の残り香が染み込んだ、肩口の裂けた白いジャケットだけが残された。
「……お前はあくまで助手だ、先ずは冷静に全てを俯瞰する所から始まるんだ。」
彼女の背中が密着している壁の向こうでは、時折、列車の振動とは異なる、硬いものが床を叩くような微かな音が響いていた。
夜間急行の極小個室を包むステンレスの壁は、彼女の背中から体熱を無慈悲に奪い続けていた。
三メートルの巨躯を二つ折りにし、百二十センチメートルを超えるバストを膝で押し潰すようにして収まっているこの空間には、照明など存在しない。扉の隙間から差し込む青い非常灯の微かな光だけが、壁面に反射して彼女の白い特注スーツの輪郭を不気味に浮かび上がらせていた。彼女が呼吸を刻むたびに、肉と布地、そして金属が擦れ合う「ぎちぎち」という湿った音が、墓場のような静寂を微かに震わせる。
彼女は膝の間に顔を埋めたまま、扉の向こう側に立つ少年へと声を投げかけた。
「……車掌との話は終わった。この列車は次の駅まで止まらない。だが、それは警察が来るまでこの『箱』が安全であることを意味しない。線路は今、原生林のただ中を貫いている。」
彼女の声はステンレスに反響し、重低音となって少年の足元を揺らした。
「列車が大きく減速する地点がある。この先の急カーブだ。犯人がその『速度の谷』を知っていれば、窓の緊急解錠レバーを引き、闇の中へ消えることは容易だろう。一度森へ逃げ込まれれば、警察の捜査網など蜘蛛の巣にすらならない。……駅に辿り着く前に、ここでその足を止めさせる必要がある。」
車輪がレールの継ぎ目を叩く規則的な振動が、彼女の背中を通じて脊髄へと伝わる。その振動の合間に、彼女は隣室から響く「音」の正体を測り続けていた。一定の周期で床を叩く、硬質な、しかしどこか虚ろな音。
「……私のジャケットを、その胸元で固く握っていろ。その布地に染み込んだ私の熱量が、お前の焦燥を鎮める重石になるはずだ。お前はこれから、一等個室の廊下を『掃除』しろ。」
彼女は扉の隙間から、裂けた袖から覗く異常に長い腕をそっと外へと伸ばした。指先が、廊下の壁に設置された非常用温度操作パネルに触れる。液晶の青白い光が、暗がりに慣れた彼女の瞳を鋭く射抜いた。
「犯人は機械の目を欺いた。だが、物理的な質量は嘘を吐けない。お前は清掃員を装い、あるいはただの乗客として廊下を往復し、各部屋の扉の下にある通気口……そこから漏れ出す『空気の重さ』を嗅ぎ分けるんだ。機械のセンサーは温度と高さしか見ていないが、お前の鼻と肌なら、そこにあるべき『命の残り香』……つまり二酸化炭素の滞留を感じ取れるはずだ。」
彼女は個室内で僅かに体勢を変えた。その動きに合わせて、天井の角が彼女の背中に食い込み、スーツの縫い目が限界を告げる悲鳴を上げる。百二十センチメートルを超える肉の膨らみが扉の内側を強く圧迫し、逃げ場のない熱気が再びトイレの中に滞留し始める。
「犯人は、自分が作った密室に絶対の自信を持っている。だからこそ、その『外側』で起きる微細な変化には鈍感だ。……お前が不自然な空気の淀みを見つけた瞬間、私のこの長い腕が、その『空白』を物理的に埋め尽くしてやろう。私がここから動けないという事実は、裏を返せば、この廊下を通る者すべてを捕捉できる『物理的な罠』に私が成り代わっているということだ。」
新幹線が速度を落とし始めた。原生林の樹々が落とす深い影が、窓ガラスをストロボのように激しく叩き、青い非常灯を断続的に遮る。
「……行け、少年。お前が私の『目』となり、標的をこの檻の前まで誘い込め。私のこの身体が、その喉元に食らいつくまでな。」
彼女は暗闇の中で再び目を閉じ、自身の肉体がステンレスの壁を圧迫する感触と、列車の傾きからくる重力の変化にすべての感覚を委ねた。裂けたスーツの隙間から立ち昇る熱気が、冷たい床に一筋の陽炎を作っていた。
ステンレスの壁越しに、車掌の足音が遠ざかっていく。彼女は扉の内側で、自身の巨大な肉体が発する熱で曇り始めた壁面に、重い背中を「ぎちぎち」と擦りつけた。
「……車掌室との通信で、この車両の管理システム『セーフティ・アイ』の全容を吐かせた。床付近の熱源を無視し、一定以上の高さに熱源がなければ扉を封鎖する。深夜徘徊を恐れるあまり、機械に『存在』の定義を委ねすぎた欠陥品だ。」
「深夜、判断力の鈍った老人や幼い子供が、無意識に扉を開けて夜の回廊へ消えるのを防ぐための、過保護な安全装置だ。赤外線センサーが一定の高さに熱源を感知している間だけ、内側からの開錠を許可する。だが、熱源が床に沈むか、あるいは環境温度と同化してしまえば、システムは『異常事態』と判断し、保護という名目で扉を内側から完全に封鎖する。……善意のセキュリティが、死を閉じ込めるための絶対の錠前に反転したというわけだ。理論上、今のあの部屋は、内側からの操作を一切受け付けない真空地帯と化している。」
彼女の声は、圧迫された肺から絞り出され、ステンレスの箱の中で不気味な共鳴を生んでいる。膝に押し上げられた百二十センチメートルを超えるバストが、呼吸のたびにドアを内側から物理的に圧迫し、逃げ場のない熱気を廊下へと押し出していた。
「車掌は、駅に到着するまでは列車を止めないと言い張っている。犯人を箱の中に閉じ込めておくつもりだろう。……だが、それは甘い。この先、列車は原生林の中を抜ける急カーブで大きく減速する。窓の緊急レバーを叩き、闇の中へ消えるには絶好の隙だ。森へ逃げ込まれれば、警察の捜査網など蜘蛛の巣にすらならない。ならば……駅に着く前に、ここでその足を止めさせる。」
彼女は扉の隙間から、裂けた袖から覗く異常に長い腕を廊下へと滑らせた。指先が、空気を切り裂くようにして少年の手元にある、破れたジャケットの端に触れる。
「……その布地を握り、廊下の静寂を嗅ぎ分けろ。機械のセンサーは温度と高さしか見ていないが、物理的な『生命の残滓』までは消せない。お前は全個室の扉の下にある通気口……そこから漏れ出す空気の『重さ』を測るんだ。人間が呼吸をすれば、そこには必ず二酸化炭素の淀みが生まれる。機械が空室だと告げている部屋から、もし微かな『命の重み』を感じ取ったなら、そこが奴の潜伏先だ。」
彼女は個室内で僅かに体勢を変え、屈曲した姿勢のまま、天井の角に後頭部を預けた。スーツの縫い目が限界を告げる悲鳴を上げ、彼女の巨躯は部屋の中に完全に「楔」として固定される。
原生林の影に入り、窓の外を流れる景色が深い闇に飲み込まれていく。彼女は暗闇の中で目を閉じ、列車の傾きと、肌に伝わる微細な気圧の変化だけに全神経を研ぎ澄ませた。
夜間急行の回廊を、巨大な白い塊が這い進んでいた。
三メートルの垂直な質量を、彼女はあえて水平へと変換した。四つん這いになったその巨躯は、通路の横幅を「ぎちぎち」に埋め尽くし、隆起した背中の筋肉が天井を擦るほどにせり出している。特注スーツのジャケットを脱ぎ捨て、ワイシャツ一枚となった背中からは、先ほどまで自制していた熱量が陽炎となって立ち昇っていた。
彼女が這うたびに、床板からは不気味な軋み音が響き、逃げ場を失った空気が物理的な圧力となって前方の闇を押し出していく。
「……笑うなと言ったはずだ。」
彼女は顔を上げず、代わりに異常に長い右腕を背後へと蛇のように伸ばした。油断して笑い声を漏らした助手の頬を、逃がさぬ確実さで捉え、万力のような力でつねり上げる。
「痛っ……! す、すみません……」
少年の悲鳴を、レールの継ぎ目を叩く重低音が掻き消す。彼女の指先からは、沸騰寸前の体熱と、肌に直接馴染んだ重厚な香水の匂いが少年の網膜を焼くように伝わった。
「痛みは、思考の浮わつきを沈める重石になる。……車掌から聞き出したあの『セーフティ・アイ』の仕様を忘れるな。これは高齢者の徘徊や子供の飛び出しを防ぐための、過保護な檻だ。一定以上の高さに熱源を感知しなければ、システムは『異常』と判断し、扉を内側から完全に封鎖する。犯人は、その善意の機能を死の隠蔽に転用した。」
彼女は床に耳を押し当てるようにして、さらに前進した。百二十センチメートルを超えるバストの重みが床板を直接圧迫し、彼女の全身が巨大な受信機となって車両の微細な振動を拾い上げていく。
「この先、列車は原生林を抜ける急カーブで大きく減速する。犯人が窓を破って森へ消える前に、その喉元を押さえる必要がある。私はこのまま、この通路を封鎖する『肉の壁』として進む。お前は私の背中の上で、各個室の隙間から漏れ出す空気の『重さ』を嗅ぎ分けろ。二酸化炭素の淀み……機械が空室だと告げている部屋に潜む、生きた人間の呼吸を探り当てるんだ。」
彼女が再び這い進むと、裂けたシャツの隙間から、限界まで緊張した広背筋が波打つのが見えた。彼女はもう、列車の備品を損壊させることを躊躇わなかった。彼女の質量が通過するたびに、通路の壁面には深い擦過痕が刻まれ、内装のプラスチックが粉砕される乾いた音が、深夜の列車内に響き渡った。
四つん這いで廊下を這い進む彼女の背中は、もはや通路そのものを塞ぐ「白い肉の壁」だった。
ジャケットを脱ぎ捨て、薄いワイシャツ一枚となった三メートルの巨躯からは、蒸気のような熱気が立ち昇っている。彼女が這うたびに、隆起した背中の筋肉が天井を、百二十センチメートルを超えるバストが床を同時に圧迫し、「ぎちぎち」という重苦しい摩擦音が静まり返った夜間急行の回廊に響き渡った。
彼女は特定の個室の前で動きを止め、床に耳を押し当てるようにして、その断面から漏れる空気の粒子を測った。
「……少年。この扉の隙間から漏れ出す冷気を吸ってみろ。単なる空調の設定ミスだと思うか?」
彼女は顔を上げず、代わりに異常に長い右腕を背後へ伸ばした。先ほど頬をつねられた痛みに耐えながら、彼女の背中の上で息を潜めていた助手が、恐る恐る鼻を動かす。
「……不自然に冷たいです。それに、水の匂いがします。」
「つららだ。犯人は氷の刃で標的を貫いた。証拠は時間が経てば溶けて消え、物理的な凶器はこの世から抹消される。古典的だが、この密閉空間では最も確実な手段だ。」
彼女は再び「ぎちぎち」と床板を軋ませながら前進し、その巨躯で列車の微動を受け止めた。
「だが、それだけではこの『セーフティ・アイ』を欺くことはできない。子供の飛び出しや老人の徘徊を防ぐためのあのセンサーは、一定の高さに熱源がある限り、保護の名目で扉を絶対に開かせない。……犯人は単に空調を下げたのではない。被害者の体温を、センサーの検知外まで強制的に引き下げる『何か』を事前に仕込んだのだ。」
彼女の背中の筋肉が、思考の律動に合わせて波打つ。
「列車という管理された環境下で、自然にヒートショックが起きる可能性は低い。犯人は被害者の衣服、あるいは肉体そのものに、特定のタイミングで吸熱反応を起こす薬品か、あるいは冷却材を起動させるギミックを仕込んでいたはずだ。……機械が『人は死んだ、あるいは不在だ』と誤認し、扉を絶対の檻に変えるその瞬間を、奴は闇の中で待っていた。」
彼女は四つん這いのまま、隣室の扉を睥睨するように首をもたげた。三メートルの巨躯が放つ圧倒的な体熱が、扉の隙間から漏れる死の冷気とぶつかり合い、通路に白い霧のような陽炎を作り出している。
「犯人は、自分が仕掛けた『冷たい嘘』が溶けきる前に、この廊下を駆け抜けようとするだろう。……だが、無駄だ。私がここに伏せている限り、この通路は一ミリの隙間もない肉の終着駅となる。」
彼女は再び床板を強く圧迫し、原生林の闇を切り裂いて進む列車の、わずかな傾きの変化に全神経を集中させた。
彼女が這い進むたびに、床板が「ぎりり」と悲鳴を上げ、その巨大な質量によって押し出された空気が廊下の奥へと流れていく。彼女は特定の扉の前で動きを止めると、這った姿勢のまま、隣室の死体安置所と化した空間へ向けて言葉を投げかけた。
「……少年、ヒートショックという物理現象を、ただの『不運な事故』だと思っているなら認識を改めろ。それは急激な温度変化が血管を、心臓を、そして脳を物理的に破壊する、極めて計算可能な『攻撃』になり得る。」
彼女の声はステンレスに反響し、重低音となって少年の足元を揺らした。
「犯人が用いたのは氷の刃……つららだ。標的を貫いた後、それは車内の熱を奪って溶け、凶器はこの世から抹消される。だが、氷が溶ける際に発生する強烈な『吸熱反応』は、単に証拠を消すためだけの機能ではない。犯人は被害者の衣服、あるいは肉体に、特定のタイミングで周囲の熱を急速に奪い去るギミックを仕込んでいたはずだ。例えば、気化熱を極限まで高める薬品や、あるいは肌に直接触れる位置に隠された、工業用の瞬間冷却材だ。」
彼女は床に耳を押し当て、歪んだ視界の中で廊下の先を睨み据えた。
「列車という管理された環境下で、自然にヒートショックが起きる隙など存在しない。だが、犯人が作為的に『温度の谷』を作り出したとしたらどうだ。暖かい室内で、一瞬にして皮膚温度が極低温まで叩き落される。急激な血圧の乱高下は、老いた心臓を止めるには十分すぎる衝撃だ。そして何より……。」
彼女は「ぎちぎち」と肉を擦りつけながら、再び前進を開始した。
「……その強制的な冷却こそが、機械の目を欺くための鍵だった。被害者の体温を環境温度以下にまで急落させることで、徘徊防止のセンサーに『立っている人間は消失した』と誤認させたのだ。心臓が止まり、熱源が床へと沈んだ瞬間、善意のプログラムは扉を死の棺へと作り変えた。……犯人は被害者の肉体そのものを、密室を完成させるための『部品』として利用したのだ。」
三メートルの巨躯が放つ猛烈な体熱が、ワイシャツの隙間から陽炎となって立ち昇り、冷たい廊下の空気と混じり合って白い霧を作っていた。
「……少年、なぜ犯人が回りくどい『つらら』などという凶器を選んだと思う。単に証拠が溶けて消えるから、という短絡的な理由ではない。」
四つん這いで這い進む彼女の広大な背中が、ワイシャツ越しに「ぎちぎち」と波打つ。三メートルの肉体が通路の横幅を完全に埋め尽くし、彼女が呼吸を刻むたびに、逃げ場を失った空気が物理的な圧力となって少年の鼓膜を揺らした。
「水は、空気よりも25倍早く熱を奪う。犯人は一本ではなく、複数本のつららを標的に突き立てたはずだ。傷口から溢れた血と、体温で急速に溶け出した氷水が混じり合い、被害者の衣類を、そして床一面を冷たい水の海に変えた。標的は文字通り、極寒の水塊に抱かれる形で殺されたのだ。」
彼女の声は胸腔で共鳴し、床を通じて地響きのように響き渡る。特定の扉の前で、彼女は「ぎりり」とひしゃげた音を立てて直立し、天井に頭を預けて首を折り曲げた。
「列車という安定した環境でヒートショックを引き起こすには、単なる空調の操作ではぬるい。急激な吸熱反応……心臓が悲鳴を上げるほどの物理的な衝撃が必要だった。溶け出した水が衣類を濡らし、猛烈な勢いで体熱を奪い去る。被害者の体温が周囲の環境温度と同化するまでの時間は、これによって劇的に短縮されたのだ。その『冷たい死』が、一定の高さに熱源を感知しなくなったセーフティ・アイを欺き、この絶対の密室を完成させた。」
彼女は再び床へと沈み、巨大な肉の障壁として四つん這いで前進を開始した。
「市販のアイスブロックなら調達は容易だが、その不純物の割合や形状から足がつく。だが、今の季節、原生林の間を抜けるこの路線の駅舎や鉄橋の裏なら、天然の凶器はいくらでも手に入る。……自然が生み出した刃は、溶けてしまえば二度と鑑定も追跡もできん。犯人は、この列車の外にある『冬』そのものを持ち込んだのだ。」
三メートルの白い塊が通路を擦り剥きながら進むその光景に、少年の手の中で握りしめられたジャケットが、彼女の残した体熱で僅かに湿り気を帯びていた。


夜間急行は原生林の闇を縫うように減速していた。車輪が継ぎ目を踏むたびに低い振動が床を伝い、しゃがみ込んだままの巨躯を揺らす。白いワイシャツ一枚の背中がわずかに上下し、裂けた布地の隙間から立ちのぼる体熱が冷えた空気と混じって淡い陽炎をつくっていた。通路は彼女の身体で半分以上が塞がれ、逃げ道は細い隙間しか残っていない。
助手はその背後に立ち、犯人と向き合う位置を保っている。探偵は立ち上がらず、膝を折ったまま静かに口を開いた。
「……少年、事実を並べる。私はあの部屋の中を見ていない。だが十分だ。個室内にはアルコールが散布されていた。燃焼を前提とした準備だ。衣服の濡れ方は上からの散布であり、偶発的な漏水ではない。」
列車がわずかに傾き、彼女の長い腕が床に触れて体勢を安定させる。
「しかし火は付かなかった。理由は二つある。第一に、扉が自動で封鎖されたこと。第二に、列車内での発火は自らの退路を断つ危険があることだ。犯人は燃やす計画を中断した。」
助手が息を呑む音が小さく響く。
「その時点で状況は変質した。被害者は濡れた状態で床に倒れ、体表温は急速に低下する。セーフティ・アイは体幹ではなく体表の赤外線反応と高さを基準に判定する装置だ。立位の熱源が消えた瞬間、内側ロックは維持される。犯人は詳細を理解していなかったとしても、扉が開かない事実を利用できると判断した。」
彼女はゆっくりと顔を上げる。視線は犯人の膝の高さに向けられているが、その声は廊下全体を支配していた。
「燃やせば一瞬で終わる。だが冷えは長い。犯人は復讐の質を選び直した。アルコールは発火のためではなく、気化熱による冷却の媒介となった。放置すれば苦しみは持続する。そう考えた。」
車輪の音が一段と大きくなる。森の影が窓を流れていく。
一等個室の扉が、内側から静かに軋んだ。話し声に引き寄せられるように、男が顔を覗かせる。状況を測るより早く、しゃがんだままの探偵の長い腕が床を滑り、一直線に伸びた。
指が男の首を正確に捉える。
空気が喉で潰れ、短い咳が漏れた。男は反射的に握っていた刃物を振り上げ、彼女の前腕へと深く突き立てる。布が裂け、刃が肉を割り、鈍い感触が通路に伝わった。
「探偵さん!」
助手が駆け寄る。血が白いシャツを滲ませるが、彼女の指の力は緩まない。掴んだまま、ゆっくりと男を床から浮かせる。
「……なぜ分かった。」
喉を圧迫されたまま、男が掠れた声で問う。
彼女は刺さった刃を見下ろしもせず、低く答える。
「この車両の乗客は四人。被害者を除けば三人だ。私はあの部屋に入れない。物理的に不可能だ。少年は最後方車両にいた。時間と位置が一致する。消去すれば残るのは一名。」
助手が震える声で割り込む。
「腕が……抜かないと……!」
「問題ない。続ける。」
彼女の声は一定だった。男の足が空中で暴れるとしても。
彼女は掴む指にさらに力を込める。
「容疑者は、お前だけだ。まず隠すつもりのない犯行をしている時点で調査不足だ。他の乗客がいるかも調べていないだろう。愚かだ。」
低い声が通路に落ちる。掴まれた首が小さく震え、男の指から刃物が滑り落ちた。金属が床に当たる乾いた音が、減速する列車の振動に混じる。彼女はようやく腕から刃を引き抜き、血に濡れた前腕をそのままに男を床へと転がした。
列車がゆっくりと駅へ滑り込む。制動の衝撃が一度大きく走り、車体が静止する。
「探偵さん、動かないでください。」
助手が震える手で応急処置を始める。白い布が何重にも巻かれ、肩口から肘近くまで厚く固定されていく。血が滲むたびに布が赤く染まり、さらに上から巻き直される。
「問題ない。」
「問題あります。刺されてます。」
包帯は肩のあたりまで固く締め上げられ、彼女の腕は不自然なほど太く膨らむ。助手は眉を寄せたまま結び目を引き、ようやく息を吐いた。
ドアが開き、ホームの空気が流れ込む。数人の警察官が足早に車内へ入り、床に転がる男を取り囲んだ。
「この人物を殺人容疑で確保します。」
男が抵抗を見せる前に手錠がかかる。
そのとき、別の警官が車掌へ視線を向けた。
「車掌さんもご同行願います。」
車掌が目を瞬かせる。
「え?」
「横領、殺人、死体遺棄の別件で逮捕状が出ています。車両設備と資金の流れが一致しません。」
通路の空気が一瞬止まる。
「ちょ、ちょっと待ってください、それは――」
言葉の途中で両腕が押さえられる。製氷機の設置記録、予約の空白、備品の数量差異が淡々と読み上げられていく。
助手が探偵を見上げる。
彼女は包帯で固められた腕を見下ろし、短く息を吐いた。
警察に挟まれた車掌がホームへ連れ出される。
列車の扉が閉まりかける直前、彼女は静かに続けた。
「・・・多分、明日に一面には乗らなさそうだな。」
「事件を見つける能力も必要だなぁ・・・探偵って・・・。」
刑事と探偵は、今夜は寝れないかもしれないと嫌々覚悟を決めたのだ。
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