猫のように君は去る

伊阪証

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午後四時四十分。冬の街は鉛色の曇天の下で急速に光を失っていた。
街灯が点灯するまでのわずかな時間が、世界を最も冷たい場所に変えていく。
斜光はなく、冷白の光が均一に世界を照らし、人の影を奪っていた。
世界は平面的に引き伸ばされ、奥行きを失っていた。
ロータリーを捉えるロングショットは、通行人の流れだけにピントを合わせていた。
スーツ姿の男たちや携帯を操作する学生が交差し、溶け合い、それぞれの方向へ向かう。
吐息は白くならず、冷たいノイズに溶けていった。
流れているのは世界だけで、私はその中で立ち尽くしていた。
車の走行音や足音、遠くのアナウンスが耳鳴りのように混ざり、意識を揺らす。
私はこの慣れ親しんだ景色を眺めていた。
幸福な過去を思い出すことはなく、むしろ間違った懐かしさの残響が漂っていた。
そのとき、ノイズの中に微かな変化があった。
「ハル?」
聞き慣れた掠れ声が、環境音の中から浮かび上がる。
それは誰かを探す呼びかけではなく、過去の記憶を今の風景と照らし合わせた確認の響きだった。
私は反射的に振り返った。薄茶色の髪の女がそこに立っていた。
二年か三年ぶりか。記憶の中の姿と寸分違わないユキだった。
太陽の光はないのに、彼女の周囲だけが微かに時間を遡ったように見えた。
心臓が早鐘を打った。
「ユキ…」
声は喜びを抑えるように乾き、呼びかけの余韻を遮った。
「マジかよ、こんなとこで何してるんだ」
ユキは少し困ったように笑い、その表情は瞳の奥を隠す防壁のようだった。
視線は私を認識しているのに、私だけを見てはいない。
私は再会を繋ぎ止めようと、無駄に言葉を重ねた。
ユキは紙袋を左腕で抱え、その端は毛布の縁のように見えた。
右手はポケットにあり、すぐ動けるようでも、何かを隠しているようでもあった。
一歩踏み出して止まる。
「連絡もなしに急にいなくなるなんて、信じらんないよ。元気にしてたのか」
ユキは紙袋を抱き直し、少し目を伏せた。
「うん、まあね。ハルこそ元気そう」
「じゃあさ、このあとお茶でもどうだ。三年分の話を聞かせろよ」
ユキの瞳が一瞬揺れ、驚きか戸惑いか分からぬまま、掴みどころのない微笑みに覆われた。
「ごめん、ハル。今日はちょっと時間がないんだ」
風が吹き抜け、会話を遮った。その一陣がユキの逃げるための空白を作る。
ユキは「またね」と言い残し、人波に消えた。振り向かず、速足で。
私は呆然とその方向を見つめた。最初からいなかったように思えた。
ユキの去り方はいつもこうだ。予測できず、気まぐれで、それでいて美しい。
その「またね」という余白は、私が追わないことを正当化する都合のいい言葉になった。
ユキが消えたあともロータリーは動き続け、スーツやコートの人々が一定の速度と方向で通り過ぎる。
私はその流れの中で孤立した岩のように立ち、追うという選択を自分から切り離した。
振り向かなかった背中を思い出しながら、ユキの消失を自由で予測不能な猫の美学として解釈し直した。
七秒が過ぎ、喧騒が遠ざかる。意識の中だけが無音になる。
無音が行動の是非を突きつけるが、答えは決まっていた。動かない。
視線は足元へ落ちた。冷たいコンクリートが影を拒み、その硬さが靴底を通して足裏に伝わる。
空を見上げなかったのは、そこにユキの美化された像が浮かぶからだ。
現実の停滞を確認するため、足元だけを見た。
物理の冷たさが、心の熱を失わせている証明だった。
ユキの「またね」が頭の中で増幅する。
それは「私が動かなくてもいつかまた会える」と思い込むための免罪符だった。
ユキの消失が美しいほど、私は追わないことを許された。
美しい別れは一時的だと信じられた。
私は彼女の孤独な美学に、自分の依存を隠した。
ポケットの中の冷えた携帯を取り出す。
その小さな重みが、ユキの余白を埋められる皮肉を突きつける。
だが画面を一瞥して戻した。指は動かさなかった。
動かないという選択が、停滞の確定を意味する。
ユキの安否を確かめる行動は、この現状を壊してしまう。
私はユキの「微かな余白」を誤読することで、怠惰な生活を守った。
遠くでホームのアナウンスが響く。
「三番線、発車いたします」
時間だけが確実に進んでいる。ユキは二年分、三年分の時間を奪ったが、社会の時計は止まらない。
だがユキの余白の美化が、この事実を歪めていく。
私はユキの消失に価値を与えることで、停滞に意味を与え続けた。
夕闇が近づき、空気は湿り、冷たさを増す。
肺に冷たい空気を吸い込むたび、動かないことが賢明だという誤信が生まれる。
ユキの残した余白は、追いつく導火線ではなく、追わなくていいという幻想として定着した。
私はこの間違った懐かしさの中で、まだ立ち止まっていたいと願った。
日が完全に落ち、都市の喧騒が遠い低いノイズへと変わる頃、私は夜の喫茶店にいた。
店内は通常の三分の一まで照度を落とされ、テーブルの周囲だけがぼんやりとした光に包まれていた。薄暗い光は人間の表情から細かな陰影を奪い、感情の機微を読み取りにくくしていた。 対面に座っているのは大学時代の共通の友人、タケシだった。彼の顔もまた影の中に沈み込み、その存在が声と動作によってのみ認識されるようだった。私たちは、他愛もない世間話から、ユキが突然いなくなった過去、そして先日の再会の話題に移っていた。
私はコーヒーカップを両手で包み込んでいた。カップが放つ微かな熱は私の指先の皮膚感覚にほとんど伝わってこない。まるで私の感情が熱を失い、外部からの刺激に対して鈍くなっていることの象徴のようだった。 タケシがカップを置いた。
カツンと。
その音は静寂の中でやけに強調されて響き、私たちの会話に一瞬の心理的な空白を生み出した。その空白こそが、タケシが次に発する言葉の異質性を予期させるようだった。 「この前見たとき、ユキ、少し痩せてたよ」
タケシの声は感情を抑えた単なる報告の温度だった。その言葉が私の心臓を一瞬凍てつかせた。駅前で会った時のユキが紙袋を抱きしめる細い腕の感触が脳裏に蘇る。あの時の彼女の目に宿っていた「遠い何か」が急に「健康不安」という具体的な影を伴って私の目の前に提示された。
しかし私はすぐにその恐怖と違和感を否定した。
「仕事忙しいだけだろ」
私は語尾に切り返しを入れず平坦な調子で言い放った。それはタケシを納得させるためではなく、自分自身を納得させるための言葉だった。タケシはそれ以上追及してこない。その沈黙が却ってユキの「不調」を確かなものにするように感じられたが、私は思考を強引に止めた。 私の右手の人差し指がカップの縁をゆっくりとなぞる。コーヒーの熱はもうほとんど感じない。熱さどころか、指先の皮膚感覚さえもこの不安という影によって鈍くなっているようだった。
ユキの不調という外部からの刺激は確かに私の前に提示された。これは私の停滞を破り追うという行動を促すための明確なトリガーだ。 しかし私はここで動くことを拒否した。なぜならユキの不調を認めてしまえば、「彼女の美しさは一時的なものだ」「彼女はいつか衰える」という真実を認めることになり、彼女の消失を「美しい」として停滞を正当化する私の根拠が崩壊してしまうからだ。 私はカップから指を離さず心の中で何度もその違和感を打ち消す言葉を繰り返した。あれは仕事の疲れだ。単なる思い過ごしだ。彼女の消失に死の影があってはならない。彼女は私が動かなくてもいつかまた美しく現れるという余白を残してくれたはずだ。 私は、この「否認」によって動かないという選択をこの夜も維持した。
喫茶店を出た私は、タケシの言葉が残した不安という影を、夜の街の冷たい空気で振り払おうとしていた。帰り道、大きな交差点の横断歩道で、信号が赤に変わる。無数の人々が、まるで誰かに命じられたかのように一斉に足を止め、静止した。私は、その群衆の中央に、無言で立っていた。
車の走行音も、遠くの話し声も、すべての環境音が消え去った。世界は無音の真空状態になった。この二秒間の空白が、私の心に、タケシの言葉と、ユキの「またね」という言葉の、両極端の情報を突きつけた。
光は、信号の赤色だけが、強烈に輝いている。その赤色が、凍り付いたような群衆と、私の立ち姿を、均一に染め上げていた。その光は、「危険」を告げているのか、あるいは「停止」を命じているのか。
私はコートのポケットの中で、携帯に手を伸ばす。指先が、その冷たい表面に触れる。ユキの連絡先は、まだその中にある。あの薄暗い喫茶店で無視した不安という義務感が、喉元まで迫り上がってくる。ユキが痩せていたという事実。彼女は、「自分をこんな状態のままにしないで、早く見つけてほしい」と、無意識下に待っているのかもしれない。それが、あの窓辺で残された一センチメートルの隙間の真実かもしれない。
しかし、私は指の動きを止め、携帯をポケットの奥へとしまう。発信という能動的な行動は、許されない。
その瞬間、錯覚が私を襲った。背後、横断歩道の脇を、ユキの同じ薄茶色の髪をした人物が、速足で横切っていく気配を皮膚で感じた。私の意識は、その人物を追いかけることを拒否する。私は、振り向かない。もしそれがユキであったとしても、私は見なかったことにする。
なぜなら、ユキの「見つけて欲しい」という希望を現実の行動として受け止めてしまえば、私は動かなければならなくなる。それは、私の停滞を破るだけでなく、ユキの消失を「猫のように美しい」という、私が設定した価値から引きずり下ろしてしまう。
私は、目を閉じ、そして再び開けた。 「ユキは私に見つけてほしいと待っている。だからこそ、私は今動かなくても大丈夫だ」
この誤った論理、自己欺瞞という名の観念が、信号が変わる一瞬のうちに、私の心に深く定着した。ユキが残した「余白」は、この瞬間から、私の現状維持を維持するための、誤読された観念となった。私は、ユキの孤独な美学を、自分の停滞の価値という、醜い結論に変えてしまったのだ。
青信号に変わり、再び環境音が流れ込む。群衆が流れ始める中、私もその流れに身を任せ、この停滞の確信を抱いて、帰路についた。
その日の午前、私は気がつくと電車の中にいた。ユキが住む地方都市の昼下がり、駅前から少し奥まった住宅街に降り立つ。空は昨日までのような厚い鉛色の雲ではなく、水墨画のように薄く広がる曇りだった。四八〇〇Kのフラットな光が、街全体を均一に照らしている。色彩に乏しい風景の中を、湿った風がねっとりと肌に張り付くように吹き抜けていった。
私の行動は、論理的な動機から生まれたものではない。タケシから聞いたユキの不調の「影の報せ」を、これ以上否認し続けることが、精神的に不可能になったからだ。私の頭は、ユキの「美学的な拒絶」と、私の「停滞の正当化」という二つの命題を同時に処理しきれず、思考を停止させるために、身体を動かした。行動が、動機より先に走り出したのだ。
私の視線は、住宅街の細い道をロングショットで捉える。やがて、その構図は私の後頭部を追うミディアムショットへと切り替わる。私の身体は動いているが、その動きはぎこちない。周囲に人影はない。聞こえるのは、遠くで鳴く犬の遠吠えと、どこかの家の換気扇が回る低い音だけだ。人声という、現実との繋がりを保つ情報が意図的に排除されている。
手に持ったノートには、細い文字で書き付けられた手書きの住所の断片がある。それがユキの住居であるという確信は薄い。ただ、「動いている」という感覚だけが、私の不安を一時的に麻痺させていた。
一歩、二歩、三歩。
私は立ち止まり、ノートと折りたたまれた住宅地図を見比べる。地図上の無数の線と、ノートの手書きの断片を照合する作業は、極めて無意味だった。私が目指す場所が本当にここなのか、確認しているわけではない。ただ、考えることを避けるために、立ち止まる。
「・・・いや、まだだ」
そう呟き、私はコンビニの袋から、古いレシートを取り出した。日付も購入品目も、ほとんど薄れかかっている。それをノートの住所と照らし合わせる。この無為な作業を繰り返すことで、私はユキの健康不安や自分の停滞について深く考えることを、一時的に停止できる。これは、探しているのではなく、考えを止めたいという、心理的な逃避の動作だった。
シャラララ・・・
遠くの換気扇の音が、私の心理状態を冷たく反映している。私はまた歩き出す。この湿った空気が、私の思考を重く、そして鈍くしているようだった。
一歩、二歩、三歩。
再び、私は立ち止まり、レシートとノートを見比べる。二セット目のこの動作は、私が「追跡」という行為を、自分の停滞を正当化するための言い訳として利用していることを、痛々しく証明していた。私の目的は、ユキの「美学の領域」に踏み込むことではなく、思考の麻痺にあった。
この住宅街の風景は、昨日まで私を縛っていた停滞そのものだ。だが、今はそこに、私自身の行動という新しい要素が加わっている。
ユキの残した「余白」を追うという行為は、まだ「探している」という能動的な行為ではない。それは、不安な思考を止め、心を空っぽにするための、ただの動作だった。私の身体は、ユキの住所という物理的な目標を追いかけているが、魂は、動かないことの安寧から、まだ完全に離脱できてはいなかった。
ノートと古いレシートを頼りに辿り着いたその場所は、幹線道路から一本入った裏通りに佇む、築年数の経った二階建てのアパートだった。昨日の湿った風に晒された外壁はくすんで見え、この地方都市の時間の停滞をそのまま表しているようだった。私は、その建物の前に立ち、ノートをポケットに押し込んだ。
私がアパートの前で立ち止まって間もないうちだった。まるで私の訪問を予測していたかのように、二階の窓辺にいたユキが、ふと顔を上げた。その静かな仕草は、驚きや戸惑いという感情を一切伴わず、むしろ厳しい覚悟に見えた。
空の曇りを反射した外の光は、すべてを白く塗り込めるような寒色だった。それは、私が立っている冷たい現実そのものの色だ。それに対し、ユキがいる室内は、白熱灯の強い暖色に染まっていた。窓枠という硬質なフレームが、冷たい現実を突きつける私と、隔離され、自己完結したユキの領域を明確に分離している。この強烈な色温度の対立が、私の心に、この再会が対等なものではないという、最初の五感を通した警告を与えた。私は、自分の世界が外側に、ユキの世界が内側に反転している感覚を覚えた。
私がこの二つの世界の対立に言葉を失っているうちに、ユキは開口する代わりに、カーテンの端をわずか一センチメートルほど開けた。その視線は、私の姿を認めても、表情を変えない。驚きも、安堵も、そして以前見せた「ごまかすような笑み」さえもない。ユキの瞳は、私を通り越して、私の背後にある遠い空の向こうを見つめているようだった。それは、私との関係性よりも、もっと決定的な何かに、彼女の意識が向いていることの証拠だった。ユキはもはや「見つけて欲しいから待つ」という微かな希望の演技を完全に放棄していた。
私は絞り出すように彼女の名前を呼んだ。
「ユキ・・・」
その声はこの寒色の世界に響かず、すぐに消えた。数年ぶりに会った恋人に向けるべき、優しさや問いかけの言葉は、すべて喉の奥に張り付いて出てこなかった。私の脳は、彼女の冷淡な視線と室内が放つ人工的な暖かさの矛盾を処理できずに混乱していた。
ユキは、まるで掃除をしている最中のような、感情を排した、淡々とした声で言った。
「汚いものは嫌いなの」
その言葉は、私の知っているユキの性格とは決定的に食い違っていた。かつてのユキは、少しくらいの乱雑さや予測不能な出来事を許容する奔放な自由さを持っていたはずだ。それが今、彼女自身の口から発せられたのは、「許容しない」という明確な宣言だった。この瞬間、ユキの「美学」が初めて形になった。
私は咄嗟に恋人としての過去の関係性の中に留まろうとし、彼女の言葉が単なる生活態度を指していると誤認した。
「そんなこと、前は言ってなかった」
この返答は、私がユキの言葉に込められた真の意図すなわち「病という汚染から自己の領域を保ちたい」という美学の次元の拒絶があることに気づいていないことの証拠だった。私は、彼女の「美学の領域」と私の「恋人の領域」の間に生じた、決定的な認識のずれの中にいた。この返答は成立しない。
ユキは私の言葉に応じることなく、ゆっくりと窓に手をかけ閉め始めた。窓のレールを滑る、金属が擦れる低い摩擦音が響く。それは私たちの関係に終止符が打たれる音のように感じられた。
窓は完全に閉まらず、一センチメートルほどの隙間を残した。その閉まる音は、アパートの外壁に設置された、一定の単調な音を立てる換気扇の音に、すぐに飲み込まれていった。ユキが窓を完全に閉めなかったのは私を慮った優しさではない。それは彼女が「待つ希望」という微かな演技を完全に放棄したことの証明だった。
私の視覚はユキの背後の暖色の世界に捕らえられていた。暖かさの中にいながら、ユキは孤高の孤独を放っていた。清潔という言葉がこの瞬間、ユキにとって「病という汚染から身を守るための絶対的な拒絶」であることを、私は五感で感じ取ろうとしていた。私の指先が外壁の冷たいコンクリートに触れる。その冷たさがユキの熱のない決意を伝えているようだった。
私はまだ、彼女の言葉の裏にある死の影ではなく、ただ「恋人として振られてしまった」という浅い傷に囚われ、本質的な次元のずれの中に立ち尽くしていた。この拒絶は私の停滞を破るには十分だったが、ユキの孤独な美学を理解するにはまだ遠すぎた。
夜半。私はユキが住む二階建てアパートの階段下にいた。外灯は切れており、周囲は光を失っている。微かに遠くの街灯の光が届く程度で、私の姿はほぼ影の中にあり、輪郭がぼんやりと浮かび上がるに過ぎない。この場所は、世界から切り離された、次の行動へと脱皮するための密室のようだった。湿った風が、階段下の冷たいコンクリートを撫でていく。その冷気が、私の身体の芯まで染み込み、停滞のぬるま湯から無理やり引きずり出そうとしている。
私はしゃがみ込み、履いているスニーカーに手を伸ばした。その靴は「動かないこと」を容認する停滞の象徴だった。私は停滞の延長線上として空転した行動から抜け出さなければならない。
下からの煽りの構図で私の動作が始まる。
私は靴紐を握り、ゆっくりと、そして強く結び直した。これまでの曖昧な行動ではなく、意志を込めるように力を込めた。ユキの孤独な美学の領域に踏み込むためには、確固たる決意が必要だった。その決意を私は靴紐に託したのだ。指先に血が滲むような力が入る。
「動かなければならない」という焦燥が、指先に伝わる。私の心は、「汚染」を恐れるユキの拒絶と、「見つけて欲しい」という微かな希望の間に揺れていた。
プツッと。
その切れる音が、周囲の無音の中で、鋭く、不気味に強調されて響いた。強すぎる力が、使い古された靴紐を中央で断ち切ったのだ。靴紐は私の過去の停滞の象徴だった。それが私が未来の意志を込めた瞬間に自壊した。
私は一瞬の驚きの後、その切れた紐を見つめた。「止まる」ための靴が、「動く」ための意志を込めた瞬間に機能を失った。この現象は、私のこれまでの停滞の論理がここで完全に破綻したことを象徴的に示していた。私の人生は、この切断の音と共に、過去と決別したのだ。
私の中に存在した「ユキは待ってくれているかもしれない」という微かな希望(余白)は、この靴紐が切れた音と共に、ハル側の論理の中で機能を失った。ユキは窓を一センチメートル残したが、私は今、自分自身の停滞の象徴を自らの手で破壊したのだ。彼女の美学に追いつくためには、中途半端な希望を捨てる必要があった。
私は切れた紐の端を、そのままにしておくことはできなかった。
私は無言で、靴紐を結び直した。切れた端と端を、固く、二度、三度と結ぶ。結び目は、不格好で強引な継ぎ目となった。それは、過去の停滞(切れた紐)と、未来の追跡(結び直す力)を、無理やり繋ぎ合わせた、脱皮の痕跡だった。この不格好な継ぎ目こそが、私が逃避を捨てて、彼女の真実に立ち向かうという、新しい決意の象徴になった。
私は立ち上がった。階段下のほぼ影の中に、私の輪郭だけが、新しい意志を伴って浮かび上がった。
私の足の裏に、地面の冷たさが再び明確に伝わってくる。それは、もう停滞を意味する冷たさではない。それは、行動を開始する前の、緊張と覚悟の冷たさだった。
この瞬間、私は「停滞を破る」という行動の意志を確定させた。「追跡者」への胎動が、切れた靴紐の継ぎ目という、不格好な象徴の中で始まった。ユキの孤独な美学を、汚染することになろうとも、私は動かなければならない。彼女の「最後の最後で無くなる」という決意の瞬間に、立ち会うことこそが、私に残された愛の証明だと悟った。
夜十時前後。ハルのアパートの部屋は、蛍光灯から放たれる冷たい白の光に満たされていた。室内には湯気が立つような温もりはなく、窓の隙間から微かな寒気が絶えず流れ込んでいるのが皮膚で感じられた。その寒気が、ハルの思考の熱を冷まそうとしているようだった。
ハルは机に向かっていた。机上には、乱雑に積み上げられた仕事の資料がある。ハルは資料を手に取っては置き、手に取っては置き、整理している「ふり」をしているに過ぎなかった。彼の視線は宙を彷徨い、そこに集中はない。彼の意識は、ユキの残した「余白」と、靴紐が切れたあの夜の焦燥の間に、引き裂かれていた。
その静寂を唐突にスマホの振動音が短く打ち破った。
ハルは、その音に身体を硬直させた。振動が直接、彼の心臓を叩いたかのような衝撃だった。彼はゆっくりと携帯を手に取る。その冷たいガラスの画面が、彼の顔の前に光を放った。
画面には、「ユキ:明日、少し話せる?」という、短く、句点も絵文字もない文字が表示されていた。その簡潔さ、そして「ユキ」という名前に、ハルの全身の血液が、一瞬で熱を帯びる。
彼は、思わず声を出さずに息を吸った。その吸い込んだ息は、喉の奥で詰まり、安堵と驚きが混じった無音の叫びとなった。
「待たれていた」という確信が、ハルの心に暴力的な希望となって押し寄せた。あの窓の一センチメートルの隙間は、私の決意を試す罠などではなく、「見つけて欲しい」という微かな愛の証明だったのだ。
ハルは、椅子から勢いよく立ち上がった。その動作は、彼の背後にあった停滞の空気を、一瞬で吹き飛ばした。
彼はメッセージを何度も開いたり、閉じたりした。その行為は、メッセージの真実性を味わおうとする、確認の儀式だった。彼は返信文を打ち始めた。しかし、感情が言葉になりきらず、打っては消す動作を繰り返す。
最終的に、ハルが送ったのは、「もちろん」の三文字だけだった。
送信画面に映る、既読がつかないという事実。それは、ユキがこのメッセージを送り届けた時点で、再びその領域を閉ざしたことを示唆しているが、ハルはそれを無視した。
彼は、頭の中でユキとの過去の再会を再生し始めた。「あの時の『またね』が、こうして続いていたんだ」と、都合の良い解釈で、すべての断絶を繋ぎ合わせた。彼は、自分が「動かなかったこと」を、ユキの「待つ」という行為が肯定してくれたのだと、勝利者のように感じた。
ハルは、窓へと近づき、カーテンを閉めようとして、手を止めた。窓の外では、街灯の明かりが、冷たい白を放っている。その光が、窓ガラスに反射し、青白く歪んだ彼の顔を映し出した。
ハルは、反射した自分の顔を見つめたまま、「明日」という単語を、ほとんど聞き取れないほどの声で、寝る前に何度も呟いた。その言葉だけが、この夜の唯一の救いのように、彼の耳に残った。
翌日。約束の時間よりも三十分早くハルは待ち合わせ場所に指定された駅近くのカフェの扉をくぐった。午後の明るさが大きなガラス窓から逆光となって店内に入り込み光を浴びたカウンターが眩しく輝いていた。店内の照明は意図的に弱められており、午後の逆光と店内の薄暗さが、この場所を現実と幻想の狭間にあるような曖昧な空間にしていた。
ハルは、レジに向かうと、反射的にカップを二つ注文してしまった。その行為は、ユキの確実な存在を、まだ彼は疑っていないことの証明だった。カップを二つ持たされ、ハルはガラス越しの人混みがよく見える窓際の席に座った。彼の前には、熱いコーヒーが静かに湯気を立てている。
席に着くと同時に、ハルは時計を何度も確認し始めた。まだ約束の時間には早い。だが、早く着いたという事実は、彼がユキのメッセージにどれほど切実な希望を託しているかを物語っていた。その瞬間から、待つことが彼の唯一の存在理由となる。
店内のBGMは、ピアノの旋律が主体となった、単調な曲だった。その曲がハルの意識とは無関係に何度も何度も繰り返される。その繰り返しが、時間の経過を不気味なほど強調し、ハルの焦燥を静かに煽った。
約束の午後三時を過ぎた。
「きっと、遅れているだけだ」
ハルは、心の中で自分を説得する言葉を繰り返した。「明日、話せる」という言葉の力はまだ強力だった。彼は、ガラス窓に顔を近づけ、外を歩く人々の流れの中に、ユキの姿を探した。薄茶色の髪、猫のような仕草。しかし、誰かを見つけるたびに、すぐに「違う」と否定を繰り返す。この「探す」と「否定する」の往復運動は、ハルが現実を受け入れることを拒否している、心理的な逃避だった。
時間は容赦なく進んでいく。外の光は徐々に傾き、逆光の影響で、店内は光のスペクトルを変化させていった。午後四時を過ぎた頃、店内に差し込む光は、温かみのある金色へと変わった。その金色は、ハルがユキとの過去に抱いていた「間違った懐かしさ」のようだった。しかし、さらに時間が経ち、四時半を過ぎると、光の温度は急速に低下し始め、店内は再び冷たい灰色の影が支配する空間へと変化していった。
日暮れの光が消える瞬間、ハルの心もまた、空白になる。
午後五時を過ぎた。約束の時刻から二時間。
店員が不安そうな顔でハルのテーブルに近づいてきた。
「お客様、お連れ様がまだでしたら、こちらお下げしてもよろしいでしょうか?」
ハルは、店員の声に驚き、現実へと引き戻された。彼の喉は渇ききっていたが、目の前には、一口もつけられていない冷めきったカップが二つ残っている。
「もう少しだけ」
ハルは、ほとんど囁くような声で言った。この「もう少しだけ」という台詞は、単にコーヒーを待つ言葉ではない。それは、「ユキが姿を現すかもしれない」という偽りの希望を、人生のすべてとして、永遠に待ち続ける人の象徴へと、ハル自身が変貌したことを示唆していた。
彼の心は、時間が経つほどに、「待つ」こと自体が、ユキとの関係性、ひいては自分の存在価値のように感じ始めていた。ユキが来るという確証は、もはや必要ない。「待つ」という行為こそが、彼が停滞から脱却した唯一の行動になっていたのだ。
午後六時過ぎ。ハルは、永遠に続く待ち時間から、ようやく解放された。店員に二つの冷めきったカップを下げてもらい、駅前のロータリーへと出た。街灯が点灯した直後の光景は、すべてが冷白に染まり、ハルの内面に残る「もう少しだけ」という粘着質な希望を、切り離そうとしているようだった。
ハルは、人混みを避けるようにロータリーの端を歩いていた。カフェで待っていた二時間分の焦燥と空腹が、彼の身体を重く圧迫する。
その時、強い風が吹き抜けた。冬の夜の風は、顔に鋭く打ち付け、地面を舞う無数の紙片を、ハルの脚へと叩きつけた。新聞の断片、レシート、そして小さな白い封筒。
ハルは、足を止めた。彼の視線は、ベンチの脚元に、風に押さえつけられるように横たわっている封筒に釘付けになった。それは、まるで誰かに見つけられることを待っていたかのように、その場所にいた。
ハルはゆっくりとしゃがみ込み、その封筒を拾い上げた。指先で触れた感触は、普通の事務用封筒とは異なり、微かに硬質な何かを含んでいた。差出人の名前はなかった。
ハルは、封筒を破り、中身を取り出した。中には二つのものが収められていた。一つは、手のひらサイズの小さな鏡。もう一つは、簡潔なメモだった。
メモには、インクの滲み一つない、硬質な筆跡で、たった一行だけが書かれていた。
「もう待たなくていい」
その文字を読み取った瞬間、ハルは即座に悟った。これはユキからのメッセージだ。しかし、それは「会える」という偽りの希望を維持するためのメッセージではない。
「もう待たなくていい」という言葉は、ハルの心の中で、「ユキはもう誰も待っていない」という絶対的な宣告へと反転した。ユキの孤独な美学は、ここに来て、「私を探すこと自体が無意味だ」という、究極の拒絶を突きつけてきたのだ。あの日の窓の一センチメートルは、希望の余白ではなく、最後の拒絶の手段だった。
ユキに愛されていたという幻想は、この瞬間、恐怖へと変わった。
彼は、メモを脇に置き、封筒の中に残された鏡を手に取った。鏡の重みが、このメッセージがユキの確固たる意志であることを、物理的にハルに伝えてきた。
彼は、鏡を自身の顔へと向けた。鏡に映った彼の目は、街灯の冷白な光に照らされ、まるで他人のように冷たい。その瞳は、ユキを愛する者の瞳ではなく、真実を追う者の、虚無的な瞳だった。
この鏡越しの冷たい他人の目は、ハルがユキを見失ってしまったことの暗示であり、ユキの美学の領域に触れたことで、ハル自身も自己という形を失いつつあることを示していた。
そして、ハルは鏡を裏返した。
鏡の裏面には、一本の薄茶色の髪の毛が、セロハンテープで丁寧に貼り付いていた。その髪の毛は、ユキの生きた痕跡であり、「待たなくていい」という宣告の生々しい証拠だった。この髪の毛こそが、ユキがこの場所で最後に残した、生体的な証拠となり、ハルを次なる追跡へと駆り立てる強烈な触媒となった。
ハルは、鏡とメモ、そして髪の毛が貼り付いた鏡の裏面を、強い風が吹き荒れるロータリーの中心で、強く握りしめた。偽りの余白は完全に消え去り、「追跡者」が、この偽りのメッセージによって、ついに誕生した。
午後七時を過ぎた夜の街は、その熱量を増していた。ロータリーを抜けたハルは、人々の喧騒が渦巻く交差点からビル街へと足を踏み入れた。周囲のネオンと街灯の光が、上空の低い雲に反射し、地面を照り返している。その地面は、雨上がりのように湿って、人工的な光沢を放っていた。
ハルは、ベンチの脚元で拾い上げた鏡を、コートの深いポケットに静かに押し込んだ。その鏡に張り付いたユキの髪の毛こそが、彼の持つ唯一の確かな痕跡だった。もはや「待つ」という選択肢は消滅した。
彼は、歩きながら携帯のGPSアプリを起動した。画面上には、ユキからメッセージが発信されたとされるおおよその地点を示すピンが立っている。そのピンは、都市の喧騒から少し離れた、かつて二人が通った港沿いの寂れた場所を示していた。
「港沿い……」
ハルは、その地名が持つ舞台としての重みを直感的に感じ取った。ユキは、愛を育んだ場所を、決別の場所として選んだのだ。
ハルは、それまでの停滞や空転が嘘だったかのように、足早に歩き始めた。彼の行動には、もはや迷いがない。彼は信号が赤であることにも気づかず、そのまま横断歩道に踏み出しかけた。
「キィーッ! パンッ!」
横を通り過ぎる車が、鋭いクラクションを鳴らした。その甲高い音が、ハルの意識を現実へと引き戻す。彼は、自分が死にすら無頓着なほど危うい状態にあることに気づき、一瞬だけ、口元に薄い笑みを浮かべた。その笑いは、恐怖ではなく、自分の生を動かす理由を見つけたことに対する、狂気的な安堵の感情だった。
彼の呼吸は荒くなり、夜の冷たい空気の中で、口から吐き出される息は白くなった。それは、彼の内面で燃え上がった焦燥が、外部に漏れ出している物理的な証明だった。
遠くで、電車の走行音が、規則的なリズムで響いた。その音は、ユキの「最後の旅」を予感させる、冷たい時間軸の進行を象徴している。ハルは、ふと立ち止まり、空を見上げた。低い雲が、都市のネオンの光を反射し、空全体を人工的な光で染め上げている。
彼の心の中では、「再会」という目的が完全に崩壊した。ユキからのメッセージは、「会うため」の誘いではなかったのだ。
ハルは、静かに、しかし確固たる意志を込めて、独白した。
「会うためじゃない。見つけるために行く」
この言葉は、彼の追跡者としての誕生の宣言だった。彼は、待つ側から探す側へ、完全に変貌を遂げた。彼の自分の生を動かす理由は、ユキの孤独な美学の完成(死)という、危うい目的に置き換わった。この「会うためじゃない」という言葉は、ハルが得る究極の結論と、対比されることになる。
ハルは、再び歩き始めた。彼の足取りは、もはや停滞の延長ではない。それは、決意を伴った、港沿いの、最後の舞台へと向かう、追跡者の歩みだった。
午後八時半から九時の間。ハルは、ネオンの光が届かない、港沿いの道を歩いていた。ここは、ユキからのメッセージが発信されたとされる、かつての思い出の場所の境界線だ。
道はアスファルトだが、湿っており、足音が沈む。街灯の橙色の光と、遠くの港湾施設から漏れる海面の反射だけが、周囲の輪郭を辛うじて浮かび上がらせていた。その光は、不安定に揺れており、ハルの心理をそのまま映しているようだった。
ハルは、コートのポケットに握りしめたスマホのGPSを頼りに歩く。画面上の青い点は、ユキが残した最後の偽りのメッセージが発せられた場所へと、一歩ずつ近づいていた。
風が強く、その風は海の塩気を運んでくる。塩気の混じった冷たい風が、ハルの頬に鋭く当たる。その刺激は、彼が都市の喧騒から離れ、ユキの美学の領域へと深く足を踏み入れたことの、五感を通した証明だった。
足元に、水たまりが点在している。その水たまりは、遠くのネオンや街灯の光を映し、人工的な揺らぎを見せていた。その揺らぎが、ハルの現実感を薄れさせていく。目的地が近づくほど、「ユキに会える」という感情は消え失せ、「追う」こと自体が、すでにユキの孤独な儀式に参加するための儀式のように感じ始めた。
道の途中で、ハルはコンビニの袋を拾い上げた。風に煽られて、彼の脚に纏わりついたのだ。しかし、袋の中身は空だった。彼は、その視覚的な「虚無」をしばらく見つめ、静かに袋を道端に置いた。この虚無こそが、ユキが最後に残そうとしているものなのか。
さらに進むと、道の端に、苔むした古いバス停があった。そのベンチの上には、誰かが忘れていったのか、あるいは意図的に置かれたのか、折れた傘が横たわっている。それは、役目を終えた庇護の象徴であり、ユキが孤独を選び、誰にも守られないことを決めたことの、物理的な暗示のようにハルには見えた。
突然、ハルが頼りにしていたGPSが不安定に揺れた。画面上の青い点が、ユキのメッセージ発信地点から、数メートル、不自然にずれる。
ハルは、その場に立ち止まり、手に持ったスマホの光で、足元の湿ったアスファルトを照らした。彼の心拍は早くなっているが、感情は驚くほど冷えていた。ユキは、到達不可能な距離を、数メートルという物理的なズレとして、最後に示してきた。
周囲は無音に近い。ただ、海の風の音だけが微かに響く。その中で、ユキの「もう待たなくていい」という、無音の宣告が、ハルの頭の奥で、繰り返し反響していた。
午後九時から十時の間。ハルは、GPSのピンが示す場所の周辺、港の倉庫群へと入っていった。港湾特有の無機質なコンクリートの壁が、夜の闇の中で高くそびえ立つ。照明は、低い位置に設置されたナトリウム灯の、強いオレンジ色だけだった。その光は、影を濃く、そして不気味に長く伸ばし、現実の風景を非現実的な舞台へと変えていた。
周囲の音は、風の唸りと、波がコンクリートの壁に打ち付けられて返ってくる反射音だけだ。その二つの音が、ハルの追跡を、まるで孤独な対話のように演出していた。
ハルは、倉庫の壁に目を凝らした。長年の潮風に晒された壁には、色褪せた落書きが、意味不明な文字の層となって貼り付いている。その落書きの間を、ハルはユキの名前を無意識に探し続けた。それは、ユキがこの場所に残した手がかりではなく、「まだ生きてここにいた」という、最後の証拠を求める切実な願いだった。
YUKI。その四文字。
彼の視界の隅に、YUKIと似たかすれ文字が、錆びたパイプの横に書き込まれているのを見つけた。心臓が、一瞬で早鐘を打つ。手がかりだ。彼は駆け寄り、スマホの光でその文字を照らした。しかし、光の下で確認した文字は、YUKOだった。たった一文字の見間違い。
ハルが見間違いに気づいた瞬間、不意に強い海風が吹き抜け、倉庫の地面に積もっていた砂が、彼の顔めがけて激しく舞った。砂は、彼の瞳を塞ぎ、この場所の「虚無」を強制的に認識させた。
目を細め、風が過ぎ去るのを待ったハルは、倉庫の裏手に回った。そこには、コンクリートの土台の上に、まるで小さな祠のように設置された、石碑があった。その石碑は、港湾関係者か、あるいは海に帰った人々のためのものだろうか。石碑の前には、誰かが供えたのだろう、白い花が一本、供えられていた。
その花は、潮風に煽られたのか、土台から倒れて、横たわっていた。
ハルは、無意識にしゃがみ込み、その白い花を、優しく拾い上げた。そして、土台の前に空いた穴に、そっと元に戻した。その間、彼の手が震えていることに、ハル自身は気づいていなかった。その行為は、無言の、そして無意識の「墓参り」だった。
ハルは、この場所が持つ静謐な力に、ユキがここを選んだ理由を、理屈で理解し始めた。
「汚されない」「静か」「誰も見ない」。病に汚される前に、美学を完成させるための、完璧な終着点。この石碑こそが、ユキが求めた「断絶の完成」の場所だったのだ。
しかし、その理屈が明確になればなるほど、彼の感情はそれを激しく拒んだ。私の愛するユキが、こんな場所で、孤独に自己を完結させたという事実を、彼の心臓は受け入れようとしない。
この港は、船が出入りし、活気がある「生きている」空間である一方で、潮風と石碑が支配する「死んでいる」空間でもあった。ハルは、この「生と死が混在する空間」を、ユキの孤独な美学が作り出した偽りの領域として認識し始めた。
午後十時過ぎ。ハルは、港の倉庫群からさらに海沿いの登り階段を見つけ出した。その階段は、錆びた鉄骨でできており、手を触れた瞬間に冷たい錆が指先に付着する。一歩踏み出すたびに、金属がきしむ音が、静寂の中で不気味に響いた。
周囲の照明はほとんどなく、頼りは月光と、遠くの街から漏れる人工的な明かりだけだ。この崖の上へと続く階段は、この世の境界線を上っているような錯覚を覚えた。ハルは、荒い息を吐きながら、無心で段を上り続けた。
上り切った場所は、風が吹き荒れる見晴台だった。そこに、周囲の風景から浮いたように、金属製のロッカーが、ぽつんと、ひとつだけ置かれていた。長年の潮風に晒され、表面は潮焼けしている。それは、ユキの「孤独な美学の終着点」を示す、モニュメントのようだった。
ロッカーの南京錠は、すでに壊れて、金具が曲がっていた。ハルは、手を触れることなく、そのロッカーが開けられる状態にあることを理解した。まるで、ユキ自身が、「誰かに見つけてほしい」という最後の微かな希望を込めて、開錠しておいたかのように。
ハルは、深呼吸し、ロッカーの扉を引いた。扉の裏側は、錆びの匂いと、古びた金属の冷たさが混じった、独特の匂いがした。
中に収められていたのは、たった三点。一つは、ユキの着ていたコートの袖口。綺麗に切り取られた、淡い茶色の生地だ。二つ目は、壊れたペンダント。そのペンダントの中には、小さな写真が収められていたが、その写真は、以前二人が撮ったプリクラが、意図的に半分に裂かれて、ユキの側の破片だけが残されていた。「繋がりの断裂」が、視覚的な痛みとして、ハルに突きつけられた。
そして、ロッカーの底に、もう一つ。ユキの手書きのメモが、丁寧に置かれていた。
ハルは、そのメモを拾い上げ、月明かりの下でその一文を読み取った。
「綺麗な場所で終わりたい」
この「終わりたい」という言葉は、ハルの心に決定的な認識の反転を引き起こした。それは、単に「死にたい」という絶望ではない。ユキの言葉は、「記憶の終点」を、病に汚される前の、最も美しい瞬間に設定したいという、切実な意志の表明だった。
「終わりたい」は、「終わらせたい」ではない。それは、「誰かに見つけてほしい」という、ユキの最後の痕跡だった。彼女の願いは、「美しく消えること」だと、ハルは理屈ではなく、感情で悟った。
だが、ハルが同時に気づいたのは、その美しさが、「誰かの痛みで完成する」ものだということだった。ユキの孤独な美学は、追跡者であるハルの喪失と苦悩という対価を要求していたのだ。
ハルは、壊れたペンダントと、破られたプリクラのユキの破片を握りしめた。彼は、ユキの「綺麗な場所で終わりたい」という願いを、「綺麗な場所で終わらせてはならない」という、新たな決意へと繋げた。
ハルは、ロッカーの冷たい金属の感触を背中に感じながら、恐怖と愛が混在する、新しい決意を固めた。
午後十一時から午前零時の間。ハルは、ユキの最後の痕跡が収められていた金属製ロッカーの前にいた。風は相変わらず強いが、遠くの街の明かりはもう届かない。崖の上の見晴台を照らすのは、月光だけだった。その冷たい青白い光が、ロッカーとハルの姿を、まるで彫刻のように静止させている。
ロッカーの中の袖口、破れたプリクラ、そして「綺麗な場所で終わりたい」というメモを、ハルは全てポケットに収めた。彼は、ゆっくりとロッカーの扉を閉じた。ガチャリというその音は、ユキの孤独な美学が、この場所で完全に完成されたことを告げる、断絶の儀式の終了音だった。
周囲の音は、波が崖下の岩に打ち付ける低い響きと、遥か遠くで鳴る船の汽笛だけだ。その汽笛は、ユキがこの場所から、見知らぬ大海原へと旅立ったことを暗示しているようだった。
ハルは、海を見下ろし、足元の砂利を、一歩、強く踏みしめた。ジャリッと、その砂利の軋む音が、周囲の静寂の中で、やけに大きく響いた。この足音は、ハルが「動かないこと」を終え、「動くこと」を選んだ、新しい人生の最初の音だった。
その時、強い風が吹き荒れ、彼のコートのポケットから、鏡が滑り落ちた。それは、ユキの髪の毛が貼り付けられていた、あの小さな鏡だった。
鏡は、地面に打ち付けられ、甲高い音を立てて、いくつもの破片に割れた。割れた破片は、月光を反射し、ハルの顔を歪んで映し出す。破片の中の無数の「自分」は、ユキの「もう待たなくていい」という宣告を受け入れた、冷たい追跡者の顔だった。
ハルは、その破片の中の「自分」が、微かに笑っているように見えた。それは、喪失に対する笑いではなく、ユキの美学の完成という、究極の真実に触れたことへの、理解という名の安堵の笑いだった。
ハルは、手を伸ばし鏡の破片を拾い上げようとしたが、寸前で止めた。ユキの「残像」を拾い集める行為は、彼女の美学を汚すことに繋がる。彼は、鏡を壊すことで、ユキの「誰にも見られない」という美学を尊重したのだ。
彼は、その破片を拾わないことを選択した。
代わりに、履き直した靴の靴底で、破片を踏み砕いた。ザリッ、バリッと、砂利とガラスが混じり合う、破壊の音が響く。この瞬間、ハルの中で「追跡」は終わった。
彼は「見つけない」という選択をすることで、ユキの「孤独な美学」という究極の望みを叶えたのだ。
その瞬間、遠くの空で、低い雷のような音が轟いた。それは、嵐の予兆か、あるいは音の転換点を告げる、「動くことの予兆」だった。ハルは、初めて、空を見上げた。低い雲に、月光が反射し、新しい夜明けのような光を放っていた。
彼女は、朝に眠るだろう。
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