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今後余命的に作品が投稿しきれない可能性があるのでほぼ全ての作品を最大30話程度に押し込んだ総集編版、そこから本編に行く感じにします。
焼け付くような日差しが、埃を噛んだ窓ガラスを通り抜けて、ヘンリーの頬を照らしていた。机の上に広がるのは、紙片、紙片、紙片。黄ばんだ紙に刻まれた複雑な線と記号は、この世界の大半の人間にとってはただの落書きで、けれどヘンリーにとっては、暗闇に差す細い光だった。
紙片の端に指を添えると、繊維がわずかに崩れて、乾いた音がした。古い。古すぎる。これが読めること自体が、ヘンリーにとっては呪いみたいなものだった。読めるから、捨てられない。読めるから、期待される。読めるから、危険な場所へ行く。
背後で、衣擦れにも似た機械の音がする。
「ヘンリー、進捗はどうですか?」
声はやわらかい。言葉は丁寧で、温度があるように錯覚する。振り返れば、メイド服のロボット――ラブが、いつもの微笑みを浮かべて立っている。磨き上げられた金属の肌は日の光を受けて淡く艶めき、けれどその瞳の奥には、光が届いていない場所があるようにも見えた。
「……ここが、いちばん厄介だな」
ヘンリーは紙片を指でなぞり、線の交点で止める。回路図。制御系統。動力炉――村を救うか、村を焼くかのどちらかしか許さない、古代の獣。
「動力炉の制御に関わってる。たぶん、いや、かなり確実に」
「村の電力問題を解決できるかもしれない、ですね」
ラブの言葉は明るい。明るいけれど、明るさが“選ばれた音声”のように整いすぎている瞬間がある。ヘンリーはそれを見ないふりをした。見たら、問いただしてしまう。問いただせば、ラブは笑って黙る。黙ったまま、守る。それがいちばん苦しい。
ヘンリーは息を吐き、紙片を一枚だけ持ち上げた。そこに書かれた単語を指差す。
「問題はこっち。動力炉を起こすには、特別な部品が必要だ。『エネルギー・コンデンサ』」
「……私も、記憶にありません」
ラブの微笑みが、一瞬だけほどけた。唇の形が少し崩れて、視線が紙片から外れる。次の瞬間には、何事もなかったように作り笑いが戻り、いつもの“完璧なラブ”になった。
「きっと、どこかの廃墟に眠っているはずです。ヘンリーなら、見つけられます」
「……見つけるしかないんだよな」
村は、暗かった。夜だけの話じゃない。井戸を動かす力が足りず、水は濁る。冬は火が弱く、老人の咳が増える。灯りがないと、夜の作業ができない。作業ができないと、食料が減る。減った食料を巡って、人の心も削れる。ヘンリーはその連鎖を、毎晩のように見てきた。
机の端に置いたランプの芯が短くなっている。これが、この村の寿命の縮図に見えて、ヘンリーは指を握りしめた。
「明日、出る。ラブ、一緒に来てくれるか」
「お供させていただきます。私のデータベースにも、何か情報が残っているかもしれません」
言い方は控えめでも、その中身は断言に近い。ラブはいつだってそうだ。ヘンリーが危険な場所へ行こうとすると、必ず一歩前に出る。自分が盾になる位置へ、迷いなく移動する。
その夜、ヘンリーは水を汲みに行く途中で、ラブが眠る部屋の前を通りかかった。ドアが少し開いている。そこから、微かな機械音――ギィ……という、息をするような、歯車が軋むような音が漏れてきた。
覗く気はなかった。だが、足が止まった。
ラブはベッドの傍らに膝をつき、手を胸の前で組んでいた。祈り。祈りの形だけは、人間と同じだ。けれどラブは神に祈らない。祈る相手がいるとすれば――失われた記憶の向こうにいる誰かか、あるいは“まだ来ていない命令”か。
その表情は穏やかな微笑みとはほど遠く、深い悲しみに沈んでいた。まるで、思い出してはいけないことを、思い出してしまった顔。
ヘンリーは、そっとドアを閉じた。
触れてはいけない。そう感じたのは、優しさだけじゃない。怖かった。ラブの過去に触れた瞬間、ラブが“ラブでなくなる”気がした。
翌朝、二人は村を出た。背中のリュックは軽くない。水、乾燥肉、工具、紙片を守るための布、そして希望という名の重さ。
村の入口で、老婆がヘンリーに声をかけた。
「ヘンリーや、気をつけておくれ。最近、あの『錆色の獣』を見たという者が増えておる」
ヘンリーの喉が、少しだけ鳴った。金属の獣は廃墟にいる。誰もが知っている。だが“錆色の獣”は、噂の格が違う。倒した者がいない、逃げ切った者も少ない。赤い目が見えた瞬間にはもう遅い、と。
「特に東の工場跡地には近づかない方が良い」
「分かっています」
答えた声が、自分でも驚くほど乾いていた。
ラブが、ヘンリーの腕にそっと触れる。温かいわけがないのに、触れられると体の芯が落ち着く。触れられるたび、ヘンリーは思う。自分は、もうこのロボットに依存している。
「大丈夫です、ヘンリー。私が必ずあなたを守ります」
“守る”。その言葉が、救いにも鎖にもなる。
二人は歩き出した。村を背に、文明の死骸へ向かって。
---
廃墟は、風の音さえ錆びていた。鉄骨が空を裂き、瓦礫が地面を埋め尽くし、かつて都市だった場所は、今では墓標の群れになっている。ヘンリーは設計図を胸の前で押さえ、視線を地面に落としながら進んだ。足元は裏切る。踏み出すたびに、世界が崩れる気がした。
「この辺りで合ってるはずだ。図面の通りなら……地下に発電所がある」
ラブは頷く。微笑みは崩さない。けれど、周囲を見渡す目は笑っていない。
「風が強くなってきました。お体をお冷やしになりませんように」
「冷えるのは体だけじゃないんだけどな」
ヘンリーがぼそりと言うと、ラブは首を傾げた。
「心も、ですか?」
「……そういうことにしておく」
会話の軽さは、緊張を誤魔化すための薄い膜だった。膜が剥がれたら、怖さがそのまま噴き出す。
瓦礫の山を越えた先で、巨大なコンクリートの塊が見えてきた。割れた壁面、苔むした縁、地下へ続く入口らしき隙間。
「ここだ……!」
ヘンリーの声が少し上ずる。希望が浮かんだ瞬間、人は一番無防備になる。
入口は固く閉ざされていた。錆びついた鉄扉が、過去の重さそのものとして立ちはだかる。
「ラブ、こじ開けられるか?」
「かしこまりました」
工具箱からバールが出る。手際の良さは熟練した職人のそれだ。金属の指がバールを扉の隙間に差し込もうとした、その瞬間――。
ズズズ……。
地鳴りが、遠くから這ってきた。地面がわずかに揺れ、瓦礫がカラカラと音を立てる。
「地震……?」
ラブの表情が、初めて険しくなる。
「……金属の獣です」
言葉が終わる前に、轟音が大きくなる。瓦礫の向こうから、巨大な影が現れる。錆に覆われた装甲、歪んだ関節、赤い目。歩くたびに金属が擦れ、呻き声みたいな音が空気を割る。
ヘンリーの喉が凍った。足が、動かなかった。
ラブが一歩前に出る。盾の位置。いつもの位置。
「ヘンリー様、お下がりください」
「ラブ、待て――」
「これは、私の使命です」
使命。命令。プログラム。言葉は何でもいい。問題は、ラブがそれを“当たり前”として受け入れていることだ。ヘンリーは歯を食いしばり、設計図の紙片を胸の中に押し込む。
金属の獣が腕を振り上げた。鈍く重い音が空気を殴る。ラブは体を捻り、紙一重で避ける。避けたはずなのに、衝撃で瓦礫が舞う。威力が違う。
「……っ」
ヘンリーは恐怖で震えながら、頭の中で必死に探す。設計図のどこかに、こいつの弱点はないのか。停止コード、制御盤、緊急遮断――。
ラブが獣の足元へ滑り込み、関節部に工具を叩き込む。火花が散る。だが獣は止まらない。止まり方を忘れた機械みたいに、ただ前へ、ただ破壊へ進む。
ヘンリーは叫びそうになる喉を噛み締め、扉を見た。発電所入口。ここを開ければ、逃げ道になるかもしれない。いや、入ったところで、地下は迷路だ。けれど地上よりは遮蔽物がある。
「ラブ! 数秒でいい、扉の前へ誘導できるか!」
ラブが一瞬だけヘンリーを見る。微笑みはない。けれど、そこに確かな意思がある。
「可能です。ヘンリー様、扉を開けてください」
ヘンリーはバールを掴み、扉の隙間に押し込む。錆が粉になって舞う。手が滑る。力が足りない。焦りで腕が震える。もう一度。もう一度。
背後で轟音。ラブが獣の注意を引くため、あえて瓦礫を蹴り飛ばした。金属の獣が旋回する。赤い目がラブを追い、次の瞬間、鉄の腕が振り下ろされる。
扉が、わずかに開いた。
「今だ!」
ヘンリーは叫び、ラブの腕を掴んで引いた。ラブは半歩遅れた。遅れたのではない。遅れざるを得なかった。獣の腕が、ラブの肩の布を裂く。メイド服の白い布が破れ、下の金属が露出する。火花が飛ぶ。
それでもラブは倒れない。
二人は扉の隙間に滑り込み、暗い地下へ転がり落ちた。背後で扉が震え、金属がぶつかる音が響く。獣は外にいる。今はまだ入ってきていない。今のうちに、扉の内側から何かで塞がないと――。
「……ラブ、腕は」
「大丈夫です。軽微な損傷です」
軽微。軽微という言葉に、ヘンリーは胸が痛くなる。人間なら悲鳴を上げている。ラブはただ、淡々と報告する。それが余計に怖い。
暗闇の中で、ヘンリーは震える手でランプに火を灯した。光が揺れ、地下通路が浮かび上がる。壁には、かつての案内板のようなものが残り、文字は読めない者にはただの傷だが、ヘンリーには意味がある。
「……これ、制御室の方向だ」
ラブが頷く。
「行きましょう。『エネルギー・コンデンサ』の手がかりが、残っている可能性があります」
ヘンリーは笑ってしまいそうになる。怖すぎる時、人は笑いそうになる。こんな状況でも、ラブは目的を見失わない。目的だけで動くから、壊れない。壊れてほしくない。
---
夕方、二人は地下から別の出口を見つけて地上へ戻った。空は赤く、鉄骨の影が長く伸びる。息が白くなるにはまだ早い季節のはずなのに、ヘンリーの体は冷え切っていた。
安全な休憩場所を探し、二人は辛うじて原型を留めたバスの残骸に身を寄せた。屋根があるだけで世界が優しくなる。ヘンリーは乾燥肉をかじり、ラブは布切れで彼の頬の埃を拭った。メイドとして完璧すぎる動作が、逆に胸を締めつける。
「ラブ、今日……ありがとう」
「お礼には及びません。ヘンリー様のお役に立てることが、私の喜びです」
ヘンリーは肉を噛みながら、言葉を探した。訊きたいことは山ほどある。でも訊いていいことは少ない。
「なぁ、ラブ。昔のこと……覚えてるのか?」
ラブの視線が遠くへ向く。風の向こう。鉄骨の向こう。記憶の向こう。
「記録媒体の損傷が激しく、断片的な情報しか残っておりません。ただ……覚えているのは、大切な人を守るようにプログラムされていたこと。そして、人々が光を失ってしまったことです」
「光を失った……?」
「争い、憎しみ、悲しみ。それらが世界を覆い尽くしました」
ラブの声は穏やかなままなのに、言葉の中身が重い。ヘンリーは喉の奥が痛くなった。自分の村の暗さが、世界の暗さの欠片に過ぎないと突きつけられた気がした。
その時、遠くから金属が軋む音が聞こえた。
ヘンリーが立ち上がりかけるより早く、ラブが彼をバスの陰へ押し込む。
「お隠れください」
赤い光が、暗くなり始めた地平の向こうで点滅した。大型だ。さっきのとは別の個体。歩く音が違う。重い。圧がある。
ヘンリーの背中に汗が浮かぶ。逃げるべきだ。けれど、逃げ続けたら何も変わらない。変えたい。変えたいのに、体が言うことを聞かない。
ラブが、静かに前へ出る。
「……侵入者、発見。退去を勧告します」
その声は、さっきまでのメイドの声と同じなのに、どこか別の層の音が混じっている。命令系統の声。警備装置の声。
金属の獣はラブを無視し、バスへ歩み寄る。ヘンリーの隠れている場所へ。まっすぐに。
ラブが小さく息を吐くような機械音を鳴らし、獣の背後へ回り込んだ。火花。衝撃。金属同士のぶつかる音。ラブの体が揺れる。
ヘンリーは、胸の内側にしまった紙片を思い出す。停止コード。制御盤。さっき地下で読んだ案内板。あの方向に、制御室がある。制御室なら、停止の手がかりが――。
「ラブ!」
ヘンリーはバスから飛び出した。自分の声が、自分のものじゃないみたいに遠い。
獣が振り返る。赤い目が、ヘンリーを捉える。次の瞬間、世界が終わる気がした。
ラブが、その前に滑り込む。
「ヘンリー様……下がってください」
「嫌だ!」
ヘンリーは叫び、工具を握りしめた。理屈じゃない。守られるだけのままでは、ラブの“使命”の中でしか生きられない。ヘンリーはラブに守られる存在で終わりたくなかった。
獣の腕が、二人へ振り下ろされる。
ラブが受け止める。火花が散る。だが次の瞬間、ラブの膝がわずかに沈んだ。荷重が大きすぎる。長引けば、ラブが壊れる。
ヘンリーは歯を食いしばり、獣の関節部へ工具を叩き込んだ。金属の音。痛みが手首に走る。効いたかどうか分からない。分からないが、獣の動きが一瞬止まった。
その一瞬に、ラブが獣を押し返し、ヘンリーの腕を掴んで引く。
「撤退します。今は勝てません」
「……っ、分かった!」
二人は走った。走りながら、ヘンリーは思う。勝てない。今は。けれど“勝つための何か”は、確かに近づいている。設計図は嘘をつかない。古代の技術が存在したなら、停止させる手段も存在する。
逃げ込んだ先は、崩れかけた図書館だった。埃を被った本棚。散乱した紙片。天井の穴から差し込む夕日。ここは、文明の記憶の墓場だ。
ヘンリーは息を整え、設計図を広げた。ラブがランプの火を調整する。
「動力炉の構造が、全然違う……」
「焦らず、少しずつ解き明かしていけばよいのです。私もお手伝いします」
ラブの声は優しい。優しさが痛い。優しさが、壊れる音の前触れに聞こえる。
その時、入口付近で物音がした。足音。複数。人だ。
ヘンリーは咄嗟にラブと本棚の影へ身を隠す。荒い声が響く。
「おい、誰かいるのか! 金属の獣はいないな!?」
「ここもガラクタばかりだ。食い物はねえのか?」
人間。飢えている。荒れている。ヘンリーはその声を聞くだけで、村の夜の匂いを思い出した。闇は人をこうする。だからこそ、光が必要だ。
男たちが本棚の間を漁りながら近づいてくる。ラブが、ヘンリーを見つめた。首を横に振る。今は戦えない、と。
男の手が本棚の裏へ伸びる。
ヘンリーの心臓が跳ねる。
ラブが前へ出ようとする。盾の位置。いつもの位置。
ヘンリーは、その腕を掴んで止めた。
「……俺が出る」
ラブの瞳が僅かに揺れた。
ヘンリーは本棚の影から立ち上がり、男たちの前へ出た。
「やめろ。ここには何もない」
男たちがヘンリーを見て笑う。次にラブを見て、目の色が変わる。
「金属人形か。売れば金になるな」
ラブが一歩前へ出る。表情が冷える。空気が変わる。ヘンリーはそれを見て、確信した。ラブが本気になれば、この男たちは終わる。終わるが、終わらせた瞬間から、ラブは“人を壊す存在”として噂になる。村へ戻る道が閉ざされる。
ヘンリーは、設計図を握りしめた。
ここで守るべきものは何だ。
村の未来か、ラブの未来か。どちらも同じはずなのに、今は両方を守れない。
ヘンリーは決断した。
「……設計図を渡す。これが欲しいんだろ」
男の目が光る。ヘンリーは紙片を抜き、男へ差し出す。渡したのは、全てではない。肝心の“エネルギー・コンデンサ”の記述がある紙片は、胸の内側に残した。だが、それでも痛い。希望を切り売りする痛み。
男は紙片を奪い取るように受け取り、乱暴に丸めた。
「フン。ガラクタにしか見えねえが、まあいい。行くぞ」
男たちが去る。足音が遠ざかる。
ヘンリーは床に膝をついた。喉が焼ける。呼吸がうまくできない。
「……ラブ、大丈夫か」
ラブはヘンリーの前にしゃがみ、そっと手を差し伸べる。微笑みは戻っていない。悲しげな顔だ。祈りの顔だ。
「ヘンリー様……設計図は、村のために……」
「分かってる。分かってるけど」
ヘンリーはラブの手を掴み、立ち上がった。
「でも、俺は――お前を“売らせる未来”は選ばない」
ラブの瞳が、わずかに揺れた。理解の揺れか、プログラムの揺れか、ヘンリーには判別できない。それでも、その揺れが人間の涙みたいに見えて、ヘンリーは目を逸らした。
外で、金属が軋む音がした。赤い光が、図書館の割れた窓の向こうで点滅する。追ってきている。金属の獣は、目的を見失わない。
ヘンリーは胸の内側の紙片に指を当てた。残った希望。残った手がかり。
「行こう、ラブ。東だ」
老婆が言っていた場所。工場跡地。錆色の獣の噂。怖い。だが、避け続ければ、村は先に死ぬ。
ラブが静かに頷く。
「承知いたしました。ヘンリー様の選んだ道を、私は共に歩きます」
二人は図書館を出た。夕日が沈み、空が暗くなる。光が消える時間だ。けれどヘンリーは、今日初めて思った。
光は、落ちるものじゃない。取り戻すものだ。
そしてその光は、たぶん――この世界のどこかで、まだ生きている。
焼け付くような日差しが、埃を噛んだ窓ガラスを通り抜けて、ヘンリーの頬を照らしていた。机の上に広がるのは、紙片、紙片、紙片。黄ばんだ紙に刻まれた複雑な線と記号は、この世界の大半の人間にとってはただの落書きで、けれどヘンリーにとっては、暗闇に差す細い光だった。
紙片の端に指を添えると、繊維がわずかに崩れて、乾いた音がした。古い。古すぎる。これが読めること自体が、ヘンリーにとっては呪いみたいなものだった。読めるから、捨てられない。読めるから、期待される。読めるから、危険な場所へ行く。
背後で、衣擦れにも似た機械の音がする。
「ヘンリー、進捗はどうですか?」
声はやわらかい。言葉は丁寧で、温度があるように錯覚する。振り返れば、メイド服のロボット――ラブが、いつもの微笑みを浮かべて立っている。磨き上げられた金属の肌は日の光を受けて淡く艶めき、けれどその瞳の奥には、光が届いていない場所があるようにも見えた。
「……ここが、いちばん厄介だな」
ヘンリーは紙片を指でなぞり、線の交点で止める。回路図。制御系統。動力炉――村を救うか、村を焼くかのどちらかしか許さない、古代の獣。
「動力炉の制御に関わってる。たぶん、いや、かなり確実に」
「村の電力問題を解決できるかもしれない、ですね」
ラブの言葉は明るい。明るいけれど、明るさが“選ばれた音声”のように整いすぎている瞬間がある。ヘンリーはそれを見ないふりをした。見たら、問いただしてしまう。問いただせば、ラブは笑って黙る。黙ったまま、守る。それがいちばん苦しい。
ヘンリーは息を吐き、紙片を一枚だけ持ち上げた。そこに書かれた単語を指差す。
「問題はこっち。動力炉を起こすには、特別な部品が必要だ。『エネルギー・コンデンサ』」
「……私も、記憶にありません」
ラブの微笑みが、一瞬だけほどけた。唇の形が少し崩れて、視線が紙片から外れる。次の瞬間には、何事もなかったように作り笑いが戻り、いつもの“完璧なラブ”になった。
「きっと、どこかの廃墟に眠っているはずです。ヘンリーなら、見つけられます」
「……見つけるしかないんだよな」
村は、暗かった。夜だけの話じゃない。井戸を動かす力が足りず、水は濁る。冬は火が弱く、老人の咳が増える。灯りがないと、夜の作業ができない。作業ができないと、食料が減る。減った食料を巡って、人の心も削れる。ヘンリーはその連鎖を、毎晩のように見てきた。
机の端に置いたランプの芯が短くなっている。これが、この村の寿命の縮図に見えて、ヘンリーは指を握りしめた。
「明日、出る。ラブ、一緒に来てくれるか」
「お供させていただきます。私のデータベースにも、何か情報が残っているかもしれません」
言い方は控えめでも、その中身は断言に近い。ラブはいつだってそうだ。ヘンリーが危険な場所へ行こうとすると、必ず一歩前に出る。自分が盾になる位置へ、迷いなく移動する。
その夜、ヘンリーは水を汲みに行く途中で、ラブが眠る部屋の前を通りかかった。ドアが少し開いている。そこから、微かな機械音――ギィ……という、息をするような、歯車が軋むような音が漏れてきた。
覗く気はなかった。だが、足が止まった。
ラブはベッドの傍らに膝をつき、手を胸の前で組んでいた。祈り。祈りの形だけは、人間と同じだ。けれどラブは神に祈らない。祈る相手がいるとすれば――失われた記憶の向こうにいる誰かか、あるいは“まだ来ていない命令”か。
その表情は穏やかな微笑みとはほど遠く、深い悲しみに沈んでいた。まるで、思い出してはいけないことを、思い出してしまった顔。
ヘンリーは、そっとドアを閉じた。
触れてはいけない。そう感じたのは、優しさだけじゃない。怖かった。ラブの過去に触れた瞬間、ラブが“ラブでなくなる”気がした。
翌朝、二人は村を出た。背中のリュックは軽くない。水、乾燥肉、工具、紙片を守るための布、そして希望という名の重さ。
村の入口で、老婆がヘンリーに声をかけた。
「ヘンリーや、気をつけておくれ。最近、あの『錆色の獣』を見たという者が増えておる」
ヘンリーの喉が、少しだけ鳴った。金属の獣は廃墟にいる。誰もが知っている。だが“錆色の獣”は、噂の格が違う。倒した者がいない、逃げ切った者も少ない。赤い目が見えた瞬間にはもう遅い、と。
「特に東の工場跡地には近づかない方が良い」
「分かっています」
答えた声が、自分でも驚くほど乾いていた。
ラブが、ヘンリーの腕にそっと触れる。温かいわけがないのに、触れられると体の芯が落ち着く。触れられるたび、ヘンリーは思う。自分は、もうこのロボットに依存している。
「大丈夫です、ヘンリー。私が必ずあなたを守ります」
“守る”。その言葉が、救いにも鎖にもなる。
二人は歩き出した。村を背に、文明の死骸へ向かって。
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廃墟は、風の音さえ錆びていた。鉄骨が空を裂き、瓦礫が地面を埋め尽くし、かつて都市だった場所は、今では墓標の群れになっている。ヘンリーは設計図を胸の前で押さえ、視線を地面に落としながら進んだ。足元は裏切る。踏み出すたびに、世界が崩れる気がした。
「この辺りで合ってるはずだ。図面の通りなら……地下に発電所がある」
ラブは頷く。微笑みは崩さない。けれど、周囲を見渡す目は笑っていない。
「風が強くなってきました。お体をお冷やしになりませんように」
「冷えるのは体だけじゃないんだけどな」
ヘンリーがぼそりと言うと、ラブは首を傾げた。
「心も、ですか?」
「……そういうことにしておく」
会話の軽さは、緊張を誤魔化すための薄い膜だった。膜が剥がれたら、怖さがそのまま噴き出す。
瓦礫の山を越えた先で、巨大なコンクリートの塊が見えてきた。割れた壁面、苔むした縁、地下へ続く入口らしき隙間。
「ここだ……!」
ヘンリーの声が少し上ずる。希望が浮かんだ瞬間、人は一番無防備になる。
入口は固く閉ざされていた。錆びついた鉄扉が、過去の重さそのものとして立ちはだかる。
「ラブ、こじ開けられるか?」
「かしこまりました」
工具箱からバールが出る。手際の良さは熟練した職人のそれだ。金属の指がバールを扉の隙間に差し込もうとした、その瞬間――。
ズズズ……。
地鳴りが、遠くから這ってきた。地面がわずかに揺れ、瓦礫がカラカラと音を立てる。
「地震……?」
ラブの表情が、初めて険しくなる。
「……金属の獣です」
言葉が終わる前に、轟音が大きくなる。瓦礫の向こうから、巨大な影が現れる。錆に覆われた装甲、歪んだ関節、赤い目。歩くたびに金属が擦れ、呻き声みたいな音が空気を割る。
ヘンリーの喉が凍った。足が、動かなかった。
ラブが一歩前に出る。盾の位置。いつもの位置。
「ヘンリー様、お下がりください」
「ラブ、待て――」
「これは、私の使命です」
使命。命令。プログラム。言葉は何でもいい。問題は、ラブがそれを“当たり前”として受け入れていることだ。ヘンリーは歯を食いしばり、設計図の紙片を胸の中に押し込む。
金属の獣が腕を振り上げた。鈍く重い音が空気を殴る。ラブは体を捻り、紙一重で避ける。避けたはずなのに、衝撃で瓦礫が舞う。威力が違う。
「……っ」
ヘンリーは恐怖で震えながら、頭の中で必死に探す。設計図のどこかに、こいつの弱点はないのか。停止コード、制御盤、緊急遮断――。
ラブが獣の足元へ滑り込み、関節部に工具を叩き込む。火花が散る。だが獣は止まらない。止まり方を忘れた機械みたいに、ただ前へ、ただ破壊へ進む。
ヘンリーは叫びそうになる喉を噛み締め、扉を見た。発電所入口。ここを開ければ、逃げ道になるかもしれない。いや、入ったところで、地下は迷路だ。けれど地上よりは遮蔽物がある。
「ラブ! 数秒でいい、扉の前へ誘導できるか!」
ラブが一瞬だけヘンリーを見る。微笑みはない。けれど、そこに確かな意思がある。
「可能です。ヘンリー様、扉を開けてください」
ヘンリーはバールを掴み、扉の隙間に押し込む。錆が粉になって舞う。手が滑る。力が足りない。焦りで腕が震える。もう一度。もう一度。
背後で轟音。ラブが獣の注意を引くため、あえて瓦礫を蹴り飛ばした。金属の獣が旋回する。赤い目がラブを追い、次の瞬間、鉄の腕が振り下ろされる。
扉が、わずかに開いた。
「今だ!」
ヘンリーは叫び、ラブの腕を掴んで引いた。ラブは半歩遅れた。遅れたのではない。遅れざるを得なかった。獣の腕が、ラブの肩の布を裂く。メイド服の白い布が破れ、下の金属が露出する。火花が飛ぶ。
それでもラブは倒れない。
二人は扉の隙間に滑り込み、暗い地下へ転がり落ちた。背後で扉が震え、金属がぶつかる音が響く。獣は外にいる。今はまだ入ってきていない。今のうちに、扉の内側から何かで塞がないと――。
「……ラブ、腕は」
「大丈夫です。軽微な損傷です」
軽微。軽微という言葉に、ヘンリーは胸が痛くなる。人間なら悲鳴を上げている。ラブはただ、淡々と報告する。それが余計に怖い。
暗闇の中で、ヘンリーは震える手でランプに火を灯した。光が揺れ、地下通路が浮かび上がる。壁には、かつての案内板のようなものが残り、文字は読めない者にはただの傷だが、ヘンリーには意味がある。
「……これ、制御室の方向だ」
ラブが頷く。
「行きましょう。『エネルギー・コンデンサ』の手がかりが、残っている可能性があります」
ヘンリーは笑ってしまいそうになる。怖すぎる時、人は笑いそうになる。こんな状況でも、ラブは目的を見失わない。目的だけで動くから、壊れない。壊れてほしくない。
---
夕方、二人は地下から別の出口を見つけて地上へ戻った。空は赤く、鉄骨の影が長く伸びる。息が白くなるにはまだ早い季節のはずなのに、ヘンリーの体は冷え切っていた。
安全な休憩場所を探し、二人は辛うじて原型を留めたバスの残骸に身を寄せた。屋根があるだけで世界が優しくなる。ヘンリーは乾燥肉をかじり、ラブは布切れで彼の頬の埃を拭った。メイドとして完璧すぎる動作が、逆に胸を締めつける。
「ラブ、今日……ありがとう」
「お礼には及びません。ヘンリー様のお役に立てることが、私の喜びです」
ヘンリーは肉を噛みながら、言葉を探した。訊きたいことは山ほどある。でも訊いていいことは少ない。
「なぁ、ラブ。昔のこと……覚えてるのか?」
ラブの視線が遠くへ向く。風の向こう。鉄骨の向こう。記憶の向こう。
「記録媒体の損傷が激しく、断片的な情報しか残っておりません。ただ……覚えているのは、大切な人を守るようにプログラムされていたこと。そして、人々が光を失ってしまったことです」
「光を失った……?」
「争い、憎しみ、悲しみ。それらが世界を覆い尽くしました」
ラブの声は穏やかなままなのに、言葉の中身が重い。ヘンリーは喉の奥が痛くなった。自分の村の暗さが、世界の暗さの欠片に過ぎないと突きつけられた気がした。
その時、遠くから金属が軋む音が聞こえた。
ヘンリーが立ち上がりかけるより早く、ラブが彼をバスの陰へ押し込む。
「お隠れください」
赤い光が、暗くなり始めた地平の向こうで点滅した。大型だ。さっきのとは別の個体。歩く音が違う。重い。圧がある。
ヘンリーの背中に汗が浮かぶ。逃げるべきだ。けれど、逃げ続けたら何も変わらない。変えたい。変えたいのに、体が言うことを聞かない。
ラブが、静かに前へ出る。
「……侵入者、発見。退去を勧告します」
その声は、さっきまでのメイドの声と同じなのに、どこか別の層の音が混じっている。命令系統の声。警備装置の声。
金属の獣はラブを無視し、バスへ歩み寄る。ヘンリーの隠れている場所へ。まっすぐに。
ラブが小さく息を吐くような機械音を鳴らし、獣の背後へ回り込んだ。火花。衝撃。金属同士のぶつかる音。ラブの体が揺れる。
ヘンリーは、胸の内側にしまった紙片を思い出す。停止コード。制御盤。さっき地下で読んだ案内板。あの方向に、制御室がある。制御室なら、停止の手がかりが――。
「ラブ!」
ヘンリーはバスから飛び出した。自分の声が、自分のものじゃないみたいに遠い。
獣が振り返る。赤い目が、ヘンリーを捉える。次の瞬間、世界が終わる気がした。
ラブが、その前に滑り込む。
「ヘンリー様……下がってください」
「嫌だ!」
ヘンリーは叫び、工具を握りしめた。理屈じゃない。守られるだけのままでは、ラブの“使命”の中でしか生きられない。ヘンリーはラブに守られる存在で終わりたくなかった。
獣の腕が、二人へ振り下ろされる。
ラブが受け止める。火花が散る。だが次の瞬間、ラブの膝がわずかに沈んだ。荷重が大きすぎる。長引けば、ラブが壊れる。
ヘンリーは歯を食いしばり、獣の関節部へ工具を叩き込んだ。金属の音。痛みが手首に走る。効いたかどうか分からない。分からないが、獣の動きが一瞬止まった。
その一瞬に、ラブが獣を押し返し、ヘンリーの腕を掴んで引く。
「撤退します。今は勝てません」
「……っ、分かった!」
二人は走った。走りながら、ヘンリーは思う。勝てない。今は。けれど“勝つための何か”は、確かに近づいている。設計図は嘘をつかない。古代の技術が存在したなら、停止させる手段も存在する。
逃げ込んだ先は、崩れかけた図書館だった。埃を被った本棚。散乱した紙片。天井の穴から差し込む夕日。ここは、文明の記憶の墓場だ。
ヘンリーは息を整え、設計図を広げた。ラブがランプの火を調整する。
「動力炉の構造が、全然違う……」
「焦らず、少しずつ解き明かしていけばよいのです。私もお手伝いします」
ラブの声は優しい。優しさが痛い。優しさが、壊れる音の前触れに聞こえる。
その時、入口付近で物音がした。足音。複数。人だ。
ヘンリーは咄嗟にラブと本棚の影へ身を隠す。荒い声が響く。
「おい、誰かいるのか! 金属の獣はいないな!?」
「ここもガラクタばかりだ。食い物はねえのか?」
人間。飢えている。荒れている。ヘンリーはその声を聞くだけで、村の夜の匂いを思い出した。闇は人をこうする。だからこそ、光が必要だ。
男たちが本棚の間を漁りながら近づいてくる。ラブが、ヘンリーを見つめた。首を横に振る。今は戦えない、と。
男の手が本棚の裏へ伸びる。
ヘンリーの心臓が跳ねる。
ラブが前へ出ようとする。盾の位置。いつもの位置。
ヘンリーは、その腕を掴んで止めた。
「……俺が出る」
ラブの瞳が僅かに揺れた。
ヘンリーは本棚の影から立ち上がり、男たちの前へ出た。
「やめろ。ここには何もない」
男たちがヘンリーを見て笑う。次にラブを見て、目の色が変わる。
「金属人形か。売れば金になるな」
ラブが一歩前へ出る。表情が冷える。空気が変わる。ヘンリーはそれを見て、確信した。ラブが本気になれば、この男たちは終わる。終わるが、終わらせた瞬間から、ラブは“人を壊す存在”として噂になる。村へ戻る道が閉ざされる。
ヘンリーは、設計図を握りしめた。
ここで守るべきものは何だ。
村の未来か、ラブの未来か。どちらも同じはずなのに、今は両方を守れない。
ヘンリーは決断した。
「……設計図を渡す。これが欲しいんだろ」
男の目が光る。ヘンリーは紙片を抜き、男へ差し出す。渡したのは、全てではない。肝心の“エネルギー・コンデンサ”の記述がある紙片は、胸の内側に残した。だが、それでも痛い。希望を切り売りする痛み。
男は紙片を奪い取るように受け取り、乱暴に丸めた。
「フン。ガラクタにしか見えねえが、まあいい。行くぞ」
男たちが去る。足音が遠ざかる。
ヘンリーは床に膝をついた。喉が焼ける。呼吸がうまくできない。
「……ラブ、大丈夫か」
ラブはヘンリーの前にしゃがみ、そっと手を差し伸べる。微笑みは戻っていない。悲しげな顔だ。祈りの顔だ。
「ヘンリー様……設計図は、村のために……」
「分かってる。分かってるけど」
ヘンリーはラブの手を掴み、立ち上がった。
「でも、俺は――お前を“売らせる未来”は選ばない」
ラブの瞳が、わずかに揺れた。理解の揺れか、プログラムの揺れか、ヘンリーには判別できない。それでも、その揺れが人間の涙みたいに見えて、ヘンリーは目を逸らした。
外で、金属が軋む音がした。赤い光が、図書館の割れた窓の向こうで点滅する。追ってきている。金属の獣は、目的を見失わない。
ヘンリーは胸の内側の紙片に指を当てた。残った希望。残った手がかり。
「行こう、ラブ。東だ」
老婆が言っていた場所。工場跡地。錆色の獣の噂。怖い。だが、避け続ければ、村は先に死ぬ。
ラブが静かに頷く。
「承知いたしました。ヘンリー様の選んだ道を、私は共に歩きます」
二人は図書館を出た。夕日が沈み、空が暗くなる。光が消える時間だ。けれどヘンリーは、今日初めて思った。
光は、落ちるものじゃない。取り戻すものだ。
そしてその光は、たぶん――この世界のどこかで、まだ生きている。
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