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歯車
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風は、乾いた骨みたいな音を立てて吹いていた。
土は焼け、草は痩せ、地平線は割れたガラスの縁のように揺らいでいる。
ヘンリーは錆びたゴーグルを押し上げ、目を細めた。
遠く――空の上に、島がある。
島に見えたのは錯覚じゃない。
巨大な歯車と金属の骨組みが、雲の切れ間に確かに浮かんでいた。
陽光を反射する輪郭が、あり得ないほど整っていて、だからこそ現実味が薄い。神話の挿絵が、勝手に空に出てきたみたいだった。
「……あれが、“ギア”……」
呟いた声が、風に削られていく。
世界はこんなに死んでいるのに、空の上だけは、まだ文明が息をしている。
隣でラブがスカートの裾を押さえた。
荒野の風の中で、白いメイド服は不釣り合いなほど清潔で、まるで「この世界が汚れているだけ」と言っているみたいだった。
「設計図の記述と一致します。ヘンリー様。『浮遊都市ギア』――『母』へ動力を送る機構です」
ラブの声は穏やかで、いつも通り整っている。
だが、ヘンリーはその整い方に、ふと寒気を覚える瞬間がある。
それは感情の温度ではなく、音声の品質の問題――つまり、ラブが“そう出力している”だけに見える瞬間だ。
ヘンリーは背負ったリュックの上から、布に包んだ金属板を確かめた。
薄い。冷たい。軽いのに、妙に重い。
図書館跡で拾ったものだ。
埃の海の底から、まるで「見つけてください」と言わんばかりに突き出していた。
刻まれていた紋様は、設計図の断片と一致していた。
一致した瞬間、ヘンリーは理解してしまった。
――これは鍵だ。
鍵があるということは、扉がある。
扉があるということは、閉じられている。
「この板を差し込めば、“母”が目を覚ますかもしれない……」
ヘンリーが言うと、ラブは僅かに目を伏せた。
「世界が変わる可能性があります」
「……緑が戻る、ってやつか」
そう言った瞬間、ヘンリーは自分の言葉が軽すぎる気がして、舌を噛みそうになった。
緑が戻る。水が増える。飢えが減る。争いが減る。
どれも遠い夢に聞こえる。けれど村では、それがただの夢ではなく、明日を迎えるための条件だった。
ラブが、静かに頷いた。
「ヘンリー様が望むなら。私は、必ずお供します」
その“必ず”が、救いでもあり、鎖でもある。
ラブがそう言った時点で、ヘンリーはもう引き返せない気がした。
二人は歩き出した。
---
荒野を抜けるほど、金属の匂いが濃くなる。
砂に混じる錆。目に見えない鉄粉。
遠くで軋む音が、風の鳴き声とは別のリズムで響いている。
歯車都市の入り口は、砦の残骸みたいな崩れたゲートだった。
かつては人を守るために立っていたものが、今では“入ってくるもの”を選別するために残っているように見える。
ゲートをくぐった瞬間、空気が変わった。
街全体が、巨大な機械の腹の中みたいだった。
壁も床も、道の端も、露骨に歯車で構成されている。
部品が都市を装っているのではなく、都市が部品だった。
それなのに――
「……動いてる」
ヘンリーは足を止め、息を呑んだ。
停止したはずの街が、わずかに脈打っている。
歯車が“回っている”のではない。
回ろうとしている、という感じだ。
固着した関節が、たまに思い出したように震える。
ラブが、足元の歯車に指先を触れた。
その動作は丁寧で、優しすぎて、まるで生き物を撫でているようだった。
「微弱な振動を感じます。完全停止ではありません。どこかで動力が残っています」
「動力が残ってるなら……母に送られてるのか」
ヘンリーは設計図の断片を取り出し、風で飛ばされないように端を押さえた。
紙は脆く、角が欠けている。
欠けた部分が多いほど、そこに何が書いてあったかを想像してしまう。
「……メインシャフト。動力炉へ繋がる縦穴。街の中心部にあるって書いてある」
ラブが周囲を見渡し、首を傾げた。
「……人の気配がありません。記録上は、住民は避難したとされていますが」
「でも、避難したなら何か痕跡があるはず、って顔してる」
ヘンリーが言うと、ラブは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……いいえ。設計図を信じましょう、ヘンリー様」
“信じましょう”。
その言い方が、微妙に“自分に言い聞かせている”みたいに聞こえた。
二人は街の影の中へ進んだ。
巨大な歯車が作る影は、時間の流れそのものを狂わせる。
陽の角度が変わっても、影が動かない場所がある。
逆に、風が吹くだけで影が揺れる場所もある。
歩いていると、歯車が地面に突き刺さっている光景に出くわした。
墓標のような大歯車。
錆に覆われ、刻まれた文字は読めない。
それでも、「ここで何かが終わった」という事実だけは伝わってくる。
「……ここ、死んでるのに、死にきってない」
ヘンリーが呟くと、ラブは小さく頷いた。
「はい。眠りの途中のようです」
眠り。
それは優しい言葉だ。
機械にとって眠りとは停止だが、人間にとって眠りは、また起きることを前提にしている。
つまりこの都市は、いつでも起きる。
それが怖かった。
---
街の中心に近づくほど、風の音が低くなる。
代わりに聞こえるのは、金属が擦れる微音。
どこかで、巨大な何かが、息をしている。
やがて二人は開けた場所へ出た。
中央に垂直にそびえる巨大なシャフト。
地面に突き刺さり、地下へと続いている。
周囲には梯子と足場があるが、どれも古く、今にも崩れそうだ。
「ここだ……メインシャフト」
ヘンリーの声が少し震えた。
見つけた喜びよりも、見つけてしまった恐怖の方が大きい。
ラブが、ヘンリーの腕にそっと触れた。
「慎重に。ヘンリー様」
二人は一番状態の良い梯子を選び、ゆっくり降り始めた。
降りるほど空気が重くなる。
湿り気が増す。
そして、温度が下がる。
地下は、地上の終末とは別の終末が沈んでいた。
半分ほど降りたあたりで、ヘンリーは止まった。
「……聞こえるか」
ラブが頷く。
暗闇の奥から、赤い光が点滅していた。
ゆっくり、規則的に。
それは警告灯のリズムだ。
“起きています”と知らせるための光。
赤い光が、少しずつ大きくなる。
ヘンリーの背中に冷たい汗が流れた。
「……戻るぞ」
言うより早く、二人は梯子を登り始めた。
地上に出た瞬間、暗闇の中から巨大な機械の腕が突き出してきた。
腕は――止まった。
赤い光を灯したまま、静止する。
動かないのに、存在感だけが圧倒的だった。
まるで「お前たちがここにいることは分かった」と言っている。
ヘンリーは息を呑んだ。
「……眠れる守護者、って……これか」
ラブの声が低くなる。
「無事では済まないかもしれません」
守護者。
つまり、ここは守られている。
何を?
動力炉を。
母への供給を。
あるいは――“起動してはいけないもの”を。
ヘンリーはシャフトから目を逸らし、設計図を握り直した。
「迂回する。別の制御区画を探そう。直接潜るのは……今じゃない」
“今じゃない”という言い方は、撤退の言い訳でもある。
でも、言い訳が必要なほど、あれは怖かった。
---
制御区画は、街のさらに奥にあった。
広場の中心に、巨大な制御盤が鎮座している。
無数のレバーとボタン。
配線。ランプ。
かつては規則正しく光っていたはずの目が、今はほとんど死んでいる。
「これが……街を動かす中枢」
ヘンリーが近づき、設計図と見比べる。
「……配線が切れてる。そりゃ動かない」
ラブが制御盤に手を触れ、静かに目を閉じた。
「微弱ですが……エネルギーの流れがあります。完全に死んでいるわけではありません」
その時だった。
広場の奥から、かさついた足音が聞こえた。
金属音ではない。人間の足音だ。
ヘンリーが振り返ると、ボロボロの服を着た老人が立っていた。
痩せ細り、目は怯え、手には石ころを握り締めている。
老人はヘンリーを見るより先に、ラブを見て――顔を歪めた。
「ひっ……また……機械の使い魔め……!」
老人は石を投げた。
狙いはヘンリーではなく、ラブだった。
石はラブの肩に当たり、乾いた音を立てて跳ね返る。
ラブの表情が、一瞬だけ歪んだ。
痛みではない。
“この扱いに慣れている”という歪みだ。
「やめてください」
ラブが穏やかに言うと、老人は逆に怯えたように後ずさった。
「喋るな! 喋るな! お前らが機械を弄ぶから……こんなことに……!」
ヘンリーは両手を上げ、敵意がないことを示した。
「違う。僕らは壊しに来たんじゃない。直しに来た」
「直す……? 直すだと……?」
老人の声が震える。
震えの中に、怒りと羨望が混ざっている。
「この街は、“母”のために作られた。母は天の上にいる。母が目を覚ませば、世界は――」
「世界は、また壊れる」
老人が遮った。
「お前らは知らない。知らないから触る。触ったら、また起きる。起きたら、また食われる。昔と同じだ……!」
ヘンリーは唾を飲み込んだ。
「……昔、何があった」
老人は答えない。
答えないまま、視線だけが制御盤の赤いボタンへ向いた。
その視線が、答えだった。
ヘンリーは老人の手元を見る。
老人は石とは別に、小さな金属プレートを握っていた。
擦り切れた文字。古い刻印。
数字の並び。
ヘンリーの目が、そこに吸い寄せられる。
「それ……何だ」
老人は一瞬、隠そうとした。
だが、もう隠せないと悟ったように、ゆっくり見せた。
「緊急停止の……制御コードだ」
ヘンリーの心臓が跳ねる。
停止。
この街を止める手段がある。
それは同時に、起動する手段があるということでもある。
「……それを、貸してくれ」
「貸したら、お前は押すだろう。赤いのを」
「押さない。今は押さない。まず理解する。止める術があるなら、起こすこともできる」
老人は、ヘンリーをじっと見た。
その目は怯えではなく、測る目だった。
やがて、老人は金属プレートを投げるように渡した。
「……嘘なら、呪う」
ヘンリーは受け取り、胸にしまった。
「嘘はつかない」
ヘンリーが言うと、老人は背を向けた。
「なら……せめて、“母”の声を聞け。声を聞いたら、押せなくなるかもしれない」
老人はそれだけ言い残し、歯車の影の中へ消えた。
ラブが静かに、ヘンリーの袖を引いた。
「ヘンリー様。危険な情報です。ですが……必要な情報でもあります」
ヘンリーは頷いた。
「行く。制御区画を動かす。最低限でいい。母へ“触れる”ための電力だけ送る」
壊すためじゃない。
救うためだ。
その言い訳が、今のヘンリーには必要だった。
---
制御盤の側に、作業用の工具箱が残っていた。
錆びたペンチ、折れたレンチ、硬化した布。
そして、半分空になった油の小瓶。
「……残ってた」
ヘンリーは油を持ち上げ、光に透かす。
腐ってはいない。
匂いは強いが、使える。
制御盤の脇には、小さな歯車がある。
設計図と照合すると、それが“流れの喉元”になっている。
ここが固着しているせいで、全体が息を止めている。
ヘンリーは油を垂らし、歯車に指を添えた。
固い。
びくともしない。
ペンチで挟み、力を込める。
軋む音。
小さな火花。
手首が痛む。
「……くそ」
ペンチが悲鳴を上げ、金属が折れた。
破片が飛び、ヘンリーの頬を掠めた。
熱い痛み。
ヘンリーは息を呑んだ。
痛みよりも、絶望が先に来る。
やっぱり、無理なんじゃないか。
読めるだけで、できないんじゃないか。
その時、ラブが一歩前に出た。
「……私を使ってください」
ヘンリーは反射で首を振った。
「ダメだ」
「私の関節はまだ動きます。必要なトルクを――」
「ダメだ!」
ヘンリーの声が荒くなった。
ラブが“自分を道具として差し出す”言い方をした瞬間、ヘンリーの中で何かが切れた。
「お前は……油の代わりじゃない。レンチの代わりでもない」
ラブの目が、僅かに揺れた。
理解の揺れか、プログラムの揺れか。
その判別がつかないのが、ヘンリーには苦しい。
ヘンリーは歯車の周囲を見回し、床に落ちていた布切れを拾った。
油を染み込ませ、歯車の噛み合わせの隙間に押し込む。
摩擦を減らすのではなく、滑りを“作る”。
「……こういうのは、図面に書いてない」
ヘンリーは息を吐き、もう一度手をかけた。
今度は、動いた。
ほんの少し。
けれど確かに、歯車が“回り始めた”。
その瞬間、街が震えた。
遠くで、巨大な歯車が軋みを上げる。
眠っていた金属の巨人が、背伸びをするような音。
制御盤のランプが、ひとつ、ふたつ点いた。
死んだ目に、光が戻る。
「……いける」
ヘンリーは設計図を広げ、レバーの順序を確認した。
ここを誤れば、街は壊れる。
老人の言葉が脳裏を掠める。
“起きたら、また食われる”。
ヘンリーは、息を整えてレバーを引いた。
ギシ……ギシ……と、嫌な音がして、レバーが動く。
固着した過去が、ゆっくり剥がれていく。
次の瞬間――警報が鳴った。
錆びたスピーカーが、ノイズ混じりに声を吐く。
「……侵入者……検知……自動……排除……プログラム……起動……」
ラブが即座にヘンリーの前に立つ。
「ヘンリー様、危険です」
広場の奥。
暗がりから、巨大な影が現れた。
警備ロボット。
人型。
両腕に巨大なハンマー。
赤い目が、まっすぐヘンリーを捉える。
ヘンリーは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
体が固まる。
けれど、今は逃げない。逃げたら歯車は止まる。
止まれば、ここまでの努力が無駄になる。
ヘンリーは胸の内側から、老人の金属プレートを取り出した。
刻印された数字。
緊急停止コード。
「……ラブ。時間を稼げ。十秒でいい」
ラブが頷いた。
言葉はなかった。
動作が答えだった。
ラブが警備ロボットの進路へ躍り出る。
ハンマーが振り下ろされる。
ラブは避ける。
避けた衝撃で地面が割れ、粉塵が舞う。
ヘンリーは制御盤に向き直り、プレートの数字と対応する入力部を探した。
設計図の断片を照合し、当たりを付ける。
ここだ。ここが緊急系統。
指が震える。
だが震えている暇はない。
入力。
作動。
次の瞬間、警備ロボットの動きが――止まった。
完全停止ではない。
赤い目は灯ったまま。
けれど、関節の力が抜けたように、そこで固まる。
「……止まった」
ヘンリーの声が、かすれる。
ラブが振り返り、僅かに頷いた。
その頷きが、“よくやりました”にも、“早く次を”にも見えた。
ヘンリーはレバーを最後まで押し込んだ。
轟音。
街全体の歯車が、一斉に動き出す。
風景が変わるのではない。
音が変わる。
世界が、巨大な機械として“整い始める”。
そして――空が、光った。
雲の切れ間。
浮遊都市の下部で、微かな光が走る。
母へ、エネルギーが送られた。
「……届いた」
ヘンリーの膝が少し抜けた。
やった。
少なくとも“接触”はできた。
だが、その直後。
制御盤から火花が散った。
焦げ臭い匂い。
ランプがいくつか完全に死ぬ。
「……壊した」
ヘンリーが呟くと、ラブが首を振った。
「必要な動作でした。ヘンリー様は、出来ることをしました」
慰めの言葉のはずなのに、ヘンリーは嬉しくなかった。
“出来ることをしただけ”という言葉は、“それ以上は出来ない”にも聞こえるからだ。
ヘンリーが制御盤の赤いボタンに目を向けた、その瞬間――
「待て」
声がした。
スピーカーのノイズ声ではない。
近い。生の声――ただし、人間ではない。
広場の影から、一体のロボットが現れた。
無骨で、傷だらけで、装甲は継ぎ接ぎ。
そして目は、赤い。
だが、警備ロボットとは違う。
動きに“意志”がある。
壊れた機械が偶然動いているのではなく、動くために動いている。
ロボットは、錆びた声で言った。
「起動……不可……。停止……せよ……。システム……エラー……」
ヘンリーは、息を呑んだ。
――老人の言葉。
――“母の声を聞け”。
ヘンリーは赤いボタンを見つめた。
押せば、何かが決定的に動く。
押さなければ、今のまま中途半端に終わる。
ラブが小さく言った。
「ヘンリー様。これは……警告です。ですが、同時に“会話”でもあります」
ヘンリーは拳を握りしめた。
自分の手が震えているのが分かった。
怖い。
でも、怖いからこそ、押してはいけない瞬間がある。
ヘンリーは、赤いボタンから手を引いた。
「……押さない」
ロボットの赤い目が、わずかに光を変えたように見えた。
怒りではない。安堵でもない。
ただ、確認しただけの光。
ヘンリーは、制御盤の脇にある端子を見つけた。
金属板の紋様と一致する差し込み口。
ヘンリーは布包みを解き、鍵の板を取り出した。
冷たい板が、夕暮れの光を反射する。
「……まず、母に“呼びかける”。押すのはそれからだ」
板を差し込む。
カチリ、と小さな音がした。
その音は、世界の歯車が一枚噛み合った音に聞こえた。
制御盤の奥で、何かが起動した気配がする。
ノイズ混じりの声が、今度はスピーカーではなく、都市全体から響いてきた。
言葉にはならない。
音でもない。
“圧”だ。
古い記憶を、直接脳に流し込むような圧力。
誰かの夢の続きを見せられるような、息苦しさ。
ヘンリーは思わず膝をつき、耳を塞いだ。
ラブが支える。
ラブの腕は冷たいのに、今はそれが救いだった。
圧の中で、ヘンリーは“感じた”。
母は、眠っているのではない。
眠らされている。
そして――どこかが壊れている。
壊れているから、起きられない。
壊れているから、起きたら危ない。
ヘンリーは荒い呼吸のまま、顔を上げた。
「……コンデンサだ」
ラブが目を見開く。
「エネルギー・コンデンサ……」
「母に送るエネルギーの“整流”が壊れてる。だから街を無理に動かすと、全部が焦げる。……さっき火花が散ったのは、その前兆だ」
ロボットが、ゆっくり頷いたように見えた。
「補修……必要……。供給……不安定……。起動……危険……」
ヘンリーは歯を食いしばった。
遠回りだ。
でも、道が見えた。
“押すか押さないか”じゃない。
“直すべきものを直してから押す”という第三の道だ。
ヘンリーはラブを見た。
「行こう。コンデンサを探す。母を起こす前に、母が壊れないようにする」
ラブが静かに頷く。
「承知いたしました。ヘンリー様の選んだ道を、私は共に歩きます」
ヘンリーは、最後に赤いボタンを見た。
押さない。
今は押さない。
押すために、押さない。
歯車都市は轟々と動き続けている。
だが、それは復活ではなく、準備運動のようだった。
空の上の“母”へ繋がる道が、再び開こうとしている。
そしてその道の先には――
救いだけではない。
かつて世界が壊れた理由そのものが、眠っている。
ヘンリーは、金属板を布で包み直し、背負った。
「……帰り道は、もうないな」
ラブは微笑む。
いつもの整った微笑みではなく、ほんの少しだけ――揺れた微笑みだった。
「はい。ですが、進む道はあります」
二人は、動き始めた歯車の街を背に、次の廃墟へ歩き出した。
エネルギー・コンデンサ。
母を起こすための、そして壊さないための、最後の部品を探しに。
土は焼け、草は痩せ、地平線は割れたガラスの縁のように揺らいでいる。
ヘンリーは錆びたゴーグルを押し上げ、目を細めた。
遠く――空の上に、島がある。
島に見えたのは錯覚じゃない。
巨大な歯車と金属の骨組みが、雲の切れ間に確かに浮かんでいた。
陽光を反射する輪郭が、あり得ないほど整っていて、だからこそ現実味が薄い。神話の挿絵が、勝手に空に出てきたみたいだった。
「……あれが、“ギア”……」
呟いた声が、風に削られていく。
世界はこんなに死んでいるのに、空の上だけは、まだ文明が息をしている。
隣でラブがスカートの裾を押さえた。
荒野の風の中で、白いメイド服は不釣り合いなほど清潔で、まるで「この世界が汚れているだけ」と言っているみたいだった。
「設計図の記述と一致します。ヘンリー様。『浮遊都市ギア』――『母』へ動力を送る機構です」
ラブの声は穏やかで、いつも通り整っている。
だが、ヘンリーはその整い方に、ふと寒気を覚える瞬間がある。
それは感情の温度ではなく、音声の品質の問題――つまり、ラブが“そう出力している”だけに見える瞬間だ。
ヘンリーは背負ったリュックの上から、布に包んだ金属板を確かめた。
薄い。冷たい。軽いのに、妙に重い。
図書館跡で拾ったものだ。
埃の海の底から、まるで「見つけてください」と言わんばかりに突き出していた。
刻まれていた紋様は、設計図の断片と一致していた。
一致した瞬間、ヘンリーは理解してしまった。
――これは鍵だ。
鍵があるということは、扉がある。
扉があるということは、閉じられている。
「この板を差し込めば、“母”が目を覚ますかもしれない……」
ヘンリーが言うと、ラブは僅かに目を伏せた。
「世界が変わる可能性があります」
「……緑が戻る、ってやつか」
そう言った瞬間、ヘンリーは自分の言葉が軽すぎる気がして、舌を噛みそうになった。
緑が戻る。水が増える。飢えが減る。争いが減る。
どれも遠い夢に聞こえる。けれど村では、それがただの夢ではなく、明日を迎えるための条件だった。
ラブが、静かに頷いた。
「ヘンリー様が望むなら。私は、必ずお供します」
その“必ず”が、救いでもあり、鎖でもある。
ラブがそう言った時点で、ヘンリーはもう引き返せない気がした。
二人は歩き出した。
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荒野を抜けるほど、金属の匂いが濃くなる。
砂に混じる錆。目に見えない鉄粉。
遠くで軋む音が、風の鳴き声とは別のリズムで響いている。
歯車都市の入り口は、砦の残骸みたいな崩れたゲートだった。
かつては人を守るために立っていたものが、今では“入ってくるもの”を選別するために残っているように見える。
ゲートをくぐった瞬間、空気が変わった。
街全体が、巨大な機械の腹の中みたいだった。
壁も床も、道の端も、露骨に歯車で構成されている。
部品が都市を装っているのではなく、都市が部品だった。
それなのに――
「……動いてる」
ヘンリーは足を止め、息を呑んだ。
停止したはずの街が、わずかに脈打っている。
歯車が“回っている”のではない。
回ろうとしている、という感じだ。
固着した関節が、たまに思い出したように震える。
ラブが、足元の歯車に指先を触れた。
その動作は丁寧で、優しすぎて、まるで生き物を撫でているようだった。
「微弱な振動を感じます。完全停止ではありません。どこかで動力が残っています」
「動力が残ってるなら……母に送られてるのか」
ヘンリーは設計図の断片を取り出し、風で飛ばされないように端を押さえた。
紙は脆く、角が欠けている。
欠けた部分が多いほど、そこに何が書いてあったかを想像してしまう。
「……メインシャフト。動力炉へ繋がる縦穴。街の中心部にあるって書いてある」
ラブが周囲を見渡し、首を傾げた。
「……人の気配がありません。記録上は、住民は避難したとされていますが」
「でも、避難したなら何か痕跡があるはず、って顔してる」
ヘンリーが言うと、ラブは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……いいえ。設計図を信じましょう、ヘンリー様」
“信じましょう”。
その言い方が、微妙に“自分に言い聞かせている”みたいに聞こえた。
二人は街の影の中へ進んだ。
巨大な歯車が作る影は、時間の流れそのものを狂わせる。
陽の角度が変わっても、影が動かない場所がある。
逆に、風が吹くだけで影が揺れる場所もある。
歩いていると、歯車が地面に突き刺さっている光景に出くわした。
墓標のような大歯車。
錆に覆われ、刻まれた文字は読めない。
それでも、「ここで何かが終わった」という事実だけは伝わってくる。
「……ここ、死んでるのに、死にきってない」
ヘンリーが呟くと、ラブは小さく頷いた。
「はい。眠りの途中のようです」
眠り。
それは優しい言葉だ。
機械にとって眠りとは停止だが、人間にとって眠りは、また起きることを前提にしている。
つまりこの都市は、いつでも起きる。
それが怖かった。
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街の中心に近づくほど、風の音が低くなる。
代わりに聞こえるのは、金属が擦れる微音。
どこかで、巨大な何かが、息をしている。
やがて二人は開けた場所へ出た。
中央に垂直にそびえる巨大なシャフト。
地面に突き刺さり、地下へと続いている。
周囲には梯子と足場があるが、どれも古く、今にも崩れそうだ。
「ここだ……メインシャフト」
ヘンリーの声が少し震えた。
見つけた喜びよりも、見つけてしまった恐怖の方が大きい。
ラブが、ヘンリーの腕にそっと触れた。
「慎重に。ヘンリー様」
二人は一番状態の良い梯子を選び、ゆっくり降り始めた。
降りるほど空気が重くなる。
湿り気が増す。
そして、温度が下がる。
地下は、地上の終末とは別の終末が沈んでいた。
半分ほど降りたあたりで、ヘンリーは止まった。
「……聞こえるか」
ラブが頷く。
暗闇の奥から、赤い光が点滅していた。
ゆっくり、規則的に。
それは警告灯のリズムだ。
“起きています”と知らせるための光。
赤い光が、少しずつ大きくなる。
ヘンリーの背中に冷たい汗が流れた。
「……戻るぞ」
言うより早く、二人は梯子を登り始めた。
地上に出た瞬間、暗闇の中から巨大な機械の腕が突き出してきた。
腕は――止まった。
赤い光を灯したまま、静止する。
動かないのに、存在感だけが圧倒的だった。
まるで「お前たちがここにいることは分かった」と言っている。
ヘンリーは息を呑んだ。
「……眠れる守護者、って……これか」
ラブの声が低くなる。
「無事では済まないかもしれません」
守護者。
つまり、ここは守られている。
何を?
動力炉を。
母への供給を。
あるいは――“起動してはいけないもの”を。
ヘンリーはシャフトから目を逸らし、設計図を握り直した。
「迂回する。別の制御区画を探そう。直接潜るのは……今じゃない」
“今じゃない”という言い方は、撤退の言い訳でもある。
でも、言い訳が必要なほど、あれは怖かった。
---
制御区画は、街のさらに奥にあった。
広場の中心に、巨大な制御盤が鎮座している。
無数のレバーとボタン。
配線。ランプ。
かつては規則正しく光っていたはずの目が、今はほとんど死んでいる。
「これが……街を動かす中枢」
ヘンリーが近づき、設計図と見比べる。
「……配線が切れてる。そりゃ動かない」
ラブが制御盤に手を触れ、静かに目を閉じた。
「微弱ですが……エネルギーの流れがあります。完全に死んでいるわけではありません」
その時だった。
広場の奥から、かさついた足音が聞こえた。
金属音ではない。人間の足音だ。
ヘンリーが振り返ると、ボロボロの服を着た老人が立っていた。
痩せ細り、目は怯え、手には石ころを握り締めている。
老人はヘンリーを見るより先に、ラブを見て――顔を歪めた。
「ひっ……また……機械の使い魔め……!」
老人は石を投げた。
狙いはヘンリーではなく、ラブだった。
石はラブの肩に当たり、乾いた音を立てて跳ね返る。
ラブの表情が、一瞬だけ歪んだ。
痛みではない。
“この扱いに慣れている”という歪みだ。
「やめてください」
ラブが穏やかに言うと、老人は逆に怯えたように後ずさった。
「喋るな! 喋るな! お前らが機械を弄ぶから……こんなことに……!」
ヘンリーは両手を上げ、敵意がないことを示した。
「違う。僕らは壊しに来たんじゃない。直しに来た」
「直す……? 直すだと……?」
老人の声が震える。
震えの中に、怒りと羨望が混ざっている。
「この街は、“母”のために作られた。母は天の上にいる。母が目を覚ませば、世界は――」
「世界は、また壊れる」
老人が遮った。
「お前らは知らない。知らないから触る。触ったら、また起きる。起きたら、また食われる。昔と同じだ……!」
ヘンリーは唾を飲み込んだ。
「……昔、何があった」
老人は答えない。
答えないまま、視線だけが制御盤の赤いボタンへ向いた。
その視線が、答えだった。
ヘンリーは老人の手元を見る。
老人は石とは別に、小さな金属プレートを握っていた。
擦り切れた文字。古い刻印。
数字の並び。
ヘンリーの目が、そこに吸い寄せられる。
「それ……何だ」
老人は一瞬、隠そうとした。
だが、もう隠せないと悟ったように、ゆっくり見せた。
「緊急停止の……制御コードだ」
ヘンリーの心臓が跳ねる。
停止。
この街を止める手段がある。
それは同時に、起動する手段があるということでもある。
「……それを、貸してくれ」
「貸したら、お前は押すだろう。赤いのを」
「押さない。今は押さない。まず理解する。止める術があるなら、起こすこともできる」
老人は、ヘンリーをじっと見た。
その目は怯えではなく、測る目だった。
やがて、老人は金属プレートを投げるように渡した。
「……嘘なら、呪う」
ヘンリーは受け取り、胸にしまった。
「嘘はつかない」
ヘンリーが言うと、老人は背を向けた。
「なら……せめて、“母”の声を聞け。声を聞いたら、押せなくなるかもしれない」
老人はそれだけ言い残し、歯車の影の中へ消えた。
ラブが静かに、ヘンリーの袖を引いた。
「ヘンリー様。危険な情報です。ですが……必要な情報でもあります」
ヘンリーは頷いた。
「行く。制御区画を動かす。最低限でいい。母へ“触れる”ための電力だけ送る」
壊すためじゃない。
救うためだ。
その言い訳が、今のヘンリーには必要だった。
---
制御盤の側に、作業用の工具箱が残っていた。
錆びたペンチ、折れたレンチ、硬化した布。
そして、半分空になった油の小瓶。
「……残ってた」
ヘンリーは油を持ち上げ、光に透かす。
腐ってはいない。
匂いは強いが、使える。
制御盤の脇には、小さな歯車がある。
設計図と照合すると、それが“流れの喉元”になっている。
ここが固着しているせいで、全体が息を止めている。
ヘンリーは油を垂らし、歯車に指を添えた。
固い。
びくともしない。
ペンチで挟み、力を込める。
軋む音。
小さな火花。
手首が痛む。
「……くそ」
ペンチが悲鳴を上げ、金属が折れた。
破片が飛び、ヘンリーの頬を掠めた。
熱い痛み。
ヘンリーは息を呑んだ。
痛みよりも、絶望が先に来る。
やっぱり、無理なんじゃないか。
読めるだけで、できないんじゃないか。
その時、ラブが一歩前に出た。
「……私を使ってください」
ヘンリーは反射で首を振った。
「ダメだ」
「私の関節はまだ動きます。必要なトルクを――」
「ダメだ!」
ヘンリーの声が荒くなった。
ラブが“自分を道具として差し出す”言い方をした瞬間、ヘンリーの中で何かが切れた。
「お前は……油の代わりじゃない。レンチの代わりでもない」
ラブの目が、僅かに揺れた。
理解の揺れか、プログラムの揺れか。
その判別がつかないのが、ヘンリーには苦しい。
ヘンリーは歯車の周囲を見回し、床に落ちていた布切れを拾った。
油を染み込ませ、歯車の噛み合わせの隙間に押し込む。
摩擦を減らすのではなく、滑りを“作る”。
「……こういうのは、図面に書いてない」
ヘンリーは息を吐き、もう一度手をかけた。
今度は、動いた。
ほんの少し。
けれど確かに、歯車が“回り始めた”。
その瞬間、街が震えた。
遠くで、巨大な歯車が軋みを上げる。
眠っていた金属の巨人が、背伸びをするような音。
制御盤のランプが、ひとつ、ふたつ点いた。
死んだ目に、光が戻る。
「……いける」
ヘンリーは設計図を広げ、レバーの順序を確認した。
ここを誤れば、街は壊れる。
老人の言葉が脳裏を掠める。
“起きたら、また食われる”。
ヘンリーは、息を整えてレバーを引いた。
ギシ……ギシ……と、嫌な音がして、レバーが動く。
固着した過去が、ゆっくり剥がれていく。
次の瞬間――警報が鳴った。
錆びたスピーカーが、ノイズ混じりに声を吐く。
「……侵入者……検知……自動……排除……プログラム……起動……」
ラブが即座にヘンリーの前に立つ。
「ヘンリー様、危険です」
広場の奥。
暗がりから、巨大な影が現れた。
警備ロボット。
人型。
両腕に巨大なハンマー。
赤い目が、まっすぐヘンリーを捉える。
ヘンリーは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
体が固まる。
けれど、今は逃げない。逃げたら歯車は止まる。
止まれば、ここまでの努力が無駄になる。
ヘンリーは胸の内側から、老人の金属プレートを取り出した。
刻印された数字。
緊急停止コード。
「……ラブ。時間を稼げ。十秒でいい」
ラブが頷いた。
言葉はなかった。
動作が答えだった。
ラブが警備ロボットの進路へ躍り出る。
ハンマーが振り下ろされる。
ラブは避ける。
避けた衝撃で地面が割れ、粉塵が舞う。
ヘンリーは制御盤に向き直り、プレートの数字と対応する入力部を探した。
設計図の断片を照合し、当たりを付ける。
ここだ。ここが緊急系統。
指が震える。
だが震えている暇はない。
入力。
作動。
次の瞬間、警備ロボットの動きが――止まった。
完全停止ではない。
赤い目は灯ったまま。
けれど、関節の力が抜けたように、そこで固まる。
「……止まった」
ヘンリーの声が、かすれる。
ラブが振り返り、僅かに頷いた。
その頷きが、“よくやりました”にも、“早く次を”にも見えた。
ヘンリーはレバーを最後まで押し込んだ。
轟音。
街全体の歯車が、一斉に動き出す。
風景が変わるのではない。
音が変わる。
世界が、巨大な機械として“整い始める”。
そして――空が、光った。
雲の切れ間。
浮遊都市の下部で、微かな光が走る。
母へ、エネルギーが送られた。
「……届いた」
ヘンリーの膝が少し抜けた。
やった。
少なくとも“接触”はできた。
だが、その直後。
制御盤から火花が散った。
焦げ臭い匂い。
ランプがいくつか完全に死ぬ。
「……壊した」
ヘンリーが呟くと、ラブが首を振った。
「必要な動作でした。ヘンリー様は、出来ることをしました」
慰めの言葉のはずなのに、ヘンリーは嬉しくなかった。
“出来ることをしただけ”という言葉は、“それ以上は出来ない”にも聞こえるからだ。
ヘンリーが制御盤の赤いボタンに目を向けた、その瞬間――
「待て」
声がした。
スピーカーのノイズ声ではない。
近い。生の声――ただし、人間ではない。
広場の影から、一体のロボットが現れた。
無骨で、傷だらけで、装甲は継ぎ接ぎ。
そして目は、赤い。
だが、警備ロボットとは違う。
動きに“意志”がある。
壊れた機械が偶然動いているのではなく、動くために動いている。
ロボットは、錆びた声で言った。
「起動……不可……。停止……せよ……。システム……エラー……」
ヘンリーは、息を呑んだ。
――老人の言葉。
――“母の声を聞け”。
ヘンリーは赤いボタンを見つめた。
押せば、何かが決定的に動く。
押さなければ、今のまま中途半端に終わる。
ラブが小さく言った。
「ヘンリー様。これは……警告です。ですが、同時に“会話”でもあります」
ヘンリーは拳を握りしめた。
自分の手が震えているのが分かった。
怖い。
でも、怖いからこそ、押してはいけない瞬間がある。
ヘンリーは、赤いボタンから手を引いた。
「……押さない」
ロボットの赤い目が、わずかに光を変えたように見えた。
怒りではない。安堵でもない。
ただ、確認しただけの光。
ヘンリーは、制御盤の脇にある端子を見つけた。
金属板の紋様と一致する差し込み口。
ヘンリーは布包みを解き、鍵の板を取り出した。
冷たい板が、夕暮れの光を反射する。
「……まず、母に“呼びかける”。押すのはそれからだ」
板を差し込む。
カチリ、と小さな音がした。
その音は、世界の歯車が一枚噛み合った音に聞こえた。
制御盤の奥で、何かが起動した気配がする。
ノイズ混じりの声が、今度はスピーカーではなく、都市全体から響いてきた。
言葉にはならない。
音でもない。
“圧”だ。
古い記憶を、直接脳に流し込むような圧力。
誰かの夢の続きを見せられるような、息苦しさ。
ヘンリーは思わず膝をつき、耳を塞いだ。
ラブが支える。
ラブの腕は冷たいのに、今はそれが救いだった。
圧の中で、ヘンリーは“感じた”。
母は、眠っているのではない。
眠らされている。
そして――どこかが壊れている。
壊れているから、起きられない。
壊れているから、起きたら危ない。
ヘンリーは荒い呼吸のまま、顔を上げた。
「……コンデンサだ」
ラブが目を見開く。
「エネルギー・コンデンサ……」
「母に送るエネルギーの“整流”が壊れてる。だから街を無理に動かすと、全部が焦げる。……さっき火花が散ったのは、その前兆だ」
ロボットが、ゆっくり頷いたように見えた。
「補修……必要……。供給……不安定……。起動……危険……」
ヘンリーは歯を食いしばった。
遠回りだ。
でも、道が見えた。
“押すか押さないか”じゃない。
“直すべきものを直してから押す”という第三の道だ。
ヘンリーはラブを見た。
「行こう。コンデンサを探す。母を起こす前に、母が壊れないようにする」
ラブが静かに頷く。
「承知いたしました。ヘンリー様の選んだ道を、私は共に歩きます」
ヘンリーは、最後に赤いボタンを見た。
押さない。
今は押さない。
押すために、押さない。
歯車都市は轟々と動き続けている。
だが、それは復活ではなく、準備運動のようだった。
空の上の“母”へ繋がる道が、再び開こうとしている。
そしてその道の先には――
救いだけではない。
かつて世界が壊れた理由そのものが、眠っている。
ヘンリーは、金属板を布で包み直し、背負った。
「……帰り道は、もうないな」
ラブは微笑む。
いつもの整った微笑みではなく、ほんの少しだけ――揺れた微笑みだった。
「はい。ですが、進む道はあります」
二人は、動き始めた歯車の街を背に、次の廃墟へ歩き出した。
エネルギー・コンデンサ。
母を起こすための、そして壊さないための、最後の部品を探しに。
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