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盛り上がり
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透は、怒らない人間だった。感情が無いのではない。むしろ、激しすぎる思考と感情を抑えるために、常に最適解を用意し続けている──その姿勢が、怒りを見せるという表現を必要としなかっただけである。しかし、その日だけは違った。彼は珍しく、何も答えを出していなかった。まるで思考そのものが、途中で千切れたように──空洞の中で、ぽつりと立ち尽くしていた。憔悴。それは彼には不似合いな言葉だったが、間違いなくその姿は、誰の目にもそう映った。
何が起きたのか。周囲の誰もが悟っていた。彼女に関することだろう、と。だが彼自身の口からは語られない。沈黙が続く中、学内には逆に奇妙な期待が生まれた。
──彼なら、きっと何とかする。
その予測と信頼は、やがて事実を追い越した。彼の行動は日を追うごとに研ぎ澄まされ、朝は医学部に現れ、昼には図書館、夜は工学部へと移動し、白衣とスーツの中間のような服装で校内を駆けていた。最早、透を見たことがない学生は存在しなかった。すれ違った者は、何かしらの衝撃を与えられ、無言で通り過ぎるだけでも影響を受けた。目が合えば姿勢を正したという者もいた。
だが、それと同時に──彼の荒れ方も、目立ち始めていた。原因は、誰の目にも明らかだった。だが、正面から触れられることはなく、代わりにその期待が過剰な関心へと変わり始めていた。
「彼女、もう亡くなったんでしょう?」
「なら、次は私の番にしませんか?」
軽薄に、ある女学生が言った。その瞬間、透はその頬を殴った。初めて、人前で感情を剥き出しにした。
それが学内を騒がせ、騒動となった。処分としての停学が決まり、教授会でも意見が割れた。だが、学長は別の判断を下す。
「彼の才を罰するより、今こそ用いるべきだ」
そうして提案されたのが、留学だった。彼女の病と向き合うため、研究の支援を受けるため、アメリカの専門医療機関との連携のために──透を送り出す計画が、水面下で動き始めた。
新幹線の車内は静かだった。窓の外を流れる景色は誰にも見られず、白く濁ったガラスに人影だけが揺れていた。ミナは小さく身体を丸め、透の肩に頭を預けて眠っている。透は開いたノートPCの画面を見てはいるが、数分前から指は止まったままだった。
主治医が斜め向かいの席から静かに彼らを眺めていた。眼鏡の奥にある瞳は、懐かしむようでいて、どこか張り詰めていた。
「ねえ、透さん。」
名指しではなく、少し距離を取った呼びかけだった。透が目を向けると、主治医は小さく笑った。
「私、昔──男だったのよ。」
ミナは眠ったままだった。透は少し眉を上げたが、驚きの感情よりも、問いただすような姿勢は見せなかった。
「ミナちゃんがね、小さい頃に言ったの。『男の人って、全部キライ!』って。泣きながら。何があったかは訊かなかった。でも──その瞬間に、私はもうこの子の前で男でいたくないって思ったの。」
語る声は穏やかだったが、過去の記憶のどこかで震えていた。
「その週のうちに手術の予約を入れた。竿も玉も、切った。痛みは……まあ、どうでもよかった。あの子に嫌われる方が、よっぽど痛いと思ったから。」
透はゆっくりと頷いた。主治医は指先で自分の膝を軽く叩くようにしながら続けた。
「今でも思うのよ。あの子に『嫌』って言われるのが、何より怖いって。あの子、分かってないかもしれないけど・・・人の人生を動かす力があるのよ。だから、今度こそ守りたいの。あの時、私が勝手に変わったみたいに、今度は彼女の未来を変える側でいたいの。」
窓の外では空が開けてきていた。遠くに空港の誘導灯が小さく光り、静かに目的地が近づいていることを知らせていた。
誰も彼らの空気を壊そうとしなかった。他の関係者も同じ車両に乗っていたが、彼と彼女の間に踏み込む者はいない。むしろ、それを知っているからこそ──空気を読める者たちだけが、この移動に同行を許されていたのだ。
主治医は最後に一度だけ、眠っているミナの頬を見つめ、息を吸い込んだ。
「だから、あなたも──彼女に本気でいてあげてね。」
・・・正直、普通に怖かった。子供の頃のミナが「男の人は嫌」と泣いた、それだけの理由で性別適合手術まで受け、外見までも変えてしまった主治医。医学的倫理の枠を超えたような決断だったが、それが可能だったのは、彼女が誰よりも速く、正確に未来を予測し、行動に移せる人物だったからだ。あのとき彼女は「逆らったらヤバい」と判断したのだ。
イカれている。だが、それでこそだ。彼女のような人間がいなければ、この移動も、今回の計画も成立していない。
「・・・自分にそれが出来るかは、不安だ。」
「・・・さぁね。でも、脳移植は却下されたんでしょう?なら、ほかに選択肢はないわ。」
「専念しているさ。」
視線は流れる車窓に落ち、時間はゆるやかに過ぎていく。
「そして、計画自体は既に百程度、準備してある。」
言葉にしなかった。多くは失敗に終わる可能性が高い、そういう計画群だ。だが。
「彼女の声や記憶は失わせたくない。最良の手を打てる段階である以上、余裕を持って挑むつもりだ。」
その言葉に、主治医は小さく息を吐き、頷いた。彼がどこまでも本気であることを、誰よりも理解しているのは、彼女だった。
アメリカの入国審査を一通り終えた頃には、身体の疲れが意識に染みていた。本来であれば、そのまま大学へ向かいたい所だが、アメリカの大学は日本とは全く異なる構造を持っている。フラタニティ、ソロタニティ──それぞれ男性・女性向けの友愛団体とされているが、実際は半ば学閥のような力を持ち、そこに入れるか否かが大学生活や将来の就職先にまで影響を及ぼす。組織に属する為には徹底した上下関係を覚えなければならず、そうした努力を積んでも、上司が人事権を持つ企業が大半を占めるアメリカでは、たった一言で解雇されることもある。
年収が八百万円を超えても「低賃金」と扱われ、税率の緩さにも関わらず、絶望的な格差の中に沈む。つまり、既存のコミュニティに入るのも、独自に作るのも、そして自分の目標を達成するのも──どれも非常に困難だということだ。
この国で立場を勝ち取る為には、何かを示さねばならない。そして彼女の存在を、世界に知らせる為にも──
「・・・だから、歌えるか、ミナ。」
「・・・いいよ、透の為なら。」
その答えに迷いはなかった。声が消えかけている彼女にとって、歌うという行為がどれだけの代償を伴うか、透は知っていた。それでも、彼女は応じた。
すべては、彼女自身と──彼女を守ろうとする誰かの為に。
舞台袖で、ミナは深く息を吸い込んだ。
袖の陰にある鏡に映る自分を見つめ、衣装の裾を軽く整える。
真っ白なメイド服に、淡い水色のフリルがあしらわれている。まるで童話の世界から抜け出たような装い。
シンデレラの仮装のように見えるのも、今日だけは計算づくだ。
マイクを持つ手が、少しだけ震えていた。
それでも彼女は一歩、また一歩と舞台中央へと進んでいく。
ライトが彼女を照らすと、会場全体が一瞬、息を呑んだように静まり返った。
流れるイントロに合わせて、ミナは柔らかなステップでリズムを刻む。
口元には笑顔――けれど、瞳の奥に宿るものは、誰にも読めない影だった。
――それは、もう夢を見れない少女の、たった一度きりの祈り。
スポットライトが彼女を捉える。照明は舞台上の一点だけを照らし、その光の下でミナは小さく呼吸を整えていた。柔らかいフリルのメイド服が動くたびに揺れ、髪飾りのリボンが観客の目を引いた。客席からのどよめきが、一瞬だけ静寂へと転じる。
リズムに合わせて、足元でステップを刻む。まるで夢の中の子供のように、希望を振りまくような動きだった。
♪ Dreamless nights, silent fights,
I’m dancing here to chase the lights ♪
客席の視線が集中する。ミナの声は透き通っていた。軽やかでありながら、不思議と心に残る。その声は、眠れない夜を越える力を持っているようだった。
♪ Sleepless eyes, haunted skies,
I sing to hush the ghostly cries ♪
一人の少女が、夢を語るように。けれども、実際には夢を見ることさえできない現実がある。FFIという病、その本質を誰も知らないこの空間で、彼女の声だけが真実を伝えていた。
♪ No dreams to dream, no stars to hold,
Still I keep walking, brave and bold ♪
客席の誰もが、彼女が病を抱えているとは思わなかっただろう。ただ美しい歌姫が歌っている、そんな幻想に包まれていた。
♪ Future blurred, heart unheard,
I whisper songs I’ve never learned ♪
曲の途中、彼女はふっと笑った。だがその笑みにはわずかな震えが混じる。それは恐れではなく、限界を知った者の静かな覚悟。Cメロに差し掛かる頃には、その震えは堂々たる力に変わっていた。
♪ Can’t fall asleep, can’t dream of sleep,
But still I sing, my soul to keep ♪
♪ My voice will ring, until I break,
And if I fall, I’ll leave a wake ♪
客席の一人ひとりが、息を呑む。彼女の声は力強く、どこまでも届いていた。悲しみも、絶望も、歌声に溶けていく。ただ一つ、確かなのは──それが最後かもしれないという静かな予感だけだった。
♪ I can’t forget, I can’t regret,
This song I sing, my silhouette ♪
音楽が終わる。ミナは笑った。まるで自分がこの舞台に生まれるべくして存在していたかのように。だが、その微笑の裏側にあったのは、言葉にならないものだった。ステージを降りた彼女の頬を、一筋の涙が伝っていた。
控え室に入った瞬間、ミナは舞台の熱気を置き去りにして、静かに崩れ落ちた。膝を抱え、肩を震わせるその姿は、誰よりも小さく、そして脆かった。
「・・・大丈夫か?」
透は黙って隣に腰を下ろし、ミナの背中に手を添える。その温度がわずかでも伝わるように、強くも弱くもない圧で、ただそっと。
「・・・ミナ・・・。」
涙は止まらない。拍手の余韻も、誰かの称賛も、今の彼女には届いていない。満足げだった笑顔の裏に、これは“最後になるかもしれない”という予感が、ずっとあったのだ。
透はミナの呼吸に合わせて、手を動かす。言葉ではなく、動作で伝える。舞台の上でどれだけ誇らしく立っていようと、ここではそのままでいていいと。
時間だけが、二人の間を満たしていく。涙は止まらなくても、震えは少しずつ収まっていく。沈黙の中で、安心だけがゆっくりと広がっていった。
置いていけない、置いていきたくない。
「・・・怖いよ・・・。」
「大丈夫だ、俺がいる。」
「でも・・・。」
彼は、確実に解決してくれるだろう。
だが、その先に自分は並べるだろうか。
彼の手段はどこまで自分を尊重してくれるものだろうか、段々死んでいく中で自分は希望を持って眠れなくなるのか。
「透・・・透・・・嫌だよ・・・離れたくないよ・・・。」
ミナは震える手で透の服の裾を掴んでいた。まるで、溺れる者が最後の浮き輪を握るように。細くなった指先に、力だけはしっかりと宿っている。それが、彼女の決意でもあり、恐れでもあった。
透はその手を包むように握り返した。無言で、ただその体温だけを伝えるように。言葉は、彼女にとっても彼にとっても、もう足りなかった。
ミナは知っている。透が何よりも自分の命を優先することを。それは信頼の証でもあるが、同時に、絶望の足音を感じさせるものだった。彼が冷静でいればいるほど、彼女の中の恐怖は現実味を帯びていった。
身体の奥から、どうしようもない不安が這い上がる。過去の全てが泡のように崩れ落ちていく感覚。未来の輪郭が見えないことが、これほどまでに苦しいとは知らなかった。
それでも、透の温もりだけが、ミナの崩壊をかろうじて留めていた。言葉では埋められない断絶の中で、確かな存在だけが、彼女を支えていた。
「・・・全部渡せ、残りの命。」
「・・・うん。」
彼女はそう言って、残り少ない眠りに耽った。
そして・・・。
「主治医。」
「アリスよ。」
「(どうせ本名アツシとかだな。)」
「持っていって欲しい?」
「技術の案ごとにチームを作る。一通り情報は集めた。」
「・・・お見事。」
「ファンだったらしい。」
「そりゃあ運がいい。」
「見事な動きだったよ、とな。アイツそんなに動いてたか?ちょっと熱中して見てないんだ。」
「・・・え?・・・うーん。」
チームとやらの詳細を話す前に紙で渡され、その量に驚愕した。
凡そ数十枚の具体的な計画用紙。飛行機で何を作っていたのかと思えばこれだったのか。詳細はPDFのリンクで・・・と、まだあるらしい。ゆっくり読もう・・・と空腹を満たしに行く。
「『オタ芸と悲しい背景』・・・あれ?・・・話題になったの・・・。」
何かズレている気がするが、話題になったなら良いかとアリスはスマホを切った。
何が起きたのか。周囲の誰もが悟っていた。彼女に関することだろう、と。だが彼自身の口からは語られない。沈黙が続く中、学内には逆に奇妙な期待が生まれた。
──彼なら、きっと何とかする。
その予測と信頼は、やがて事実を追い越した。彼の行動は日を追うごとに研ぎ澄まされ、朝は医学部に現れ、昼には図書館、夜は工学部へと移動し、白衣とスーツの中間のような服装で校内を駆けていた。最早、透を見たことがない学生は存在しなかった。すれ違った者は、何かしらの衝撃を与えられ、無言で通り過ぎるだけでも影響を受けた。目が合えば姿勢を正したという者もいた。
だが、それと同時に──彼の荒れ方も、目立ち始めていた。原因は、誰の目にも明らかだった。だが、正面から触れられることはなく、代わりにその期待が過剰な関心へと変わり始めていた。
「彼女、もう亡くなったんでしょう?」
「なら、次は私の番にしませんか?」
軽薄に、ある女学生が言った。その瞬間、透はその頬を殴った。初めて、人前で感情を剥き出しにした。
それが学内を騒がせ、騒動となった。処分としての停学が決まり、教授会でも意見が割れた。だが、学長は別の判断を下す。
「彼の才を罰するより、今こそ用いるべきだ」
そうして提案されたのが、留学だった。彼女の病と向き合うため、研究の支援を受けるため、アメリカの専門医療機関との連携のために──透を送り出す計画が、水面下で動き始めた。
新幹線の車内は静かだった。窓の外を流れる景色は誰にも見られず、白く濁ったガラスに人影だけが揺れていた。ミナは小さく身体を丸め、透の肩に頭を預けて眠っている。透は開いたノートPCの画面を見てはいるが、数分前から指は止まったままだった。
主治医が斜め向かいの席から静かに彼らを眺めていた。眼鏡の奥にある瞳は、懐かしむようでいて、どこか張り詰めていた。
「ねえ、透さん。」
名指しではなく、少し距離を取った呼びかけだった。透が目を向けると、主治医は小さく笑った。
「私、昔──男だったのよ。」
ミナは眠ったままだった。透は少し眉を上げたが、驚きの感情よりも、問いただすような姿勢は見せなかった。
「ミナちゃんがね、小さい頃に言ったの。『男の人って、全部キライ!』って。泣きながら。何があったかは訊かなかった。でも──その瞬間に、私はもうこの子の前で男でいたくないって思ったの。」
語る声は穏やかだったが、過去の記憶のどこかで震えていた。
「その週のうちに手術の予約を入れた。竿も玉も、切った。痛みは……まあ、どうでもよかった。あの子に嫌われる方が、よっぽど痛いと思ったから。」
透はゆっくりと頷いた。主治医は指先で自分の膝を軽く叩くようにしながら続けた。
「今でも思うのよ。あの子に『嫌』って言われるのが、何より怖いって。あの子、分かってないかもしれないけど・・・人の人生を動かす力があるのよ。だから、今度こそ守りたいの。あの時、私が勝手に変わったみたいに、今度は彼女の未来を変える側でいたいの。」
窓の外では空が開けてきていた。遠くに空港の誘導灯が小さく光り、静かに目的地が近づいていることを知らせていた。
誰も彼らの空気を壊そうとしなかった。他の関係者も同じ車両に乗っていたが、彼と彼女の間に踏み込む者はいない。むしろ、それを知っているからこそ──空気を読める者たちだけが、この移動に同行を許されていたのだ。
主治医は最後に一度だけ、眠っているミナの頬を見つめ、息を吸い込んだ。
「だから、あなたも──彼女に本気でいてあげてね。」
・・・正直、普通に怖かった。子供の頃のミナが「男の人は嫌」と泣いた、それだけの理由で性別適合手術まで受け、外見までも変えてしまった主治医。医学的倫理の枠を超えたような決断だったが、それが可能だったのは、彼女が誰よりも速く、正確に未来を予測し、行動に移せる人物だったからだ。あのとき彼女は「逆らったらヤバい」と判断したのだ。
イカれている。だが、それでこそだ。彼女のような人間がいなければ、この移動も、今回の計画も成立していない。
「・・・自分にそれが出来るかは、不安だ。」
「・・・さぁね。でも、脳移植は却下されたんでしょう?なら、ほかに選択肢はないわ。」
「専念しているさ。」
視線は流れる車窓に落ち、時間はゆるやかに過ぎていく。
「そして、計画自体は既に百程度、準備してある。」
言葉にしなかった。多くは失敗に終わる可能性が高い、そういう計画群だ。だが。
「彼女の声や記憶は失わせたくない。最良の手を打てる段階である以上、余裕を持って挑むつもりだ。」
その言葉に、主治医は小さく息を吐き、頷いた。彼がどこまでも本気であることを、誰よりも理解しているのは、彼女だった。
アメリカの入国審査を一通り終えた頃には、身体の疲れが意識に染みていた。本来であれば、そのまま大学へ向かいたい所だが、アメリカの大学は日本とは全く異なる構造を持っている。フラタニティ、ソロタニティ──それぞれ男性・女性向けの友愛団体とされているが、実際は半ば学閥のような力を持ち、そこに入れるか否かが大学生活や将来の就職先にまで影響を及ぼす。組織に属する為には徹底した上下関係を覚えなければならず、そうした努力を積んでも、上司が人事権を持つ企業が大半を占めるアメリカでは、たった一言で解雇されることもある。
年収が八百万円を超えても「低賃金」と扱われ、税率の緩さにも関わらず、絶望的な格差の中に沈む。つまり、既存のコミュニティに入るのも、独自に作るのも、そして自分の目標を達成するのも──どれも非常に困難だということだ。
この国で立場を勝ち取る為には、何かを示さねばならない。そして彼女の存在を、世界に知らせる為にも──
「・・・だから、歌えるか、ミナ。」
「・・・いいよ、透の為なら。」
その答えに迷いはなかった。声が消えかけている彼女にとって、歌うという行為がどれだけの代償を伴うか、透は知っていた。それでも、彼女は応じた。
すべては、彼女自身と──彼女を守ろうとする誰かの為に。
舞台袖で、ミナは深く息を吸い込んだ。
袖の陰にある鏡に映る自分を見つめ、衣装の裾を軽く整える。
真っ白なメイド服に、淡い水色のフリルがあしらわれている。まるで童話の世界から抜け出たような装い。
シンデレラの仮装のように見えるのも、今日だけは計算づくだ。
マイクを持つ手が、少しだけ震えていた。
それでも彼女は一歩、また一歩と舞台中央へと進んでいく。
ライトが彼女を照らすと、会場全体が一瞬、息を呑んだように静まり返った。
流れるイントロに合わせて、ミナは柔らかなステップでリズムを刻む。
口元には笑顔――けれど、瞳の奥に宿るものは、誰にも読めない影だった。
――それは、もう夢を見れない少女の、たった一度きりの祈り。
スポットライトが彼女を捉える。照明は舞台上の一点だけを照らし、その光の下でミナは小さく呼吸を整えていた。柔らかいフリルのメイド服が動くたびに揺れ、髪飾りのリボンが観客の目を引いた。客席からのどよめきが、一瞬だけ静寂へと転じる。
リズムに合わせて、足元でステップを刻む。まるで夢の中の子供のように、希望を振りまくような動きだった。
♪ Dreamless nights, silent fights,
I’m dancing here to chase the lights ♪
客席の視線が集中する。ミナの声は透き通っていた。軽やかでありながら、不思議と心に残る。その声は、眠れない夜を越える力を持っているようだった。
♪ Sleepless eyes, haunted skies,
I sing to hush the ghostly cries ♪
一人の少女が、夢を語るように。けれども、実際には夢を見ることさえできない現実がある。FFIという病、その本質を誰も知らないこの空間で、彼女の声だけが真実を伝えていた。
♪ No dreams to dream, no stars to hold,
Still I keep walking, brave and bold ♪
客席の誰もが、彼女が病を抱えているとは思わなかっただろう。ただ美しい歌姫が歌っている、そんな幻想に包まれていた。
♪ Future blurred, heart unheard,
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曲の途中、彼女はふっと笑った。だがその笑みにはわずかな震えが混じる。それは恐れではなく、限界を知った者の静かな覚悟。Cメロに差し掛かる頃には、その震えは堂々たる力に変わっていた。
♪ Can’t fall asleep, can’t dream of sleep,
But still I sing, my soul to keep ♪
♪ My voice will ring, until I break,
And if I fall, I’ll leave a wake ♪
客席の一人ひとりが、息を呑む。彼女の声は力強く、どこまでも届いていた。悲しみも、絶望も、歌声に溶けていく。ただ一つ、確かなのは──それが最後かもしれないという静かな予感だけだった。
♪ I can’t forget, I can’t regret,
This song I sing, my silhouette ♪
音楽が終わる。ミナは笑った。まるで自分がこの舞台に生まれるべくして存在していたかのように。だが、その微笑の裏側にあったのは、言葉にならないものだった。ステージを降りた彼女の頬を、一筋の涙が伝っていた。
控え室に入った瞬間、ミナは舞台の熱気を置き去りにして、静かに崩れ落ちた。膝を抱え、肩を震わせるその姿は、誰よりも小さく、そして脆かった。
「・・・大丈夫か?」
透は黙って隣に腰を下ろし、ミナの背中に手を添える。その温度がわずかでも伝わるように、強くも弱くもない圧で、ただそっと。
「・・・ミナ・・・。」
涙は止まらない。拍手の余韻も、誰かの称賛も、今の彼女には届いていない。満足げだった笑顔の裏に、これは“最後になるかもしれない”という予感が、ずっとあったのだ。
透はミナの呼吸に合わせて、手を動かす。言葉ではなく、動作で伝える。舞台の上でどれだけ誇らしく立っていようと、ここではそのままでいていいと。
時間だけが、二人の間を満たしていく。涙は止まらなくても、震えは少しずつ収まっていく。沈黙の中で、安心だけがゆっくりと広がっていった。
置いていけない、置いていきたくない。
「・・・怖いよ・・・。」
「大丈夫だ、俺がいる。」
「でも・・・。」
彼は、確実に解決してくれるだろう。
だが、その先に自分は並べるだろうか。
彼の手段はどこまで自分を尊重してくれるものだろうか、段々死んでいく中で自分は希望を持って眠れなくなるのか。
「透・・・透・・・嫌だよ・・・離れたくないよ・・・。」
ミナは震える手で透の服の裾を掴んでいた。まるで、溺れる者が最後の浮き輪を握るように。細くなった指先に、力だけはしっかりと宿っている。それが、彼女の決意でもあり、恐れでもあった。
透はその手を包むように握り返した。無言で、ただその体温だけを伝えるように。言葉は、彼女にとっても彼にとっても、もう足りなかった。
ミナは知っている。透が何よりも自分の命を優先することを。それは信頼の証でもあるが、同時に、絶望の足音を感じさせるものだった。彼が冷静でいればいるほど、彼女の中の恐怖は現実味を帯びていった。
身体の奥から、どうしようもない不安が這い上がる。過去の全てが泡のように崩れ落ちていく感覚。未来の輪郭が見えないことが、これほどまでに苦しいとは知らなかった。
それでも、透の温もりだけが、ミナの崩壊をかろうじて留めていた。言葉では埋められない断絶の中で、確かな存在だけが、彼女を支えていた。
「・・・全部渡せ、残りの命。」
「・・・うん。」
彼女はそう言って、残り少ない眠りに耽った。
そして・・・。
「主治医。」
「アリスよ。」
「(どうせ本名アツシとかだな。)」
「持っていって欲しい?」
「技術の案ごとにチームを作る。一通り情報は集めた。」
「・・・お見事。」
「ファンだったらしい。」
「そりゃあ運がいい。」
「見事な動きだったよ、とな。アイツそんなに動いてたか?ちょっと熱中して見てないんだ。」
「・・・え?・・・うーん。」
チームとやらの詳細を話す前に紙で渡され、その量に驚愕した。
凡そ数十枚の具体的な計画用紙。飛行機で何を作っていたのかと思えばこれだったのか。詳細はPDFのリンクで・・・と、まだあるらしい。ゆっくり読もう・・・と空腹を満たしに行く。
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