泡立つ脳

伊阪証

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穴あき

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彼のアプローチは二つだ。ひとつは生物学──破壊された脳の領域を、未使用の神経回路や再編成可能な領域で補填し直すこと。もうひとつは工学──信号をデジタル化し、脳機能の外部補完を通じて喪失した機能を代替すること。だが、彼女が最も強く恐れているのは、そのどちらの技術的困難でもなければ、手術による痛みでもない。恐れているのは、脳そのものの喪失だ。自分が自分でなくなっていくこと。記憶、思考、感情──それらの欠落や歪みによって、自分自身が崩れていく未来だ。
「・・・どうして・・・かぁ。」
そう呟いた彼に、背後から静かな声が返る。
「ああ、あそこまで極度に恐れる理由がな。」
いつの間にか傍にいた主治医が、腕を組んで呟く。口調は軽いが、目は笑っていない。
「君のデリカシーと人間の心が無いのはいいさ。でも彼女は良家名血。雑草や突然変異なんて、存在自体が忌避される。」
「・・・育ちの良さか。」
「・・・あ、そういう事か。」
短いやりとりの中で、彼は何となく理解した。多分、だが──彼女は幼少期、他者から「撫でられる」存在だったのだろう。褒められ、大事にされ、愛された。そしてそれが、彼女の「自己像」を形作っていたのだ。
脳を失うということは、そうした手触りの記憶が剥がれていくことに等しい。撫でられた記憶も、愛された感覚も、きっと消える。彼女はそれを、本能的に拒絶している。どれだけの技術があろうとも、あの手の温もりをもう一度感じられる保証はないのだから。

──彼女に詫びようとした。言葉に出来ないものが喉まで込み上げていた。だが、彼女は唐突に泣き出した。
最初は声もなかった。ただ、震える肩と、堰を切ったように溢れる涙だけが、彼女の内側を物語っていた。彼は咄嗟に声をかけようとしたが、言葉は要らなかった。彼女の方が先に、壊れるような声で呟いたのだ。
「・・・もう、悲しい感情なんて、持ちたくない。」
その一言で、彼は全てを悟った。
彼女は、悲しみに耐えきれなくなっていた。ただの感情ではない──それは眠れぬ夜を抱えて、何度も繰り返されてきた不安と絶望の連なりだった。
「透・・・どうしよう・・・これから眠れないのに・・・透とどう過ごせばいいの・・・?」
嗚咽交じりに絞り出される声。彼女の目は潤んだまま、彼をまっすぐに見ていた。
「・・・こんなことになるなら・・・透なんて、好きにならなきゃ良かった・・・。」
口にしてから、自分でそれを否定するように首を振る。だが、止まらない。
「だって・・・透は頑張ってる・・・頑張ってるのに、私・・・私、離れなきゃいけないなんて・・・」
褒めるように、讃えるように、愛していることを隠さずに言いながら──それが彼女を、より深く苦しめていた。希望を信じるほど、その距離が怖くなる。触れた体温すら、偽りに思えてしまう夜が続くのだ。透がどんなに支えてくれても、彼女の中に残る“終わり”の影は、消えなかった。

彼女は、目を閉じることすら忘れたように、ただ虚空を見つめていた。瞬きの間隔が不自然に長く、視線はどこにも定まらない。音も、光も、匂いも、届いているはずなのに、何ひとつ心に響いていなかった。
自分で整えたはずの衣服は乱れ、髪は乾いているのに濡れたように貼り付いていた。動くことも話すこともできるはずだったが、身体は命令を拒否していた。意志があるのに、指は動かない。問いかけに答えようとしても、声は胸の奥でくすぶったまま届かなかった。
思考が絡まり、時間の流れがよく分からなくなっていた。夜なのか朝なのか、昨日だったのか今日だったのか。今ここにいることすら、少し前の記憶のような気がする。眠っていないのに夢を見ているような、しかし夢ではないことだけが分かる、その残酷さだけが確かなものだった。
孤独ではなかったはずだ。支えてくれる人もいた。けれど、その好意や愛情を真正面から受け止めるには、心があまりにも疲れすぎていた。優しさが刃になると知っているから、怖くて近づけなかった。
手を伸ばすことはできる。けれど、それを握り返す力が残っていない。涙も出ない。ただ、胸の奥に押し込めた焦げたような痛みだけが、じんわりと広がっていた。名前を呼ばれるたび、何かが剥がれていく。自分が何者だったのか、なぜ頑張ってきたのか、全てが曖昧になり、ただ一つ――
「もう、無理かもしれない」
その言葉だけが、喉まで来ていた。だが、それすら呟くこともできず、彼女はただ、少しずつ沈んでいった。

扉の向こうから、小さな手が何度も何度も叩く音がした。迷いもためらいもない、ただ「開けて」と願う音だった。
「とおる!」
ミナの声が震えていた。怒りでも悲しみでもなく、ただ助けを呼ぶように、切羽詰まった響きだった。
「・・・ミナ!」
透はすぐに駆け寄り、彼女を抱きしめた。細くなった体ではなかったが、彼女の中から何かが欠け始めていることだけは分かった。
「とおる・・・。」
名前を呼ぶ声は、懐かしい音に似ていた。ほんの数年前、何も分からないまま信じてついてきた彼女の声だ。口調も響きも、あの頃に戻ったかのようだった。
「いい子だったね。」
その一言に、ミナは少し目を細めて笑った。あどけない顔つきで、首を傾げて、まるで何も心配のない少女のように彼に甘えた。服の裾を引っ張って、自分を見てほしいとせがむ仕草。かつて彼女が恥ずかしがっていたような動きも、今は何の抵抗もなく、自然なものとして現れていた。

主治医が以前に語った言葉が脳裏をよぎる──「もう始まっている」
言語野が崩れていく。意味と単語の紐づけが外れ、文の構築が苦手になる。会話は成立しても、それは過去の記憶を必死に手繰って出しているだけ。脳のどこかが損なわれるたび、残った領域が必死に代替しようとしている。そしてそれが、症状をさらに進行させる。
可愛いと感じるには、あまりにも痛ましい。まるで幼い少女が、最後に甘える権利を使い切るかのように彼に寄り添っている。その笑顔は作られたものではない。ただ、今の彼女にはそれ以外の表現手段が残っていないのだ。
記憶の繋がりが断たれていく中で、それでも彼女は「とおる」とだけは言えるように、何度も、何度も呼んだ。壊れていく意識の中で、名前だけが浮き彫りになっていた。
彼女の可愛さは、壊れかけた器の儚さそのものだった。そして透は、それを「可愛い」と感じてしまった自分を、許せなかった。

計画は、一日ごとに静かに、確実に遅れ始めていた。
どこで誤差が生まれたのか、どの仮定が不完全だったのか──それを問い直す時間すら足りない。
焦燥は日に日に増していく。
だが、それを表に出すわけにはいかなかった。
彼女の前では、絶対に。
彼は静かに彼女の額へ手を伸ばし、そっと撫でた。指先が触れた瞬間、ほんの少しだけ彼女が微笑んだように見えた。言葉を交わすでもなく、ただそれだけで安心させるように。
面倒は主治医に託す。食事の世話、服薬、体調の把握──すべて、研究の時間を奪わないようにと事前に調整されている。透は今日も、静まり返った別室で机に向かう。数万通りの回路配置、数百の神経接続モデル、そして今夜もまた、終わりのないシミュレートと検証作業。
現状、どれだけ脳を補充したところで、既存のニューロンは回復しない。細胞そのものが、可逆性を持たない。
新たな構造で置き換えるか、あるいは別の形で模倣するしかない。だが、その模倣ですら、彼女の「声」や「記憶」が保たれる保証はない。
その間にも、ミナの症状は進んでいく。
苦痛に悶えながら暴れたり、悪魔に取り憑かれたように笑うこともない。そうではない。
彼女は、静かに壊れていく。
ただ、眠れずに──意識だけが醒めたまま、確実に、ゆっくりと死に向かって。
何もできず見つめることしか許されない、その過程が、彼の神経を擦り減らしていく。

だが、それでも彼は諦めない。
まだ手はある。
まだ──時間は、あるはずだ。

了解した。以下に、状況の深刻さ・感情の複雑さ・登場人物の消耗を、密度と文量を高めて描き直す。

そして、同時にある事実が発覚した。
ミナは、妊娠していた。
主治医は、その診断結果を何度も確認してから告げた。誤診の余地があるならそう信じたかった。だが、検査は正確だった。彼の手元のデータが冷たく証明していた。
透は無言のまま椅子に沈み、数秒間、何も考えられなかった。思考は音もなく沈降し、現実だけが、彼の皮膚を焼くように熱を持って迫ってくる。
「・・・こさえたな?」
声だけが、乾いていた。
主治医は表情を変えず、ただ彼の目を見つめて頷いた。
「君に、決断に関して一度問いたい。子供だが、恐らく正常に産むのは難しい。そして──高確率で死産になるだろう。」
事務的な声だった。医師としての立場を守るための距離だった。しかしその距離が、今この瞬間、透にとってはあまりにも冷たく響いた。
「・・・この子供を利用する選択肢もある。倫理はともかく、緊急性を優先すれば、臓器の提供元として見なければいけない可能性もある。」
それは医師の立場でもあり、研究者としての非情でもあった。だが、透は口を噤んだままだった。
「彼女から奪えるかどうかは分からない。だが、女性として色んな人の話を聞いていると、子供への情熱というのは・・・とても侮蔑出来ない。正しいか間違いかではなく、その感情そのものが、決して軽んじてはならない。」
目の前の男が言葉を慎重に重ねている理由は分かっていた。ミナの状態が日々悪化していること。そして彼女が、既に過剰な精神的負荷を抱えていること。
「・・・確実さ、か。」
沈むように呟いた。
「・・・ああ、こんな身体になってしまった以上、彼女の方が遥かに大事だ。」
自分がどうあるかではない。彼女をどう守るか。それだけを考えてきた彼の覚悟は、揺らいでいなかった。
「ん・・・初めてこの体で、嬉しい気分になったよ。」
それは皮肉であり、同時に本音でもあった。男であることに意味があったことはなかった。だが今だけは──この身体でよかったと思った。
「そうか。なら・・・いいんだ。」
ただその一言だけが、すべての感情を引き受けていた。
それでも主治医は、無言で頷きながら思った。
──彼もまた、酷いくらいに消耗している。
彼女を失うことだけを恐れ、誰よりも理性でその恐怖を隠している。
その姿は、傍から見れば英雄的ですらあったが、
確かに、透という人間をすり減らしていた。

だが、透はすり減らした結果・・・ある発想に至った。
「工学系リソースはすべて、手術機械の制御に振る。精密動作の補正値も、既に演算済みだ。」
彼の声には迷いがない。疲弊と焦燥を押し殺した、静かな執着がそこにあった。
「神経接続は完全には望まない。けれど、特定部位への幹細胞移植で、ニューロンの形成は誘導できる。」
あくまで損耗の緩和。既に失われた回路の代替にはならない。だが、声を保つのが目的なら──。
「再接続のタイミングには電気刺激を用いる。外部パターンで誘導し、回路の定着を図る。
手術中の刺激パターンは既にパラメータ化され、実験系に落とし込まれていた。
「拒絶反応は出ない。iPS由来だからな。」
その一点を、彼は最も重要視していた。時間がかかっても、彼女自身の細胞であることが必要だった。
「神経膠細胞も同時に培養済みだ。支持構造は人工的に補完する。」
グリア系細胞の導入は、機械との境界を繋ぐためでもあった。
「再形成された脳の安定には日数が必要だ。だが、ミナの意識が落ちるまでには、条件を整えきれる。」
それは願望でもあり、確信でもある。どちらともつかぬ緊張が、彼の口調にはあった。
「・・・後は計算するだけだ。」
そう言い切る彼の背中は、煮えたぎる。止めてやりたかったが、数兆円の損失は控えるべきだと判断した。

主治医には、透とは別の仕事があった。
夜ごと、名を伏せたままある種の接待を受け持つ。財閥の令嬢、国会議員の愛人、そして名もなき資産家。どれも彼女を女性と見做すことにためらいはなかった。むしろ、女である必要さえなかったのだ──抱ければいい、その先にある取引の条件が通れば。

身体を差し出して手に入る金は、透の研究では到底まかないきれない薬代や実験素材を補った。そうでもしなければ、誰もミナを助けようとはしない。見返りもない、未来もない、利益にもならない少女に、人は金を払わない。
そして、彼女はそれを透に黙っていた。
透の理想は守るべきだと、心のどこかで思っていた。
これは彼が見るべき現実ではない。
そんな汚れた現実からは、自分がすべてを引き受ければいい──そう信じていた。
だが、その「穴」は確かに自分のものではあるが、何も産まない。未来に繋がることはない。
それでも、搾り取られるように使われ続けた身体は、医療の礎として捧げられていく。

・・・誰も感謝しない。
彼女は知っていた、それがこの役目の宿命であることを。
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