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花飾りの夢
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先に言っておくとプランナーは性別不明です。
プランナーが退職届を提出したのは、特別な朝ではなかった。いつも通り理不尽で、いつも通り過剰な善意と搾取が混ざり合った職場に、ただ「もう十分だ」と判断しただけだ。提出先の上司が何を言っていたかは覚えていない。覚えているのは、書類を出した瞬間、胸の奥に溜まっていた何かが抜け落ち、代わりに「やっていい」という感覚が流れ込んできたことだけだ。規範も、顧客満足も、業界の暗黙知も、今日からは自分の責任ではない。ならば、自分が一番正しいと思う仕事をする。それだけだった。
その日の午後、試着室に現れたのが、同級生だった男だ。学生時代は気弱で、前に出ることはほとんどなかった。今も顔立ちは童顔のままで、笑うとどこか幼さが残る。ただし、身体は違った。現場仕事を続けてきた結果、肩と背中には厚みがあり、脚は長く、重心が低い。決して華奢ではないが、鈍重でもない。素材として見れば、扱いづらいが、可能性は大きい。その評価は一瞬で済んだ。
彼が持ってきたのは、ドレスの資料でも、結婚式場のパンフレットでもなかった。小さな花飾りだった。指で摘まめば壊れてしまいそうな、淡い色の花。プランナーはそれを見ただけで事情を察した。彼は女装に興味があるわけではない。可愛くなりたいわけでも、別の性になりたいわけでもない。ただ、その花飾りに「合う姿」を、結婚相手に見せたいだけなのだ。
「これ、似合うって言われたんです」
男はそう言って、視線を落とした。花飾りをつけたときの自分を、肯定された経験だけが、彼をここまで連れてきた。プランナーは一拍置いてから頷いた。理由としては十分すぎるほどだ。むしろ余計な動機がない分、仕事はやりやすい。
「じゃあ、やりましょう」
それは提案ではなく、決定だった。ブラック企業を辞めたばかりのプランナーにとって、これは客ではない。作品だ。規範から解放された今、自分が積み上げてきた理論と技術を、最も純粋な形で試せる素材。性別は問わない。求められているのは、「花飾りに釣り合う結婚の姿」を現実にすることだけだ。
試着室の扉が閉まる。ここから先は、日常ではない。
花飾り一つを起点に、男の身体とドレスの論理が、正面から衝突する工程が始まる。
試着室の空気は、狭隘な空間に閉じ込められた重厚な肉体の熱によって、微かに歪んでいた。
鏡の前に立つのは、165センチメートルの等身に80キログラムの質量を詰め込んだ、高密度の個体だ。
日常的な労働と徹底したタンパク質の摂取によって構築されたそのフレームは、広背筋の広がりによって逆三角形のシルエットを成し、大腿部は自重と重力を支え続けた証として、岩のような存在感を放っている。
プランナーは、退職願を提出した後の解放感からくる、冷徹で無遠慮な視線をその肉体に突き刺した。
「腕を横に。キベ理論に基づけば、あなたの骨格は『ナチュラル』の強固なフレームと、それを覆う『ロマンティック』な肉感のブレンド。普通のドレスを被せれば、ただの喜劇で終わるわね」
彼女は銀色のメジャーを鞭のようにしならせ、分厚い胸板に宛がった。
数値が刻まれるたび、金属の冷たさが火照った肌に刺さる。
165センチメートルという垂直の線に対し、横方向への圧倒的な圧。それは、女性という枠組みを前提としたウェディング業界の「常識」を、物理的に粉砕する実存だった。
「でも、面白いじゃない。マトリックスで見れば、あなたはミディアムの幅を持ちつつ、ラインは極めてストレート。この強固な土台があるからこそ、重厚なサテンも過剰なフリルも、その自重で潰れることなく『形』を保てる。この身体は、ドレスという彫刻を支えるための、完璧な支柱なのよ」
膝をつき、太ももの周囲を測り取る。
指先が、硬い筋肉の上に薄く乗った、しっとりとした脂肪の層に沈み込んだ。
労働によって損なわれたはずの「女性要素」の代わりに、そこには「完璧に管理された素材」としての、新たな官能が宿っている。
「さあ、始めましょう。ブライダルインナーで矯正するわ。肺の空気を全部捨てて、私に身体を預けなさい。一ミリの妥協も許さないわ」
プランナーの瞳には、客への配慮よりも、己の最高傑作を完成させようとする狂信的な光が宿っていた。
プランナーは無言で一歩引いた。
テーブルの上に並べられたのは、サイズごとに分けられたブライダルパッド。
水袋でも詐術でもない、形状と重量だけを持つ純粋な「部材」だ。
「決めましょう」
彼女は言った。問いではなく、工程の確認として。
「盛るか、盛らないか。それとも――使うか、使わないか」
パッドの一つを手に取り、胸元の何もない平面の前で止める。
「あなたの身体は、土台としては完成している。でもドレスは“完成図”を要求する。ここは、物語の接合部よ」
鏡に映る上半身は、厚みがあり、強く、まっすぐだ。
だが、ドレスが求めているのは強さではない。線が集まる「焦点」だ。
「盛る、という言葉は嫌い?」
返事を待たず、彼女は続ける。
「これは偽装じゃない。視線を誘導するための重心調整。あなたの身体を否定する工程ではないわ」
最小サイズのパッドが、ゆっくりと胸元に当てられた。
触れた瞬間、「何かが足された」という違和感は消え、代わりに「視線がそこに集まるだろう」という確信が生まれた。
「これで、ドレスが“止まる”わ」
彼女は鏡の中の男ではなく、鏡そのものを見ていた。
「ここがあるとレースが逃げない。ネックラインが落ち着く。あなたが動いても、物語が崩れない」
少しだけ、サイズを上げる。ほんの数ミリ。
息を吸うと、胸が張るのではなく、前へと出る。
「……これ以上は不要ね」
その判断は即座だった。
「大きく見せたいんじゃない。“ここに在る”と信じさせたいだけ」
鏡の中で、ドレスを纏う前の身体が、すでにドレスの論理へと最適化され始めていく。
「盛るかどうか、じゃないわね」
プランナーが、初めて微かに笑う。
「“どこまであなたが、この姿を引き受けるか”よ」
その瞬間、理解してしまう。
これは飾りでも、逃げ道でもない。
この胸は、ドレスを着用するための「覚悟」として置かれるのだ。
そして、それを拒む理由はどこにもなかった。
ブラシの音も、パレットの乾いた接触音も消え、鏡と、完成した「顔」だけが向き合っている。
呼吸をすると、白く均された肌の下で、確かな熱が脈打つ。
化粧は冷たい。だが、奪われたものは何一つない。
鏡の中の視線が、わずかに動く。それは確認ではなく、焦点合わせだった。
強靭な骨格は、消えていない。削がれても、丸められてもいない。
ただ、その上に置かれた色と線が、「どこを見せ、どこを沈めるか」を一方的に支配している。
唇の赤は主張しない。だが、目線は否応なくそこに戻ってくる。
――ここが中心だ、と。
自分の顔が、自分自身の意思とは別の論理で空間を制御し始めている。
「似合っている」という感想は浮かばない。
代わりにあるのは、「逃げ場がない」という確信だ。
この顔で、この身体で、この白を纏ったとき、他者の視線はもう無邪気には触れられない。
それを拒む感情は湧かなかった。むしろ、そうなるためにここまで来たのだと、身体が納得している。
「瞬き、自然ね。もう“塗られている”顔じゃないわ」
プランナーは鏡越しではなく、初めて直接、彼を見た。
「大丈夫。この顔は、あなたの身体に負けない」
その言葉は、慰めでも称賛でもなかった。適合確認だ。
立ち上がると、椅子がわずかに音を立てる。
重い身体が動いても、顔は揺れない。
化粧が彼を軽くしたわけではない。その重さを前提に、全体を組み上げたのだ。
「じゃあ、行きましょう。もう顔はできている。あとは、白を通すだけ」
カーテンの向こう、ドレスが待つ場所へ一歩を踏み出すとき、彼はもう分かっていた。
これは変身でも仮装でもない。
「この姿で立つ」という選択を、最後まで引き受けるための工程なのだと。
プランナーの声は、次工程への移行を告げる乾いた指示だった。
男はゆっくりと膝を伸ばす。
80キログラムの質量が、仮靴を通して床へと降りた瞬間、ミカドサテンが遅れて反応した。
布が音を立てて追従する。
それは軽やかな衣擦れではない。質量を伴った「白」が、重力を再配分する音だ。
「いい。止まらないで」
プランナーは、やや斜め後方に立つ。見るべきは表情ではない。ドレスの“遅れ”だ。
一歩。
大腿部の筋肉が動き、それを起点にウエストの絞りが耐え、最後に裾が円を描いて床を撫でる。
「あなたが先に動いて、ドレスが従う。逆じゃない。主従関係は合っているわ」
二歩目で、男は理解する。
これは歩行ではない。慣性の制御だ。
歩幅を広げれば裾が暴れ、狭めすぎれば重さが溜まる。
最適解は、労働で叩き込まれた「無駄のない一歩」と、ドレスが要求する「遅延」を重ねた位置にある。
「顎、少し引いて。肩は落とさない。でも、力は入れない」
矛盾した指示が同時に飛ぶ。しかし、身体は従う。
かつて重機の操作席で要求されてきた、全身の制御点を増やす感覚と同じだからだ。
数歩進んだところで、プランナーが手を挙げる。
「止まって」
男が止まる。だが、ドレスは止まらない。
裾が半拍遅れて前に出て、そして静止する。
その一瞬、白が空間を完全に支配した。
「……今の“余韻”。覚えて」
プランナーは床と裾の関係を凝視していた。
「あなたの質量があるから、このサテンは“流れた”まま止まれる。軽い身体だったら、ただ跳ねて終わりよ」
次は回転。
「右足を軸に。上半身は先に行かない。腰で回る」
男が従うと、パニエが遠心力でわずかに持ち上がり、スカートが円を描く。
音が変わる。擦過音から、布が空気を切る音へ。
「いい……今、ドレスが“見せる”側に回ったわ」
プランナーは満足げに息を吐く。
「これで分かったでしょう。この身体は、飾られるためにあるんじゃない」
男が最後に鏡を見る。
そこに映っているのは、静止した像ではない。動いた結果として成立している「形」だ。
重い。息は浅い。逃げ場はない。
だが――決して、崩れない。
「合格よ」
その一言は、称賛ではなく運用可能の宣告だった。
「この一着は、あなたが立って、歩いて、止まる限り、決して負けないわ」
プランナーは、その先の、光が満ちる場所を指し示した。
プランナーは、手に持っていた指示書をパタンと閉じた。
その表情からは先ほどまでの狂信的な熱が引き、代わりに抜け目ないビジネスマンの顔が顔を出している。
「さて。フィッティングはこれで完璧。あとは……式、どうするの?」
唐突な問いに、男は鏡の中の自分を見たまま動きを止める。
プランナーは彼の反応を待たず、計算高い手つきでショールを整え始めた。
「正直なところ、ドレス一着売れただけでうちは十分な儲けなのよ。このクラスのミカドサテンを仕立て直す手間を考えればね。だから、無理に式を挙げて金を使えとは言わないわ。もし予算が厳しいっていうなら、無人のチャペルでも貸してあげましょうか?」
「……無人のチャペルで?」
「安く済ませたいなら、『神父ボイスパネル』でも用意してあげましょうか? ボタンを押せば『健やかなるときも、病めるときも――』ってフルボイスで流れるやつ」
男の顔が、わずかに引きつった。
「要らねぇよ! チープにも程があるだろ、台無しだ!」
「あら、そう? 結構リアルな録音なんだけど」
プランナーは冗談とも本気ともつかない顔で肩をすくめた。
だが、その視線はすぐに、男の肩にかかる複雑なレースの重なりへと戻る。
「……冗談はさておき。選ぶのはあなたよ」
彼女のトーンが、再び静かな、それでいて重みのあるものに変わった。
「その姿を誰にも見せず、自分だけの秘密にして一生抱えていくのも、一つの幸せ。
あるいは、世界中にひけらかして、その視線のすべてを跳ね返して立つことも、また一つの幸せ」
プランナーは男の背後に回り、鏡越しにその瞳を真っ直ぐに見据えた。
「どちらを選んでもいい。どう転んでもあなたが後悔しないように、私はこの身体に最適化して導いてあげたんだから。安心しなさい」
彼女の手が、男の肩をポンと叩く。
「隠すにせよ、見せるにせよ。あなたはもう、このドレスに負けることはないわ」
男は、深く、長く、肺の中の空気をすべて入れ替えるように呼吸した。
鏡の中の「ドレスを着た怪物」は、もはや違和感ではない。
自分の意志でそこに立っている、一人の男の完成図だった。
花飾りの設定出す前に作ったプロトタイプ
キス顔って正直目開いてた方が嬉しい差分
プランナーが退職届を提出したのは、特別な朝ではなかった。いつも通り理不尽で、いつも通り過剰な善意と搾取が混ざり合った職場に、ただ「もう十分だ」と判断しただけだ。提出先の上司が何を言っていたかは覚えていない。覚えているのは、書類を出した瞬間、胸の奥に溜まっていた何かが抜け落ち、代わりに「やっていい」という感覚が流れ込んできたことだけだ。規範も、顧客満足も、業界の暗黙知も、今日からは自分の責任ではない。ならば、自分が一番正しいと思う仕事をする。それだけだった。
その日の午後、試着室に現れたのが、同級生だった男だ。学生時代は気弱で、前に出ることはほとんどなかった。今も顔立ちは童顔のままで、笑うとどこか幼さが残る。ただし、身体は違った。現場仕事を続けてきた結果、肩と背中には厚みがあり、脚は長く、重心が低い。決して華奢ではないが、鈍重でもない。素材として見れば、扱いづらいが、可能性は大きい。その評価は一瞬で済んだ。
彼が持ってきたのは、ドレスの資料でも、結婚式場のパンフレットでもなかった。小さな花飾りだった。指で摘まめば壊れてしまいそうな、淡い色の花。プランナーはそれを見ただけで事情を察した。彼は女装に興味があるわけではない。可愛くなりたいわけでも、別の性になりたいわけでもない。ただ、その花飾りに「合う姿」を、結婚相手に見せたいだけなのだ。
「これ、似合うって言われたんです」
男はそう言って、視線を落とした。花飾りをつけたときの自分を、肯定された経験だけが、彼をここまで連れてきた。プランナーは一拍置いてから頷いた。理由としては十分すぎるほどだ。むしろ余計な動機がない分、仕事はやりやすい。
「じゃあ、やりましょう」
それは提案ではなく、決定だった。ブラック企業を辞めたばかりのプランナーにとって、これは客ではない。作品だ。規範から解放された今、自分が積み上げてきた理論と技術を、最も純粋な形で試せる素材。性別は問わない。求められているのは、「花飾りに釣り合う結婚の姿」を現実にすることだけだ。
試着室の扉が閉まる。ここから先は、日常ではない。
花飾り一つを起点に、男の身体とドレスの論理が、正面から衝突する工程が始まる。
試着室の空気は、狭隘な空間に閉じ込められた重厚な肉体の熱によって、微かに歪んでいた。
鏡の前に立つのは、165センチメートルの等身に80キログラムの質量を詰め込んだ、高密度の個体だ。
日常的な労働と徹底したタンパク質の摂取によって構築されたそのフレームは、広背筋の広がりによって逆三角形のシルエットを成し、大腿部は自重と重力を支え続けた証として、岩のような存在感を放っている。
プランナーは、退職願を提出した後の解放感からくる、冷徹で無遠慮な視線をその肉体に突き刺した。
「腕を横に。キベ理論に基づけば、あなたの骨格は『ナチュラル』の強固なフレームと、それを覆う『ロマンティック』な肉感のブレンド。普通のドレスを被せれば、ただの喜劇で終わるわね」
彼女は銀色のメジャーを鞭のようにしならせ、分厚い胸板に宛がった。
数値が刻まれるたび、金属の冷たさが火照った肌に刺さる。
165センチメートルという垂直の線に対し、横方向への圧倒的な圧。それは、女性という枠組みを前提としたウェディング業界の「常識」を、物理的に粉砕する実存だった。
「でも、面白いじゃない。マトリックスで見れば、あなたはミディアムの幅を持ちつつ、ラインは極めてストレート。この強固な土台があるからこそ、重厚なサテンも過剰なフリルも、その自重で潰れることなく『形』を保てる。この身体は、ドレスという彫刻を支えるための、完璧な支柱なのよ」
膝をつき、太ももの周囲を測り取る。
指先が、硬い筋肉の上に薄く乗った、しっとりとした脂肪の層に沈み込んだ。
労働によって損なわれたはずの「女性要素」の代わりに、そこには「完璧に管理された素材」としての、新たな官能が宿っている。
「さあ、始めましょう。ブライダルインナーで矯正するわ。肺の空気を全部捨てて、私に身体を預けなさい。一ミリの妥協も許さないわ」
プランナーの瞳には、客への配慮よりも、己の最高傑作を完成させようとする狂信的な光が宿っていた。
プランナーは無言で一歩引いた。
テーブルの上に並べられたのは、サイズごとに分けられたブライダルパッド。
水袋でも詐術でもない、形状と重量だけを持つ純粋な「部材」だ。
「決めましょう」
彼女は言った。問いではなく、工程の確認として。
「盛るか、盛らないか。それとも――使うか、使わないか」
パッドの一つを手に取り、胸元の何もない平面の前で止める。
「あなたの身体は、土台としては完成している。でもドレスは“完成図”を要求する。ここは、物語の接合部よ」
鏡に映る上半身は、厚みがあり、強く、まっすぐだ。
だが、ドレスが求めているのは強さではない。線が集まる「焦点」だ。
「盛る、という言葉は嫌い?」
返事を待たず、彼女は続ける。
「これは偽装じゃない。視線を誘導するための重心調整。あなたの身体を否定する工程ではないわ」
最小サイズのパッドが、ゆっくりと胸元に当てられた。
触れた瞬間、「何かが足された」という違和感は消え、代わりに「視線がそこに集まるだろう」という確信が生まれた。
「これで、ドレスが“止まる”わ」
彼女は鏡の中の男ではなく、鏡そのものを見ていた。
「ここがあるとレースが逃げない。ネックラインが落ち着く。あなたが動いても、物語が崩れない」
少しだけ、サイズを上げる。ほんの数ミリ。
息を吸うと、胸が張るのではなく、前へと出る。
「……これ以上は不要ね」
その判断は即座だった。
「大きく見せたいんじゃない。“ここに在る”と信じさせたいだけ」
鏡の中で、ドレスを纏う前の身体が、すでにドレスの論理へと最適化され始めていく。
「盛るかどうか、じゃないわね」
プランナーが、初めて微かに笑う。
「“どこまであなたが、この姿を引き受けるか”よ」
その瞬間、理解してしまう。
これは飾りでも、逃げ道でもない。
この胸は、ドレスを着用するための「覚悟」として置かれるのだ。
そして、それを拒む理由はどこにもなかった。
ブラシの音も、パレットの乾いた接触音も消え、鏡と、完成した「顔」だけが向き合っている。
呼吸をすると、白く均された肌の下で、確かな熱が脈打つ。
化粧は冷たい。だが、奪われたものは何一つない。
鏡の中の視線が、わずかに動く。それは確認ではなく、焦点合わせだった。
強靭な骨格は、消えていない。削がれても、丸められてもいない。
ただ、その上に置かれた色と線が、「どこを見せ、どこを沈めるか」を一方的に支配している。
唇の赤は主張しない。だが、目線は否応なくそこに戻ってくる。
――ここが中心だ、と。
自分の顔が、自分自身の意思とは別の論理で空間を制御し始めている。
「似合っている」という感想は浮かばない。
代わりにあるのは、「逃げ場がない」という確信だ。
この顔で、この身体で、この白を纏ったとき、他者の視線はもう無邪気には触れられない。
それを拒む感情は湧かなかった。むしろ、そうなるためにここまで来たのだと、身体が納得している。
「瞬き、自然ね。もう“塗られている”顔じゃないわ」
プランナーは鏡越しではなく、初めて直接、彼を見た。
「大丈夫。この顔は、あなたの身体に負けない」
その言葉は、慰めでも称賛でもなかった。適合確認だ。
立ち上がると、椅子がわずかに音を立てる。
重い身体が動いても、顔は揺れない。
化粧が彼を軽くしたわけではない。その重さを前提に、全体を組み上げたのだ。
「じゃあ、行きましょう。もう顔はできている。あとは、白を通すだけ」
カーテンの向こう、ドレスが待つ場所へ一歩を踏み出すとき、彼はもう分かっていた。
これは変身でも仮装でもない。
「この姿で立つ」という選択を、最後まで引き受けるための工程なのだと。
プランナーの声は、次工程への移行を告げる乾いた指示だった。
男はゆっくりと膝を伸ばす。
80キログラムの質量が、仮靴を通して床へと降りた瞬間、ミカドサテンが遅れて反応した。
布が音を立てて追従する。
それは軽やかな衣擦れではない。質量を伴った「白」が、重力を再配分する音だ。
「いい。止まらないで」
プランナーは、やや斜め後方に立つ。見るべきは表情ではない。ドレスの“遅れ”だ。
一歩。
大腿部の筋肉が動き、それを起点にウエストの絞りが耐え、最後に裾が円を描いて床を撫でる。
「あなたが先に動いて、ドレスが従う。逆じゃない。主従関係は合っているわ」
二歩目で、男は理解する。
これは歩行ではない。慣性の制御だ。
歩幅を広げれば裾が暴れ、狭めすぎれば重さが溜まる。
最適解は、労働で叩き込まれた「無駄のない一歩」と、ドレスが要求する「遅延」を重ねた位置にある。
「顎、少し引いて。肩は落とさない。でも、力は入れない」
矛盾した指示が同時に飛ぶ。しかし、身体は従う。
かつて重機の操作席で要求されてきた、全身の制御点を増やす感覚と同じだからだ。
数歩進んだところで、プランナーが手を挙げる。
「止まって」
男が止まる。だが、ドレスは止まらない。
裾が半拍遅れて前に出て、そして静止する。
その一瞬、白が空間を完全に支配した。
「……今の“余韻”。覚えて」
プランナーは床と裾の関係を凝視していた。
「あなたの質量があるから、このサテンは“流れた”まま止まれる。軽い身体だったら、ただ跳ねて終わりよ」
次は回転。
「右足を軸に。上半身は先に行かない。腰で回る」
男が従うと、パニエが遠心力でわずかに持ち上がり、スカートが円を描く。
音が変わる。擦過音から、布が空気を切る音へ。
「いい……今、ドレスが“見せる”側に回ったわ」
プランナーは満足げに息を吐く。
「これで分かったでしょう。この身体は、飾られるためにあるんじゃない」
男が最後に鏡を見る。
そこに映っているのは、静止した像ではない。動いた結果として成立している「形」だ。
重い。息は浅い。逃げ場はない。
だが――決して、崩れない。
「合格よ」
その一言は、称賛ではなく運用可能の宣告だった。
「この一着は、あなたが立って、歩いて、止まる限り、決して負けないわ」
プランナーは、その先の、光が満ちる場所を指し示した。
プランナーは、手に持っていた指示書をパタンと閉じた。
その表情からは先ほどまでの狂信的な熱が引き、代わりに抜け目ないビジネスマンの顔が顔を出している。
「さて。フィッティングはこれで完璧。あとは……式、どうするの?」
唐突な問いに、男は鏡の中の自分を見たまま動きを止める。
プランナーは彼の反応を待たず、計算高い手つきでショールを整え始めた。
「正直なところ、ドレス一着売れただけでうちは十分な儲けなのよ。このクラスのミカドサテンを仕立て直す手間を考えればね。だから、無理に式を挙げて金を使えとは言わないわ。もし予算が厳しいっていうなら、無人のチャペルでも貸してあげましょうか?」
「……無人のチャペルで?」
「安く済ませたいなら、『神父ボイスパネル』でも用意してあげましょうか? ボタンを押せば『健やかなるときも、病めるときも――』ってフルボイスで流れるやつ」
男の顔が、わずかに引きつった。
「要らねぇよ! チープにも程があるだろ、台無しだ!」
「あら、そう? 結構リアルな録音なんだけど」
プランナーは冗談とも本気ともつかない顔で肩をすくめた。
だが、その視線はすぐに、男の肩にかかる複雑なレースの重なりへと戻る。
「……冗談はさておき。選ぶのはあなたよ」
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「その姿を誰にも見せず、自分だけの秘密にして一生抱えていくのも、一つの幸せ。
あるいは、世界中にひけらかして、その視線のすべてを跳ね返して立つことも、また一つの幸せ」
プランナーは男の背後に回り、鏡越しにその瞳を真っ直ぐに見据えた。
「どちらを選んでもいい。どう転んでもあなたが後悔しないように、私はこの身体に最適化して導いてあげたんだから。安心しなさい」
彼女の手が、男の肩をポンと叩く。
「隠すにせよ、見せるにせよ。あなたはもう、このドレスに負けることはないわ」
男は、深く、長く、肺の中の空気をすべて入れ替えるように呼吸した。
鏡の中の「ドレスを着た怪物」は、もはや違和感ではない。
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