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個人シナリオ
個人シナリオ-小鳥遊まどか
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個人シナリオはメインシナリオ関係なく今後登場するキャラ全員とのバラバラのルートです。え?これ千人分やるの?
一年生、二年生、三年生、教職員で合計千人です。
あ、一日間隔でいのり、こはる、ひよりは既に予約投稿してあります。
新入生の喧騒が、厚い扉の向こう側へと遠のいていく。図書室の空気は、磨かれた床のワックスと、数十年分の時間を吸い込んだ紙の匂いが混ざり合って停滞していた。窓からは四月の柔らかな陽光が差し込み、宙を舞う埃を銀色に光らせている。
図書室の最奥、窓際の席。そこには、周囲の風景から切り取られたような静寂を纏う少年、テルが座っていた。
テルの指先は、文庫本のページを一定のリズムで捉える。パラリ、という乾いた音が、静かな室内にメトロノームのような正確さで刻まれる。彼の視線は、一行をなぞる速度が一定だ。頭部は微動だにせず、ただ眼球だけが高速で左右に動いている。その横顔は、春の光を透過させるほどに白く、睫毛の影が頬に長く落ちていた。
三つ隣の席で、まどかは開いたままの参考書を枕に、その光景を観察していた。 まどかの視界に入るテルの指は、節くれだったところがなく、しなやかで細い。ページを捲るたびに、彼の薄い胸板が小さく上下し、制服の襟元から覗く白い首筋が微かに震える。
(…また、次の本にいってる。)
この一時間で、テルは既に三冊目の本を閉じ、四冊目を開いていた。その手際は、読書というよりは情報の「洗浄」に近い。まどかは、彼が読み終えて机の隅に積んだ本の背表紙を盗み見た。どれも評価の高い名著や、実用性の高い新書ばかりだ。
まどかは、自分の参考書を閉じた。椅子が床と擦れて、ギュ、と短い音を立てる。テルの眉が、一ミリだけ動いた。けれど、視線はページから外れない。まどかは立ち上がり、テルの背後を通るふりをして、彼が読み終えたばかりの三冊を手に取った。
「これ、もう読まないの?」
まどかが声をかけると、テルの指が止まった。彼はゆっくりと顔を上げ、まどかを見た。その瞳は、感情を映さない硝子細工のように澄んでいる。
「…いらないなら、戻して。」
テルの声は、高くも低くもない、中性的な響きを持っていた。感情の起伏が削ぎ落とされたその言葉に、まどかは一瞬、呼吸が詰まるのを感じた。
「そうじゃなくて。…テル君って、読むの早いよね。これ、私も読んでいい?」
「…いいよ。」
テルはそれだけ言うと、再び本に視線を落とした。まどかは、手に持った本の重みを感じながら、彼の隣の席に腰を下ろした。テルの選ぶ本は、確かに「当たり」ばかりだった。まどかが読み始めると、無駄のない構成と鮮やかな描写が、すんなりと頭に入ってくる。テルの隣に座っているだけで、自分の思考までが研ぎ澄まされていくような、不思議な高揚感があった。
(仲良くなれそう…かも。)
まどかは、ページを捲るテルの横顔を、本の間から見つめた。 テルの存在は、まるで高性能な空気清浄機のようだった。彼の傍にいれば、余計なノイズが消え、静かな集中だけが残る。まどかは、その感覚を「心地よい」と定義した。
けれど、その期待は、数日を待たずして苦いものへと変わっていく。
放課後の図書室。今日もテルは同じ席にいた。まどかは、昨日彼が読んでいた続きの本を持って、隣に座った。
「ねえ、テル君。昨日のあの本、すごく面白かった! 特に中盤の、あの…」
「…読まないの?」
テルは、ページを捲る手を止めずに言った。まどかは、握りしめた本の表紙を強く指で押さえた。心臓の鼓動が、不快な速さで胸を叩く。
「読むけど! 面白かったから、話したいだけなのに。」
「…いい。あらすじ、知ってるから。」
テルの視線は、依然として活字の上を滑っている。まどかは、彼の冷たい沈黙を前にして、言葉を失った。
(なんなの、この人。…感じ悪い。)
テルの本を選ぶセンスは抜群だ。彼の隣にいれば、無駄な本を手に取る手間が省ける。確かに効率は良い。けれど、その態度は、まどかの誇りをじわじわと削り取っていく。 まどかは、自分の「可愛さ」に自覚があった。少し声を弾ませ、瞳を潤ませれば、大抵の人間は足を止める。この「魅了」の技術は、彼女が円滑な人間関係を築くための、最も強力な武器だった。
(…試してみようかな。)
まどかは、鞄からお気に入りのリップを取り出し、薄く唇に引いた。鏡を見なくても、自分が今、どれほど魅力的な表情を作っているか、指先の感覚で分かる。
テルが、分厚い新書を閉じようとした瞬間だった。まどかは、その本の上に自分の手を重ねた。
「ねえ、それ、ちょうだい!」
まどかは、テルの顔を覗き込んだ。上目遣いに、甘く、溶けるような声を出す。指先が、テルの細い手に微かに触れる。 テルの動きが止まった。彼は、自分の手の上に重なったまどかの手を見つめ、それからまどかの瞳を正面から捉えた。まどかは、勝利を確信した。
けれど、テルの瞳に揺らぎはなかった。
「…邪魔。」
「えっ…?」
「…まだ終わってない。あと、五分。」
テルは、まどかの手を、避けるような手つきで、そっと横へ退けた。
「そういうことじゃなくて! 『ちょうだい』って言ってるの。テル君が読んでる本、いつも面白そうだから。」
「…あとで。今は、読まないで。」
テルはそれだけ言うと、まどかの顔を不自然なものを見るような目で見つめた。
「…顔、変だよ。痛いの?」
まどかは、顔が熱くなるのを感じた。それはテルれではなく、屈辱だった。自分の最大火力の「魅了」が、ただの「体調不良」として処理されたのだ。
「…バカ。テル君のバカ!」
まどかは立ち上がり、テルの机を拳で叩いた。ドン、と鈍い音が図書室に響く。周囲の生徒たちが、驚いたようにこちらを見た。
「効率、効率って…本を読むのがそんなに偉いの? 私は、ただ仲良くなりたいと思っただけなのに!」
テルは、ようやく本から視線を完全に外した。彼は椅子に深く背を預け、まどかをじっと見上げた。
「…仲良くって、なに。」
「なにって、普通にやり取りしたり、お菓子あげたり…そういうのだよ!」
まどかは、鞄から包みを取り出した。地元の有名な菓子店のクッキーだ。
「これ。あげる。だから、その本、今すぐ貸して。これならいいでしょ?」
テルは、包みをじっと見つめた。それから、細い指でそれをまどかの方へ押し戻した。
「…いらない。」
「えっ、なんで!」
「…眠くなる。あと、手がベタベタする。本が汚れる。」
まどかは、目の前が真っ白になった。 差し出した好意を、理由すら簡潔な拒絶で、完膚なきまでに叩き斬られた。
「…もういい。テル君なんて、一生一人で本読んでればいいんだわ。」
まどかはクッキーをひったくり、足音を荒立てて図書室を飛び出した。背後で、再びパラリ、とページを捲る音が聞こえた。
四月の風は、まだ少し冷たい。まどかは、廊下の窓から夕暮れの校庭を眺めた。胸の奥が、チリチリと焼けるように痛い。あんなに可愛げのない人間、初めて会った。
けれど。 (…それでも、彼が選んだ本は、面白かった。)
図書室の窓際。テルは、まどかが去った後の静寂の中で、一冊の本を閉じた。彼はふと、自分の左手の甲に視線を落とした。先ほどまで、まどかの手が重なっていた場所。
「…熱い。」
テルは、小さく独り言を溢した。彼はその場所を一度だけ指でなぞり、次の本を手に取った。 再び、パラリ、と乾いた音が響く。 春の静寂が、ゆっくりと二人を飲み込んでいった。
蝉の声が、図書室の分厚い窓硝子を執拗に叩き続けている。校庭の熱気を遮断するように閉め切られた室内では、天井の吹き出し口から冷房の風が白く、静かに降りていた。しかし、窓際の席だけは別だった。ブラインドの隙間から差し込む真夏の西日が、古びた木製の机の上に鋭い直線を何本も描き、そこだけが周囲から浮き上がったような、熱を持った陽だまりを作っている。
テルは、その陽だまりの中心にいた。 夏服の白い半袖シャツは、糊が効いていて清潔なラインを描いている。第一ボタンまで律儀に留められた襟元からは、白く細い首筋が伸び、集中で熱を持ったのか、項のあたりには微かな汗の粒が光っていた。さらりとした髪が、空調の風に揺れて時折額にかかる。彼はそれを払うことさえ惜しむように、ひたすらに本の世界へ沈み込んでいた。
机の右端には、既に三冊の文庫本が、角を精密に揃えて積み上げられている。一学期の間、彼は図書室の棚を、まるで機械がスキャンしていくような速度で読み干してきた。その手際は、読書という情緒的な行為というよりは、情報の純粋な摂取に近い。ページを捲る指先には一切の迷いがなく、紙が擦れる音だけが、一定のテンポで刻まれている。時折、彼が小さく喉を鳴らしたり、睫毛を震わせたりするたびに、静寂の中に微かな波紋が広がる。
まどかはその隣で、テルが三十分前に読み終えたばかりの短編集を開いていた。 テルが選ぶ本は、いつも言葉の並びが整っていて、淀みなく脳の奥へと滑り込んでくる。自分一人では決して手に取らないような、けれど読む価値のある本。確かに効率が良い。無駄な本を引くリスクがなく、最短距離で質の良い物語に触れられる。
けれど、その効率の良さを享受するたびに、まどかの心には言いようのない不機嫌な澱が溜まっていった。 テルにとって自分は、読み終えた情報を流し込むための、ただの受け皿に過ぎないのではないか。隣に座る自分への関心よりも、ページを捲る指先の速度の方が、彼にとっては重要なのではないか。
まどかは、膝の上で本を閉じた。紙の重なり合う重い音が、静寂に響く。 隣のテルは、微動だにしない。彼は今、図書室に入ったばかりの、まだ真新しい糊の匂いがするハードカバーを捲っている。その指先が紙を捕らえるたびに、細い手首の骨が皮膚の下で微かに動き、白い肌に薄い影を作った。その造形はどこまでも美しく、それゆえにまどかの苛立ちを煽った。
「ねえ、テル君。それ、ちょうだい!」
まどかは椅子を鳴らし、テルに密着するほど身を寄せた。 冷房で冷え切ったまどかの肌が、陽だまりで熱を帯びたテルの白い腕に触れる。まどかは首を傾け、まつ毛を震わせて彼をじっと見上げた。クラスの男子なら、これだけで呼吸を忘れる自信がある、作り込んだ瞳。
テルの視線が、活字の上でぴたりと止まった。 彼はゆっくりと、まどかの方へ顔を向けた。至近距離。テルの瞳は、夏の強い光を透かして、淡い茶色の硝子玉のように澄んでいる。
「…だめ。」
「えー、いいじゃん! 少しだけ。ねえ、お願い!」
「…やだ。あと半分。」
テルは短く言うと、触れているまどかの腕を、避けるようにゆっくりと引き剥がした。拒絶というよりは、そこにあるべきではない異物を取り除くような、迷いのない動作だった。
「少し見せてくれるだけでいいんだってば。意地悪しないでよ。」
「…だめ。集中、切れる。」
テルはまどかの瞳を一度だけ真っ直ぐに見つめ、すぐに視線を本へと戻した。 まどかの魅了は、彼の網膜を通り過ぎるだけで、一欠片の執着も残さない。まどかは唇を噛み、鞄の中から、購買で買ったばかりのペットボトルを取り出した。冷凍庫から出したばかりのような、キンキンに冷えたスポーツドリンク。表面には激しい結露が生じ、水滴がまどかの掌を濡らしている。
「これ、あげるよ。冷たくて気持ちいいよ。だから、その本見せて?」
まどかは、ボトルの底を、テルの露出した白い手の甲に、不意打ちで押し当てた。
テルはびくりと肩を大きく揺らし、短い悲鳴のような息を漏らした。 彼は弾かれたように本を閉じ、自分の手を守るように胸元へ引き上げた。眉が深く寄せられ、白い頬に、戸惑いとも取れる淡い赤みが差す。
「…っ、つめたい。いらない。」
「冷たいでしょ? テル君、さっきから顔赤いし。熱中症になっちゃうよ?」
「…水滴。本が、ぬれる。」
テルは、まどかが差し出したボトルを、困ったような、それでいて断固とした瞳で睨んだ。 彼は机の上の既読本を指先で整え、一ミリのズレもなく積み直した。その動作は、まどかの贈り物に対する、彼なりの徹底的な防衛反応だった。彼にとって、本を汚す水分は、美しく整えられた世界を汚染する不純物でしかない。
「…どいて。光、なくなる。」
「っ…! テル君の、わからずや!」
まどかは立ち上がり、テルの肩を勢いよく突いた。 テルは柳のように力なく揺れたが、すぐに姿勢を正し、また頑なに本を開いた。 彼の世界には、もうまどかの声は届いていない。彼はただ、文字を、知識を、音も立てずに飲み込み続けている。
まどかは図書室を飛び出し、廊下の自販機の前で激しく足を踏み鳴らした。 手に持ったボトルは、もうぬるくなり始めている。掌には、冷たさの代わりに、湿った不快な感触だけが残っていた。
なんなの。本当に、なんなの。 テルの選ぶ本は、面白い。彼が読み終えた後の道を辿るのは、確かに最も無駄がない。 けれど、彼が当たり前のように効率だけで自分を隣に置いていることが、耐え難かった。 仲良くなりたいという自分の願いが、彼の計算式の中ではノイズとして処理されている。その事実が、廊下を埋め尽くす夏の熱気よりも息苦しかった。
まどかは、ぬるくなった水を一気に飲み干した。 喉を通る液体は、少しも心の渇きを癒してはくれなかった。
図書室の窓際。 テルは、本の一節を反芻していた。 彼は自分の右手に残っている、氷のような、それでいて熱いような感触を、無意識に確かめるように握り込んだ。
「…つめたい。」
テルは小さく独り言を溢し、次のページを捲った。 外では蝉の声が、狂ったような速度で高まっていた。 彼の心拍もまた、計算外の接触によって、僅かにリズムを狂わせていた。
太陽が西へ傾き、ブラインドの影が長く伸び始める。図書室の利用者はさらに減り、残っているのは数人の受験生と、窓際の二人だけになった。 廊下へ出たまどかは、十分ほどして戻ってきた。その足取りは重かったが、空席のままにしておくことはできなかった。彼女は、テルの隣に再び腰を下ろした。
テルは、まどかが戻ってきたことにも反応しなかった。 ただ、机の上に積まれていた三冊の本のうちの一冊が、まどかの席の方へ、数センチだけ押し出されていた。
まどかは、黙ってその本を受け取った。 表紙は、テルの体温で少しだけ温かくなっている。 まどかはページを捲り、そこに挟まれていた、見覚えのない栞に目を留めた。それは、図書室の貸出カードの裏に、細いペンで特定の数字だけが書かれた簡素なものだった。
そのページを開くと、そこには美しい情景描写が並んでいた。 まどかは、隣に座るテルの横顔を盗み見た。 テルは相変わらず、無表情に新しい本を読んでいる。けれど、その耳たぶが、夕陽のせいか、それとも別の理由か、ほんのりと赤く染まっているように見えた。
「…これ、続き?」
まどかが小声で尋ねる。 テルは本から目を離さず、小さく首を縦に振った。
「…はやい方が、いいでしょ。」
その言葉は、ぶっきらぼうで、けれどどこか言い訳じみていた。 まどかは、胸の奥に溜まっていた澱が、少しだけ解けるのを感じた。 効率、効率と口にする彼は、その効率を維持するために、わざわざ自分が読むべきページを先に示してくれたのだ。
まどかは、返礼として、鞄の奥に残っていた未開封の冷却シートを取り出した。 今度はボトルを押し当てたりせず、そっと彼の机の端に置く。
「…これ、貼るといいよ。本、汚れないし。」
テルはチラリとそれを見やり、数秒の沈黙の後、小さく頷いた。
「…ありがと。」
テルはそれ以上何も言わなかった。 窓の外では、夕焼けが空を紫に染め始めている。 ページを捲る音。微かな空調の音。 二人の間に流れる時間は、まだ歪で、摩擦だらけだった。 けれど、陽だまりの中で重なる二人の影は、ほんの少しだけ、その境界を曖昧にしていた。
まどかは、テルから渡された本の続きを読み始めた。 彼の選んだ言葉は、やはり驚くほど鮮やかで、夏の終わりの寂しさを予感させるものだった。 隣で、テルの指が止まる。 彼は、まどかが読み進める速度を測るように、横目でページを確認した。
「…おそい。」
「うるさい。テル君が早すぎるの!」
まどかが小声で言い返すと、テルはふん、と鼻を鳴らした。 その顔には、一瞬だけ、悪戯っぽく笑ったような気配が漂った。 まどかはそれを見逃さず、心の中で小さくガッツポーズをした。
効率という名の静寂は、少しずつ、二人だけの特別なリズムへと書き換えられていく。 夏が終わるまで、あと少し。 二人の物語は、まだ始まったばかりだった。
テルは再び、自分の手の甲に視線を落とした。 冷却シートの青い色が、夕闇の中で微かに光っている。 それは、彼がこれまでに処理してきたどんな情報よりも、鮮明で、扱いに困る熱を帯びていた。 彼はそれを剥がそうとはせず、ただ、隣に座るまどかの体温を感じながら、最後の一ページを捲った。
窓の外では、銀杏の葉が微かに色づき始めている。 秋の気配が、忍び寄る夜の風に乗って、図書室の窓を揺らした。
図書室の窓の外では、夏の終わりを告げる暴力的な蝉の声が完全に消え失せ、代わりに乾いた風が銀杏の葉を執拗に揺らす音が支配的になっていた。差し込む光はもはや肌を焼くような熱を持たず、どこか斜めに、弱々しく床を這っている。空気中に浮遊する埃の粒は、低い西日にテルらされて静かな雪のように停滞し、図書室全体が巨大な琥珀の中に閉じ込められたような、奇妙な静止画へと変貌していた。
テルは、その静寂の深淵にいた。
一学期から夏休みにかけて、彼は図書室にある主要な棚を、まるで機械がスキャンしていくような速度で読み干してきた。今、彼の目の前に積まれているのは、この図書室でも最も古い部類に入る、背表紙の革が剥げかかった古い紀行文の山だ。彼は既に、新刊コーナーや人気の小説棚には目もくれなくなっていた。それらはすべて、彼の脳内という巨大な書庫へと整理され、処理済みのアセットとして格納されていた。
テルの指先が、黄色く変色した紙の端を捕らえる。
さらり、という、耳を澄まさなければ聞こえないほど微かな音が、死んだように静まり返った室内で唯一の鼓動のように響く。彼はページを捲る際、指先に全神経を集中させていた。文字そのものが持つ重みを量っているかのような、真摯で、それでいてどこか近寄り難い神聖さすら漂う所作。彼の首筋は、夏の陽光にさらされた後でも変わらず、不気味なほど白く透き通っていた。集中で僅かに開いた唇が、音もなく吐息を漏らす。その美しさは、まどかにとって、もはや恐怖に近いものになりつつあった。
まどかは、その三つ隣の席で、開いたままのノートを睨みつけていた。
ペン先は一歩も動いていない。視線は、隣に座る少年の、あまりにも完成された横顔に吸い寄せられていた。
一学期の間、彼の隣に座り、彼が読み終えた本の効率を享受してきた。けれど、秋の気配が深まるにつれ、まどかの中の不協和音は大きくなっていった。
彼は自分を見ていない。
彼が求めているのは、文字の向こうにある情報の欠片だけであり、その隣で息をしている自分という存在は、図書室の備え付けの椅子と同じ、単なる背景の一部でしかないのではないか。その疑念が、乾いた秋風に煽られるように胸の中で渦巻いていた。
まどかは、膝の上で拳を握りしめた。
テルは今、まさに一冊を読み終え、次の本へと手を伸ばそうとしていた。その淀みのない、効率を極めた動作が、まどかの神経を逆撫でする。
「ねえ、テル君。それ、ちょうだい!」
まどかは、弾かれたように椅子を鳴らして立ち上がった。
静かな図書室に、不快な摩擦音が響き渡る。まどかはテルの机に身を乗り出し、彼の視界を遮るように顔を近づけた。
首を傾け、瞳を精一杯潤ませる。夏の間に磨き上げた、誰をも跪かせるはずの魅了の集大成。自分に向けられた無関心という名の壁を、この甘い一言で粉砕してやりたかった。
テルの指が、新しい本の表紙をなぞったまま止まった。
彼はゆっくりと、重い動作でまどかの方へ顔を向けた。至近距離。テルの瞳は、秋の薄暗い光を反射して、底の知れない泉のように冷たく澄んでいた。
「…だめ。あとで。」
テルは短く吐き捨てると、まどかの視線を避けるように、僅かに顔を背けた。
「いいじゃん、いつも読み終わるの早いんだから。ねえ、テル君、ちょうだいってば!」
まどかは、テルの制服の袖を掴んだ。
薄い布地越しに、彼の驚くほど低い体温が伝わってくる。まどかは必死だった。彼を動揺させたい。自分の存在を、彼の平坦な世界に刻み込みたい。
「…やだ。邪魔。」
テルは、掴まれた袖を、不快そうに強く振り払った。
その動作には、これまでの無関心とは違う、明確な拒絶の意志がこもっていた。まどかは、手が空を切る感触に、胸が締め付けられるのを感じた。
「邪魔って…私は、ただ、仲良くしたいだけなのに。」
「…話しかけないで。入ってこない。」
テルは、まどかの顔を一度も見ようとしなかった。
彼はただ、机の上に置かれた本の角を指で丁寧になぞり、自分の聖域を再定義するかのように、まどかとの間に物理的な距離を空けた。
まどかは、鞄の奥から、ずっと用意していた小さなガラス瓶を取り出した。
中には、淡いピンクや青、黄色をした、宝石のような金平糖が詰まっている。地元の老舗でわざわざ買い求めた、最高級の贈り物。これなら、手が汚れることを嫌う彼でも受け取ってくれるはずだった。
「これ。あげるから。…だから、その本、見せて。」
まどかは、震える手で瓶をテルの前に置いた。
テルは、その色鮮やかな小瓶を、無感情な瞳で見つめた。そして、細い指先を瓶の縁に添えると、それをまどかの方へ、無造作に押し戻した。
「…いらない。」
「なんで。テル君、疲れてるでしょ? これなら手も汚れないし、甘くて美味しいよ?」
「…音がする。バリバリ、うるさい。読めなくなる。」
テルの言葉は、短く、そして鋭かった。
金平糖を噛み砕く音すら、彼にとっては情報の摂取を阻害するノイズでしかないのだ。
まどかは、押し戻されたガラス瓶を強く握りしめた。角の多い金平糖が、ガラス越しに手のひらを刺激する。
「…もう、あっち行って。」
その一言は、まどかの心に、冷たい氷の杭を打ち込むのに十分だった。
差し出した好意も、精一杯の可愛さも、彼の前ではゴミ同然の不純物として処理された。まどかは、込み上げてくる熱いものを必死に堪え、乱暴に荷物をまとめた。
テルは、その騒がしい物音にすら眉一つ動かさない。彼は既に、新しい本の最初のページに、自分の意識を完璧に潜り込ませていた。
まどかは図書室を飛び出し、誰もいない廊下の窓際で、金平糖の瓶を壁に叩きつけそうになった。
なんなの。あの、可愛げのない顔。
効率が良いから、彼の選ぶ本を読んでいた。彼の隣にいれば、自分も何者かになれるような気がしていた。けれど、現実はどうだ。自分はただ、彼の読書という完璧なシステムに群がる、鬱陶しい羽虫でしかなかったのだ。
「…バカテル。…大っ嫌い。」
まどかは、握りしめた瓶を鞄の底に押し込み、夕暮れの校舎を後にした。
涙が溢れそうになるのを、怒りで必死に押し殺す。
秋の風は、昨日よりもずっと冷たく、まどかの露出した足首を冷酷になでていった。
図書室の窓際。
テルは、一文字も頭に入らなくなった本を、音を立てずに閉じた。
静寂。
まどかが去った後の空気は、彼が求めていたはずの完璧な無音だった。
テルは、自分の袖口を見つめた。
さっき、まどかが掴んでいた場所。そこだけが、不自然なほど熱を持っているように感じられた。
彼は、机の引き出しから、以前まどかが置き忘れていった、あの水滴で波打った栞を取り出した。
「…うるさい。」
テルは、自分の胸の奥で騒ぎ立てる不快な鼓動を、そう定義した。
彼の計算によれば、邪魔なノイズを排除したことで、読書効率は最大化されるはずだった。
けれど、彼の指は、次のページを捲ることを頑なに拒んでいた。
図書室の本は、もうほとんど残っていない。
読み尽くしてしまった。
世界を理解するための文字は、もうどこにもない。
それなのに、目の前の空間は、これまでになく不透明で、混沌としていた。
テルは、まどかが座っていた空席をじっと見つめた。
そこには、彼女の温もりも、匂いも、もう残っていない。
ただ、夕闇が静かに席を埋め尽くしていく。
「…効率、悪い。」
テルは、小さく独り言を溢した。
彼は、理由の分からない焦燥感に突き動かされ、鞄に本を詰め込んだ。
銀杏の葉が窓を叩く。
冬の足音が、すぐそこまで迫っていた。
二人の間に訪れた決定的な沈黙。
それは、互いの存在を認め合うための、避けては通れない断絶だった。
秋の夜長。
テルは暗い部屋で、読み終えたはずの本の内容ではなく、まどかが差し出したあの金平糖の、極彩色に輝く残像をいつまでも追い続けていた。
物語は、極限まで冷え切った沈黙の中で、冬の劇的な融解へと向かっていく。
効率という名の盾が崩れ去るまで、あと、ほんの少し。
第四章:冬、融解する境界と声の体温
図書室の窓硝子には、朝から降り続く細かい雪が、音もなく張り付いては溶けていた。室内は暖房の低い唸りが床を這い、重く淀んだ空気を温めている。ブラインドが下ろされた窓際からは、冬の白く頼りない光が漏れ、机の上に置かれた古びた本の背表紙をぼんやりと浮かび上がらせていた。
テル(テル)は、一年前とは比較にならないほどの倦怠感を全身に纏い、椅子に深く沈み込んでいた。
机の上には、もう本の一冊も置かれていない。彼はこの一年の間に、図書室の主だった知識をすべてその白い頭脳へと流し込んでしまった。読み尽くした、という事実は、彼にとって勝利ではなく、一種の閉塞だった。
これ以上の情報を視覚から取り入れることを、彼の脳が拒絶し始めていた。瞼は重く、その下の瞳は、過剰な集中によって赤い細い糸が走っている。指先は微かに震え、ページを捲るという、あんなに正確だった動作さえも、今はひどく億劫な重労働のように感じられた。
まどかは、図書室の隅にある、畳が敷かれた和室スペースの縁に座り、自分の爪を眺めていた。
秋の拒絶以来、二人の間には厚い氷の壁が立ちはだかっていた。隣に座っていても、視線は交わらず、言葉は空中で凍りついて落ちた。テルが自分を「ノイズ」として切り捨てたあの日から、まどかの誇りは修復不可能なほどに傷ついたはずだった。
それでも、彼女は図書室へ来るのを止められなかった。
ひとりで座るテルの、今にも消えてしまいそうな危うい横顔を、離れた場所から見つめることしかできなかった。
「…まどか。」
不意に、名前を呼ばれた。
低く、掠れた、聞いたこともないほどか細い声だった。
まどかが顔を上げると、テルがフラフラとした足取りで、和室スペースの方へ歩いてきた。その手には、一冊の薄い、けれど美しい装丁の物語本が握られている。
テルは和室の入り口で立ち止まり、大きな瞳でまどかをじっと見つめた。その瞳には、いつもの冷徹な効率の陰はなく、ただひどい疲労と、子供のような心細さが滲んでいる。
「…目が、痛い。もう、読めない。」
テルはそう言って、手元に持っていた本をまどかに差し出した。
まどかは呆気に取られたまま、その本を受け取った。テルはそのまま、まどかの目の前の畳の上に、力なく膝をついた。
「…お前の声で、聞かせて。…読んで。」
「え…? テル君、自分で読んだ方が早いでしょ?」
「…だめ。文字が、滑る。…音が、いい。お前の声、ちょうどいいから。」
テルは、まどかの問いに答えることさえ微かな苦痛であるかのように、眉を寄せた。
彼はまどかの隣にある、柔らかな太ももを指差した。
「…貸して。」
「えっ、何を…、」
まどかの言葉が終わる前に、テルはためらいもなく、彼女の膝の上に頭を預けた。
ずしり、とした頭の重みが、まどかの足に伝わる。
驚きで、まどかの全身の筋肉が強張った。心臓が、耳元で鐘を打ち鳴らすような速度で跳ねる。けれど、テルはそんなまどかの動揺など気にする様子もなく、吐息を漏らして目を閉じた。
「…あったかい。」
テルの短い呟きが、まどかのスカートの布地を通して、皮膚に直接響いた。
彼のさらりとした髪が、まどかの指先に触れる。冬の空気の中で、彼の後頭部から伝わる体温は驚くほど熱かった。
まどかは、震える手で本を開いた。
あんなに気に食わなかったはずの少年。自分を無視し、効率だけで世界を切り取っていた、可愛げのない美少年。
けれど、今、自分の膝の上で無防備に目を閉じている彼は、ただの、ひどく疲れたひとりの子供に見えた。
まどかは、喉の奥に詰まった緊張を飲み込み、物語の最初の一行を読み始めた。
「…かつて、その街には、風が吹かなかった…」
まどかの声が、静まり返った和室に低く響く。
その瞬間、テルの呼吸が、ふ、と深くなった。強張っていた彼の肩の力が抜け、まどかの膝の肉に、より深く頭が沈み込んでいく。
まどかは、本を持つ手に力を込めた。自分の声が、テルの中に染み込んでいく。彼がこれまで文字として摂取してきた冷たい情報ではなく、自分の喉の震えと、体温を伴った「言葉」として。
「…もっと。止まらないで。」
テルが、目を閉じたまま、まどかの制服の裾をぎゅっと掴んだ。
まどかは、もう一方の手を、無意識にテルの額に添えていた。熱い。けれど、心地よい熱だった。
まどかは読み続けた。一ページ、また一ページと、ゆっくりと、彼が咀嚼しやすいリズムで。
テルは時折、まどかの声の響きに合わせるように、小さく鼻を鳴らした。
「…テル君、ちゃんと聞いてる?」
「…聞いてる。…いい。情報の浸透が、早い。…お前の声、好き。」
テルの口から漏れた、あまりにも無防備な肯定。
効率とか、合理とか、そんな言葉で武装する前の、本能に近い一言。
まどかは、視界が滲むのを感じた。一年間、彼に振り回され、傷つき、それでも追いかけ続けた時間のすべてが、この一瞬の「声」の共有のためにあったような気がした。
まどかは、テルの柔らかな髪を指でなぞりながら、物語を読み進めた。
窓の外では雪が激しさを増し、世界の音をすべて消し去っていく。
けれど、この和室スペースの中だけは、二人の心拍と、重なり合う呼吸と、まどかの読み上げる物語の声だけが、確かな密度を持って存在していた。
物語が終わりに近づく頃、テルの呼吸は完全に安定し、穏やかな寝息に変わっていた。
まどかは本を閉じ、自分の膝の上で眠る少年の顔を上から見つめた。
長い睫毛。形の良い鼻筋。そして、少しだけ開いた桜色の唇。
一年目の終わり。
二人の間にあった摩擦は、冬の静寂の中で、最も純粋な体温へと変わった。
まどかは、自分の膝の上で眠る少年に、聞こえないほどの小さな声で囁いた。
「…おやすみ、テル君。効率、悪いけど…、私も、大好きだよ。」
テルの指先が、夢の中でまどかの制服をさらに強く握りしめた。
外の雪は降り続き、図書室の窓を白く閉ざしていく。
けれど、二人の距離は、もう二度と、あの一年前の春のような、冷たい空白には戻らない。
効率という名の盾を捨てた少年と、声という名の武器で彼を包み込んだ少女。
二人の歪で、けれど誰よりも純粋な一年目の物語は、この雪の降る静かな和室で、ひとつの完成を迎えた。
冬の陽だまりのような温かさが、二人の影を畳の上に長く、一つに重ねていた。
新入生の放つ、落ち着かない熱気が図書室の重い扉を抜けて、微かなノイズとして流れ込んでくる。四月の風はまだ少しだけ冷たく、開け放たれた高窓から入り込む空気は、冬の湿り気を帯びた埃の匂いを一掃しようとしていた。
テルは、進級しても変わらず窓際の定位置にいた。
一年かけて図書室の主要な棚を「空」にした彼の視線は、もはや書架に向けられることは少なくなっていた。机の上には、一冊の使い古されたノートと、まどかが持ってきた薄い文庫本が置かれている。
春の陽光が、彼の白い項をなぞり、透き通るような肌の上に細い髪の影を落としていた。指先は、去年の春よりもどこか落ち着きを持って、ページではなく自分の顎に添えられている。
まどかはその隣で、テルの肩が触れるほどの距離に座っていた。
一年前の自分が見れば、腰を抜かすほどの近さ。けれど今の二人にとって、この距離は「効率的な情報の共有」という名の、あまりにも自然で、それでいて危うい既定路線となっていた。
「…よんで。」
テルが、視線を本に向けたまま、短く言った。
彼はもう、自分で活字を追うことに固執しなくなっていた。まどかの声を通して脳内に直接像を結ぶ方が、情報の浸透が早い。彼はそれを「効率」と呼んでいたが、その瞳に宿る熱は、単なる情報の処理以上の何かを求めているように見えた。
まどかは、膝の上に広げた物語の一節を読み上げ始めた。
「…『二人の旅人は、霧の深い森を抜けた。そこには、誰も知らない銀色の湖が広がっていた』」
まどかの声が、静かな室内に溶けていく。
テルは目を閉じ、まどかの声の周波数に身を委ねていた。彼の睫毛が、物語の情景に合わせて微かに震える。まどかは時折、彼の横顔を盗み見た。
去年の春、あんなに冷たく自分を撥ねつけた少年は、今ではまどかの声が止まるだけで、不満げに眉を寄せるようになっていた。
「…つぎ。はやいほうが、いい。」
「わかってるって。…『湖のほとりで、彼らは互いの名前を呼んだ。それは、世界でたった一つの…』」
まどかは、ふと声を止めた。
本に書かれた文章が、今の自分たちの空気にそぐわないような気がしたのだ。ありふれた表現。誰かが決めた結末。
テルは目を開け、不思議そうにまどかを見た。
「…どうしたの。」
「うーん、なんだか、この本…ちょっと物足りないなって。」
「…おそい。」
「遅いんじゃなくて! なんていうか、もっとこう、私たちがドキドキするような、そんなお話じゃないっていうか。」
テルは、まどかの言葉を反芻するように、じっと自分の指先を見つめた。
彼は机の上のノートを、まどかの方へ無造作に押し出した。
「…じゃあ、かけばいい。…お前が。」
「えっ、私が書くの?」
「…二人で。交互に。…そのほうが、はやい。無駄がない。」
テルは、ペンを一本、まどかの手に握らせた。
彼の指先が、まどかの手の甲に触れる。冬の和室で知ったあの熱さが、春の陽光の下でより鮮明に、より直接的に肌を焼く。
まどかの心拍が、一気に加速した。
「…ここ。お前、さき。」
テルはノートの最初のページを指差した。
まどかは戸惑いながらも、ペンを走らせた。
それは、図書室の片隅で出会った、名前も知らない少年と少女の物語。
「『少女は、少年の瞳の奥にある、冷たい星を見つめた』…これでどう?」
まどかが書いた一行を、テルは奪うようにして読み取った。
彼はすぐに、その下の行にペンを走らせる。迷いはない。彼の「効率」は、創作においても遺憾なく発揮されていた。
「『少年は、その星を隠そうと、少女の手を強く引いた』」
テルが書き込んだ文字は、鋭く、けれどどこか脆さを孕んでいた。
まどかは息を呑んだ。
文字を介した対話。それは、声を交わすよりもずっと深く、互いの内側に踏み込んでいくような感覚だった。
「『引かれた手は、驚くほど熱かった。少女は、少年の胸に顔を埋めるしかなかった』」
まどかがそう書くと、テルの動きが止まった。
彼は、まどかが書いた「胸に顔を埋める」という描写を、なぞるように見つめた。
図書室の静寂が、急に重みを増す。
廊下を歩く生徒の足音も、遠くで響く部活動の掛け声も、今の二人には届かない。
テルはゆっくりと顔を上げ、まどかを見た。
その瞳は、去年のような無機質さはなく、湿った熱を帯びていた。
「…これ。…どうするの。」
テルが、ノートの中の描写と、目の前のまどかを交互に見る。
「…シナリオ、だから。仕方ない、よね?」
まどかは、震える声でそう言った。
それは、自分に対する言い訳でもあった。
テルは、一瞬だけ視線を泳がせたが、すぐに覚悟を決めたように、まどかの方へ椅子を寄せた。
ガタ、という小さな音が、二人の間の境界線を完全に壊した。
テルの肩が、まどかの胸元に触れる。
彼は、まどかの手元にあるペンを、自分の手で包み込むようにして握った。
去年の夏、水滴のついたボトルで彼が驚いた時とは、全く違う種類の衝撃がまどかを貫く。
テルの体温が、制服の薄い布地を通して、雪崩のように流れ込んできた。
「…つぎ。…かいて。」
テルの声が、耳元で掠れた。
彼は、まどかの体に自分の体を預けるようにして、至近距離でノートを覗き込んでいる。
「効率的に書くため」という、もはや崩れかけの理屈を盾にして、二人は一学期の始まりにして、早くも決定的な距離感へと踏み込もうとしていた。
テルの、さらりとした髪がまどかの頬を撫でる。
彼はまどかの震える指を自分の指で固定し、一緒にペンを動かし始めた。
ノートの上に刻まれるのは、もう誰かの書いた物語ではない。
二人だけの、予測不能で、制御不能な熱の記録。
「…熱い。」
テルは、一年前と同じ言葉を溢した。
けれど、その言葉の意味は、あの春とは正反対の場所にいた。
彼はもう、その熱を避けようとはしなかった。
むしろ、もっと奥まで、その熱を確かめるように、まどかの隣で深く息を吐いた。
二年生の春。
図書室の窓際で、新しい物語が、誰の手にも負えない速度で走り始めていた。
蝉の声が、図書室の分厚い窓ガラスを執拗に叩き続けている。校庭の熱気を遮断するように閉め切られた室内では、天井の吹き出し口から冷房の風が白く、静かに降りていた。しかし、二人が陣取っている窓際の席だけは別だった。ブラインドの隙間から差し込む真夏の西日が、古びた木製の机の上に鋭い直線を何本も描き、そこだけが周囲から浮き上がったような、湿った熱を持つ陽だまりを作っていた。
テルは、その陽だまりの中心で、一冊の大学ノートを広げていた。 春から書き始めた二人の物語は、既にノートの半分を埋め尽くしている。夏服の白い半袖シャツのボタンを二つほど外し、集中で熱を持ったのか、項のあたりには微かな汗の粒が真珠のように光っていた。さらりとした髪が、空調の風に揺れて時折額にかかる。彼はそれを払うことさえ億虚そうに、ひたすらにノートに綴られた自作の言葉を追っていた。
まどかは、そのすぐ隣で、テルの肩に自分の肩を預けるようにして座っていた。 二人の距離は、もはや「隣」という言葉では形容しきれないほどに密着している。冷房で冷え切ったまどかの肌と、陽だまりで熱を帯びたテルの白い腕が、広範囲で重なり合っていた。
「…つぎ。」
テルが、掠れた声で言った。 彼はペンを握ったまま、まどかの方へノートを滑らせる。その指先は微かに震え、白い肌が赤みを帯びている。それは暑さのせいだけではないことを、まどかは確信していた。
まどかはノートを受け取り、物語の続きを書き込んだ。 それは、夏の図書室で、互いの鼓動を確かめ合う少年と少女の場面。
「少女は、少年の胸に耳を当てた。そこからは、機械の時計よりもずっと速く、不規則な音が聞こえてきた…」
書き終えた文字を、テルが横から覗き込む。 彼のさらりとした髪がまどかの頬に触れ、甘い石鹸のような匂いが鼻腔を突く。テルはまどかが書いた一行をじっと見つめ、それから、自分の胸元を指差した。
「…やって。」
「えっ…?」
「…わからないと、書けない。…はやいほうが、いいでしょ。」
テルはまどかの瞳を真っ直ぐに見つめた。 その瞳は、夏の強い光を透かして、底の知れない泉のように熱く澄んでいる。理屈なんてどこにもなかった。ただ、この物語を完成させるために、最短距離でその感触を求めている。そんな、子供のような、けれど残酷なほどに純粋な執着。
まどかは、震える手でペンを置いた。 「シナリオだから」 その言葉を、心の中で呪文のように繰り返す。 まどかはゆっくりと体を倒し、テルの薄い胸板に耳を寄せた。
ドクン、ドクン、ドクン。
布地越しに伝わってくるテルの鼓動は、驚くほど速く、重かった。 彼の肺が大きく膨らみ、熱い空気が吐き出されるたびに、まどかの髪が揺れる。テルの細い腕が、まどかの背中に回された。逃がさないように、あるいは自分を支えるように、その指先が制服をぎゅっと掴む。
「…どう。」
テルの声が、胸板を通してまどかの耳に直接響いた。 低く、震える振動。
「…速いよ。テル君の心臓、壊れちゃいそうなくらい。」
「…お前のせい。…もっと、ちかく。」
テルはそう言うと、まどかの後頭部に手を添え、さらに自分の方へ引き寄せた。 首筋が触れ合い、互いの呼吸が混ざり合う。 汗の匂い、冷房の冷たさ、そして、肌と肌が密着した場所から生まれる、逃げ場のない熱。
ノートの上の物語は、もう現実の二人の動きを追い越そうとしていた。 どちらが先だったのかはわからない。 「シナリオを埋めるための実験」という、脆くて透明な言い訳が、音を立てて崩れ去ったのは、その瞬間だった。
テルの手が、まどかの頬を包み込んだ。 彼の指先は、陽だまりの熱をそのまま移したように熱く、そして、どこまでも柔らかかった。
「…だめ。」
テルが、消え入りそうな声で呟いた。 拒絶の言葉。けれど、彼の瞳は、まどかの唇を一点に見つめたまま動かない。
「…これ以上は、だめ。」
テルはそう言いながら、自分からまどかの方へ顔を近づけた。 鼻先が触れ合い、互いの睫毛が絡み合うほどの距離。 まどかは目を閉じた。 唇に、羽が触れるような、微かで、けれど決定的な重みが加わる。
静寂。 蝉の声さえ聞こえなくなるほどの、深い沈黙が図書室を支配した。
「…やりすぎ、た。」
テルが、突き放すような力でまどかの肩を押した。 彼は椅子を派手に鳴らして立ち上がり、自分の口元を片手で覆った。 白い肌が、耳の付け根まで真っ赤に染まっている。 彼は大きく肩で息をしながら、まどかを、まるで自分を壊した犯人を見るような、怯えた瞳で見つめた。
「…効率、悪い。…こんなの、ちがう。」
「テル君…」
「…もう、やだ。」
テルはノートをひったくるように鞄に詰め込むと、一度も振り返ることなく、図書室の扉へと走り去った。
まどかは、一人、陽だまりの中に残された。 触れ合っていた場所が、急激に冷えていく。 冷房の風が、不自然なほど冷たく肌を撫でた。
(…やりすぎちゃった。)
まどかは、熱を持ったままの自分の唇を指先でなぞった。 「大好き」という感情が、あまりにも重く、鋭く、形を持ってしまったことへの恐怖。 テルが最後に見せた、あの泣きそうな顔。
あんなに密着していた二人の間に、図書室の広大な空間が、取り返しのつかない断絶となって横たわっていた。
________________
図書室の空気は、再び重く停滞し始めた。 窓の外では、夕立の予感が空を灰色に染め、蝉の声が悲鳴のように高まっていた。 二人の自作シナリオは、最も熱い場面で、インクが滲んだまま止まってしまった。
あの日以来、テルは図書室に来なくなった。 まどかは、一人で窓際の席に座り、ページを捲る音のしない静寂に耐え続けていた。 効率を極めた少年と、魅了を武器にした少女。 二人が作り上げた歪な関係は、夏の盛り、その熱量に耐えきれず、自壊してしまったのだ。
けれど。 まどかは知っていた。 自分の手に残る、あの時のテルの震え。 「だめ」と言いながら、自分を求めた彼の、あの指先の力。
秋の風が吹く頃まで、この沈黙は続くのかもしれない。 それでも、まどかは確信していた。 テルが、あの一度味わってしまった「体温」という名の非効率な情報を、一生忘れることができないはずだと。
二年生の夏。 物語は、空白のページを残したまま、深い停絶へと沈んでいった。
銀杏の葉が図書室の窓の外で乾いた音を立て、地面を黄金色に塗りつぶしていく。廊下を吹き抜ける風には、もう夏の湿り気は欠片も残っていなかった。放課後の図書室は、受験生の放つ張り詰めた空気と、古びた紙が放つ特有の粉っぽい匂いに満ちている。
テル(テル)は、窓際のいつもの席から遠く離れた、書庫の影になる目立たない席に座っていた。 目の前には一冊の学術書が開かれているが、彼の細い指先は五分前から同じページを捉えたままだ。さらりとした髪が額にかかり、その隙間から覗く瞳は、活字を追うこともなく虚空を彷徨っている。夏のあの日以来、彼の周囲から「効率」という名の躍動感は消え失せていた。
まどかは、かつて二人で座っていた窓際の席に、一人で座っていた。 隣に置かれた椅子は、主を失ったまま冷たく静止している。彼女の手元には、二人の熱量がインクとなって染み付いた、あの大学ノートが置かれていた。表紙は夏の日差しで僅かに反り、端の方は何度も握りしめられたせいで白く擦れている。まどかは、ペンを握ることも、ノートを開くこともできずにいた。
図書室の中で、二人の距離は物理的には十メートルも離れていない。けれど、その間には、あの日触れ合ってしまった体温の記憶が、分厚い壁となって立ちはだかっていた。
テルは、まどかの方を一度も見ようとしなかった。 彼が時折、小さく咳き込む。その音が静かな室内に響くたびに、まどかの背中の筋肉が強張る。テルの指先が、開かれたページの端を無意味になぞる。彼は何かを読んでいるのではない。ただ、自分の中に生じた「計算外の熱」を、文字の羅列で封じ込めようと必死に足掻いているようだった。
まどかは、ノートを鞄の奥底に押し込んだ。 「やりすぎた」という言葉が、呪いのように頭の中で反芻される。 テルが最後に見せた、あの怯えたような、今にも泣き出しそうな瞳。あんなに可愛くて、あんなに美しくて、それなのに誰よりも頑なだった彼を、自分の執着が壊してしまったのではないか。その恐怖が、まどかの足を図書室の床に縫い付けていた。
秋の日は短く、窓の外はすぐに深い紫色の闇に飲み込まれていく。 図書室の利用者が一人、また一人と席を立ち、扉の向こうへと消えていく。やがて、室内にはテルとまどかの二人だけが残された。 空調の低い唸りだけが、二人の間の沈黙を強調するように響いている。
まどかは意を決して、テルの席へと歩み寄った。 床を踏む靴の音が、耳障りなほど大きく聞こえる。テルの背中が、一瞬だけぴくりと跳ねた。彼は教科書を乱暴に閉じ、立ち上がろうとした。
「…待って。テル君。」
まどかの声が震える。 テルは立ち止まったが、顔を上げようとはしなかった。彼の白い首筋が、夕闇の中で青白く発光しているように見えた。
「…やだ。来ないで。」
テルの声は、驚くほど低く、冷たかった。それは拒絶というよりも、自分を守るための精一杯の壁のようだった。
「ごめん。…あの日のこと、私…」
「…言わないで。うるさい。」
テルはまどかの言葉を遮り、鞄を掴んだ。 彼は、まどかの横を通り過ぎようとする。その瞬間、まどかは彼の細い手首を掴んだ。 ひやりとした冷たさと、その奥にある、機械の時計よりも速い拍動。
「…離して。汚れる。」
テルは力なく言い、腕を振り払おうとした。 まどかはその手を離さなかった。掴んだ指先に力を込める。
「汚れないよ。…テル君、そんなこと思ってないでしょ?」
テルは、ようやく顔を上げた。 長い睫毛の下にある瞳は、ひどく潤んでいた。彼はまどかを睨みつけるように見つめたが、その唇は小刻みに震えている。
「…わかんない。…こんなの、いらない。」
テルは、自分の胸元を片手で押さえた。 彼の中で、何かが音を立てて崩れていくのがわかった。効率、合理、静寂。彼が自分を定義するために築き上げてきたすべての武装が、まどかという存在を前にして、無意味なガラクタへと変わり果てていた。
テルは、まどかの手を振り切ると、逃げるように図書室を飛び出した。 重い扉が閉まる音が、いつまでも室内に残響となって漂った。
________________
季節は巡り、図書室の窓硝子に、今年初めての雪が張り付いた。 廊下を歩く生徒たちは、厚手のコートに身を包み、白い息を吐きながら足早に通り過ぎていく。
二年生の冬。 秋の断絶を経て、二人の間には、より深く、より静かな沈黙が定着していた。 テルは図書室に来る頻度が目に見えて減り、来てもすぐに帰ってしまうようになった。まどかは、彼がいない窓際の席で、一人で本を読み続けた。テルの選んだ本、テルが読み終えた本。彼の足跡を辿ることだけが、今のまどかに許された唯一の接触だった。
ある日の放課後。 雪が激しさを増し、図書室全体が白い闇に包まれようとしていた。 まどかは、図書室の最奥にある和室スペースに向かった。そこは、一年目の冬にテルを膝枕した、二人にとっての聖域だった。
障子を開けると、そこにはテルがいた。 彼は畳の上に膝を抱えて座り、障子越しに差し込む雪明りを見つめていた。 その背中は、以前よりも小さく、脆そうに見えた。机の上には、あの夏の日にインクが渗んだまま放置されていた大学ノートが置かれている。
まどかは、何も言わずにテルの隣に座った。 畳が、微かな音を立てて沈む。 テルは、まどかが来たことに驚く様子もなかった。彼はただ、雪の降る景色から目を離さないまま、小さく口を開いた。
「…あつい。」
テルの言葉は、冬の寒さとは正反対のものだった。 彼は自分の胸を、握りしめた拳で叩いた。
「…ここが、ずっと、あつい。…効率、悪い。…死んじゃいそう。」
テルは、ゆっくりとまどかの方へ顔を向けた。 その瞳には、かつての冷徹な光は微塵もなかった。あるのは、ただ一人の他者を切実に求める、剥き出しの感情だけだった。
「…お前が、いないと。…文字が、入ってこない。…世界が、暗い。」
まどかは、テルの肩をそっと抱き寄せた。 テルは、一瞬だけ体を強張らせたが、すぐにまどかの胸の中に顔を埋めた。 厚手の制服越しに、彼の熱い呼気が伝わってくる。テルの細い腕が、まどかの腰に回された。しがみつくような、逃がさないような、強い力。
「…テル君。ごめんね。怖かったよね。」
「…やだ。…もう、どこにも、行かないで。…お前が、いい。」
テルは、まどかの服を握りしめたまま、小さな子供のように声を殺して泣いた。 彼の頬から零れた涙が、まどかのシャツに、温かい染みを作っていく。 効率なんて、もうどうでもよかった。 自分が不完全であること、一人では世界を読み解けないこと、そして、まどかという存在なしでは、自分の心臓が正しく動かないこと。テルは、そのすべてを、この冬の静寂の中で受け入れていた。
「…テル君。私、テル君が大好きだよ。」
まどかは、テルのさらりとした髪を、指先で優しくなぞった。 テルは、まどかの胸に顔を埋めたまま、何度も頷いた。
「…しってる。…ぼくも。…だいすき。」
テルの声は、掠れていて、今にも消えてしまいそうだった。 けれど、その言葉には、どんな論理的な説明よりも重い、確かな体温が宿っていた。 テルは、まどかの腕の中で、ようやく深く、穏やかな呼吸を始めた。彼の全身の筋肉が弛緩し、まどかの体温を吸い込むように、その身を預けてくる。
まどかは、机の上に置かれたままだった大学ノートを手に取った。 彼女は、止まっていたページの続きに、ペンを走らせた。 「少年と少女は、雪の降る和室で、互いの体温を分け合った。それは、世界で最も非効率で、そして、最も幸福な時間だった」
書き終えた文字を、テルが、薄く目を開けて覗き込んだ。 彼はまどかの手からペンを奪うと、その下に、震える手で一行だけ書き加えた。
「…『これからも、ずっと。』」
二人は、重なり合ったまま、障子の外で降り続く雪を眺めていた。 二年生の冬。 一度は壊れかけた二人の物語は、この場所で、より強固な、より深い絆へと書き換えられた。 効率という名の盾は、もう必要なかった。 二人の間にあるのは、ただ、混じり気のない「大好き」という感情と、それを確かめ合うための、静かな体温だけだった。
図書室の閉館を告げる予鈴が、遠くで鳴り響いた。 けれど、二人は動こうとはしなかった。 雪明りにテルらされた和室の中で、重なる影は、一つの完成された物語のように、どこまでも美しく、静止していた。
三度目の春が、図書室の窓を白く染め上げていた。 新入生たちが放つ、落ち着きのない浮ついた熱気。それらを分厚い扉の向こうに置き去りにして、図書室の最奥、窓際の特等席は、もはや不可侵の聖域と化していた。
テル(テル)は、机の上に広げた難解な数学の参考書を前に、眉根を僅かに寄せていた。 さらりとした髪が指の隙間から零れ、白い項に影を落とす。彼の隣には、当然のようにまどかが座っていた。かつての「三つ隣の席」という距離は、今や「肩が触れ合う距離」へと書き換えられ、それが二人にとっての最も効率的で、最も正しい配置となっていた。
「…ここ。わかんない。」
テルは、ペン先で数式の並びを指し示した。 彼の声は、一年前の尖った冷たさを失い、まどかの存在を当たり前のように受け入れる、深く穏やかな響きを帯びていた。理由を説明することはない。ただ、わからないという事実を、信頼する相手に委ねる。
「あ、ここはね、こう考えるんだよ。ほら、この前の小説の伏線回収みたいにさ…」
まどかがノートに図を書き込みながら、柔らかな声で解説を始める。 テルは、まどかのペンが動く軌跡を、大きな瞳でじっと見つめていた。彼の視線は、数式そのものよりも、それを操るまどかの指先や、時折動く薄い唇、そして耳元で揺れる髪の毛に吸い寄せられているようだった。
「…あ、…そっか。」
テルは短く吐息を漏らし、まどかの解説を脳内に取り込んでいく。 彼の中での「効率」は、もう文字を追うだけの孤独な作業ではなくなっていた。まどかの言葉、まどかの解釈、まどかの体温。それらすべてが、世界を理解するための不可欠な変数として、彼のシステムの中に組み込まれていた。
ふとした瞬間、二人の視線が重なった。 至近距離。去年の夏、あの陽だまりの中で触れ合ってしまった、決定的な熱の記憶が、不意に脳裏を掠める。 テルの白い耳たぶが、みるみるうちに赤く染まっていく。彼は弾かれたように視線をノートに戻し、意味もなくペンのキャップを弄んだ。
「…ちょっと、やりすぎ、た。」
テルが、掠れた声で小さく呟いた。 去年の夏、感情に任せて踏み込みすぎてしまった、あの密着の記憶。 まどかもまた、頬を朱に染めて、手元の本を強く握りしめた。
「…そうだね。でも、あれがあったから、今こうして普通に隣にいられるんだよ?」
「…うるさい。…はずかしい。」
テルはそう言うと、逃げるように参考書の中に顔を埋めた。 けれど、その隣で、まどかの制服の裾を、彼の細い指先がそっと、けれど離さないように掴んでいた。 恥ずかしくて、不器用で、けれど一分一秒でも長くこの距離を維持したいという、切実な執着。
季節は巡り、夏から秋へと図書室の色が変わっていく。 二人は「教え合い」をルーチン化させながら、図書室にあるすべての蔵書を、もはや二人だけの共有財産として領有していった。 テルの持つ冷徹な論理と、まどかの持つ繊細な情緒。 それらが混ざり合い、洗練された二人の審美眼は、図書室という静寂の世界で、一つの結論を導き出した。
「…これ。…いい。」
テルが、新刊コーナーの隅に置かれていた、一冊の目立たない恋愛小説を手に取った。 派手な装丁も、扇情的な煽り文句もない。ただ、静かな筆致で、二人の人間の魂が重なっていく様を描いた、宝石のような物語。 まどかは、その表紙をテルと一緒に眺めた。
「うん。私も、これが今の私たちに一番似合ってると思う。」
二人は、その小説を「今月の推薦図書」として、図書室の最も目立つ場所に配置した。 まどかが丁寧に書き込んだ、物語の美しさを肯定するポップ。そして、テルが添えた、一文だけの、けれど重い推薦の言葉。
「…よめ。…完成、してるから。」
その一冊は、静かな、けれど確実な旋風を学園内に巻き起こした。 流行に敏感な女子生徒から、普段は本を手に取らない男子生徒まで、図書室の扉を叩く者が後を絶たなくなった。誰もが、その小説の中に、自分の隣にいる誰かとの距離を重ねようとしていた。
そして、それ以上に話題になったのは、その本を選んだ「二人」の姿だった。
窓際の陽だまりの中で、一冊のノートを共有し、肩を寄せ合って静かに語り合う美少年と少女。 時に厳しく教え合い、時に顔を赤らめて沈黙し、けれど決して離れることのないその姿は、いつしか学園を代表する「理想のカップル」として、公認のものとなっていた。 廊下ですれ違うたびに、下級生たちが羨望の眼差しを送り、教師たちが微笑ましく頷く。 かつての「理屈屋のテル」も、「計算高いまどか」も、もうそこにはいなかった。 あるのは、互いの欠落を埋め合い、二人で一つの世界を呼吸する、完成された存在。
冬、卒業式を数日後に控えた、放課後の図書室。 雪が校庭を白く塗りつぶし、室内の暖房は心地よい眠気を誘う。
テルは、和室スペースで、まどかの膝の上に頭を預けていた。 一年目の冬、あんなに震えていた彼は、今では当然の権利を主張するように、穏やかな表情で目を閉じている。
「…よんで。」
テルの声が、まどかの耳元で微かに響く。 まどかは、あの日二人で選んだ恋愛小説を開き、最後の一ページを読み上げた。
「『…そして、二人の影は、永遠の静寂の中で、一つの物語になった』」
読み終えた瞬間、図書室の閉館を告げる予鈴が、遠くで鳴り響いた。 三年間、二人を見守り続けてきた静寂。 効率を求め、摩擦に苦しみ、けれど体温に救われた、かけがえのない時間。
「…まどか。」
テルが、まどかの膝の上でゆっくりと目を開けた。 大きな瞳が、まっすぐにまどかを見つめる。
「…だいすき。…おわり。…じゃない、よね。」
テルの指先が、まどかの頬を優しくなぞる。 去年の夏のように怯えてはいない。三年目の冬、彼は自分の不完全さを、まどかという存在で完璧に肯定していた。
「…つぎ。…ふたりで。…いこう。」
まどかは、テルの手に自分の手を重ねた。 三年間の物語は、ここで一旦の「結末」を迎える。 けれど、閉じられた表紙の向こう側には、まだ真っ白なページが、無限に広がっていることを二人は知っていた。
「うん。…行こう、テル君。どこまでも。」
二人は立ち上がり、誰もいなくなった図書室を見渡した。 窓から差し込む雪明かりが、二人の重なる影を、畳の上に長く、美しく映し出している。 効率という名の盾を捨て、体温という名の真実を手に入れた少年と、その隣で微笑み続ける少女。
学園を代表する二人の伝説は、図書室の扉が閉まる音と共に、新しい春へと繋がっていく。
窓の外では、まだ見ぬ明日を祝福するように、粉雪が静かに、静かに降り続いていた。
一年生、二年生、三年生、教職員で合計千人です。
あ、一日間隔でいのり、こはる、ひよりは既に予約投稿してあります。
新入生の喧騒が、厚い扉の向こう側へと遠のいていく。図書室の空気は、磨かれた床のワックスと、数十年分の時間を吸い込んだ紙の匂いが混ざり合って停滞していた。窓からは四月の柔らかな陽光が差し込み、宙を舞う埃を銀色に光らせている。
図書室の最奥、窓際の席。そこには、周囲の風景から切り取られたような静寂を纏う少年、テルが座っていた。
テルの指先は、文庫本のページを一定のリズムで捉える。パラリ、という乾いた音が、静かな室内にメトロノームのような正確さで刻まれる。彼の視線は、一行をなぞる速度が一定だ。頭部は微動だにせず、ただ眼球だけが高速で左右に動いている。その横顔は、春の光を透過させるほどに白く、睫毛の影が頬に長く落ちていた。
三つ隣の席で、まどかは開いたままの参考書を枕に、その光景を観察していた。 まどかの視界に入るテルの指は、節くれだったところがなく、しなやかで細い。ページを捲るたびに、彼の薄い胸板が小さく上下し、制服の襟元から覗く白い首筋が微かに震える。
(…また、次の本にいってる。)
この一時間で、テルは既に三冊目の本を閉じ、四冊目を開いていた。その手際は、読書というよりは情報の「洗浄」に近い。まどかは、彼が読み終えて机の隅に積んだ本の背表紙を盗み見た。どれも評価の高い名著や、実用性の高い新書ばかりだ。
まどかは、自分の参考書を閉じた。椅子が床と擦れて、ギュ、と短い音を立てる。テルの眉が、一ミリだけ動いた。けれど、視線はページから外れない。まどかは立ち上がり、テルの背後を通るふりをして、彼が読み終えたばかりの三冊を手に取った。
「これ、もう読まないの?」
まどかが声をかけると、テルの指が止まった。彼はゆっくりと顔を上げ、まどかを見た。その瞳は、感情を映さない硝子細工のように澄んでいる。
「…いらないなら、戻して。」
テルの声は、高くも低くもない、中性的な響きを持っていた。感情の起伏が削ぎ落とされたその言葉に、まどかは一瞬、呼吸が詰まるのを感じた。
「そうじゃなくて。…テル君って、読むの早いよね。これ、私も読んでいい?」
「…いいよ。」
テルはそれだけ言うと、再び本に視線を落とした。まどかは、手に持った本の重みを感じながら、彼の隣の席に腰を下ろした。テルの選ぶ本は、確かに「当たり」ばかりだった。まどかが読み始めると、無駄のない構成と鮮やかな描写が、すんなりと頭に入ってくる。テルの隣に座っているだけで、自分の思考までが研ぎ澄まされていくような、不思議な高揚感があった。
(仲良くなれそう…かも。)
まどかは、ページを捲るテルの横顔を、本の間から見つめた。 テルの存在は、まるで高性能な空気清浄機のようだった。彼の傍にいれば、余計なノイズが消え、静かな集中だけが残る。まどかは、その感覚を「心地よい」と定義した。
けれど、その期待は、数日を待たずして苦いものへと変わっていく。
放課後の図書室。今日もテルは同じ席にいた。まどかは、昨日彼が読んでいた続きの本を持って、隣に座った。
「ねえ、テル君。昨日のあの本、すごく面白かった! 特に中盤の、あの…」
「…読まないの?」
テルは、ページを捲る手を止めずに言った。まどかは、握りしめた本の表紙を強く指で押さえた。心臓の鼓動が、不快な速さで胸を叩く。
「読むけど! 面白かったから、話したいだけなのに。」
「…いい。あらすじ、知ってるから。」
テルの視線は、依然として活字の上を滑っている。まどかは、彼の冷たい沈黙を前にして、言葉を失った。
(なんなの、この人。…感じ悪い。)
テルの本を選ぶセンスは抜群だ。彼の隣にいれば、無駄な本を手に取る手間が省ける。確かに効率は良い。けれど、その態度は、まどかの誇りをじわじわと削り取っていく。 まどかは、自分の「可愛さ」に自覚があった。少し声を弾ませ、瞳を潤ませれば、大抵の人間は足を止める。この「魅了」の技術は、彼女が円滑な人間関係を築くための、最も強力な武器だった。
(…試してみようかな。)
まどかは、鞄からお気に入りのリップを取り出し、薄く唇に引いた。鏡を見なくても、自分が今、どれほど魅力的な表情を作っているか、指先の感覚で分かる。
テルが、分厚い新書を閉じようとした瞬間だった。まどかは、その本の上に自分の手を重ねた。
「ねえ、それ、ちょうだい!」
まどかは、テルの顔を覗き込んだ。上目遣いに、甘く、溶けるような声を出す。指先が、テルの細い手に微かに触れる。 テルの動きが止まった。彼は、自分の手の上に重なったまどかの手を見つめ、それからまどかの瞳を正面から捉えた。まどかは、勝利を確信した。
けれど、テルの瞳に揺らぎはなかった。
「…邪魔。」
「えっ…?」
「…まだ終わってない。あと、五分。」
テルは、まどかの手を、避けるような手つきで、そっと横へ退けた。
「そういうことじゃなくて! 『ちょうだい』って言ってるの。テル君が読んでる本、いつも面白そうだから。」
「…あとで。今は、読まないで。」
テルはそれだけ言うと、まどかの顔を不自然なものを見るような目で見つめた。
「…顔、変だよ。痛いの?」
まどかは、顔が熱くなるのを感じた。それはテルれではなく、屈辱だった。自分の最大火力の「魅了」が、ただの「体調不良」として処理されたのだ。
「…バカ。テル君のバカ!」
まどかは立ち上がり、テルの机を拳で叩いた。ドン、と鈍い音が図書室に響く。周囲の生徒たちが、驚いたようにこちらを見た。
「効率、効率って…本を読むのがそんなに偉いの? 私は、ただ仲良くなりたいと思っただけなのに!」
テルは、ようやく本から視線を完全に外した。彼は椅子に深く背を預け、まどかをじっと見上げた。
「…仲良くって、なに。」
「なにって、普通にやり取りしたり、お菓子あげたり…そういうのだよ!」
まどかは、鞄から包みを取り出した。地元の有名な菓子店のクッキーだ。
「これ。あげる。だから、その本、今すぐ貸して。これならいいでしょ?」
テルは、包みをじっと見つめた。それから、細い指でそれをまどかの方へ押し戻した。
「…いらない。」
「えっ、なんで!」
「…眠くなる。あと、手がベタベタする。本が汚れる。」
まどかは、目の前が真っ白になった。 差し出した好意を、理由すら簡潔な拒絶で、完膚なきまでに叩き斬られた。
「…もういい。テル君なんて、一生一人で本読んでればいいんだわ。」
まどかはクッキーをひったくり、足音を荒立てて図書室を飛び出した。背後で、再びパラリ、とページを捲る音が聞こえた。
四月の風は、まだ少し冷たい。まどかは、廊下の窓から夕暮れの校庭を眺めた。胸の奥が、チリチリと焼けるように痛い。あんなに可愛げのない人間、初めて会った。
けれど。 (…それでも、彼が選んだ本は、面白かった。)
図書室の窓際。テルは、まどかが去った後の静寂の中で、一冊の本を閉じた。彼はふと、自分の左手の甲に視線を落とした。先ほどまで、まどかの手が重なっていた場所。
「…熱い。」
テルは、小さく独り言を溢した。彼はその場所を一度だけ指でなぞり、次の本を手に取った。 再び、パラリ、と乾いた音が響く。 春の静寂が、ゆっくりと二人を飲み込んでいった。
蝉の声が、図書室の分厚い窓硝子を執拗に叩き続けている。校庭の熱気を遮断するように閉め切られた室内では、天井の吹き出し口から冷房の風が白く、静かに降りていた。しかし、窓際の席だけは別だった。ブラインドの隙間から差し込む真夏の西日が、古びた木製の机の上に鋭い直線を何本も描き、そこだけが周囲から浮き上がったような、熱を持った陽だまりを作っている。
テルは、その陽だまりの中心にいた。 夏服の白い半袖シャツは、糊が効いていて清潔なラインを描いている。第一ボタンまで律儀に留められた襟元からは、白く細い首筋が伸び、集中で熱を持ったのか、項のあたりには微かな汗の粒が光っていた。さらりとした髪が、空調の風に揺れて時折額にかかる。彼はそれを払うことさえ惜しむように、ひたすらに本の世界へ沈み込んでいた。
机の右端には、既に三冊の文庫本が、角を精密に揃えて積み上げられている。一学期の間、彼は図書室の棚を、まるで機械がスキャンしていくような速度で読み干してきた。その手際は、読書という情緒的な行為というよりは、情報の純粋な摂取に近い。ページを捲る指先には一切の迷いがなく、紙が擦れる音だけが、一定のテンポで刻まれている。時折、彼が小さく喉を鳴らしたり、睫毛を震わせたりするたびに、静寂の中に微かな波紋が広がる。
まどかはその隣で、テルが三十分前に読み終えたばかりの短編集を開いていた。 テルが選ぶ本は、いつも言葉の並びが整っていて、淀みなく脳の奥へと滑り込んでくる。自分一人では決して手に取らないような、けれど読む価値のある本。確かに効率が良い。無駄な本を引くリスクがなく、最短距離で質の良い物語に触れられる。
けれど、その効率の良さを享受するたびに、まどかの心には言いようのない不機嫌な澱が溜まっていった。 テルにとって自分は、読み終えた情報を流し込むための、ただの受け皿に過ぎないのではないか。隣に座る自分への関心よりも、ページを捲る指先の速度の方が、彼にとっては重要なのではないか。
まどかは、膝の上で本を閉じた。紙の重なり合う重い音が、静寂に響く。 隣のテルは、微動だにしない。彼は今、図書室に入ったばかりの、まだ真新しい糊の匂いがするハードカバーを捲っている。その指先が紙を捕らえるたびに、細い手首の骨が皮膚の下で微かに動き、白い肌に薄い影を作った。その造形はどこまでも美しく、それゆえにまどかの苛立ちを煽った。
「ねえ、テル君。それ、ちょうだい!」
まどかは椅子を鳴らし、テルに密着するほど身を寄せた。 冷房で冷え切ったまどかの肌が、陽だまりで熱を帯びたテルの白い腕に触れる。まどかは首を傾け、まつ毛を震わせて彼をじっと見上げた。クラスの男子なら、これだけで呼吸を忘れる自信がある、作り込んだ瞳。
テルの視線が、活字の上でぴたりと止まった。 彼はゆっくりと、まどかの方へ顔を向けた。至近距離。テルの瞳は、夏の強い光を透かして、淡い茶色の硝子玉のように澄んでいる。
「…だめ。」
「えー、いいじゃん! 少しだけ。ねえ、お願い!」
「…やだ。あと半分。」
テルは短く言うと、触れているまどかの腕を、避けるようにゆっくりと引き剥がした。拒絶というよりは、そこにあるべきではない異物を取り除くような、迷いのない動作だった。
「少し見せてくれるだけでいいんだってば。意地悪しないでよ。」
「…だめ。集中、切れる。」
テルはまどかの瞳を一度だけ真っ直ぐに見つめ、すぐに視線を本へと戻した。 まどかの魅了は、彼の網膜を通り過ぎるだけで、一欠片の執着も残さない。まどかは唇を噛み、鞄の中から、購買で買ったばかりのペットボトルを取り出した。冷凍庫から出したばかりのような、キンキンに冷えたスポーツドリンク。表面には激しい結露が生じ、水滴がまどかの掌を濡らしている。
「これ、あげるよ。冷たくて気持ちいいよ。だから、その本見せて?」
まどかは、ボトルの底を、テルの露出した白い手の甲に、不意打ちで押し当てた。
テルはびくりと肩を大きく揺らし、短い悲鳴のような息を漏らした。 彼は弾かれたように本を閉じ、自分の手を守るように胸元へ引き上げた。眉が深く寄せられ、白い頬に、戸惑いとも取れる淡い赤みが差す。
「…っ、つめたい。いらない。」
「冷たいでしょ? テル君、さっきから顔赤いし。熱中症になっちゃうよ?」
「…水滴。本が、ぬれる。」
テルは、まどかが差し出したボトルを、困ったような、それでいて断固とした瞳で睨んだ。 彼は机の上の既読本を指先で整え、一ミリのズレもなく積み直した。その動作は、まどかの贈り物に対する、彼なりの徹底的な防衛反応だった。彼にとって、本を汚す水分は、美しく整えられた世界を汚染する不純物でしかない。
「…どいて。光、なくなる。」
「っ…! テル君の、わからずや!」
まどかは立ち上がり、テルの肩を勢いよく突いた。 テルは柳のように力なく揺れたが、すぐに姿勢を正し、また頑なに本を開いた。 彼の世界には、もうまどかの声は届いていない。彼はただ、文字を、知識を、音も立てずに飲み込み続けている。
まどかは図書室を飛び出し、廊下の自販機の前で激しく足を踏み鳴らした。 手に持ったボトルは、もうぬるくなり始めている。掌には、冷たさの代わりに、湿った不快な感触だけが残っていた。
なんなの。本当に、なんなの。 テルの選ぶ本は、面白い。彼が読み終えた後の道を辿るのは、確かに最も無駄がない。 けれど、彼が当たり前のように効率だけで自分を隣に置いていることが、耐え難かった。 仲良くなりたいという自分の願いが、彼の計算式の中ではノイズとして処理されている。その事実が、廊下を埋め尽くす夏の熱気よりも息苦しかった。
まどかは、ぬるくなった水を一気に飲み干した。 喉を通る液体は、少しも心の渇きを癒してはくれなかった。
図書室の窓際。 テルは、本の一節を反芻していた。 彼は自分の右手に残っている、氷のような、それでいて熱いような感触を、無意識に確かめるように握り込んだ。
「…つめたい。」
テルは小さく独り言を溢し、次のページを捲った。 外では蝉の声が、狂ったような速度で高まっていた。 彼の心拍もまた、計算外の接触によって、僅かにリズムを狂わせていた。
太陽が西へ傾き、ブラインドの影が長く伸び始める。図書室の利用者はさらに減り、残っているのは数人の受験生と、窓際の二人だけになった。 廊下へ出たまどかは、十分ほどして戻ってきた。その足取りは重かったが、空席のままにしておくことはできなかった。彼女は、テルの隣に再び腰を下ろした。
テルは、まどかが戻ってきたことにも反応しなかった。 ただ、机の上に積まれていた三冊の本のうちの一冊が、まどかの席の方へ、数センチだけ押し出されていた。
まどかは、黙ってその本を受け取った。 表紙は、テルの体温で少しだけ温かくなっている。 まどかはページを捲り、そこに挟まれていた、見覚えのない栞に目を留めた。それは、図書室の貸出カードの裏に、細いペンで特定の数字だけが書かれた簡素なものだった。
そのページを開くと、そこには美しい情景描写が並んでいた。 まどかは、隣に座るテルの横顔を盗み見た。 テルは相変わらず、無表情に新しい本を読んでいる。けれど、その耳たぶが、夕陽のせいか、それとも別の理由か、ほんのりと赤く染まっているように見えた。
「…これ、続き?」
まどかが小声で尋ねる。 テルは本から目を離さず、小さく首を縦に振った。
「…はやい方が、いいでしょ。」
その言葉は、ぶっきらぼうで、けれどどこか言い訳じみていた。 まどかは、胸の奥に溜まっていた澱が、少しだけ解けるのを感じた。 効率、効率と口にする彼は、その効率を維持するために、わざわざ自分が読むべきページを先に示してくれたのだ。
まどかは、返礼として、鞄の奥に残っていた未開封の冷却シートを取り出した。 今度はボトルを押し当てたりせず、そっと彼の机の端に置く。
「…これ、貼るといいよ。本、汚れないし。」
テルはチラリとそれを見やり、数秒の沈黙の後、小さく頷いた。
「…ありがと。」
テルはそれ以上何も言わなかった。 窓の外では、夕焼けが空を紫に染め始めている。 ページを捲る音。微かな空調の音。 二人の間に流れる時間は、まだ歪で、摩擦だらけだった。 けれど、陽だまりの中で重なる二人の影は、ほんの少しだけ、その境界を曖昧にしていた。
まどかは、テルから渡された本の続きを読み始めた。 彼の選んだ言葉は、やはり驚くほど鮮やかで、夏の終わりの寂しさを予感させるものだった。 隣で、テルの指が止まる。 彼は、まどかが読み進める速度を測るように、横目でページを確認した。
「…おそい。」
「うるさい。テル君が早すぎるの!」
まどかが小声で言い返すと、テルはふん、と鼻を鳴らした。 その顔には、一瞬だけ、悪戯っぽく笑ったような気配が漂った。 まどかはそれを見逃さず、心の中で小さくガッツポーズをした。
効率という名の静寂は、少しずつ、二人だけの特別なリズムへと書き換えられていく。 夏が終わるまで、あと少し。 二人の物語は、まだ始まったばかりだった。
テルは再び、自分の手の甲に視線を落とした。 冷却シートの青い色が、夕闇の中で微かに光っている。 それは、彼がこれまでに処理してきたどんな情報よりも、鮮明で、扱いに困る熱を帯びていた。 彼はそれを剥がそうとはせず、ただ、隣に座るまどかの体温を感じながら、最後の一ページを捲った。
窓の外では、銀杏の葉が微かに色づき始めている。 秋の気配が、忍び寄る夜の風に乗って、図書室の窓を揺らした。
図書室の窓の外では、夏の終わりを告げる暴力的な蝉の声が完全に消え失せ、代わりに乾いた風が銀杏の葉を執拗に揺らす音が支配的になっていた。差し込む光はもはや肌を焼くような熱を持たず、どこか斜めに、弱々しく床を這っている。空気中に浮遊する埃の粒は、低い西日にテルらされて静かな雪のように停滞し、図書室全体が巨大な琥珀の中に閉じ込められたような、奇妙な静止画へと変貌していた。
テルは、その静寂の深淵にいた。
一学期から夏休みにかけて、彼は図書室にある主要な棚を、まるで機械がスキャンしていくような速度で読み干してきた。今、彼の目の前に積まれているのは、この図書室でも最も古い部類に入る、背表紙の革が剥げかかった古い紀行文の山だ。彼は既に、新刊コーナーや人気の小説棚には目もくれなくなっていた。それらはすべて、彼の脳内という巨大な書庫へと整理され、処理済みのアセットとして格納されていた。
テルの指先が、黄色く変色した紙の端を捕らえる。
さらり、という、耳を澄まさなければ聞こえないほど微かな音が、死んだように静まり返った室内で唯一の鼓動のように響く。彼はページを捲る際、指先に全神経を集中させていた。文字そのものが持つ重みを量っているかのような、真摯で、それでいてどこか近寄り難い神聖さすら漂う所作。彼の首筋は、夏の陽光にさらされた後でも変わらず、不気味なほど白く透き通っていた。集中で僅かに開いた唇が、音もなく吐息を漏らす。その美しさは、まどかにとって、もはや恐怖に近いものになりつつあった。
まどかは、その三つ隣の席で、開いたままのノートを睨みつけていた。
ペン先は一歩も動いていない。視線は、隣に座る少年の、あまりにも完成された横顔に吸い寄せられていた。
一学期の間、彼の隣に座り、彼が読み終えた本の効率を享受してきた。けれど、秋の気配が深まるにつれ、まどかの中の不協和音は大きくなっていった。
彼は自分を見ていない。
彼が求めているのは、文字の向こうにある情報の欠片だけであり、その隣で息をしている自分という存在は、図書室の備え付けの椅子と同じ、単なる背景の一部でしかないのではないか。その疑念が、乾いた秋風に煽られるように胸の中で渦巻いていた。
まどかは、膝の上で拳を握りしめた。
テルは今、まさに一冊を読み終え、次の本へと手を伸ばそうとしていた。その淀みのない、効率を極めた動作が、まどかの神経を逆撫でする。
「ねえ、テル君。それ、ちょうだい!」
まどかは、弾かれたように椅子を鳴らして立ち上がった。
静かな図書室に、不快な摩擦音が響き渡る。まどかはテルの机に身を乗り出し、彼の視界を遮るように顔を近づけた。
首を傾け、瞳を精一杯潤ませる。夏の間に磨き上げた、誰をも跪かせるはずの魅了の集大成。自分に向けられた無関心という名の壁を、この甘い一言で粉砕してやりたかった。
テルの指が、新しい本の表紙をなぞったまま止まった。
彼はゆっくりと、重い動作でまどかの方へ顔を向けた。至近距離。テルの瞳は、秋の薄暗い光を反射して、底の知れない泉のように冷たく澄んでいた。
「…だめ。あとで。」
テルは短く吐き捨てると、まどかの視線を避けるように、僅かに顔を背けた。
「いいじゃん、いつも読み終わるの早いんだから。ねえ、テル君、ちょうだいってば!」
まどかは、テルの制服の袖を掴んだ。
薄い布地越しに、彼の驚くほど低い体温が伝わってくる。まどかは必死だった。彼を動揺させたい。自分の存在を、彼の平坦な世界に刻み込みたい。
「…やだ。邪魔。」
テルは、掴まれた袖を、不快そうに強く振り払った。
その動作には、これまでの無関心とは違う、明確な拒絶の意志がこもっていた。まどかは、手が空を切る感触に、胸が締め付けられるのを感じた。
「邪魔って…私は、ただ、仲良くしたいだけなのに。」
「…話しかけないで。入ってこない。」
テルは、まどかの顔を一度も見ようとしなかった。
彼はただ、机の上に置かれた本の角を指で丁寧になぞり、自分の聖域を再定義するかのように、まどかとの間に物理的な距離を空けた。
まどかは、鞄の奥から、ずっと用意していた小さなガラス瓶を取り出した。
中には、淡いピンクや青、黄色をした、宝石のような金平糖が詰まっている。地元の老舗でわざわざ買い求めた、最高級の贈り物。これなら、手が汚れることを嫌う彼でも受け取ってくれるはずだった。
「これ。あげるから。…だから、その本、見せて。」
まどかは、震える手で瓶をテルの前に置いた。
テルは、その色鮮やかな小瓶を、無感情な瞳で見つめた。そして、細い指先を瓶の縁に添えると、それをまどかの方へ、無造作に押し戻した。
「…いらない。」
「なんで。テル君、疲れてるでしょ? これなら手も汚れないし、甘くて美味しいよ?」
「…音がする。バリバリ、うるさい。読めなくなる。」
テルの言葉は、短く、そして鋭かった。
金平糖を噛み砕く音すら、彼にとっては情報の摂取を阻害するノイズでしかないのだ。
まどかは、押し戻されたガラス瓶を強く握りしめた。角の多い金平糖が、ガラス越しに手のひらを刺激する。
「…もう、あっち行って。」
その一言は、まどかの心に、冷たい氷の杭を打ち込むのに十分だった。
差し出した好意も、精一杯の可愛さも、彼の前ではゴミ同然の不純物として処理された。まどかは、込み上げてくる熱いものを必死に堪え、乱暴に荷物をまとめた。
テルは、その騒がしい物音にすら眉一つ動かさない。彼は既に、新しい本の最初のページに、自分の意識を完璧に潜り込ませていた。
まどかは図書室を飛び出し、誰もいない廊下の窓際で、金平糖の瓶を壁に叩きつけそうになった。
なんなの。あの、可愛げのない顔。
効率が良いから、彼の選ぶ本を読んでいた。彼の隣にいれば、自分も何者かになれるような気がしていた。けれど、現実はどうだ。自分はただ、彼の読書という完璧なシステムに群がる、鬱陶しい羽虫でしかなかったのだ。
「…バカテル。…大っ嫌い。」
まどかは、握りしめた瓶を鞄の底に押し込み、夕暮れの校舎を後にした。
涙が溢れそうになるのを、怒りで必死に押し殺す。
秋の風は、昨日よりもずっと冷たく、まどかの露出した足首を冷酷になでていった。
図書室の窓際。
テルは、一文字も頭に入らなくなった本を、音を立てずに閉じた。
静寂。
まどかが去った後の空気は、彼が求めていたはずの完璧な無音だった。
テルは、自分の袖口を見つめた。
さっき、まどかが掴んでいた場所。そこだけが、不自然なほど熱を持っているように感じられた。
彼は、机の引き出しから、以前まどかが置き忘れていった、あの水滴で波打った栞を取り出した。
「…うるさい。」
テルは、自分の胸の奥で騒ぎ立てる不快な鼓動を、そう定義した。
彼の計算によれば、邪魔なノイズを排除したことで、読書効率は最大化されるはずだった。
けれど、彼の指は、次のページを捲ることを頑なに拒んでいた。
図書室の本は、もうほとんど残っていない。
読み尽くしてしまった。
世界を理解するための文字は、もうどこにもない。
それなのに、目の前の空間は、これまでになく不透明で、混沌としていた。
テルは、まどかが座っていた空席をじっと見つめた。
そこには、彼女の温もりも、匂いも、もう残っていない。
ただ、夕闇が静かに席を埋め尽くしていく。
「…効率、悪い。」
テルは、小さく独り言を溢した。
彼は、理由の分からない焦燥感に突き動かされ、鞄に本を詰め込んだ。
銀杏の葉が窓を叩く。
冬の足音が、すぐそこまで迫っていた。
二人の間に訪れた決定的な沈黙。
それは、互いの存在を認め合うための、避けては通れない断絶だった。
秋の夜長。
テルは暗い部屋で、読み終えたはずの本の内容ではなく、まどかが差し出したあの金平糖の、極彩色に輝く残像をいつまでも追い続けていた。
物語は、極限まで冷え切った沈黙の中で、冬の劇的な融解へと向かっていく。
効率という名の盾が崩れ去るまで、あと、ほんの少し。
第四章:冬、融解する境界と声の体温
図書室の窓硝子には、朝から降り続く細かい雪が、音もなく張り付いては溶けていた。室内は暖房の低い唸りが床を這い、重く淀んだ空気を温めている。ブラインドが下ろされた窓際からは、冬の白く頼りない光が漏れ、机の上に置かれた古びた本の背表紙をぼんやりと浮かび上がらせていた。
テル(テル)は、一年前とは比較にならないほどの倦怠感を全身に纏い、椅子に深く沈み込んでいた。
机の上には、もう本の一冊も置かれていない。彼はこの一年の間に、図書室の主だった知識をすべてその白い頭脳へと流し込んでしまった。読み尽くした、という事実は、彼にとって勝利ではなく、一種の閉塞だった。
これ以上の情報を視覚から取り入れることを、彼の脳が拒絶し始めていた。瞼は重く、その下の瞳は、過剰な集中によって赤い細い糸が走っている。指先は微かに震え、ページを捲るという、あんなに正確だった動作さえも、今はひどく億劫な重労働のように感じられた。
まどかは、図書室の隅にある、畳が敷かれた和室スペースの縁に座り、自分の爪を眺めていた。
秋の拒絶以来、二人の間には厚い氷の壁が立ちはだかっていた。隣に座っていても、視線は交わらず、言葉は空中で凍りついて落ちた。テルが自分を「ノイズ」として切り捨てたあの日から、まどかの誇りは修復不可能なほどに傷ついたはずだった。
それでも、彼女は図書室へ来るのを止められなかった。
ひとりで座るテルの、今にも消えてしまいそうな危うい横顔を、離れた場所から見つめることしかできなかった。
「…まどか。」
不意に、名前を呼ばれた。
低く、掠れた、聞いたこともないほどか細い声だった。
まどかが顔を上げると、テルがフラフラとした足取りで、和室スペースの方へ歩いてきた。その手には、一冊の薄い、けれど美しい装丁の物語本が握られている。
テルは和室の入り口で立ち止まり、大きな瞳でまどかをじっと見つめた。その瞳には、いつもの冷徹な効率の陰はなく、ただひどい疲労と、子供のような心細さが滲んでいる。
「…目が、痛い。もう、読めない。」
テルはそう言って、手元に持っていた本をまどかに差し出した。
まどかは呆気に取られたまま、その本を受け取った。テルはそのまま、まどかの目の前の畳の上に、力なく膝をついた。
「…お前の声で、聞かせて。…読んで。」
「え…? テル君、自分で読んだ方が早いでしょ?」
「…だめ。文字が、滑る。…音が、いい。お前の声、ちょうどいいから。」
テルは、まどかの問いに答えることさえ微かな苦痛であるかのように、眉を寄せた。
彼はまどかの隣にある、柔らかな太ももを指差した。
「…貸して。」
「えっ、何を…、」
まどかの言葉が終わる前に、テルはためらいもなく、彼女の膝の上に頭を預けた。
ずしり、とした頭の重みが、まどかの足に伝わる。
驚きで、まどかの全身の筋肉が強張った。心臓が、耳元で鐘を打ち鳴らすような速度で跳ねる。けれど、テルはそんなまどかの動揺など気にする様子もなく、吐息を漏らして目を閉じた。
「…あったかい。」
テルの短い呟きが、まどかのスカートの布地を通して、皮膚に直接響いた。
彼のさらりとした髪が、まどかの指先に触れる。冬の空気の中で、彼の後頭部から伝わる体温は驚くほど熱かった。
まどかは、震える手で本を開いた。
あんなに気に食わなかったはずの少年。自分を無視し、効率だけで世界を切り取っていた、可愛げのない美少年。
けれど、今、自分の膝の上で無防備に目を閉じている彼は、ただの、ひどく疲れたひとりの子供に見えた。
まどかは、喉の奥に詰まった緊張を飲み込み、物語の最初の一行を読み始めた。
「…かつて、その街には、風が吹かなかった…」
まどかの声が、静まり返った和室に低く響く。
その瞬間、テルの呼吸が、ふ、と深くなった。強張っていた彼の肩の力が抜け、まどかの膝の肉に、より深く頭が沈み込んでいく。
まどかは、本を持つ手に力を込めた。自分の声が、テルの中に染み込んでいく。彼がこれまで文字として摂取してきた冷たい情報ではなく、自分の喉の震えと、体温を伴った「言葉」として。
「…もっと。止まらないで。」
テルが、目を閉じたまま、まどかの制服の裾をぎゅっと掴んだ。
まどかは、もう一方の手を、無意識にテルの額に添えていた。熱い。けれど、心地よい熱だった。
まどかは読み続けた。一ページ、また一ページと、ゆっくりと、彼が咀嚼しやすいリズムで。
テルは時折、まどかの声の響きに合わせるように、小さく鼻を鳴らした。
「…テル君、ちゃんと聞いてる?」
「…聞いてる。…いい。情報の浸透が、早い。…お前の声、好き。」
テルの口から漏れた、あまりにも無防備な肯定。
効率とか、合理とか、そんな言葉で武装する前の、本能に近い一言。
まどかは、視界が滲むのを感じた。一年間、彼に振り回され、傷つき、それでも追いかけ続けた時間のすべてが、この一瞬の「声」の共有のためにあったような気がした。
まどかは、テルの柔らかな髪を指でなぞりながら、物語を読み進めた。
窓の外では雪が激しさを増し、世界の音をすべて消し去っていく。
けれど、この和室スペースの中だけは、二人の心拍と、重なり合う呼吸と、まどかの読み上げる物語の声だけが、確かな密度を持って存在していた。
物語が終わりに近づく頃、テルの呼吸は完全に安定し、穏やかな寝息に変わっていた。
まどかは本を閉じ、自分の膝の上で眠る少年の顔を上から見つめた。
長い睫毛。形の良い鼻筋。そして、少しだけ開いた桜色の唇。
一年目の終わり。
二人の間にあった摩擦は、冬の静寂の中で、最も純粋な体温へと変わった。
まどかは、自分の膝の上で眠る少年に、聞こえないほどの小さな声で囁いた。
「…おやすみ、テル君。効率、悪いけど…、私も、大好きだよ。」
テルの指先が、夢の中でまどかの制服をさらに強く握りしめた。
外の雪は降り続き、図書室の窓を白く閉ざしていく。
けれど、二人の距離は、もう二度と、あの一年前の春のような、冷たい空白には戻らない。
効率という名の盾を捨てた少年と、声という名の武器で彼を包み込んだ少女。
二人の歪で、けれど誰よりも純粋な一年目の物語は、この雪の降る静かな和室で、ひとつの完成を迎えた。
冬の陽だまりのような温かさが、二人の影を畳の上に長く、一つに重ねていた。
新入生の放つ、落ち着かない熱気が図書室の重い扉を抜けて、微かなノイズとして流れ込んでくる。四月の風はまだ少しだけ冷たく、開け放たれた高窓から入り込む空気は、冬の湿り気を帯びた埃の匂いを一掃しようとしていた。
テルは、進級しても変わらず窓際の定位置にいた。
一年かけて図書室の主要な棚を「空」にした彼の視線は、もはや書架に向けられることは少なくなっていた。机の上には、一冊の使い古されたノートと、まどかが持ってきた薄い文庫本が置かれている。
春の陽光が、彼の白い項をなぞり、透き通るような肌の上に細い髪の影を落としていた。指先は、去年の春よりもどこか落ち着きを持って、ページではなく自分の顎に添えられている。
まどかはその隣で、テルの肩が触れるほどの距離に座っていた。
一年前の自分が見れば、腰を抜かすほどの近さ。けれど今の二人にとって、この距離は「効率的な情報の共有」という名の、あまりにも自然で、それでいて危うい既定路線となっていた。
「…よんで。」
テルが、視線を本に向けたまま、短く言った。
彼はもう、自分で活字を追うことに固執しなくなっていた。まどかの声を通して脳内に直接像を結ぶ方が、情報の浸透が早い。彼はそれを「効率」と呼んでいたが、その瞳に宿る熱は、単なる情報の処理以上の何かを求めているように見えた。
まどかは、膝の上に広げた物語の一節を読み上げ始めた。
「…『二人の旅人は、霧の深い森を抜けた。そこには、誰も知らない銀色の湖が広がっていた』」
まどかの声が、静かな室内に溶けていく。
テルは目を閉じ、まどかの声の周波数に身を委ねていた。彼の睫毛が、物語の情景に合わせて微かに震える。まどかは時折、彼の横顔を盗み見た。
去年の春、あんなに冷たく自分を撥ねつけた少年は、今ではまどかの声が止まるだけで、不満げに眉を寄せるようになっていた。
「…つぎ。はやいほうが、いい。」
「わかってるって。…『湖のほとりで、彼らは互いの名前を呼んだ。それは、世界でたった一つの…』」
まどかは、ふと声を止めた。
本に書かれた文章が、今の自分たちの空気にそぐわないような気がしたのだ。ありふれた表現。誰かが決めた結末。
テルは目を開け、不思議そうにまどかを見た。
「…どうしたの。」
「うーん、なんだか、この本…ちょっと物足りないなって。」
「…おそい。」
「遅いんじゃなくて! なんていうか、もっとこう、私たちがドキドキするような、そんなお話じゃないっていうか。」
テルは、まどかの言葉を反芻するように、じっと自分の指先を見つめた。
彼は机の上のノートを、まどかの方へ無造作に押し出した。
「…じゃあ、かけばいい。…お前が。」
「えっ、私が書くの?」
「…二人で。交互に。…そのほうが、はやい。無駄がない。」
テルは、ペンを一本、まどかの手に握らせた。
彼の指先が、まどかの手の甲に触れる。冬の和室で知ったあの熱さが、春の陽光の下でより鮮明に、より直接的に肌を焼く。
まどかの心拍が、一気に加速した。
「…ここ。お前、さき。」
テルはノートの最初のページを指差した。
まどかは戸惑いながらも、ペンを走らせた。
それは、図書室の片隅で出会った、名前も知らない少年と少女の物語。
「『少女は、少年の瞳の奥にある、冷たい星を見つめた』…これでどう?」
まどかが書いた一行を、テルは奪うようにして読み取った。
彼はすぐに、その下の行にペンを走らせる。迷いはない。彼の「効率」は、創作においても遺憾なく発揮されていた。
「『少年は、その星を隠そうと、少女の手を強く引いた』」
テルが書き込んだ文字は、鋭く、けれどどこか脆さを孕んでいた。
まどかは息を呑んだ。
文字を介した対話。それは、声を交わすよりもずっと深く、互いの内側に踏み込んでいくような感覚だった。
「『引かれた手は、驚くほど熱かった。少女は、少年の胸に顔を埋めるしかなかった』」
まどかがそう書くと、テルの動きが止まった。
彼は、まどかが書いた「胸に顔を埋める」という描写を、なぞるように見つめた。
図書室の静寂が、急に重みを増す。
廊下を歩く生徒の足音も、遠くで響く部活動の掛け声も、今の二人には届かない。
テルはゆっくりと顔を上げ、まどかを見た。
その瞳は、去年のような無機質さはなく、湿った熱を帯びていた。
「…これ。…どうするの。」
テルが、ノートの中の描写と、目の前のまどかを交互に見る。
「…シナリオ、だから。仕方ない、よね?」
まどかは、震える声でそう言った。
それは、自分に対する言い訳でもあった。
テルは、一瞬だけ視線を泳がせたが、すぐに覚悟を決めたように、まどかの方へ椅子を寄せた。
ガタ、という小さな音が、二人の間の境界線を完全に壊した。
テルの肩が、まどかの胸元に触れる。
彼は、まどかの手元にあるペンを、自分の手で包み込むようにして握った。
去年の夏、水滴のついたボトルで彼が驚いた時とは、全く違う種類の衝撃がまどかを貫く。
テルの体温が、制服の薄い布地を通して、雪崩のように流れ込んできた。
「…つぎ。…かいて。」
テルの声が、耳元で掠れた。
彼は、まどかの体に自分の体を預けるようにして、至近距離でノートを覗き込んでいる。
「効率的に書くため」という、もはや崩れかけの理屈を盾にして、二人は一学期の始まりにして、早くも決定的な距離感へと踏み込もうとしていた。
テルの、さらりとした髪がまどかの頬を撫でる。
彼はまどかの震える指を自分の指で固定し、一緒にペンを動かし始めた。
ノートの上に刻まれるのは、もう誰かの書いた物語ではない。
二人だけの、予測不能で、制御不能な熱の記録。
「…熱い。」
テルは、一年前と同じ言葉を溢した。
けれど、その言葉の意味は、あの春とは正反対の場所にいた。
彼はもう、その熱を避けようとはしなかった。
むしろ、もっと奥まで、その熱を確かめるように、まどかの隣で深く息を吐いた。
二年生の春。
図書室の窓際で、新しい物語が、誰の手にも負えない速度で走り始めていた。
蝉の声が、図書室の分厚い窓ガラスを執拗に叩き続けている。校庭の熱気を遮断するように閉め切られた室内では、天井の吹き出し口から冷房の風が白く、静かに降りていた。しかし、二人が陣取っている窓際の席だけは別だった。ブラインドの隙間から差し込む真夏の西日が、古びた木製の机の上に鋭い直線を何本も描き、そこだけが周囲から浮き上がったような、湿った熱を持つ陽だまりを作っていた。
テルは、その陽だまりの中心で、一冊の大学ノートを広げていた。 春から書き始めた二人の物語は、既にノートの半分を埋め尽くしている。夏服の白い半袖シャツのボタンを二つほど外し、集中で熱を持ったのか、項のあたりには微かな汗の粒が真珠のように光っていた。さらりとした髪が、空調の風に揺れて時折額にかかる。彼はそれを払うことさえ億虚そうに、ひたすらにノートに綴られた自作の言葉を追っていた。
まどかは、そのすぐ隣で、テルの肩に自分の肩を預けるようにして座っていた。 二人の距離は、もはや「隣」という言葉では形容しきれないほどに密着している。冷房で冷え切ったまどかの肌と、陽だまりで熱を帯びたテルの白い腕が、広範囲で重なり合っていた。
「…つぎ。」
テルが、掠れた声で言った。 彼はペンを握ったまま、まどかの方へノートを滑らせる。その指先は微かに震え、白い肌が赤みを帯びている。それは暑さのせいだけではないことを、まどかは確信していた。
まどかはノートを受け取り、物語の続きを書き込んだ。 それは、夏の図書室で、互いの鼓動を確かめ合う少年と少女の場面。
「少女は、少年の胸に耳を当てた。そこからは、機械の時計よりもずっと速く、不規則な音が聞こえてきた…」
書き終えた文字を、テルが横から覗き込む。 彼のさらりとした髪がまどかの頬に触れ、甘い石鹸のような匂いが鼻腔を突く。テルはまどかが書いた一行をじっと見つめ、それから、自分の胸元を指差した。
「…やって。」
「えっ…?」
「…わからないと、書けない。…はやいほうが、いいでしょ。」
テルはまどかの瞳を真っ直ぐに見つめた。 その瞳は、夏の強い光を透かして、底の知れない泉のように熱く澄んでいる。理屈なんてどこにもなかった。ただ、この物語を完成させるために、最短距離でその感触を求めている。そんな、子供のような、けれど残酷なほどに純粋な執着。
まどかは、震える手でペンを置いた。 「シナリオだから」 その言葉を、心の中で呪文のように繰り返す。 まどかはゆっくりと体を倒し、テルの薄い胸板に耳を寄せた。
ドクン、ドクン、ドクン。
布地越しに伝わってくるテルの鼓動は、驚くほど速く、重かった。 彼の肺が大きく膨らみ、熱い空気が吐き出されるたびに、まどかの髪が揺れる。テルの細い腕が、まどかの背中に回された。逃がさないように、あるいは自分を支えるように、その指先が制服をぎゅっと掴む。
「…どう。」
テルの声が、胸板を通してまどかの耳に直接響いた。 低く、震える振動。
「…速いよ。テル君の心臓、壊れちゃいそうなくらい。」
「…お前のせい。…もっと、ちかく。」
テルはそう言うと、まどかの後頭部に手を添え、さらに自分の方へ引き寄せた。 首筋が触れ合い、互いの呼吸が混ざり合う。 汗の匂い、冷房の冷たさ、そして、肌と肌が密着した場所から生まれる、逃げ場のない熱。
ノートの上の物語は、もう現実の二人の動きを追い越そうとしていた。 どちらが先だったのかはわからない。 「シナリオを埋めるための実験」という、脆くて透明な言い訳が、音を立てて崩れ去ったのは、その瞬間だった。
テルの手が、まどかの頬を包み込んだ。 彼の指先は、陽だまりの熱をそのまま移したように熱く、そして、どこまでも柔らかかった。
「…だめ。」
テルが、消え入りそうな声で呟いた。 拒絶の言葉。けれど、彼の瞳は、まどかの唇を一点に見つめたまま動かない。
「…これ以上は、だめ。」
テルはそう言いながら、自分からまどかの方へ顔を近づけた。 鼻先が触れ合い、互いの睫毛が絡み合うほどの距離。 まどかは目を閉じた。 唇に、羽が触れるような、微かで、けれど決定的な重みが加わる。
静寂。 蝉の声さえ聞こえなくなるほどの、深い沈黙が図書室を支配した。
「…やりすぎ、た。」
テルが、突き放すような力でまどかの肩を押した。 彼は椅子を派手に鳴らして立ち上がり、自分の口元を片手で覆った。 白い肌が、耳の付け根まで真っ赤に染まっている。 彼は大きく肩で息をしながら、まどかを、まるで自分を壊した犯人を見るような、怯えた瞳で見つめた。
「…効率、悪い。…こんなの、ちがう。」
「テル君…」
「…もう、やだ。」
テルはノートをひったくるように鞄に詰め込むと、一度も振り返ることなく、図書室の扉へと走り去った。
まどかは、一人、陽だまりの中に残された。 触れ合っていた場所が、急激に冷えていく。 冷房の風が、不自然なほど冷たく肌を撫でた。
(…やりすぎちゃった。)
まどかは、熱を持ったままの自分の唇を指先でなぞった。 「大好き」という感情が、あまりにも重く、鋭く、形を持ってしまったことへの恐怖。 テルが最後に見せた、あの泣きそうな顔。
あんなに密着していた二人の間に、図書室の広大な空間が、取り返しのつかない断絶となって横たわっていた。
________________
図書室の空気は、再び重く停滞し始めた。 窓の外では、夕立の予感が空を灰色に染め、蝉の声が悲鳴のように高まっていた。 二人の自作シナリオは、最も熱い場面で、インクが滲んだまま止まってしまった。
あの日以来、テルは図書室に来なくなった。 まどかは、一人で窓際の席に座り、ページを捲る音のしない静寂に耐え続けていた。 効率を極めた少年と、魅了を武器にした少女。 二人が作り上げた歪な関係は、夏の盛り、その熱量に耐えきれず、自壊してしまったのだ。
けれど。 まどかは知っていた。 自分の手に残る、あの時のテルの震え。 「だめ」と言いながら、自分を求めた彼の、あの指先の力。
秋の風が吹く頃まで、この沈黙は続くのかもしれない。 それでも、まどかは確信していた。 テルが、あの一度味わってしまった「体温」という名の非効率な情報を、一生忘れることができないはずだと。
二年生の夏。 物語は、空白のページを残したまま、深い停絶へと沈んでいった。
銀杏の葉が図書室の窓の外で乾いた音を立て、地面を黄金色に塗りつぶしていく。廊下を吹き抜ける風には、もう夏の湿り気は欠片も残っていなかった。放課後の図書室は、受験生の放つ張り詰めた空気と、古びた紙が放つ特有の粉っぽい匂いに満ちている。
テル(テル)は、窓際のいつもの席から遠く離れた、書庫の影になる目立たない席に座っていた。 目の前には一冊の学術書が開かれているが、彼の細い指先は五分前から同じページを捉えたままだ。さらりとした髪が額にかかり、その隙間から覗く瞳は、活字を追うこともなく虚空を彷徨っている。夏のあの日以来、彼の周囲から「効率」という名の躍動感は消え失せていた。
まどかは、かつて二人で座っていた窓際の席に、一人で座っていた。 隣に置かれた椅子は、主を失ったまま冷たく静止している。彼女の手元には、二人の熱量がインクとなって染み付いた、あの大学ノートが置かれていた。表紙は夏の日差しで僅かに反り、端の方は何度も握りしめられたせいで白く擦れている。まどかは、ペンを握ることも、ノートを開くこともできずにいた。
図書室の中で、二人の距離は物理的には十メートルも離れていない。けれど、その間には、あの日触れ合ってしまった体温の記憶が、分厚い壁となって立ちはだかっていた。
テルは、まどかの方を一度も見ようとしなかった。 彼が時折、小さく咳き込む。その音が静かな室内に響くたびに、まどかの背中の筋肉が強張る。テルの指先が、開かれたページの端を無意味になぞる。彼は何かを読んでいるのではない。ただ、自分の中に生じた「計算外の熱」を、文字の羅列で封じ込めようと必死に足掻いているようだった。
まどかは、ノートを鞄の奥底に押し込んだ。 「やりすぎた」という言葉が、呪いのように頭の中で反芻される。 テルが最後に見せた、あの怯えたような、今にも泣き出しそうな瞳。あんなに可愛くて、あんなに美しくて、それなのに誰よりも頑なだった彼を、自分の執着が壊してしまったのではないか。その恐怖が、まどかの足を図書室の床に縫い付けていた。
秋の日は短く、窓の外はすぐに深い紫色の闇に飲み込まれていく。 図書室の利用者が一人、また一人と席を立ち、扉の向こうへと消えていく。やがて、室内にはテルとまどかの二人だけが残された。 空調の低い唸りだけが、二人の間の沈黙を強調するように響いている。
まどかは意を決して、テルの席へと歩み寄った。 床を踏む靴の音が、耳障りなほど大きく聞こえる。テルの背中が、一瞬だけぴくりと跳ねた。彼は教科書を乱暴に閉じ、立ち上がろうとした。
「…待って。テル君。」
まどかの声が震える。 テルは立ち止まったが、顔を上げようとはしなかった。彼の白い首筋が、夕闇の中で青白く発光しているように見えた。
「…やだ。来ないで。」
テルの声は、驚くほど低く、冷たかった。それは拒絶というよりも、自分を守るための精一杯の壁のようだった。
「ごめん。…あの日のこと、私…」
「…言わないで。うるさい。」
テルはまどかの言葉を遮り、鞄を掴んだ。 彼は、まどかの横を通り過ぎようとする。その瞬間、まどかは彼の細い手首を掴んだ。 ひやりとした冷たさと、その奥にある、機械の時計よりも速い拍動。
「…離して。汚れる。」
テルは力なく言い、腕を振り払おうとした。 まどかはその手を離さなかった。掴んだ指先に力を込める。
「汚れないよ。…テル君、そんなこと思ってないでしょ?」
テルは、ようやく顔を上げた。 長い睫毛の下にある瞳は、ひどく潤んでいた。彼はまどかを睨みつけるように見つめたが、その唇は小刻みに震えている。
「…わかんない。…こんなの、いらない。」
テルは、自分の胸元を片手で押さえた。 彼の中で、何かが音を立てて崩れていくのがわかった。効率、合理、静寂。彼が自分を定義するために築き上げてきたすべての武装が、まどかという存在を前にして、無意味なガラクタへと変わり果てていた。
テルは、まどかの手を振り切ると、逃げるように図書室を飛び出した。 重い扉が閉まる音が、いつまでも室内に残響となって漂った。
________________
季節は巡り、図書室の窓硝子に、今年初めての雪が張り付いた。 廊下を歩く生徒たちは、厚手のコートに身を包み、白い息を吐きながら足早に通り過ぎていく。
二年生の冬。 秋の断絶を経て、二人の間には、より深く、より静かな沈黙が定着していた。 テルは図書室に来る頻度が目に見えて減り、来てもすぐに帰ってしまうようになった。まどかは、彼がいない窓際の席で、一人で本を読み続けた。テルの選んだ本、テルが読み終えた本。彼の足跡を辿ることだけが、今のまどかに許された唯一の接触だった。
ある日の放課後。 雪が激しさを増し、図書室全体が白い闇に包まれようとしていた。 まどかは、図書室の最奥にある和室スペースに向かった。そこは、一年目の冬にテルを膝枕した、二人にとっての聖域だった。
障子を開けると、そこにはテルがいた。 彼は畳の上に膝を抱えて座り、障子越しに差し込む雪明りを見つめていた。 その背中は、以前よりも小さく、脆そうに見えた。机の上には、あの夏の日にインクが渗んだまま放置されていた大学ノートが置かれている。
まどかは、何も言わずにテルの隣に座った。 畳が、微かな音を立てて沈む。 テルは、まどかが来たことに驚く様子もなかった。彼はただ、雪の降る景色から目を離さないまま、小さく口を開いた。
「…あつい。」
テルの言葉は、冬の寒さとは正反対のものだった。 彼は自分の胸を、握りしめた拳で叩いた。
「…ここが、ずっと、あつい。…効率、悪い。…死んじゃいそう。」
テルは、ゆっくりとまどかの方へ顔を向けた。 その瞳には、かつての冷徹な光は微塵もなかった。あるのは、ただ一人の他者を切実に求める、剥き出しの感情だけだった。
「…お前が、いないと。…文字が、入ってこない。…世界が、暗い。」
まどかは、テルの肩をそっと抱き寄せた。 テルは、一瞬だけ体を強張らせたが、すぐにまどかの胸の中に顔を埋めた。 厚手の制服越しに、彼の熱い呼気が伝わってくる。テルの細い腕が、まどかの腰に回された。しがみつくような、逃がさないような、強い力。
「…テル君。ごめんね。怖かったよね。」
「…やだ。…もう、どこにも、行かないで。…お前が、いい。」
テルは、まどかの服を握りしめたまま、小さな子供のように声を殺して泣いた。 彼の頬から零れた涙が、まどかのシャツに、温かい染みを作っていく。 効率なんて、もうどうでもよかった。 自分が不完全であること、一人では世界を読み解けないこと、そして、まどかという存在なしでは、自分の心臓が正しく動かないこと。テルは、そのすべてを、この冬の静寂の中で受け入れていた。
「…テル君。私、テル君が大好きだよ。」
まどかは、テルのさらりとした髪を、指先で優しくなぞった。 テルは、まどかの胸に顔を埋めたまま、何度も頷いた。
「…しってる。…ぼくも。…だいすき。」
テルの声は、掠れていて、今にも消えてしまいそうだった。 けれど、その言葉には、どんな論理的な説明よりも重い、確かな体温が宿っていた。 テルは、まどかの腕の中で、ようやく深く、穏やかな呼吸を始めた。彼の全身の筋肉が弛緩し、まどかの体温を吸い込むように、その身を預けてくる。
まどかは、机の上に置かれたままだった大学ノートを手に取った。 彼女は、止まっていたページの続きに、ペンを走らせた。 「少年と少女は、雪の降る和室で、互いの体温を分け合った。それは、世界で最も非効率で、そして、最も幸福な時間だった」
書き終えた文字を、テルが、薄く目を開けて覗き込んだ。 彼はまどかの手からペンを奪うと、その下に、震える手で一行だけ書き加えた。
「…『これからも、ずっと。』」
二人は、重なり合ったまま、障子の外で降り続く雪を眺めていた。 二年生の冬。 一度は壊れかけた二人の物語は、この場所で、より強固な、より深い絆へと書き換えられた。 効率という名の盾は、もう必要なかった。 二人の間にあるのは、ただ、混じり気のない「大好き」という感情と、それを確かめ合うための、静かな体温だけだった。
図書室の閉館を告げる予鈴が、遠くで鳴り響いた。 けれど、二人は動こうとはしなかった。 雪明りにテルらされた和室の中で、重なる影は、一つの完成された物語のように、どこまでも美しく、静止していた。
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テル(テル)は、机の上に広げた難解な数学の参考書を前に、眉根を僅かに寄せていた。 さらりとした髪が指の隙間から零れ、白い項に影を落とす。彼の隣には、当然のようにまどかが座っていた。かつての「三つ隣の席」という距離は、今や「肩が触れ合う距離」へと書き換えられ、それが二人にとっての最も効率的で、最も正しい配置となっていた。
「…ここ。わかんない。」
テルは、ペン先で数式の並びを指し示した。 彼の声は、一年前の尖った冷たさを失い、まどかの存在を当たり前のように受け入れる、深く穏やかな響きを帯びていた。理由を説明することはない。ただ、わからないという事実を、信頼する相手に委ねる。
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「…あ、…そっか。」
テルは短く吐息を漏らし、まどかの解説を脳内に取り込んでいく。 彼の中での「効率」は、もう文字を追うだけの孤独な作業ではなくなっていた。まどかの言葉、まどかの解釈、まどかの体温。それらすべてが、世界を理解するための不可欠な変数として、彼のシステムの中に組み込まれていた。
ふとした瞬間、二人の視線が重なった。 至近距離。去年の夏、あの陽だまりの中で触れ合ってしまった、決定的な熱の記憶が、不意に脳裏を掠める。 テルの白い耳たぶが、みるみるうちに赤く染まっていく。彼は弾かれたように視線をノートに戻し、意味もなくペンのキャップを弄んだ。
「…ちょっと、やりすぎ、た。」
テルが、掠れた声で小さく呟いた。 去年の夏、感情に任せて踏み込みすぎてしまった、あの密着の記憶。 まどかもまた、頬を朱に染めて、手元の本を強く握りしめた。
「…そうだね。でも、あれがあったから、今こうして普通に隣にいられるんだよ?」
「…うるさい。…はずかしい。」
テルはそう言うと、逃げるように参考書の中に顔を埋めた。 けれど、その隣で、まどかの制服の裾を、彼の細い指先がそっと、けれど離さないように掴んでいた。 恥ずかしくて、不器用で、けれど一分一秒でも長くこの距離を維持したいという、切実な執着。
季節は巡り、夏から秋へと図書室の色が変わっていく。 二人は「教え合い」をルーチン化させながら、図書室にあるすべての蔵書を、もはや二人だけの共有財産として領有していった。 テルの持つ冷徹な論理と、まどかの持つ繊細な情緒。 それらが混ざり合い、洗練された二人の審美眼は、図書室という静寂の世界で、一つの結論を導き出した。
「…これ。…いい。」
テルが、新刊コーナーの隅に置かれていた、一冊の目立たない恋愛小説を手に取った。 派手な装丁も、扇情的な煽り文句もない。ただ、静かな筆致で、二人の人間の魂が重なっていく様を描いた、宝石のような物語。 まどかは、その表紙をテルと一緒に眺めた。
「うん。私も、これが今の私たちに一番似合ってると思う。」
二人は、その小説を「今月の推薦図書」として、図書室の最も目立つ場所に配置した。 まどかが丁寧に書き込んだ、物語の美しさを肯定するポップ。そして、テルが添えた、一文だけの、けれど重い推薦の言葉。
「…よめ。…完成、してるから。」
その一冊は、静かな、けれど確実な旋風を学園内に巻き起こした。 流行に敏感な女子生徒から、普段は本を手に取らない男子生徒まで、図書室の扉を叩く者が後を絶たなくなった。誰もが、その小説の中に、自分の隣にいる誰かとの距離を重ねようとしていた。
そして、それ以上に話題になったのは、その本を選んだ「二人」の姿だった。
窓際の陽だまりの中で、一冊のノートを共有し、肩を寄せ合って静かに語り合う美少年と少女。 時に厳しく教え合い、時に顔を赤らめて沈黙し、けれど決して離れることのないその姿は、いつしか学園を代表する「理想のカップル」として、公認のものとなっていた。 廊下ですれ違うたびに、下級生たちが羨望の眼差しを送り、教師たちが微笑ましく頷く。 かつての「理屈屋のテル」も、「計算高いまどか」も、もうそこにはいなかった。 あるのは、互いの欠落を埋め合い、二人で一つの世界を呼吸する、完成された存在。
冬、卒業式を数日後に控えた、放課後の図書室。 雪が校庭を白く塗りつぶし、室内の暖房は心地よい眠気を誘う。
テルは、和室スペースで、まどかの膝の上に頭を預けていた。 一年目の冬、あんなに震えていた彼は、今では当然の権利を主張するように、穏やかな表情で目を閉じている。
「…よんで。」
テルの声が、まどかの耳元で微かに響く。 まどかは、あの日二人で選んだ恋愛小説を開き、最後の一ページを読み上げた。
「『…そして、二人の影は、永遠の静寂の中で、一つの物語になった』」
読み終えた瞬間、図書室の閉館を告げる予鈴が、遠くで鳴り響いた。 三年間、二人を見守り続けてきた静寂。 効率を求め、摩擦に苦しみ、けれど体温に救われた、かけがえのない時間。
「…まどか。」
テルが、まどかの膝の上でゆっくりと目を開けた。 大きな瞳が、まっすぐにまどかを見つめる。
「…だいすき。…おわり。…じゃない、よね。」
テルの指先が、まどかの頬を優しくなぞる。 去年の夏のように怯えてはいない。三年目の冬、彼は自分の不完全さを、まどかという存在で完璧に肯定していた。
「…つぎ。…ふたりで。…いこう。」
まどかは、テルの手に自分の手を重ねた。 三年間の物語は、ここで一旦の「結末」を迎える。 けれど、閉じられた表紙の向こう側には、まだ真っ白なページが、無限に広がっていることを二人は知っていた。
「うん。…行こう、テル君。どこまでも。」
二人は立ち上がり、誰もいなくなった図書室を見渡した。 窓から差し込む雪明かりが、二人の重なる影を、畳の上に長く、美しく映し出している。 効率という名の盾を捨て、体温という名の真実を手に入れた少年と、その隣で微笑み続ける少女。
学園を代表する二人の伝説は、図書室の扉が閉まる音と共に、新しい春へと繋がっていく。
窓の外では、まだ見ぬ明日を祝福するように、粉雪が静かに、静かに降り続いていた。
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