Lovely Baddy~皆性別不明の学園ライフ~

伊阪証

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個人シナリオ

個人シナリオ-早乙女いのり

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放課後の弓道場は、張り詰めた静寂に支配されていた。 春の湿り気を帯びた風が、開け放たれた射場の入り口から入り込み、安土の砂の匂いと、弦に塗られた薬練の香りを運んでくる。西日が差し込む板張りの床は、磨き抜かれた鏡のように、その上に立つ者の姿を冷厳に映し出していた。
早乙女いのりは、射位に一人、立っていた。 二年生でありながら風紀委員の要職を務める彼女の腕章は、白く清潔な道着の上で、一切の妥協を許さない規律の象徴として巻かれている。彼女が弓を引き絞るたびに、背筋が一本の硬い芯を通したように伸び、無駄を削ぎ落とした「型」が完成されていく。周囲で見守る部員たちは、その凛とした姿に溜息を漏らし、彼女を学園の正義の象徴として、あるいは無欠の偶像として仰ぎ見ていた。彼女の放つ矢が空気を切り裂き、的を射抜くたびに、道場には鋭い音が響き、それは彼女の完璧さを証明する審判のようでもあった。
だが、一年生のテルだけは、その美しさの奥にある致命的な「ノイズ」に気づいていた。
テルは道場の隅、使い古された畳の上に座り、彼女の射を眺めていた。 彼の視線は、矢が的に当たるかどうかには向いていない。ただ、いのりの胸元が、呼吸のたびに不自然に跳ねる様子を凝視していた。彼女が狙いを定めて静止する「会」の瞬間。全身を硬直させ、静寂に耐えている彼女の首筋には、浮き上がった血管が激しく拍動していた。その拍動は、彼女が体現しようとしている静謐な規律とは正反対の、暴力的なまでの自己破壊の衝動を含んでいるように見えた。
それは技術的な緊張ではない。心臓が、自らの肉体を内側から叩き壊そうとしているような、非効率なエネルギーの暴走。 テルは、その歪なリズムに、眉を僅かに寄せた。
部活動の時間が終わり、生徒たちの喧騒が遠ざかっていく。 最後の一人が道場を去り、いのりが一人きりになった瞬間、彼女を支えていた規律の壁は音を立てて崩れ去った。
いのりは弓を床に落とした。乾いた音が静寂を切り裂く。 彼女は自分の胸を強く掴み、板の間に崩れ落ちた。呼吸は浅く、速く、喉の奥からヒュー、という乾いた音が漏れる。視界が明滅し、過去の暗い静寂が、冷たい水のように彼女の肺を満たしていく。一人でいることへの恐怖。沈黙が、鋭い刃となって彼女の心臓を刻んでいた。 彼女のストレスは逃げ場を失い、すべてがその鼓動へと集中していく。ドク、ドク、ドク。暴力的なリズムが肋骨を内側から叩き、彼女の意識を強制的に混濁させていく。彼女が守り続けてきた「美しさ」は、今や彼女を窒息させる枷でしかなかった。
「…無駄だ。」
背後から、平坦な声が響いた。 いのりは肩を大きく震わせ、床に這いつくばるようにして振り返った。 そこには、いつの間にか近づいていたテルが立っていた。彼は表情を変えず、ただ足元で苦しむ彼女を見下ろしている。その瞳には同情も憐れみもなく、ただ「不具合」を観察するような透徹した光があった。
「…何。…もう、誰もいないはず…」
「…無駄な動き。…心臓、うるさい。」
テルはそう言うと、いのりの前に膝をついた。 いのりは彼を突き飛ばそうとしたが、腕に力が入らない。指先が麻痺したように冷たくなり、畳の感触さえも遠のいていく。心臓が、自分自身の限界を超えて暴れている。冷たい汗が額を伝い、床の上に落ちていく。
「…あっち、行って。…見ないで。」
「…だめ。…止まるから、これ。」
テルは、抵抗しようとするいのりの細い手首を、片手で制した。 もう一方の手を、彼は躊躇なく彼女の背中に回した。そして、自分の体を彼女に押し付けるようにして、強く、その小さな体を抱き締めた。
「…っ、何、を…!」
「…静かにして。…聴いて。」
テルの声が、耳元で微かに響く。 いのりの顔は、テルの胸元に無理やり押し込まれた。 厚い道着越しに、テルの心臓の音が伝わってくる。
ドクン。ドクン。ドクン。
それは、機械のように正確で、驚くほど穏やかなリズムだった。 死を予感させるほどに荒れ狂っていたいのりの鼓動が、その一定の拍動に触れた瞬間、磁石に引き寄せられるように、僅かに速度を落とした。
「…合わせて。…僕のリズムに。」
テルは、抱き締める力をさらに強めた。 いのりの心拍が、テルの胸を叩く。二人の心臓が、薄い布地と皮膚を隔てて、物理的に「密着」する。 テルは自分の呼吸を意識的に深く、ゆっくりと繰り返した。 いのりは、自分の意思とは無関係に、彼の肺の動きに合わせて呼吸を整えざるを得なくなる。
熱い。 テルの体温が、恐怖で冷え切っていたいのりの指先にまで流れ込んでくる。 一人でいる時にだけ襲いかかってくる、あの窒息するような暗闇が、テルという絶対的な拍動によって、一秒ごとに塗りつぶされていった。
五分、あるいは十分。 道場に流れる時間は、二人の心拍が完全に同期するまで、濃密に停滞していた。 外では春の雨が降り始めたのか、屋根を叩く微かな音が聞こえる。だが、その音も今の二人には届かない。ただ、一つの重なり合った鼓動だけが、この世界のすべてだった。
やがて、いのりの指先から力が抜け、彼女はテルの体にぐったりと身を預けた。 暴れていた心臓は、今はもう、テルの音をなぞるように、穏やかに時を刻んでいる。 彼女を追い詰めていた過去の残像が、テルの放つ「今」という強い振動によって、霧散していく。
「…終わった。」
テルは、あっさりと腕を解いた。 彼は立ち上がり、自分の乱れた制服の襟元を整えた。その動作には一分一秒の淀みもなく、先ほどまで少女を抱きしめていた余韻など微塵も感じさせない。
いのりは板の間に座り込み、今しがた自分を救った少年の、どこまでも淡々とした姿を呆然と見上げた。 規律正しい風紀委員として、多くの生徒から敬意を払われてきた彼女。けれど、その規律の下に隠した醜い震えを、この少年は「うるさい」と一蹴し、力ずくで書き換えてしまった。
「…今の、何。」
「…効率。…心臓、壊れそうだったから。…直した。」
テルはそれだけ言うと、一度も振り返らずに道場を去った。 残されたいのりは、自分の胸に手を当てた。 そこにはまだ、テルの規則正しい鼓動の残滓が、熱として残っていた。 春の夜の冷気が道場に流れ込む。 規律という盾を砕かれた少女は、暗闇の中で、自分の胸の奥に灯った新しいリズムを、いつまでも確かめ続けていた。
これまで彼女が信じてきた「正しさ」や「美しさ」とは、全く違う種類の暴力的な救済。 それが、二人の歪な関係の始まりだった。

道場の外に出たテルは、濡れたアスファルトを静かに歩いていた。 自分の左胸の奥に、まだいのりの激しい拍動の感触が残っている。 効率を求める彼にとって、それはただの修正作業に過ぎなかったはずだ。
だが、彼は自分の指先が、僅かに熱を持っていることに気づいた。 「…熱伝導率が、高すぎる。」 テルは小さく独り言を溢し、夜の闇の中へと消えていった。
春の静寂が、再び弓道場を包み込む。 だが、その静寂は、もはや彼女を殺す武器ではなかった。 早乙女いのりは、次の練習で、これまでよりもずっと正確な、けれどどこか熱を孕んだ矢を放つことになる。
それが、テルという変数を手に入れた彼女の、最初の変化だった。
道場を包み込む夏の熱気は、もはや空気というよりは、肺を焼く粘質な塊のようだった。 開け放たれた射場の入り口からは、容赦のない陽光が板張りの床に反射し、視界を白く焼き切っている。天井の高い道場であっても、この季節の熱気だけは逃げ場を失い、古びた木材と薬練の匂いを濃密に煮詰めていた。蝉の声が、周囲の林から波のように押し寄せ、静寂を求める空間を暴力的に埋め尽くしている。
早乙女いのりは、射位に立っていた。 汗が道着を肌に張り付かせ、不快な重さを加えていた。彼女は風紀委員としての矜持、そして弓道部員としての誇りを守るため、微塵の乱れも見せずに弓を構え続けていた。だが、彼女の内部では、制御不能な「暴動」が始まっていた。
夏の熱は、彼女の心臓にとって最も過酷な毒だった。 体温が上昇し、呼吸が浅くなるたびに、彼女の胸の奥にある過去の断片が、鋭い熱を伴って甦る。一人でいる時にだけ襲いかかるはずの恐怖が、夏の熱気に煽られ、白昼の道場で彼女の理性を侵食していた。弓を引き絞る腕が、目に見えないほど微かに震える。
テルは、道場の影になっている審判席の隅で、その光景を観察していた。 彼は一冊の本を開いていたが、その視線は活字ではなく、いのりの胸元の激しい上下運動に固定されていた。彼の目には、彼女の美しい射のフォームなどは入っていない。ただ、彼女の肋骨の裏側で、心臓が悲鳴を上げている事実だけを、一つの数値的なエラーとして捉えていた。
稽古が終わり、部員たちが次々と道場を去っていく。 「お疲れ様です、早乙女先輩」という声が消え、扉の閉まる音が静寂を連れてきた。 その瞬間、いのりの指先から力が抜け、握っていた弓が乾いた音を立てて床に転がった。
「…はぁ、…、は、…っ、」
いのりは胸元を強く掴み、その場に崩れ落ちた。 道着越しでもわかるほど、彼女の心臓は異常な拍動を刻んでいた。それはもはやリズムを失った打楽器のようで、彼女の全身に痛みを撒き散らしていた。ストレスは熱と共に増幅され、彼女の意識を暗い深淵へと引きずり込もうとする。誰もいない道場。夏の湿った沈黙。それが彼女のPTSDを加速させるトリガーとなっていた。
彼女の視界が急速に狭まり、焦点が合わなくなる。 自分の心臓の音だけが、耳元で鐘のように鳴り響く。死の予感。冷たい汗が全身から噴き出し、床に染みを作っていく。
「…また、鳴ってる。」
平坦な声が、熱気の籠もった空間を切り裂いた。 テルが、いつの間にか彼女のすぐ隣に立っていた。彼は表情一つ変えず、ただ床に伏す彼女の白い項を見下ろしている。
「…あ、……逃げ、て…、」
「…無駄な抵抗。…うるさいから、合わせろ。」
テルは迷いのない動作で、いのりの体を抱き上げた。 床に座り込んだままの彼女の背中に腕を回し、自分の胸へと力強く引き寄せる。 道着と制服が擦れる音が、静かな道場に響いた。
「…っ、…、…熱い…、」
「…静かに。…僕を聴け。」
テルの声が、いのりの耳たぶを震わせる。 彼は、彼女の暴走する心臓を、自分の左胸で直接押さえつけるように密着させた。 テルの肌は、夏の熱気の中でも不思議なほど滑らかで、冷ややかな感触を伴っていた。
ドクン。ドクン。ドクン。
テルの心拍は、一分の隙もなく、一定のテンポを刻み続けていた。 その音は、荒れ狂う嵐の中での灯台の光のように、いのりの意識を現実へと繋ぎ止める。 いのりの激しすぎる鼓動が、テルの胸に叩きつけられる。だが、テルはその衝撃をすべて受け止め、自分のリズムを一切乱すことなく、彼女の拍動を強制的に書き換えていく。
テルは彼女の背中を、一定の速度で、優しく、けれど断固とした力で叩いた。 トントン。トントン。 その振動は、彼女の脊髄を通して脳へと伝わり、パニックに陥った神経をなだめていく。
「…呼吸。…吐け。」
テルの短い指示に従い、いのりは震える唇から熱い空気を吐き出した。 テルは彼女の耳元に自分の口を寄せ、自分の深い呼吸を直接聴かせ続けた。 吸って、吐いて。その繰り返しが、二人の間で一つの循環を作る。
いのりの指先が、テルの背中のシャツをぎゅっと掴んだ。 彼女の心臓は、まだ激しく抵抗していたが、テルの絶対的な安定感に包まれることで、徐々にその刃を収めていった。 心臓が一つになるような感覚。 彼女のストレスは、テルの体温と拍動の中に溶け出し、無害な熱へと変換されていく。
十分。二十分。 道場の影が長く伸び、蝉の声が夕暮れの気配を帯びるまで、二人は重なり合ったまま動かなかった。 やがて、いのりの呼吸は完全に安定し、彼女の頭がテルの肩にぐったりと預けられた。 暴れていた心臓は、今はテルの音を完璧に模倣し、穏やかな凪のようなリズムを刻んでいる。
「…終わった。」
テルは、彼女の体が安定したのを確認すると、すぐに腕の力を緩めた。 彼は、まどかの時とは違う、どこか事務的な、けれど不可欠なメンテナンスを終えたかのような手際で、彼女を畳の上に座らせた。
いのりは、潤んだ瞳でテルの顔を見上げた。 夕闇の光を吸い込んで、テルの横顔は冷たい宝石のように美しく、そして残酷なほどに無関心だった。
「…どうして、…こんなこと、してくれるの。」
「…効率。…君の心臓が壊れたら、道場が使えなくなる。」
テルは、乱れたシャツの裾を整え、落ちていた自分の本を拾い上げた。 彼は一度も彼女に「大丈夫か」とは聞かない。ただ、彼女の心臓が発するノイズが消えたことだけを確認し、満足そうに頷いた。
「…また、崩れたら、呼べ。…無駄な音は、嫌いだ。」
テルはそれだけ言うと、影の伸びる道場から立ち去った。 残されたいのりは、自分の胸の奥に残る、テルの鼓動の余韻を噛み締めていた。 彼女のストレスは、心臓という物理的な部位に向かってかかる。それを救えるのは、この世でただ一人、自分と同じ温度で、自分を否定せずに「修正」してくれる、あの少年だけなのだ。
夏の夜風が道場を吹き抜け、ようやく熱気が僅かに和らいだ。 早乙女いのりは、床に置かれた弓を拾い上げた。 その手は、もう震えていなかった。 だが、彼女の心臓は、テルが去った後も、彼のリズムを求めて小さく疼き続けていた。
規律を愛し、美しさを極めてきた少女。 彼女はこの夏、自分の心臓が、自分だけのものではなくなったことを悟った。 テルの拍動という絶対的な規律に、彼女の命は完全に掌握されていた。
それが、一年目の夏に刻まれた、逃れられない依存の種火だった。
銀杏の葉が図書室や弓道場の屋根を黄金色に染め上げ、乾いた風が吹き抜けるたびに、カサカサと小気味よい音を立ててアスファルトの上を転がっていく。放課後の校舎には、夏の粘りつくような熱気はもはや存在せず、代わりにどこか刺すような冷たさを孕んだ空気が、静かに、けれど確実に支配領域を広げていた。
早乙女いのりは、風紀委員としての巡回を終え、誰もいなくなった北校舎の渡り廊下で立ち止まった。 西日が差し込む廊下は、長く伸びた窓枠の影によって、規則正しい格子状の模様に切り取られている。彼女はその規律正しい風景を愛していた。だが、秋の深まりと共に訪れる、この「澄み渡るような沈寂」だけは、どうしても克服することができなかった。
沈黙。 それは彼女にとって、過去の記憶を呼び覚ます冷酷な装置だった。 周囲に誰もいない、自分だけの時間。その空白を埋める術を彼女は持たず、空白は即座に、彼女の心臓を締め付ける「暴力」へと変換される。
ドク、ドク、ドク。
規則正しかったはずの心拍が、突如として均衡を失う。 ストレスは逃げ場を失い、すべてが左胸の奥一点に集約されていく。血管を流れる血液が、まるで溶岩のように熱く、重く感じられた。彼女は手すりを掴み、崩れ落ちるのを必死で堪えた。規律正しい風紀委員の腕章が、皮肉にも彼女の「正しさ」を強調するように夕陽を跳ね返している。
(…苦しい。…誰か。…静かにして。)
彼女の心臓は、静寂に耐えきれず、自ら悲鳴を上げている。それはPTSDという名の亡霊が、彼女の肋骨を内側から抉っている音だった。
「…無駄な、抵抗だ。」
影の中から、低い、けれど透き通った声が届いた。 いのりは肩を跳ねさせ、震える視線を声の主へと向けた。 そこには、一年生のテル(テル)が立っていた。彼はいつものように、感情を読み取らせない硝子のような瞳で、彼女の不完全な「崩れ」を見つめている。
「…テル、君……また、見ていたの…?」
「…心臓の音が、うるさい。…ここまで、響いてる。」
テルは迷いのない足取りで、彼女のパーソナルスペースへと踏み込んできた。 彼は彼女の顔色を窺うことも、体調を尋ねることもない。ただ、彼女の心臓が発する「ノイズ」を修正すべきエラーとして認識し、排除しようとするだけだ。
「…来ないで。…私、今、酷い顔…、」
「…知らない。…動くな。」
テルはいのりの拒絶を、まるで存在しないかのように無視した。 彼は彼女の手首を掴み、そのまま一気に自分の胸元へと引き寄せた。 秋の冷たい風を浴びていたはずのテルの体温が、制服の布地を透かして、いのりの凍えかけた指先に伝わってくる。
彼は躊躇なく、いのりの背中に腕を回した。 そして、彼女の左胸が、自分の心臓の真上に重なるように、強く、逃げ場がないほどに抱き締めた。
「…っ、…、…熱い…!」
「…黙れ。…聴け。」
テルの声が、鼓膜を直接揺らす。 いのりは、テルの胸板に顔を押し付けられたまま、自分の心拍とは別の、もう一つのリズムを感じ取った。
トクン。トクン。トクン。
それは、秋の夕暮れ時のように静かで、それでいて決して揺らぐことのない、絶対的な規律を持った拍動だった。 いのりの狂ったような鼓動が、その冷徹なまでの安定に触れた瞬間、激しい摩擦を生み出しながらも、少しずつその熱を奪われていく。
テルは、彼女の背中を、一定のテンポで、深く、強く叩いた。 トントン。トントン。 それは、弓道で彼女が追求している「礼」よりもずっと厳格で、確かなリズム。
テルは自分の呼吸を深く、一定に保つ。 いのりはその大きな胸の上下運動に合わせるように、自分を蝕んでいた浅い呼吸を書き換えていく。 熱。 テルの体温が、彼女の心臓に直接注ぎ込まれる。 恐怖という名の静寂が、テルの「存在」という強い振動によって、一分ごとに駆逐されていった。
「…どうだ。…静かになった。」
テルの声は、どこか満足げだった。 彼は腕の力を緩めることなく、いのりの髪が鼻先を掠めるのも気にせず、ただ彼女の心臓が「正常な数値」に戻るまで、その身を貸し続けた。
十分が過ぎる頃には、渡り廊下を埋めていた西日は沈み、世界は濃紺の闇に包まれようとしていた。 いのりの心臓は、もはやテルのリズムを完璧に模倣していた。 彼女の指先から力が抜け、掴んでいたテルのシャツをそっと放す。 だが、テルは自分から腕を解こうとはしなかった。
「…まだ。…あと五分。」
「…テル君、もう、大丈夫だよ。…落ち着いたから。」
「…だめ。…定着させないと、また崩れる。…効率が、悪い。」
テルの言葉は、相変わらず可愛げがない。 けれど、その不器用な「修正作業」が、いのりにとってはどんな甘い言葉よりも深く心に染みた。 彼女はこの時、悟ってしまった。 自分が信じてきた規律は、他人を守るためのものであって、自分を救うものではなかった。 自分を救うのは、この、他人の命を削るようにして分け与えられる「拍動」なのだと。
秋の夜風が、渡り廊下を吹き抜けていく。 二人は重なり合ったまま、暗闇の中で、互いの心臓の音だけを頼りにそこにいた。
「…よし。…終わりだ。」
テルは唐突に腕を解くと、何事もなかったかのように身を翻した。 彼は一度も振り返ることなく、闇に溶けるようにして去っていった。 残されたいのりは、手すりに背を預け、自分の胸をそっと押さえた。 そこには、テルから移された、静かな、けれど力強い拍動が、消えることなく刻まれていた。
弓道場の安土に突き刺さる矢のように、彼女の心臓に、テルの存在が深く、深く突き刺さっていた。
一年目の秋。 早乙女いのりは、自分が「一人」では生きていけないことを知った。 そして、その欠落を埋める唯一の鍵が、あの冷たくも美しい少年であることも。
黄金色の静寂の中で、彼女の心臓は、新しい主人のリズムを夢見るように、静かに時を刻み続けていた。
図書室の窓硝子に、今年初めての雪が音もなく張り付いては、室内の暖房の熱に触れて静かに溶けていく。校庭を埋め尽くす新雪は、世界からあらゆる雑音を奪い去り、図書室全体を巨大な氷の柩(ひつぎ)のような、不気味なまでの静止画へと変貌させていた。
早乙女いのりは、図書室の最奥、高い書架に挟まれた死角にある、小さな和室スペースに座っていた。 冬服の厚手のブレザーの上からでも、彼女の体が小刻みに震えているのがわかる。規律を重んじる彼女にとって、この冬の「完全な静寂」は、夏の熱気よりもずっと鋭利な凶器だった。 周囲に誰もいない。音が、死んでいる。 その空白を埋めるように、彼女の脳裏には、思い出したくもない過去の断筆が、冷たい雪崩となって押し寄せてくる。
「…あ、…っ、…はぁ、…」
いのりは、自分の胸元を両手で強く、抉るように掴んだ。 心臓が、肋骨を内側から粉砕しようとしている。暴力的な拍動。それはもはやリズムではなく、ただ彼女の命を削るためだけの、無秩序な爆発の連続だった。 ストレスが一点に集中し、心臓が悲鳴を上げる。 呼吸をしようとしても、凍てついた空気が喉に張り付き、肺まで届かない。視界が白く霞み、自分がどこにいるのかさえ、わからなくなっていく。彼女を支えていた規律の盾は、この絶対的な沈黙の前では、あまりにも脆く、あまりにも無力だった。
「…また、壊れてる。」
障子の向こう側から、感情を削ぎ落とした、けれど凛とした声が響いた。 いのりは、目を見開いてその方向を見た。 障子がゆっくりと開き、そこにはコートを羽織ったテル(テル)が立っていた。 彼の髪には、外から持ち込んだ雪の欠片が僅かに残っており、冬の光を吸い込んで銀色に輝いている。彼はいつもと変わらない、無機質な瞳で、畳の上に這いつくばる彼女の姿を捉えた。
「…テ、ル君……来ないで、…見ないで…!」
「…うるさい。…ここまで響いてる。…効率が、最悪だ。」
テルは、ためらいもなく畳の上に上がり、いのりの前に膝をついた。 彼の肌からは、外気の冷たさが漂っている。だが、彼が放つ「存在」という強い振動が、いのりの意識を、死の淵から現実へと引き戻した。
テルは、震えるいのりの両手を取り、自分の肩に回させた。 そして、逃げようとする彼女の体を、力任せに自分の方へと引き寄せた。 冬の厚手の衣類越しに、テルの確かな体温が伝わってくる。
「…動くな。…聴け。…僕の音を。」
テルの声が、耳元で低く、けれど断固とした響きを伴って発せられた。 彼は、いのりの頭を自分の左胸に押し当て、自分もまた、彼女の背中を、包み込むように強く抱き締めた。
ドクン。ドクン。ドクン。
それは、雪の降る夜の静寂さえも支配するような、揺るぎない規律を持った拍動だった。 いのりの荒れ狂っていた鼓動が、その冷徹なまでの安定感に触れた瞬間、激しい拒絶反応を起こしながらも、次第にそのリズムへと吸い込まれていく。
「…吸って。…吐け。」
テルは、自分の深い呼吸を彼女の耳に直接届けた。 彼が大きく息を吸うたびに、その胸板が膨らみ、いのりの頬を圧迫する。 熱い。 外の雪の冷たさとは対テル的な、命の熱。 いのりは、テルの制服を、指が白くなるほど強く握りしめた。 彼の心臓に自分のそれを重ね、彼のリズムを、自分の命の基準として上書きしていく。
トクン、トクン、トクン。
一分、また一分。 図書室を包む死のような静寂は、今や二人の「同期」を完成させるための、純粋な真空へと変わっていた。 テルは無言のまま、いのりの背中を、一定の間隔でトントンと叩き続けた。 その振動は、彼女の脊髄を通って脳を宥め、心臓に「もう大丈夫だ」と、言葉以上の確信を与えていく。
「…落ち着いたか。」
十分ほど経った頃、テルが短く尋ねた。 いのりの呼吸は、もはやテルのそれと完全に一致していた。 彼女の心臓は、テルから分け与えられたリズムを忠実に守り、穏やかな凪のように時を刻んでいる。 一人でいる時に彼女を襲う、あの窒息するような恐怖の残像は、テルという絶対的な「熱」によって、跡形もなく消え去っていた。
「…うん。…ありがとう、テル君。」
いのりは、テルの胸に顔を埋めたまま、掠れた声で答えた。 彼女は、テルの体から離れるのが怖かった。 腕を解けば、再びあの冷たい沈寂が、自分の心臓を食い荒らしに来るのではないか。その依存という名の恐怖が、彼女の腕に、さらなる力を込めさせた。
「…まだ、離さないで。…もう少しだけ、こうさせて。」
「…予定が、狂う。…五分だけだ。」
テルはぶっきらぼうに言ったが、抱き締める力を緩めることはなかった。 むしろ、彼は彼女の細い肩に自分の顔を埋めるようにして、その温もりを確かめているようにも見えた。 効率、合理、規律。 彼が口にする言葉は、すべてこの「救済」を正当化するための言い訳に過ぎないことを、いのりは本能で悟っていた。 彼もまた、自分を必要としている。 自分の激しすぎる拍動を鎮めることで、彼もまた、自分自身の内側にある「何か」を整えているのではないか。
窓の外では、雪がさらに激しさを増し、すべてを白く塗りつぶしていく。 暗い和室の中で、二人の重なり合った影は、一つの完成された物語のように静止していた。
「…テル君。…私の心臓、テル君がいないと、もう動けないかもしれない。」
「…くだらない。…僕が、動かしてやる。」
テルは、突き放すような言葉とは裏腹に、彼女の髪を、指先で一度だけ愛おしそうに撫でた。 その指先の熱が、いのりの心臓に直接届き、新しい規律を刻み込む。
一年目の冬。 早乙女いのりは、自分の命を、この少年に完全に預けることを決意した。 彼女にとっての「正しさ」は、もはや風紀委員としての規律ではなく、自分を抱き締めるこの少年の、規則正しい拍動そのものになったのだ。
雪明かりにテルらされた二人の境界線は、ゆっくりと、けれど不可逆的に溶け合っていく。 冬の静寂は、もはや絶望ではなく、二人が「一つ」であることを確認するための、神聖な静止時間となった。
二人の間にあるのは、もはや言葉ですら説明できない、命の同期。 それが、一年目の最後に刻まれた、最も深く、最も歪な誓いだった。
新入生たちの放つ、落ち着きのない浮ついた熱気が、重厚な校舎の石壁に反響して図書室の窓硝子を小さく震わせていた。四月の風は、満開を過ぎた桜の花びらを無数に巻き上げ、開け放たれた渡り廊下や、板張りの弓道場へと容赦なく流し込んでくる。
早乙女いのりは、三年生へと進級し、風紀委員長という重責を担うことになっていた。 彼女の道着の白さは以前にも増して一点の曇りもなく、その立ち居振る舞いは、下級生たちから畏怖を込めた羨望の眼差しを集めている。彼女が廊下を歩けば自然と道が開き、彼女が弓を構えれば周囲の空気は一瞬で氷結する。規律を体現し、学園の正しさを守るその姿は、もはや一つの完成された芸術作品のようだった。
だが、その完璧な偶像の内側では、心臓が悲鳴を上げていた。
一年目の「冬」を経て、彼女の心臓を蝕むPTSDの症状は、表面上は落ち着きを見せているように思われていた。以前のように一人でいる瞬間に崩れ落ちる回数は減り、安土の前に立っても、的を射抜く精度は上がっている。周囲はそれを「克服した」と称賛したが、現実はその真逆だった。
彼女は克服したのではない。ただ、自分の心臓の制御権を、自分ではない他者へと完全に委譲したに過ぎない。
テル(テル)という絶対的な基準値。 一年間、彼の胸に耳を当て、その規則正しい拍動を聴き続けてきた彼女の身体は、もはや自律的なリズムを忘れてしまっていた。独りでいる時に感じる静寂は、以前よりも鋭い刃となって彼女の精神を削る。テルがいない一分一秒、彼女の心臓は「正しい拍動」を探して迷走し、肋骨の裏側で激しく暴れ回る。
(…足りない。…まだ、足りない。)
新入生への指導を終え、風紀委員室へと戻る途中の人気のない廊下で、いのりは壁に手をついた。 心拍が急速に速まり、視界の端が暗い火花を散らす。彼女の指先は小刻みに震え、制服のブレザーの下で、薄いブラウスを汗が濡らしていく。彼女のストレスは、過去の記憶以上に「テルの不在」という現在の欠落に向かって、一直線に突き刺さっていた。
「…見苦しい。」
冷たく、けれど澄んだ声が、頭上から降りてきた。 いのりは弾かれたように顔を上げ、潤んだ瞳でその主を捉えた。 階段の踊り場で、二年生になったテルが、感情の機微を一切排除した瞳で彼女を見下ろしていた。彼は相変わらず、手に持った文庫本のページを捲る指先一つ、無駄な動きをさせていない。
「…テル、君…」
「…心臓の音が、階段の下まで聞こえてる。…三年生になって、性能が落ちたのか。」
テルは、段差を一段ずつ、ゆっくりと降りてきた。 その一定の歩調、靴音が床を叩くリズム。その音を聴くだけで、いのりの心臓は不気味なほど大人しくなろうとする。だが、それだけでは不十分だった。彼女の細胞一つ一つが、より直接的な、暴力的なまでの「同期」を渇望していた。
「…違うの。…違う。…ただ、静かすぎて、…」
「…黙れ。…時間の無駄だ。」
テルは、いのりの言い訳を短く切り捨てた。 彼は彼女の腕を掴むと、そのまま誰もいない空き教室へと引きずり込んだ。 古い木材の匂いと、春の日差しで温められた埃の匂いが漂う室内。扉が閉まる音が、外部の喧騒を遮断した。
「…早くしろ。…次の講義まで、時間がない。」
テルが、無造作に腕を広げる。 いのりは、吸い寄せられるように、彼の胸の中に飛び込んだ。 一年目の時とは違い、そこには迷いも、恥じらいも、一欠片の拒絶もなかった。彼女はテルの細い腰に腕を回し、自分の胸板を彼の胸板に、骨がきしむほど強く押し当てた。
ドクン。ドクン。ドクン。
テルの心臓が、いのりの左胸に直接、衝撃を伝えてくる。 一年前、あれほど驚異的に感じたその規則正しい拍動が、今や彼女にとっての唯一の酸素であり、唯一の正解となっていた。彼女はテルの制服の布地を握りしめ、彼の首筋に顔を埋める。
「…ああ、……これ。…これが、私の音。」
いのりは、恍惚とした吐息を漏らした。 彼女の荒れ狂っていた心臓は、テルの絶対的なリズムに触れた瞬間、磁石に引き寄せられる鉄屑のように、その形を整えていく。二人の心臓が、一つの巨大な機関となって、空き教室の静寂を一定のテンポで刻み始める。
熱い。 春の陽気よりもずっと深く、濃密な熱が、テルの身体からいのりへと流れ込んでくる。 彼女は自分のPTSDを乗り越えるために彼を使っているつもりだった。だが、実際には、その救済という行為そのものが、彼女から「独りで生きる力」を奪い去っていた。 テルがいなければ、彼女の心臓は再び狂い、彼女の世界は崩壊する。その歪な確信が、抱き締める力をさらに強くさせた。
「…依存しすぎだ。…エラーが、深くなってる。」
テルの声が、胸板を通して、いのりの身体全体を震わせる。 彼は、彼女の背中を一定の周期でトントンと叩き始めた。 トントン。トントン。 それは慰めではない。ずれた歯車を噛み合わせるための、事務的な修正作業。
「…いいの。…直して。…テル君が、直してくれないと、私は…」
「…うるさい。…呼吸に、集中しろ。」
テルの短い命令に従い、いのりは彼の肺の膨らみに合わせて息を吸い、吐いた。 二人の身体が完全に同期し、境界線が曖昧になっていく。 いのりは、自分が風紀委員長であることを、自分が三年生であることを、そして自分が誰であるかさえも、この瞬間だけは忘れ去ることができた。ただ、テルという巨大な基準値の一部として、静かに存在すること。
十分後、テルは無情に腕を解いた。 彼は、乱れた制服の皺を、几帳面な手つきで伸ばしていく。
「…直った。…戻れ。」
「…待って、テル君。…もう、少しだけ。」
「…だめ。…効率が悪い。…定着は、完了した。」
テルは、一度も振り返ることなく教室を出て行った。 残されたいのりは、壁に背を預け、自分の胸をそっと押さえた。 そこには、テルから移されたばかりの、正確で、冷徹で、そしてこの世で最も甘美な拍動が残っていた。
彼女は、鏡のように磨かれた廊下の床に映る自分の姿を見た。 凛として、美しく、一点の曇りもない風紀委員長の姿。 けれど、その内側で動いている心臓は、もはや自分の意思では一秒たりとも正しく動くことができない。 彼女の規律は、テルという絶対的な支配者の下でのみ成立する、張りぼての平穏だった。
(…大好き。…私の心臓を、もっと壊して。)
いのりは、震える指で自分の唇をなぞった。 二年生の春。 彼女の依存は、もはや治療の域を超え、彼女の命そのものと同義になっていた。 外では桜の花びらが、風に吹かれて狂ったように舞い踊っている。 美しさを極めた少女の、崩壊へのカウントダウンが、テルのリズムと共に、静かに加速し始めていた。
蝉の声が、アスファルトを煮え立たせるような熱気に乗って、鼓膜を執拗に突き刺してくる。八月の正午。学園の校舎は静まり返っていたが、屋上に通じる重い鉄の扉の向こう側では、陽炎が立ち昇り、世界の境界線を白く歪ませていた。
早乙女いのりは、屋上のフェンスに背を預け、崩れ落ちるのを必死で堪えていた。 夏服の白いブラウスは、噴き出した汗によって肌に張り付き、その下で激しく上下する肋骨の動きを露骨に浮かび上がらせている。三年生となり、風紀委員長として夏季合宿の運営を完璧にこなしてきた彼女だったが、その規律という名の鎧は、内側から膨れ上がる「暴力」によって、今にも粉々に砕け散ろうとしていた。
心臓が、痛い。 一年目の春に始まったあの発作は、今やPTSDという過去の遺物ではなく、もっと現在進行形の、鋭利な渇望へと変質していた。 夏の過酷な熱は、彼女の血管を流れる血液を沸騰させ、心拍数を異常なほどに跳ね上げる。ドク、ドク、ドク。無秩序に、そして残酷に刻まれるリズム。それは、彼女がどれほど美しく、凛とした立ち居振る舞いを装っても、決して隠し通すことのできない「醜い欠陥」だった。
(…助けて。…テル君。…どこ…?)
彼女の意識は、熱中症に近い混濁と、自らの心臓が放つノイズによって、急速に狭まっていく。 一年間の「教育」によって、彼女の身体は、テル(テル)という絶対的な基準なしには、正常な拍動を維持できないほどに作り変えられていた。彼がいない一分一秒、彼女の命は形を保てず、ただ無意味な肉の塊へと成り下がっていくような、底なしの恐怖。
「…また、壊れたのか。…効率が悪い。」
熱波を切り裂いて、平坦な、けれど冬の氷のように澄んだ声が届いた。 いのりは、震える指先でフェンスを掴み、顔を上げた。 陽光を背に受けて立つ二年生のテルは、この炎天下においても涼しげな顔を崩さず、手に持った文庫本をパタンと閉じた。彼の存在そのものが、この狂ったように熱い世界の中での、唯一の「静寂」だった。
「…あ、…ぁ、……テル君…、」
いのりは、足をもつれさせながら彼に歩み寄った。 風紀委員長としての矜持も、伝統的な弓道部員としての品格も、今の彼女には欠片も残っていない。ただ、命を繋ぎ止めるための拍動を求める、憐れな中毒者。
テルは、自分に縋り付こうとするいのりを、一度だけ冷たい瞳で見つめた。 彼は同情などしていない。ただ、目の前でシステムが破綻しかけている個体を、修正すべきエラーとして認識しているだけだ。テルは無造作に腕を広げ、いのりの身体を受け止めた。
その瞬間、いのりは、テルの細い腰に自分の腕を回し、骨がきしむほど強く抱き締めた。 熱を孕んだ道着越しでもわかる、テルの身体の滑らかさ。そして、何よりも彼女が欲していた「音」が、そこにはあった。
ドクン。ドクン。ドクン。
テルの心臓は、この殺人的な熱気の中でも、微塵もリズムを乱していなかった。 一分の隙もない、精密機械のような、絶対的な規律。 いのりの狂った鼓動が、その冷徹なまでの安定に触れた瞬間、磁石に吸い寄せられるように、強制的な「同期」が開始される。
「…聴け。…合わせろ。」
テルの声が、いのりの首筋を震わせる。 彼は、彼女の頭を自分の左胸に力任せに押し当て、自分もまた、彼女の背中を、逃げ場を奪うように強く抱き締めた。
「…あ、…っ、…ふ、…、」
いのりは、テルの胸板に顔を埋めたまま、喉の奥で震えるような声を漏らした。 熱い。 夏の太陽よりも、テルの身体から伝わってくる、この「命の振動」の方がずっと熱い。 彼女のストレスは、テルの心臓と重なることで、一つ、また一つと解体されていく。心拍数が、テルの音をなぞるように、ゆっくりと、確実に低下していく。二人の境界線が、汗と体温の中で溶け合い、いのりは自分が自分でなくなるような、恐ろしくも甘美な感覚に浸っていた。
テルは、いのりの背中を、一定のリズムでトントンと叩き続けた。 トントン。トントン。 一年前、初めてこれを受けた時は、ただの「修正」に過ぎなかった。 けれど今の彼女にとって、この指先の振動は、何物にも代えがたい「愛」の形として認識されていた。彼がいなければ、自分はもう、この世界で立っていることさえできない。その確信が、彼女の依存をさらに深め、歪ませていく。
「…テル君。…もっと。…もっと、私を壊して。」
「…意味がわからない。…正常化してるだけだ。」
テルは、いのりの耳元で、吐き捨てるように言った。 彼は彼女の依存に気づいている。いや、彼自身がそれを望んでいたのかもしれない。 自分がいなければ正しく動くことのできない「完璧な偶像」。それを管理し、メンテナンスすることに、彼もまた、歪な充足を感じているようだった。
十五分。 屋上の給水タンクの影が僅かに伸び、蝉の声がさらに激しさを増すまで、二人は重なり合ったまま、互いの拍動を交換し続けていた。 やがて、いのりの呼吸は完全に整い、彼女の指先から、強張った力が抜けていく。
「…終わった。…離れろ。…暑い。」
テルは、無慈悲に腕を解いた。 彼は、汗をかいた自分の首筋を不快そうに拭い、乱れたシャツを几帳面に整える。 いのりは、コンクリートの床に座り込み、今しがた自分を救った少年の、どこまでも無関心な背中を呆然と見上げた。
「…ありがとう、テル君。…これで、午後の稽古も…、」
「…次からは、自分で制御しろ。…非効率だ。」
テルは一度も振り返ることなく、屋上の扉を開けて去っていった。 残されたいのりは、自分の胸をそっと押さえた。 そこには、テルから移されたばかりの、正確で、冷徹で、そしてこの世で最も中毒性の高い拍動が、確かに刻まれていた。
彼女は立ち上がり、フェンス越しに、校庭で練習に励む後輩たちを見下ろした。 誰も、彼女が今しがた屋上で、一人の少年に命の主導権を預けていたことなど知らない。 彼女は再び、凛とした、完璧な風紀委員長としての仮面を被る。 けれど、その内側にある心臓は、もはや彼女の意思では、一秒たりとも正しく動くことを拒んでいた。
(…大好き。…私の心臓を、もっと。…もっと、彼の色に染めて。)
二年目の夏。 早乙女いのりの「規律」は、テルという絶対的な支配者の前で、完全に無力化されていた。 彼女は、美しさを極めるための努力を続けながら、同時に、彼なしでは呼吸さえできないほどの、深い闇へと堕ちていく。 夏の陽光は、そんな彼女の秘密を嘲笑うかのように、どこまでも白く、残酷にテルらし続けていた。
銀杏の葉が図書室の窓を黄金色に縁取り、乾いた風が吹き抜けるたびに、カサカサという小気味よい音が静寂をなぞっていく。放課後の校舎は、夏の湿り気を完全に失い、代わりにどこか刺すような冷たさを孕んだ空気が、静かに、けれど確実に支配領域を広げていた。
早乙女いのりは、風紀委員長としての巡回を終え、誰もいなくなった北校舎の渡り廊下で立ち止まった。 西日が差し込む廊下は、長く伸びた窓枠の影によって、規則正しい格子状の模様に切り取られている。彼女はその規律正しい風景を愛していた。だが、二年生の秋という季節がもたらす「澄み渡るような沈寂」は、今の彼女にとって、去年のそれとは比較にならないほど鋭利な凶器となっていた。
沈黙。それはかつては過去の記憶を呼び覚ます装置だった。 だが、今の彼女にとっての沈黙は、ただ一つの欠落を強調するためだけに存在していた。
「…はぁ、…っ、…、」
いのりは手すりを掴み、膝を折った。 心臓が、自律的なリズムを完全に拒絶している。ドクン、ドクン、ドク、と、脈絡のない拍動が肋骨を内側から叩き、彼女の意識を強制的に混濁させていく。一年半に及ぶ「同期」という名の調律。彼女の身体は、テル(テル)という絶対的な基準なしには、もはや正常な生命活動を維持できないほどに作り変えられていた。
彼女のストレスは、もはや過去のトラウマにのみ起因するものではない。 テルがいない一分一秒、その「欠損」そのものが彼女の心臓に過負荷をかけ、死の予感へと直結する。彼女は美しく、凛とした立ち居振る舞いを崩さない風紀委員長として学園に君臨しているが、その内側は、一人の少年の拍動なしには形を保てない、ボロボロの操り人形に過ぎなかった。
(…助けて。…テル君。…私の、心臓が、止まっちゃう…、)
「…性能が、落ちすぎている。…目障りだ。」
影の中から、低い、けれど透き通った声が届いた。 いのりは肩を跳ねさせ、震える視線を声の主へと向けた。 階段の踊り場で、二年生になったテルが、感情の機微を一切排除した瞳で彼女を見下ろしていた。彼は相変わらず、手に持った文庫本のページを捲る指先一つ、無駄な動きをさせていない。彼の存在そのものが、この不規則に脈打つ世界の中での、唯一の「静寂」であり「正解」だった。
「…テル、君……お願い、…直して…、」
いのりは、足をもつれさせながら彼に歩み寄った。 規律、誇り、伝統。彼女が人生をかけて積み上げてきたすべての「美しさ」は、今や彼という「基準」を求めるための、ただの供物でしかなかった。
テルは段差を降り、いのりの目の前で立ち止まった。 彼は同情などしていない。ただ、目の前でシステムが破綻しかけている個体を、修正すべきエラーとして認識しているだけだ。テルは無造作に腕を広げた。その瞬間、いのりは、テルの細い腰に自分の腕を回し、骨がきしむほど強く抱き締めた。
「…あ、…ぁ、……生き返る…、」
ドクン。ドクン。ドクン。
テルの心臓が、いのりの左胸に直接、衝撃を伝えてくる。 一分の隙もない、精密機械のような、絶対的な規律。 いのりの狂った鼓動が、その冷徹なまでの安定に触れた瞬間、磁石に吸い寄せられるように、強制的な「同期」が開始される。
熱い。 秋の冷え始めた風の中でも、テルの身体から伝わってくるこの「命の振動」は、どの焚き火よりも熱く、いのりの魂を焼き尽くしていく。彼女はテルの首筋に顔を埋め、彼の肌の匂いを吸い込んだ。
「…聴け。…余計なことを考えるな。」
テルの声が、胸板を通して、いのりの身体全体を震わせる。 彼は、彼女の背中を、一定の周期でトントンと叩き始めた。 トントン。トントン。 それは慰めではない。ずれた歯車を噛み合わせるための、事務的な修正作業。
いのりは、テルの心拍数に自分のそれを無理やり同期させ、ようやく肺に酸素が行き渡るのを感じた。 かつての規律正しい少女は、自分の心臓を他者に預けるという、最も非効率で最も深い悦びに溺れていた。彼女のストレスは、テルの心臓と重なることで、一つ、また一つと解体されていく。
「…ねえ、テル君。…私の心臓、…もう、テル君がいないと、動いてくれないの。」
「…欠陥品だ。…僕がいない間も、最低限の出力を維持しろ。」
「…無理だよ。…だって、私の正解は、ここにあるんだもん。」
いのりは、テルの身体をさらに強く、逃がさないように抱きしめた。 テルは小さく溜息をついたが、その手は決して彼女を突き放そうとはしなかった。 彼にとっても、この「修正作業」は、もはや日常の一部であり、自分という存在の有用性を確認するための、無機質で残酷な儀式となっていた。
「…終わった。…離れろ。」
十分後、テルは無情に腕を解いた。 彼は、乱れた制服の皺を、几帳面な手つきで伸ばしていく。 いのりは、壁に背を預け、自分の胸をそっと押さえた。 そこには、テルから移されたばかりの、正確で、冷徹で、そしてこの世で最も中毒性の高い拍動が残っていた。
彼女は、夕闇が迫る廊下の向こうへ消えていくテルの背中を見つめた。 黄金色の残響が、二人の間に漂っている。 早乙女いのりは、知っていた。 自分の「美しさ」を維持するためには、この少年に魂を、心臓を、隷属させ続けなければならないことを。 そして、その隷属こそが、今の自分にとって唯一の、本物の「規律」であることを。
(…大好き。…私の心臓を、もっと。…あなたの音で、壊して。)
二年目の秋。 規律の少女は、自ら選んで、出口のない依存の迷宮を、深奥へと進んでいた。 外では銀杏の葉が、風に吹かれて黄金色の砂嵐のように舞い踊っていた。 それは、彼女の崩壊しつつある平穏を祝福する、最後の輝きのようでもあった。
学園と同じ運営母体を持つ大学のキャンパスは、高校のそれよりも数倍広く、開放感に満ち溢れていた。レンガ造りの校舎の間を縫うように走る並木道には、若葉の瑞々しい匂いが立ち込め、春の柔らかな陽光が、行き交う学生たちの鮮やかな私服を、キラキラとした粒子のようにテルらし出している。
早乙女いのりは、その喧騒の真ん中で、落ち着かない足取りで自分のスカートの裾を何度も整えていた。 今日の彼女は、いつもの凛とした道着でも、規律の象徴である風紀委員の制服でもなかった。淡いパステルカラーのワンピースに、少しだけフリルのついたブラウス。長く美しい黒髪は、伝統的なまとめ髪を解き、ゆるやかに巻いて肩に流されている。
彼女がこれまで積み上げてきたのは、一点の曇りもない「正しさ」であり、息を呑むような「美しさ」だった。弓を引く所作、廊下を歩く背筋、他人を律する厳しい眼差し。それは彼女の誇りであり、テル(テル)という絶対的な基準を繋ぎ止めるための、精一杯の武装でもあった。決して手を抜いたわけではない。むしろ、その道を極めることこそが、自分を律し、壊れかけた心臓を守る唯一の方法だと信じてきた。
けれど、いざ大学という、自由と多色に彩られた舞台に立ってみれば、自分の積み上げてきた「美」がいかに硬く、不自然なものかを知らされることになった。 周囲を歩く女子大生たちは、春の風のように軽やかで、柔らかく、そして何よりも「可愛い」。 一方の自分は、慣れない装いに身体を強張らせ、まるで他人の皮膚を被っているような違和感に苛まれている。
(…間違えた。…全然、足りない。)
鏡を見るたびに、自分の顔がひどく険しく、可愛げのないものに見えた。 隣を歩くテルは、高校時代から変わらず、どこか世俗を離れたような、硝子の細工物のような美しさを保っている。彼は相変わらず、周囲の視線など微塵も気にせず、手元の小さな端末に視線を落としたまま、一定の歩調で歩いている。
「…止まるな。…効率が、落ちる。」
テルが、前を向いたまま、ぶっきらぼうに言った。 いのりは弾かれたように顔を上げ、彼の背中を追う。 かつての心拍同期という名の救済を経て、二人の間には、もはや言葉を必要としないほどの、深い、そして歪な絆が定着していた。彼女の心臓は、テルの隣にいるだけで、不思議なほど穏やかなリズムを保つようになっている。 だが、その平穏の上に、今、新しい種類の焦燥が積み重なっていた。
二人は、キャンパス内にある、開放的なテラス席が特徴のカフェへと入った。 お洒落なフォントで書かれたメニュー、漂う珈琲の香ばしい匂い。いのりは、周囲の席に座るカップルたちの、楽しげな笑い声に耳を塞ぎたくなった。女の子たちは皆、首を傾げたり、上目遣いで笑ったりして、自分の「可愛さ」を最大限に武器にしている。 それに比べて、自分はどうだ。
「…何にする。…決めるのが、遅い。」
テルが、メニューから視線を上げずに催促する。 いのりは、震える指先でメニューの端を握りしめた。
「…イチゴの、…パフェ。…それでいい、かな。」
「…甘すぎる。…好きにしろ。」
注文を終え、対面に座ったテルを、いのりはテーブルの下で指を絡ませながら、じっと見つめた。 テルの瞳には、相変わらず感情の揺らぎがない。彼はまどかとの時間を経て、さらに自分自身の「合理」を深めたようだった。だが、いのりに対してだけは、どこか観察対象を甘やかしているような、不思議な余白を残している。
「…ねえ、テル君。…今日の私、…どうかな。」
いのりは、絞り出すような声で尋ねた。 テルは、ようやく顔を上げた。彼は、いのりの巻かれた髪、慣れないフリル、そして不安げに揺れる瞳を、一つのデータを確認するように、隅から隅まで精査した。
「…きれいだ。…昨日より、情報量が多い。」
「綺麗じゃなくて! …可愛いかって、聞いてるの。」
「…意味が、わからない。…同じことだろ。」
「同じじゃないよ! …全然、違うんだもん…!」
いのりは、思わず声を荒らげ、すぐに自分の口を抑えた。 周囲の客が、怪訝そうにこちらを振り返る。 彼女の心臓が、久しぶりに、怒りと悲しみの混ざった不規則な拍動を刻み始めた。
「…私、ずっと、…正しいこととか、美しいことばっかり、考えてきた。…それを頑張ることが、テル君の隣にいる資格だと思ってた。…でも、…可愛い女の子たちを見てたら、…私、自分がすごく、つまらないものに見えて…」
テルは、小さく眉を寄せた。 彼はテーブルを乗り出し、いのりの頬に、冷たい指先をそっと添えた。 その瞬間、いのりの全身が、凍りついたように静止した。
「…鼓動が、ずれた。…うるさい。」
テルの声は、驚くほど低く、耳の奥まで浸透してきた。 彼は、立ち上がり、いのりの隣の席へと移動した。 椅子を寄せる音が、静かなカフェに響く。 彼は、まどかの時のような理屈をこねることはしなかった。ただ、本能的な執着に従うように、いのりの肩を引き寄せ、自分の胸元に彼女の顔を押し付けた。
「…っ、…、…テル君…、」
「…聴け。…外の雑音は、いらない。」
カフェのテラス。白昼の光の下。 誰もが見ているはずの場所で、テルは躊躇なく、いのりを抱き締めた。 厚手の道着も、規律の制服もない。薄いブラウス越しに伝わってくるテルの心拍は、かつて道場で聴いたものよりも、ずっと直接的に、いのりの魂を震わせた。
ドクン。ドクン。ドクン。
それは、雪の降る夜の静寂さえも支配するような、揺るぎない規律を持った拍動。 いのりの荒れ狂っていた鼓動が、その冷徹なまでの安定感に触れた瞬間、磁石に引き寄せられるように、強制的な「同期」が開始される。
「…お前が、どんな服を着ても、…心臓の構造は、変わらない。」
テルの声が、いのりの首筋を震わせる。 彼は、彼女の背中を、一定のリズムでトントンと叩き始めた。 トントン。トントン。
「…きれいなのも、…かわいいのも、…僕が、決める。…他人の基準は、非効率だ。」
「…っ、…、…ぅ、…、」
いのりは、テルのシャツを掴み、その胸に顔を埋めたまま、小さな声を漏らした。 熱い。 春の陽光よりも、テルの身体から伝わってくる、この「命の振動」の方がずっと熱い。 彼女の焦燥は、テルの拍動に飲み込まれ、形を失っていく。 可愛い系を磨いてこなかった後悔。不慣れな自分への自責。 それらすべてが、テルという絶対的な「正解」の前では、無意味なノイズに過ぎなかった。
「…落ち着いたか。…パフェが、溶ける。」
テルは、事務的に腕を解いた。 彼は、乱れた自分の襟元を整え、何事もなかったかのように席に戻った。 いのりは、上気した顔で、今しがた自分を救った少年の、どこまでも淡々とした、けれど残酷なほど愛おしい横顔を仰ぎ見た。
彼女は、運ばれてきたイチゴのパフェに、スプーンを差し込んだ。 甘い。 けれど、その甘さよりも、自分の胸の奥に残っているテルのリズムの方が、ずっと深く彼女を支配していた。
「…ねえ、テル君。…私、これから、もっと頑張るから。…可愛いって、言わせるからね。」
「…努力は、認めないわけじゃない。…早く、食べろ。」
テルのぶっきらぼうな答えに、いのりは、今日初めて、本当の意味で微笑んだ。 美しい彼女が、不器用に見せた、少女のような無垢な笑顔。 それは、どんなに磨き上げられた「型」よりも、テルの計算を狂わせるのに十分な熱を孕んでいた。
大学のキャンパスを、二人の影が重なり合って進んでいく。 かつて心臓を病ませるほどの沈黙に怯えていた少女は、今、隣にいる少年の不器用な支配の中に、新しい「美しさ」と「可愛さ」を見出し始めていた。
「次は、あのお店のリボン、見に行ってもいい?」
「…時間の無駄だ。…五分だけなら、いい。」
テルの返答に、いのりは満足そうに頷き、彼の腕を強く引き寄せた。 春の陽光は、そんな二人の、歪で、けれど誰よりも真っ直ぐな物語を、どこまでも鮮やかにテルらし続けていた。
二人のデートは、まだ始まったばかりだった。
真夏の太陽が、大学キャンパスの広大なアスファルトを白く焼き、立ち昇る陽炎が視界の端々を不規則に歪ませていた。風は止まり、街路樹の葉一枚さえ動かない。ただ、熱を孕んだ重い大気が、皮膚にねっとりと絡みついてくる。
早乙女いのりは、駅前のロータリーで、指定された待ち合わせ時間の十分前から立ち尽くしていた。 今日の彼女は、これまでの人生で一度も選んでこなかった装いに身を包んでいる。淡いクリーム色のノースリーブワンピースに、繊細なレースのカーディガン。足元は細いストラップのサンダルで、歩くたびに微かな音が鳴る。 彼女が十八年間磨き上げてきたのは、一点の曇りもない「正しさ」であり、誰もが息を呑むような「美しさ」だった。弓道場での凛とした立ち姿、風紀委員長としての厳しい眼差し、周囲を圧するような伝統的な美。それは彼女の誇りであり、テル(テル)という絶対的な規律に相応しい自分であるための武装だった。
けれど、大学という自由な色彩に溢れた場所で、彼女は気づいてしまった。 テルの隣を歩くのは、冷たい大理石の彫刻ではなく、もっと柔らかくて、もっと愛らしい「女の子」であるべきなのではないか。自分は美しさを極めることに執心しすぎて、もっと根源的な「可愛い」という努力を怠ってきたのではないか。 その焦燥感は、かつてのPTSDにも似た重圧となって、彼女の心臓を不規則に叩き始めていた。
「…遅い。効率が悪い。」
背後から、一切の熱を感じさせない、硝子のような声が響いた。 いのりは肩を跳ねさせ、弾かれたように振り返った。 そこには、二年生になったテルが立っていた。彼はこの殺人的な熱気の中でも、涼しげな白いシャツの第一ボタンまで律儀に留め、手元の端末から視線を上げることなく歩み寄ってくる。
「ごめん、なさい。…待たせちゃったかな。」
「…五分。誤差の範囲だ。」
テルは、ようやく端末をポケットに収めると、いのりの姿を無機質な瞳で捉えた。 彼は彼女の爪の先から、新しく新調したワンピースの裾、そして不慣れに巻かれた髪の毛まで、一文字のデータを読み取るように精査していく。
「…なんだ、その格好。…重力に対する抵抗が、無駄に多い。」
「…変、かな。…私、もっと可愛くなりたいって、思ったから…」
「…知らない。きれいなのは、もう分かってる。」
テルはそう吐き捨てると、一度も振り返らずに歩き始めた。 いのりは、自分の胸元をぎゅっと掴み、彼の背中を追う。 心臓が、痛い。 これは過去のトラウマによる発作ではない。自分の不器用さへの自責と、テルに「可愛い」と認められたいという、暴力的なまでの渇望。その二つの感情が、彼女の肋骨の裏側で火花を散らし、心拍数を異常なほどに跳ね上げていた。
二人は、大学近くの古い神社で開催されている夏祭りへと足を運んだ。 境内は屋台の放つ香ばしい匂いと、行き交う人々の喧騒、そして遠くから響く太鼓の音に満ちていた。色とりどりの浴衣を着た女の子たちが、楽しげに笑いながら、自分の可愛さを惜しげもなく披露している。 それを見るたび、いのりの呼吸は浅くなり、血管を流れる血液が鉛のように重くなっていく。
「…っ、…、…は、…ぁ…、」
「…またか。学習能力がない。」
テルは、人混みの影、大きな銀杏の木の裏側にある社務所の死角へと、いのりを強引に引きずり込んだ。 そこは、祭りの喧騒が嘘のように遠のく、静かな暗がりに包まれていた。
「…ごめ、んなさい。…私、…もっと上手に、笑いたかったのに…」
「…黙れ。心臓の音が、お祭りの太鼓よりうるさい。」
テルは、迷いのない動作でいのりの肩を掴み、そのまま自分の胸へと引き寄せた。 一年生の時のような道着も、制服もない。薄いワンピースとシャツ一枚を隔てただけの、剥き出しの体温。 いのりは、吸い寄せられるように、テルの細い腰に腕を回した。
ドクン。ドクン。ドクン。
テルの心臓は、この狂ったような夏の喧騒の中でも、驚くほど正確に、そして力強く、一定のテンポを刻み続けていた。 それは、彼女が世界で最も信頼し、最も渇望している、絶対的な規律。 いのりの荒れ狂っていた鼓動が、その冷徹なまでの安定感に触れた瞬間、磁石に引き寄せられるように、強制的な「同期」が開始される。
「…あ、…ぁ……生き返る…」
いのりは、テルの首筋に顔を埋め、熱い吐息を漏らした。 熱い。 夏の夜気よりも、テルの身体から伝わってくるこの「命の振動」の方がずっと熱い。 彼女のストレスは、テルの心臓と重なることで、一つ、また一つと解体されていく。
テルは、いのりの背中を、一定の周期でトントンと叩き始めた。 トントン。トントン。 それは慰めではない。ずれた歯車を噛み合わせるための、事務的な修正作業。
「…ねえ、テル君。…私、頑張ったんだよ。…可愛い系のお洋服も、…メイクも。…手を抜いたわけじゃ、ないの。」
「…努力の方向性が、非効率だ。…お前は、きれいなままでいい。」
「…やだ。…綺麗じゃなくて、可愛くなりたいの。…テル君に、守られるだけじゃなくて、…守りたいって、思わせたいの…」
いのりは、テルのシャツを、指が白くなるほど強く握りしめた。 彼女は、これまで「美しさ」という盾で自分を護ってきた。けれど、テルに依存し、彼のリズムなしには生きられない身体になった今、彼女はその盾を捨て、もっと脆くて、もっと愛らしい「何か」になりたいと願っていた。
テルは、小さく溜息をついた。 彼は、自分の顎をいのりの頭に預け、抱き締める力をさらに強くした。 それは、これまでの事務的な「同期」とは違う、どこか言い訳じみた、けれど確かな独占欲の形。
「…かわいい。…一回しか、言わない。」
テルの声が、胸板を通して、いのりの身体全体を震わせた。 いのりは、目を見開いてテルの顔を見上げた。 そこには、夕闇の光を吸い込んで、ほんのりと赤らんだテルの頬があった。 彼は不機嫌そうに視線を逸らしていたが、その心拍は、今のいのりの耳には、かつてないほど「人間味」のある、不規則な高揚を奏でているように聴こえた。
「…今、なんて…?」
「…聞こえなかったなら、それでいい。…効率が悪い。」
テルは、突き放すような言葉とは裏腹に、いのりの手を強く握りしめた。 指先と指先が絡み合い、互いの体温が完全に混ざり合う。 いのりの心臓は、テルから移された新しいリズムをなぞるように、穏やかに、けれど情熱的に、新しい鼓動を刻み始めていた。
三年目の夏。 美しさを極めた少女は、自分の中にある「可愛い」という新しい規律を見つけ出した。 それは、テルという絶対的な支配者の前でだけ許される、最も甘美で、最も壊れやすい特権。
二人は、再び祭りの喧騒の中へと戻っていった。 夜空に、大輪の花火が打ち上がる。 その爆音さえも、今のいのりの耳には、隣を歩く少年の規則正しい足音を消し去ることはできなかった。
「ねえ、テル君。あのかき氷、一緒に食べよ?」
「…時間の無駄だ。…三分だけなら、いい。」
テルのぶっきらぼうな答えに、いのりは、今日一番の、本当の意味での「可愛い」笑顔を浮かべた。 美しい彼女が、不器用に見せた、少女のような無垢な輝き。 それは、どんなに磨き上げられた「型」よりも、テルの計算を狂わせるのに十分な熱を孕んでいた。
夏の夜はまだ、始まったばかりだった。
大学キャンパスの銀杏並木は、天を衝くような黄金の回廊へと姿を変えていた。乾いた秋風が吹き抜けるたび、扇形の葉が砂嵐のように舞い踊り、石畳の上をカサカサという乾いた音を立てて滑っていく。高く澄み渡った空は、どこまでも残酷に青く、地上の色彩を鮮やかに際立たせていた。
早乙女いのりは、並木の端にある石造りのベンチに座り、膝の上で指を固く絡ませていた。 今日の彼女は、秋らしいボルドー色のニットに、柔らかな質感のロングスカートを合わせている。髪には小さなパールのバレッタが光り、その姿はキャンパスを行き交う誰よりも洗練され、そして「美しい」ものであった。 彼女が十八年間、規律と伝統の中に身を置き、磨き上げてきたその造形は、もはや完成の域に達している。弓を引く所作、背筋の伸び、無駄のない言葉選び。それらは彼女の誇りであり、テル(テル)という絶対的な規律に相応しい自分であるための、唯一の証明書でもあった。
けれど、彼女の左胸の奥では、その美しさを内側から食い破ろうとするような、暴力的な拍動が始まっていた。
(…まだ、可愛くない。…全然、足りない。)
彼女は、自分の隣に置かれたお洒落な雑誌に目を落とした。そこには「守りたくなる、ふわふわ女子」といった見出しが踊っている。 彼女は美しさを極めるために、自分の感情を殺し、規律を優先させてきた。それは手を抜いた結果ではない。むしろ、誰よりも真摯に自分を律してきた証拠だ。だが、いざテルの隣に立つ一人の女性として自分を見つめた時、その「硬さ」が、彼を遠ざけているのではないかという恐怖が、彼女の心臓を締め付ける。
ストレスは、逃げ場を失い、物理的な痛みとなって彼女の心臓へ集中していく。 ドクン、ドクン、ドク、と、不規則に跳ねるリズム。 冷たい汗が背中を伝い、視界の端が黄金色の景色を拒絶するように暗く沈み込む。 彼女は一人でいる時の沈黙が怖かった。かつてのPTSDは、今や「テルの肯定を得られない自分」への絶望に姿を変え、彼女の命を直接削り取ろうとしていた。
「…まただ。…修正が、追いついていない。」
背後から、一切の不純物を含まない、澄み切った声が届いた。 いのりは肩を大きく震わせ、弾かれたように振り返った。 黄金色の葉を肩に載せたまま、テルがそこに立っていた。二年生となった彼は、高校時代よりもさらに透明感を増し、その存在そのものが、周囲の喧騒を消し去る静寂の核となっていた。
「…テル、君……ごめんなさい、…私、また…、」
「…黙れ。…心臓の音が、並木の端まで響いている。」
テルは、迷いのない足取りでいのりに近づいた。 彼は彼女の隣に腰を下ろすと、無造作に、けれど拒絶を許さない強さで、彼女の手首を掴んだ。 指先から伝わってくる、氷のような冷たさと、その奥で狂ったように暴れる脈動。テルは眉を僅かに寄せ、いのりの顔を真っ直ぐに見つめた。
「…どうして、…こんな服を着ている。…非効率だ。」
「…可愛いって、…思われたかったの。…私、美しいばっかりで、…可愛くないから。…テル君に、飽きられちゃうのが、怖くて…、」
いのりの声は震え、瞳には涙が溜まっていた。 彼女が守り続けてきた「規律」という名の盾が、今、自分の手で粉々に砕かれようとしていた。
「…意味が、わからない。…僕がいつ、飽きると言った。」
「言ってないけど! …でも、私、…女の子として、…」
「…うるさい。…こっちに来い。」
テルは、いのりの言葉を強引に遮ると、彼女の身体を自分の胸元へと引き寄せた。 黄金色の光が降り注ぐ、大学のオープンなベンチ。 周囲には、多くの学生たちが行き交っている。けれど、テルにとって、あるいは今のいのりにとって、そんなことはどうでもよかった。 テルは彼女の背中に腕を回し、彼女の左胸を、自分の心臓の真上に強く、骨が鳴るほどに押し当てた。
「…っ、…、…あ…、」
いのりは、テルの首筋に顔を埋め、熱い吐息を漏らした。 道着でも、制服でもない、柔らかなニット越しに伝わってくるテルの身体。 そして、そこには、どんな季節であっても変わることのない、あの「音」があった。
ドクン。ドクン。ドクン。
テルの心臓は、この黄金色の秋の美しさの中でも、一分の隙もなく、一定のテンポを刻み続けていた。 精密機械のように正確で、冷徹なまでに安定した、絶対的な規律。 いのりの荒れ狂っていた鼓動が、その拍動に触れた瞬間、磁石に吸い寄せられるように、強制的な「同期」が開始される。
熱い。 秋の冷え始めた空気の中で、テルの身体から伝わってくるこの「命の振動」だけが、いのりの壊れかけた世界を繋ぎ止める唯一の接着剤だった。
「…聴け。…外の基準は、いらない。…僕の音だけを、コピーしろ。」
テルの声が、胸板を通して、いのりの身体全体を震わせる。 彼は、彼女の背中を一定の周期で、深く、強く、叩き始めた。 トントン。トントン。 それは、かつて道場で彼女を救った、あの「修正作業」の完成形だった。
いのりは、テルの心拍数に自分のそれを無理やり同期させ、ようやく肺に冷たい秋の空気が入るのを感じた。 ストレスが中和され、心臓の痛みが、甘い痺れへと変わっていく。
「…テル君。…私、…可愛い?」
いのりは、テルの胸に顔を埋めたまま、掠れた声で尋ねた。 テルは、彼女の背中を叩く手を止め、一瞬の沈黙を置いた。 彼は、彼女のパールのバレッタに、自分の顎をそっと預けた。
「…かわいい。…死ぬほど、かわいい。…だから、壊れるな。」
その言葉は、テルの口から出たとは思えないほど、熱を孕んでいた。 いのりは目を見開いた。 テルの心臓の音が、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、トクン、と不規則に跳ねたのを、彼女の耳は聞き逃さなかった。 彼もまた、自分に対して「非効率な情動」を抱いている。 その確信が、いのりの心臓に、どんな規律よりも確かな平穏を与えた。
「…っ、…、…ありがとう、テル君。…私、…もう大丈夫。」
いのりは、テルの腕の中で、ゆっくりと呼吸を整えた。 心拍数は、テルのリズムと完全に一致し、世界は再び、黄金色の輝きを取り戻していた。
十分後。 二人は、並んで銀杏並木を歩き始めた。 テルは、相変わらず無表情で、手元の端末を確認しながら歩いている。 けれど、その左手は、いのりの手を、指が痛くなるほど強く握りしめていた。
「…次からは、…その、…フリルのついた服は、禁止だ。…僕の心拍数が、狂う。」
「…えっ? テル君、今、なんて…?」
「…うるさい。…効率が悪い。…早く行こう、次の店に。」
テルは早足で歩き出し、いのりはその後ろを、今日一番の笑顔で追いかけた。 美しい彼女が、不器用に見せた、少女のような無垢な輝き。 それは、テルがどれほど合理的に振る舞おうとしても、決して計算に入れることのできない、未知の変数だった。
三年目の秋。 規律の少女は、自分の「美しさ」と、彼だけの前で見せる「可愛さ」が、一つの拍動の中で共存できることを知った。 銀杏の葉が、二人の門出を祝うように、いつまでも、いつまでも舞い踊っていた。
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