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個人シナリオ
個人シナリオ-朝霧みずき編
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天乃宮学園の陸上トラックは、西日の熱を吸収して赤黒く変色していた。熱せられたゴムの匂いが大気に混じり、遠くで円盤が地面を叩く重い音が、微かな振動として足裏に伝わる。雨野照は、バディ制度の規定に従い、トラックのゴールライン付近で直立していた。彼の指先は、首から下げたストップウォッチのプラスチック筐体をなぞっている。
正面から、朝霧みずきが歩み寄ってきた。彼女のポニーテールは激しい運動によって乱れ、数本の髪が汗で額に張り付いている。首筋から鎖骨の窪みにかけて、細かな汗の粒が陽光を反射して輝いていた。彼女は照の数歩手前で足を止め、自身の足元を見つめた。
「持て。」
みずきは腰を屈め、履き替えたばかりのスパイクを脱ぐと、それを照の胸元へ突き出した。照が反射的にそれを受け取ると、スパイクの底に残った体温と、土が乾いた特有のざらつきが掌に広がる。みずきは照の顔を、値踏みするように下から睨みつけた。
「随分と整った面だな。ここはモデルの撮影現場じゃない。そんな軟弱な指先で私の靴に触れるなら、相応の覚悟を持て。私のタイムを一ミリ秒も逃すな。」
照は言葉を返さず、スパイクの紐を整えて傍らのバッグに収めた。みずきは鼻で短く笑うと、背を向けてスタート地点へと歩き出した。彼女の歩幅は大きく、太腿の筋肉が動くたびに皮膚の下で硬質な隆起を見せる。
みずきはスタートブロックに足をかけ、静止した。トラックの赤い地面に彼女の影が長く伸びる。照はストップウォッチを構えた。彼女の背筋が鋼のように緊張し、号砲の代わりに響いたホイッスルの音と共に、彼女の身体が前方へと弾け飛んだ。
スパイクのピンがタータンを突き刺し、引き剥がす音が連続して鼓膜を叩く。みずきの腕は鋭く振られ、その指先は空気を切り裂くような軌道を描いていた。彼女の表情は苦悶に近く歪み、歯列が白く剥き出しになる。ゴールを駆け抜けた瞬間、彼女の身体は惰性で数メートル進み、大きく肩を上下させて立ち止まった。
照は手元の液晶を確認し、彼女の元へ歩み寄った。
「十秒、九八。」
「遅い。」
みずきは吐き捨てるように言い、すぐに反転してスタート地点へ戻る。彼女の呼気は熱を帯び、通過するたびにその余熱が照の肌を掠めた。
五本目、十本目と、走行は繰り返された。みずきのタイムは、十秒台後半から一向に縮まらない。彼女の着地音は次第に乱れ、足首の筋肉が疲労によって微かに震えているのが見て取れた。十一本目のゴール後、彼女はタイムを聞く前に、手近なハードルを蹴り飛ばした。金属がアスファルトの上を滑り、不快な高音を響かせる。
「計測のタイミングがおかしいんじゃないのか。もう一度だ、次も計れ。計り続けろ。私が納得するまでだ。」
みずきは照に詰め寄り、彼の胸ぐらを掴み上げた。彼女の指先からは汗の湿り気が伝わり、至近距離で合うその瞳は、充血して鋭い光を放っている。照の心拍が僅かに早まり、喉の奥で唾液を飲み込む音がした。みずきの視線は、照の動揺を許さないほどに執拗だった。
「黙ってないで何か言え。…その目、私を憐れんでいるのか。」
「靴が、汚れてる。」
照の口から出たのは、感情のない事実のみだった。みずきは目を見開き、力を込めて照を突き飛ばした。
「そんなことはどうでもいい。速く走れれば、泥などいくらついても構わない。」
みずきは吐き捨て、地面に座り込んで自身の予備のシューズを引き寄せた。しかし、その手は疲労で震え、靴紐を解くことさえ覚束ない。
照は地面に膝をつき、彼女の足元に手を伸ばした。彼は自身の鞄から、手入れ用のブラシと柔らかな布を取り出した。みずきが拒絶の声を上げる前に、照は彼女が脱ぎ捨てたスパイクを手に取り、その側面を覆う茶褐色の泥を丁寧に掻き出し始めた。
ブラシの毛先が革の細かなシボに入り込み、固まった土を剥がしていく。照の動きには一切の迷いがなく、ただ対象物を元の状態に戻すという目的のみに従っていた。みずきは、自身の足首を掴まれたような錯覚に陥り、言葉を飲み込んでその作業を注視した。
泥が落ちると、その下から黒い合成皮革の鋭い光沢が現れる。照は布に専用のクリームを少量取り、円を描くように表面を磨き上げた。夕陽の光が、磨かれた靴の曲線に沿って滑るように反射する。数分間の沈黙の中、聞こえるのはブラシの音と、みずきの次第に落ち着いていく呼吸の音だけだった。
「終わったよ。」
照は磨き終えたスパイクを、みずきの前に揃えて置いた。そこには、先ほどまで彼女が投げ打っていた「敗北の象徴」としての汚れた履物はなく、ただ研ぎ澄まされた競技道具としての姿があった。
みずきは震える指先でその靴に触れた。皮革は滑らかで、泥のざらつきは完全に消失している。彼女は照を一度だけ見上げ、それから何も言わずに靴を履き直した。踵を鳴らして立ち上がると、新調したばかりのような硬い感触が、彼女の足裏を刺激した。
「…反復練習だ。一度綺麗にしたところで、次の走行でまた汚れる。意味のないことだ。」
彼女の声には、先ほどのような剥き出しの敵意はなかった。代わりに、逃れられない事実を噛み締めるような、低い重みがあった。みずきは再びスタートラインへと歩き出した。
「次も計れ。靴を磨くのが君の役割なら、磨かざるを得ないほど何度も走ってやる。」
彼女は再び低い姿勢をとり、赤いトラックを見据えた。その瞳には、敗北を拒絶し、何度でも同じ動作を繰り返すという、強固な意志が宿っていた。照は再びストップウォッチを構え、彼女が地を蹴るその瞬間を待った。春の終わりの風が、二人の間を通り抜けていった。
天乃宮学園の広大な敷地を、暴力的なまでの陽光が支配していた。蝉の声は厚みを持ったノイズとなって大気を震わせ、風は熱を帯びて肌をなでる。陸上トラックの赤い表面は、熱を吸収して逃がさないヒートアイランドと化していた。朝霧みずきは、その過酷な環境を検証するように、一人でスタートラインに立っていた。
彼女のランニングシャツは汗で肌に張り付き、肩が上下するたびに布地が不規則な紋様を描く。雨野照は、日陰のないフィールドの端で、設定されたタイムのリストとストップウォッチを握りしめていた。彼の指先は、絶え間なく流れる汗を拭う余裕もなく、ただみずきの動きを追っている。
「二百メートル、入りは二十八秒以内。」
みずきが短く、枯れた声で命じた。照は無言で頷き、計測の準備を整える。みずきは返答を待たず、弾かれたように地面を蹴った。スパイクのピンが焼けた地面を削る音が、乾いた音を立てて響く。
彼女の走りは、春の頃よりも鋭さを増していた。しかし、その動きには余裕がない。コーナーを曲がる際の身体の傾きが、遠心力に抗う以上に不安定に揺れている。照の目には、彼女の脚部の筋肉が痙攣し、皮膚が赤く火照っているのが見て取れた。ゴールラインを通過した瞬間、照はボタンを押した。
「二十七秒、五。」
みずきは足を止めず、歩きながら呼吸を整える。彼女の顔からは血の気が引き、代わりに異様な紅潮が頬に張り付いている。照はクーラーボックスから冷えたペットボトルを取り出し、結露を拭わずに彼女の前に差し出した。
「飲んだほうがいい。心拍数が下がっていないし、呼吸も浅すぎる。」
みずきは立ち止まり、照の手元を鋭く睨みつけた。彼女の手は、自身の腰に置かれたまま、微動だにしない。
「いらないと言ったはずだ。水分を摂れば身体が重くなる。私の調整を邪魔するな。」
「でも、この気温では――。」
「黙れ!」
みずきは照の手を強く叩き落とした。ペットボトルが地面に転がり、乾いた砂を巻き上げる。中身が揺れる音が、蝉の声に一瞬だけ混じった。みずきは自身の腕に浮いた汗を乱暴に拭い、再びスタート地点へと歩き始める。彼女の足取りは、砂の上を滑るように頼りなかった。
休憩時間は三呼吸ほどで終わった。みずきは再びクラウチングの姿勢をとる。彼女の後頭部から首筋にかけて、血管が浮き上がり、激しく脈動している。照は言葉を飲み込み、再びストップウォッチを構えた。
ホイッスルが鳴る。みずきは一歩目で激しく地面を叩いたが、その反発力を受け止めきれず、右足が僅かに外側へ逃げた。彼女はそれを無理やり修正し、強引に加速していく。直線に入り、最高速に達しようとした瞬間、彼女の膝がガクンと折れた。
視界が激しく上下し、空と地面が入れ替わる。みずきの眼前で、赤いタータンが急速に迫ってきた。重力に従い、身体が前方へと投げ出される。
衝撃が来るはずの瞬間、みずきの身体は宙で止まった。
照が横から飛び込むようにして、彼女の胴体を抱え込んでいた。二人の身体は勢いのままトラックの上を滑り、砂煙を上げて停止した。
「…っ。」
みずきの背中に、照の腕の感触が食い込む。彼女の耳元で、自分のものではない激しい呼吸音が聞こえた。照の身体もまた、猛暑の中で極限まで熱を帯びていた。抱きしめられるような形になり、二人の肌が密着する。汗の匂いと、日焼け止めの香りが混じり合い、熱気が皮膚の境界を曖昧にする。
照の指先が、みずきの脇腹の筋肉を強く掴んでいた。みずきはその感触に、全身の毛穴が収縮するような感覚を覚えた。彼女の心臓は、走っている時以上に激しく、不規則なリズムで肋骨を叩いている。
「離せ…。」
みずきは力なく呟いた。言葉とは裏腹に、彼女の指先は照のシャツの肩口を、逃さないように強く握りしめていた。照の瞳が、至近距離でみずきを捉える。その瞳には、彼女を批判する色はなく、ただ生存を確認しようとする純粋な光が宿っていた。
数秒の間、世界から蝉の声が消えた。
みずきは、自分の身体が自分だけの意志で動いているのではないことを、その熱量を通じて理解した。自身の無謀さと、それを繋ぎ止める他者の存在。彼女はその事実に、暴力的なまでの敗北感を、あるいはそれ以上の何かを突きつけられた。
みずきは照の腕を、震える力でゆっくりと押し返した。照は抵抗せず、支えを維持したまま彼女を座らせる。
「…練習を続ける。」
「今日はもう無理だ。」
「うるさい。…計れ。まだ、私の足は動く。」
みずきは照の顔を見ないまま、砂のついた膝を叩いた。彼女の言葉は強気だったが、その声は微かに震え、視線は地面の一点に固定されていた。彼女は照が拾い上げたペットボトルを受け取り、一口だけ口に含む。冷たさが喉を通り、内側から身体を冷やしていく過程を、彼女は黙って享受した。
みずきはふらつきながらも立ち上がり、再びトラックを見据えた。彼女の背中は、夏の陽光を背負って黒い影を長く伸ばしていた。照は砂を払い、ストップウォッチのボタンをリセットする。再び、終わりのない反復が始まろうとしていた。春よりも深く、重い熱を帯びたまま。
天乃宮学園の陸上競技場は、乾いた秋風にさらされていた。電光掲示板のデジタル文字が、無慈悲に順位を確定させていく。二位。一位との差は、わずか零秒一二だった。朝霧みずきはトラックの上に立ち尽くし、自身の脚を見つめていた。皮膚は冷気にさらされて白く、浮き出た血管が激しく脈打っている。
彼女の視線の先で、優勝した他校の選手が歓声に包まれていた。みずきはその光景から逃れるように、踵を返して地下の部室へと向かった。階段を下りるたび、スパイクのピンがコンクリートを叩く音が、空虚に反響する。
部室の空気は淀み、窓から差し込む夕光が埃を白く浮き上がらせていた。みずきは椅子に座ることなく、履いていた競技用靴を乱暴に脱ぎ捨てた。
「…っ。」
短い呼気と共に、片方の靴が壁を叩いた。乾いた衝突音が響き、衝撃で外れたスパイクのピンが、床の上をカチカチと乾いた音を立てて転がる。みずきは自身の両手で顔を覆い、そのまま壁に背を預けて床へ滑り落ちた。指の隙間から、荒い呼吸が漏れる。
扉が静かに開いた。雨野照が、バディの任務を果たすべく室内に入ってくる。彼は壁際で項垂れるみずきの姿を認めると、一度だけ足を止め、それから何も言わずに歩み寄った。照はみずきの前に膝をつくのではなく、まず床に転がったピンを一つずつ拾い上げた。
照は自身の鞄から、小さな工具箱と柔らかな布を取り出した。彼はみずきが投げつけた靴を拾い、その表面についた汚れを布で拭い去る。それから、専用のレンチを手に取り、残っていた古いピンを回転させて取り外していった。
金属同士が擦れる、高い音が室内に響く。みずきは覆っていた手を少しだけずらし、照の指先を見つめた。照の指は白く、力みがない。彼は摩耗して平らになったピンを横に除け、工具箱から新品のピンを取り出した。銀色の輝きが、夕闇に沈みかけた部室で微かな光を放つ。
「何をしている。」
みずきの声は掠れていた。照は顔を上げず、新しいピンを靴の底に差し込み、一定のトルクで締め付けていく。
「磨り減っているから。これでは、次の蹴り出しで滑る。」
「次なんて…。」
みずきは言葉を飲み込んだ。照は、彼女が今しがた味わった敗北については一切触れなかった。ただ、道具の不備という事実のみを修正していく。ピンを固定するたび、カチリ、という硬質な音が、彼女の耳の奥に届く。
照は、もう片方の靴も同様に処置した。新品のピンが整然と並んだ靴底は、再び鋭い殺気を取り戻していた。照はそれを、みずきの足元に揃えて置く。
「終わったよ。」
照は立ち上がり、布で自身の指先を拭った。みずきは、手入れされた靴と、照の静かな瞳を交互に見つめた。彼女の喉の筋肉が、何らかの感情を飲み込むように大きく動く。
みずきは、泣く代わりに自身の拳を強く握りしめた。爪が掌にくい込み、微かな痛みを与える。彼女は重い腰を上げ、照の隣に座った。二人の肩が触れ合うことはないが、至近距離にある照の体温が、秋の冷気に冷え切った彼女の肌に伝わってくる。
みずきは靴を手に取り、新しいピンの鋭さを指先で確かめた。
「…次は、外さない。」
彼女の言葉は、誰に向けたものでもない独り言のように響いた。照は返答せず、ただ静かに頷いた。窓の外では、秋の日は既に沈み、競技場を深い藍色が包み込み始めていた。二人の間に流れる沈黙は、春の拒絶でも夏の混乱でもない、次の走行に向けた確かな停滞だった。
天乃宮学園の校庭を包む空気は、吸い込むたびに肺の奥を刺すような鋭い冷気を帯びていた。陸上トラックの赤い表面には、薄く張った氷の膜が冬の斜光を反射し、無機質な銀色の光を放っている。活動を休止した部室棟の廊下には、雨野照の靴底がコンクリートを叩く音だけが硬く反響していた。
照が指定された部室の扉を開くと、そこには暖房もつけず、ベンチに腰を下ろした朝霧みずきの姿があった。彼女はジャージの上に厚手のベンチコートを羽織り、膝の上に一足のスパイクを置いていた。床には、春から秋にかけて彼女が履き潰してきた、色の異なる十二足のシューズが、一点の狂いもなく並べられている。
「遅い。三分の遅刻だ。冬の空気は伝導率が高い。その分、静止している時間は筋肉を硬直させる。」
みずきは顔を上げず、指先でスパイクの底、母指球のあたりに刻まれた微かな溝をなぞった。その指先は寒さで赤らんでいるが、動きに迷いはない。照は無言で彼女の隣に歩み寄り、自動販売機で購入したばかりの温かい缶コーヒーを、彼女の項に近い首筋にそっと触れさせた。
「…っ。」
みずきの肩が大きく跳ね、筋肉が瞬時に緊張する。彼女は鋭い視線で照を射抜いたが、差し出された缶の熱を感じると、奪い取るようにしてそれを両手で包み込んだ。金属の熱が彼女の指先に伝わり、強張っていた表情が僅かに解ける。
「情勢を確認する。この一年、私は君というバディを得て、数千回の計測と、数百回の靴の手入れを繰り返させてきた。ここに並んでいるのは、その全ての蓄積だ。春、夏の合宿、秋の新人戦。全ての走行データを、私はこの靴の減り方から逆算した。」
みずきは一番左にある、春に使用していた青いシューズを指差した。
「これは四月の私の未熟さだ。外側に重心が逃げている。君への反発心が、そのまま足首の捻転となって現れていた。そして、この夏の黒い一足。これは熱による膨張と、君に支えられた時の動揺が、不必要なストライドの伸びを生んでいる。…理解できるか。私の身体は、私の意志以上に、君という変数を正確に記録しているということだ。」
みずきの言葉には、感情の揺らぎを排そうとする執拗なまでの客観性があった。彼女は自身の敗北や動揺を、単なる「物理的なエラー」として分類し、整理していた。それは彼女なりの、崩れかけた自尊心を立て直すための防衛本能でもあった。
照は彼女の隣に腰を下ろし、床に並んだ靴の一足一足を丁寧に見つめた。手入れを担当してきた彼には、どの傷がどの日の練習でついたものか、その手触りを通じて記憶に残っている。
「みずきさんの歩き方は、少しずつ変わっているよ。今はもう、外側には逃げていない。」
照の言葉に、みずきは缶コーヒーを握る力を強めた。カチリ、と小さな音が鳴り、アルミの容器が微かに歪む。
「…静寂が怖い。オフシーズンのこの静けさは、筋肉の記憶を薄れさせる。走っていない時の私は、自分が何者であるかを定義する手段を持たない。君は、走っていない私を見ても、それを『朝霧みずき』だと認識できるのか。記録も、速度も、スパイクの音もない私を。」
みずきの問いは、冬の乾いた空気に溶けていく。彼女の視線は、自身の膝の上にある最新のモデルに注がれていた。それはまだ一度も土に汚れていない、白く清らかな靴だった。彼女の瞳の中には、未知の季節に対する不安と、それを打ち消そうとする強固な拒絶が混在している。
照は何も答えず、鞄から柔らかなクロスを取り出した。彼はみずきが膝に乗せていた新しい靴を手に取ると、まだ汚れていないその表面を、儀式のようにゆっくりと拭き始めた。皮革の摩擦音が、静まり返った部室に規則正しく響く。
「…何をしている。それはまだ、汚れていない。」
「予行演習だよ。汚れる前に、一度磨いておけば、次についた泥は落ちやすくなるから。」
照の指先が、みずきの指の隙間を縫うようにして靴を支える。その瞬間、みずきの心拍数が跳ね上がり、ベンチコート越しに肺が大きく膨らむのが見えた。彼女の呼吸は白く濁り、至近距離にある照の頬を掠めていく。
「…詭弁だ。だが、その非論理的な行動が、私の計算を狂わせる。一年間、私は君というノイズを排除しようと試みてきたが、結果として、そのノイズがなければ私のフォームは完成しないという結論に達した。不本意だが、これは確定したデータだ。」
みずきは缶コーヒーを飲み干すと、空の容器をベンチに置いた。彼女は立ち上がり、並べられた十二足の靴を、大きなスポーツバッグへと次々に収めていく。その動作は迅速で、迷いがない。一足収めるごとに、彼女の背筋はアスリートとしての鋭さを取り戻していった。
「立て直しの時間は終わりだ。二年生になれば、速度の次元が変わる。君のストップウォッチの精度を上げておけ。私の背後から目を離すな。」
みずきはバッグのジッパーを力強く閉めると、それを肩に担いだ。彼女の瞳には、冬の停滞を突き破るような激しい光が宿っていた。彼女は一度も後ろを振り返ることなく、部室の扉を開け放った。
吹き込んできた北風が、彼女の短い髪を激しく揺らす。みずきは白く長い息を吐き出し、凍てつくトラックへと一歩を踏み出した。その足音は、春よりも、夏よりも、秋よりも、遥かに重く、確かな覚悟を持って冬の地面を叩いていた。照はその後ろ姿を追い、冷え切った廊下へと駆け出した。二人の一足ごとに、新しい季節の鼓動が、静寂の中に刻まれていった。
天乃宮学園の校門を彩る桜は既に散り始め、薄紅色の花弁が陸上トラックの赤いタータンの上に不規則な模様を描いていた。二年生へと進級した朝霧みずきの走りは、一年時よりも鋭角的な力強さを増している。彼女のスパイクが地を蹴るたび、花弁は風に舞い上げられ、彼女の背後へと置き去りにされた。
「…十一秒、二。」
雨野照が告げる数字に、みずきは満足げな表情を見せることはなかった。彼女は荒い呼吸を整えながら、トラックの隅で立ち尽くす新入生たちへ鋭い視線を向けた。
「そこ。足首の返しが遅い。地面に吸い付いているつもりか。靴底の摩擦を熱に変えるだけの無駄な動きだ。次、十本追加。」
新入生の一人が、肩を震わせて俯いた。その場の空気が急速に凍りつき、蝉の声さえまだ聞こえない春の静寂が、重低音のように響く。みずきの言葉には一切の装飾がなく、ただ事実としての「遅さ」のみを指摘していた。
照は手元のバインダーに記録を書き込みながら、みずきの横顔を見た。彼女の顎のラインは緊張で鋭くなり、首筋の血管が激しく脈打っている。彼女自身、この「先輩」という新しい役割に、全身の筋肉を強張らせて適応しようとしているのが見て取れた。
「みずきさん、少し休憩を挟んだ方がいい。みんな、リズムが崩れてる。」
「リズムを合わせるのは私ではなく、彼女たちの役目だ。私に追いつけない速度に、価値はない。」
みずきは吐き捨てると、再びスタート地点へと歩き出した。彼女の背中は、後輩たちの誰とも視線を交わすことを拒絶しているように見えた。
練習が終盤に差し掛かる頃、一人の後輩がトラックの脇で膝をつき、嗚咽を漏らし始めた。過酷なメニューと、みずきの容赦ない言葉に心が折れたのだ。他の部員たちも遠巻きに見守るだけで、誰も声をかけることができない。みずきはその様子を十メートルほど離れた場所から、岩のように動かずに見つめていた。
彼女の指先が、ジャージの裾を強く握りしめる。何かを言おうとして唇を戦慄かせるが、喉の奥が狭まったように音が出ない。彼女の瞳には、かつて自分が味わった敗北の記憶と、それを克服するための「正論」が渦巻いていた。だが、今の彼女には、それを優しさに変換する回路が備わっていなかった。
「…これ、みずきさんが書いていたやつだよ。」
照が、後輩の前に静かに膝をついた。彼の手には、一冊の古いノートが開かれていた。そこには、みずきの独特の鋭い筆跡で、部員一人一人の走りの特徴、筋力の弱点、そして彼女たちが気付いていないであろう「伸び代」が、執拗なまでの観察眼で記録されていた。
「朝霧先輩は、君の右足の着地が少し外側に逃げているのをずっと気にしていたんだ。それを直せば、あと零秒三は縮まるって。このメニューも、君の足首を強化するために組んだものなんだよ。」
後輩は涙を拭い、ノートに記された詳細な分析に見入った。そこにあるのは、冷徹な批判ではなく、並走者としての誠実な眼差しだった。
みずきは、自分の秘め事が暴かれたことに、全身を焼かれるような熱さを感じた。彼女は照の元へ駆け寄り、ノートを力任せに奪い取った。
「勝手に見せるな! それは、ただの…データの断片だ。何の意味もない!」
みずきの顔は紅潮し、激しい心拍がベンチコートを突き破らんばかりに肋骨を叩いていた。彼女は照を鋭く睨みつけ、呼吸を荒げる。照は逃げずに、彼女の混乱を受け止めるように静かに立ち上がった。
「意味はあるよ。伝わらなければ、それはただの数字で終わってしまうから。」
「黙れ。君の余計な世話には、一円の価値もない。…お節介だ。不快極悪だ。」
みずきは早口で罵倒を並べ立てたが、その声には先ほどまでの冷徹な響きはなかった。彼女はノートをバッグに押し込むと、まだ地面に座り込んでいる後輩の元へ歩み寄った。
後輩は怯えたように身体を縮めたが、みずきはその肩を一瞬だけ、掌の熱が伝わるほど強く叩いた。
「次は、私を追い越せ。それまでは…その程度の涙で足を止めることは許さない。」
みずきはそれだけを言い残すと、逃げるように部室へと走り去った。照はその後ろ姿を追い、タータンの上に残された彼女の確かな足跡を、一歩ずつ踏みしめるようにして歩いた。
夕闇が迫る中、部室の窓から漏れる光が、彼女の磨き上げられたスパイクを白く照らしていた。不器用な正しさが、春の風に乗って、ようやく誰かの心に届き始めていた。
天乃宮学園の名称が刻まれた電光掲示板が、真夏の強烈な陽光を反射して白く飛んでいる。競技場を包む空気はアスファルトの熱を吸い込み、肺に送り込むたびに喉を焼くような錯覚を与えた。朝霧みずきは、テントの影で自身の太腿を叩き、筋肉の柔軟性を確認していた。
雨野照は、彼女の傍らで数枚の記録用紙をクリップボードに挟み、ペンを走らせていた。彼の首からは、一年時よりも使い込まれたストップウォッチが二つ下げられている。照は時計を確認すると、みずきの足元に視線を落とした。
「三十分前。アミノ酸の摂取から計算して、今はピークのはずだよ。体温の上昇も規定値内。…このバナナ、食べて。」
照が差し出した剥きかけの果実を、みずきは奪い取るようにして口に運んだ。
「分かっている。君に言われるまでもない。」
みずきは咀嚼しながら、照の横顔を盗み見た。照は、隣のレーンで準備をしていた他校の選手に道を譲り、短く会釈をして微笑んだ。その、誰に対しても等しく向けられる柔和な表情が、みずきの胸の奥を不快に波立たせる。彼女は最後の一口を飲み込み、空になった皮を照の手に押し付けた。
「…目障りだ。あっちへ行っていろ。君がそこにいると、空気の密度が変わって走りにくい。」
「でも、直前のマッサージがまだだよ。」
「いらないと言っている。私は一人で集中したい。」
みずきは照を突き放すように背を向け、トラックへと続く通路を睨みつけた。だが、照の気配は消えなかった。彼がペットボトルのキャップを開ける音、記録用紙をめくる音、そして一定のリズムを刻む呼吸の音が、競技場の騒音を突き抜けて彼女の鼓膜に届く。みずきは自身の心拍数が、アップの強度以上に跳ね上がっていることを自覚した。
招集のアナウンスが流れ、みずきはスターティングブロックを抱えてレーンに立った。足元を固定し、一度だけ跳躍する。その際、右足のスパイクに違和感を覚えた。紐の結び目が、激しい動作によって僅かに緩んでいる。
みずきは腰を下ろし、紐を解こうとした。しかし、指先が不自然に震え、複雑に絡まった結び目に爪が立たない。焦燥が筋肉を硬直させ、呼吸が浅くなる。
「…貸して。」
前方から影が落ち、照が地面に両膝をついた。彼はみずきの拒絶を待つことなく、その右足を自身の腿の上に乗せた。照の白い指先が、汗と泥に汚れたスパイクの紐に迷いなく触れる。
「動かないで。角度が変わる。」
照は低く落ち着いた声で言い、紐を一度完全に解いた。彼の指先が、みずきの足首の骨の隆起をなぞるようにして紐を通し直す。皮膚と皮革が擦れる微かな振動が、神経を通じて脳に直接突き刺さった。みずきは息を止め、自身の膝を強く押さえた。照の項から漂う、清潔な石鹸の匂いと日焼け止めの香りが、熱帯の空気の中で異質なほど鮮明に主張してくる。
「…終わったよ。これで、逃げない。」
照は紐を力強く引き絞り、二重に結び目を作った。彼は立ち上がり、みずきの目を見据えて短く頷いた。みずきは何も言えず、ただ喉の奥を鳴らして視線を逸らした。
ホイッスルが鳴り響く。みずきの身体は、自身の思考を置き去りにして前方へと弾け飛んだ。足元は完璧に固定され、一歩ごとに地面からの反発を余すことなく推進力へと変換していく。隣のレーンの影、風の抵抗、観客の声――そのすべてを加速の燃料に変え、彼女はトップでゴールラインを駆け抜けた。
掲示板に、自己ベストを更新する数字と、予選通過を意味する「Q」の文字が点灯する。周囲の部員たちが歓声を上げ、彼女の元へ駆け寄ろうとする。だが、みずきはその輪が形成される前に、自身のスパイクを手に持ち、裸足のままスタンド裏の資材置き場へと逃げ込んだ。
「みずきさん!」
追ってきたのは、照だけだった。彼は息を切らし、彼女の前に立ち止まった。
「おめでとう。完璧な加速だった。…計算通りだよ。」
照が笑顔を見せる。みずきはその笑顔の理由を、統計やデータという言葉で理解しようとしたが、脳がそれを拒絶した。彼女の胸の内側に、言葉にできない熱い塊がせり上がってくる。
みずきは照の腕を掴み、その手を力任せに引き寄せた。彼女は自身の右手を、照の掌に重ね、骨が軋むほどの力で一度だけ握りしめた。
「…黙れ。」
みずきの口から漏れたのは、鋭い呼気と、短い拒絶だった。だが、彼女の手は照の温もりを離そうとはせず、数秒の間、汗と熱を共有し続けた。
みずきは手を離すと、一度も振り返らずに更衣室へと歩き出した。照の手に残された熱は、夏の終わりの予感と共に、彼女の背中を長く追い続けていた。二人の間に流れる距離は、加速する速度に比例して、その天乃宮学園の競技場を、乾いた秋風が吹き抜けていた。空気は澄み渡り、遠くの校舎の輪郭が鋭利に切り取られている。朝霧みずきは、スタートラインで自身の右足の位置を数ミリ単位で調整していた。彼女の太腿の筋肉は、冷気にさらされて硬く引き締まり、皮膚には微かな鳥肌が立っている。
ホイッスルが鳴り、彼女は地を蹴った。以前よりも歩幅を広げ、滞空時間を伸ばす新フォーム。だが、空中での重心が定まらない。着地のたびに、スパイクのピンがタータンを捉える感触が、脳内のイメージと僅かに、しかし致命的に食い違っていた。
「…十一秒、五。」
ゴール地点で待機していた雨野照の声が、秋の静寂に冷たく響いた。みずきは足を止め、自身の膝を激しく叩いた。呼吸は浅く、喉の奥が乾いた鉄のような味を帯びる。
「もう一度だ。計り直せ。今の数値は異常だ。」
「みずきさん、左足の着地が三センチ外側に流れている。ストライドを伸ばそうとして、腰の回転が追いついていないんだよ。」
照がタブレットを差し出す。そこには、彼女の走行を多角的に分析したグラフが表示されていた。みずきはその画面を、払いのけるようにして一瞥した。
「データが間違っている。私の感覚では、今の着地は完璧だった。君の計測タイミングがずれているだけだ。」
みずきは照の目を見ようとはせず、乱暴に背を向けた。一年目のような怒号ではない。拒絶の意志を込めた、静かで重い拒絶だった。彼女はそのまま独りでスタート地点へ戻り、照が追ってくることを許さない速度で、再び疾走を開始した。
それから数日間、みずきは照を練習から排除した。放課後の部活動が終わった後、彼女は誰もいなくなったトラックに現れ、夜霧の中で独り、足を動かし続けた。街灯の光が届かないコーナーで、彼女は自身の足音だけを頼りに、闇を切り裂こうとしていた。
深夜、視界が白く濁り始めた頃。みずきの右足が、着地の瞬間に僅かな段差を捉えたかのように内側へ折れた。
「あ――。」
短い悲鳴と共に、彼女の身体が前方へと投げ出された。タータンの硬い感触が、肩と頬を激しく叩く。激しい衝撃が全身を駆け抜け、遅れて右足首に焼けるような熱痛が走った。みずきは仰向けになり、夜空を見上げた。冷たい湿気が、汗ばんだ首筋を容赦なく冷やしていく。
足音が近づいてきた。一定のリズムを刻む、聞き慣れた靴音。
「…何をしに来た。笑いに来たのか。」
みずきは顔を上げず、震える声で言った。視界の端に、照の影が落ちる。照は膝をつき、彼女の腫れ始めた足首に、迷いのない手つきで冷却スプレーを吹きかけた。冷たい霧が、痛熱を一時的に麻痺させる。
「一年半。君がここで走った全ての記録だ。」
照は言葉を続けず、一台のタブレットを彼女の眼前に置いた。画面には、彼女が一年生の頃から今日に至るまで、どの位置で地を蹴り、どの角度で着地したかを示す無数の点が、星座のように繋がっていた。
「今日の夜の練習、君は三十二本走った。そのすべてで、疲労が溜まるごとに着地が左へ零点五ミリずつズレていっている。…感覚は、嘘をつく。でも、この数字は君が積み上げてきた事実だよ。」
みずきは、画面上の点の集積を凝視した。それは、彼女が自身の身体と格闘してきた時間の証明であり、同時に、それを一秒も欠かさず記録し続けてきた他者の執念の記録でもあった。
自身の「感覚」という閉じた世界が、冷徹な「数値」によってこじ開けられていく。みずきは自身の左手で顔を覆った。指先が微かに震え、荒い呼吸が白い霧となって、照の差し出した画面を曇らせる。
「…君は、変態だ。気味が悪い。…ストーカーか。」
みずきの口から漏れたのは、力のない皮肉だった。だが、その声からは先ほどまでの刺々しい拒絶が消えていた。彼女は照の手を借りることもなく、痛む足を庇いながらゆっくりと上半身を起こした。
秋の夜風が、二人の間を通り抜ける。みずきは、照が差し出したタブレットの数値を、一つずつ自身の身体に刻み込むように見つめ返した。
「…明日も計れ。そのズレが、ゼロになるまでだ。」
彼女は立ち上がろうとして、再び足首の痛みに顔を歪めた。照はその肩を支え、ゆっくりと立ち上がらせる。みずきはそれを振り払わず、彼の重みを不器用に従受した。秋の深い闇の中、磨かれたスパイクのピンが、月光を受けて静かに、そして鋭く光っていた。二人の沈黙は、冬への加速を控えた、確かな修復の音を奏でていた。
密度を変え始めていた。
天乃宮学園の陸上部室は、外気と遮断されているはずにも関わらず、底冷えのする空気が充満していた。窓の外では、鉛色の空から不規則な粉雪が舞い落ち、トラックの赤いタータンを薄く覆い始めている。部室の中央には、朝霧みずきによって並べられた二十足以上のシューズが、その用途と使用時期ごとに厳格な規則性を持って配置されていた。
雨野照は、冷たいクッションフロアの上に膝をつき、みずきの手元を注視していた。みずきは、ジャージの袖を捲り上げ、一本のピンゲージをスパイクの底に当てている。彼女の指先は寒さで白くなっているが、その動きに迷いはない。
「見ていろ。これが、十月の記録会で私が犯した過失の記録だ。」
みずきは、片方のスパイクを照の眼前に突き出した。外側のピンだけが、アスファルトを削ったかのように斜めに磨耗している。
「着地の際、外踝側に体重が逃げている。秋のスランプは、ストライドを伸ばそうとした結果ではない。伸ばそうとする焦りが、接地瞬間の内転を阻害し、結果としてこの不自然な減りを生んだ。…私の脚は、私自身の意志よりも先に、恐怖を記録していたということだ。」
みずきはスパイクを床に置くと、照が持参したタブレットの画面をスクロールさせた。そこには、照が秋の夜間に記録し続けた、彼女の走行時の接地圧データが波形となって表示されている。みずきはその波形の山と、手元の靴の磨耗箇所を、一つずつ指先でなぞりながら照らし合わせていった。
「…情勢を確定させる。現在の私のフォームは、この一点において崩壊している。だが、原因が物理的な接地位置に集約されるのであれば、修正は可能だ。反復すべきは速度の追求ではない。この、零点五ミリのズレを埋めるための、足首の角度の固定だ。」
みずきは、自身の太腿を強く叩いた。筋肉の硬さを確かめるような、鈍い音が響く。彼女は照から渡された新しい記録シートに、修正すべき関節の角度と、それに伴うトレーニングメニューの変更点を書き込んでいった。それは、崩れ去った自信を、数値という名のコンクリートで補強していくような、極めて事務的で、それゆえに強固な立て直しの儀式だった。
照は、彼女の書き込みを黙って見届けた後、傍らに置かれていた古いトレーニングシューズを手に取った。彼は小さな瓶から透明なワックスを取り出し、柔らかい布に馴染ませる。
「…何をしている。それはもう、練習では使わない靴だ。」
「革が硬くなっている。そのままにしておくと、次に履いた時に、君の足の動きを制限してしまうから。」
照は、みずきの言葉を待たずに、靴の側面に布を当てた。円を描くような、規則正しい手の動き。ワックスが革に浸透し、くすんでいた表面が次第に深い光沢を取り戻していく。照の指先は、みずきが転倒した際についたと思われる、爪先部分の深い傷跡を避けることなく、丁寧に磨き上げた。
みずきは、その作業を立ったまま見下ろしていた。自身の不甲斐なさを象徴する傷に、他者の手が触れる。彼女の心拍が、冬の静寂の中で微かに早まった。
「…無駄だ。傷は消えない。手入れをしたところで、私の失態が消えるわけではないだろう。」
「消すために磨いているんじゃないよ。この靴が、君の足を守り続けるために塗っているんだ。」
照は顔を上げず、今度は靴の内側のライニングを点検し始めた。みずきの呼気が、白く濁って照の頭上に落ちる。彼女は自身の右足の爪先を、もう片方の足の踵で無意識に探った。照の提示した「防護」という概念が、彼女の中で渦巻いていた自己嫌悪を、ゆっくりと上書きしていく。
照は作業を終えると、磨き上げられた靴をみずきの足元に並べた。新品のような輝きではないが、そこには確かに、幾度もの走行を耐え抜いてきた道具としての矜持が宿っていた。
「終わったよ。新しいワックスの周期、メニューに入れておいた。三日に一度、私がやる。」
みずきは、自身の足元にある靴を見つめた。彼女の視線は、もはや秋の日のような混濁を含んでいない。彼女は深く息を吐き出すと、並べられたすべての靴を、一足ずつ専用の袋に収め始めた。その動作は、自身の過去を一つずつ整理し、糧として梱包していく作業のようにも見えた。
「…立て直しは完了した。君のデータと、この靴の記録が、私の次の立ち位置を示している。」
みずきは、大きなスポーツバッグのジッパーを力強く閉めた。室内の温度は依然として低いままであったが、彼女の身体からは、内側から溢れ出すような熱気が漂っていた。彼女は照を振り返り、部室の鍵を手に取った。
「来年。…三年目は、君の計測が追いつかないほどの領域に行く。私の背中を追いかける準備をしておけ。」
みずきは、照の返答を待たずに部室の扉を開けた。 吹き込んできた北風が、彼女の頬を赤く染める。彼女はトラックの入り口まで歩き、雪の積もり始めた赤い地面を一度だけ強く踏みしめた。その足取りに、もはや秋のような迷いはなかった。
照は、彼女の残した確かな足跡を追い、部室の灯を消した。暗闇の中で、みずきの瞳だけが、冬の星のように鋭く光っていた。反復される覚悟は、冬の停滞を突き破り、最後の一年へと加速を開始した。
都心に位置する私立大学の陸上競技場は、天乃宮学園のそれとは異なる冷徹な機能美に満ちていた。青い色調で統一されたオールウェザートラック。その周囲には高精度のカメラとセンサーが等間隔に配置され、選手の筋肉の動きや接地の角度は即座にデジタルデータへと変換される。朝霧みずきは、大学のロゴが入った新しいウェアを纏い、トラックのスタート地点に立っていた。
彼女の周囲には、学園時代には見ることのなかった体躯を持つ選手たちが並んでいる。空気は春の暖かさを帯びていたが、みずきの吸い込む息は氷のように鋭く、喉の奥を刺した。彼女は自身の右足を、電子計測器が設置されたスターティングブロックに固定した。
「一〇〇メートル、一二秒一二。」
自動音声の機械的なアナウンスが響く。みずきはゴール地点で、自身のスマートフォンに転送された波形データを確認した。そこには、これまでの反復練習で磨き上げてきたはずの「正解」が、周囲のレベルと比較して平坦な数値として表示されている。
「…計算が合わない。」
みずきは自身の首筋に指を当てた。心拍数は一六〇を超え、耳の奥で血液が流れる音が騒音のように響いている。彼女は自身の太腿を、叩くのではなく、確認するように強く握った。
週末の午後、練習が終わった競技場の外縁に、雨野照の姿があった。彼は学園の制服を着崩し、背中には使い古されたスポーツバッグを背負っていた。みずきは彼を認めると、一度だけ深く息を吐き出し、汗を拭わずに歩み寄った。
「三分の遅刻だ。大学のグラウンドは敷地が広い。迷っていたなら、それは君の空間把握能力の欠如だ。」
「…ごめん。駅から少し歩くから。」
照は穏やかに答え、背負っていたバッグを下ろした。彼は中から、一足のスパイクを取り出した。それはみずきが一年生の時に履き潰し、昨年末の「情勢確認」の際にも並べられていた、青い合成皮革のシューズだった。
「何をしに来た。それは、もう過去のデータだ。今の私の走りは、もっと高次の次元に移行している。」
みずきは照から目を逸らし、競技場の高いフェンスを見上げた。照は何も言わず、グラウンド脇のベンチに座った。彼は自身の膝の上にその古いスパイクを置き、内側を覗き込むようにして、指先で中敷きの感触を確かめ始めた。
「…大学の練習はどう?」
「…。一〇〇人以上の部員がいる。私はその中で、上位二〇パーセントの境界線上にいる。学園での記録は、ここでは平均的な数値に過ぎない。センサーは私のフォームに無駄があると言い続けている。筋肉の連動が、機械の示す最適解から零点一ミリずれているのだと。」
みずきは言葉を区切り、自身の拳を握った。
「反復が足りないのではない。反復すべき正解が、ここでは毎日更新される。昨日の私が正しくても、今日のデータがそれを否定する。…私は、自分の身体が自分のものではないような感覚に陥っている。」
彼女の呼気は、春の湿気に溶けることなく、重く沈んだ。照はみずきの告白を聞き終えると、古いスパイクの中から、磨り減った中敷きを取り出した。彼はそれをみずきに差し出す。
「見て。ここ、親指の付け根のところが、一番深く沈んでいるよ。」
みずきは反射的にその中敷きを手に取った。そこには、彼女が何千回、何万回と地面を蹴り続けてきた圧力が、物理的な凹みとなって残っていた。デジタルデータのような線ではない。彼女の体重と、速度と、覚悟が直接刻み込んだ、不格好な痕跡だった。
「…それがどうした。」
「機械が言っているのは、今の君の動きだけだよ。でも、この中敷きには、みずきさんがどうやってここまで来たかが残ってる。…君の足は、この角度で地面を叩くことを、もう身体が覚えているはずだ。」
照は立ち上がり、みずきの足元を見つめた。彼女が今履いている、最新鋭のカーボンプレートが内蔵されたスパイク。それは効率の極致であったが、同時に彼女の「癖」という名の個性を削ぎ落とすものでもあった。
みずきは古い中敷きを握りしめた。合成樹脂のざらついた感触が、掌を通じて、停止しかけていた彼女の思考を激しく揺さぶる。
彼女はベンチに座り込み、最新のスパイクを脱ぎ捨てた。そして、照が持ってきた古いシューズに足を入れる。サイズは変わっていないはずだが、革の馴染み方が異なっていた。踵をトントンと地面に打ち付けると、一年生の頃に感じた、あの硬質な反発が足裏に蘇る。
「…調整が必要だ。」
みずきは立ち上がった。彼女の瞳には、先ほどまでの迷いではなく、自身の内部にある「記録」を再確認しようとする、執拗なまでの意志が宿っていた。
「私の筋肉は、機械の指示で動いているのではない。この三年間、君に計らせてきたあの瞬間のために動いている。」
みずきはスタート地点へ戻った。彼女はスターティングブロックを使わず、トラックの表面に直接指を立てた。照は首から下げた二つのストップウォッチを構える。一つは学園時代からのアナログなもの、もう一つはデジタル。
「…計れ。誤差は許さない。」
みずきは短く命じると、低い姿勢をとった。彼女の背筋が鋼のように緊張し、空気を引き裂くような初動と共に、彼女の身体が前方へと弾け飛んだ。
スパイクのピンがトラックを叩く音は、学園のそれよりも重く、速い。彼女の走りは、大学の推奨する「効率」とは異なっていた。それは、過去のすべての敗北と、すべての反復を乗せた、朝霧みずきだけの泥臭い疾走だった。
ゴールラインを駆け抜けたみずきは、大きく肩を上下させて立ち止まった。心拍数はさらに上昇していたが、先ほどのような不快な音ではない。それは彼女が自身の生命を駆動させている、確かな鼓動だった。
「…どうだ。」
照は手元の数値を確認し、みずきの元へ歩み寄った。
「一二秒〇三。…学園の時より、速くなってる。」
照の言葉に、みずきは初めて、春の柔らかな日差しの中で僅かに口角を上げた。
「…当然だ。私は一分一秒を無駄にせず、君を隣に置いてきたのだから。」
みずきは古いスパイクを脱ぎ、照のバッグへと収めた。彼女は自身の足を、再び最新のスパイクへと通す。今度は、その最新鋭の道具さえも、自身の身体の一部として従えようとする、力強い足の動きがあった。
「次も来い。大学のセンサーよりも、君の指先の方が私の狂いを正確に捉える。…反復練習だ。卒業したところで、終わる理由にはならない。」
みずきは照を振り返らずに、再びトラックを見据えた。大学という新しい戦場において、彼女の走りは境界線を越え、未踏の領域へと加速を開始した。春の風が、二人の間にある時間を、再び激しく動かし始めていた。
全日本大学選手権の会場となる競技場は、逃げ場のない熱気に包まれていた。大学の青いタータンは、太陽の光を吸い込み、アスファルトを焼くような匂いを放っている。朝霧みずきは、最新の着圧ウェアに身を包み、自身の心拍数と血中酸素濃度をリアルタイムで送信するデバイスを二の腕に固定していた。
彼女の周囲には、各大学から選りすぐられたトップアスリートたちが集っている。かつて学園で無敵を誇った彼女も、ここでは「有望な若手」の一人に過ぎない。みずきは自身の太腿の筋肉を指先で弾き、その硬度を確認した。
「一〇〇メートル、予選第四ヒート。準備しろ。」
アナウンスに従い、みずきはレーンに向かう。スタンドの片隅には、学園の夏服を纏った雨野照の姿があった。彼は大学の専門スタッフが並ぶ一角から離れ、独り、自身の目に焼き付けるようにみずきを見つめていた。
レースが開始される。みずきの初速は完璧だった。最新のフォーム解析に基づいた、理想的な重心移動。だが、コーナーを抜けた直後、彼女の身体に微かな「揺らぎ」が生じた。センサーには現れない、肉体という器が発する限界の兆候。照は、彼女が着地の瞬間に右足首を僅かに庇う動作を見逃さなかった。
ゴール板を駆け抜けたみずきの記録は、予選通過ラインを僅かに上回るものだった。だが、彼女の表情に充足感はない。彼女はスタッフの制止を振り切り、サブグラウンドへと向かった。
「…まだだ。出力が足りない。腰の回転角が零点三度不足している。」
みずきはスマートフォンの画面を激しくスクロールさせ、大学のシステムが算出した「改善案」を貪るように読み耽る。彼女は再びスパイクの紐を締め直し、独りで二百メートルのインターバルを開始した。
太陽が真上に位置し、影が足元に収束する。みずきの皮膚は赤く火照り、首筋の血管が千切れんばかりに脈動していた。五本目、八本目。呼吸は既に肺を焼く熱い塊へと変わり、視界の端が白く点滅し始める。
「…あ。」
九本目の直線。みずきの膝が、意志に反して折れた。
世界が回転し、地面が迫る。衝撃を覚悟して目を閉じた瞬間、身体が柔らかな熱に包まれた。
「…っ、みずきさん!」
照が、彼女の胴体を横から抱きかかえていた。二人の身体は勢いのまま、タータンの上を滑る。照の腕の感触、汗ばんだ制服の匂い。大学の電子機器が発する無機質なアラート音が、遠くで鳴り響いている。
みずきは照の腕の中で、激しい動悸に襲われていた。肋骨の裏側で、心臓が爆発しそうなほど暴れている。照は何も言わず、持参した保冷バッグから氷の塊を取り出し、みずきの首筋と脇の下に直接押し当てた。
「冷たい…、やめろ…。」
みずきは掠れた声で拒絶したが、照は力を緩めなかった。氷の鋭い冷気が、熱暴走を起こしていた神経を強制的に鎮めていく。照の指先が、みずきの震える首の筋を、慈しむようになぞった。
「システムは、君の『気力』を計算に入れていないよ。…この熱は、数字じゃ測れない。」
照の言葉が、耳の奥に届く。みずきは自身の左手で照の手首を強く掴んだ。彼の脈拍が、自身の狂ったリズムと同調していく。数分間の沈黙。蝉の声だけが、二人の間に降り注いでいた。
みずきはゆっくりと上半身を起こした。氷の解けた水が、鎖骨を伝って地面に落ちる。彼女の瞳には、先ほどまでの憑りつかれたような焦燥は消え、静かな鋭さが戻っていた。
「…君のやり方は、非効率だ。科学的根拠に欠ける。…古いんだよ、すべてが。」
みずきは照を見上げ、汗を拭わずに言い放った。だが、その指先はまだ照のシャツを離していない。
「でも、その非効率な『反復』が、私の筋肉を一番正しく導く。…これは、データを超えたバグだ。」
みずきは立ち上がり、照が磨き続けてきた古い予備のスパイクに視線を落とした。大学という巨大な組織、完璧な理論。その中にあって、雨野照という個人の存在だけが、彼女を「朝霧みずき」という一人の走者へと繋ぎ止めていた。
「夏は、まだ終わらない。…私の背中を、最後まで計り続けろ。これはバディとしての…いや、君だけに許す義務だ。」
みずきは照の隣を通り過ぎる際、彼の肩に自身の肩を一度だけ強く寄せた。密着した瞬間に伝わる体温。彼女はそのままトラックへと戻り、新たな、しかしどこか懐かしいリズムで、再び走り始めた。
十月の空は高く、薄い雲が刷毛で掃いたように伸びていた。国立競技場のタータンは、秋の柔らかな陽光を浴びて落ち着いた深紅色を呈している。朝霧みずきは、大学のシンボルカラーである濃紺のユニフォームに身を包み、右足のスパイクをトラックに突き立てた。
彼女の脚部は、三年前の春とは比較にならないほど強靭に、そしてしなやかに磨き上げられていた。大腿部の筋肉は皮膚の下で鋭い筋を浮き上がらせ、一歩踏み出すごとに正確なバネとなって地面を弾く。彼女は視線を上げ、数万人で埋め尽くされたスタンドの一角、いつもの場所に座る雨野照を捉えた。
「…位置について。」
アナウンスが響くと同時に、スタジアムが水を打ったように静まり返る。みずきは低い姿勢をとり、自身の心拍を静かに観察した。一分間に五十五拍。完璧な平常心。彼女の身体は、もはや彼女の意志を待たずとも、最適な出力を出すための「完成された機械」へと進化していた。
号砲が鳴る。
みずきの身体は、爆発的な初速で空間を切り裂いた。腕の振り、腰の回転、足裏の接地の角度。そのすべてが、照と共に積み上げてきた数万回の反復データの最適解をなぞっている。風を切り裂く音さえも、規則正しいリズムを刻んでいた。
だが、ゴールまで残り三十メートルの地点で、みずきは自身の内部に奇妙な「停滞」を感じた。これ以上、フォームを崩すことも、加速することもできない。完璧に整えられた「正解」が、彼女自身の肉体を拘束する檻となっていた。
フィニッシュラインを駆け抜けた瞬間、タイマーが止まった。一秒、二秒。電光掲示板に表示されたのは、彼女の自己ベストを零秒〇一上回る数字だった。周囲が歓喜に沸く中、みずきはその数字を無機質な事実として見つめ、一度だけ短く息を吐いた。
試合後の地下通路は、外の熱狂を遮断したコンクリートの冷気に満ちていた。みずきはベンチに座り、自身のスパイクを脱ぎ捨てた。白いソックス越しに、熱を持った足首が微かに震えている。
「…三分の遅刻だ。君の歩幅なら、観客席からここまで二分で行けるはずだが。」
みずきは顔を上げず、近づいてくる足音に向かって言った。雨野照は、学園の制服の襟元を少し緩め、息を切らして立っていた。彼は何も答えず、みずきの足元に跪いた。
照の白い指先が、みずきの足首の皮膚に直接触れる。
その瞬間、みずきの全身の筋肉が、電撃を受けたように激しく収縮した。
「っ…!」
みずきの喉から、抑制された短い声が漏れる。冷徹に管理されていたはずの身体が、照の指先から伝わるわずかな熱量に対し、狂おしいほどの反応を示した。血管が浮き上がり、肌は瞬時に赤らみ、呼吸の周期が劇的に乱れる。大学の最新鋭のセンサーでも捉えきれない、肉体という器が発する本能的な悲鳴。
照の手は、その震えを鎮めるように、より強く彼女の踵を包み込んだ。みずきは自身の左手で照の肩を強く掴んだ。指先が制服の布地を突き破らんばかりに食い込む。
「…完成など、していない。私の身体は、君の手がなければ、まだこれほどに乱れる。」
みずきの声は、湿り気を帯びて震えていた。彼女は照を、獲物を狙う猛禽のような鋭い眼差しで見つめた。数値化された「正解」の中に、唯一残された「バグ」としての他者の存在。その不確実さが、彼女の硬直した完成度を内側から破壊していく。
「もっと、計れ。私の狂いを、ズレを、君のその指先で、一つ残らず記録しろ。…冬の終わりまで、私の隣から一ミリも動くことは許さない。」
みずきは照を強引に引き寄せ、自身の荒い呼吸を彼の首筋に叩きつけた。汗の匂いと、秋の冷気と、二人の混じり合う体温。
彼女は再び立ち上がった。その足取りは、先ほどまでの完璧な安定を失っていたが、代わりに、未知の領域へと踏み出そうとする、野性的な力強さに満ちていた。
「反復だ。…次も、君の手で私の靴を磨け。」
みずきは照を振り返らずに、暗い通路の先、さらに深く凍てつく冬の最終章へと、加速を始めた。
天乃宮学園の正門を囲む石壁は、二月の寒気に晒されて硬く凍りついていた。灰色の空からは、時折結晶にもならない細かな氷の粒が降り注ぎ、アスファルトの表面を白く粉飾している。朝霧みずきは、大学のロゴが入った厚手のロングコートの襟を立て、門柱の影で自身の端末を操作していた。
端末の空間投影画面には、三年間――十二の季節にわたって蓄積された、膨大な走行データが青い輝きを放っている。一〇〇メートル、一二秒一二から始まったその線は、緩やかな下降と鋭い上昇を繰り返し、最新の記録である一一秒八九の地点で静止していた。みずきはその数値を指先でなぞり、自身の筋肉の収縮率と心拍数の相関図を確認する。これは、彼女が雨野照という個体と共に積み上げてきた、物理的な「生」の履歴であった。
「三年間の、情勢を確認する。」
みずきは誰に聞かせるでもなく、白く濁る息と共に呟いた。 彼女の視線の先、卒業式を終えた生徒たちが、色とりどりの花束を抱えて校舎から出てくる。その中に、学園の制服を最後に纏った雨野照の姿があった。彼は周囲の喧騒から浮き上がったような、静かな足取りでみずきの方へと歩み寄る。
「…待たせた。三分の遅刻だ。君の歩幅なら、講堂からここまで一分四十秒で到達可能なはずだが。」
みずきは端末を閉じ、照を正面から射抜くように見つめた。照は微かに肩を揺らし、自身の首にかけられた卒業証書の筒を握り直した。
「…ごめん。先生に、少しだけ呼び止められて。」
「言い訳は不要だ。…照。本日、君は学園を去り、私のバディとしての契約も、システム上は完全に消失する。大学のデータベースからも、君の名前は削除された。」
みずきは一歩、照に近づいた。二人の距離が、冷たい風の通り道を塞ぐほどに縮まる。みずきの心拍数が、コートの下で一分間に九十拍まで上昇した。血管が収縮し、指先が微かに痺れる。
「だが、データの整合性を取った結果、一つの結論に達した。私の速度を維持するためには、君という観測者が不可欠だ。これは感情論ではなく、私の肉体が示した統計的な事実だ。」
みずきは照の腕を掴み、そのまま無人の陸上トラックへと歩き出した。 タータンは雪に覆われ、赤い色彩が白く塗り潰されている。みずきはコートを脱ぎ捨て、レーシングタイツ姿になった。外気に触れた皮膚が瞬時に粟立ち、筋肉が寒冷による防衛反応で硬直する。
「最後の一本を計れ。…学園の生徒としてではない。私の、私的な観測者としてだ。」
みずきはスタート地点に立ち、凍った地面に指を立てた。指先から熱が奪われ、代わりに硬質な感覚が神経を伝わって脳に届く。照は何も言わず、三年間使い続けてきた傷だらけのストップウォッチを構えた。
ホイッスルの音。 みずきの身体が、冬の空気を切り裂いて前方へと弾け飛んだ。 雪を蹴り上げるたび、氷の飛沫が視界を遮る。肺の奥に冷気が入り込み、喉が焼けるような痛みを訴える。だが、彼女の足の運びには一点の迷いもなかった。 十二の季節。泥を落とした春。熱に浮かされた夏。敗北を磨いた秋。情勢を正した冬。 それら全ての反復が、今、彼女の背中を押し出す強力な推力となっていた。
ゴールラインを通過した瞬間、みずきは勢い余って照の腕の中に飛び込んだ。 激しい衝突音。 二人の身体は、雪の積もったタータンの上を滑り、フィールドの端で停止した。
「…っ、…。」
みずきは照の胸板に顔を埋めたまま、荒い呼吸を繰り返した。心拍数は一八〇を突破し、肋骨が折れそうなほど激しく脈動している。照の体温が、冷え切った彼女の頬に直接伝わり、皮膚の境界線を曖昧にしていく。
みずきは、震える手で照の制服の襟を掴んだ。 彼女は顔を上げ、至近距離にある照の瞳を見据えた。視界が自身の呼気で白く霞む。
「…照。…これは、練習だ。…世界で最も困難な、一度きりの反復練習だ。」
みずきの喉の筋肉が、限界まで緊張した。言葉が声帯を通るたび、全身の神経が火花を散らす。
「…私の、隣にいろ。…これは命令でも、契約でもない。…私の、意志だ。…君が、好きだ。」
みずきは一気に言い切ると、その顔を激しく紅潮させて照の肩に額を押し当てた。 三年にわたる全ての走行、全ての計測、全ての摩擦。 それら全てが、この最後の一句を出力するための長い助走であったことを、彼女は自身の筋肉の弛緩を通じて理解した。
照の腕が、ゆっくりとみずきの背中に回される。 冬の静寂の中、遠くで聞こえる卒業生たちの歓声が、まるで他国の出来事のように遠のいていった。 二人の間に流れるのは、もはや計測不能な、熱い残響だけだった。
「…返答は、保留を許可しない。…今、ここで計れ。…私の、これからを。」
みずきはそう呟き、照の温もりに身を任せた。 北風が雪を舞い上げ、二人の足跡をゆっくりと覆い隠していく。 三年前、あの赤いトラックから始まった反復練習は、今、一つの完成へと到達し、新たな季節への号砲を鳴らした。
正面から、朝霧みずきが歩み寄ってきた。彼女のポニーテールは激しい運動によって乱れ、数本の髪が汗で額に張り付いている。首筋から鎖骨の窪みにかけて、細かな汗の粒が陽光を反射して輝いていた。彼女は照の数歩手前で足を止め、自身の足元を見つめた。
「持て。」
みずきは腰を屈め、履き替えたばかりのスパイクを脱ぐと、それを照の胸元へ突き出した。照が反射的にそれを受け取ると、スパイクの底に残った体温と、土が乾いた特有のざらつきが掌に広がる。みずきは照の顔を、値踏みするように下から睨みつけた。
「随分と整った面だな。ここはモデルの撮影現場じゃない。そんな軟弱な指先で私の靴に触れるなら、相応の覚悟を持て。私のタイムを一ミリ秒も逃すな。」
照は言葉を返さず、スパイクの紐を整えて傍らのバッグに収めた。みずきは鼻で短く笑うと、背を向けてスタート地点へと歩き出した。彼女の歩幅は大きく、太腿の筋肉が動くたびに皮膚の下で硬質な隆起を見せる。
みずきはスタートブロックに足をかけ、静止した。トラックの赤い地面に彼女の影が長く伸びる。照はストップウォッチを構えた。彼女の背筋が鋼のように緊張し、号砲の代わりに響いたホイッスルの音と共に、彼女の身体が前方へと弾け飛んだ。
スパイクのピンがタータンを突き刺し、引き剥がす音が連続して鼓膜を叩く。みずきの腕は鋭く振られ、その指先は空気を切り裂くような軌道を描いていた。彼女の表情は苦悶に近く歪み、歯列が白く剥き出しになる。ゴールを駆け抜けた瞬間、彼女の身体は惰性で数メートル進み、大きく肩を上下させて立ち止まった。
照は手元の液晶を確認し、彼女の元へ歩み寄った。
「十秒、九八。」
「遅い。」
みずきは吐き捨てるように言い、すぐに反転してスタート地点へ戻る。彼女の呼気は熱を帯び、通過するたびにその余熱が照の肌を掠めた。
五本目、十本目と、走行は繰り返された。みずきのタイムは、十秒台後半から一向に縮まらない。彼女の着地音は次第に乱れ、足首の筋肉が疲労によって微かに震えているのが見て取れた。十一本目のゴール後、彼女はタイムを聞く前に、手近なハードルを蹴り飛ばした。金属がアスファルトの上を滑り、不快な高音を響かせる。
「計測のタイミングがおかしいんじゃないのか。もう一度だ、次も計れ。計り続けろ。私が納得するまでだ。」
みずきは照に詰め寄り、彼の胸ぐらを掴み上げた。彼女の指先からは汗の湿り気が伝わり、至近距離で合うその瞳は、充血して鋭い光を放っている。照の心拍が僅かに早まり、喉の奥で唾液を飲み込む音がした。みずきの視線は、照の動揺を許さないほどに執拗だった。
「黙ってないで何か言え。…その目、私を憐れんでいるのか。」
「靴が、汚れてる。」
照の口から出たのは、感情のない事実のみだった。みずきは目を見開き、力を込めて照を突き飛ばした。
「そんなことはどうでもいい。速く走れれば、泥などいくらついても構わない。」
みずきは吐き捨て、地面に座り込んで自身の予備のシューズを引き寄せた。しかし、その手は疲労で震え、靴紐を解くことさえ覚束ない。
照は地面に膝をつき、彼女の足元に手を伸ばした。彼は自身の鞄から、手入れ用のブラシと柔らかな布を取り出した。みずきが拒絶の声を上げる前に、照は彼女が脱ぎ捨てたスパイクを手に取り、その側面を覆う茶褐色の泥を丁寧に掻き出し始めた。
ブラシの毛先が革の細かなシボに入り込み、固まった土を剥がしていく。照の動きには一切の迷いがなく、ただ対象物を元の状態に戻すという目的のみに従っていた。みずきは、自身の足首を掴まれたような錯覚に陥り、言葉を飲み込んでその作業を注視した。
泥が落ちると、その下から黒い合成皮革の鋭い光沢が現れる。照は布に専用のクリームを少量取り、円を描くように表面を磨き上げた。夕陽の光が、磨かれた靴の曲線に沿って滑るように反射する。数分間の沈黙の中、聞こえるのはブラシの音と、みずきの次第に落ち着いていく呼吸の音だけだった。
「終わったよ。」
照は磨き終えたスパイクを、みずきの前に揃えて置いた。そこには、先ほどまで彼女が投げ打っていた「敗北の象徴」としての汚れた履物はなく、ただ研ぎ澄まされた競技道具としての姿があった。
みずきは震える指先でその靴に触れた。皮革は滑らかで、泥のざらつきは完全に消失している。彼女は照を一度だけ見上げ、それから何も言わずに靴を履き直した。踵を鳴らして立ち上がると、新調したばかりのような硬い感触が、彼女の足裏を刺激した。
「…反復練習だ。一度綺麗にしたところで、次の走行でまた汚れる。意味のないことだ。」
彼女の声には、先ほどのような剥き出しの敵意はなかった。代わりに、逃れられない事実を噛み締めるような、低い重みがあった。みずきは再びスタートラインへと歩き出した。
「次も計れ。靴を磨くのが君の役割なら、磨かざるを得ないほど何度も走ってやる。」
彼女は再び低い姿勢をとり、赤いトラックを見据えた。その瞳には、敗北を拒絶し、何度でも同じ動作を繰り返すという、強固な意志が宿っていた。照は再びストップウォッチを構え、彼女が地を蹴るその瞬間を待った。春の終わりの風が、二人の間を通り抜けていった。
天乃宮学園の広大な敷地を、暴力的なまでの陽光が支配していた。蝉の声は厚みを持ったノイズとなって大気を震わせ、風は熱を帯びて肌をなでる。陸上トラックの赤い表面は、熱を吸収して逃がさないヒートアイランドと化していた。朝霧みずきは、その過酷な環境を検証するように、一人でスタートラインに立っていた。
彼女のランニングシャツは汗で肌に張り付き、肩が上下するたびに布地が不規則な紋様を描く。雨野照は、日陰のないフィールドの端で、設定されたタイムのリストとストップウォッチを握りしめていた。彼の指先は、絶え間なく流れる汗を拭う余裕もなく、ただみずきの動きを追っている。
「二百メートル、入りは二十八秒以内。」
みずきが短く、枯れた声で命じた。照は無言で頷き、計測の準備を整える。みずきは返答を待たず、弾かれたように地面を蹴った。スパイクのピンが焼けた地面を削る音が、乾いた音を立てて響く。
彼女の走りは、春の頃よりも鋭さを増していた。しかし、その動きには余裕がない。コーナーを曲がる際の身体の傾きが、遠心力に抗う以上に不安定に揺れている。照の目には、彼女の脚部の筋肉が痙攣し、皮膚が赤く火照っているのが見て取れた。ゴールラインを通過した瞬間、照はボタンを押した。
「二十七秒、五。」
みずきは足を止めず、歩きながら呼吸を整える。彼女の顔からは血の気が引き、代わりに異様な紅潮が頬に張り付いている。照はクーラーボックスから冷えたペットボトルを取り出し、結露を拭わずに彼女の前に差し出した。
「飲んだほうがいい。心拍数が下がっていないし、呼吸も浅すぎる。」
みずきは立ち止まり、照の手元を鋭く睨みつけた。彼女の手は、自身の腰に置かれたまま、微動だにしない。
「いらないと言ったはずだ。水分を摂れば身体が重くなる。私の調整を邪魔するな。」
「でも、この気温では――。」
「黙れ!」
みずきは照の手を強く叩き落とした。ペットボトルが地面に転がり、乾いた砂を巻き上げる。中身が揺れる音が、蝉の声に一瞬だけ混じった。みずきは自身の腕に浮いた汗を乱暴に拭い、再びスタート地点へと歩き始める。彼女の足取りは、砂の上を滑るように頼りなかった。
休憩時間は三呼吸ほどで終わった。みずきは再びクラウチングの姿勢をとる。彼女の後頭部から首筋にかけて、血管が浮き上がり、激しく脈動している。照は言葉を飲み込み、再びストップウォッチを構えた。
ホイッスルが鳴る。みずきは一歩目で激しく地面を叩いたが、その反発力を受け止めきれず、右足が僅かに外側へ逃げた。彼女はそれを無理やり修正し、強引に加速していく。直線に入り、最高速に達しようとした瞬間、彼女の膝がガクンと折れた。
視界が激しく上下し、空と地面が入れ替わる。みずきの眼前で、赤いタータンが急速に迫ってきた。重力に従い、身体が前方へと投げ出される。
衝撃が来るはずの瞬間、みずきの身体は宙で止まった。
照が横から飛び込むようにして、彼女の胴体を抱え込んでいた。二人の身体は勢いのままトラックの上を滑り、砂煙を上げて停止した。
「…っ。」
みずきの背中に、照の腕の感触が食い込む。彼女の耳元で、自分のものではない激しい呼吸音が聞こえた。照の身体もまた、猛暑の中で極限まで熱を帯びていた。抱きしめられるような形になり、二人の肌が密着する。汗の匂いと、日焼け止めの香りが混じり合い、熱気が皮膚の境界を曖昧にする。
照の指先が、みずきの脇腹の筋肉を強く掴んでいた。みずきはその感触に、全身の毛穴が収縮するような感覚を覚えた。彼女の心臓は、走っている時以上に激しく、不規則なリズムで肋骨を叩いている。
「離せ…。」
みずきは力なく呟いた。言葉とは裏腹に、彼女の指先は照のシャツの肩口を、逃さないように強く握りしめていた。照の瞳が、至近距離でみずきを捉える。その瞳には、彼女を批判する色はなく、ただ生存を確認しようとする純粋な光が宿っていた。
数秒の間、世界から蝉の声が消えた。
みずきは、自分の身体が自分だけの意志で動いているのではないことを、その熱量を通じて理解した。自身の無謀さと、それを繋ぎ止める他者の存在。彼女はその事実に、暴力的なまでの敗北感を、あるいはそれ以上の何かを突きつけられた。
みずきは照の腕を、震える力でゆっくりと押し返した。照は抵抗せず、支えを維持したまま彼女を座らせる。
「…練習を続ける。」
「今日はもう無理だ。」
「うるさい。…計れ。まだ、私の足は動く。」
みずきは照の顔を見ないまま、砂のついた膝を叩いた。彼女の言葉は強気だったが、その声は微かに震え、視線は地面の一点に固定されていた。彼女は照が拾い上げたペットボトルを受け取り、一口だけ口に含む。冷たさが喉を通り、内側から身体を冷やしていく過程を、彼女は黙って享受した。
みずきはふらつきながらも立ち上がり、再びトラックを見据えた。彼女の背中は、夏の陽光を背負って黒い影を長く伸ばしていた。照は砂を払い、ストップウォッチのボタンをリセットする。再び、終わりのない反復が始まろうとしていた。春よりも深く、重い熱を帯びたまま。
天乃宮学園の陸上競技場は、乾いた秋風にさらされていた。電光掲示板のデジタル文字が、無慈悲に順位を確定させていく。二位。一位との差は、わずか零秒一二だった。朝霧みずきはトラックの上に立ち尽くし、自身の脚を見つめていた。皮膚は冷気にさらされて白く、浮き出た血管が激しく脈打っている。
彼女の視線の先で、優勝した他校の選手が歓声に包まれていた。みずきはその光景から逃れるように、踵を返して地下の部室へと向かった。階段を下りるたび、スパイクのピンがコンクリートを叩く音が、空虚に反響する。
部室の空気は淀み、窓から差し込む夕光が埃を白く浮き上がらせていた。みずきは椅子に座ることなく、履いていた競技用靴を乱暴に脱ぎ捨てた。
「…っ。」
短い呼気と共に、片方の靴が壁を叩いた。乾いた衝突音が響き、衝撃で外れたスパイクのピンが、床の上をカチカチと乾いた音を立てて転がる。みずきは自身の両手で顔を覆い、そのまま壁に背を預けて床へ滑り落ちた。指の隙間から、荒い呼吸が漏れる。
扉が静かに開いた。雨野照が、バディの任務を果たすべく室内に入ってくる。彼は壁際で項垂れるみずきの姿を認めると、一度だけ足を止め、それから何も言わずに歩み寄った。照はみずきの前に膝をつくのではなく、まず床に転がったピンを一つずつ拾い上げた。
照は自身の鞄から、小さな工具箱と柔らかな布を取り出した。彼はみずきが投げつけた靴を拾い、その表面についた汚れを布で拭い去る。それから、専用のレンチを手に取り、残っていた古いピンを回転させて取り外していった。
金属同士が擦れる、高い音が室内に響く。みずきは覆っていた手を少しだけずらし、照の指先を見つめた。照の指は白く、力みがない。彼は摩耗して平らになったピンを横に除け、工具箱から新品のピンを取り出した。銀色の輝きが、夕闇に沈みかけた部室で微かな光を放つ。
「何をしている。」
みずきの声は掠れていた。照は顔を上げず、新しいピンを靴の底に差し込み、一定のトルクで締め付けていく。
「磨り減っているから。これでは、次の蹴り出しで滑る。」
「次なんて…。」
みずきは言葉を飲み込んだ。照は、彼女が今しがた味わった敗北については一切触れなかった。ただ、道具の不備という事実のみを修正していく。ピンを固定するたび、カチリ、という硬質な音が、彼女の耳の奥に届く。
照は、もう片方の靴も同様に処置した。新品のピンが整然と並んだ靴底は、再び鋭い殺気を取り戻していた。照はそれを、みずきの足元に揃えて置く。
「終わったよ。」
照は立ち上がり、布で自身の指先を拭った。みずきは、手入れされた靴と、照の静かな瞳を交互に見つめた。彼女の喉の筋肉が、何らかの感情を飲み込むように大きく動く。
みずきは、泣く代わりに自身の拳を強く握りしめた。爪が掌にくい込み、微かな痛みを与える。彼女は重い腰を上げ、照の隣に座った。二人の肩が触れ合うことはないが、至近距離にある照の体温が、秋の冷気に冷え切った彼女の肌に伝わってくる。
みずきは靴を手に取り、新しいピンの鋭さを指先で確かめた。
「…次は、外さない。」
彼女の言葉は、誰に向けたものでもない独り言のように響いた。照は返答せず、ただ静かに頷いた。窓の外では、秋の日は既に沈み、競技場を深い藍色が包み込み始めていた。二人の間に流れる沈黙は、春の拒絶でも夏の混乱でもない、次の走行に向けた確かな停滞だった。
天乃宮学園の校庭を包む空気は、吸い込むたびに肺の奥を刺すような鋭い冷気を帯びていた。陸上トラックの赤い表面には、薄く張った氷の膜が冬の斜光を反射し、無機質な銀色の光を放っている。活動を休止した部室棟の廊下には、雨野照の靴底がコンクリートを叩く音だけが硬く反響していた。
照が指定された部室の扉を開くと、そこには暖房もつけず、ベンチに腰を下ろした朝霧みずきの姿があった。彼女はジャージの上に厚手のベンチコートを羽織り、膝の上に一足のスパイクを置いていた。床には、春から秋にかけて彼女が履き潰してきた、色の異なる十二足のシューズが、一点の狂いもなく並べられている。
「遅い。三分の遅刻だ。冬の空気は伝導率が高い。その分、静止している時間は筋肉を硬直させる。」
みずきは顔を上げず、指先でスパイクの底、母指球のあたりに刻まれた微かな溝をなぞった。その指先は寒さで赤らんでいるが、動きに迷いはない。照は無言で彼女の隣に歩み寄り、自動販売機で購入したばかりの温かい缶コーヒーを、彼女の項に近い首筋にそっと触れさせた。
「…っ。」
みずきの肩が大きく跳ね、筋肉が瞬時に緊張する。彼女は鋭い視線で照を射抜いたが、差し出された缶の熱を感じると、奪い取るようにしてそれを両手で包み込んだ。金属の熱が彼女の指先に伝わり、強張っていた表情が僅かに解ける。
「情勢を確認する。この一年、私は君というバディを得て、数千回の計測と、数百回の靴の手入れを繰り返させてきた。ここに並んでいるのは、その全ての蓄積だ。春、夏の合宿、秋の新人戦。全ての走行データを、私はこの靴の減り方から逆算した。」
みずきは一番左にある、春に使用していた青いシューズを指差した。
「これは四月の私の未熟さだ。外側に重心が逃げている。君への反発心が、そのまま足首の捻転となって現れていた。そして、この夏の黒い一足。これは熱による膨張と、君に支えられた時の動揺が、不必要なストライドの伸びを生んでいる。…理解できるか。私の身体は、私の意志以上に、君という変数を正確に記録しているということだ。」
みずきの言葉には、感情の揺らぎを排そうとする執拗なまでの客観性があった。彼女は自身の敗北や動揺を、単なる「物理的なエラー」として分類し、整理していた。それは彼女なりの、崩れかけた自尊心を立て直すための防衛本能でもあった。
照は彼女の隣に腰を下ろし、床に並んだ靴の一足一足を丁寧に見つめた。手入れを担当してきた彼には、どの傷がどの日の練習でついたものか、その手触りを通じて記憶に残っている。
「みずきさんの歩き方は、少しずつ変わっているよ。今はもう、外側には逃げていない。」
照の言葉に、みずきは缶コーヒーを握る力を強めた。カチリ、と小さな音が鳴り、アルミの容器が微かに歪む。
「…静寂が怖い。オフシーズンのこの静けさは、筋肉の記憶を薄れさせる。走っていない時の私は、自分が何者であるかを定義する手段を持たない。君は、走っていない私を見ても、それを『朝霧みずき』だと認識できるのか。記録も、速度も、スパイクの音もない私を。」
みずきの問いは、冬の乾いた空気に溶けていく。彼女の視線は、自身の膝の上にある最新のモデルに注がれていた。それはまだ一度も土に汚れていない、白く清らかな靴だった。彼女の瞳の中には、未知の季節に対する不安と、それを打ち消そうとする強固な拒絶が混在している。
照は何も答えず、鞄から柔らかなクロスを取り出した。彼はみずきが膝に乗せていた新しい靴を手に取ると、まだ汚れていないその表面を、儀式のようにゆっくりと拭き始めた。皮革の摩擦音が、静まり返った部室に規則正しく響く。
「…何をしている。それはまだ、汚れていない。」
「予行演習だよ。汚れる前に、一度磨いておけば、次についた泥は落ちやすくなるから。」
照の指先が、みずきの指の隙間を縫うようにして靴を支える。その瞬間、みずきの心拍数が跳ね上がり、ベンチコート越しに肺が大きく膨らむのが見えた。彼女の呼吸は白く濁り、至近距離にある照の頬を掠めていく。
「…詭弁だ。だが、その非論理的な行動が、私の計算を狂わせる。一年間、私は君というノイズを排除しようと試みてきたが、結果として、そのノイズがなければ私のフォームは完成しないという結論に達した。不本意だが、これは確定したデータだ。」
みずきは缶コーヒーを飲み干すと、空の容器をベンチに置いた。彼女は立ち上がり、並べられた十二足の靴を、大きなスポーツバッグへと次々に収めていく。その動作は迅速で、迷いがない。一足収めるごとに、彼女の背筋はアスリートとしての鋭さを取り戻していった。
「立て直しの時間は終わりだ。二年生になれば、速度の次元が変わる。君のストップウォッチの精度を上げておけ。私の背後から目を離すな。」
みずきはバッグのジッパーを力強く閉めると、それを肩に担いだ。彼女の瞳には、冬の停滞を突き破るような激しい光が宿っていた。彼女は一度も後ろを振り返ることなく、部室の扉を開け放った。
吹き込んできた北風が、彼女の短い髪を激しく揺らす。みずきは白く長い息を吐き出し、凍てつくトラックへと一歩を踏み出した。その足音は、春よりも、夏よりも、秋よりも、遥かに重く、確かな覚悟を持って冬の地面を叩いていた。照はその後ろ姿を追い、冷え切った廊下へと駆け出した。二人の一足ごとに、新しい季節の鼓動が、静寂の中に刻まれていった。
天乃宮学園の校門を彩る桜は既に散り始め、薄紅色の花弁が陸上トラックの赤いタータンの上に不規則な模様を描いていた。二年生へと進級した朝霧みずきの走りは、一年時よりも鋭角的な力強さを増している。彼女のスパイクが地を蹴るたび、花弁は風に舞い上げられ、彼女の背後へと置き去りにされた。
「…十一秒、二。」
雨野照が告げる数字に、みずきは満足げな表情を見せることはなかった。彼女は荒い呼吸を整えながら、トラックの隅で立ち尽くす新入生たちへ鋭い視線を向けた。
「そこ。足首の返しが遅い。地面に吸い付いているつもりか。靴底の摩擦を熱に変えるだけの無駄な動きだ。次、十本追加。」
新入生の一人が、肩を震わせて俯いた。その場の空気が急速に凍りつき、蝉の声さえまだ聞こえない春の静寂が、重低音のように響く。みずきの言葉には一切の装飾がなく、ただ事実としての「遅さ」のみを指摘していた。
照は手元のバインダーに記録を書き込みながら、みずきの横顔を見た。彼女の顎のラインは緊張で鋭くなり、首筋の血管が激しく脈打っている。彼女自身、この「先輩」という新しい役割に、全身の筋肉を強張らせて適応しようとしているのが見て取れた。
「みずきさん、少し休憩を挟んだ方がいい。みんな、リズムが崩れてる。」
「リズムを合わせるのは私ではなく、彼女たちの役目だ。私に追いつけない速度に、価値はない。」
みずきは吐き捨てると、再びスタート地点へと歩き出した。彼女の背中は、後輩たちの誰とも視線を交わすことを拒絶しているように見えた。
練習が終盤に差し掛かる頃、一人の後輩がトラックの脇で膝をつき、嗚咽を漏らし始めた。過酷なメニューと、みずきの容赦ない言葉に心が折れたのだ。他の部員たちも遠巻きに見守るだけで、誰も声をかけることができない。みずきはその様子を十メートルほど離れた場所から、岩のように動かずに見つめていた。
彼女の指先が、ジャージの裾を強く握りしめる。何かを言おうとして唇を戦慄かせるが、喉の奥が狭まったように音が出ない。彼女の瞳には、かつて自分が味わった敗北の記憶と、それを克服するための「正論」が渦巻いていた。だが、今の彼女には、それを優しさに変換する回路が備わっていなかった。
「…これ、みずきさんが書いていたやつだよ。」
照が、後輩の前に静かに膝をついた。彼の手には、一冊の古いノートが開かれていた。そこには、みずきの独特の鋭い筆跡で、部員一人一人の走りの特徴、筋力の弱点、そして彼女たちが気付いていないであろう「伸び代」が、執拗なまでの観察眼で記録されていた。
「朝霧先輩は、君の右足の着地が少し外側に逃げているのをずっと気にしていたんだ。それを直せば、あと零秒三は縮まるって。このメニューも、君の足首を強化するために組んだものなんだよ。」
後輩は涙を拭い、ノートに記された詳細な分析に見入った。そこにあるのは、冷徹な批判ではなく、並走者としての誠実な眼差しだった。
みずきは、自分の秘め事が暴かれたことに、全身を焼かれるような熱さを感じた。彼女は照の元へ駆け寄り、ノートを力任せに奪い取った。
「勝手に見せるな! それは、ただの…データの断片だ。何の意味もない!」
みずきの顔は紅潮し、激しい心拍がベンチコートを突き破らんばかりに肋骨を叩いていた。彼女は照を鋭く睨みつけ、呼吸を荒げる。照は逃げずに、彼女の混乱を受け止めるように静かに立ち上がった。
「意味はあるよ。伝わらなければ、それはただの数字で終わってしまうから。」
「黙れ。君の余計な世話には、一円の価値もない。…お節介だ。不快極悪だ。」
みずきは早口で罵倒を並べ立てたが、その声には先ほどまでの冷徹な響きはなかった。彼女はノートをバッグに押し込むと、まだ地面に座り込んでいる後輩の元へ歩み寄った。
後輩は怯えたように身体を縮めたが、みずきはその肩を一瞬だけ、掌の熱が伝わるほど強く叩いた。
「次は、私を追い越せ。それまでは…その程度の涙で足を止めることは許さない。」
みずきはそれだけを言い残すと、逃げるように部室へと走り去った。照はその後ろ姿を追い、タータンの上に残された彼女の確かな足跡を、一歩ずつ踏みしめるようにして歩いた。
夕闇が迫る中、部室の窓から漏れる光が、彼女の磨き上げられたスパイクを白く照らしていた。不器用な正しさが、春の風に乗って、ようやく誰かの心に届き始めていた。
天乃宮学園の名称が刻まれた電光掲示板が、真夏の強烈な陽光を反射して白く飛んでいる。競技場を包む空気はアスファルトの熱を吸い込み、肺に送り込むたびに喉を焼くような錯覚を与えた。朝霧みずきは、テントの影で自身の太腿を叩き、筋肉の柔軟性を確認していた。
雨野照は、彼女の傍らで数枚の記録用紙をクリップボードに挟み、ペンを走らせていた。彼の首からは、一年時よりも使い込まれたストップウォッチが二つ下げられている。照は時計を確認すると、みずきの足元に視線を落とした。
「三十分前。アミノ酸の摂取から計算して、今はピークのはずだよ。体温の上昇も規定値内。…このバナナ、食べて。」
照が差し出した剥きかけの果実を、みずきは奪い取るようにして口に運んだ。
「分かっている。君に言われるまでもない。」
みずきは咀嚼しながら、照の横顔を盗み見た。照は、隣のレーンで準備をしていた他校の選手に道を譲り、短く会釈をして微笑んだ。その、誰に対しても等しく向けられる柔和な表情が、みずきの胸の奥を不快に波立たせる。彼女は最後の一口を飲み込み、空になった皮を照の手に押し付けた。
「…目障りだ。あっちへ行っていろ。君がそこにいると、空気の密度が変わって走りにくい。」
「でも、直前のマッサージがまだだよ。」
「いらないと言っている。私は一人で集中したい。」
みずきは照を突き放すように背を向け、トラックへと続く通路を睨みつけた。だが、照の気配は消えなかった。彼がペットボトルのキャップを開ける音、記録用紙をめくる音、そして一定のリズムを刻む呼吸の音が、競技場の騒音を突き抜けて彼女の鼓膜に届く。みずきは自身の心拍数が、アップの強度以上に跳ね上がっていることを自覚した。
招集のアナウンスが流れ、みずきはスターティングブロックを抱えてレーンに立った。足元を固定し、一度だけ跳躍する。その際、右足のスパイクに違和感を覚えた。紐の結び目が、激しい動作によって僅かに緩んでいる。
みずきは腰を下ろし、紐を解こうとした。しかし、指先が不自然に震え、複雑に絡まった結び目に爪が立たない。焦燥が筋肉を硬直させ、呼吸が浅くなる。
「…貸して。」
前方から影が落ち、照が地面に両膝をついた。彼はみずきの拒絶を待つことなく、その右足を自身の腿の上に乗せた。照の白い指先が、汗と泥に汚れたスパイクの紐に迷いなく触れる。
「動かないで。角度が変わる。」
照は低く落ち着いた声で言い、紐を一度完全に解いた。彼の指先が、みずきの足首の骨の隆起をなぞるようにして紐を通し直す。皮膚と皮革が擦れる微かな振動が、神経を通じて脳に直接突き刺さった。みずきは息を止め、自身の膝を強く押さえた。照の項から漂う、清潔な石鹸の匂いと日焼け止めの香りが、熱帯の空気の中で異質なほど鮮明に主張してくる。
「…終わったよ。これで、逃げない。」
照は紐を力強く引き絞り、二重に結び目を作った。彼は立ち上がり、みずきの目を見据えて短く頷いた。みずきは何も言えず、ただ喉の奥を鳴らして視線を逸らした。
ホイッスルが鳴り響く。みずきの身体は、自身の思考を置き去りにして前方へと弾け飛んだ。足元は完璧に固定され、一歩ごとに地面からの反発を余すことなく推進力へと変換していく。隣のレーンの影、風の抵抗、観客の声――そのすべてを加速の燃料に変え、彼女はトップでゴールラインを駆け抜けた。
掲示板に、自己ベストを更新する数字と、予選通過を意味する「Q」の文字が点灯する。周囲の部員たちが歓声を上げ、彼女の元へ駆け寄ろうとする。だが、みずきはその輪が形成される前に、自身のスパイクを手に持ち、裸足のままスタンド裏の資材置き場へと逃げ込んだ。
「みずきさん!」
追ってきたのは、照だけだった。彼は息を切らし、彼女の前に立ち止まった。
「おめでとう。完璧な加速だった。…計算通りだよ。」
照が笑顔を見せる。みずきはその笑顔の理由を、統計やデータという言葉で理解しようとしたが、脳がそれを拒絶した。彼女の胸の内側に、言葉にできない熱い塊がせり上がってくる。
みずきは照の腕を掴み、その手を力任せに引き寄せた。彼女は自身の右手を、照の掌に重ね、骨が軋むほどの力で一度だけ握りしめた。
「…黙れ。」
みずきの口から漏れたのは、鋭い呼気と、短い拒絶だった。だが、彼女の手は照の温もりを離そうとはせず、数秒の間、汗と熱を共有し続けた。
みずきは手を離すと、一度も振り返らずに更衣室へと歩き出した。照の手に残された熱は、夏の終わりの予感と共に、彼女の背中を長く追い続けていた。二人の間に流れる距離は、加速する速度に比例して、その天乃宮学園の競技場を、乾いた秋風が吹き抜けていた。空気は澄み渡り、遠くの校舎の輪郭が鋭利に切り取られている。朝霧みずきは、スタートラインで自身の右足の位置を数ミリ単位で調整していた。彼女の太腿の筋肉は、冷気にさらされて硬く引き締まり、皮膚には微かな鳥肌が立っている。
ホイッスルが鳴り、彼女は地を蹴った。以前よりも歩幅を広げ、滞空時間を伸ばす新フォーム。だが、空中での重心が定まらない。着地のたびに、スパイクのピンがタータンを捉える感触が、脳内のイメージと僅かに、しかし致命的に食い違っていた。
「…十一秒、五。」
ゴール地点で待機していた雨野照の声が、秋の静寂に冷たく響いた。みずきは足を止め、自身の膝を激しく叩いた。呼吸は浅く、喉の奥が乾いた鉄のような味を帯びる。
「もう一度だ。計り直せ。今の数値は異常だ。」
「みずきさん、左足の着地が三センチ外側に流れている。ストライドを伸ばそうとして、腰の回転が追いついていないんだよ。」
照がタブレットを差し出す。そこには、彼女の走行を多角的に分析したグラフが表示されていた。みずきはその画面を、払いのけるようにして一瞥した。
「データが間違っている。私の感覚では、今の着地は完璧だった。君の計測タイミングがずれているだけだ。」
みずきは照の目を見ようとはせず、乱暴に背を向けた。一年目のような怒号ではない。拒絶の意志を込めた、静かで重い拒絶だった。彼女はそのまま独りでスタート地点へ戻り、照が追ってくることを許さない速度で、再び疾走を開始した。
それから数日間、みずきは照を練習から排除した。放課後の部活動が終わった後、彼女は誰もいなくなったトラックに現れ、夜霧の中で独り、足を動かし続けた。街灯の光が届かないコーナーで、彼女は自身の足音だけを頼りに、闇を切り裂こうとしていた。
深夜、視界が白く濁り始めた頃。みずきの右足が、着地の瞬間に僅かな段差を捉えたかのように内側へ折れた。
「あ――。」
短い悲鳴と共に、彼女の身体が前方へと投げ出された。タータンの硬い感触が、肩と頬を激しく叩く。激しい衝撃が全身を駆け抜け、遅れて右足首に焼けるような熱痛が走った。みずきは仰向けになり、夜空を見上げた。冷たい湿気が、汗ばんだ首筋を容赦なく冷やしていく。
足音が近づいてきた。一定のリズムを刻む、聞き慣れた靴音。
「…何をしに来た。笑いに来たのか。」
みずきは顔を上げず、震える声で言った。視界の端に、照の影が落ちる。照は膝をつき、彼女の腫れ始めた足首に、迷いのない手つきで冷却スプレーを吹きかけた。冷たい霧が、痛熱を一時的に麻痺させる。
「一年半。君がここで走った全ての記録だ。」
照は言葉を続けず、一台のタブレットを彼女の眼前に置いた。画面には、彼女が一年生の頃から今日に至るまで、どの位置で地を蹴り、どの角度で着地したかを示す無数の点が、星座のように繋がっていた。
「今日の夜の練習、君は三十二本走った。そのすべてで、疲労が溜まるごとに着地が左へ零点五ミリずつズレていっている。…感覚は、嘘をつく。でも、この数字は君が積み上げてきた事実だよ。」
みずきは、画面上の点の集積を凝視した。それは、彼女が自身の身体と格闘してきた時間の証明であり、同時に、それを一秒も欠かさず記録し続けてきた他者の執念の記録でもあった。
自身の「感覚」という閉じた世界が、冷徹な「数値」によってこじ開けられていく。みずきは自身の左手で顔を覆った。指先が微かに震え、荒い呼吸が白い霧となって、照の差し出した画面を曇らせる。
「…君は、変態だ。気味が悪い。…ストーカーか。」
みずきの口から漏れたのは、力のない皮肉だった。だが、その声からは先ほどまでの刺々しい拒絶が消えていた。彼女は照の手を借りることもなく、痛む足を庇いながらゆっくりと上半身を起こした。
秋の夜風が、二人の間を通り抜ける。みずきは、照が差し出したタブレットの数値を、一つずつ自身の身体に刻み込むように見つめ返した。
「…明日も計れ。そのズレが、ゼロになるまでだ。」
彼女は立ち上がろうとして、再び足首の痛みに顔を歪めた。照はその肩を支え、ゆっくりと立ち上がらせる。みずきはそれを振り払わず、彼の重みを不器用に従受した。秋の深い闇の中、磨かれたスパイクのピンが、月光を受けて静かに、そして鋭く光っていた。二人の沈黙は、冬への加速を控えた、確かな修復の音を奏でていた。
密度を変え始めていた。
天乃宮学園の陸上部室は、外気と遮断されているはずにも関わらず、底冷えのする空気が充満していた。窓の外では、鉛色の空から不規則な粉雪が舞い落ち、トラックの赤いタータンを薄く覆い始めている。部室の中央には、朝霧みずきによって並べられた二十足以上のシューズが、その用途と使用時期ごとに厳格な規則性を持って配置されていた。
雨野照は、冷たいクッションフロアの上に膝をつき、みずきの手元を注視していた。みずきは、ジャージの袖を捲り上げ、一本のピンゲージをスパイクの底に当てている。彼女の指先は寒さで白くなっているが、その動きに迷いはない。
「見ていろ。これが、十月の記録会で私が犯した過失の記録だ。」
みずきは、片方のスパイクを照の眼前に突き出した。外側のピンだけが、アスファルトを削ったかのように斜めに磨耗している。
「着地の際、外踝側に体重が逃げている。秋のスランプは、ストライドを伸ばそうとした結果ではない。伸ばそうとする焦りが、接地瞬間の内転を阻害し、結果としてこの不自然な減りを生んだ。…私の脚は、私自身の意志よりも先に、恐怖を記録していたということだ。」
みずきはスパイクを床に置くと、照が持参したタブレットの画面をスクロールさせた。そこには、照が秋の夜間に記録し続けた、彼女の走行時の接地圧データが波形となって表示されている。みずきはその波形の山と、手元の靴の磨耗箇所を、一つずつ指先でなぞりながら照らし合わせていった。
「…情勢を確定させる。現在の私のフォームは、この一点において崩壊している。だが、原因が物理的な接地位置に集約されるのであれば、修正は可能だ。反復すべきは速度の追求ではない。この、零点五ミリのズレを埋めるための、足首の角度の固定だ。」
みずきは、自身の太腿を強く叩いた。筋肉の硬さを確かめるような、鈍い音が響く。彼女は照から渡された新しい記録シートに、修正すべき関節の角度と、それに伴うトレーニングメニューの変更点を書き込んでいった。それは、崩れ去った自信を、数値という名のコンクリートで補強していくような、極めて事務的で、それゆえに強固な立て直しの儀式だった。
照は、彼女の書き込みを黙って見届けた後、傍らに置かれていた古いトレーニングシューズを手に取った。彼は小さな瓶から透明なワックスを取り出し、柔らかい布に馴染ませる。
「…何をしている。それはもう、練習では使わない靴だ。」
「革が硬くなっている。そのままにしておくと、次に履いた時に、君の足の動きを制限してしまうから。」
照は、みずきの言葉を待たずに、靴の側面に布を当てた。円を描くような、規則正しい手の動き。ワックスが革に浸透し、くすんでいた表面が次第に深い光沢を取り戻していく。照の指先は、みずきが転倒した際についたと思われる、爪先部分の深い傷跡を避けることなく、丁寧に磨き上げた。
みずきは、その作業を立ったまま見下ろしていた。自身の不甲斐なさを象徴する傷に、他者の手が触れる。彼女の心拍が、冬の静寂の中で微かに早まった。
「…無駄だ。傷は消えない。手入れをしたところで、私の失態が消えるわけではないだろう。」
「消すために磨いているんじゃないよ。この靴が、君の足を守り続けるために塗っているんだ。」
照は顔を上げず、今度は靴の内側のライニングを点検し始めた。みずきの呼気が、白く濁って照の頭上に落ちる。彼女は自身の右足の爪先を、もう片方の足の踵で無意識に探った。照の提示した「防護」という概念が、彼女の中で渦巻いていた自己嫌悪を、ゆっくりと上書きしていく。
照は作業を終えると、磨き上げられた靴をみずきの足元に並べた。新品のような輝きではないが、そこには確かに、幾度もの走行を耐え抜いてきた道具としての矜持が宿っていた。
「終わったよ。新しいワックスの周期、メニューに入れておいた。三日に一度、私がやる。」
みずきは、自身の足元にある靴を見つめた。彼女の視線は、もはや秋の日のような混濁を含んでいない。彼女は深く息を吐き出すと、並べられたすべての靴を、一足ずつ専用の袋に収め始めた。その動作は、自身の過去を一つずつ整理し、糧として梱包していく作業のようにも見えた。
「…立て直しは完了した。君のデータと、この靴の記録が、私の次の立ち位置を示している。」
みずきは、大きなスポーツバッグのジッパーを力強く閉めた。室内の温度は依然として低いままであったが、彼女の身体からは、内側から溢れ出すような熱気が漂っていた。彼女は照を振り返り、部室の鍵を手に取った。
「来年。…三年目は、君の計測が追いつかないほどの領域に行く。私の背中を追いかける準備をしておけ。」
みずきは、照の返答を待たずに部室の扉を開けた。 吹き込んできた北風が、彼女の頬を赤く染める。彼女はトラックの入り口まで歩き、雪の積もり始めた赤い地面を一度だけ強く踏みしめた。その足取りに、もはや秋のような迷いはなかった。
照は、彼女の残した確かな足跡を追い、部室の灯を消した。暗闇の中で、みずきの瞳だけが、冬の星のように鋭く光っていた。反復される覚悟は、冬の停滞を突き破り、最後の一年へと加速を開始した。
都心に位置する私立大学の陸上競技場は、天乃宮学園のそれとは異なる冷徹な機能美に満ちていた。青い色調で統一されたオールウェザートラック。その周囲には高精度のカメラとセンサーが等間隔に配置され、選手の筋肉の動きや接地の角度は即座にデジタルデータへと変換される。朝霧みずきは、大学のロゴが入った新しいウェアを纏い、トラックのスタート地点に立っていた。
彼女の周囲には、学園時代には見ることのなかった体躯を持つ選手たちが並んでいる。空気は春の暖かさを帯びていたが、みずきの吸い込む息は氷のように鋭く、喉の奥を刺した。彼女は自身の右足を、電子計測器が設置されたスターティングブロックに固定した。
「一〇〇メートル、一二秒一二。」
自動音声の機械的なアナウンスが響く。みずきはゴール地点で、自身のスマートフォンに転送された波形データを確認した。そこには、これまでの反復練習で磨き上げてきたはずの「正解」が、周囲のレベルと比較して平坦な数値として表示されている。
「…計算が合わない。」
みずきは自身の首筋に指を当てた。心拍数は一六〇を超え、耳の奥で血液が流れる音が騒音のように響いている。彼女は自身の太腿を、叩くのではなく、確認するように強く握った。
週末の午後、練習が終わった競技場の外縁に、雨野照の姿があった。彼は学園の制服を着崩し、背中には使い古されたスポーツバッグを背負っていた。みずきは彼を認めると、一度だけ深く息を吐き出し、汗を拭わずに歩み寄った。
「三分の遅刻だ。大学のグラウンドは敷地が広い。迷っていたなら、それは君の空間把握能力の欠如だ。」
「…ごめん。駅から少し歩くから。」
照は穏やかに答え、背負っていたバッグを下ろした。彼は中から、一足のスパイクを取り出した。それはみずきが一年生の時に履き潰し、昨年末の「情勢確認」の際にも並べられていた、青い合成皮革のシューズだった。
「何をしに来た。それは、もう過去のデータだ。今の私の走りは、もっと高次の次元に移行している。」
みずきは照から目を逸らし、競技場の高いフェンスを見上げた。照は何も言わず、グラウンド脇のベンチに座った。彼は自身の膝の上にその古いスパイクを置き、内側を覗き込むようにして、指先で中敷きの感触を確かめ始めた。
「…大学の練習はどう?」
「…。一〇〇人以上の部員がいる。私はその中で、上位二〇パーセントの境界線上にいる。学園での記録は、ここでは平均的な数値に過ぎない。センサーは私のフォームに無駄があると言い続けている。筋肉の連動が、機械の示す最適解から零点一ミリずれているのだと。」
みずきは言葉を区切り、自身の拳を握った。
「反復が足りないのではない。反復すべき正解が、ここでは毎日更新される。昨日の私が正しくても、今日のデータがそれを否定する。…私は、自分の身体が自分のものではないような感覚に陥っている。」
彼女の呼気は、春の湿気に溶けることなく、重く沈んだ。照はみずきの告白を聞き終えると、古いスパイクの中から、磨り減った中敷きを取り出した。彼はそれをみずきに差し出す。
「見て。ここ、親指の付け根のところが、一番深く沈んでいるよ。」
みずきは反射的にその中敷きを手に取った。そこには、彼女が何千回、何万回と地面を蹴り続けてきた圧力が、物理的な凹みとなって残っていた。デジタルデータのような線ではない。彼女の体重と、速度と、覚悟が直接刻み込んだ、不格好な痕跡だった。
「…それがどうした。」
「機械が言っているのは、今の君の動きだけだよ。でも、この中敷きには、みずきさんがどうやってここまで来たかが残ってる。…君の足は、この角度で地面を叩くことを、もう身体が覚えているはずだ。」
照は立ち上がり、みずきの足元を見つめた。彼女が今履いている、最新鋭のカーボンプレートが内蔵されたスパイク。それは効率の極致であったが、同時に彼女の「癖」という名の個性を削ぎ落とすものでもあった。
みずきは古い中敷きを握りしめた。合成樹脂のざらついた感触が、掌を通じて、停止しかけていた彼女の思考を激しく揺さぶる。
彼女はベンチに座り込み、最新のスパイクを脱ぎ捨てた。そして、照が持ってきた古いシューズに足を入れる。サイズは変わっていないはずだが、革の馴染み方が異なっていた。踵をトントンと地面に打ち付けると、一年生の頃に感じた、あの硬質な反発が足裏に蘇る。
「…調整が必要だ。」
みずきは立ち上がった。彼女の瞳には、先ほどまでの迷いではなく、自身の内部にある「記録」を再確認しようとする、執拗なまでの意志が宿っていた。
「私の筋肉は、機械の指示で動いているのではない。この三年間、君に計らせてきたあの瞬間のために動いている。」
みずきはスタート地点へ戻った。彼女はスターティングブロックを使わず、トラックの表面に直接指を立てた。照は首から下げた二つのストップウォッチを構える。一つは学園時代からのアナログなもの、もう一つはデジタル。
「…計れ。誤差は許さない。」
みずきは短く命じると、低い姿勢をとった。彼女の背筋が鋼のように緊張し、空気を引き裂くような初動と共に、彼女の身体が前方へと弾け飛んだ。
スパイクのピンがトラックを叩く音は、学園のそれよりも重く、速い。彼女の走りは、大学の推奨する「効率」とは異なっていた。それは、過去のすべての敗北と、すべての反復を乗せた、朝霧みずきだけの泥臭い疾走だった。
ゴールラインを駆け抜けたみずきは、大きく肩を上下させて立ち止まった。心拍数はさらに上昇していたが、先ほどのような不快な音ではない。それは彼女が自身の生命を駆動させている、確かな鼓動だった。
「…どうだ。」
照は手元の数値を確認し、みずきの元へ歩み寄った。
「一二秒〇三。…学園の時より、速くなってる。」
照の言葉に、みずきは初めて、春の柔らかな日差しの中で僅かに口角を上げた。
「…当然だ。私は一分一秒を無駄にせず、君を隣に置いてきたのだから。」
みずきは古いスパイクを脱ぎ、照のバッグへと収めた。彼女は自身の足を、再び最新のスパイクへと通す。今度は、その最新鋭の道具さえも、自身の身体の一部として従えようとする、力強い足の動きがあった。
「次も来い。大学のセンサーよりも、君の指先の方が私の狂いを正確に捉える。…反復練習だ。卒業したところで、終わる理由にはならない。」
みずきは照を振り返らずに、再びトラックを見据えた。大学という新しい戦場において、彼女の走りは境界線を越え、未踏の領域へと加速を開始した。春の風が、二人の間にある時間を、再び激しく動かし始めていた。
全日本大学選手権の会場となる競技場は、逃げ場のない熱気に包まれていた。大学の青いタータンは、太陽の光を吸い込み、アスファルトを焼くような匂いを放っている。朝霧みずきは、最新の着圧ウェアに身を包み、自身の心拍数と血中酸素濃度をリアルタイムで送信するデバイスを二の腕に固定していた。
彼女の周囲には、各大学から選りすぐられたトップアスリートたちが集っている。かつて学園で無敵を誇った彼女も、ここでは「有望な若手」の一人に過ぎない。みずきは自身の太腿の筋肉を指先で弾き、その硬度を確認した。
「一〇〇メートル、予選第四ヒート。準備しろ。」
アナウンスに従い、みずきはレーンに向かう。スタンドの片隅には、学園の夏服を纏った雨野照の姿があった。彼は大学の専門スタッフが並ぶ一角から離れ、独り、自身の目に焼き付けるようにみずきを見つめていた。
レースが開始される。みずきの初速は完璧だった。最新のフォーム解析に基づいた、理想的な重心移動。だが、コーナーを抜けた直後、彼女の身体に微かな「揺らぎ」が生じた。センサーには現れない、肉体という器が発する限界の兆候。照は、彼女が着地の瞬間に右足首を僅かに庇う動作を見逃さなかった。
ゴール板を駆け抜けたみずきの記録は、予選通過ラインを僅かに上回るものだった。だが、彼女の表情に充足感はない。彼女はスタッフの制止を振り切り、サブグラウンドへと向かった。
「…まだだ。出力が足りない。腰の回転角が零点三度不足している。」
みずきはスマートフォンの画面を激しくスクロールさせ、大学のシステムが算出した「改善案」を貪るように読み耽る。彼女は再びスパイクの紐を締め直し、独りで二百メートルのインターバルを開始した。
太陽が真上に位置し、影が足元に収束する。みずきの皮膚は赤く火照り、首筋の血管が千切れんばかりに脈動していた。五本目、八本目。呼吸は既に肺を焼く熱い塊へと変わり、視界の端が白く点滅し始める。
「…あ。」
九本目の直線。みずきの膝が、意志に反して折れた。
世界が回転し、地面が迫る。衝撃を覚悟して目を閉じた瞬間、身体が柔らかな熱に包まれた。
「…っ、みずきさん!」
照が、彼女の胴体を横から抱きかかえていた。二人の身体は勢いのまま、タータンの上を滑る。照の腕の感触、汗ばんだ制服の匂い。大学の電子機器が発する無機質なアラート音が、遠くで鳴り響いている。
みずきは照の腕の中で、激しい動悸に襲われていた。肋骨の裏側で、心臓が爆発しそうなほど暴れている。照は何も言わず、持参した保冷バッグから氷の塊を取り出し、みずきの首筋と脇の下に直接押し当てた。
「冷たい…、やめろ…。」
みずきは掠れた声で拒絶したが、照は力を緩めなかった。氷の鋭い冷気が、熱暴走を起こしていた神経を強制的に鎮めていく。照の指先が、みずきの震える首の筋を、慈しむようになぞった。
「システムは、君の『気力』を計算に入れていないよ。…この熱は、数字じゃ測れない。」
照の言葉が、耳の奥に届く。みずきは自身の左手で照の手首を強く掴んだ。彼の脈拍が、自身の狂ったリズムと同調していく。数分間の沈黙。蝉の声だけが、二人の間に降り注いでいた。
みずきはゆっくりと上半身を起こした。氷の解けた水が、鎖骨を伝って地面に落ちる。彼女の瞳には、先ほどまでの憑りつかれたような焦燥は消え、静かな鋭さが戻っていた。
「…君のやり方は、非効率だ。科学的根拠に欠ける。…古いんだよ、すべてが。」
みずきは照を見上げ、汗を拭わずに言い放った。だが、その指先はまだ照のシャツを離していない。
「でも、その非効率な『反復』が、私の筋肉を一番正しく導く。…これは、データを超えたバグだ。」
みずきは立ち上がり、照が磨き続けてきた古い予備のスパイクに視線を落とした。大学という巨大な組織、完璧な理論。その中にあって、雨野照という個人の存在だけが、彼女を「朝霧みずき」という一人の走者へと繋ぎ止めていた。
「夏は、まだ終わらない。…私の背中を、最後まで計り続けろ。これはバディとしての…いや、君だけに許す義務だ。」
みずきは照の隣を通り過ぎる際、彼の肩に自身の肩を一度だけ強く寄せた。密着した瞬間に伝わる体温。彼女はそのままトラックへと戻り、新たな、しかしどこか懐かしいリズムで、再び走り始めた。
十月の空は高く、薄い雲が刷毛で掃いたように伸びていた。国立競技場のタータンは、秋の柔らかな陽光を浴びて落ち着いた深紅色を呈している。朝霧みずきは、大学のシンボルカラーである濃紺のユニフォームに身を包み、右足のスパイクをトラックに突き立てた。
彼女の脚部は、三年前の春とは比較にならないほど強靭に、そしてしなやかに磨き上げられていた。大腿部の筋肉は皮膚の下で鋭い筋を浮き上がらせ、一歩踏み出すごとに正確なバネとなって地面を弾く。彼女は視線を上げ、数万人で埋め尽くされたスタンドの一角、いつもの場所に座る雨野照を捉えた。
「…位置について。」
アナウンスが響くと同時に、スタジアムが水を打ったように静まり返る。みずきは低い姿勢をとり、自身の心拍を静かに観察した。一分間に五十五拍。完璧な平常心。彼女の身体は、もはや彼女の意志を待たずとも、最適な出力を出すための「完成された機械」へと進化していた。
号砲が鳴る。
みずきの身体は、爆発的な初速で空間を切り裂いた。腕の振り、腰の回転、足裏の接地の角度。そのすべてが、照と共に積み上げてきた数万回の反復データの最適解をなぞっている。風を切り裂く音さえも、規則正しいリズムを刻んでいた。
だが、ゴールまで残り三十メートルの地点で、みずきは自身の内部に奇妙な「停滞」を感じた。これ以上、フォームを崩すことも、加速することもできない。完璧に整えられた「正解」が、彼女自身の肉体を拘束する檻となっていた。
フィニッシュラインを駆け抜けた瞬間、タイマーが止まった。一秒、二秒。電光掲示板に表示されたのは、彼女の自己ベストを零秒〇一上回る数字だった。周囲が歓喜に沸く中、みずきはその数字を無機質な事実として見つめ、一度だけ短く息を吐いた。
試合後の地下通路は、外の熱狂を遮断したコンクリートの冷気に満ちていた。みずきはベンチに座り、自身のスパイクを脱ぎ捨てた。白いソックス越しに、熱を持った足首が微かに震えている。
「…三分の遅刻だ。君の歩幅なら、観客席からここまで二分で行けるはずだが。」
みずきは顔を上げず、近づいてくる足音に向かって言った。雨野照は、学園の制服の襟元を少し緩め、息を切らして立っていた。彼は何も答えず、みずきの足元に跪いた。
照の白い指先が、みずきの足首の皮膚に直接触れる。
その瞬間、みずきの全身の筋肉が、電撃を受けたように激しく収縮した。
「っ…!」
みずきの喉から、抑制された短い声が漏れる。冷徹に管理されていたはずの身体が、照の指先から伝わるわずかな熱量に対し、狂おしいほどの反応を示した。血管が浮き上がり、肌は瞬時に赤らみ、呼吸の周期が劇的に乱れる。大学の最新鋭のセンサーでも捉えきれない、肉体という器が発する本能的な悲鳴。
照の手は、その震えを鎮めるように、より強く彼女の踵を包み込んだ。みずきは自身の左手で照の肩を強く掴んだ。指先が制服の布地を突き破らんばかりに食い込む。
「…完成など、していない。私の身体は、君の手がなければ、まだこれほどに乱れる。」
みずきの声は、湿り気を帯びて震えていた。彼女は照を、獲物を狙う猛禽のような鋭い眼差しで見つめた。数値化された「正解」の中に、唯一残された「バグ」としての他者の存在。その不確実さが、彼女の硬直した完成度を内側から破壊していく。
「もっと、計れ。私の狂いを、ズレを、君のその指先で、一つ残らず記録しろ。…冬の終わりまで、私の隣から一ミリも動くことは許さない。」
みずきは照を強引に引き寄せ、自身の荒い呼吸を彼の首筋に叩きつけた。汗の匂いと、秋の冷気と、二人の混じり合う体温。
彼女は再び立ち上がった。その足取りは、先ほどまでの完璧な安定を失っていたが、代わりに、未知の領域へと踏み出そうとする、野性的な力強さに満ちていた。
「反復だ。…次も、君の手で私の靴を磨け。」
みずきは照を振り返らずに、暗い通路の先、さらに深く凍てつく冬の最終章へと、加速を始めた。
天乃宮学園の正門を囲む石壁は、二月の寒気に晒されて硬く凍りついていた。灰色の空からは、時折結晶にもならない細かな氷の粒が降り注ぎ、アスファルトの表面を白く粉飾している。朝霧みずきは、大学のロゴが入った厚手のロングコートの襟を立て、門柱の影で自身の端末を操作していた。
端末の空間投影画面には、三年間――十二の季節にわたって蓄積された、膨大な走行データが青い輝きを放っている。一〇〇メートル、一二秒一二から始まったその線は、緩やかな下降と鋭い上昇を繰り返し、最新の記録である一一秒八九の地点で静止していた。みずきはその数値を指先でなぞり、自身の筋肉の収縮率と心拍数の相関図を確認する。これは、彼女が雨野照という個体と共に積み上げてきた、物理的な「生」の履歴であった。
「三年間の、情勢を確認する。」
みずきは誰に聞かせるでもなく、白く濁る息と共に呟いた。 彼女の視線の先、卒業式を終えた生徒たちが、色とりどりの花束を抱えて校舎から出てくる。その中に、学園の制服を最後に纏った雨野照の姿があった。彼は周囲の喧騒から浮き上がったような、静かな足取りでみずきの方へと歩み寄る。
「…待たせた。三分の遅刻だ。君の歩幅なら、講堂からここまで一分四十秒で到達可能なはずだが。」
みずきは端末を閉じ、照を正面から射抜くように見つめた。照は微かに肩を揺らし、自身の首にかけられた卒業証書の筒を握り直した。
「…ごめん。先生に、少しだけ呼び止められて。」
「言い訳は不要だ。…照。本日、君は学園を去り、私のバディとしての契約も、システム上は完全に消失する。大学のデータベースからも、君の名前は削除された。」
みずきは一歩、照に近づいた。二人の距離が、冷たい風の通り道を塞ぐほどに縮まる。みずきの心拍数が、コートの下で一分間に九十拍まで上昇した。血管が収縮し、指先が微かに痺れる。
「だが、データの整合性を取った結果、一つの結論に達した。私の速度を維持するためには、君という観測者が不可欠だ。これは感情論ではなく、私の肉体が示した統計的な事実だ。」
みずきは照の腕を掴み、そのまま無人の陸上トラックへと歩き出した。 タータンは雪に覆われ、赤い色彩が白く塗り潰されている。みずきはコートを脱ぎ捨て、レーシングタイツ姿になった。外気に触れた皮膚が瞬時に粟立ち、筋肉が寒冷による防衛反応で硬直する。
「最後の一本を計れ。…学園の生徒としてではない。私の、私的な観測者としてだ。」
みずきはスタート地点に立ち、凍った地面に指を立てた。指先から熱が奪われ、代わりに硬質な感覚が神経を伝わって脳に届く。照は何も言わず、三年間使い続けてきた傷だらけのストップウォッチを構えた。
ホイッスルの音。 みずきの身体が、冬の空気を切り裂いて前方へと弾け飛んだ。 雪を蹴り上げるたび、氷の飛沫が視界を遮る。肺の奥に冷気が入り込み、喉が焼けるような痛みを訴える。だが、彼女の足の運びには一点の迷いもなかった。 十二の季節。泥を落とした春。熱に浮かされた夏。敗北を磨いた秋。情勢を正した冬。 それら全ての反復が、今、彼女の背中を押し出す強力な推力となっていた。
ゴールラインを通過した瞬間、みずきは勢い余って照の腕の中に飛び込んだ。 激しい衝突音。 二人の身体は、雪の積もったタータンの上を滑り、フィールドの端で停止した。
「…っ、…。」
みずきは照の胸板に顔を埋めたまま、荒い呼吸を繰り返した。心拍数は一八〇を突破し、肋骨が折れそうなほど激しく脈動している。照の体温が、冷え切った彼女の頬に直接伝わり、皮膚の境界線を曖昧にしていく。
みずきは、震える手で照の制服の襟を掴んだ。 彼女は顔を上げ、至近距離にある照の瞳を見据えた。視界が自身の呼気で白く霞む。
「…照。…これは、練習だ。…世界で最も困難な、一度きりの反復練習だ。」
みずきの喉の筋肉が、限界まで緊張した。言葉が声帯を通るたび、全身の神経が火花を散らす。
「…私の、隣にいろ。…これは命令でも、契約でもない。…私の、意志だ。…君が、好きだ。」
みずきは一気に言い切ると、その顔を激しく紅潮させて照の肩に額を押し当てた。 三年にわたる全ての走行、全ての計測、全ての摩擦。 それら全てが、この最後の一句を出力するための長い助走であったことを、彼女は自身の筋肉の弛緩を通じて理解した。
照の腕が、ゆっくりとみずきの背中に回される。 冬の静寂の中、遠くで聞こえる卒業生たちの歓声が、まるで他国の出来事のように遠のいていった。 二人の間に流れるのは、もはや計測不能な、熱い残響だけだった。
「…返答は、保留を許可しない。…今、ここで計れ。…私の、これからを。」
みずきはそう呟き、照の温もりに身を任せた。 北風が雪を舞い上げ、二人の足跡をゆっくりと覆い隠していく。 三年前、あの赤いトラックから始まった反復練習は、今、一つの完成へと到達し、新たな季節への号砲を鳴らした。
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