半端にスイッチング

伊阪証

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本編

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作品の前にお知らせ

下記リンクに今後の計画のざっくりした概要が書いてあります。余命宣告の話もあるのでショッキングなのがダメなら見ないことを推奨します。
あと表紙はアルファポリスとpixiv、Noteでは公開してます。
表紙単品シリーズ→https://www.pixiv.net/artworks/138421158
計画周り→https://note.com/isakaakasi/n/n8e289543a069

他の記事では画像生成の詳細やVtuberを簡単に使えるサブスクの開発予定などもあります。
また、現時点で完結した20作品程度を単発で投稿、毎日二本完結させつつ連載を整備します。どの時間帯とか探しながら投稿しているのでフォローとかしてくれないと次来たかが分かりにくいのでよろしくお願いします。
今年の終わりにかけて「列聖」「殉教」「ロンギヌス」のSFを終わらせる準備をしています。というかロンギヌスに関しては投稿してたり。量が多くて継承物語は手間取っていて他はその余波で関連してるKSとかEoFとかが進んではいるけど投稿するには不十分とまだ出来てない状態です。


真央は電子音に目を覚ました。
枕元のスマホのディスプレイが、部屋の暗闇の中で通知の光だけを強く放っていた。今日は交際記念日のデートの日。昨晩のうちにアラームは止めたはずだが、目覚めの悪さはいつものことだった。
真央は、怠い腕を伸ばして指先だけでスマホを探った。画面ロックを解除すると、やはり一番上には恋人――悠人からのメッセージが表示されていた。
「おはよ。起きた?」
真央はいつもの習慣で、たった三文字の「おはよ」とだけ打とうとした。しかし、寝ぼけた指はフリック入力の途中で滑り、画面下部の通話アイコンをタップしてしまった。
『悠人』宛ての着信音が鳴り響き、真央ははっとして慌てて切ろうとした。だが、向こうも寝起きだったのだろう、ワンコール鳴り終わるか鳴り終わらないかのうちに、悠人が電話に出てしまった。
「あ、もしもし」
スピーカーから、聞き慣れた男の声がした。
それは、いつもの低くて安定感のある、悠人の声――ではなかった。
一瞬の沈黙。そして、
「・・・え?」
耳に届いたのは、自分自身が毎日、一番聞きたくないと感じてきたはずの、自分の声だった。真央は寝惚け眼で画面を見たが、確かに相手は『悠人』のままだった。
「悠人・・・?」
真央は反射的に、喉から音を出そうとした。その瞬間、喉の奥がざらつき、まるで他人の声帯を借りたような、奇妙な息遣いを感じた。
そして、唇から漏れ出た短い一音が、真央の思考を一瞬で白く染め上げる。
「・・・ゆう?」
それは、確かに真央の口から発された音だ。だが、部屋に響いたのは、いつもの真央の控えめな声ではなく、一回り大きく、ハキハキとした悠人の声だった。
真央は自分の喉元を抑え、目を丸くする。
「え、今の・・・何?」
スピーカーから、不安げに揺れる声が聞こえる。それは、さっき真央が鏡越しに聞く自分の声のように嫌悪感を覚える、真央自身の声だった。
真央の心臓が警鐘を鳴らし始める。パニック、恐怖、混乱――それらを置き去りにして、まず湧き上がってきたのは、耐え難い羞恥だった。
自分の見た目から、自分の嫌いな声が聞こえてくる気持ち悪さ。そして、自分の口から、こんなに落ち着いて自信に満ちた悠人の声が出る奇妙さ。
「ご、ごめっ!」
真央はそう絞り出すのがやっとで、声のボリュームが普段の会話の二倍ほどあることに気づいた。そして、恥ずかしさで熱くなった顔のまま、震える指で通話終了ボタンを強く押した。
スマホの画面だけが残り、部屋には再び静寂が訪れる。真央は大きく息を吸い込み、固く閉じた唇を震える指でなぞった。
通話を切ったあとも、真央の呼吸は浅く、心臓がうるさい。
夢だろうか? いや、夢だとしても、この胸の奥にある妙な気持ち悪さは現実のものだ。
真央はベッドから飛び起き、音を立てないように自室を出て、洗面所へ向かった。
曇った鏡の前に立つ。いつもの自分の顔は、疲れてはいるが、特別変わったところはない。真央は大きく息を吸い、ごく小さく唇を開いた。
「・・・あ」
喉を震わせた瞬間、真央の顔から、低く、よく響く悠人の声が漏れた。
真央は全身から力が抜け、思わず鏡に縋りつく。
「や、やめろ・・・」
自分で出した声なのに、その音量は大きすぎ、もう一度耳を塞ぎたくなった。
鏡の中の真央が、困惑した表情で悠人の声を出す。そのミスマッチは悪質なホラー映画のようで、真央を襲うのは恐怖よりも吐き気を催すほどの嫌悪感だった。
声を出そうとすればするほど、悠人の声が勝手に出てくる。
(この声が、今日一日私のものになるなんて、地獄だ)
真央はそう心の中で叫び、すぐにスマホへ飛びついた。
画面には悠人からのチャットが三件並んでいる。
『ねぇ、マジでどうしたの?』『今の、俺の声だったよな?』『鏡見てみた?』
真央は震える指で、返信を打ち込む。
『うん』『ちょっと変なことになってる』『今日はごめん、無理』
すぐに既読がつき、返信が来る。
『え?無理って、記念日だよ?』『俺、そっちの声聞いて、笑っちゃったけど』
――その一文が、真央の心臓を強く握りつぶした。
真央のコンプレックスである、控えめな声。それを「笑っちゃった」と、彼は無邪気に言ってのけた。悪気がないのは知っている。でも、その事実が、真央に深い自己嫌悪を突きつける。
『無理。外でこの声で喋るとか、絶対嫌だ』
『でも、真央は俺の顔と俺の行動パターンは知ってるでしょ?』『だったら、会って、二人で互いを演じてみるのはどう?』
『互いを演じる』。真央にとって、それは(私が喋らなくて済む)ということだった。
真央は喉の奥で息を詰まらせた。
(会いたい。だが、この声で会うのは絶対に嫌だ。しかし、悠人の声なら・・・もし、私が悠人だったら、わがままを言えるかもしれない)
そして、その思考が結論に辿り着いた。
『・・・わかった。でも、人前ではあんたが全部喋って』
『OK!任せろ!じゃ、いつも通り駅で!』
画面の文字を見て、真央は決めた。今日は一日、声を出すことから逃げ続ける。この借り物の声で、密かに悠人を演じてみようと。
真央は小さく「よし」と息を吐いた。それは、低く、力強い悠人の声だった。
真央は改札を出た人波の中に、すぐに悠人の姿を見つけた。
休日らしい、少しオーバーサイズ気味のパーカーに、馴染んだデニム。立ち姿も、携帯を覗き込みながら時折髪をかき上げる仕草も、全て見慣れた恋人そのものだった。真央の心臓は、デート前の期待で高鳴った。
――しかし、喉の奥は石のように固まっていた。
(悠人らしい第一声は「おっす!」だろうか? いや、絶対無理だ。あの声量、人前で出すのは無理だ)
真央が頭の中でシミュレートしている間に、悠人が顔を上げた。彼は真央を見つけると、少し目を細めて、こちらへ歩み寄ってくる。
見た目はいつもの悠人。なのに、真央のコンプレックスがそのまま具現化した声で、彼は言った。
「や、やっほー。ごめん、なんか、緊張するね」
控えめで、少しだけ震えた、真央の声。真央が普段、人前で話すときに出る、あの遠慮がちなトーンそのものだ。
真央はぐっと息を飲み込み、反射的に「大丈夫!」と明るく返そうとした。借りた悠人の声で、ハキハキと。しかし、喉が本能的に拒否する。
「・・・ん、別に」
出たのは、悠人の太い声なのに、まるで中身が小動物のように小さく、そっけない返事だった。
悠人はその返事を聞き、かすかに目を丸くした。
(わあ、変なの)
真央の脳裏に、そんな感想が浮かんだ。見た目はいつも通りの悠人なのに、その声でそっけなく言われると、まるで借りてきた猫みたいだ。
悠人は小さく咳払いをして、真央の顔をじっと見つめた。
「・・・真央の顔から、俺の声がするの、やっぱ変だな。なんか、ドスの効いたおはよ、って感じ」
「ド、ドスなんて効いてない!」
真央がそう抗議しようと口を開くと、周囲のざわめきを切り裂くように、力強い悠人の声が響いた。真央は慌てて口を閉じ、周囲を窺う。周囲の二組のカップルが、訝しげな目でこちらを見ていた。
(だめだ、声量を抑える感覚が全然わかんない!)
真央は恥ずかしさで顔を赤くし、悠人の袖を掴んで引っ張った。
真央「行くよ」
悠人「うん」
二人は不自然に近い距離で歩き出した。他愛ない会話で埋まるはずの数メートルが、重い沈黙で満たされていた。
真央は、悠人の横顔を見ながら思った。
(私が声を出せないのはいつものことだが、今日はあんたもあんまり喋れてないじゃないか)
そう、悠人の方も、真央の声で人前で軽口を叩く勇気がないようだった。互いを演じようとして、結果、互いの行動が制約される。
二人は、無言で少しだけ早足になり、人混みを抜けていった。
駅前の喧騒を逃れ、真央と悠人は少しだけ奥まった通りにあるカフェに辿り着いた。
注文時、真央は緊張で再び喉を固く締めた。
「あんた、先に」
真央が悠人の声でそう言うと、悠人はいつも真央がやるように小さく首を傾げた。そして、
「じゃあ、私がね」
と、真央の慣れたトーンで言って、レジへ向かった。
(私に気を遣わせている)
真央は、自分の控えめな声が悠人の口から、誰にも気付かれないように丁寧に扱われているのを見て、逆に胸がざわついた。
二人が席に着き、飲み物が運ばれてきた。目の前に湯気の立つカップが置かれても、沈黙が数秒続いた。真央はカップの縁を指先でなぞり、悠人はテーブルに置かれた手をぎこちなく動かした。
先に口を開いたのは、悠人だった。声は、もちろん真央のままだ。
「ねぇ。どうする、本当に。帰る?」
その真央の声には、いつもの真央からは聞けない、はっきりとした決意が滲んでいた。真央は目を合わせる。自分の口から、悠人の声が出た。
「せっかくの日だし・・・帰るのはもったいない」
「だよね。でも、さっきみたいに喋れないと、周りに『あれ?』と思われるよ」
悠人は、心配そうに真央の目を見た。その仕草が真央なのに、声は真央だ。そのミスマッチに真央はため息をついた。
「だから、演じるんだろ」
真央は悠人の声で、強いトーンで言いきった。
「声だけ入れ替わってる。だったら、中身まで逆になったフリをしたら、逆に周りからは『いつも通り』に見えるんじゃないかな」
悠人はその提案をじっと聞いていた。彼の瞳は、真央の声に込められた意図を測っているようだった。
「・・・つまり、俺が、社交的で快活な『悠人』を、真央の声で演じる」
「そう」
「そして真央が、無口で控えめな『真央』を、悠人の声で演じる、ってこと?」
「いや」
真央は即座に首を横に振った。悠人の声が低く響く。
「あんたは、いつもの悠人を演じて。私は、いつもの真央でいる。ただし、私は喋らない。あんたが二人分喋るんだ」
「ええ、それ俺大変じゃん!」
悠人は真央の声で少し大げさに抗議したが、すぐにその表情は穏やかになった。
「分かった。じゃあ、今日はゲームだ。『声がズレたまま、お互いの演技で一日を乗り切る』ゲーム。でも、ルールが一個」
悠人はそう言ってカップを置き、真央の手を取ろうとした。真央は緊張で反射的に手を引っ込めた。
悠人は、それでも真央の手の甲にそっと触れ、続けた。
「真央は、無理に喋らなくていい。でも、もし言葉に詰まりそうになったり、隠したいことがあったりしたら、ジェスチャーとか、何でもいいから、俺に合図を送って。いい?」
真央は、低い悠人の声が出ないよう、固く口を閉じたまま小さく頷いた。
(これで、私は喋らなくて済む)
真央は安堵したが、同時に、悠人の声で言いたい感謝の言葉が喉に張り付いた。それを自分の口から、悠人の声で出すのは、やはり恥ずかしかったのだ。
真央は無言で、悠人の顔をじっと見つめた。今日一日の作戦が、ここでセットされた。


駅を出て数分、真央と悠人は、目的地である大きなショッピングモールの自動ドアの前に並んだ。
「よし」
悠人が、隣に立つ真央(見た目は真央、中身は悠人の声)を見て、真央の声で小さく、力強く言った。自動ドアがスーッと開き、空調の冷たい風とフードコートから漂う甘い匂いが、真央たちの顔を撫でた。
二人はほぼ同時に、一歩を踏み出した。だが、誰からともなく、互いに顔を見合わせて、歩幅を緩めてしまう。
(じゃあ、中に入るか)
真央が悠人の声でそう言おうとして、咄嗟に喉で音を詰まらせた。その瞬間、悠人(中身は真央の声)が、そっと真央の腕に触れる。
「・・・入ろう」
悠人は、真央の声でささやくように言った。その声が普段の真央よりもはるかに優しく、真央はなんともくすぐったい気持ちになった。
「先導は私がする」
真央は悠人の声で言って、少しだけ大股で人気の服屋のドアをくぐった。いつもの自分なら絶対にできない、堂々とした動作だった。
店員が、まるで待ち構えていたかのように明るい笑顔で近づいてくる。
「何かお探しですか?」
真央は緊張で喉が引き攣り、咄嗟に悠人の袖を引いた。声は出せない。視線で『あんたが喋って』と命令した。
悠人は、困ったように眉を下げ、真央の代わりに店員へ向き直った。
「ええと・・・、見てるだけなんで、大丈夫です」
悠人の声はいつもの快活さとは程遠く、音量が足りない。まるで真央がいつも家でボソボソと喋っているときのようだ。店員は、一瞬だけ耳に手を当てそうになりながらも、表情は変えずに「では、ごゆっくり」と引いていった。
「危なっ」
真央は、悠人の声で思わずそう声が漏れた。
(私の声は、あんなに小さくしか出てないんだ)
そう考えると、真央は少しだけホッとした。自分の声が人前で恥をかくほどの音量で使われなかったことに。
真央は、いつもの悠人らしい振る舞いをしようと、ハンガーに掛かった服を次々と指差した。
「これ、悠人なら着るだろ」
「似合いそう」
悠人は静かに服を見ながら、真央の声で短く返した。彼の立ち姿は、いつもより落ち着いて見えた。
二人は店の隅の棚の影で、頭を寄せ合った。
「・・・案外バレてないかも」
真央は、囁くような悠人の声で言った。
「声量抑えれば、いけるね。真央の声、なんか落ち着いて聞こえるんだって」
悠人は、真央の声でくすくすと笑った。その瞬間、真央のコンプレックスの声が、初めて楽しそうに笑っているのを聞いて、真央は妙にこそばゆい気持ちになった。
「よし、じゃあ次行くか」
真央は再び悠人の声でそう言うと、エスカレーターへ向かって歩き出した。
二人は、ゆっくりと上昇するエスカレーターに並んで立つ。下のフロアのざわめきが遠ざかり、上のフロアの光が近づいてくる。二人の間に会話はない。ただ、見つめ合った顔には、「私たち、なんか上手くやってる?」という、くすぐったいような半笑いが浮かんでいた。この状況が、少しだけ楽しくなり始めていることを、二人は言葉にせずに共有していた。
服屋を出た真央と悠人は、モールの四階にある屋上庭園に辿り着いた。
人工芝が敷き詰められたベンチエリアは日差しが暖かく、平日の午前ということもあってほとんど人がいない。遠くで子どもの笑い声が風に乗って聞こえるだけだった。
二人は並んでベンチに腰を下ろした。真央は大きく息を吐き出した。自分の口から、重い悠人の溜息が出た。
「ふう。やっぱり疲れる」
悠人はペットボトルのお茶を一口飲んでから、ぼそっと言った。
「ね、もっとさ、スムーズに振る舞えた方が楽じゃないか? もう少し、それっぽく喋れるように練習しないか」
真央は、その提案に少し身構えた。こういうシチュエーションで「訓練」を持ちかけるのは、悠人のいつもの性分だった。真央は内心では気恥ずかしさを感じたが、効率を重視する性格上、拒否はしなかった。
「どうやるんだよ」
低い悠人の声が不満げに響いた。
「まず、口調。真央は、さっき俺の声で『行くよ』って言ったけど、あれ、ちょっと強すぎ。俺なら、もっと明るく、『行こうぜ!』って、語尾にちっちゃい『ぜ』が入る」
悠人は、真央の控えめな声で、はっきりと『行こうぜ!』と実演した。真央は自分の声がそんなにハキハキと使われるのを見て、また頬が熱くなった。
「こんな感じ?」
真央は、意識して声を張って、「行こうぜ!」と返した。悠人の声が弾んで響く。
「ちょっとうるさいかな。テンション高すぎ」
「じゃあ、あんたは?」
真央が問うと、悠人はベンチに浅く座り直し、少しだけ視線を落とした。
「真央らしい話し方ってさ・・・」
悠人はそう切り出すと、一度喉で息を詰まらせた。そして、短い間を空けてから続けた。
「単語で途切れるんだよね。『これ』って言って、ちょっと止まって、また『大丈夫』って続ける。あと、視線が少しだけ、下に落ちる癖がある」
悠人が、その癖を完璧に再現するのを見て、真央は初めて自分がそういう話し方をしていることに気づき、恥ずかしさが込み上げた。
「うそ・・・私、そんなにモタモタしてる?」
真央は、悠人の声で、必死に平静を装う。
「でも、そのモタモタが、俺は好きなんだよ。落ち着いているというか」
悠人は笑った。真央の声で笑うその表情に、真央は思わず「ふふ」と息を漏らした。
そこで悠人が、突然少し真面目な顔になった。
「じゃあ、名前で呼んでみてよ」
真央は顔がカッと熱くなるのを感じた。
「・・・は?」
「俺を、悠人って。いつもあんまり呼ばないじゃん、二人きりの時も。真央の声で聞きたいな」
真央は、悠人の声で「ゆうと」と口にしようとした。だが、喉の奥で音が団子になる。恥ずかしさで、その一音が出せない。
「やめろ」
真央は、悠人の声で、低く、威嚇するようにそう言った。
悠人はその返事を聞いて、ハッとしたように口を閉じた。真央が普段、名前を呼んでくれないのは、もしかしたら「声を出すことそのもの」に、こんなにも強いブレーキがかかっていたからなのかもしれない、と静かに気づいた。
「・・・ごめん」
悠人は、それ以上は言わなかった。真央は借り物の悠人の声で深く深呼吸した。完全にはなりきれないが、この微妙なズレが、逆に二人の間にある秘密のゲームを、どこか可笑しく、そして切なくしていた。
二人はエスカレーターを降りて、まず小さな雑貨屋に立ち寄った。店内には心地よいBGMが流れ、色とりどりの小物が並んでいる。
真央は、悠人がコーヒー好きだからこそ、マグカップの棚の前で立ち止まった。真央は、悠人が選ぶだろう派手な柄のマグカップを手に取った。
「これ、悠人っぽい。即決しそうだ」
真央は、悠人の声で、いつもより少し軽い口調で言った。だが、言葉の端に「あんまり趣味じゃないけど」というニュアンスを混ぜ込んでしまった。
悠人は、それを聞いて、小さな文房具のコーナーを見ていた手を止めた。
「・・・そんな派手なもの、普段使わないよ。俺がいつも使ってるのは、こういうマットなグレーのやつだ」
悠人は、真央の控えめな声で、地味な色のペン立てを指差した。
「え、あれ、あんまり好きじゃないと思ってた」
真央は、咄嗟に悠人の声で反論した。
「なんで? 落ち着いてていいじゃん」
「うーん・・・地味、っていうか」
真央は、内心で(やっぱり、悠人の好みは派手なものだと思っていたのに)と引っかかりを覚えた。悠人の声が口から出ているせいで、その言葉は、まるで悠人が自分の趣味を否定しているかのように聞こえてしまった。
「真央はさ、こういうネコのシールとか好きでしょ」
悠人が話題を変えるように、真央が普段は素通りするようなメルヘンなシールを手に取った。真央は首を傾げる。
「別に嫌いじゃないけど・・・悠人がそれ、私の声で言うと、なんか微妙だ」
「え、なんで」
「だって、あんた、そういうの『可愛いけど、実用性ゼロじゃん』とか言って笑うじゃん」
悠人は真央の強い抗議に押し黙った。真央の声でいるからこそ、「そういうのも悪くない」と素直に言えた悠人の本音が、真央には演技に見えてしまったのだ。
「ごめん。今の、悠人になりきって、ちょっと真央をからかっただけだよ」
悠人はそう言って、照れ隠しでその場を収めた。
続いて二人は本屋へ。真央は悠人なら興味を持つだろうビジネス書の棚へ向かおうとしたが、悠人は詩集やエッセイの棚の前で立ち止まった。
「真央は、本当はこういうの読むの、バカにされてるって思ってない?」
悠人は、真央のコンプレックスの声で、静かに尋ねた。真央の心臓が、ドクンと跳ねる。
「・・・思ってない」
真央は悠人の声で強がった。
「そっか。でもね、俺は真央が何を読んでても、真央が好きだよ。これは演技じゃなくて、本当にそう思ってるんだ」
悠人は、そう言って微笑んだ。
真央は自分の声で、こんなにも優しい言葉をまっすぐに受け取ったのは初めてだった。感動と羞恥が混ざり合い、真央は顔を赤くした。
「うるさい。演技でそういうこと言わないでよ」
真央は、悠人の声で、乱暴にそう言い放った。そして、自分の気持ちをこれ以上見透かされないように、話題を切り替える。
「ねえ、休憩しないか? お題を出し合おうよ、フードコートで」
真央の提案に、悠人は目を輝かせた。
「お題? 面白そうじゃん!」
真央は、自分の口から出た「お題」という言葉が、この後のデートをどう変えるのか、まだ知る由もなかった。
真央と悠人はフードコートへ向かい、注文の列に並んだ。
「あんた、頼んでよ」
真央が悠人の声でそう言うと、悠人は少し困ったように笑った。
「私が真央の声でテキパキ注文するのはさすがに演技破綻じゃないか? でも、やってみるよ」
結局、悠人は真央の声で、普段の真央よりも少しだけ丁寧に、しかし、一言一言区切って注文を済ませた。真央は悠人の声で別の店舗に並び、「これは悠人っぽい」と、一番人気のメニューを指差しで済ませた。店員は、真央の低い声と指差しだけの不愛想な態度に、わずかに眉根を寄せていた。
席に戻り、二人は向かい合って座った。
「フライドポテト、熱い」
真央が、悠人の声で、率直な感想を述べる。
「あ、それ、悠人なら絶対最初に言う」
悠人は、真央の声で笑い、自分の口にハンバーガーを押し込んだ。
真央は口の中に食べ物があるせいで、悠人の声でさえも出す気が起きず、代わりに口元を拭くティッシュの音だけがテーブルの上で際立っていた。沈黙が、この状況では最早自然になっていた。
「ねぇ、さっきのさ」
悠人が真央の声で、小さく切り出した。
「本屋での『バカにしてないよ』ってやつ。なんかドキッとしたんだ。あれは、演技?」
真央は自分の口から悠人の声で、すぐに「演技だよ」と返そうとして言葉に詰まった。
「・・・あんたは?」
真央は、そう聞き返すのが精一杯だった。
「あれは、俺の本音。でも、真央の声で言ったから、なんか冗談みたいに言えたんだ」
悠人は、照れくさそうに顔を歪めた。その言葉を聞いて、真央は、自分が悠人の声を借りて言えた、あの「うるさい」という乱暴な一言も、実は心の中では『ありがとう』だったことに気づいた。
「ねぇ、真央」
悠人が身を乗り出す。声は、優しく、真央のそれだ。
「これ、せっかくなら、もっとゲームにしないか? 『互いを演じて遊ぶ』を、もうちょっと攻めてみないか」
「攻めるって」
「例えばさ、『一日三回まで、お互いに言わせたい一言をお願いできる』とかどう?」
真央はそれを聞いて、一瞬息を止めた。
(言わせたい一言・・・?)
それは、自分で声を出すのが恥ずかしい真央にとって、喉の奥にずっとしまい込んでいた、願望の代行だった。自分で言えない甘い言葉や、重い言葉を、悠人の声を借りて言ってもらえる。そして、自分が借りた悠人の声で、悠人に「普段の真央が言わないこと」を言わせられる。
「いいじゃないか。さっきの『こういうの好きって言ってみて』みたいな、軽いお題でもいいし」
悠人は、目をキラキラさせて提案した。
真央は、まだ半信半疑だったが、心の中の逃避願望が勝った。
「・・・分かった」
真央は力強い悠人の声でそう答えた。
「じゃあ、午後から、もうちょっと攻めてみるか」
二人は食べ終えたトレーを重ね、立ち上がった。
この「お題ゲーム」が、次の章で二人の関係の最もデリケートな部分を、遠慮なく抉り出すことになるのを、真央はまだ知らない。
真央と悠人はトレーを返却口に戻し、フードコートの喧騒からモールの通路へと歩き出した。食後の満腹感と、奇妙なゲームが始まる高揚感で、二人の足取りはさっきよりも軽かった。
「はは。さっきの、ポテト熱いって言った時の声、なんかドスが効きすぎてて面白かった」
悠人は真央の控えめな声で、楽しそうに笑った。
「うるさい」
真央は、悠人の声で低く、不機嫌そうな声を出す。しかし、その顔は笑っていた。
「でも、さっきも話したけど、もっとちゃんとゲームにしようぜ」
悠人は、真央の手を掴み、歩きながら提案した。真央の手を握る感触はいつもの悠人なのに、聞こえるのは自分の声だ。真央は、なんともくすぐったい気持ちになった。
「ルールな。まず、回数」
真央が悠人の声で、真面目なトーンで切り出した。
「一日で使い切る。一人あたり三回までで、どうだ。そのお題は、絶対に拒否できない」
「三回! よし、わかった」悠人は、すぐに賛成した。
「内容は、言わせる系と、させる系、どっちもアリ。ただし、」
悠人は真央の声で少し声を潜めた。
「本気で困る命令は無し。あと、お題の内容で、あとで怒らないこと。これ大事だ」
真央は、そのルールを聞いて少しだけ安心した。悠人の声で「わかった」と低く頷く。これで、今日一日の遊びは、単なる「誤魔化し」ではなく、二人だけの秘密の「遊び」に変わった。
「じゃあ、さっそく私から。試し打ちだ」
真央は、悠人の声でそう言って、立ち止まった。正面から、買い物客の集団が歩いてくる。真央は、その人混みを気にしながら少しだけ顔を赤くした。
「今、私の顔で、『真央、おいで』って、優しく呼んでくれ」
それは、真央が普段、悠人から聞きたいと思っていても、なかなか口に出して言えなかった一言だった。そして、自分の声で、彼から聞きたいと願う、最も甘い言葉だ。
悠人は、顔がカッと熱くなるのを感じた。
(うわ、真央の声でそれを言うの、めちゃくちゃ恥ずかしい!)
彼は喉の奥で一度言葉を押し戻した。そして、通り過ぎる人々のざわめきに紛れるように、小さく、そっと、真央のコンプレックスの声で言った。
「真央、おいで」
その一言は、いつもの悠人の声よりも、ずっと柔らかく、そして親密に真央の耳に届いた。真央は全身の力が抜けるのを感じた。自分のコンプレックスの声が、こんなにも愛おしく聞こえるなんて。
「・・・よし、一回分、消費。これは思ったより破壊力があるな」
真央は、興奮を隠しきれない悠人の声でそう言った。
「くそっ、今度は俺の番だ」悠人は少し悔しそうに笑った。
「じゃあ、真央。俺の顔で、『手、出して』って、命令して」
真央は、再び息を詰まらせた。
(命令? 悠人の声で?)
真央が普段、絶対に使わないであろう、強い言葉。真央は喉の奥で声を溜め、力強い悠人の声を、乱暴に口から押し出した。
「て、出して」
悠人は、その低い命令を聞いて、体がビリビリと痺れるような感覚を覚えた。そして、真央の手が、遠慮がちに彼の前に差し出された。
「・・・はい、お題達成だ」
悠人は、真央の声で、わずかに息を乱して言った。真央は照れを隠すように、すぐに手を引っ込めた。
「・・・次のフロア行くぞ」
真央は、悠人の声でそう言うと、悠人を強引に引っ張り、エスカレーターへ向かった。二人の間には、緊張感と、始まったばかりの秘密の遊びへの期待が満ちていた。
真央と悠人は通路を抜け、光と音が洪水のように溢れるゲームセンターへと足を踏み入れた。けたたましい音楽、激しい電子音、そして笑い声。その騒音は、逆に真央にとって救いだった。これだけ周りが煩ければ、多少声を出しても、誰にも聞き取られない。
二人は、向かい合って遊ぶ対戦型のゲーム機の前で足を止めた。
「ここでルールを追加しよう」
悠人は目を細めて言った。
「勝った方が負けた方に、お題を一回出せる。どうだ」
「いいぜ」
真央は、悠人の声で力強く返した。この勝負なら負けない自信があった。
真央は数分後、ゲーム機の前に突っ伏した。結果は、悠人の圧勝だった。
悠人は真央のコンプレックスの声で、得意そうに笑った。
「じゃあ、お題だ。今からプリクラを撮りに行くぞ。そのプリクラ機の前まで、俺の声で『私をリードして』と言いながら、手を繋いで歩け」
真央は、顔を上げる。悠人の声で「私をリードして」なんて、自分の口から出るなんて想像もできない。だが、これはゲームだ。
「・・・わかった」
真央は掠れた悠人の声でそう言って、悠人の手を掴んだ。そして、人々の間を縫いながら、プリクラ機へと歩き出す。
「ワタシヲ、リードシテ」
真央はまるでロボットのように、数秒ごとにそのフレーズを繰り返した。低い悠人の声が、その度に変に響いた。悠人はそれを見て、声を上げて笑った。
プリクラ機の中は、さらに賑やかで、周りの視線も気にしなくて済む。
「じゃあ、俺からお題」
悠人は、ポーズを指示する画面を指差しながら言った。
「その声で、俺に向かって『恥ずかしいから、もっとくっついて』と言ってくれ。そして写真を撮る」
真央は悠人の声でそれを言い、照れ隠しで悠人に寄りかかった。カシャ、というシャッター音と共に、二人の見た目通りの姿が、奇妙な言葉のやり取りと共に残された。
数回お題を消費し、二人の間の遠慮は薄れていった。
「もう一個、言わせる系のお題、出していい?」
真央はプリクラ機のカーテンを少しだけ開けて、外の賑やかな通路を眺めた。真央の心の中には、まだ言えていない少しだけ重い言葉が残っていた。
「さっきの本屋での話の続き。私の声で、私の顔を見ながら言って」
悠人は、真央の真剣な表情に、少しだけ戸惑った。
「なんだよ。まだ一回残ってるんだろ。いいぜ」
真央は一呼吸置いた。その沈黙は、ゲーセンの騒音の中でも、二人にしか分からない鋭い張り詰め方をした。
「『私のことが、嫌いじゃない』って言ってくれ」
悠人は、一瞬、笑いが止まった。『好き』ではなく、『嫌いじゃない』。その否定形を使うところが、真央のコンプレックスと自尊心を如実に示していた。
悠人は、これはゲームだと自分に言い聞かせ、真央の顔をまっすぐに見つめた。そして、真央の、遠慮がちな、小さな声で言った。
「・・・真央のことが、嫌いじゃない」
真央はそれを聞いて、すぐに顔を背けた。自分の声が、自分の望む言葉を口にしている。その事実に、真央は喜びと、相手に無理をさせた罪悪感が混ざった複雑な笑みを浮かべた。
「よし、お題達成だ。俺の分、使っちゃった」
真央はそう言って笑ったが、その悠人の声は、どこか強張っているように聞こえた。
「じゃあ、次のフロアに行くか」
悠人は真央の声でそう言って、真央より少し早くプリクラ機から出た。彼の心の中には、「ゲーム」の枠には収まらない、真央の切実な願いのようなものが、強く引っかかっていた。
ゲームセンターを出た真央と悠人は、モールの外側にある観覧車の乗り場へと向かって歩いていた。夕日が傾き始め、空気が少し静まり返っている。
真央はスマホでプリクラの写真を見ながら、隣を歩く悠人を見た。見た目はお互い、いつもの恋人なのに、声が違った。
(この写真、声まで写ってればいいのに。そしたら、今日の私たちがどんなに滑稽で、切実だったか、誰にも分かんないだろうな)
真央は悠人の声で、思わず呟いた。
「これ、声まで写ればいいのに」
悠人は、それを聞いて、真央の顔を覗き込む。
「そしたら、誰の声で何を言ってるのか、もっと分かんなくなっちゃうよ」
二人は観覧車の待ち列に並んだ。真央の心臓が、少しだけ高鳴る。残りのお題の回数は、互いにあと二回。一つ一つが、妙に重く感じられる。
「ねぇ、残りのお題さ、もうちょっと真面目に使うか」
真央が、低い悠人の声で言った。
「真面目に、って・・・」
悠人は不安そうに真央の目を見つめた。
「うん。じゃあ、俺から」
悠人は小さく息を吸い込んだ。
「真央、俺の顔で、『いつもありがと』って言ってくれ。心の底から、感謝の気持ちを込めて」
真央は、一瞬固まった。感謝の言葉。それを、遊びとして命令されることへの、抵抗。
(でも、これは、普段私が言えない言葉だ)
真央は、観覧車のゴンドラがゆっくりと動く音を聞きながら、悠人の声で絞り出すように言った。
「・・・いつも、ありがと」
その声は、重く、誠実さに満ちていた。言った瞬間、真央の胸の奥がチクリと痛む。これは、自分の言葉なのに、悠人の声を借りたせいで、遊びとして処理されてしまう。
悠人はそれを聞いて、複雑な表情を浮かべた。真央の声で、こんなにもまっすぐな感謝を聞いたのは初めてだった。
「・・・これで、一回消費だ」悠人は、真央の声で少しだけ早口に言った。
そして、真央の番だ。真央は残り二回しかないお題を、どうしても「確認」に使いたかった。
「あんたの残り二回のお題のうちの一つを使う」真央は、悠人の声で真剣に言った。
「私の顔をちゃんと見て。そして、その声で・・・『私のこと、本当に好きなの?』って、聞いてみてくれ」
悠人は全身から血の気が引くのを感じた。
「え、これ、マジで言うの?」
「命令だよ。拒否権はない」
真央の目には、冗談を許さない、強い意志が宿っていた。
悠人は深く頷き、真央の顔をまっすぐに見つめた。そして、真央自身の、心細くて繊細な声で、問いかけた。
「・・・ねぇ、私のこと、本当に好きなの?」
その瞬間、真央は、自分の声で問いかけられた気がした。この問いは、真央自身が、今日一日、ずっと喉の奥に押し込めてきた不安そのものだったからだ。
真央は咄嗟に答えようとして言葉に詰まった。
(好きだ。もちろん、好きだ。でも、それを悠人の声で言っても、誰の言葉になるんだ?)
真央が言葉を探していると、悠人が少しだけ焦ったように続けた。
「早く、答えてよ。これはゲームなんだから」
真央は、その「ゲーム」という言葉で現実に引き戻された。そして答えを口に出した。
「・・・大好きに決まってんだろ」
真央は、悠人の声で、力強く、断言した。
悠人は、それを聞いて、「自分の声」で「大好き」という言葉を聞いたことに、妙な動揺を覚えた。そして同時に、真央の顔から出る、あまりに断定的な悠人の声が、「ゲームだから言ってる」という不気味さを帯びているように感じられた。
二人の心の中に、「これは、本当に遊びなのか?」というじわっとした違和感が残った。
真央と悠人はモールの屋上テラスに出た。目の前には、遠くの街灯がぼんやりと光る静かな夜景が広がっていた。肌を撫でる夜風は冷たいが、二人の肩は柵にもたれかかるようにして、ごくわずかに触れ合っていた。
真央は、静かに息を吸い込んだ。
「変な一日だったね」
悠人が、真央の声で、夜景を見つめながら呟いた。
「ああ。でも、そこそこ楽しかった」
真央は、悠人の声で返した。口にこそ出さないが、今日という日がもうすぐ終わってしまうという寂しさが、真央の胸に重くのしかかっていた。
「残りのお題」
真央が、低い声で切り出した。
「あと、お互い一回ずつだ。これで最後だ」
悠人は真央の顔を振り返った。夜の暗闇の中で真央の表情はよく見えない。だからこそ、その声に込められた真剣さが、悠人の心に突き刺さった。
真央は最後の切り札を使う決意をした。
「私の残り一回のお題。あんたの顔で、私の声で、言ってほしい。『他の人と付き合うなんて、一生考えられない』って言ってくれ」
真央は思わず拳を握りしめた。それは、真央が抱える悠人を失うことへの最も深い不安だった。ゲームの体裁を取っているが、真央の本気度は、これまでの比ではない。
悠人は真央の言葉を聞いて、一瞬呼吸が止まった。
(一生、なんて。それを、ゲームのお題として、真央の声で言うのか?)
悠人は、喉の奥が固まるのを感じた。言葉自体は、本当の気持ちだ。だが、この場で、この声で、命令されて言うことの意味を、悠人は瞬時に理解してしまった。真央が、この言葉を強要しているのだと。
悠人は大きく息を吸った。真央の声が出ない。口を開いても、空気しか漏れなかった。
「……分かった」
悠人は最終的に、真央の声でごく小さく、囁くように言った。そして、真央の顔を見ながら、言葉を吐き出す。
「タ、他の人と付き合うなんて、一生、考えられない。……これで、いいだろ」
その言葉は、真央の声だったにも関わらず、あまりにも軽いトーンで夜の闇に吸い込まれていった。まるで、適当に相槌を打ったかのように。
真央は、その軽薄さに全身の血が逆流するのを感じた。
「今のが、本当に言いたかった言葉か?」
真央は、力強い悠人の声で、切れ気味に問い詰めた。
「ゲームだからって、そんな軽く済まさないでほしかった」
悠人は真央の声で、ため息をついた。
「じゃあ、真面目に言ったらどうなるの? 真央は本当に俺の本気の言葉が、今の声で聞きたいの? それ、ゲームでやることなのか?」
悠人の声は、真央の聞き慣れた声なのに、真央を深く責めているように聞こえた。
「だって、あんたが、ゲームにしようって言い出したんだろ!」
真央は、悠人の声で、感情をぶつける。
「そうだよ。でも真央は、俺に一生なんて言葉を、自分の声で言わせようとしたんだぞ! それ、もう遊びのラインを越えてるって気づいてないのか?」
二人の間に、重い沈黙が落ちた。夜景の光だけが、静かに二人を照らしている。
真央の心の中には、自分の声で自分を責めているような、気持ちの悪い感覚が広がる。そして、悠人の心の中には、真央の声で真央に怒鳴られたような、悲しい違和感が残った。
「・・・もう、今日は、お題はなしでいい」
真央は低い悠人の声で、そう言って柵から背中を離した。
悠人は何も言わなかった。ただ二人は、夜景に背を向け、少しだけ距離を空けて出口へ向かって歩き出した。このまま帰ったら、この溝は埋まらない。そんな予感が、二人の間に漂っていた。
「もう、今日は、お題はなしでいい」真央はそう言って、屋上テラスの柵から背中を離した。悠人の声が夜の空気の中で低く響いた。
悠人も何も言わずに、真央に倣って夜景から目を逸らした。二人は、誰からともなく同じ方向へ歩き出した。その足音が妙に響いて聞こえた。
沈黙が、重く二人の間に横たわった。第三章の終盤で投げつけられた言葉たちが、今度は声を持たずに、二人の頭の中でぐるぐると反芻されていた。
(あんたがゲームにしようって言い出したんだろ!)
(真面目に言ったら笑うんでしょ)
真央は喉の奥が張り付いたように固まるのを感じていた。謝りたい、あるいは、さっきの言葉は半分以上本音だったと告白したい。だが、その最初の一音がどうしても出てこなかった。
歩きながら、真央の肩が大きく揺れた。息を吸い込む音だった。口を開こうとすればするほど、悠人の声が喉に詰まり、息だけが荒くなった。
悠人の方も時折、真央の横顔を見ようとして、すぐに視線を足元に戻してしまった。彼は、真央の声で「ごめん」と言おうとして、何回か唇を動かしたが、結局、声帯は震えなかった。真央のコンプレックスの声が、彼の中で謝罪を拒否しているようだった。
交差点の信号が赤に変わる。二人は、横並びで立ち止まった。
真央は、この数十秒の間に、全てを話してしまわなければならないという強迫観念に襲われた。
「……あ、あのさ」真央が力のない悠人の声で、か細い一音を絞り出した。悠人はすぐに真央の方へ視線を向けた。
だが、青信号に変わるまでの数秒で、真央の喉は再び固まってしまった。
青信号に変わり、二人はまた歩き出す。チャンスを逃した自己嫌悪が、一つ真央の心に積み上がった。
駅に着き、ホームで電車を待った。真央は窓に映る悠人の横顔を見た。彼は、真央の声でいる。その真央の声で、彼は怒り、悲しみ、そして今、静かに耐えている。その姿を見て、真央の胸は、締め付けられるように痛んだ。
電車が到着し、二人は横並びに座った。窓の外には、暗い景色が流れていく。
降りる駅が近づいたとき、悠人が窓ガラスに映る真央の横顔に、問いかけるように言った。声は、静かで、諦めに近いトーンだった。
「……このまま、帰るか?」
真央は、窓の外から目を離さず、首を小さく振った。
「……ううん」
真央の口から出たのはそれだけだった。そのたった一言が、今日一日の終わりをまだ先延ばしにすることを意味していた。
真央は自販機で買ったペットボトルを握りしめたまま、ブランコのチェーンに寄りかかった。悠人は隣のベンチに腰を下ろした。さっきまでの電車内の張り詰めた空気は、少しだけ緩んでいた。
先に口を開いたのは、悠人だった。声は、真央の控えめなトーンだ。
「……変な一日だったね」
「ああ」
真央は、低い悠人の声で短く返した。ペットボトルのキャップをカチカチと指で弄る。手が落ち着かない。
「あんなに、ずっと誰かのフリをしていたのに、全然喋った気がしないや」
悠人は、自嘲するように、真央の声でふふっと笑った。その笑い声は、第三章の終盤と比べて少しだけ柔らかさが戻っていた。
「でも、ゲーセンの時とか、面白かったけどね。あの時、全然バレてなかったよ、きっと」
真央は悠人の声で、少しだけ前のめりになった。それは、真央にとって「頑張って演じたこと」が認められたようで、少し嬉しかったからだ。
「私も、プリクラの時の『嫌いじゃない』って言わせたやつは、楽しかった」
悠人は、真央の言葉に、ゆっくりと頷いた。
「うん。楽しかった部分も、もちろんあったよ。手繋いだり、あれは、ゲームだったからできたことだし」
悠人はそう言って、自販機の明かりに照らされた真央の横顔を見た。
「でもさ……やっぱり、あの最後の、一生っていうお題は、ちょっとやりすぎたね」
悠人が素直に「やりすぎた」と自覚を口にしたことで、真央の喉の奥の緊張が一つほどけた。
「私が悪かった」
真央は低い悠人の声で、静かに言った。
「私が、あんな言葉、ゲームのお題として出さなきゃよかった。あれ、あんたに言わせるの、きつかっただろ」
悠人は、首を小さく振った。
「きつかった、っていうか。線が分かんなくなった。手繋ぐくらいなら笑い飛ばせた。でも、『一生』とか、『好きじゃない』とか、本気で聞きたい言葉を、『ゲームだから言え』って言われるのは……」
悠人は真央の声で言葉を途中で切った。代わりに、彼の指先がベンチの木目を強く引っ掻いた。
「言わされた方も、辛いんだよ」
真央は、自分の声でそう言われたことでようやく事態の深刻さを正しく理解した。自分の不安を解消するために、悠人を道具にしてしまった。それが今日の失敗だった。
「ごめん」
真央は悠人の声で、二度目の謝罪を口にした。
この会話で、二人は「個人攻撃」から離れ、「遊び方が下手だった」という共通の認識にたどり着いた。ここからようやく、声の持ち主と、言葉の持ち主について、踏み込んだ話ができそうだ。
夜の公園の隅。真央と悠人の間には、ペットボトルを握る手の動きや、ベンチの木目を指でなぞる小さな音だけが満ちていた。さっきまでの「やりすぎたね」という軽い空気は、もう消えている。
真央が悠人の声で、深く、重く息を吐いた。
「……最後のあれさ」
真央は、観覧車で言わせた「一生離れない」というお題を、名指しせずに触れた。
「ほんとは、冗談じゃなくて聞きたかった」
真央は、そう言って、すぐに顔を伏せた。
「でも、普通に言ってと頼むのが、一番こわかった」
声は低い悠人の声なのに、その内容は、真央の最も弱い部分を晒していた。
悠人は真央の声で、苦しげに言葉を継いだ。
「俺だって、同じだよ」
悠人は自販機の明かりに照らされた真央の顔を、じっと見つめた。
「俺が、真央の声で、あんな中途半端な言い方で逃げたのは、ちゃんと言ったら笑われると思ったからだ」
「笑わない!」
真央は悠人の声で、反射的に強い声を上げた。
「笑うだろ。俺は、真央が自分の声で重いことを言うのが怖いって知ってたから。それに、ゲームに紛らせたら、半分本気でも許されるかなって思ってたんだ」
悠人はそう言って両手で顔を覆った。彼の口から出る、真央の繊細な声が、自己嫌悪の感情を露わにしている。
「それが気持ち悪かったんだよ!」
真央は悠人の声で、怒鳴りつけるように言った。
「あんたが私の声で、私の不安を解消しようと中途半端な言葉を出すのが。自分じゃない声で本気のことを言うのが、一番気持ち悪かった」
「じゃあどうすればよかったの!」
悠人の語気が強くなる。真央のコンプレックスの声が、感情を剥き出しにして真央を責めた。
「どうすればよかったか、知らないよ!」
真央は叫びそうになって、喉の奥で言葉を飲み込んだ。あと一歩で、完全に感情を爆発させるところだった。だが、悠人の今にも泣き出しそうな表情を見た瞬間、真央の喉は再び固まり、それ以上余計な言葉を出すことを許さなかった。
沈黙。
その沈黙の中で、悠人がベンチから立ち上がり、真央の前に立った。真央は顔を上げることができない。
悠人は真央の肩にそっと触れた。その手つきは、いつもの悠人そのものだった。
「真央」
真央は、びくりと肩を震わせた。
「あのね。ゲームでも、言ったこと自体は嘘じゃないから。全部俺の本気だから」
悠人は真央の声で、短く、しかし強い確信を込めて言った。
真央は悠人の声で「知ってる」と返したかった。だが、その言葉も喉で潰れてしまった。
真央は、ゆっくりと顔を上げた。夜の暗闇の中、目の前に立つのは、自分の声で、自分に愛を伝えてくれた恋人。
真央の中で、「お題ゲーム=無神経な遊び」ではなかったことが、ようやく理解できた。それは、怖がりな自分たちが本音を伝えるために、たまたま選んでしまった、不器用で歪んだ道具だったのだ。
真央と悠人は、しばらくの間、言葉もなく夜気に晒されていた。真央は時計を見た。
「そろそろ、やばいか?」
真央が、悠人の声で問いかける。
「うん、そろそろ行かないと、終電間に合わないかも」
悠人は立ち上がろうとベンチに手をかけた。
真央も立ち上がろうとして、ふと腰を浮かせかけて、また座り直した。その小さな動作が、微かにブランコのチェーンを揺らす。
悠人は不思議に思って、真央の方を振り返った。
真央は自分の手のひらを強く握りしめた。喉はひどく乾いていた。さっきまでの言い合いで、全ての水分が蒸発してしまったかのようだった。
「あのさ」
真央は力のない悠人の声で切り出した。
「ゲーム、抜きで」
真央は、悠人の顔をまっすぐに見つめた。悠人は驚いて、言葉を挟まなかった。ただ、真央の次の言葉を待っていた。
真央は深く、長く息を吸い込んだ。その吐息が、夜の冷気で白く、うっすらと眼前に広がった。
喉の奥で、最初の一音が潰れた。空気に溶けて、消えかかっていた。それでも、真央は、ごく短い一文を、自分の意思で、押し出した。
「……今日、すごく嬉しかった」
その声は、相変わらず悠人の低い声だったが、真央の胸の奥から、やっと解放された真央自身の言葉だった。
悠人は、その一言を聞いて、真央のコンプレックスの声で小さく、そして温かく返した。
「……俺も」
彼は、真央の顔から視線を逸らさなかった。その瞳には、茶化しも安堵も、何も混ざっていない。ただ、「聞いた」という、まっすぐな受容だけがあった。
その時。
真央は、自分の耳に届いた、悠人の「俺も」という声が、一瞬だけ、いつも聞き慣れた、低い悠人本来の声に戻ったような気がした。
真央はハッと息を飲んで、自分の喉元に触れた。
「……今の、」
真央がそう言いかけたとき、悠人の声で、「なに?」と問い返された。
やはり、声は真央のままだった。さっき聞こえた「悠人の声」は、真央の心がそう願った、一瞬の錯覚だったのかもしれない。
真央は、それ以上は言わなかった。
「もう行こう」
真央は、再び立ち上がった。
二人は公園を出て、駅まで歩いた。道中は、ほとんど言葉を交わさなかった。しかし、その沈黙は、第三章のような重さではなかった。まるで、今日一日で散らかした感情を、お互いの呼吸だけでそっと畳んでいるようだった。
駅で別れ、真央は帰宅した。
真央はベッドに倒れ込み、スマホを取り出した。画面には、今日撮ったプリクラの写真が表示されている。写真の中の真央は、いつもの悠人の声で「恥ずかしいから、もっとくっついて」と言い、笑っている。
真央は、その写真をそっと画面から消した。何も打たないまま、スマホを枕元に置いた。
暗闇の中、真央の耳には、先ほど公園で自分が言った、たった一言だけが、静かに反芻されていた。
(……今日、すごく嬉しかった)
その声は、悠人の声だった。だが、真央の心の中では、それは今までで一番、自分の声に聞こえた。
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