猫の花泥棒

伊阪証

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作品の前にお知らせ

下記リンクに今後の計画のざっくりした概要が書いてあります。余命宣告の話もあるのでショッキングなのがダメなら見ないことを推奨します。
あと表紙はアルファポリスとpixiv、Noteでは公開してます。

https://note.com/isakaakasi/n/n8e289543a069

他の記事では画像生成の詳細やVtuberを簡単に使えるサブスクの開発予定などもあります。
また、現時点で完結した20作品程度を単発で投稿、毎日二本完結させつつ連載を整備します。どの時間帯とか探しながら投稿しているのでフォローとかしてくれないと次来たかが分かりにくいのでよろしくお願いします。
今年の終わりにかけて「列聖」「殉教」「ロンギヌス」のSFを終わらせる準備をしています。というかロンギヌスに関しては投稿してたり。量が多くて継承物語は手間取っていて他はその余波で関連してるKSとかEoFとかが進んではいるけど投稿するには不十分とまだ出来てない状態です。


駅のホームから響くアナウンスの音は、二区画も離れたこの通りまでは、もう届かなかった。朝の六時半、駅の喧騒から切り離されたこの一角は、湿気をたっぷりと吸い込んだ、鈍色の静寂の中にあった。周囲に立ち並ぶのは、すべて同じく「虫とアレルギーの苦情」によって、駅前の華やかな通りから押しやられた花屋の軒先ばかりだ。
店主は重く冷たい金属製のシャッターに両手をかけ、軋ませながら持ち上げた。頭上を通過するローラーの鈍い音が止まると、彼の目の前の景色が、開かれる。
彼は、毎朝のルーティンを始める。まず、花桶の水を替える作業からである。バケツ一つ一つに手を突っ込み、昨日一日で澱んでしまった水を捨てて、新しい新鮮な水を注ぎ込む。その水の冷たさが、彼の疲れた指先を覚醒させていく。このとき、彼の世界は、途端に大量の植物の香りに包まれる。土の匂い、切り花の青臭さ、そして夜露に濡れた葉の深い緑の匂いだ。
水の交換を終え、花々の並びを整え始めたとき、彼の視線は店の隅に置かれたゴミ用のバケツに吸い寄せられた。
それは、昨日回収した、自然に萎れたり、水が上がらなくなったりした花を入れるためのものだ。だが、今朝はバケツの量が尋常ではなかった。バケツは、まだ朝の六時にも関わらず、ほぼ満杯に近かった。
バケツの中身を、店主は一歩踏み込んで確認した。
目についたのは、ひまわりの太い茎だった。下半分は健康的な濃い緑色を保っているのに、頭を支えるはずの場所は、まるで刃物で押し切られたように斜めに潰れて折られていた。その隣には、淡いピンクのチューリップの頭が、茎をちぎられ、水面に浮いていた。自然に落ちたのではなく、何らかの力で、むしり取られたような、乱雑な被害だった。
(また、やられた)
店主の胸に、重い石のような感情が沈んだ。この光景を見るのは、ここ数日の間で三度目だ。以前なら、こうして意図的に破損させられた花が、ゴミ用のバケツを埋めるのは、一週間か、それ以上のスパンだったはずだ。だが、最近は毎日だ。バケツの縁には、折れた葉や花びらがへばりつき、まるで小さな惨状の証拠を突き付けているようだった。
彼は指先で、折られたひまわりの茎の切り口をなぞった。切り口はざらつき、不規則な凹凸があった。それは、鋭利な刃物によるものではなく、獣の噛み跡か、あるいは強い力によるねじ切りに近い。彼は周囲を見回すが、人影はなかった。
作業を中断し、店主はレジ裏の小さな机に向かった。椅子を引き寄せ、引き出しの奥から帳簿と仕入れ伝票を取り出す。
取引帳のページを開くと、今月の売り上げと仕入れのバランスが、彼の視覚に訴えかけてきた。数字は嘘をつかない。
特に目につくのは、肥料の仕入れ伝票だった。三ヶ月前の単価、先月の単価、そして今月上旬に仕入れた最新の単価が、並べて書き込まれている。その差は歴然だった。世界的な事情で、肥料の値段が急激に高騰しており、それがそのまま赤字の蛍光ペンで強調されていた。
「一本あたりの原価」を頭の中で再計算する。わずか一ヶ月前までは、一本の花が折られても、全体の利益の数パーセントの損失で済んでいた。しかし今は違う。この高騰した単価では、たった一本の、しかも手元に残らない「損失」が、全体の計算を大きく狂わせ、店の存続そのものに負荷をかけてくる。
バケツに満載された折れた花。そして、目の前にある、容赦なく跳ね上がった数字。
店主は、冷たい仕入れ伝票の上に額を当てた。鉄板の熱い匂いではなく、冷たく湿った紙の匂いがした。
(この量の破損が毎日続き、この仕入れ値のままなら、店は確実に潰れる)
彼は、被害を「単なる虫害」や「不注意」で片付けられなくなっていた。
これほどの継続的な損失は、まるで誰かが、意図的に、この店の「金」を盗っているとしか思えない。
店主は、静かに伝票を閉じ、花屋の軒先をもう一度見た。そこに広がるのは、美しい花々ではなく、誰かに見張られ、狙われているという、静かで粘着質な被害の予感だった。彼の頭の中には、一つの明確な仮説が、冷たい確信となって残された。「これは、誰かが、意図的にこの店の『金』を盗んでいる」
店主は、レジ裏の小さな休憩スペースに、簡易な監視システム、手のひらサイズのモニターと、安価な小型カメラを設置した。本格的な防犯システムを導入するほどの資金的余裕は、今の花屋にはなかった。店主は、昨晩から動かし始めたカメラの映像を早回しで確認し始めた。
最初は、人間の姿を追っていた。深夜、人通りが途切れた後の通りを、映像は淡々と映し出す。数時間分の映像が、まるで秒針の動きのように素早く流れていく。怪しい影は映らない。泥棒が入るなら、もっと大きな袋や工具を持っているはずだ。彼は何度も再生速度を落としたが、疑念を裏付けるような人間の動きは、どこにも見当たらなかった。
(まさか、通りすがりの悪戯か?)
そう結論付けそうになったとき、映像の中央、軒先に並べられた鉢植えの群れが、突然、不自然に揺らめいた。
店主は、再生を停止し、フレームを一コマずつ送り始めた。
夜闇の中に、光を受けて反射する二つの丸い瞳が映り込んだ。猫だった。
以前から近所の花屋の周辺をうろついている、元飼い猫らしき、少し毛並みの荒れた個体だ。店主は、思わず画面に顔を近づけた。猫は、周囲を警戒しながら、静かに店先に近づいていく。
猫は、まず鼻を使い始めた。匂いを嗅ぎ、一つ一つの花に注意深く頭を寄せる。その動作は、まるで花の香りを判別しているかのようだった。尻尾はゆっくりと揺れているが、その耳は周囲の僅かな音を拾おうと常に動いていた。店主は、猫がまるで花を選んでいるかのような、その動物的な集中力に、一瞬だけ目を奪われた。
そして、事件が起こる。
猫が、ある一鉢の足元に突然顔を埋めた。次の瞬間、空中で小さな影が飛び交うのが見えた。虫だ。
彼は、この一連の動きから、花屋が駅前から外れに追いやられた経緯を、一瞬にして思い出した。駅前の華やかな場所では、香りの強い花は、すぐに「虫が集まる」「アレルギーが出る」という苦情に晒された。その結果、花屋は、この人通りも少ない、静かな裏通りに押し込められたのだ。この裏通りこそが、彼らが追いやられた理由である、虫たちの太い「通り道」の終点付近に位置していた。
その虫に、猫が飛びついた。
猫の動きは素早かったが、鉢植えは不安定だった。猫が勢いをつけて飛び上がった反動で、鉢は大きく傾き、花が何本か、根元から折れた。折れた花は、そのまま地面に落下した。
猫は、その虫を仕留めると、視線を地面に落とした。折れた花には、もう興味がないように見えた。彼は画面の中で、猫がそのまま立ち去るかと思った。
しかし、猫は再び、地面に落ちた折れた花の周囲に戻った。今度は、その花をくわえ始めた。
猫がくわえていく花は、売り物として並んでいる健康な花ではない。地面に落ち、売り物としての価値を失った花だけを、器用に拾い上げ、口にくわえて運び出す。その様子は、泥棒というよりは、むしろ獲物か、巣材を運んでいるかのようだった。
店主は、その映像を何度も繰り返し見た。夜の静かな店先で、猫が黙々と折れた花を拾い、どこかへ運んでいく。映像には、最後まで人間の影は映り込まなかった。
(泥棒は、人間ではない。あれは、あの猫だ)
最初に抱いた「悪意を持った人間による窃盗」という恐怖は、「悪意はないが、被害は甚大な動物による破壊」という、対処のしようのない現実に置き換わった。猫が花を盗む理由を、彼の理性は理解できなかった。ただ、匂いに引き寄せられ、虫を追いかけているに過ぎないのだろう。しかし、その結果、店は日々、肥料の高騰に加えて、避けられない損失を積み重ねている。
彼は、レジ横のカウンターに手を置き、身体の傾きを修正した。このままでは、ただ日々、被害を増やすだけだ。
彼は、昨日の朝、ゴミ用のバケツに山積みになっていた、あのチューリップの頭と、ひまわりの折れた茎を思い出した。あの量が、この猫一匹の行動の結果だとしたら、もう放置はできない。
猫の行動は悪意ではない。だが、悪意がないことは、店の経営を救う理由にはならない。
店主の心の中で、「誰かが花を盗っているのではないか」という漠然とした仮説は、「花を盗っているのは、あの猫だ」という、次の行動を決定づける明確な確信へと固まった。彼は、モニターの電源を切り、猫が映り込んでいた画面の残像を瞼の裏に残したまま、店の裏手に回る準備を始めた。
店主は、レジ裏の休憩スペースに立ち尽くしていた。手のひらに残る、簡易モニターの冷たい感触。映像で見た、猫の何気ない跳躍と、その結果として折れ曲がった花の惨状が、彼の思考の中心を占めていた。
(悪意はない。しかし、被害は続く)
そう結論付けた瞬間から、店主の感情は受動的な「被害者」から能動的な「対処者」へと切り替わった。このまま、毎日ただ花を折られ、高騰した肥料代の分だけ損失を計上し続けるのは、彼の性に合わなかった。
彼は、花桶から売り物にならない花を分け始めた。基準は厳しかった。少しでも萎れがちなもの、蕾の膨らみが悪いもの、茎がわずかに曲がっているものなど。これらは本来、閉店間際にまとめて処分される運命にあった。だが、今日は、それらを丁寧に選別し、カウンターの上に集めていく。
集まった花々は、それだけで小さな花束ほどのボリュームになった。ほとんどが、数時間後には捨てられてしまうものばかりだ。店主はそれらを、猫を誘うための囮として使うことに決めた。損失をこれ以上増やさないための、最低限のラインだった。
次に、店主はレジ下の棚の隅、ほとんど使われることのない場所に置かれた、小さな紙袋を思い出した。
それは、近所の老舗の花屋の店主が、以前「猫よけか、どうしても惹きつけたい時用に」と笑って置いていったものだった。中には、独特の香りを放つマタタビの粉が、少量だけ入っている。彼は、普段、自然な花屋の香りを大切にしていたため、人工的な匂いや、猫を不自然に惹きつけるようなものは使わなかった。だが、今は非常事態だ。この被害を止め、猫の行動パターンを掴むためには、ルールを曲げる必要があった。
店主は、紙袋の口を慎重に開けた。中に詰まった粉末は、独特の、鼻の奥を刺激するような強い匂いを放っていた。彼は、指先に少量の粉を取り、目の前の花束にごく軽く振りかけた。
(やりすぎたら、逆に猫が警戒するかもしれない)
彼の内心には、躊躇いがあった。マタタビが持つ、動物の行動を一時的に支配するような力は、彼が普段花と接する姿勢とは正反対だった。花は、自然の力に任せ、静かに見守るべきものだ。だが、今は、その自然の力が、彼の生活を脅かしている。
彼は、粉を振りかけた花束の匂いを、自分の鼻で確かめた。花本来の香りに混ざって、微かに、マタタビ特有の、甘く刺激的な匂いが加わっていた。これならば、猫を不自然に興奮させることなく、ただ「強い匂いのする花」として、その興味を惹きつけることができるだろう。
店主は、カウンターに両手を置き、深呼吸をした。胸の奥に、さっきまでの諦めとは違う、小さな反骨心が生まれているのを感じた。
(たかが猫一匹に、うちの経営を左右されてたまるものか)
彼は、この一連の被害を、悪意のない動物の破壊として片付けることを拒否した。この花屋は、虫の苦情とアレルギーを嫌う人々の視線から、この駅外れに追いやられた。そして、今度は、その「外れ」ゆえに集まった虫を追う猫によって、またもや追い詰められようとしている。
彼は、この理不尽な連鎖をどこかで断ち切る必要があった。そのために、まず相手を知る。猫が、なぜ折れた花にこだわるのか。そして、どこへ、何を運んでいるのかを。
店主は、マタタビの粉を仕舞い、花束をきつく縛り直した。その結び目は、彼の「これで正体を突き止める」という強い意志そのものだった。
彼は、この囮の花束を抱え、夜の帳が降りる前に、店の裏手に回る準備を始めた。
日没直後。空の色は濃い藍色だが、西の空にはまだ薄い残光が残っている。店主は、囮のマタタビを仕込んだ花束を、店の裏手、いつも猫が横切っていく低めの塀の脇に置いた。その後、彼は自身もその近くの、使われていない空調設備の陰に身を隠した。
五分もしないうちに、その猫は現れた。
猫は、すぐに頭を振り始めた。その動きは迷っているというより、何かを確認しているようだった。鼻をひくひくと動かし、周囲の空気を探っている。そして、店の裏手の塀際に置かれた囮の花束を見つけると、猫の歩調は目に見えて速くなった。
猫は花束にまっすぐ近づくことはしなかった。周囲を大きく一回りし、人間の気配がないことを確認するように静止した。瞳は、暗闇の中で光を反射させ、店主の隠れている方向を一瞬だけ睨んだようにも見えた。その警戒心は、「可愛がってほしい」という甘えとはかけ離れた、親を失った子どもが持つ、世界に対する不信そのものだ。
やがて猫は、花束まで距離を詰め、その匂いを嗅ぎ始めた。花そのものの香り、そしてマタタビの甘く刺激的な匂いの塊に、猫は顔をすり寄せる。花びらを噛むわけでも、引きちぎるわけでもない。ただ、花屋の空気が濃縮されたその匂いの塊を、全身で味わっているようだった。
満足したように、猫は花束から、折れて垂れ下がっていたラナンキュラスの葉付きの茎をくわえた。花そのものではなく、匂いの強そうな、持ち運びやすい部分を選んでいる。その動作は、食料を運ぶというより、お気に入りの匂いを持ち帰るという、独特な目的を感じさせた。
猫が歩き出すのを確認し、店主は音を立てないように、物陰から身体を滑り出させた。追跡が始まった。
猫の歩く道は、人通りが途切れた後の、さらに細い裏路地だ。道幅は狭く、古びた建物や、錆びついた業務用冷蔵庫が放置されているような場所が続いている。路地の空気は湿り、虫の羽音が一層大きく聞こえた。まさに、この駅外れの、「虫の通り道」の真ん中を進んでいるようだった。
猫は時折、立ち止まった。振り返り、店主との距離を測る。店主が少しでも距離を詰めすぎると、猫は素早く近くの塀の上に飛び乗り、一段高い場所から警戒の視線を送ってきた。
(本当に、逃げ切る気がないんだな)
店主は、猫のその距離感に戸惑った。逃げようと思えば、いくらでも速く逃げられるはずだ。しかし、猫は常に、店主が尾行できるギリギリの速度で、立ち止まり、待っているようにも見えた。まるで、「ここまでならついてきてもいい」という、線引きをしているかのようだった。
彼は、猫の背中を追って、さらに路地の奥へと進んでいった。路地がカーブし、視界の先が狭くなる。駅のざわめきや、車の走る音は、完全に消え去っていた。
猫の歩みが、急に緩やかになった。
路地の突き当たりは、古い建物の裏側にできた、細長い空き地のような場所だった。風はほとんど通らず、周囲のコンクリート壁に、様々な匂いが凝縮しているように感じられた。
猫は、そこで立ち止まり、くわえていたラナンキュラスの茎を、口からそっと離した。その花は、地面の、わずかに影になった場所に静かに置かれた。
そして、その花のすぐ隣に、人がいた。
店主は、思わず息を飲んだ。彼の頭の中の予測リストには、「猫の巣」や「猫の仲間」はあったが、「人間」という項目はなかった。
それは、二十代前半から半ばくらいに見える青年だった。くたびれた、色の抜けたパーカー姿で、膝を抱え、体を丸めて横になっていた。その姿は、まるで猫が日向で丸くなっているときのシルエットに酷似していた。酔っぱらいというには顔つきが若く、ホームレスというには、身に着けているものが清潔すぎた。
猫は、地面に花を置くと、警戒心を解いたように、青年の顔の近くにそっと頭をすり寄せた。鼻を動かし、青年の頬やパーカーの匂いを確かめている。その仕草には、親愛の情が溢れていた。
店主は、隠れていた物陰から、青年の姿を注視した。青年の胸元に、何かが乗っているのが見えた。よく見ると、それは、既に萎れて茶色く変色し始めた、折れた花だった。
店主の頭の中で、思考が激しく回転した。
(花泥棒を追い詰めた。犯人は猫だった。……だが、その猫は、盗んだ花を、この人間に運んでいたのか?)
最初、「犯人を捕まえた」という、わずかな達成感が胸をよぎった。だが、青年の丸まった姿と、猫が彼にすり寄せる情景は、その達成感を霧散させた。
(彼は、誰かに襲われたのか? いや、ただ眠っているだけに見える。だとしたら、なぜ猫は、折れた花を、まるで贈り物のようにこの人間のそばに置いたんだ?)
店主は、猫と青年、そして地面の花から目が離せなかった。猫は、青年から逃げない。青年もまた、猫の行動を拒絶していないように見える。その光景は、第三者には踏み込めない、他人同士ではない、独特な距離感を保っていた。
店主の心の中で、これまでの仮説は完全に塗り替えられた。
「花泥棒(だと思って追った猫)は、花をこの人間に運んでいたのかもしれない」
彼の驚きは、ただの「誰かに盗まれた」という被害の感情を超え、この駅外れの路地で進行していた、奇妙な関係性への戸惑いに変わった。
店主は、呼吸を整えた。
路地の奥には、花を運ぶ猫と、猫みたいな人間が、同じ匂いの中で静かに寄り添っている。
店主は路地の突き当たりで、凍りついたように立ち尽くしていた。眼前には、丸く身を寄せ合う猫と、地面に横たわる青年、そして猫が運んできたばかりのラナンキュラスの茎があった。静けさと、花屋から流れてきたわずかな香りが、この光景を異様な一枚絵として固定していた。
彼は、まず青年の生存確認をしなければならない、という現実的な義務感に駆られた。
一歩、二歩と、慎重に距離を詰める。その足音に、青年のすぐ隣に座っていた猫が反応した。猫は、低い唸り声こそあげなかったものの、その毛をわずかに逆立て、瞳を細めて店主を睨みつけた。威嚇というより、「これ以上近づくな」という明確な境界線の主張だ。
店主は、猫を刺激しないよう、動きを緩めた。青年は、依然として膝を抱えた姿勢のまま、動かない。まるで、幼い子どもが隠れるように、体を小さく丸めていた。
店主は、青年の肩にそっと指先で触れた。パーカー越しに伝わる体温は、冷たすぎず、熱すぎもしない。彼は、もう一度、もう少し強く、青年の肩を揺すった。
「おい、大丈夫か?」
ごく小さな声だったが、路地の静けさの中で、その言葉は大きく響いた。
青年は、すぐに生存の証拠を示した。深く息を吐き出すような、うめき声が、彼の喉の奥から漏れた。そして、閉じられていた瞼が、重そうに、わずかに持ち上がった。瞳はぼんやりとして、焦点が定まらない。店主の顔を捉えているのか、それとも目の前の暗闇を見つめているのかも判別できなかった。
「……すみません」
青年は、それだけを、ほとんど音にならないかすれ声で絞り出した。その声には、助けを求める切実さよりも、「迷惑をかけてすみません」という妙に大人びた謝罪の色が濃かった。彼は、泥酔している者のように大声で騒ぐことも、怯えて叫ぶこともなかった。ただ、申し訳なさだけを空気の中に残した。
店主は、その一言を聞いて、青年が単なる酔っぱらいや、悪意ある人間ではないと判断した。少なくとも、意識はあり、会話の端緒は開かれている。
彼は、猫との関係を改めて見た。
店主が青年の肩を揺すっている間も、猫は青年から身体を離さなかった。猫は、青年のパーカーにその顔を擦り付け、青年の匂いを常に確認しているようだった。店主が近づくと、一瞬だけ身を引いたが、その足は常に、青年を起点とする円の内側に留まっていた。まるで、彼と青年は、一つの縄張りを共有しているかのように。
その光景は、一目で「飼い主とペット」という単純な関係を超越していた。猫は、青年の保護者のようでもあり、青年は、猫の唯一の居場所を具現化したようでもあった。その距離感は、家族未満、しかし完全な他人でもないという、彼らだけの特殊なルールを暗示していた。
店主の頭の中で、現実的な判断が整理されていった。
(路地にこのまま放置はマズい)
夜はまだ長い。夜気が冷え込む前に、雨が降る可能性もある。もしここで風邪でも引かせたら、店主自身が責任を負わなければならない。それは、彼が最も避けたかった「情による出費」だ。
(だが、救急車を呼ぶほどではなさそうだ)
青年は自力で返事を返し、呼吸も落ち着いている。救急車を呼べば、警察が介入し、身元確認や事情聴取など、厄介な手続きが増える。この「花泥棒事件」を穏便に処理したい店主にとって、それは避けたい事態だった。
店主の脳裏に、「とりあえず助ける側の大人」としての行動指針が固まった。感情に流されたわけではない。後々の面倒を避けるための、最も効率的な手段としての「保護」だ。
彼は、青年の細い腕を掴み、ゆっくりと引き起こした。青年は抵抗しなかったが、身体に力が入っておらず、ほとんど店主の体重に預ける形になった。
店主は、青年の肩を支え、路地の出口、つまり自分の花屋の方向へと歩き始めた。彼は、猫を誘ったり、声をかけたりはしなかった。
しかし、猫はすぐに、店主たちの後ろを、静かについてきた。路地の暗闇の中、猫の小さなシルエットは、常に二人の背中に、一定の距離を保って寄り添っていた。
店主はよろめく青年を支えながら、店の裏口から作業用の簡易スペースへと連れ込んだ。古びた木製の作業台と、積み上げられた段ボールに囲まれた、小さな裏空間だった。店主は、ストック用の木箱を一つ引き出し、青年をそこに座らせた。
青年はぐったりと凭れかかることもなく、背筋をわずかに伸ばして座った。その動作には、助けられているという状況に対する一種の緊張感が張り付いている。
店主は、作業台の隅に置いてあった、プラスチック製の水差しと、うがい用のコップを取り出した。水道から汲んできたばかりの冷たい水を注ぎ、青年の方に差し出す。
青年は一瞬ためらった。遠慮か、警戒か。彼の視線はコップの中の水ではなく、差し出す店主の手元をチラリと見た。だが、喉の渇きは勝てなかったのだろう。
「……ありがとうございます」
青年は、深く頭を下げ、静かにコップを受け取った。その礼儀正しい態度は、彼が単なるホームレスや浮浪者ではないことを示していた。彼はコップを両手で持ち、水を飲み干した。水を飲む動作は、行儀が悪くなかった。一口ずつ、ゆっくりと、しかし確かな勢いで水分を補給していく。その一連の動作に、「助けは受け入れるが、過剰な恩義は負わない」という彼独自のルールが見て取れた。
水を飲み終えた青年は、空になったコップをすぐに店主に戻した。
「助け」は受け入れたが、「滞在」には居心地の悪さを感じている。青年の姿勢は、座っているにも関わらず、すぐにでも立ち上がれるような浮き足立ったものになっていた。
その間、猫は店内を動き回っていた。
猫は、店主たちが裏口から入ってきた後も、警戒心を解いていなかった。だが、店から出て行くこともしない。猫は、花屋の隅々、特に水桶の周囲や、花の香りが濃い場所を、しつこく嗅ぎ回っていた。店内の空気は、路地とは比べ物にならないほど、何種類もの花の匂いが層を成している。猫は、その匂いの絨毯の上を歩き、青年の足元と、奥の花の陳列棚の間を、まるで縄張りの匂いを確認しているかのように、何度も往復した。
店主は、青年に向かって、会話の糸口を探ろうとした。
「あの、君。どこから来たんだ? ここに住んでいるのか?」
店主がそう問いかけようと、口を開きかけた、その瞬間だった。
青年は、水の入っていたコップを店主に戻すために、視線を合わせた直後、ふっとその目を逸らした。そして、何も言わない。
店主は、質問の言葉を、喉の奥で飲み込んだ。彼の問いかけは、青年の沈黙によって、空気の中に掻き消された。店主は、青年がこの質問を拒否していることを明確に理解した。
その沈黙の中、猫が青年の足元に一度だけ頭をすり寄せた。その仕草は、純粋な甘えのように見えた。だが、店主が近づくと、猫はすぐに警戒の表情に戻り、店の奥へ数歩、距離を取った。
助けを受け入れ、水を飲み、命の恩人に礼を言う。それは青年の持つ「甘え」の側面だ。しかし、自分の居場所や身の上という核心に触れられると、彼はすぐに心を閉ざし、周囲から一線を引く。
店主の内心には、一つの推測が浮かび始めていた。
(この猫は、この店の匂いを、どこかの「家」の匂いと重ねているのだろう。そして、この青年は、その猫に連れられて、ここに辿り着いた)
猫は、花屋の匂いを気に入り、青年は、猫が選んだ場所を一時的な安全地帯として受け入れている。店主は、青年の整った顔立ちや行儀の良さから、彼がどこか、きちんとした場所から、何らかの理由で、はじき出されてきた人間ではないか、という推測を深めた。
そのとき、猫が再び、店主の方を見た。猫の視線には、明らかな警戒があった。「この店に居たい。だが、この大人には、それ以上踏み込まれたくない」という、二律背反する意思が、その細い瞳の中に宿っているように感じられた。
店主は、青年にも、猫と同じ、「甘えと不信感」が同居していることを感じた。彼らは、まるで親代わりの存在を探し求めて、ここに辿り着いた、見かけ上の親子のようにも見えた。だが、店主がその「親」の役割を演じようと、一歩でも踏み込めば、彼らはすぐに逃げ去ってしまうだろう。
店主は、無理に問い詰めることをやめた。青年の居心地の悪さが、空気を通して彼に伝わってきた。
花屋の裏の簡易スペースには、重い沈黙が落ちていた。水を飲んだ青年は、まだ木箱の上に座ったままだが、すでに立ち去りたいという焦燥感が、その身体の輪郭から滲み出ているようだった。店主もまた、彼の身の上を深く詮索することが、このデリケートな関係を壊すだけだと察していた。
店主は、その沈黙に耐えきれず、自分のことについて独り言のような軽い雑談を始めた。
「ここ、駅から遠いだろう?」
店主は作業台の角を指先でなぞりながら、青年ではなく宙に向かって話しかけた。
「元は駅前の、もっと明るい場所にあった。でも、うちの花が運んでくる虫とか、香りにアレルギーだっていう苦情がひどくてな。この通りに押し出されてきたんだよ」
それは、嘆きというより、もう諦めが混じった愚痴に近いものだった。この「外れ」に来てしまえば、周囲にチェーン店や住宅街がなく、「こっち側」は、もう誰も文句を言わない。店主は、自分たちが住民には好かれない存在として、ここに隔離されている事実を、口が滑ったように、ぽつりと漏らした。
その間、猫は青年の足元で丸くなっていた。しかし、店主の独り言を聞くかのように、猫はゆっくりと顔を持ち上げ、店主の方を一瞥した。その視線には、警戒の色とわずかな同調のようなものが混じっていた。
店主は、言葉を止め、青年の反応を待った。
青年は、相変わらず店主とは目を合わせなかったが、静かに、短い一言を返した。
「……そういうの、俺もよくあります」
その声は、消え入りそうで、店主の耳に届くか届かないかギリギリのラインだった。しかし、その一言には、「俺も同じ場所を知っている」という明確な共感の感触が含まれていた。
店主は、青年のその一言を即座に察した。
(ああ、こいつもか)
「虫のせい」「花のせい」と、表面的な理由は何であれ、結局、この店の主である自分は、誰かの都合の良い場所から押し出されてきた側だ。そして、目の前の青年もまた、彼自身の事情で、社会のどこかの場所からはじき出されて、この駅外れの路地に流れ着いた。
店主は、青年に向かって「どこから?」と深く突っ込むことはできなかった。その一言だけで、彼の過去の背景をすべて理解したような気がした。青年がその胸元に抱える「詳しく聞くなよ」という空気を、店主は尊重した。
青年がその短い一言を口にした、まさにその瞬間。
青年の足元にいた猫が、身体を滑らせた。猫は、青年の丸く曲げられた膝のあたりに、前足をそっとかけた。そして、青年の体を頼りにするように、その身体をすり寄せた。
それは、単なる甘えではない。
猫は、花屋の愚痴を聞き、そして青年の「俺もよくあります」という返事を聞いた。猫の行動は、あたかも「おまえも、俺たちと同じ側だ」と、青年を自分たちの領域に引き入れているかのようだった。猫の匂い、青年の匂い、そして花屋の匂いが、その瞬間に、「外れ者たちの居場所」という新しい層を形成した。
店主は、その猫と青年の、一瞬の濃密な接触を見て、確信を深めた。目の前にいる二つの存在は、立場こそ違え、この社会の「外側」に立たされている者たちなのだ。彼らがこの「外れ」にある花屋の匂いに惹かれるのも、必然だったのかもしれない。
しかし、店主は、その認識を言葉にすることはしなかった。総括すれば、この二人の警戒心をさらに強めるだけだと知っていた。彼はただ、彼らが自分と似た位置にいることを、内側で静かに受け入れた。
青年は木箱に座ってからおよそ三十分。冷たい水を飲み、店主の他愛のない愚痴を聞くことで、路地裏での消耗から回復したと判断したのだろう。青年は、店主の次の質問が飛んでくる前に、自発的に行動を起こした。
青年は座っていた木箱の上から、ゆっくりと立ち上がった。その動作には、先ほどのようなふらつきはなく、彼本来の警戒心を含んだ緊張感が戻っていた。
「……そろそろ行きます」
青年は、それだけを静かに店主に告げた。礼儀は弁えているが、そこに「また会うための理由」をつけ加える気配はなかった。彼の行き先は語られなかった。店主も、それを問うことはしなかった。もし聞けば、彼は再び心を閉ざすだろうと、店主は知っていた。
店主は青年を引き止めなかった。彼の内面の事情に土足で踏み込むことは、自分の店の経営とは無関係な不要な情だ。
彼は、青年の立ち去る決意を受け入れ、ただ、少しだけ世話を焼く側の大人として振る舞った。
「そうか。じゃあ、店の前まで見送る」
店主がそう言うと、青年は僅かに戸惑ったような表情を見せたが、それ以上は拒否しなかった。彼を店外まで見送るという行為は、「ふらつかれて後々面倒になる」ことを避けるための、店主の合理的な判断でもあった。
二人が店の裏口から出ようとしたとき、猫の動きが停止した。
猫は、店の奥の花桶の近く、花屋の最も香りが濃い場所を嗅ぎ回っていた。青年が歩き出したことで、猫は、一瞬だけ、どちらについていくか迷ったように見えた。その細い体が、青年の方向と、花屋の奥の匂いの方向へ、わずかに揺れた。
しかし、その迷いは一瞬で終わった。
青年が店主に見送られながら通りへと歩き出すと、猫はすぐに、青年の背中を追うことを選んだ。
猫は、店主たちが歩く数歩後ろを、静かに、影のようについていった。その歩調は、路地裏で見せたような、警戒の混じったものではない。まるで、「守るべきもの」についていく忠実さのようなものが滲んでいた。
店主は、青年に向かって、最後の言葉をかけた。それは、彼らの関係を固定しない、最小限の「保険」のようなものだった。
「……また、道端で倒れてたら困るから。もし、具合悪くなったら、また水くらいは出す」
店主は、彼らを完全に突き放さなかった。それは、彼の胸の奥に芽生えた「同じ外れ者同士」という同調の念と、「次に被害があったら、今度こそ突き止める」という経営者としての警戒心が混じり合った、複雑な優しさだ。
青年は、店主の方を振り返らなかった。
店主の言葉に対する返事はなかった。しかし、青年は一瞬だけ歩みを緩めた。その緩やかな歩調は、店主の言葉を「受け取った」という曖昧なサインのように感じられた。
二人が通りに出て、角を曲がろうとした瞬間。
猫は、青年に少し遅れて歩いていたが、店主の花屋の軒先で足を止めた。猫は、まるで立ち止まって匂いの地図を記録するかのように、鼻をひくひくさせ、店内の香りを深く吸い込んだ。そして、もう一度だけ、店の方向を一瞥し、すぐに青年の後を追って、路地の奥へと消えていった。
店主は、二つの影が完全に消えるのを見届けた後、店の戸を閉めた。彼は、花屋の中に、一人きりになった。
彼は、頭の中で整理した。折れた花は猫が壊し、その猫は青年を「家のような匂い」に連れて行っていた。青年は今、何も語らずに去っていった。店主は彼らを追い詰めることができたはずなのに、最終的に何も手に入れず、ただ水を与えて見送っただけだった。
互いに、完全には踏み込まないまま、外れ者同士として緩く繋がった。その奇妙な関係だけが、この駅外れの花屋の静けさに残されていた。
あの日、青年と猫を見送ってから、四日が経っていた。
店主の朝のルーティンは相変わらずだった。朝の仕入れ業者から届いたばかりの鮮度の高い花をチェックし、花桶の水を入れ替える。駅前の店と比べれば、この駅外れの通りは、人通りが少なく、ゆったりとした時間が流れている。しかし、その静けさの中にも、店主の胸の奥には変わらない重さが横たわっていた。
折られた花の量は依然として少なくなかった。ゴミ用のバケツには、毎日、萎れた花に混じって、虫に引き寄せられた猫によって損壊させられたと思われる茎や花びらが確実に増えていた。店主は、それらを黙って処理しながら、被害の原因であるはずの猫と青年の姿を、どこか探している自分がいることに気づいていた。
午前九時を少し回った頃だった。
店の軒先、陽当たりの良い場所に、その猫は現れた。ふらりと現れたという表現が、最も相応しい。猫は、店主の存在には無関心なふりをして、店の周囲を嗅ぎ回り始めた。特に、花桶や、鉢植えの影になっている場所の匂いを、念入りに鼻でひくひくと探っていた。
その態度には、前に見たような、甘えきれない子どもの警戒心が残っていた。店主がわずかに近づこうとすると、猫はすぐに距離を取り、店主に背を向けたまま、花屋の匂いを吸い込もうとする。それは、この店の香りが好きだが、店主という人間には、まだ完全には懐いていないという曖昧な意思表示だ。
猫が店先の匂いを一通り確認し終わった、その時。
路地の奥、前回二人が消えていった方向から青年が歩いてきた。青年は、猫のように細かく周囲を探ることはしない。ただ、猫を目で追いながら、ゆっくりと、しかし確かな方向性を持って、花屋へと近づいてきた。彼の服装は、前回と同じく、くたびれたパーカーだったが、表情は前回の憔悴した様子とは違い、幾分か落ち着いていた。
青年は、猫が店主の花屋の匂いを嗅いでいるのを視認すると、歩みを止めた。
店主は、作業の手を止め、青年と向き合った。前回のような緊張感は、二人とも持っていなかった。
「……こんにちは」
青年は、前よりは少しだけ自然に、しかし、まだどこかよそよそしさを残したまま、小さな挨拶を口にした。それは、彼らが「助けられた側」と「助けた側」という関係を、曖昧ながらも認めていることを示していた。
店主もそれに短く応え、猫の行動に視線を戻した。猫は、店の前を、まるで何かを探し直しているかのように、再び往復し始めた。
青年は、店主のその視線に気づいたのだろう。彼は、猫の動きを黙って見つめた後、短い台詞一つで、店主に提案を投げかけた。
「あいつ、いつも同じ道を通るんです。匂いを辿っているのか、縄張りの確認なのか。よければ、見ておきますか?」
それは、彼らが出会うきっかけとなった「花泥棒の被害」の原因を、共に突き止めようという、青年からの小さな招待だった。青年は、店主への返礼として、猫の情報を提供しようとしているようにも見えた。
店主は、その提案を断る理由を持たなかった。店の損失を止めるため、そして、この不可解な猫と青年の関係を知るためにも、彼らの歩く道を見る必要があったからだ。
「分かった。少しだけ付き合う」
店主が了承すると、青年は小さく頷き、猫の方に視線を送った。
猫は、もう店の匂いを嗅ぐのをやめていた。彼は、花屋の前にそろった二人の人間を待っていたかのように、先に立って、路地の奥へと歩き出した。
店主と青年は、お互いに無言のまま、約一メートルの距離を保ちつつ、その小さな後を追った。花屋の前に、「店主・青年・猫」の三つが並び立ち、そして、猫が先導するように、駅外れの細い路地へと進んでいく構図で、次の場面へと繋がれた。
猫は花屋の裏手の路地から、さらに奥へと繋がる舗装が剥がれかけた細い道を先頭で進んでいた。猫の歩調は一定で、その耳は常に、周囲の音を探っている。店主は青年に続いて、その小さな後を追っていた。青年と店主の間には、常に一メートルほどの縦の距離が保たれており、横並びになって親しく会話をする雰囲気ではなかった。
細道に入ると、空気の質が変わった。花屋の前にいたときよりも、明らかに虫の存在が濃くなった。
猫の頭上、電柱の灯りの周りには、小さな羽虫の群れが、常に音を立てて渦巻いている。路肩の側溝や、雑草が深く茂った植え込みの周囲では、さらに虫の密度が増した。店主は、思わず腕で顔の周りを払うが、青年は慣れているのか、さほど気にする様子もない。
道は、花屋が立ち並ぶ駅外れの商業エリアから、さらに外側へと向かっていた。周囲の景色は、新しく建てられたアパートよりも、古い木造の家屋や、解体待ちの空き地が目立ち始めていた。
猫は、時折立ち止まり、深く空気を吸い込んでいた。その仕草は、ただ匂いを追っているというより、まるで匂いの方向と濃度を測っているかのようだった。そのたびに、猫の身体が向く方向には、必ず虫が濃い場所があった。
店主はふと立ち止まり、歩いてきた道を振り返った。
細い道の先に、自分の花屋の軒先が、ぼんやりと見えた。そして、その花屋から今いるこの細道に向かって、目には見えない太い線が、一本伸びているような気がした。その線の正体は、花屋の肥料と花の香りに惹かれた虫たちの、通り道に他ならない。
(うちが、この虫の通り道の起点の一つになってるんだ)
店主は、内心でそう気づいた。駅前で嫌われ、この「外れ」に追いやられた結果、自分たちの店が、今度はこの地域の生態系、ひいては猫たちの世界にまで影響を及ぼしている。その事実に、彼は微かな責任のようなものを感じた。
猫が再び歩き出したとき、青年が、ぽつりと短い一言を口にした。
「前は、この先、もう少しだけにぎやかだったんです」
青年は、店主の顔を見ずに、先導する猫の背中を見つめながら言った。その一文には、過去に何らかの存在があり、それが今はもう失われているという、曖昧な情報だけが含まれていた。
店主は思わず青年の方を見た。「何が賑やかだった?」と尋ねそうになる。しかし、彼はその言葉を飲み込んだ。青年は、その一言で、すでに店主に「それ以上は聞くな」という空気を送っているように感じられたからだ。
青年は、店主の沈黙を確認したかのように、猫の背中を追って歩を進めた。
道はさらに細くなり、周囲の建物は完全に途切れ、低い塀と空き地が続くエリアに入った。ここが、花屋の通りとは完全に切り離された、別の領域だと感じられた。
猫は、道の真ん中で、まるで目的地が近いことを示すかのように、一度だけ大きく身震いした。彼らの行く手には、さらに荒涼とした、古いコンクリートの構造物が見えていた。
まだ道は続きがあった。
猫が止まったのは、周りを高い塀に囲まれた、小さな広場のような空き地だった。アスファルトは剥がれ、土がむき出しになり、その上に雑草が伸び放題になっている。ここには、もう、街の機能として残されたものは何もなかった。
広場には、動物たちの生活の痕跡が、静かに、しかし濃厚に残されていた。
片隅には、木製の壊れかけた犬小屋が、半分地面に埋もれたように横たわっている。その手前には、いくつもの錆びた餌皿が、無造作に転がっていた。皿には、もう何日も前から乾ききった餌の粒が、ごくわずかに残っている。湿気を含んだ土の上には、使い古されて色が変わった古い毛布が、風に飛ばされないように石で押さえられていた。
それは、間違いなく、かつて野良猫や犬が集まる、ゆるやかなコロニーだった場所だ。だが、今は新しい生き物の気配はほとんどない。残されたのは、過去の賑わいが去った後の、荒涼とした静けさだけだった。
青年は、空き地の入口付近で立ち止まった。彼は、地面を踏み入れようとはしなかった。ただ、目の前の荒廃した光景を、じっと見つめている。その表情には、悲しみというよりも、諦念のような、受け入れてしまった感情の色が濃かった。
猫は、迷うことなくその空き地の中に入っていった。
猫は、まず地面の匂いを嗅いだ。次に、壊れた犬小屋や、古い毛布の周囲を、丁寧に嗅ぎ回る。その動作は、自分の記憶と、現在の匂いを照合しているかのようだった。猫は長居しなかった。十分もしないうちに、彼は嗅ぐべきものを嗅ぎ終えたかのように、店主たちの方へ引き返してきた。その行動は、「ここが、以前自分の縄張りだった場所だ」という事実を、無言で伝えていた。
猫が戻ってきたとき、青年は、沈黙を破って一つの台詞だけを口にした。
「前は、もう少し……いろんなやつがいました」
青年はそれだけを言い残すと、すぐに視線をそらし、足元の猫に目を落とした。彼は、何があったのか、なぜ「いろんなやつ」がいなくなったのかという詳しい説明を付け加えることはしなかった。その一言は、店主の質問を拒否し、この場の空気を、沈黙によって断ち切る役割を果たしていた。
店主は、青年の言葉、猫の帰還、そしてこの荒廃した空き地の景色を、頭の中で一瞬にしてつなぎ合わせた。
すべては、一本の線で繋がっていた。
(花屋は、虫とアレルギーを嫌う人々に押し出され、この駅外れの通りに来た。→ 花と肥料の匂いが虫の通り道を濃くし、虫たちはこのコロニーまで集まってきた。→ 虫が増え、病気やストレスが増したことで、ここにいた弱い動物たちは縄張り争いに敗れ、弾き出された。→ その結果、押し出されたあの猫が、虫を追って今度は花屋の近くをうろつくようになった)
店主の思考は、簡潔な因果律を完成させた。誰か一人の悪意ではなく、人々の「嫌う」という選択と、花屋の移動、そして自然の連鎖が、この猫を「花泥棒」という被害者/加害者に仕立て上げていた。
店主は、自分が被害者であると同時に、このコロニー崩壊の間接的な加害者でもあったという事実に、胸の奥で息を詰まらせた。
店主の感情は、驚きではなく、うっすらとした疲労感に変わった。彼は、その認識を、声に出して青年と共有することはしなかった。それは、この場で語るべきことではない。彼は、ただ静かに、空き地の光景を見つめていた。
空き地での沈黙の後、三人(ふたりと一匹)は、来た道をそのまま戻り始めた。帰り道には、会話はなかった。青年の後ろを歩く店主の足取りは、行きよりも少し重く感じられた。彼の頭の中は、今見た荒廃したコロニーの光景と、肥料の高騰、そして折られた花のイメージで満たされていた。
路地は、相変わらず湿った土と、古い建物の埃の匂いが混じっていた。
道中、店主の目の高さ、ちょうど顔の近くを、一匹の大きな羽虫が、低い羽音を立てながら横切った。店主は反射的にその虫を手で払おうと腕を上げかけた。店の軒先でよく見かける、葉や花びらを食い荒らす種類の虫だった。
だが、彼の手が宙を掴むよりも、猫の動きの方が速かった。
猫は、店主の腕の動きに反応するより早く、その場で低い姿勢から垂直に跳び上がった。空中で、猫の鋭い爪が虫を正確に捉える。着地した猫は、仕留めた虫を、誇らしげな鳴き声一つ上げることもなく、静かにその場に落とした。虫の羽音は、完全に止まっていた。
店主は猫がその場で興味を失ったように立ち去るのを見届け、猫が仕留めた虫に視線を落とした。
その虫の翅の色、胴体の形状、大きさ。それは、昨日も一昨日も、彼の店の軒先で花に群がり、彼が日々追い払っていた、まさにその種類の虫だった。
店主の胸の中で、「泥棒」というラベルが、熱で溶けるようにぐらりと揺らいだ。
(あいつはあいつで、店の外で仕事をしていたのかもしれない)
店主は、そう推測した。猫が花に引き寄せられるのは、花そのものへの愛情だけではない。花が運んでくる虫という食料、そして、虫が集まることで作られる縄張りの匂いに惹かれていたのだ。猫は、彼にとっての「盗人」であると同時に、彼が嫌ってこの外れに追いやられた原因である「虫」を狩る、「店の外の守り手」でもあったのかもしれない。
「泥棒」と「仕事」。相反する二つのラベルが、同時に彼の頭の中に浮かび上がり、彼はどちらの言葉を選べばいいのか、うまく言語化できなくなった。彼は、この矛盾した感情を、ただ深い息として吐き出すしかなかった。
やがて、花屋の店先が見えてきた。
青年は、店主の花屋の前で立ち止まった。彼は、前回と同じく、店主とは目を合わせず、短く別れの言葉を告げた。
「……ありがとうございました」
それ以上の詳しいことは何も言わなかった。青年は、ここを通じて、店主が自分の事情を理解し始めたことを察しただろう。しかし、その理解の上にあぐらをかいて、関係を一足飛びに進めることはしなかった。
店主は、青年の背中を見送りながら、猫の行動に注意を払った。
猫は、青年が歩き出した後、すぐにその後に続かなかった。猫は、店の前で一度だけ花屋の方を見上げた。そして、鼻をひくひくと動かし、店の匂いを吸い込んだ。その仕草は、まるで「また来る」という、無言の挨拶のように感じられた。猫は、その場に長居せず、すぐに青年が曲がった路地の角を追って、姿を消した。
店主は、花屋の中に戻った。
彼は、シャッターを降ろす前に、店の軒先に立ち、手前にある大きな鉢植えを、両手で少しだけ動かした。鉢の向きは、路地の奥ではなく、駅のある街の方角に、わずかに戻された。
彼は、空を見上げた。暗い夜空は、相変わらず何も答えてくれない。
彼の心の中には、「敵を探す気分」は、もう残っていなかった。代わりに残ったのは、彼らとどうにか折り合いをつけなければならないという、冷たく、そして切実な感情だった。
猫の縄張りの跡と、虫の通り道を見て回ってから、三日が過ぎていた。
店主の朝の作業は、変わらず続いている。水が濁った花桶の水を替え、花を並べ直す。毎日行っている、何の変哲もないルーティンだった。今日もまた、ゴミ用のバケツには、萎れた花だけでなく、猫の跳躍によって引き起こされたと思われる折れた茎や花びらが、確実に沈んでいた。
彼は、折れた花をバケツに分ける手を、ふと止めた。
(まただ。これも、このまま捨てるのか)
折れた花をただの「損失」として処理し、高騰した肥料代を再計算する作業に、彼は強い徒労感を覚えていた。彼は、この折れた花を、何の抵抗もなく毎日捨て続けている自分にも、飽き飽きしていた。「泥棒ではない、仕事だ」という矛盾が、彼の行動を縛り始めていた。
彼はバケツから折れた茎を数本取り出し、店の裏手に回った。
店の裏は、ゴミや資材が置かれる、ほとんど人目につかない空間だった。店主は、その中で、少しだけスペースを見つけた。彼は、欠けたプランターと、水漏れのために使われなくなった古いバケツを回収し、それらを裏の隅に並べた。
彼は、そのプランターの中に、土を入れ替えた。新鮮な土ではないが、まだ使える土をスコップで移し替える。そして、朝の作業でバケツに分けたばかりの折れかけの花を、数本、そのプランターに挿した。
それは、どう見ても「売り物」にはならない、寄せ集めの、「とりあえずの花置き場」だった。水をやっても、すぐに萎れてしまうだろう。だが、その花々からは、まだ濃い香りの粒子が立ち上っている。
店主は、この裏のスペースを、猫のためだと、言葉にはしなかった。
しかし、彼の頭の中では、極めて現実的な判断が下されていた。
(表で毎日折られるくらいなら、最初から裏に寄せておいた方がマシだ)
表の軒先で被害を被れば、客の目にも留まり、悪評にもつながる。しかし、裏のこのスペースならば、誰にも迷惑をかけない。猫が香りに惹かれて来るならば、この裏の空間に、その興味の対象を集中させてしまえばいい。
(あいつ(猫)がどうせ来るなら、この裏で暴れてもらった方がまだ計算できる)
計算できる損失は、管理できない損失よりも、店の経営にとっては遥かにマシだ。その考えは、彼の経営者としての冷静さに根差していた。情に流されたわけではない。ただ、最も効率的な「折り合いの付け方」を選択したに過ぎない。
彼は、さらに、店の裏で育てていた香りの強いハーブを数本、そのプランターの周囲に植え付けた。ハーブの持つ、虫を遠ざける効果に、彼は微かな期待を込めた。もし、この場所が猫を惹きつけ、同時に虫を減らすことができれば、それは店にとって、損失ではない「取引」になる。
店主は裏のスペースをもう一度見回した。不完全で、荒削りだが、猫が匂いに惹かれて滞在するには十分な、「外れの裏の、さらに外れの場所」が完成していた。彼は、この場所を、猫のため、そして自分自身のために作った。
店主が裏に「とりあえずの花置き場」を作ってから、起と同じ日の昼下がりが過ぎた頃だった。
店の表で、午後の水やりと、来店客の対応を終えた店主が、裏の作業スペースで一息ついた、まさにそのとき。猫は、ふらりと店の軒先に姿を現した。
猫の動きは、相変わらずだった。誰かに見られていることを警戒するように、一度は道の真ん中で立ち止まり、周囲の匂いを嗅ぎ、音を探る。そして、店の表側に並べられた花々には目もくれず、店と隣の建物の間の、細い隙間へと身体を滑り込ませた。それは、裏スペースへの、猫だけの秘密の通路だった。
店主は裏口の戸をわずかに開けたまま、その様子を観察した。
猫は、すぐに新しい匂いの塊を見つけた。店主が作った裏スペースだ。猫は、足元の土と、折れかけの花が挿されたプランターにまっすぐ近づいた。まずは土を、次に花を、入念に鼻で確認する。プランターの縁に前足をかけ、中へと踏み入る。その動作は、警戒というより、「この場所の匂いは、自分のものだ」と、領域を試しているようだった。
猫は、プランターの中で、香りの濃いハーブと、折れた花の周囲を、何周かゆっくりと歩いた。そして、最も日陰になる場所に、うずくまるようにして身体を丸めた。それは、ここが安全で、彼の望む「匂い」と「落ち着き」が両立する場所だと、猫が承認したことを示していた。
(思った通り来たな)
店主は、内心で短くそう確認した。その思考に、感情的な安堵や喜びはなかった。あったのは、「計算が狂わなかった」という、プロとしての小さな満足感だけだ。
それから、猫が裏に落ち着いて十分もしないうちだった。
店の表から、人間の気配がした。店主は、裏口からそっと表の様子を窺う。そこに立っていたのは、青年だった。青年は、店の前に立ち、猫の姿がないことに気づくと、一瞬だけ不安そうな表情を浮かべた。
青年は、店主の姿を見つけると、すぐに短く尋ねた。
「……あいつ、裏ですか?」
店主は、無駄な言葉を添えなかった。彼は、戸の隙間から「裏」とだけ答えるに留めた。それ以上、「君たちのために作ったんだよ」という余計な情報は加えない。
青年は、その一言だけで、すべての情報を得たようだった。彼は、店主への礼を言う間もなく、猫が通ったのと同じ細い隙間から、裏へと回り込んだ。
裏のスペースには、猫と青年、そして店主の三つが揃った。
猫は、既に落ち着き払っており、青年の姿を見ても、立ち上がることはなかった。青年の姿は、猫にとって「脅威ではない」と、完全に認識されているのだ。猫はゆったりと毛づくろいを始めている。
青年は猫に向かって一歩近づき、しゃがみ込んだ。しかし、猫に手が届くぎりぎりの距離で、その動きを止めた。彼は、猫を撫でようとはしない。甘えるけど、一線を越える信頼はしないという、彼ら独特の距離感は、この新しい場所でも保たれていた。
店主は裏口に立ったまま、彼らから少し離れた位置で、その光景を眺めていた。
青年は、猫の様子を数秒眺めた後、プランターの周囲に挿された、折れかけの花々を見た。そして、短い感想を、静かに口にした。
「……きれいですね」
それは、店主への感謝でも、猫への謝罪でもない。ただ、この場所が自分たちを拒否しなかったという事実に対する、純粋な驚きの言葉のように聞こえた。それ以上の長い礼の言葉は出なかった。青年の瞳は、まだわずかに揺れており、その立ち位置は、すぐにでもこの場所から逃げ出せるよう、常に重心が外側に向いていた。
全身で「助かるけど、全部を預ける気はない」という空気を保ち、青年は裏の空間に立っていた。
夕暮れ時だった。空の光が急激に色を失い始め、昼間は静かに潜んでいた虫たちが、ざわめきと共に活動を始める時間帯だ。裏のスペースに作られた「とりあえずの花置き場」は、この時間帯に最も匂いの濃度が高まる。
店主は、閉店前の最後の水やりを終え、裏のスペースの様子を見に来た。青年は、既に裏口近くの壁にもたれかかり、猫が遊ぶ様子を無言で見張っているように立っていた。
店主が裏に入ると、すぐに虫の多さに気づいた。
裏のスペースに集められた折れかけの花々、そして水が入った古いバケツの周囲に、数匹の虫が低い羽音を立てながら集まっている。その数は、店の表の軒先に今残っている虫の数よりも、明らかに濃密だった。
(匂いが、ここに集中している)
店主の内心で、彼の計算が確信に変わった。裏に寄せた花と、ハーブの香りが、虫の通り道を、この裏の空間へと誘導している。ここは、猫にとっては「匂いの場所」であり、店主にとっては「虫をまとめるトラップ」として機能し始めていた。
その虫たちを、猫は追っていた。
猫の動きは、裏の限られたスペース内で完結していた。彼は、プランターの縁を足場にし、水バケツの周りを飛び跳ねる。その跳躍のたびに、折れかけの花の葉が散り、茎が揺れる。だが、その被害は、元々「捨てる予定」だった花々の上での出来事に留まっていた。猫がここでいくら暴れても、表の花壇の、高騰した肥料で育てた売り物の花に、損害は及ばない。
店主は、その一連の動作を冷静に観察した。彼は、朝の仕入れ伝票の数字を思い出した。
(表の花壇の折れは、前よりは確実に減っている)
猫の狩りが完璧な虫除けになっているわけではない。しかし、虫と猫の注意の大部分がこの裏に引き寄せられたことで、表の被害は、管理できるレベルに収まり始めていた。店主の内心で、損得勘定が静かに整理される。
「完全に得ではない。だが、前よりは遥かにマシだ。この折れ花と引き換えに、表の売上のロスを防いでいる。これならば、計算が合う」
そこには、猫の生命に対する感動や、感謝の念はなかった。あるのは、「手間」と「数字」の観点から導き出された、「共存が可能である」という冷徹な結論だけだった。
店主は、壁にもたれている青年の方へ、顔を向けた。
「あんまり悪いだけでもないな」という、客観的な報告のようなニュアンスで言葉を落とした。
「少なくとも、表の被害は減った」
青年は視線を猫に向けたまま、店主の方には目をくれなかった。猫が、仕留めたばかりの虫を地面に落とすのを見てから、青年は短く返した。
「あいつ、好きなことしかしてないですよ」
その返しは、猫の行動に「善意」という人間のラベルを貼ることを拒否していた。猫は、彼にとっての食料と匂いを求めて動いているだけで、店主を助けているわけではない。その「そのまま」の事実を、青年は店主に伝えた。店主もまた、その言葉を受け入れ、猫の行動を「仕事」として連想するに留めた。
店主は、それ以上は何も言わなかった。言葉は、この新しい関係には、邪魔でしかなかった。
それから、同じような日が七日続いた。
店主の朝の作業は、裏のスペースの点検が日常の段取りの中に組み込まれていた。表の花を中に入れる時間と、裏の折れ花を点検する時間が、明確に分けられた。花泥棒の問題は、店の日常業務の一部として、淡々と処理されるべき段取りに変わっていた。
表の花壇の被害は、目に見えて減っていた。朝、ゴミ用のバケツを手に取ると、その軽さに店主は気づく。以前は、萎れた花に混じって、意図的に折られたような茎の重みが加わっていたが、今はその重みが消えている。店主は、閉店前に帳簿をめくる際も、以前のような深刻な額の損失を計算する必要がなくなっていた。完璧な黒字ではない。だが、肥料の高騰に押し潰される寸前だった、あのギリギリのラインからは、確実に脱していた。彼は、以前より少しだけ穏やかな顔で、数字を追っていた。
日の傾きが、裏のスペースに長い影を落とす、閉店間際。
猫は、裏スペースの、欠けたプランターの横で、完全に丸くなっていた。もはや虫を追う激しい動きもない。そこは、花屋の匂いが最も濃く、猫にとって安全な居場所として機能していた。猫は、時折、長い尻尾を揺らすだけで、平和な時間を過ごしている。
青年は裏口近くの壁にもたれていた。彼は、猫の様子を見届けるという、以前から変わらない役割を果たしている。店主の店の前で座り込むことも、手伝いのようなこともせず、あくまで「見張り」としての存在感だった。誰も、この状況を「事件」や「奇跡」とは捉えていなかった。これは、駅外れの裏の空間で成立した、奇妙な共存だった。
店主が、店の表で、最後の作業である看板をしまうために出てきたとき、青年も壁から離れて立ち上がった。
「暗くなるぞ」
店主は、そう短い言葉で声をかけた。それは、彼らを気遣う親切でも、早く立ち去れという催促でもなかった。ただの時間の確認だった。
青年は、歩き始めた猫に視線を向けたまま、その質問に答えた。
「あいつが飽きたら帰ります」
青年は、この場所が安全であると認識している。しかし、この場所が自分のすべてだとも思っていない。店主もまた、青年がまたいつか、何らかの理由で去っていくことを、静かに受け入れていた。二人のやり取りには、甘さも、冷たさも、入れすぎない、曖昧な線が引かれていた。
猫は青年が動き出したのを見て、裏スペースから出てきた。猫は一度だけ花屋の軒先の匂いを深く嗅いだ。そして、青年が歩き出すと、彼の足元に一度頭をすり寄せた。猫の動きは、花屋にも、青年にも、同じくらい慣れていることを示していた。その動きは、この裏のスペースを「どちらか一方の所有物」に決めないという、彼らなりのルールを表現しているようだった。
店主は、店の正面の看板を手に取った。彼は、その看板の裏側に、「虫が多くてすみません」と書かれた小さな張り紙が貼ってあるのを知っていた。
彼は、その看板を、街の方角に少しだけ戻し、手を離した。それは、彼らの関係が、「外れ」から、ほんの少しだけ「街」に近づいたことの、無意識の象徴だった。
店主は、胸の奥で、「花泥棒」という言葉をもう一度思い出そうとした。だが、その言葉は、彼の心の中ではもうしっくりこなかった。
夕暮れの空の下、店主は店の中に、青年は路地の角に、そして猫は、その二人の間に、誰も真ん中に立たず、誰も完全な外側にもいない位置関係で、同じ空気を吸っていた。
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