世界史上の悪役令嬢

伊阪証

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エリザベス一世編

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世界史豆知識
ジャンヌ・ダルクといえば救国の聖女として有名だけど最近は別の視点からも見られるようになっていて、女性でありながら男性の服をまとい、平民なのに貴族を従え(別に貧しい訳ではない)、十代で結婚するのも多かった時代に未婚。
彼女の故郷ドンレミは当時シャルル七世派とブルゴーニュ派の勢力の中間で、魔女裁判にて彼女を処刑するのに影響したパリ大学や司教もブルゴーニュ派、ジャンヌダルクは内輪揉めでぶっ刺されたようなものなのです。そりゃオルタ化するよ。

ホワイトホール宮殿の長いコリドーを抜ける北風は、磨き抜かれた石床の冷気を孕んでエリザベスの足首に絡みついた。正面に立つ役人が広げたパーチメントから漂う、鼻を突くような酸っぱいインクの匂いが、彼女の思考を強制的に現実へと繋ぎ止める。役人の指先が震え、羊皮紙がカサリと乾いた音を立てた。
「一五三六年、第二継承法の成立を宣言する。これに伴い、前王妃アン・ブーリンとの婚姻は無効と定義された。」
宣告が鼓膜を打った瞬間、エリザベスの視界の端が白く明滅し、心拍が耳の奥で太鼓のように打ち鳴らされた。肺の空気が一気に奪われ、喉の奥が鉄の味を帯びて狭まる。役人の唇が冷酷に動き続け、彼女のアイデンティティを一つずつ剥ぎ取っていく。
「エリザベス殿下。貴女の地位はプリンセスからレディ、すなわち法的なバスタードへと書き換えられた。王位継承権は完全に消滅し、今この瞬間より、貴女の存在は法の下で無へと帰したのである。」
周囲を囲む廷臣たちの衣擦れの音が、鋭いナイフのように静寂を切り裂いた。彼らの視線は、昨日までの畏怖を脱ぎ捨て、泥に落ちた果実を観察するような冷淡な好奇心へと変質している。エリザベスの肩を包む厚いヴェルヴェットのドレスが、突如として耐え難い重石となって身体を圧迫した。
「何か、弁明はあるか。」
役人の問いに含まれた明白な侮蔑に、彼女の指先が反射的にドレスのシルクを強く握りしめた。爪が手のひらに食い込み、鋭い痛みが脳を貫く。ここで悲鳴を上げ、あるいは慈悲を請えば、それは敵に「無力な娘」という格好の餌食を与えることになる。彼女は恩師ロジャー・アスカムから授かった、言葉が持つ権力の隠蔽と、不用意な一言が死を招くという教訓を反芻した。
母親が処刑台に消えたあの日、父王が下した冷徹な決断。彼女の血肉を構成する半分は、今や「反逆者の娘」という呪われたレッテルに塗り替えられたのだ。エリザベスは、荒れ狂おうとする呼吸を無理やり平伏させ、肺の奥底で静止させた。筋肉の緊張が限界に達し、身体が石のように硬直する。
沈黙。それは彼女が選んだ、最初で最強のポリティカルな武器だった。感情を真空状態に置き、自己の存在を法的な攻撃が届かない場所へと避難させる。彼女は一言の反論も、一滴の涙も許さなかった。
「・・・承知した。」
乾いた声が、自身の喉を通り抜けて冷たく響く。文末の音節には、一切の湿り気も動揺も混じっていない。彼女は役人の目を、まるで無機質なガラス細工を検品するかのような冷徹さで見据えた。
役人は予想外の反応に眉をひそめ、廷臣たちは困惑したように顔を見合わせた。エリザベスは、自身の自然的身体が震えているのを、政治的身体としての意志で押さえつけ、堂々と踵を返した。背後でバスタード、ゴミ、という囁きが波のように押し寄せたが、彼女の歩調は一分も乱れなかった。
ホワイトホールの冷たい回廊を歩む彼女の瞳には、かつての少女の惑いは微塵も残っていない。法が自分を無と定義するなら、その空白を権力という名の重力で満たし、この国そのものを自分の身体へと作り替えてやる。彼女の内に宿ったのは、北海の氷山よりも硬く、鋭い、主権への渇望だった。
廊下の突き当たり、窓から差し込む冬の薄光を背に受け、彼女の影が長く、不気味なほど巨大に石畳へと伸びていった。それは後にグロリアーナと呼ばれる偶像が、歴史という闇の中に初めてその輪郭を刻んだ瞬間だった。
深夜、ハトフィールド・ハウスの私室に忍び寄る影があった。義父トマス・シーモアの纏う高価な香油の匂いが、澱んだ空気の中に毒々しく混ざり合う。彼は年若いエリザベスの寝台に腰掛け、親愛を装った手つきでその細い喉元を撫でた。
「王女ではなくなっても、君の価値は私が誰よりも理解している。この肌、この知性、すべてを私に委ねればいい。」
その囁きは甘い蜜のようだったが、エリザベスは全身の産毛が逆立つのを感じた。トマスの指先から伝わる執拗な熱と、その奥に潜む政治的な捕食者の色欲。彼女は鏡の中に映る、仮面のように無機質な自分の顔を見つめた。
かつての庇護者であった義母キャサリン・パーの視線も、今や嫉妬という名の毒に染まり、エリザベスを刺し貫いている。愛という言葉の裏側に、これほどまでに醜悪な利害関係と独占欲が渦巻いているとは。彼女は吐き気を押し殺しながら、この「家族」という名の戦場で生き抜く術を学んだ。
やがて、トマス・シーモアが国家反逆罪で処刑台に送られたという報せが届いた。冬の冷たい陽光が差し込む図書室で、彼女はページを捲る手を一瞬だけ止めた。
「殿下、シーモア卿が先ほど執行されました・・・。」
使いの者の震える声に、彼女はゆっくりと顔を上げた。胸の奥で燻っていた微かな情愛の残滓が、炭となって崩れ落ちる。彼女は窓の外、凍てついた庭園を見つめ、感情の蛇口を完全に閉ざした。
「今日、一人の才気ある男が死んだわ。」
声に揺らぎはなかった。悲しみではなく、一つの巨大な「無駄」を処理した後のような清々しさが、彼女の輪郭をより鮮明にする。
愛とは、国家の安寧を脅かす致命的な脆弱性に過ぎない。彼女は義父の死体を通じて、情愛を権力のための燃料へと変換する術を身に付けた。これからは誰の手も取らず、誰の腕にも抱かれない。
彼女の心臓は、イングランドという巨大な領土を律するための、冷徹な鋳鉄へと作り替えられていった。
土砂降りの雨が、テムズ川の濁った水面を狂ったように叩きつけていた。エリザベスは、濡れて重くなったドレスの裾を泥にまみれさせながら、ボートから降り立った。目の前には、石造りの巨大な顎が口を開けている。トレイターズ・ゲート。かつて多くの者が絶望と共にくぐった、反逆者の門だ。
「ここで、私の人生は幕を閉じるのか?」
不意に浮かんだ疑念を、彼女は雨水と共に吐き捨てた。ロンドン塔の石壁が放つ湿った死の匂いが、鼻腔の奥深くまで侵入してくる。女王メアリの使者たちは、彼女が反逆の連判状に署名したという決定的な証拠を求めて、飢えた獣のように彼女を包囲した。
石床に膝を突かされた時、彼女は自身の内側で、二つの存在が剥離していく感覚を覚えた。震え、寒さに凍える肉体。それは死すべき一人の女としての「自然的身体」だ。
だが、その外側には、法と意志によって構築された不動の輪郭、「政治的身体」が厳然として立ち上がっていた。
尋問官たちの怒号が、遠い雑音のように響く。彼らは彼女を精神的に解体しようと、言葉の暴力を休むことなく浴びせ続けた。しかし、エリザベスは徹底した沈黙と、法的な無謬性を武器に彼らを圧倒した。一文字の証拠も残さず、一言の失言も許さない。
「証拠をお出しなさい。無ければ、私はこの塔を通り過ぎるただの客人に過ぎないわ。」
彼女は顔を上げ、尋問官を冷徹に射抜いた。瞳の奥に宿る知略の火花が、暗い石牢の中で一瞬、鋭く閃光を放つ。
肉体が泥にまみれ、死の恐怖に曝されようとも、国家としての彼女は決して傷つかない。この極限の孤独の中で、彼女は「自分」という個を消去し、不滅の主権そのものへと変貌を遂げた。
「・・・私は、誰にも屈しない。」
唇から零れたのは、祈りではなく、勝利への確信に満ちた宣告だった。
ウェストミンスター寺院に、戴冠を告げる重厚な鐘の音が響き渡る。エリザベスは、黄金の糸で刺繍された重厚な王衣を纏い、玉座に深く腰を下ろした。眼下に広がる光景には、かつて自分を私生児と蔑み、また野心の道具として見限った貴族たちが、一列に並んで深々と頭を垂れている。
「即位に伴い、第一の政令を布告します。全通貨の改鋳を命じるわ。悪貨が良貨を駆逐する現状を、私は断じて許さない。」
彼女の声は、冷徹な響きを持って広間の隅々にまで浸透した。グレシャムの法則に基づいた冷酷な通貨改革。それは、彼女がイングランドという国家を、一つの巨大な「利潤を生む経済機構」として再定義した瞬間だった。
かつての婚約者が、情愛と野心が混ざり合った卑屈な表情で一歩前に出た。
「エリザベス、君を守るためには伴侶が必要だ。かつての誓いを思い出してくれ・・・!」
その言葉を聴いた瞬間、エリザベスの唇に微かな、そして絶対的な拒絶を孕んだ微笑が浮かんだ。それは慈悲を完全に排除した、神格化された偶像の笑みだった。
「勘違いしないで。私は、イングランドという国家と結婚したのよ。」
彼女は玉座から立ち上がり、廷臣たちを見下ろした。その視線は、彼らを血の通った人間としてではなく、国家の運営コストを支えるための「資源」としてのみ捉えていた。
「今の貴方は、もはや私の愛の対象ではないわ。ただの、適切に管理され、重税を負うべき善良な納税者の一人に過ぎないのよ。」
男の顔から血の気が失せ、静寂が広間を支配した。エリザベスは彼を一瞥することなく、次なる政務の書類へと冷徹に手を伸ばした。
ロンドン塔の冷たい壁、義父の甘い罠、雨の中の絶望。そのすべてを燃料にして、彼女は「グロリアーナ」という名の冷徹な主権者へと昇華した。
「次の者を通しなさい。」
その宣告は、一人の女性としての死と、不滅の女王としての永遠の統治を告げる、凍てついた福音だった。

ハトフィールド・ハウスの深夜、厚く重いカーテンの隙間から忍び込む冷淡な月光が、磨き抜かれた床板の上に不気味なほど長く、痩せた影を引き伸ばしていた。エリザベスは手元に置かれたギリシャ語の分厚い書物を閉じる乾いた音を静寂の中に響かせ、その直後、背後に漂い始めた甘ったるく、どこか腐敗を予感させるムスクの香りに、心臓が跳ね上がるような鋭い驚きを覚えた。自身の背後に立つ気配は、音も立てずに獲物を追い詰める捕食者のそれであった。不意に肩に置かれた重厚な手のひらが、薄いシルクのガウン越しに、生理的な嫌悪感を伴う湿った熱を伝えていく。
「まだ起きていたのかい、私の小さな王女様・・・。」
トマス・シーモアの声は、極上のベルベットのように滑らかで、それでいて獲物を追い詰める猟犬のような執拗な粘り気を帯びていた。彼の指先が、彼女のうなじの産毛を執拗に弄び、冷たい皮膚に不快な脂気を残していく。エリザベスは正面の鏡の中に映る自分の瞳を凝視した。そこには、恐怖を必死に押し殺し、無機質なガラス細工のように輝く、感情を去勢された少女の顔があった。喉の奥が鉄の味を帯びて狭まり、呼吸が浅くなるのを自覚する。彼の指が首筋を這い、血管の鼓動を確かめるように動くたびに、彼女の自然的身体は拒絶の悲鳴を上げようとしたが、彼女はそれを冷徹な政治的ロジックによって圧殺した。
かつての唯一の安らぎであった義母キャサリン・パーの視線も、今は半開きの扉の向こうから、冷たい毒針となってエリザベスを刺し貫いている。かつての温かな抱擁は、今や執拗な監視と猜疑心へと変わり、向けられていた慈愛は、同じ一人の男を巡るどろりとした嫉妬の猛毒へと変質していた。信頼という名の強固な鎖が音を立てて千切れ、背徳という名の汚泥が足元を容赦なく埋め尽くしていく。義母が放った「色目を使う私生児。」という鋭い罵倒の言葉が、耳の奥で何度もリフレインし、彼女の心を絶対零度まで凍りつかせた。エリザベスは、自身の肺を焼くような不快感と眩暈の中で、権力の真理を学んだ。この世界において、愛とは肉体を政治的な交渉のテーブルに乗せるための、安っぽい罠に過ぎない。義父の囁きは政敵を打倒するための毒薬であり、義母の沈黙は自身を破滅から守るための冷酷な防波堤だ。彼女は自身の身体が、男たちの野心と女たちの怨嗟が交差する、戦場そのものに変質したことを骨の髄まで自覚した。
館の空気は、日を追うごとに鋭利な緊張感を孕んでいった。やがてトマス・シーモアの野心は制御を失って暴走し、彼は王位を狙った大逆の容疑で捕縛された。館の中を激しく駆け巡る衛兵たちの軍靴の響き、侍女たちの絶望的な悲鳴、そしてキャサリン・パーの魂を削るような嗚咽。エリザベスはそれらすべてを、無機質な傍観者として冷ややかに眺めていた。数ヶ月後、冬の朝を切り裂くようにして、ロンドン塔からの急使がハトフィールドに到着した。図書室の冷え切った空気の中で、エリザベスは羽ペンの動きを止め、差し出された羊皮紙の報告書を凝視した。トマス・シーモア、大逆罪により処刑。執行完了。その冷淡な文字が網膜に深く焼き付いた瞬間、彼女の胸の奥で、かつて彼に向けたわずかな期待の残滓が、砕けた氷のように音を立てて崩れ去った。
「殿下、シーモア卿が先ほど執行されました・・・。お身体は大丈夫でしょうか?」
侍女の震える声が、静まり返った部屋に虚しく響く。エリザベスはゆっくりと椅子から立ち上がり、窓の外に広がる枯れ果てた、色彩を完全に失った庭園に目を向けた。頬を伝おうとしたわずかな熱を、彼女は冷徹な意志で遮断した。涙を流せば、それは彼との密通や共謀を認めることになり、自身の首を絞める絞首刑の縄となる。彼女は指先に残る彼の脂ぎった感触を、窓の冷たい石枠に強く押し付けて物理的に上書きした。
「今日、一人の才気ある男が死んだわ。」
その声は、完全に凪いでいた。それは愛する者を失った嘆きではなく、自身の統治という壮大なチェス盤の上で、不要な駒を切り離した後のような、乾いた勝利の確信に満ちていた。愛は国家にとっての致命的な弱点であり、情欲は破滅への招待状だ。彼女は義父の死を、自身の内側に残っていた甘い感性を完全に殺害するための、厳かな儀式として捧げた。もはや、誰の腕に抱かれる必要もない。誰の甘い囁きも、彼女の統治という名の鼓動を揺らすことはない。彼女の心臓は、イングランドという巨大な領土を律するための、正確で無機質な黄金の歯車へと作り替えられていった。一人の女性としての死が、絶対的な主権者としての第一歩となる。彼女の瞳には、かつての迷いや惑いは微塵も残らず、ただ極北の海のような、深く、暗く、すべてを拒絶する光が宿っていた。この館を去る時、彼女は二度と後ろを振り返らなかった。かつての家庭という名の幻想は跡形もなく焼き捨てられ、その灰の中から、冷徹な捕食者としての王女が静かに産声を上げたのである。

激しい降雨がテムズ川の濁った水面を叩き、ボートの底を打つ不規則な震動が、エリザベスの足首から膝、そして心臓へと冷酷な驚きを伝播させた。灰色の霧の向こう側から、石造りの巨大な顎が口を開けて彼女を待ち受けている。トレイターズ・ゲート。かつて多くの反逆者がくぐり、その命を歴史の闇へと溶かしていった死の門だ。船べりを掴む彼女の指先は、冷気と恐怖で感覚を失い、白く強張っている。
「降りるのです、レディ。ここがお前の居場所だ。」
衛兵の野卑な声が、雨音を切り裂いて鼓膜を打った。エリザベスは、泥水に浸かった石段を見つめ、全身の細胞が拒絶の叫びを上げるのを感じた。一歩踏み出せば、それは王女としての尊厳を泥濘に捨てることを意味する。だが、背後から突き飛ばされるようにして彼女の身体はボートから放り出された。
冷たい水が靴の中に侵入し、重いドレスの裾を吸い上げる。足元の不安定さに、彼女はあやうく転倒しかけた。その瞬間、彼女の視界に映ったのは、雨に濡れて黒光りするロンドン塔の石壁だった。巨大な石の塊が放つ、数世紀分の怨嗟と死臭が混じり合った湿った匂いが、彼女の鼻腔を容赦なく蹂躙する。
「私は、反逆者ではない・・・!」
叫びは激しい雷鳴にかき消され、彼女の肉体は衛兵たちの冷淡な手に引かれて暗い通路へと連行されていった。
石牢の内部は、外の嵐が嘘のように静まり返り、ただ自分たちの足音だけが不気味な残響を伴って壁を這い回る。突き当たりの小部屋で待っていたのは、女王メアリの使者たちが放つ、獲物を解体しようとする外科医のような鋭い視線だった。
「ワイアットとの共謀を認め、署名をしろ。さすれば、命だけは助けてやる。」
差し出された羊皮紙には、彼女の死刑執行書にも等しい告白文が踊っていた。エリザベスは、目の前に突きつけられた羽ペンの鋭い先端を見つめ、自身の内側で何かが決定的に剥離していく感覚を覚えた。
極限の寒さと疲労、そしていつ首を落とされるか分からないという死の恐怖。それらに晒され、震え、今にも崩れ落ちそうなのは、死すべき運命を持った一人の女としての肉体、すなわちナチュラル・ボディだ。
しかし、その脆弱な器の内側で、法と知略によって鍛え抜かれたもう一つの自己が、不動の意志を持って立ち上がっていた。ポリティカル・ボディ。国家の主権を担うべき、不滅の王としての身体だ。
「私は、何も書かない。何も語らない・・・。」
彼女の声は、自分でも驚くほど低く、地を這うような力強さを帯びていた。尋問官たちが苛立ち、テーブルを叩く音が室内に響き渡る。
「証拠なら、この塔の地下にいくらでも転がっているぞ。お前の署名一つで、すべてが終わるのだ!」
「ならば、その証拠とやらをお出しなさい。実体のない影を追い、私をここに留めることは、イングランドの法そのものを踏みにじる行為よ・・・。」
彼女は顔を上げ、尋問官たちの目を真っ向から射抜いた。瞳の奥に宿ったのは、恐怖を燃料にして燃え上がる、青白い知略の炎だ。
一文字でも書けば、それは敗北を意味する。一言でも失言すれば、それは反逆の証左となる。彼女は沈黙を盾に、法的な無傷さを守り抜くという、最も過酷で孤独な戦いの中にいた。
「おのれ、バスタードが・・・!」
罵倒を浴びせられようとも、彼女の心はもはや揺らがなかった。肉体が石牢に閉じ込められようとも、彼女の精神は、まだ見ぬ未来の玉座へと既に手を伸ばしていた。
「私は、誰にも屈しない。たとえこの肉体が朽ち果てようとも、イングランドの主権は私の中に、清らかなまま保たれているのだから・・・。」
唇から零れたのは、祈りではなく、勝利を確信した絶対的な宣告だった。暗い塔の深淵で、エリザベスという少女は完全に死に、イングランドそのものが彼女の魂へと受肉したのである。

ウェストミンスター寺院の冷厳な空気を震わせる鐘の音が、エリザベスの鼓膜を鋭く打った。祭壇へと続く長い通路には、何世紀にもわたって磨き抜かれた大理石が、ステンドグラスから降り注ぐ極彩色の光を反射して輝いている。彼女は一歩踏み出すたびに、背負った黄金の王衣の重みが、かつてロンドン塔で感じた鉄鎖の重みとは異なる、絶対的な責任の質量となって全身を包み込むのを自覚した。
大主教の手によって、聖エドワード王冠が彼女の額へと下ろされる。その瞬間、予期せぬ重量が首筋を伝って背骨を貫き、エリザベスは微かな驚きに息を呑んだ。それは物理的な金の重さではない。イングランドという広大な領土、その土壌に住まう数百万の魂、そして未来へ続く時間のすべてが、彼女という一点に集約された重みだった。王冠に埋め込まれた無数の宝石が、寺院内の蝋燭の灯火を吸い込み、彼女の頭上で眩いばかりの光輪を形成する。
「これより、イングランド女王エリザベスの統治を宣言する。」
大主教の声が天井のアーチに反響し、参列した貴族たちの間に、波紋のようなざわめきが広がった。エリザベスは玉座に深く腰を下ろし、手にした王笏の冷たい金属性の感触を確かめる。彼女の視線の先には、かつて彼女をバスタードと嘲笑い、野心の道具として値踏みした廷臣たちが、今や極彩色の光の中で、畏怖と羨望が混じり合った表情で平伏している。
彼女は流れるような所作で、傍らに控える秘書官に手招きをした。差し出されたのは、彼女自身が極秘裏に策定した最初の勅令、グレシャムの法則に基づく通貨改革の草案である。彼女は参列者を見渡すと、通るような、それでいて一切の情動を排除した声で宣告した。
「私は、この国の血管を流れる血液が、泥にまみれた悪貨であることを許さない。すべての劣悪な貨幣を回収し、イングランドの信用を象徴する、高純度の新貨に改鋳することを命じます。」
広間に再び驚きが走った。経済の根幹を揺るがす大胆な宣告は、利権にまみれた貴族たちの顔から、一瞬にして余裕を奪い去った。彼女にとって、この国はもはや愛すべき故郷ではなく、冷徹な論理によって再構築されるべき一つの巨大な機構へと変貌していた。
その時、人垣を割って一人の男が前に出た。かつて彼女との結婚を確信し、その情愛を政治的交渉のカードとして扱おうとしたロバート・ダドリーである。彼の瞳には、かつての蔑みではなく、権力への狂おしいほどの渇望と、それ以上に深い、失ったものへの縋るような思慕が宿っていた。
「エリザベス、君を守るためには強固な伴侶が必要だ。イングランドの安定のために、私の愛を受け入れてはくれないか?」
彼の言葉は熱を帯びていたが、エリザベスにとってそれは、古びた書物のページが擦れる程度の乾いた音にしか聞こえなかった。彼女は玉座から彼を見下ろし、唇の両端を僅かに吊り上げた。それは微笑ではなく、獲物を仕留めた捕食者が、最後に下す解体のための合図だった。
「愛、ですって?」
彼女は手に持っていた新貨を一枚、彼の方へと弾き飛ばした。金貨は磨き抜かれた石床の上で、澄んだ高い音を立てて転がり、彼の足元で止まった。
「勘違いしないで。私は、イングランドという国家と結婚したのよ。貴方が私に差し出すべきは、不確かな情愛などではない。正確な年貢と、揺るぎない忠誠だけ。」
彼女は一呼吸置き、彼の瞳から最後の希望を削ぎ落とすように続けた。
「今の貴方は、私にとって愛する男ではないわ。適切に管理され、わが国の繁栄のために義務を果たすべき、善良な納税者の一人に過ぎないのよ。」
男の顔からみるみるうちに色が失われ、周囲の廷臣たちも蛇に睨まれた蛙のように沈黙した。エリザベスは彼を一瞥することなく、次なる政務の書類へと冷徹に視線を戻した。
彼女は自らをグロリアーナという名の偶像へと昇華させ、一個人の感情を歴史の深淵へと永久に封印した。玉座に座るのは、もはや一人の女性ではない。イングランドという意志そのものだ。
「次の政務を通しなさい。」
その宣告は、一人の少女の死と、不滅の女王としての永遠の統治を告げる、凍てついた福音のように響き渡った。ステンドグラスから差し込む光が、彼女の横顔を神々しく照らし出す。その瞳には、もはや誰の手も届かない、絶対的な主権の孤独と誇りが宿っていた。

世界史豆知識
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これがバラ戦争のめんどくささ。
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