世界史上の悪役令嬢

伊阪証

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ハトシェプスト編

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世界史豆知識
太陽暦は一年を太陽の公転周期を基準として一年を365.25日としている(なので四年に一度日を増やしている。)
また、これはエジプトから始まり恒星シリウスが日の出直前に東に現れる周期とナイル川の水位の推移から発見、紀元前4241年から使用し、カエサルが導入した紀元前45年のユリウス暦を16世紀に修正しグレゴリウス暦になった。


カルナック神殿の大列柱室は、天を衝く巨大な円柱群が落とす深淵のような影に沈んでいた。外部の砂漠を焦がす熱気は、厚い石壁と冷徹な静寂によって遮断され、そこには神聖なまでの冷気が澱んでいる。その影の境界線、一筋の陽光が差し込む石畳の上に、ハトシェプストは立っていた。彼女の正面には、次代の王たるトトメスが、嘲笑を隠そうともしない冷ややかな眼差しで彼女を見下ろしている。彼の背後には、新たな王妃候補とされる若い女が、勝利を確信した潤んだ瞳でこちらを覗き見ていた。
「・・・ハトシェプスト、この決定はアメン神の意志であり、上下エジプトの安定を願う私の慈悲でもある。貴様との婚約は、今この時を以て完全に破棄とする。神託は下ったのだ。私は、より若く、より従順で、民の心を和らげる真の伴侶を傍らに置くことにした!」
 トトメスの声は、極彩色で彩られた神々の壁画に反響し、不快な唸りとなって彼女の鼓膜を打つ。周囲を取り囲む神官や貴族たちの間から、隠しきれない失笑と、憐れみを装った侮蔑の囁きが漏れ聞こえてくる。その音は、乾いた砂が擦れ合うような、残酷で冷淡な響きを持っていた。
 愛されない。選ばれない。
 その事実は、本来であれば一人の令嬢を絶望の底へと突き落とすに十分な重みを持っていたはずだった。だが、ハトシェプストの視界は、かつてないほどに澄み渡っていた。彼女はゆっくりと、自身の白いリネンの衣を指先でなぞった。それは王妃としての装飾に満ちた、他者の承認によってのみ輝く「借り物の権威」の象徴に過ぎない。彼女が静かに口を開くと、その声には震えも、悲嘆も、怒りすらも混じっていなかった。
「・・・トトメス。貴方は今、私を人間として拒絶し、女としての価値を否定したのだな?」
 トトメスが怪訝そうに眉をひそめ、吐き捨てるように応じた。
「何を今更。惨めな命乞いでも始めるつもりか!」
「言い訳ではない。確認だ。貴方が私を愛さず、伴侶としての役割から解き放った。それは即ち、私を縛っていた卑俗な『人間』という枷が、今この瞬間に霧散したことを意味する・・・」
 ハトシェプストは、確かな足取りで一歩前へ踏み出した。その瞬間、大列柱室の空気が一変した。彼女の身体から、陶酔を誘うほどに濃厚で、それでいて鋭利な刃のように鼻腔を突く香りが立ち昇ったのだ。最高級の没薬、即ちミルラの香り。それは死者を神の世界へと送り出す聖なる防腐剤であり、同時に神殿の最奥にのみ許された、超越的な聖性の残り香だった。神官たちが一斉にざわめき、その異様な気配にたじろぐ。
「・・・この香りは・・・? 貴様、何を持ち込んだのだ!」
 トトメスが顔を顰め、無意識に後退りする。ハトシェプストは、頭上に載せられていた黄金の宝冠を、躊躇いなく床へと投げ捨てた。硬質な貴石が石畳を叩き、甲高い音を立てて砕け散る。彼女はそのまま、隠し持っていた青銅の小刀を抜き放つと、自らの豊かな黒髪を掴んだ。
「何をするつもりだ!」
 トトメスの叫びを黙殺し、彼女は一気に刃を引いた。切り落とされた黒髪が、死んだ蛇のように床に落ちる。周囲から悲鳴が上がるが、ハトシェプストの表情には、鏡のような静謐さが宿っていた。彼女は切り揃えられた短い髪のまま、至聖所の方角、神アメンが住まうとされる暗闇の奥へと、深く、厳かに頭を垂れた。
「・・・父なるアメンよ。地上の愛に捨てられたこの身を、今こそ貴方の器として捧げましょう。私は人間であることを辞め、貴方の意志を地上に体現する『神の妻』として、再び生まれることを誓います!」
 その瞬間、閉ざされていた至聖所の重い木扉が、風もないのに微かに震えた。偶然か、あるいは必然か。高窓から差し込んだ一筋の陽光が、埃を舞わせながらハトシェプストの全身を鋭く貫いた。切り落とされた髪、捨てられた宝冠。それらは不浄な過去の残骸として足元に転がっている。光の中に立つ彼女の姿は、もはや拒絶された哀れな女ではなかった。
 没薬の香りはさらに濃度を増し、大列柱室の隅々までを支配していく。それは、彼女の存在そのものが、巨大な神殿の回路の一部へと組み込まれた合図だった。ハトシェプストはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、もはやトトメスという個人の姿は映っていない。彼女が見ているのは、数百年、数千年にわたって続く、絶対的な秩序、マアトの地平だった。
「・・・トトメス。貴方は私を捨てたのではない。神が私を、貴方のような矮小な存在から救い出し、選別されたのだ。この香りは、不浄なる貴方が触れることのできぬ、神聖なる断絶の証拠である・・・」
 彼女の言葉は、もはやただの音ではなく、神殿そのものが発する神託のような重みを帯びていた。トトメスは反論しようと口を開いたが、その喉は正体不明の威圧感によって凍りついた。目の前にいるのは、かつて愛を求めていたハトシェプストではない。そこにあるのは、冷徹なまでの神聖さを纏い、自分たちを観察する、圧倒的な他者だった。
 ハトシェプストは、足元に転がる宝冠を一度も振り返ることなく、跪く神官たちの列を割って、至聖所の奥深くへと歩き出した。没薬の香りが、彼女の歩みに合わせて、不浄を浄化するように広がっていく。それは、弱き令嬢の死と、神聖なる君主の誕生を告げる、静かなる宣戦布告であった。


 カルナック神殿の東側に広がる「アメン神の妻」の所領は、数日前までの沈黙が嘘のように、熱を帯びた活気に満ち溢れていた。砂漠の太陽が容赦なく石畳を焼き、陽炎が視界を歪める中でも、そこには王宮の喧騒とは異なる、研ぎ澄まされた秩序が構築されつつあった。ハトシェプストは、かつては形式的な儀礼の場に過ぎなかった「神の妻」の執務室において、大量のパピルスを前にペンを走らせていた。彼女の髪はさらに短く切り揃えられ、額には王妃の飾りの代わりに、神聖な義務を象徴する白い布が巻かれている。その姿は、女という性を超越した、一つの「意志」そのものへと変貌を遂げつつあった。
「・・・ハトシェプスト様、報告を。王宮のトトメス様より、正式な布告が出されました。南の採石場から運ばれる赤色花崗岩、およびレバノンより届く杉材の供給を、本所領に対してのみ完全に停止するとのことです。これは実質的な、神域への宣戦布告に他なりません・・・。」
 跪いて報告を行うのは、若き書記のイネニであった。彼の声には、王権という巨大な暴力に直面した者の怯えが混じっている。トトメスは、ハトシェプストが神殿に隠遁することを許さなかった。彼女が「神の妻」としての権威を掲げた瞬間、彼はそれを自らの王座を脅かす不浄な反逆と見なし、物理的な資源という鎖で彼女を縛り上げようと画策したのである。石がなければ、神殿の増築は叶わない。木材がなければ、神を運ぶ聖なる舟を造ることもできない。トトメスの狙いは明白だった。目に見える「形」を奪うことで、ハトシェプストの唱える神聖王権を、ただの空虚な妄執として民衆に晒し上げることにあった。
「・・・石がないか。トトメスらしい、浅薄な考えだな。彼は形あるものを積み上げることこそが、王の力だと信じ込んでいる。だが、イネニよ。民が真に畏怖し、魂を預けるのは、重厚な石壁の内側にある『沈黙』と、そこから漂う『予感』なのだよ・・・?」
 ハトシェプストはパピルスから目を上げ、室内に満ちる濃厚な香りを深く吸い込んだ。それは、第一章で彼女が自らの覚醒を告げたあの没薬の香りであった。彼女の所領にある庭園では、かつてプントの国から持ち込まれた数本の没薬の苗木が、奇跡のようにその枝を伸ばしていた。本来、この地の乾いた土壌では育たぬはずの異国の木が、彼女の祈りに応えるかのように、黄金の樹脂を滴らせていたのである。
「・・・イネニ。王宮が管理するパンは、一晩経てば胃の中で消える。王宮が配る水は、喉を潤すだけで終わる。だが、この没薬の香りは、それを嗅いだ者の記憶に刻まれ、魂を支配する。私は石で壁を築く代わりに、この香りでエジプト全土を覆う見えない神域を構築するのだ・・・。」
 彼女は立ち上がり、窓の外に広がる中庭を見下ろした。そこには、王宮の圧政に耐えかねた貧しき民や、トトメスの独断的な統治に疑問を抱く下級官吏たちが、縋るような思いで集まっていた。ハトシェプストは彼らに食料を分け与えるのではなく、ただその没薬の香りを纏わせ、神アメンがこの場所に留まっているという「確信」を分け与えた。
「・・・形のないものを売るのですか? それは、あまりにも危うい賭けではありませんか・・・?」
「危ういのは、誰かの愛や承認に依存する心だ。私はそれらを既に捨てた。イネニ、次の神託を準備せよ。アメン神は、自らの娘である私に対し、既存の神殿を凌駕する『テリ・エル・バハリ』の造営を命じられたと。石材は不要だ。今はただ、この断崖の影こそが、神の住まいであると民に告げればよい・・・。」
 その時、執務室の扉を叩く、力強い音が響いた。現れたのは、日焼けした肌と鋭い眼光を持つ男、センムトであった。彼は王宮の建築家であったが、トトメスの虚飾に満ちた建築計画を拒み、ハトシェプストの元へと馳せ参じた異端の才子であった。
「・・・ハトシェプスト様。断崖を穿ち、光を彫刻する準備が整いました。トトメス王が石を積むなら、我々は山そのものを神の肉体へと変えましょう。資材が届かぬのなら、この大地の骨格そのものを利用するまでです・・・!」
 センムトの言葉に、ハトシェプストの唇が静かに弧を描いた。それは、かつて令嬢として向けた柔和な微笑ではなく、神聖な劇場の演出家としての、冷徹で美しい微笑であった。
「・・・良いな、センムト。トトメスが目に見える富を誇る間に、我々は目に見えぬ恐怖と崇拝を組織する。彼は石の中に閉じ込められ、私は広大な沈黙の中に君臨するのだ。これが、マアトを乱す偽の王への、私なりの慈悲である・・・。」
 所領の境界線には、王宮から派遣された兵士たちが監視の目を光らせていた。だが、彼らもまた、風に乗って流れてくる強烈な没薬の香りに、いつしか武器を握る手を緩め、神聖な畏怖の念に打たれていた。ハトシェプストが構築しようとしているのは、物理的な城塞ではない。人の心の深淵に根を下ろす、不可侵の聖域であった。
 彼女は短く切り揃えられた髪を指先で弾き、鏡の中の自分を見つめた。そこにはもはや、誰かの妻であることを望んだ女の面影は微塵もなかった。彼女は、自らの身体を神の器へと作り替えるための、次の「儀式」を心の中で描き始めていた。
カルナック神殿の広場は、熱を孕んだ数万の民の熱狂と、巨大な香炉から立ち昇る獣のような煙に包まれていた。一年に一度、神アメンがその至聖所を出て、ナイルを渡りルクソールへと向かう「オペト祭」の最中である。黄金の装飾を施された聖なる舟(バルク)が、司祭たちの肩に担がれ、眩い太陽の下へと姿を現した。その中央、王としての正当性を誇示するように、トトメスが煌びやかな首飾りと二重冠を戴き、尊大に歩を進めている。
 群衆が歓喜の声を上げる中、トトメスは確信していた。この祭礼を無事に終えれば、自分をないがしろにする「神の妻」の権威など、砂漠の砂に埋もれる不条理な夢に過ぎなくなると。彼は隣に侍る新しい王妃へと視線を送り、自らの勝利を噛みしめるように深く息を吸い込んだ。
 だが、その瞬間だった。広場を支配していた熱狂に、冷徹な静寂の楔が打ち込まれた。驚きに目を見開いた民衆が、波が割れるように左右へ分かれていく。そこには、王宮の兵たちが誰一人として立ち入ることを許さなかったはずの、あの没薬の香りが漂っていた。
「・・・何事だ。誰がこの神聖な列を乱すことを許した!」
 トトメスの怒声が響く。だが、現れた影を目にした瞬間、彼の喉は引き攣ったように凍りついた。
 そこに立っていたのは、男装を纏ったハトシェプストであった。彼女は女性用の細い衣を完全に捨て、王のみが許される腰布(シェンディト)を纏い、切り揃えられた黒髪の上に「神の妻」の象徴たる二重の羽根冠を戴いている。その立ち姿は、男女の境界を冷徹に踏み越え、ただ一つの「神聖なる器」として完成されていた。
「・・・トトメス、貴方は神の重さを知らぬまま、その舟を担がせているのだな?」
 ハトシェプストの声は、騒乱を鎮める重力を持って響き渡った。彼女が歩を進めるたびに、周囲の空気はミルラの濃密な香気に塗り替えられていく。
「狂ったか、ハトシェプスト! 婚約を破棄された余り、己を王と見紛うたか。衛兵、この無礼者を直ちに捕らえよ!」
 トトメスの命令に従い、槍を手にした兵たちが彼女を包囲しようとする。しかし、彼らは彼女の数歩手前で、まるで目に見えない壁に阻まれたかのように立ち止まった。ハトシェプストの瞳には、一切の殺意も、あるいは未練すらも宿っていない。ただ、深い深淵のような「理解」がそこにあるだけだった。
「・・・兵たちよ、退け。貴方たちが今、槍を向けているのは私ではない。アメン神の意志そのものだ。」
 彼女が静かに右手を上げ、聖なる舟を指し示した。その時、異変が起きた。屈強な司祭たちの肩に支えられていたはずの聖なる舟が、まるで急激に数倍の重さを増したかのように、激しく揺れ動いたのだ。司祭たちが苦鳴を上げ、膝を折る。舟は前進を拒むように後退し、トトメスの目の前で不自然な傾きを見せた。
「・・・な、何だ・・・。何が起きている!」
 トトメスが狼狽し、舟を支えようと手を伸ばす。だが、彼が触れた瞬間、舟はまるで穢れを嫌う生き物のように、激しく彼を弾き飛ばした。王冠が石畳に転がり、彼の無様な姿が白日の下に晒される。広場を埋め尽くしていた数万の民が、その衝撃的な光景に、息をすることさえ忘れて静まり返った。
 聖なる舟の揺れは、ハトシェプストが至近距離まで歩み寄ると、嘘のように止まった。彼女はゆっくりと、しかし峻烈な意思を込めて、舟の側面にある聖なる環に触れた。
「・・・父なるアメンよ。地上の理を正すため、貴方の言葉をこの地に下したまえ。」
 その瞬間、雲一つない空から、雷鳴のような響きが降り注いだ。実際には音などなかったのかもしれない。だが、その場にいた全員が、魂の底を揺さぶられるような強烈な「振動」を感じたのだ。聖なる舟は、ハトシェプストの指先に導かれるように、静かに、そして確信を持って彼女の方角へと向きを変えた。
 それは、神殿の儀礼における「神託(オラクル)」の瞬間であった。神が王を拒絶し、別の誰かを選んだことを示す、不可逆の宣告。
「・・・バカな。そんなはずはない! これは偽りだ、貴様が何か細工をしたのだ!」
 床に這いつくばったまま、トトメスが顔を真っ赤にして叫ぶ。だが、彼を見る民衆の目は、もはや王を仰ぎ見るものではなかった。そこにあるのは、神に見放された哀れな男への、冷ややかな忌避感である。対照的に、光の中に立つハトシェプストの姿は、神殿の壁画に刻まれた古代の神々そのもののような威厳を放っていた。
 彼女は、跪く司祭たちの中心で、自らの内に脈打つ「王のカ(生命力)」が神の意志と完全に同期したことを確信していた。愛されないという空虚は、今や広大な神聖さによって埋め尽くされている。
「・・・トトメス。神は貴方の言葉を聞いていない。貴方が愛と権力に溺れ、マアトを乱している間に、この国の魂は私を選んだ。これこそが、貴方が求めた『神託』の真実だ。」
 ハトシェプストは、もはや反論する力さえ失ったトトメスを一度も見下ろすことなく、神の舟と共に、広場の中心へと進み出た。数万の民が、まるで強風に煽られた麦穂のように、一斉に彼女の前で平伏していく。
 没薬の香りは、砂漠の熱風に乗ってエジプトの果てまで運ばれていくだろう。それは一人の女が、かつての婚約者を「神聖な必然」を以て廃位し、自らが唯一無二の太陽として昇り始めた瞬間の香りであった。
 彼女の視線の先には、もはや一個人の愛憎など存在しない。ただ、自らが統治すべき永遠の王国が、光の海の中に静かに広がっていた。


神託の宣告から数刻後、エジプトの空気はその粘度を変えた。かつてトトメスが支配していた「恣意的な権力」という名の湿り気は消え失せ、代わりにハトシェプストが放つ「神聖な必然」という名の乾燥した峻烈さが、ナイルの流域を覆い尽くしていた。カルナック神殿の最奥にある身じたくの問。そこは、人が神の衣を纏い、地上の王へと変貌を遂げるための、静謐なる変生の揺籃である。ハトシェプストは、香炉から立ち昇る濃密な没薬の煙の中に立っていた。彼女の周囲では、声を出すことさえ禁じられた老練な司祭たちが、一糸乱れぬ動きで「儀式」を進めている。
「・・・ハトシェプスト様。もはや、この布に身体を包む必要はございませんな?」
 建築家であり、今や彼女の影の参謀ともなったセンムトが、低い声で問いかけた。彼の指先には、女性が纏う薄いリネンの衣ではなく、歴代の王たちが戦場や祭典で身につけてきた、硬質な装飾の施された腰布(シェンディト)が捧げられていた。ハトシェプストは、鏡の中に映る自身の裸身を、まるで他人の肉体を見るかのように冷徹に観察した。豊かだった胸は晒し布で厳格に抑え込まれ、そこには女としての曲線も、かつてトトメスに望まれた「愛らしさ」の残滓も存在しない。
「・・・必要ない。この身体はもはや私のものではない。アメン神が地上で歩むための、強固な器であるべきだ。センムトよ、例のものを・・・。」
 彼女の言葉に応じ、司祭が一つの小箱を差し出した。中には、細工を施された青銅製の「付け髭」が納められている。それは古の王たちが、人を超越した存在であることを示すための記号であった。ハトシェプストは自らの手で、それを顎へと固定する。鏡の中に現れたのは、美しき令嬢でも、慈悲深い神の妻でもなかった。そこには、男女という瑣末な境界を蹂躙し、絶対的な秩序(マアト)を体現する「ファラオ」が立っていた。
 彼女の瞳には、一切の迷いがない。愛されないことを悲劇と呼び、選ばれないことを屈辱と呼ぶ人間的な感情は、没薬の香りと共に燃やし尽くされていた。彼女にとって、トトメスとの決別は復讐ではなく、世界の不純物を排除するための「清掃」に過ぎなかったのである。
「・・・これより、大列柱室にて即位の儀を行う。トトメスを連れてまいれ。彼には、地上の秩序が書き換えられる瞬間を、その目に焼き付ける義務がある・・・。」
 即位の祭壇が設けられた広場には、息を潜めた群衆と、武装を解除した兵士たちが、石像のように整列していた。その中心、鎖に繋がれることなく、しかし絶望という名の重力に押し潰されたトトメスが、護衛に左右を固められて立っていた。彼の王冠は奪われ、贅を尽くした衣は砂に汚れている。彼は、祭壇の奥から現れた「怪物」を見て、その場に崩れ落ちた。
 ネメス冠を戴き、付け髭を纏い、筋肉質なシルエットを誇示するように大股で歩くその存在は、紛れもなくハトシェプストであった。だが、彼が知るハトシェプストではなかった。
「・・・ハトシェプスト・・・貴様、その姿は・・・。正気か! 女が王の器を騙るなど、神々が許すはずがない!」
 トトメスの叫びは、虚しく空に消えた。ハトシェプストは、彼から数歩離れた位置で足を止め、その冷徹な視線を足元に転がした。その瞳には、かつて向けられた憎しみも、縋るような愛も、一滴すら残っていない。ただ、道端の石ころを見るような、無機質な憐れみだけがあった。
「・・・トトメス。貴方は未だに、目で見たものしか信じられぬのだな。この姿は欺瞞ではない。神が私に、女という限界を捨てて王になれと命じられた結果だ。貴方が個人的な情愛や保身を『王権』と呼んでいた間に、私は神と契約を交わした。この身体は、エジプトそのものである・・・。」
 彼女が玉座に腰を下ろした瞬間、周囲の神官たちが一斉に平伏した。没薬の香りは今や爆発的な濃度に達し、呼吸する者全ての肺に「彼女の支配」を刻み込んでいく。ハトシェプストは、震えるトトメスに対し、最後の神託を宣告するように唇を動かした。
「・・・貴方は廃位される。しかし、私は貴方を殺さない。不浄なる混沌(イスフェト)として、余生の全てを費やして私の王国が繁栄する様を見届けるがいい。それが、愛を履き違え、マアトを乱した貴様への、唯一の罰である・・・。」
 トトメスは言葉を失い、ただ呆然と、天空の太陽を背に負った「男装のファラオ」を見上げるしかなかった。彼は今、ようやく理解したのだ。自分は婚約者を捨てたのではなく、神が愛でる聖域から、不浄な存在として放逐されたのだということを。
 ハトシェプストは、もはや足元で震える男を見ることさえやめた。彼女の視線は、遥か彼方、テリ・エル・バハリの断崖へと向けられていた。そこには、数千年後もこの瞬間を語り継ぐための、壮大な劇場の設計図が既に描き出されていた。
 太陽が頂点に達し、影が消失する。ハトシェプストの身体を貫く光は、彼女がもはや一人の人間ではなく、エジプトという大地そのものと同化したことを証明していた。
 かつて愛を求めた少女は死んだ。そして今、没薬の香りを纏い、永遠の秩序を司る「神聖王」が、沈黙の中に完成したのである。


世界史豆知識
明治時代の日本はエジプトと接点があり、それが「埃及近代史」と「佳人之奇遇」だ。当時の農商務大臣の谷干城と大臣秘書官東海散士はセイロン島でウラービーに接触、カイロ訪問の際の話をベースに執筆、同時のイギリスの統治の悲惨さを描いたが・・・しかし、この後に日清戦争、日露戦争とかえってイギリスの統治を参考するようになったのだ。
そこの日英同盟でイギリス植民地+日本で包囲されてめちゃくちゃ警戒してたアメリカさん一言どうぞ。
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