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第一章 幸せのありか
64 side哉
しおりを挟むいくら制動がいいとは言え、それでも止まればいくらかの重力がかかる。シートに寝ていれば余計それをよく感じる。最近は家で眠れない分を車の中で寝るようになった。心地よい揺れの中ならば、短くても熟睡することができる。
「……篠田?」
目を開けてさかさまに映ったのは自宅マンションだ。
視察先から本社に帰って、仕事をする予定だったのに。
「今日はもうお帰りください。ついでに明日からの連休中は本社ビルのメンテナンスがあるので五月七日まで誰も入ることはできません」
「それなら……」
なおのこと仕事にキリをつけておかなくてはならないではないか。大体なぜ誰もそのことを言わなかったのだ。
言い募ろうとした哉を車内において篠田が車から降り、ドアを開けた。
「あなたがいると終いが出来ないんですよ。他のもののことも考えてください」
樹理がいなくなって以後、哉はそれを埋めるものを求めるかのように仕事をしていた。明日の仕事も明後日の仕事も、手当たり次第に。
以前は人に任せていたことまで自分でやるようになった。ただひたすら、仕事をしつづけている。
しぶしぶと言った様子で哉が車から降りた。まだ日が高い。先方で昼食を済ませたので十四時を回ったくらいだろうか。
「では、五月七日にお迎えにあがります」
篠田にそう言いきられてしまった。今日から一週間以上、何をして過ごせと言うのだ?
がりがりと頭をかいて、まずは散髪からかと少し笑う。一度切ったが、また前髪が伸びすぎている。
エントランスのセキュリティを抜けた所で管理人に声をかけられた。
「氷川さん?」
エレベータのボタンを押そうとしていた哉に、通路側の窓から身を乗り出すようにして老人がちょっと待ってと言ったあと体を引っ込めてドアを開けて出てきた。
「これ、氷川さんとこで合ってたかね?」
そう言って、管理人が掲げたのは、女物のシャツと、長いスカート。
「聞こう聞こうと思ってても、氷川さんいつも帰り遅いから。玄関にかけといて、人のもんだったらいやだろうし、つい渡せなくてもうだいぶ経っちまったんだが」
「ええ、うちのです。すいません、手数かけて」
受けとって、哉がそう言うと管理人もほっとしたように、じゃあ費用は管理費を落させてもらってる口座からひいておくと、管理人室に帰っていった。
服を脇に抱えて、カードキーを通す。
家に帰るのは苦痛だった。できることなら副社長室に寝袋でも置いてそこで生活したかったが、それだけは止めてくれと回りに説得されて断念した。
週二回、プロのハウスキーパーを頼んでいるので家の中はおそろしく綺麗だ。
けれどこの部屋に、帰りたいと思わない。
ドアを開けると、奥からぱたぱたと軽い足音が近づいて。
『おかえりなさい』と心地よいソプラノで。
控えめな笑みを浮かべた少女の幻影が、陽光のせいで明るい玄関に映る。
抱きしめようと手を伸ばしたら、かき消えてしまう幻。
靴を脱ぎ捨てて、そのままリビングにある和室の障子を開けた。畳の上に、背広のまま転がって、ポケットから、もう何度見たのか知れない、端が少し柔らかくなった、淡い緑の紙を取りだし、開く。
しばらくそれを眺めて、またそっとしまった。
クリーニングから帰って来た服を、すがるように抱きしめて、目を閉じる。
綺麗に洗われて、月日の経ってしまったそれからは、樹理のあのやさしいにおいはしなかったけれど。
そうすれば、望む夢が見れるような気がした。
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