対岸町のサーカステント

あきさき

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第二部

献身の話 【10】

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 沈黙が落ちた事務所内で、深い青色のグラスに注がれた水を、月下部さんが静かに見下ろす。
 広げた両手で緩くグラスを覆うようにした月下部さんは、ゆっくりと、注がれた水に息を吹きかけた――――途端、事務所内の気温が一気に下がった。

 冷えた湖に浸かっているような感覚。明らかな異常に狼狽える僕の視界に、グラスの水面が映る。透明だったはずの水は、今や夜を溶かしたような色に変わっている。
 その中心に、月が浮かんでいた。
 暗く、深い水面に、小さな月が穴を開けている。

 みほさんも異常を肌で感じているのか、僅かに戸惑った様子で組んだ両手に力を込めていた。ぎゅう、と握りしめられた両手が、微かに震えている。
 張り詰めた空気。何か、只事ではない事象が起きているのだと、本能が言っていた。
 そんな中に、場違いな舌足らずの声が響く。
『わっぷ わっぷ おぼれるるる』
「ちょ、お前、し、静かにしろ」
 司だった。
 気づけば、僕の膝の上に司が乗っていた。おぼれる、と焦った様子で僕にすがりつく司を支えてやる。そのまま引き寄せてな、と前条さんが囁くので、僕は何が何だか分からないまま、慌てる司を抱きしめておいた。

 やがて、月下部さんは揺れる水面を掬い上げるようにグラスを持つと、その中身を一気に飲み干した。
 その瞬間、一瞬だけ、肺が水に押しつぶされるような錯覚に襲われる。溺れる、と言った司の気持ちが分かった。

 空になったグラスが、硬質な音を立ててローテーブルに置かれる。たまにあれビールでもやってくれんだよ、などと後ろで前条さんがうるさかったが、息苦しさで相手をしているどころではなかった。

「前条」
「うん、何?」
「一つ目の方だ。来年一月十六日に『目黒真臣』と入籍、まじないは二月四日にかけろ、それまで妹ちゃん生きてるから、産まれた妹ちゃんは半分くらい記憶がある、みぽリンが……妹ちゃんの成人式で笑ってる」
「へえ、良かったね」

 ぐす、と鼻を啜った月下部さんに、前条さんはなんとも軽い調子で相槌を打つ。それと同時に月下部さんの体が大きく傾いだ。
 僕の方に倒れかけた月下部さんの体を、ソファの後ろから前条さんが逆側へと引っ張り倒す。
 倒れ込んだ月下部さんは寝入る直前の朧気な声で、「よかったな」と、心の底から安堵したように零して、電池が切れるみたいに意識を失った。
 微かな寝息を立てる月下部さんを見下ろしながら、前条さんが言う。
「さて、最強占い師のお墨付きも貰ったので二月四日にまたお越しください」
「……よろしくお願いします。ジローくんにも、お礼、伝えておいてください」
 頭を下げ、二回分の依頼料を置いて事務所を後にしたみぽリンの背を見送った前条さんは、そこでソファに寝転んだままの月下部さんを見下ろして大げさな溜息を吐いた。

「さて、けーちゃん。これ一緒に運んでくれる?」
「え? ど、どこにですか?」
「しおんちゃんちだよ、此処に置いておきたくないだろ?」
「だったら事務所でやらせなきゃいいじゃないですか……」
 至極まっとうなことを言った僕に、前条さんはわざとらしく今気づいたとでも言うような仕草で答えた。
 サプライズでみぽリンに会わせるなら事務所の方が都合が良かったとか、多分そんな理由だ。呆れと疲れから溜息を零した僕の膝で、司は『ぷはっ』と息継ぎのような声を零した。さっき突っ込み忘れたけど、お前息してんのかよ。してないだろ地蔵なんだから。
『おぼれそ だった あぶない』
「……お前呼吸どこでしてるんだよ」
『はなとくち』
 だから、鼻と口はどこにあるんだよ。探るように撫で回す僕の手の中で、司が擽ったそうに笑う。結局見つからずにやめたところで、笑い疲れた司がしみじみと呟いた。
『かすかべ ふかいね』
「そう、しおんちゃん深いんだよ。なのに俺のこと化け物呼ばわりすんだぜ? 嫌になるよな」
『なんで かえってくるの? こわい』
「さあ?」
 首を傾げた前条さんが、力の抜けた月下部さんの体を起こし、肩を貸すようにして立たせる。そのまま引きずるようにして運び始めるので、僕も慌てて後を追った。
 司は『つかれた るすばん』と言うのでソファに置いておいた。身長差故にあんまり役に立っている気はしないが、僕も逆隣から月下部さんを支える。
 階段を降りながら、やっぱりエレベーターつけた方がいいんじゃないかと真剣に思った。エレベーターってどうやってつけるもんなんだろう。よく分からない。よく分からないことだらけだ。今回の依頼なんて、特にそうだった。
「……なんでみんな僕に説明なしに話を進めるんですかねえ」
「けーちゃん以外は大体分かってるから、わざわざ説明すんのが面倒なんだよな。けーちゃんだって七並べやっててルール知らないやつが一人しかいなかったら『とりあえずやってみれば分かるから!』って言うだろ?」
「とりあえずやってみちゃったら不味い感じのことばかりあるから問題なんですよ……」
「そんときは俺が守ってやるから、安心しとけよ」
 笑いながら告げた前条さんと一緒に、月下部さんを見慣れない白のミニバンに運び込む。流石に今回はボロボロの軽トラックではないらしい。端から見たら完全に何かしらの犯罪じみていたので、つい不安になって辺りを見回してしまった。
 良かった、誰も居ない。胸を撫で下ろしてから、完全に犯罪者の思考だったことに悲しみを覚える。違うんですよ、と誰に言うでもなく言い訳しながら、僕はこそこそと車に乗り込んだ。

 前条さんが運転席に座り、僕と月下部さんが後部座席に乗ることになった。助手席には、何故が木彫りの人形が置いてあったので。何故か人形の両目から血が垂れていたので。
 自転車でも行ける距離だ。車では然程時間もかからない。花恋さんの家を通り過ぎ、ギリギリ通れそうな小さな路地をいくつか曲がる。
 そうして道を進み、三階建てのアパートが見えてきた頃、それは起こった。

「────二月十日」

 突如、僕の隣で月下部さんが呟いた。反射的に月下部さんを振り返るも、意識が戻ったようには見えない。
 車内の温度が下がるのが分かった。見つめる僕の前で、月下部さんの口がゆっくりと動く。

「二月十日」
「……え、っと、」
「けーちゃん、会話すんなよ。寿命縮むからな」
「えっ、えっ、誰のですか」
「しおんちゃんのだよ。知らない? 寝言に返事すると寿命縮むんだぜ」

 それは僕も聞いたことがある。迷信の一つでしょう? 睡眠の邪魔をすると脳にダメージが行く、みたいな。
 ただ、この場合は迷信でないのだろうな、とは感じ取った。未来を当てる占い師の寝言だ。
 嫌な音を立てて鼓動を速める心臓を抑えながら月下部さんの言葉の続きを待った。
 二月十日に、何が起こると言うのだろう。見守る僕の前で、月下部さんは小さく、だがはっきりと呟いた。

「……前条か布施が死ぬ」
「それって回避できんの?」
「ちょっ、ぜ、前条さん!」

 今しがた会話をするなと言ったばかりの人が真っ先に問いを投げていた。途端、月下部さんが咳き込む。鮮血が散った。
 ま、待ってください。血が! 血が出てますよこれ!!
 慌ててカバンから取り出したハンカチで拭おうとした僕は、そこでゆらゆらと伸びる指先に差されて、動きを止めた。

「連れてけ」

 それだけ言うと、月下部さんは、がくん、と首を落とした。言葉を発していた間は微かに体に力が入っていたように思うが、今度こそ完全に脱力している。
 連れてけ、と口にした月下部さんは僕を指差していた。連れてけって、僕をですか? ……どこに?

 ハンカチを構えたまま困惑し続ける僕がようやく月下部さんの口元を拭った頃、前条さんはとあるアパートの前で車を停め、微かに困ったように頭を掻いた。
「けーちゃんも死ぬのか聞けば良かったな」
「いや、え、その、えっと、これ、なんなんです?」
「ん? ああ、占いだよ。このタイミングで出たってことは、回避しようはあるけど今のところ確定した未来だな。しょーがない……二月十日、どこに行くか知らないけどついてきてね、けーちゃん」
「そ、そりゃ……ついてはいきますけど」

 死ぬ、などと言う結果が出たのだから、それを僕の存在で回避できるのなら幾らでもついて行く。当たり前だ。
 だがしかし、幾ら自分を鼓舞しようと、前条さんが死ぬかもしれないところについていかなきゃならないのかと思うと、今から恐ろしい気分だった。




 その後、前条さんは月下部さんの部屋の鍵を当然のように開け(雑に一纏めにした大量の鍵がポケットから出てきた。多分僕の部屋の鍵もある)、敷きっぱなしの布団の上に月下部さんを転がした。
 掛け布団を掛けながら、「しおんちゃん、いつもごめんね」と呟いていたので、「それは謝ったのにカウントしませんよ」と釘を刺しておく。
 不満げな顔で振り返った前条さんが、依頼料の半額をテーブルの上に置きながら、拗ねたようにぼやいた。
「今度謝るよ」
「その今度っていつ来ます?」
 僕の言葉に、前条さんはなんとも意地の悪い顔で、「俺が死ななかったらな」と笑った。
 少なくとも、今年中は謝るつもりはないらしい。



    了


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