我が身は死人の世界

一ノ清たつみ(元しばいぬ)

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黄昏の吸血鬼

70.追い縋る悪夢

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「いきなりご挨拶だなぁ、お前。そんなに乱暴だと嫌われるぞ?」

 周囲が騒ついていた。
 それを感じながらも、ジョシュアはその手を緩める事ができなかった。ニヤつく目の前の男の首を握り締め、殺さんとばかりに威圧する。
 目の前に居るのは、本物のヴィネアとは似ても似つかない、輝くような金髪の男だった。スカイブルーの目を細め、爽やかなその顔に似つかわしくない、ねっとりとした笑みでジョシュアを見下ろしている。

 ここで殺せないのは分かっている。こんな騒ぎを起こしてまで今、ここでいけすかないこの魔族の首を折っても、には何ら影響もないだろう事も頭では分かっている。これは人間の体。ギルドでの時と同じように、その体を操っているのだと理解している。
 それでも、体は言う事を聞いてくれなかった。今すぐにこの場から消し去ってしまいたい。そう思う気持ちが抑えきれなかった。

「ゲオルグ……!」

 すぐ側で、馴染みの彼女が、小声でジョシュアを呼ぶ声が聞こえた。
 けれど沸騰した頭では、目の前のものから意識を逸らす事ができなかった。

「貴方らしくない、やめなさい!」

 自分の腕に縋り付いてくる人の気配を感じている。甘い香りを微かに感じる。けれどそれでも、ジョシュアは腕を下ろす事ができなかった。
 自分らしいとは一体、こんな時はどうすべきだったか。ジョシュアはほとんど無心で、目の前のもの見つめた。

「そうだぜ、お前も本当は分かってんだろ? この体は俺のではない。お前が何をしても、受けるのはこの体の持ち主だけだ」

 そう声に出されてようやく、冷静な自分が帰ってくる。今ここで下手をすれば、自分は何の関係もない人間の命を奪うことになる。そう思うと体から段々と力が抜けた。

 そしてそれを感じ取ったのか、目の前の男は逆にジョシュアの胸ぐらを掴むと、自らの方へと引き寄せてきた。
 目と鼻の先、至近距離で男と睨み合う。

「聞けよ、ゲオルグとやら。お前らにいい話を持ってきてやったぞ? この街で起こってる人攫いの犯人について」

 ジョシュアは驚かされるばかりだった。

「あの吸血鬼を始末してほしい。俺の言う事を聞きやしなくてよ――奴の情報を渡す、迷惑だからとっとと消せ」

 そう言い放ったかと思うと、人間に扮した魔族――ヴィネアは、ジョシュアを引き剥がしてその襟元を正した。

「お前らにかなり手下どもを奪われてなァ、俺らもそれほど余裕はないん。お前ら一匹処分するのも骨が折れるってのに……勝手に余計な事ばっかりしやがって。あんな稚拙なやり方の奴と一緒にされたら溜まったもんじゃない」

 そう忌々しそうに吐き捨てる男の表情に嘘の気配はなかった。言葉通りにとるつもりはないが、ここは従っておいて損はないはず。急激に冷静さを取り戻したジョシュアの頭が、先を見据えた判断を下した。

「そんな提案に乗ると思うのか?」
「乗らないんなら、お前らはずっとここで足止めされるだけだ。奴は無駄に隠れるのが上手いんだよ。ここは元々だ。街のあらゆる場所を知り尽くしてる……少し目立ち過ぎたわ。場所を変える。その気があるんなら付いてこい」
「……」
 
 そう言うと、ヴィネアは裏通りへ抜ける小路の方へと歩き出した。
 ジョシュアはそこで一度、ヴェロニカの方へ視線を向ける。公衆の面前でやらかしておいて今更ではあるが、どうするべきかという相談のつもりだった。

 途端、彼女には少しばかり顔を顰められたが、すぐに頷きを返された。話に乗れ、というのだろう。それに同意するようにジョシュアも頷くと、慌てて男の後を追った。後ろから二人が付いてくるのを感じながら、ジョシュアは人混みを足早に進んだ。

 しばらく歩いて頭から血が抜けると、ジョシュアにも罪悪感が生まれ出す。衝動に駆られてみっともない姿を晒した。きっとヴェロニカとラザールは大層驚いたに違いない。
 だがその反面、二人共気付けて良かったのではないかとも思う。この魔族を始末する為ならば、ジョシュアはああやって化け物にすらなれるのであると知れただろうから。

 ヴィネアに連れられてやってきたのは、古めかしい木造の屋敷のひとつだった。手入れが全くされておらす、外観の割に中は埃と蜘蛛の巣にまみれていた。

 奥まで進むつもりはないのか、屋敷の広い玄関ホールで立ち止まるとヴィネアは振り返った。真っ直ぐにジョシュアを見据えて言い放つ。

「のこのこと付いて来て……ま、俺もこの姿じゃあ闘えもしないから別にいいんだけど。これが終わったらこの人間はここに捨てて戻る。お前らで勝手にしろ」

 その言葉に、僅かに顔を顰めたジョシュアをチラリと見てから、ヴィネアはとうとう本題に入った。

「お前らの追ってる吸血鬼、今はアンセルムと名乗ってたらしいぜ」

 そんなヴィネアの言葉を聞き、なんとその場にいたラザールから声が上がった。

「ッああ、そう、そうだ……! その名前に覚えがある!」
「ああ? お前……ハンターのクセ奴に会ってんのか? なんで記憶が残ってるんだ。全員消しとけって言った筈だが……」
「とても印象深かった気がする」
「……」

 男は一瞬顔を顰めたかと思うと、忌々しそうにその吸血鬼について語ってみせた。

 アンセルムと名乗っている吸血鬼は、元々この街に住んでいる吸血鬼らしかった。臆病だが自由や芸術を好み、人との接触を極力避けながら好き勝手に街を彷徨いているような男だった。
 そこにヴィネアが接触してどうやったのか、彼をヴィネアの支配下に置いたのだとか。だが、上手くいったのはそこまでの話。吸血鬼アンセルムの思考は、ヴィネアの予想から大きく外れる事になった。

「言うことは中々聞かないし俺を飾り立てようとしたり目の前で歌い出したり、好みでも何でもない人間をとっ捕まえて贈ってきたり……そのクセ、こっちから会いに行っても根城はコロコロ変わるし隠れんのは上手いしでもう全く、迷惑千万。クロがどんだけ常識的な吸血鬼か身に染みてな――」

 まるで同情してくれとでも言いたげに溜め息を吐くその姿を、ジョシュアはただ冷静に見遣るだけだった。早いところ、この男との会話を終わらせたくてたまらなかった。
 思わず口を開けば、冷たい言葉ばかりが飛び出す。

「そういうのはいらない。要点だけ言え」

 ジョシュアがそう言えば、目の前の男は器用に片眉を持ち上げてみせた。

「ああ? ……言うねお前」

 ジョシュアに言われ、ヴィネアも黙っている訳がなかった。優位に立っているのは自分だとばかりに、見下したような視線をやりながらジョシュアを見返す。

「別に俺はいいんだぜ? お前らがどうなったって。奴の反撃にあって全滅しようが、このまま人間が消え続けようが」

 その指摘に、ジョシュアはぐっと言葉に詰まる。

「アレは数百年は生きてる。あの赤毛の奴とアイツと、どっちが上だろうなァ? この俺が親切にしてやってる内に黙って聞いとけよ、な? 悪いようにはしない」

 まるで駄々を捏ねている子供に言い聞かせているかのような口ぶりだ。けれどもちろん、冷静なジョシュアが簡単にその話に乗るはずがなかった。

「……ただの親切心だなんてそんな言葉、信じるわけないだろ」

 ジョシュアがそう言い放った時だった。
 ヴィネアは一瞬驚いたような表情をしたかと思うと。次の瞬間にはニヤリと笑った。悪戯に気付かれてしまった子供のように、それはそれは無邪気なものだった。

「残念。……お前、つくづく厄介だわ。他の吸血鬼みたいにただの戦闘馬鹿だったら御し易いってのに」
「……」
「あの女の眷属だから、ってだけじゃないよなァ? お前のその用心深さ。……吸血鬼になる前は、元々普通の人間じゃなかったんだろう?」

 唐突に言い当てられ、ジョシュアは思わず強張りそうになる顔を必死で我慢した。ここで何か反応を返せば、図星だと言っているようなものだった。
 背後のヴェロニカからは、少しばかり不穏な気配が漂ってきている。だが、ここはひたすら我慢するしかない。それはジョシュアにも、そしてヴェロニカにだって分かっているはずだった。

「俺が殺った――お前、親しかったんだろ? 身内か、仲間か?」
「、」
「……両方か? 随分と手慣れてたしなァ……ハンター……、お前にられた副所長が惜しかったわ。奴が手の内にあれば、お前らの経歴漁るのも簡単だったってのに……」

 次々、目の前で暴かれていくジョシュアの過去に焦りが生まれる。それでも、この男の策略をひとつひとつ潰して来たミライアの行動は、確実に功を奏していた。それが今こうしてジョシュアの救いとなっている。その事実は少しばかり焦る心を落ち着かせた。

 (大丈夫、大丈夫だ……ここで俺が動揺しなければ、コイツの憶測でしかない。元ハンターだと分かった所で何かできるわけも――)

 けれどここで、ヴィネアが手を緩めるはずはなかった。更に追い詰めるように言葉を続ける。
 まるで、確信でもしているかのような口ぶりだった。

「北の方で一人、男が行方不明になったそうだな――?」

 その瞬間、ジョシュアは息を忘れた。

「ハンターだった男が突然、街から――」

 だがその時だった。ヴィネアは突然、ジョシュアの目の前から消えた。正確には、その場から噴き飛んだのだ。風が空を切るような音と共に、室内で突風が吹いた。その犯人は言わずもがな。

「いい加減になさいな、この魔族めが。わたくしにこの場で殺されない事を幸運に思いなさい」

 ヴェロニカは、底冷えするような声音で言った。今までジョシュアが聞いた中で、最も恐ろしいと思えるものだった。けれどきっと今の攻撃は、この場で暴かれそうだったジョシュアを庇っての事だったに違いない。
 未だにバクバクと音を立てる心臓を何とか鎮めようと躍起になりながら、ジョシュアはヴェロニカと男のやりとりを黙って見ていた。
 もしこれ以上何か聞かれれば、この場で綻びが出そうで酷く恐ろしく感じていた。

「いった……、っ乱暴な女だな、お前も。あんまり乱暴すると、この人間が死ぬってのに」

 地面に横倒しにされた男が悔しそうな声を上げる。だが、ヴェロニカはそれでも容赦しなかった。ジョシュアの前に躍り出ると、冷たく見下ろしながら吐き捨てるように言い放つ。

「この程度で死にはしませんわ、お前が辛いだけで。魔族野郎に容赦するなんて、その必要がどこに……? ねぇお前、エレナを殺した魔族がお前なのかしら?」

 途端に一層低くなった声音に、ヴェロニカの本気が見て取れた。

「ああ? この俺が、人間の名前なんて覚えている必要がどこに?」
「……そう、なら仕方ないわ。相手の精神を苦しませるような魔術も、無いわけではなくてよ?」

 そうヴェロニカが言った瞬間、男はどうしてだか焦り始める。魔術には詳しくないジョシュアだったが、彼女にはこの状況でヴィネアを攻撃する手段があるように見えた。

「ッ! クソ、お前っ、人間の癖に禁忌を犯すのか――⁉︎」
「お前のように、自分の手を汚さずに人に危害を加える者はですらないもの……禁じられるはずがないのですわ。地獄に堕ちろ」
「ッこの阿婆擦れが!」
「あら、わたくしのような可憐な乙女に対して下品ですわ。さっさと消滅してしまいなさいな」
「――ッ‼︎」

 そう言って、ヴェロニカが魔力を込めた手をかざすや否や。男の中に潜んでいたヴィネアは、たちまち掻き消えてしまった。
 ヴェロニカがそうしたのか、それともヴィネアが退散するのが早かったのか。どちらかはジョシュアには分からなかったが一先ず、危機は脱した。――否、脱してなどいなくてただ先延ばしにしただけだったかもしれない。けれども兎に角、ジョシュアは無事にこの場を切り抜ける事が出来たのだ。

 僅かな魔力の残滓を残し、ヴィネアはこの場から完全に消え去ってしまった。それを意識した途端、ジョシュアは己の力が抜けるのを感じた。立っていられず、その場に蹲り両手で顔を覆う。
 唐突に溢れ出て来てしまった様々な思いが、この時頭の中を駆け巡っていた。
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