鬼が人を拾う話

一ノ清たつみ(元しばいぬ)

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3.戦場に出る鬼

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 金霞と共に暮らし育ててきた男が、人間を喰らう異形の者だと知ったら、あの子供は一体、何を思うのだろうか。

 そのような事を思いながら、金霞と過ごしていたぼろ小屋をぐるりと見渡す。いつも使っている菅笠と半合羽を羽織ってから、銀狗は外に出た。
 日は未だ高くに上っており、空は青々と輝いていた。銀狗のような日陰者にはまだまだ辛い時間帯だったけれども、それにも構わず銀狗は足を進めた。

 小屋の傍にあった山桜は蕾をつけ、もうじきその枝いっぱいに薄紅色の花を咲かせるのだろう。何度も目にしてきたその光景を、銀狗はもう二度と見る事はない。
 今日この日をもって今度こそ、銀狗はここを離れる。

 金霞は小屋には居なかった。すっかり大きく成長した彼はこの頃、街で何かの仕事を得たようだった。
 街から小屋へ戻る度、その仕事の師匠がだ何だのと騒いでは銀狗を楽しませてくれたが、彼は頑なに仕事の内容を話そうとはしなかった。

 銀狗はそれを気にも留めなかったが、人間の暮らしも大変なのだろうと己に言い聞かせた。
 時折くたびれたように帰ってくる時もあって、銀狗はいつもそれを小屋で出迎えるのが日常となりつつあった。

 けれどもう、これっきりだ。
 銀狗は再び、孤独なひとりの鬼へと戻るのである。
 後ろ髪を引かれながら振り返る事なく。銀狗はただ真っ直ぐに前だけを向いて、薄暗い山中の森の中へと足を進めた。

 耳の奥で、愛らしい子供の笑い声がした。たったの十数年、暮らしを共にしただけのその子供の声が。
 頭を振ってそれらの声を振り払いながら、銀狗は笠を深く被り直すと。スッと森の影の中へと消えてしまった。


 小屋を出てから数日後、銀狗は戦が起こると噂のその土地へと足を踏み入れていた。何者にも見つからぬよう、普段以上に気配も妖力すら徹底的に隠しながら、銀狗は暗闇の中を歩いた。

 時折生き物の気配を感じ取ると、木に登り息を潜めてやり過ごした。気配も簡単に隠せる鬼としては過剰過ぎるほどの警戒ぶりだったろう。

 けれど今、金霞にだけは決して見つかってはならないのだ。いくら姿を消しても自分を見つけてしまう金霞にだけは。
 そうでなければ、次こそ銀狗は。

 そうして辿り着いた山の麓には、小さな集落がひとつあった。この国の田舎らしい、大層静かで穏やかな村のようだった。
 その村より山を登った所に、放置されていた山小屋を見つけた。銀狗はしばらく、そこで暮らす事にした。

 戦が始まるまでは飯は食えぬ。鳴り出す腹をそこいらの獣肉で誤魔化しながら、銀狗はひっそりと息を潜めてその時を待った。

 他の鬼はどうか知らなかったが、銀狗は生きた人間は好かなかった。そんなものを喰う気には到底なれなかったのだ。
 いくら鬼になったとはいえ、彼も元は人間だ。喰おうとすると、その昔世話になった侍女や寺の住職の顔が頭に浮かんだ。

 鬼というのは、人の負の情念が極まって生まれるのだという。けれども銀狗の場合は違った。その昔、彼に恋慕して死んだ女の呪いか何かで、彼はこうして鬼になってしまったのだ。
 そもそも、他人に対してそれ程の情念すら持ち合わせてもいなかった彼は、他の鬼ほど狂う事なんてできやしなかった。

 身も心も鬼に成れれば、銀狗もここまで食べるものに苦労はしなかったろう。
 山を通りかかった人間を襲って腹に収めてしまえばいい。けれどもそれができないから、銀狗はこうして戦を待つのである。

 戦はいい。
 銀狗はそれ自体も好きだった。
 互いの命を投げうって、彼らは己の信じるもののために戦うのである。彼らにとってそれは必要な死だ。生きる為の死だった。
 不条理がゆえに蹂躙される命などではなく、彼らにとってはそれが生きるために必要だからこそ戦って死ぬのだ。どちらが勝ってもそれは同じ。

 そうした彼らの命のやりとりを前にして、銀狗はある種の憧れを抱くのである。自分には決して味わう事のできない、その戦いの狂気を。

 戦の後、そうした彼らの残骸を拾い集めながら想いを馳せ、銀狗はひとり心と体を満たすのである。
 それまではひっそりと息を殺し、彼はその場で何日も眠り続けた。


 そうしてある日、銀狗の鼻は戦の匂いを嗅ぎ取った。
 戦場に漂う独特の空気とその匂いが、風に乗って銀狗の居る所まで届いたのである。
 凝り固まった体を伸ばし、逸る心を抑えながらふらふらと外に出た。
 やはり日はまだ高い所にあったが、笠と半合羽を被れば問題はない。平野が近い麓の村付近であれば、木々も日光を遮ってくれる。

 日陰を選びながら早足で進めば、やがてその喧騒が彼の耳にも届くようになった。弓を引く音、矢が風を切る音、刀が空気を裂く音、侍達のときの声が聞こえた。

 鬼の五感は人間よりも優れている。戦場の見える位置まで下山し、銀狗は木に登ってそれが止むまで、うっとりとそれを眺め続けた。
 自分があそこに加わる事はできない。何せ彼は、一目見ただけで人を殺す化け物に違いないのだから。
 日が暮れるまで飽きる事なく、彼はずっと見ていた。


 ふと気がつくと夜になっていた。
 日はすっかり暮れ、山の頂の方から青褐あおかち色が押し寄せてきていた。無数とも那由多とも思える程の星が、微かに輝いているのが分かる。
 随分と腹を空かしていたせいか、その日の戦いが終わった事にも気付かず大分出遅れてしまったらしい。銀狗は急いで木から飛び降りると、身に付けていた笠と半合羽を脱ぎ捨てて足早に進んだ。

 人の気配のする灯りの方を避け、暗闇の中を駆ける。
 ようやく腹が満たされるのだと思うと、歯止めが効かない。もう、腹一杯になるまで口にする事以外、考えられなくなっていた。何故、自分がこそこそとこんな所にまで来ていたのかも忘れ、銀狗はようやく食事にありつく。

 先程まで命を懸けて戦っていた者たちが自分の腹に収まるのかと思うと、何とも形容し難い心地がした。

 そうしてしばらく、自分のお眼鏡にかなったものを物色しながら、銀狗は腹にそれらを収めていった。数日ぶりの食事だ。夢中でそれらを口にした。

 けれどもそんな時だった。
 銀狗は、俄かに信じ難い声を聞いた。

「銀狗か?」

 彼の背後、そんなに遠くない位置から、彼の名前を呼ぶ声がした。

「その着物はそうだろ、銀狗だろ?」

  銀狗は動きを止めた。その場から一歩たりとも動く事が出来なかった。
 先程まで胸の内を満たしていた心地もすっかり吹き飛んでしまって、サァッと全身の血の気が引くような感覚に見舞われた。

 銀狗が聞き間違う筈もない。
 この声は金霞のものだ。またしても、彼に見付かってしまった。

 しかもそれだけではない。頑なに隠し続けてきた彼の素性が、きっとこれで金霞にも分かってしまっただろう。
 苦労して、鬼である事を隠し通してきたと言うのに。

「銀狗……やっぱり、人じゃなかったんだな」

 この時がとうとう来てしまった。銀狗は目を瞑りながら、空を仰ぎ見た。
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