奇跡と言う名のフォトグラファー

青木 森

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前編

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(静かだな……誰の声もしない……)
 虚ろな目をした少年はぼんやりと、教室の窓から校庭の葉桜を眺めていた。
 しかし少年の周りは始業開始時間前という事もあり、他の生徒達は幾つものグループに分れ、昨日のテレビの話、ゲームの話、ファッションに恋話、思い思いの会話を楽しみ、教室内はお世辞にも静かとは言えない、ざわめきに包まれていた。
 教室を俯瞰で眺める事が出来れば、窓際一番後ろに座る少年とクラスメイト達との間には、綺麗な空洞が見えた事であろう。
(アイツのいない二度目の春……か……)
 無表情の少年からは、何の感情もうかがい知る事は出来ないが、
「ヒカリ……」
 ぼんやり呟くその声には寂しさが滲んでいた。
 キ~ンコ~ンカ~ンコ~ン、キ~ンコ~ンカァ~ンコ~ン
 何の変哲も特色もない予鈴が響く中、教室に近づく二つの足音。
 ワラワラと、一部の生徒が自席に着き始めた頃、教室の扉が無造作にガラッと開き、
「お前らぁ席に着けぇ~。ホームルームを始めるぞ~」
 ダルそうな声と共に、女性教諭が出欠簿片手に入って来た。二十代後半であろうか、パンツルックが似合う、ちょっとつり目とショートボブが印象的な、お姉さん的雰囲気を持った女性である。
「うぃ~ッス」
「はぁ~い」
 生徒達が自席に戻ると、女性教諭はニヤリ。
「野郎ども、喜べぇ~~~! 帰国子女の編入生、しかも女子だぞ女子」
「先生、マジ!?」
「うっそ!」
「ラッキー!」
「おときさん、カワイイ子ォーーー!?」
 大騒ぎになる教室内であったが、窓際の少年は気にする風もなく我関せず、変わらぬ無表情で外を眺めていた。すると編入生が入って来たのか、
「うぉーーー! マジ、カワイィーーーッ!」
「ヤバイってぇ~~~」
 ボルテージが上がる教室内に、女性教諭は静かにするよう手を叩いて促し、
「ほらほら落ち着け、野郎ども!」
 しかし騒ぎは一向に収まる気配を見せず、
「ねぇねぇキミ! どっから来たの!」
「名前を早く教えてよ!」
「趣味は?」
「好きなタイプは? 俺なんてどう!」
 矢継ぎ早に質問する声に混じり、窓際の少年を呼ぶ「何者か」の声が極端に近くから、
「ハヤテ! ハヤテ! あの子を見ろよ!」
「前を見ろよ! 前、前ッ! 前ぇーーー!」
 しかしクラスメイト達の騒ぎに無反応であったハヤテと呼ばれた少年は、呼び声の近さに違和感を感じる事も無なく、尚もぼんやり外を見つめたまま、
「ウルサイんだよ、オマエ等……」
 うっとうしそうに呟いた刹那、「駆け音」が急激に近づき、
「ハヤテェーーーッ!」
 少女の歓喜の叫び声と共に、ハヤテはいきなり誰かに飛びつかれイスごと床に倒された。ドッガラァ!
「イテテテテ……なんだ……?」
 後頭部を擦りゆっくり目を開けると、そこには満面の笑みを浮かべ、ハヤテを見下ろす少女の姿が。
「ハーくん! ボク帰って来たよ!」
「……ヒカリ……なのか?」
「そうだよ! 何でそんなに自信なさげなんだい! まさか許嫁の顔を忘れたのかい!?」
「「「「「「えぇ~~~~~~ッ!?」」」」」」
 ヒカリがムッとし、クラスメイト達がどよめく中、ハヤテは少し照れ臭そうに、
「そっ、そんな事ある訳ないだろ……」
「なら良し!!」
 ヒカリは満面の笑みと共に、床に押し倒したままのハヤテにいきなり抱き付いた。
「「「「「「「「「おぉーーーーーーーーーッ!」」」」」」」」」
 教室内は歓声、悲鳴、驚き、「クラスメイト達」と「何者か」の更なるどよめきに包まれ、
「ちょ、ヒカリッ! ここはアメリカじゃないぞ!」
 よく分からない理屈で、慌てるハヤテが引きはがそうとするも、そうはさせじと「至福の笑顔」でしがみつくヒカリ。
 ハヤテとヒカリ、そして「何者か」達の事を語るこの物語は、一旦過去へとさかのぼる。
 
「お母さん、行ってきまぁーーーす!」
 五歳のハヤテは一人で開けるのが少々辛い、重い鉄扉を両手で押し開け、満面の笑みで光の中へと駆け出した。
「車に気を付けるのよぉーーー!」
 閉まりかけた扉の向こうから母親の声がし、
「はぁーーーい!」
 明るい返事を返しつつも立ち止まらず、首に小さなデジカメを下げるハヤテは団地の渡り廊下を元気に走って行った。
 幼いハヤテがいるのは、北東北の青森県A市の少し東より。近くに市営バスの営業所があり、数分歩くと海に出る、五階建て団地の最上階である。
 ゴールデンウイークに差し掛かるこの時期でさえ、石油ストーブのお世話になる日があるこの町。しかもハヤテの住む団地は海の近く。未だ凍える寒さの残る中、ハヤテは寒さを物ともせず階段を駆け下りると、
「ポストさんこんにちは!」
 一階の出口付近の壁に備え付けてある、潮風の影響で錆びの目立つ集合ポストに声をかけつつ外へと飛び出し、道中も、まるで人と接するかの様に「電信柱」や止めてある「自転車」に挨拶しつつ向かった先は、団地に隣接する公園であった。
幼いハヤテは公園に着くなりジャングルジムを見上げ、
「ジャングルジムさん、こんにちは! うん! こっちの角度が良いんだね!」
 対話する様にそう言うと、デジカメを向け、
 パチリッ!
「撮ったよ! カッコ良かったよ! じゃあね!」
 足早に、今度は花壇に向かい走り、チューリップに止まるミツバチを見つけ、カメラをそっと向けるも、
「え? ご飯の時はやめて? うん、分かった! ごめんね! また今度!」
 撮らずに滑り台の方へ行こうとすると、ブランコに座る一人の少女が目に留まった。
 膝の上に、上半身が隠れる程の「クマのぬいぐるみ」を抱き、うつむく少女。
 引っ越して来たばかりなのか、ハヤテが初めて見る少女である。
 すると公園にいた子連れの大人達はハヤテと少女をチラチラ見るなり、
「さ、帰りましょ!」
「えぇ~まだぁ~」
 ぐずる我が子の手を強引に引き、蜘蛛の子を散らす様に公園から一斉に姿を消した。
 ハヤテにとっては、いつもの事である。
 少し奇異とも取れるハヤテの言動は団地内では有名で、子を持つ親達は、自分の子供がハヤテに接触しない様に遠ざけていたのである。
 性格も手伝ってか、ハヤテはさして気にする風もなく、うつむく少女に歩み寄り、
「どこか痛いの?」
 少女は怯えた様にビクッと身を縮めるとクマの後頭部に顔をうずめ、ハヤテは不思議そうに首を傾げ、
「クマさん。ボクはこの子をイジメたりしないよ」
「……え?」
 今度は少女が不思議そうにクマの後頭部から顔を覗かせると、ハヤテが屈託ない笑顔を少女に向け、
「キミが寂しそうにしているから、クマさんが心配だってさ」
「おはなし……出来るの?」
「うん。みんなは「ヘンだ」って言うけどね」
 言葉とは裏腹、何の憂いも無く笑って見せるハヤテに、
「すごい」
 少女が初めて小さな笑顔を見せ、
「ボクはハヤテ。キミは?」
「ひ……ヒカリ……」
「へぇ~ヒカリちゃんかぁ~~~! ヒカリちゃんは暗いのに名前は明るいんだねぇ!」
 気にしていたのか、落ち込むヒカリであったが、
「ボクのは、ちょっとカッコ良過ぎなんだ。名前を教える時、なんか照れちゃうんだよ」
 見せる自然な笑顔に、落ち込んだ筈のヒカリも釣られる様に小さく笑い、
「ヒカリちゃんって、最近引っ越して来たの?」
 コクリと小さく頷き、
「近くの、大きい病院で、「ケンサ」するの」
「どこか悪いの?」
「んと……わかんない……」
「全然元気そうだけどなぁ~。ちょっと暗いだけで」
 ハヤテのちょっと意地悪なツッコミで再び落ち込むヒカリに、
「ゴメンゴメン! クマさんにも怒られちゃった。お詫びに面白い写真撮ってあげる!」
「おもしろい写真?」
 するとハヤテはヒカリではなく、クマのぬいぐるみにカメラを向け、
「こんな感じ? こっちが良い? 意外とワガママだねキミ。名前も教えてくれないし」
 ともすると大きな独り言のようにハヤテは言いながら、
 パシャリ!
 一枚撮ると、撮った写真を液晶画面でプレビュー表示してヒカリに見せた。
「えっ!?」
 画面を見るなり言葉を失うヒカリ。
 映し出された「クマのぬいぐるみ」は、優しい微笑みを浮かべている様に見えた。
「コダマ号が……すごい……生きてるみたい……」
 画面に食い入る様に見入るヒカリ。
「クマさんの名前……「コダマ号」って言うんだぁ」
 子供ながらに違和感を感じ、ハヤテが思わず苦笑いすると、
「へん?」
「い、いや、良いんじゃないかなぁ~自由で……写真は後で印刷してあげるね」
 ハヤテは笑って誤魔化すと、右手を差し出し、
「一緒に何か撮りに行こよ!」
 ヒカリは微笑みと共に手を伸ばし、二人の手が触れそうになった瞬間、ヒカリが急に手を引っ込め顔を曇らせた。ハヤテはキョトンとし、
「ボクの手、バッチくないよ?」
「違うの! 違う……違うの……わたしの病気がうつるって……だから……」
「お父さんとお母さんが、そう言ったの?」
 激しく首を横に振って応えるヒカリに、
「じゃあ、病院の先生?」
 更に激しく首を横に振り、
「じゃあ、だれ?」
「……団地の……大人の人が言ってたの……だからあの子と遊んじゃダメだって……」
 我が子を守りたいと思う親心は理解出来なくもないが、正しい理解に基づかない一方的な行為が、自ら望んでそうなった訳ではない 一人の幼い少女の心を深く傷つけ、今にも泣き出しそうな顔でコダマ号を強く抱きしめると、突如ハヤテがヒカリの手を強引に握った。
「ダメェ! うつっちゃう!」
 焦り、必死に振りほどこうとする手を、ハヤテはしっかり握って離さず、
「もう遅いよ! これでボクも一緒だ! それなら良いだろ?」
 ニカッと笑って見せるハヤテを前に、ヒカリは嬉しさから声を上げて大泣きし出した。
「わぇ!? 待て待て待てぇ! 泣かないで! ど、どうしよう! どうしたら良んだ!」
 頭を抱え、ただただオロオロうろたえるハヤテ。
 その日から、ハヤテはデジカメを片手にヒカリと共に一日の大半を過ごす様になった。
 しかし幼稚園に通園しているハヤテは毎日一日中とはいかず、登園日は家に帰るなり、持病が理由で入園を拒まれたヒカリの家に直行し、その日に幼稚園で教わった事、起きた出来事を教える日々が続き、そんなとある金曜の夕方、ハヤテの母親がキッチンで食事の支度をし、ハヤテがテーブルのセッティングをしていると、ガチャガチャと唐突に玄関扉の鍵を回す音がして、扉が開く音と同時に男性の少々疲れ気味の声で、
「たっだいまぁ~。帰ったぞぉ~~~」
 ハヤテは玄関から聞こえる声を耳にするなり、満面の笑顔で走り出し、
「お父さん、お帰りぃーーーーーー!」
 靴を脱ぐ父親の足に飛びついた。父親は大きめのアルミ製バックを床に降ろしつつ、
「何だ何だ~? 甘ったれかぁ~? 良いのかそんなんでぇ? 来年は小学生だろ~?」
「今は良いの!」
 笑い返すハヤテと共に父親はキッチンに顔をのぞかせ、
「俺の分の飯はある?」
 すると妻は、さも当然と言った風に笑って見せ、
「あるわよ。いきなり帰るのは毎度の事でしょ~」
「さっすがぁ~~~!」
 笑顔を返すハヤテの父親は報道カメラマンである。
 ひと度事件が発生すれば数週間帰らない事もざらで、今回は大物政治家の汚職事件や複数の車が絡む大事故が立て続けに発生した為、実に数ヶ月ぶりの帰宅であった。
 しかしハヤテはそんな父親に対し不満を抱くどころか、仕事に対して真摯的で、かつ不正を正す父親の姿を誇らしくさえ思っていた。
 久々となる父親が揃ったこの日の食卓に、ハヤテの話は尽きる事が無かった。
「でね、でねぇ! ヒカリちゃんの家に行くと「お母さん」は居ないんだけど、かわりに黒と白の服来た女の人が何人もいるんだ!」
「団地住まいでメイドさん? 何とも不釣り合いな話だなぁ~」
「ヒカリちゃんのお母さんて、病気で亡くなったみたいよ」
「へぇ~詳しいんだなぁ」
「近所の奥さん達が話してるのを耳にしただけよ。ほら、人の口に戸は立てられないって言うじゃない」
「まぁな。で、ヒカリちゃんの「お父さん」とは会った事あるのか?」
「うん。でもなんでだろ……ボクが挨拶すると、いつも不機嫌な顔するんだぁ」
「ふぅ~ん……。ハヤテ……お前ヒカリちゃんのお父さんに、何て挨拶してるだ?」
「え? 「お父さん、こんにちは」だけど……」
「アハハハハハハ! やっぱりな! そりゃ怒るわぁ」
 突如笑い出すハヤテの父親と母親に、
「え? えぇ!? 何が!? そうなの?」
「アハハハ! 大人になったら分かるさ!」
「むぅ! 何かあると大人はすぐそれだぁ!」
「アハハハ、そうむくれんなってぇ。で、ヒカリちゃんのお父さんて、何してる人なんだ?」
「うぅ~ん……よく分かんない! でも仕事の都合で青森に来てて、ここに住んでるのは病院が近いからだって、ヒカリちゃんが言ってた」
「ヒカリちゃん、持病があるのか?」
「じびょう? あ! うん。でもちゃんと病院に行ってクスリを飲んでれば大丈夫だって」
 すると母親がふと思い出した様に、
「そう言えばおととい、ヒカリちゃんの家のあるB棟の前に運転手付の、黒くて大きな高級車が止まっていたけど……あれヒカリちゃんのお父さんを待ってたのかしら? この団地でレースのカーテン付きの車なんて初めて見ちゃった!」
「へぇ~凄いんだな。でもまぁ「ハヤテとヒカリちゃん」には、どうでも良い話かぁ」
 ケラケラと笑う父親はハヤテの頭を鷲掴みにガシガシ撫で回し、
「へんな事を言う奴らがいるだろうけど、お前はそんな事を気にせず、ヒカリちゃんを大事にするんだぞぉ」
「良く分かんないけど、そんなの当たり前だよ!」
「お前に初めて出来た「人間の友達」だしな!」
 からかう様に笑う父親に、
「悪かったね!」
 ハヤテがむくれてそっぽを向くと、そんなハヤテの反応に両親は笑い合った。

 夕食も終わり三人で食器を片付け、母親が食器を洗い始めた頃―――
 リビングのソファーでハヤテとテレビを見ていた父親がおもむろに、
「明日、幼稚園休みだったよなぁ?」
「うん」
 テレビを見たままカラ返事を返すハヤテに、
「実は父さんも久々に休みなんだ。空手の稽古をつけてやろうか?」
 ニッと歯を見せ笑う父親に対し、ハヤテは一瞥もくれずテレビを見たまま、
「別にいいよ。いつも一人でしてるし」
 素っ気なく応え、芸人の見せた一発芸に爆笑すると、父親はハヤテに泣きつき、
「父さん、久々の休みなんだぞぉ~! 相手をしてくれよぉ~~~」
「えぇ~い、うっとうしい~! ボクは忙しいんだよ!」
「父さんより優先する用事なんて、この世には存在しない!」
「しつこいよぉ! 痛いからひげ面押し付けんなぁ~!」
 懸命にもがいていると、キッチンから母親の声が。
「ヒカリちゃんと、おデートなのよねぇ~」
 ギクリとするハヤテ。父親は無言で動きを止め、うつむき、ハヤテから静かに離れて正座したかと思うと、急にからかい顔で爆笑し出し、
「ワハハハ! デ~トじゃ、しょうがないよなぁ~。彼女の約束すっぽかしたら、そりゃマズイよな~」
「ばぁ! ば、ばっ、ばぁ、なぁ、何言ってんだよ! かぁ、か、か彼女って何だよぉ!」
「おっほほぉ~い! いっちょ前に赤くなったぁ~~~!」
「お、怒ってるからだよ!」
 ムキになって否定するハヤテの肩に、父親は急に真剣な顔して腕を回すと、
「しかしだなぁ、ハヤテ……」
「な、なんだよ……急に……」
「お前が道着着て稽古してる「カッコイイとこ」見せたら、ヒカリちゃん、惚れ直すんじゃないのかなぁ~?」
 ハヤテは静かにうつむき、ヒカリがみとれる姿を想像して思わず頬を緩め、
「……そ、そうかな……」
 振り向くと、そこには笑いを必死に堪える父親の顔があり、ハヤテと目が合うなり、
「ぷぷぷぅ~~~! ママァ! 赤飯だぁ! ハヤテが色気付いてるぞぉ~~~!」
 大爆笑。キッチンからも母親の笑い声が聞こえ、ハヤテは耳まで真っ赤に、
「おっ、お父さんのバカァーーーーーーッ!」
 ハヤテの少し可哀想な絶叫が、雲一つない星空に響き渡った。

 ハヤテと父親の漫才が終わり数時間経過した頃―――
 父親はソファーで寝息を立てるハヤテを抱きかかえ寝室のベッドにそっと寝かせ、上掛けを掛け、静かに寝室の扉を閉めた。
 足音を忍ばせリビングに戻り、
「ハヤテのヤツ、ぐっすり眠ってるよ」
 微笑み返す妻はソファーの前のテーブルで、「ハヤテのデジカメ」と「ノートパソコン」を専用ーブルで繋ぎ画像整理をしていた。
「おぉ? アップするのか? しばらく見てなかったからな。さて、どんな感じかなぁ~」
「ウフフ。相変わらず凄いわよ」
 妻はアップロード予定の画像を、連続表示のスライドショーで見せた。
「……ハハハ……ほんとぉ……相変わらずスゲェなアイツ……」
 プロカメラマンであるハヤテの父親は呆れた様な、感心する様な、幾分かの嫉妬を滲ませる複雑な声を漏らした。
 次々映し出される画像は、自転車、ポスト、ぬいぐるみ、信号機、車や植物など、生命を宿していない物や感情を写し出すのが困難な物ばかりであったが、その全てが、まるで生命を宿し、喜怒哀楽を表現している様にしか見えない、不思議な写真ばかりであった。
 ハヤテの母親はこれらの写真をネット上に作ったホームページにアップし、いつしかハヤテはネット上で「命無き物に命を吹き込む者」、ホームページの名前「奇跡のフォトグラフ」をなぞらえ、「奇跡のフォトグラファー」と呼ばれる様になっていた。
 しかし素性の見えないネットの世界。閲覧者たちはハヤテの様な幼い子供がこれらの写真を撮っているとは知る由もなく、ホームページが更新されるたびネット上は写真家の正体をめぐり、ちょっとしたお祭り騒ぎになってもいた。
「プロの俺が言うのも何だが……アイツの目にはこの世界、どんな風に見えてるのかな?」
 夫が小さく苦笑いすると、
「…………」
 無言の妻はエンターキーをパチンと弾き、アップロードを開始。
 モニタ上に表示される進捗度を現すステータスバーを暗い表情で見つめ、
「ねぇ……ハヤテを……本当に病院へ連れて行かなくて良いのかしら……」
「またその話か……」
「だって……」
「何度も言うが、アイツにはサヴァンの兆候も、アスペルガーの兆候も出ていないだろ?」
「でも、幻聴や幻覚が見えているみたいだし……」
「確かに統合失調症の陽性症状に見えなくもないが、でも症状としてのコミュニケーション障害や自閉症とか誇大被害妄想とかはないだろ? それに寝室を見て見ろよ、すうすう寝息立ててやがる。不眠の症状だって見られない。アイツは、そう言う「個性」なんだよ」
「…………」
 黙り込み、なおも不安気な顔を見せる妻に、夫は困った様に小さく笑い、
「正直、プロの写真家としては「ハヤテの力」を、少し分けてもらいたいくらいだよぉ」
「だから中東へ行くの……?」
「…………」
 今度は夫が黙り込んだ。
「訴え掛ける力がハヤテに負けているから? プロとしてのプライド? ハヤテは来年小学生なのよ!」
「分かってる……ただ俺はいち報道カメラマンとして、一人の子供の父親として、戦地で苦しんでいる子供達の現実を世界に伝えたいんだ」
「名の知れた写真家でもないあなたがぁ!」
 秘めた想いを露わにしかけた瞬間リビングの扉が開き、ハヤテが眠そうに目を擦り、
「……どうかしたのぉ……」
 すると父親は瞬間的にパッと明るい笑顔になり、
「悪い悪い、起こしちゃったかぁ~」
「ううん……おしっこ……」
「そうかそうか。じゃあトイレに行って、もっ一回寝ような。明日ヒカリちゃんに良いとこ見せる為にも、ちゃ~んと寝とこうなぁ~」
 ハヤテの背中を押しつつ、チラリと妻を見て、
「話の続きはまた今度……」
 夫はリビングの扉を閉め、
「そうだ、眠れる様に本を読んでやるよ~」
「ボク、来年小学生だよぉ~。もう子供じゃないよぉ~」
「ワハハハハ、残念だな。父さんからすれば、一生「子供」だ」
「えぇ~~~」
 二人の笑い声が遠ざかり、一人残された妻は不愉快そうに眉間にシワを寄せ、
「写真が何だって言うの……」
 恨めしそうに、ハヤテのホームページを見つめ呟いた。

 次の日の朝、ハヤテの姿は貸し切り状態である「団地の公民館」の一室にあった。
 あらかじめ半日レンタルを申し込んでいたのである。
 父親は足細な、安価な三脚を立て、型のフォーム確認用の小型ムービーカメラを取り付けると、少しくたびれた感のある白い道着を身に纏い、黒帯を腰にギュッと締めた。
ハヤテも真っ白な道着に身を包み、気合いを入れる様に腰に白帯をギュッと締め直すと、コダマ号を膝に乗せパイプイスに座るヒカリをチラリと見た。
 するとすかさず父親が背後から、からかう様に、
「カッコイイとこ見せようとか思ってるとぉ「ケガ」するぞ~」
「わぁ、分かってるよ!」
「なら良し! じゃあまず「基本型」を見せてみろ!」
「うん……じゃなくて、押忍!」
「分かってると思うが……」
「正しい「角度」と「動き」を忘れるな、でしょ」
 二ッと笑って見せると胸の前で十字を切り(両腕を交差させて開く)、両足を肩幅に開き膝を柔らかく、左手は胸より少し前に開いて立て、右手は軽く握り込み右わき腹に付けた。
 その立ち姿に、父親は満足した様に小さく頷くと、
「よし、いちッ!」
 父親の掛け声に合わせ、ハヤテは左手を引くと同時に、右拳を正面に突き出し、
「にぃッ!」
 今度は右手を引きつつ、左拳を突き出し、
「さぁんッ!」
 左右交互に何度も繰り返し、
「はいラスト、じゅう!」
 父親の最後の掛け声に、左拳を突き出すと同時に、
「エイッ!」
 気合の声を上げた。
 興味深げに見つめていたヒカリは、コダマ号をギュッと抱き締め、
「すごぉ~~~い!」
 歓喜の声にハヤテがポッと顔を赤くした途端、父親は困った様に笑いながら、
「こらこらハヤテ、残心(ざんしん)残心。敵が来るかもしれないぞ。残心を忘れるなぁ」
「わぁ、分かってるよ……」
 照れ臭そうにむくれて見せるも、父親は表情をスッと引き締め直し、
「よし、次は「受け」だ!」
「押忍!」
 それから「受け」の基本動作を数種、移動基本を数種行った所で、父親はおもむろにハヤテに近づくと小声で耳元に、
(ヒカリちゃんに「型」を見せてあげろよ)
 笑って囁き、ハヤテの背中を叩くと、
「ヒカリちゃん、今からハヤテが、もおぉ~っとカッコイイとこ見せるからねぇ!」
 ウインクして見せると、ヒカリは熱いまなざしをハヤテに向け、向けられたハヤテは、
「お、お父さん余計な事を……」
 ブツブツ言いながらも二人の前に立ち、再び胸の前で十字を切りつつ両足を肩幅に開き、
「観空大(かんくうだい)!」
 叫ぶと、真剣な表情した父親が呼応する様に、
「無号令ッ! よぉ~い」
 ハヤテはゆっくりと、お腹の前辺りで開いた両手の「人差し指と親指」で三角形を作ると、
「始めッ!!」
 父親の開始の号令に、両手で作った三角を静かに頭上までゆっくり上げつつ顔で追い、見上げる高さまで来ると、パッと両手を左右に離し、顔は素早く正面に戻した。
 一緒に遊んでいる時とは違う真剣な眼差しに、一瞬ドキリとするヒカリ。
 しかし集中するハヤテは気にする風もなく、そのままゆっくり両腕で大きな円を描きながら自身の腹の前まで両手を降ろし、五指を伸ばした左掌の上に、右手五指を揃え伸ばした「手刀の形」を乗せると、
 バッ! バッバッ!
 左右からの敵の攻撃を即座に受ける様な動作を素早くし、今度は正面の敵に対して、左手刀を打ち込む動作を見せ、見ない敵と戦う動きを次々と繰り出して行った。
 初めて見る空手の型と、初めて見る真剣なハヤテの姿に、思わず両目を輝かせるヒカリ。
 型の最後、ハヤテはヒカリに背を向ける形で高々と空中で左蹴りを繰り出すと、そのまま空中で更に右の蹴りをし、
「エイッ!」
 気合を放つと両足で着地。
 ゆっくりと、心を残しつつ、胸の前で大きく十字を切りながらヒカリの方へ向き直ると、両足を肩幅に開いた「最初の立ち姿」に戻った。
「止めぇ!」
 父親の掛け声にハヤテは両足を揃え姿勢を正し、正面に一礼。残心をゆっくり解きつつヒカリをチラリと見たハヤテは、目を輝かせ見つめるヒカリに、ボッと火が付いた様に赤面して横を向いた。
「ニッヒヒ。ハヤテぇ~良いんじゃないかぁ。キチンと稽古してたの分るぞぉ~」
 満足気な父親は、ハヤテの頭をガシガシ撫で繰り回し、
「丁度いいから休憩にするかぁ~?」
 頷くハヤテはおずおずとヒカリに近づき、
「ど、どう……だった……かな……?」
「すっごくカッコ良かった!」
「そ、そぅ……かな? べ、別に普通だよ……」
 照れ臭そうに答えると、突然隅に積まれた「パイプ椅子」や「折り畳み机」を指差し、
「お、お前達うるさい!」
「どうしたの?」
「あ、アイツらが冷やかすんだよ!」
「なんて?」
 興味津々見つめるヒカリの眼差しに、
「うっ……な、内緒ぉ……」
 耳まで真っ赤になってうつむくハヤテに、
「良いなぁ~ハヤテくんは」
「へ? イスと話が出来て?」
「それもあるけど……お父さんに「からて」を教えてもらえて……」
「やってみる?」
「で、でも病院の先生が激しい運動はダメだって……」
「少しくらいなら平気さ!」
 ハヤテが笑顔で右手を差し出すと、躊躇しながらもヒカリはゆっくり手を伸ばし、その手を握ろうとした次の瞬間、
「駄目だ!」
 ハヤテの父親の強い声に、二人はビクリと手を止めた。
「ハヤテ、病院の先生がダメと言っているのにそんな事したら、大変な事になるんだぞ」
 優しくも厳しい口調に二人がうつむくと、
(ちょっと……きつく言い過ぎたかな……)
 少し反省した父親は表情を緩め、二人の目線の高さまで屈むとニヤリ。
「大好きなヒカリちゃんに会えなくなるのはイヤだろう?」
 途端にハヤテは顔から火が出そうなくらい真っ赤な顔をし、
「なっ! な、なぁ、な、何言ってんだよーーーーーーっ!!」
 まるで駄々っ子の様に、ケラケラ笑う父親をポカポカと叩き、
「お、お前達も、うるさぁーーーい!!」
 何か言われたのか、再び「パイプ椅子」達を指差し叫ぶと、ヒカリが涙声で、
「ありがとぅ……」
「「え?」」
 ハヤテと父親がその声に驚き振り返ると、ヒカリは微笑みながら大粒の涙を流し、コダマ号を力強く抱きしめていた。
「ひ、ヒカリ!? どっ、どぉ、ど、どうしたの!?」
「……そんな風に想ってくれた人……初めて……」
「えぇ!? なんで!?」
 驚きを隠せないハヤテ。
 ヒカリは性格こそ大人しくうつむき加減であるが、色白でクリッとした大きな瞳を持ち、目鼻立ちは整い、清潔感もあり、決して人に不快感を与える様な少女ではく、幼いハヤテから見ても「カワイイ良い子」そう思える少女であった。
「みんな、初めは仲良くしてくれる……でも、病気の事を話すと……」
 過去に幾度となく辛い体験をして来たのか、涙を流し言葉尻を濁すと、
「ボクは変わらないよ!」
 ハヤテはニッと歯を見せ笑い、
「ヒカリをイジメるそんな悪い奴は! みんなボクが、ぶっ飛ばしてやる!」
 怒り露わに拳を握り固めた。幼いながらも理不尽さに、苛立ちを感じたのである。
 すると一瞬驚いた涙顔を見せるヒカリは静かに頷き、
「ありがと……ハーくん……何もお礼出来ない……だから……」
 おずおずと右手をハヤテに差し出し、
「ハーくんのお嫁さんに……」
「え……? えぇーーーーーーっ!?」
 両目が飛び出るほどの驚きを見せるハヤテ。
「ど、どどどどどうしようお父さん!」
 慌てふためき振り返るも、父親は驚きのあまり「石仏」の様にフリーズ。
 あてにならない大人を尻目に、子供は時として大人以上に大人になる時がある。
 ヒカリが未だもらえぬ返事に、泣き腫らした目をして不安気な表情を浮かべ、
「……やっぱり……私じゃ……だめ……」
 次第にうつむと、ハヤテはいきなりヒカリの手をむんずと掴み、
「ダメな訳ないだろ!」
 子供ながらに腹をくくり握るその手に力を込めると、ヒカリは一瞬驚いた顔でハヤテを見上げるも、潤んだ瞳で微笑み、
「ありが……」
 立ち上がろうとした次の瞬間、「操り糸が切れた人形」の様に、声なくその場に倒れた。
「え? なに……?」
 あまりに突然の事に立ち尽くすハヤテであったが、足元に無言で横たわるヒカリの姿に、
「ひっ、ヒカリィーーーーーーッ!」
 悲痛な叫びを上げ、我に返った父親は顔面蒼白のヒカリを急ぎ抱きかかえ、
「ヒカリちゃん家はどこだァ!」
「えぇと! えぇーーーと! えぇーーーーーーと!!」
「落着けハヤテェ! いつも行ってる家だろ!」
 パニック状態のハヤテであったが、びっくりした様に「床に転がるコダマ号」に振り返り、
「そうだった! ありがとうコダマ号!」
 コダマ号を抱きかかえ、
「お父さん、こっち!」
 この時ばかりは軽いカメラと三脚が功を奏し、ハヤテはコダマ号を抱えつつも、軽々カメラごと三脚を抱え公民館を飛び出し、気を失っている様に見えるヒカリを抱えた父親も急ぎ後に続いた。

 ヒカリの家は、ハヤテの住む「棟」とは「別棟」であった。
 ひた走るハヤテは一階なか程の扉に貼りつき、ドアを激しく連打。
「のぞみさん! のぞみさぁん!! ヒカリが! ヒカリがーーーッ!」
 声を張り上げると、ハヤテが以前話した様に、白と黒のメイド服を纏った二十代前半と思われる若い女性が姿を現し、
「どうされましたのハヤテ様? まぁ空手着! カッコイイですわねぇ」
「それはいいんだよ! それより、のぞみさん! ヒカリが急に倒れて!」
 呑気な「希(のぞみ)」に、焦るハヤテが遅れてやって来る父親の方を指差すなり、
「皆様、お早く中へ!」
 急ぎ部屋へ入る様に促しつつ、室内に向かって、
「主治医の先生へ連絡を! それと和室に布団を敷いて下さい!」
 叫ぶと、部屋の奥から女性二人の慌てた様な早口声で、
「「かしこまりました!」」
 返事が返ると同時に二人のメイドが姿を現し、室内を慌ただしく走り回った。
 浮世離れした光景に、ヒカリを抱えるハヤテの父親は呆然と立ち尽くし、
「な、なんなんだ……この家……」
 驚きを隠せずにいた。

 ヒカリが倒れてから数時間が経過した頃―――
 ヒカリの家の玄関に急速に近づく下駄の駆け音があった。慌ただしい下駄音は扉の前で止まり、扉が激しく開かれると、
「ヒカリーーーッ!」
 焦燥した男性の声と共に下駄は無造作に脱ぎ捨てられ、焦る足先は止まる事を知らず駆ける様に和室へと迫り、襖は「バァン」と勢い良く開け放たれ、
「ヒカリッ!」
 和服姿の男性が姿を見せるや否や、
 スパァンッ!
 のぞみがハリセン片手に無表情で男の後頭部を引っ叩き、
「お静かに。お帰りなさいませ、ご主人様」
 まるで何事も無かったかの様に、棒読み台詞で静かに頭を下げた。
 そんな彼女を和服男性は少し恨めしそうに見つめ、
「相変わらず俺の扱いは……って、そんな場合じゃない! ヒカリは!?」
 視線を移す和服男性の目に、布団に横たわり穏やかな寝息を立てるヒカリ、白衣を着た年配の主治医の男性、ハヤテ、そして初対面となる道着を着たハヤテの父親の姿が映った。
「こちらハヤテ様のお父様でいらっしゃいます。倒れられたヒカリ様をお連れ頂きました」
 のぞみの説明に和服男性は静かに頷き、
「ヒカリの父です。この度は誠にありがとうございました。急いでは来たのですが、何分仕事が……いえ、本当に助かりました」
 ヒカリの父を名乗る和服男性が丁寧に頭を下げ、
「いえ私達は何も……では私共はこの辺で。ハヤテ、今日は帰ろう。ヒカリちゃんをゆっくり休ませてあげないと」
 ハヤテの父親も丁寧に頭を下げ返し、おもむろに立ち上がると、ハヤテが困惑気味に、
「お父さん」
 父親を呼び止め、
「ん? どうした?」
 振り向く父親に、自分の左手を指差し、
「「ん?」」
 父親二人が不思議そうに手元をのぞき込むと、布団から伸びるヒカリの小さな右手が、ハヤテの左手をしっかりと握りしめていた。
「「ハハハハハハハ……」」
 苦笑いするハヤテの父親と、複雑な笑いを見せるヒカリの父親。
 すると二人の父親を前に主治医は小さく笑い、
「無理に引き離す事もなかろうて。深刻な症状でもないしのお」
 ヒカリの父親はホッとした表情を見せるも、苦悶の表情へと変わり、
「は、ハヤテ君……し、しばらく、ヒカリのそばにいてくれたまえ……」
 分かり易い位の不本意表情をハヤテに向けると、
「先生とハヤテ君のお父さん、向こうでちょっと良いですか?」
 頷く二人とメイド達を連れ立ち、和室を出て行こうとした。
 しかし急にピタリと足を止め、怒りと悲しみが入り混じった顔で振り返り、
「ヒカリが動けないのを良い事に寝込みを襲ったら、承知しないからなぁ!」
「ねこみをおそう?」
 ハヤテが首を傾げ、ハヤテの父親達が「呆れ笑い」を浮かべる中、のぞみがため息混じりに、
「ばっ……樹神(こだま)さま、お早くリビングへ。ヒカリ様が起きてしまいますわ」
「ん? お前今「バカ」って言おうとしなかったか?」
「さぁお早く」
 無視する様に和室から出て行く後をヒカリの父親は追い、
「確かに今バカって」
 出て行くと、主治医、メイド二人も続き、最後にハヤテの父親は和室を出る時振り返り、
「じゃあハヤテ、ヒカリちゃんの事を頼んだぞ。何かあったらスグ呼ぶんだ。いいな?」
「うん。分かってる!」
 二ッと笑うハヤテに、ハヤテの父親は右手の親指立てて見せ、静かに襖を閉めた。
 リビングではテーブルを囲む様に、ヒカリの父親と主治医がソファーに腰掛け、ハヤテの父親が来るのを待っていたが、ハヤテの父親は部屋に入るなり、
「えぇ~と、やっぱ……俺……私は帰った方が良いんじゃ……」
 何とも気まずそうに頭を掻いて見せると、ヒカリの父親はフッ小さく笑い、
「構わんさ、これも何かの縁だ。それに、ハヤテ君を置いて帰るのもアレだろ?」
 ソファーへ座るよう促し、ハヤテの父親が座ると、
「で、先生、今回の原因は何だと思われますか?」
 不安気なヒカリの父親に対し、主治医は深刻さを感じさせない表情で、
「我慢していた「疲れ」が噴き出したんじゃろ」
「「疲れ?」」
 顔を見合わせる二人の父親に、
「慣れない土地での生活不安、周囲の不理解からくるストレス。幼いながらも親に心配かけまいと、今まで必死に気を張っていたんじゃろ。健気だねぇ~」
 目を細めるも、ヒカリの父親が気付けなかった自身を責めているのか、うつむき黙ると、
「そう落ち込むでない。それに悪い事ばかりではないぞ」
「……先生、それは?」
「溜め込んでいた物が吐き出されたんじゃ、後は良くなる一方とも考えられるじゃろうて」
「そ、そうなんですか!?」
 落ち込みから一転、喜びの顔を向けると、
「じゃからのぉ、ハヤテ君には感謝するんじゃな。あの子がもたらした安穏のお陰じゃ」
「うっ……そ、そうです……よね……」
 浮かない顔して見せるヒカリの父親に、ハヤテの父親と主治医は思わず笑い合った。
「さぁて、ワシはこれでお役御免じゃな」
 主治医がのっそり立ち上がると、ヒカリの父親も立ち上がり、
「先生、ありがとうございました」
 頭を下げると、メイド達も見送りしようとワラワラ集まり、
「ヤレヤレ仰々しい、見送りはここで結構じゃて。ヒカリちゃんが起きてしまうだろ? あの子はワシ等が思っている以上に気遣いしてしまう子じゃ。忙しいのも分かるが、もう少し察してあげなさい」
 優しくたしなめる主治医にヒカリの父親は再び頭を上げ、主治医は微笑み頷くと、
「じゃあのお」
 手を振りつつ部屋を出て行った。
 閉まるリビングの扉に、ヒカリの父親は安堵した様に大きく息を吐き一呼吸置くと、
「ハヤテ君のお父さん。改めて、ありがとう」
 ヒカリの父親は右手を差し出し、
「お役に立てたなら、幸いです」
 ハヤテの父親が、その手を笑顔で握ると、
「キミ、飲める方かい?」
「え? えぇ~まぁ~人並みには……」
「そうか。なら、ちょっと付き合わないか?」
「私は構いませんが……」
 すると「待っていました」と言わんばかりに、メイド隊がキッチンからビールジョッキ、つまみ代わりの料理を次々運び込み、ソファーの前のテーブルに所狭しと並べ始めると、空手着姿のハヤテの父親は申し訳なさげに笑って見せ、
「折角のご馳走を前に、こんな格好で……」
「構わんさ、こっちが引き留めたんだ。それに「和装」に「メイド」に「空手着」、コスプレパーティーみたいで面白いじゃないか」
 笑って見せると、見た目の印象と違う砕けた発想に、ハヤテの父親は一瞬驚いた顔をし、
「確かに」
 父親二人は愉快そうに笑い合った。

 しばし飲食しながら子供の話に花を咲かせていると、多少酔いが回り始めたのか、少し赤ら顔になった「ヒカリの父親」が「ハヤテの父親」の顔をジッと見つめ、
「な、なんですか……」
 同じく、少し赤ら顔になったハヤテの父親が後退りすると、
「歳、いくつ?」
 ヒカリの父親が急に遠慮のない聞き方をするも、酔いも手伝ってかさして気にも留めず、
「三十……ですけどぉ……」
 答えると、ヒカリの父親がポツリ。
「同い年……」
「ウソッ!?」
「ほんと……」
「…………老けてるなぁ」
「言うなぁーーー!」
「ニッヒヒヒヒヒヒヒッ!」
 ハヤテの父親がからかう様に笑い、ヒカリの父親が苦悶の表情で、酔いも手伝いオーバーリアクションで頭を抱えると、二人の下にのぞみが静かに歩み寄り、
「お料理はまだ数点用意してございます。樹神さま、わたくし共はハヤテ様のお母様の下へ伺いたいのですが……」
「……女子会ってヤツか?」
「お一人で、お寂しいでしょうから」
「分かった。粗相のない様にな」
「その言葉、そのままお返ししますわ」
 のぞみが冷めた目をしてヒカリの父親を見下ろすと、
「これだよ」
おどけて見せるヒカリの父親に、ハヤテの父親は笑って見せつつ、
「のぞみさん、妻の事、よろしく頼みます」
 頭を下げると、のぞみたちも頭を下げ、料理を数点詰めた籐籠のバスケットを携え部屋を出て行った。
 静かになる室内で、ヒカリの父親がおもむろに、
「何か、のぞみはないか?」
「はぁ?」
 唐突な質問に何を言われているか分からず、鳩が豆鉄砲を食ったような顔を見せると、
「ヒカリを助けてくれたお礼に何か」
「いらん!」
 すかさずハヤテの父親は言い放つと、二の句を告げさせないかの様に間を置かず、
「子供達の世界に大人のケガレを持ち込むな! お前だって、同じ場面に立たされたら同じ事をしただろ!」
 ヒカリの父親は一瞬キョトンとしたが、自身の思慮を欠いた言動をフッと小さく笑い、
「だよな……忘れてくれ。失礼な事を言った」
「まったくだ」
「すまない。欲に目が眩んだ連中といると……いや、平気でこんな事を口走る俺も、もはや同類か……。それにしてもお前……人から「不器用」って言われるだろ?」
「ほっとけよ」
 ワザとらしく憤慨して見せるハヤテの父親に、ヒカリの父親はビールジョッキの水面に映る自身の顔を静かに見つめ、
「余計な気苦労が多くてな……」
 ため息混じりに呟くと、
「そうなのか?」
「そう見えるか?」
「そりゃあ、あんなに可愛い娘さんがいて、若くてカワイイ女の子達にも囲まれて、地位も金もあって、しがないカメラマンからすれば羨ましい限りさぁ」
 するとヒカリの父親は残りのビールを一気に飲み干し、
「創業者一族の跡取り……親の七光り……世間知らずのボンボン……」
「ん?」
「会社で俺が言われてる陰口さ。あの子達にしたって親父達の魂胆は見え見えだ。三人の中から再婚相手を見つけろと、遠回しに言ってるのさ」
「ふぅ~ん、難儀な話だなぁ」
「ヒカリの母親とは駆け落ちでな……アイツは元々体が丈夫じゃなかったんだ。だから俺は日常生活でのアイツの負担が少しでも軽くなればと思って、創業者一族での経営を望んでいたオヤジ達に「結婚を認めるなら」と条件を付けて、跡を継ぐ事を承諾したんだ」
「じゃあ奥さんは、その後……」
「皮肉な話さ。跡取りが生まれない事に対する、周囲のプレッシャーが大きかったのかも知れない。「アイツの体の為に」と跡を継いだのに、実家で暮らし始めて間もなく心臓の病でな……その上、幼稚園に入れる為の健康診断で、ヒカリにも同じ症状が見つかって……」
「…………」
押し黙るハヤテの父親に、ヒカリの父親は和服の端をつまみ広げて見せ、
「会社帰りの三十路男がこの格好、おかしいだろ?」
「ん? ま、まぁ……一般的に考えたら……なぁ……」
「ハッタリなのさ」
「ハッタリ?」
「今、経営者修業って名目で、ここの支社を任されているんだが、お飾りも良いとこ。支社の連中は「ボンボンに何が出来る」「触らぬ神に祟りなし」って感じでな」
「…………」
「まあ気持ちは分かるさ。何の実績もない見知らぬ若造がいきなりやって来て「彼は会長の孫で、社長の息子です。今日からあなた達の上司です」なんて言われて、「ハイそうですか」って平身低頭聞く奴は、仕事の出来ない腰巾着だけさ。風向き変われば簡単に掌返す。まあ、連中に対する見え見えのこけおどしなのさ」
「なるほどなぁ……でも本社は東京なんだろ? あっちの方が医療は充実してるんじゃないのか? ヒカリちゃんを残して来ても……」
 ヒカリの父親は話の途中で立ち上がり、キッチンからのぞみ達が用意していたつまみ、赤ワインのボトルとグラスを持って来ると、
「大事な一人娘を、欲にまみれた色眼鏡を掛けた連中の中に、置いて行けると思うか?」
 皮肉っぽく笑いながらテーブルに並べ、
「それに爺様とオヤジ達は、体が弱い上に女の子のヒカリを毛嫌いしていてな……」
「跡取りにならない? 発想自体が古いな」
「そう言う時代の人間なんだよ」
「ヒカリちゃんを連れて、家を出ようとは思わないのか?」
「そうしたいのは山々なんだがヒカリの医療費も中々かかるし、今の俺がそうすると、路頭に迷う社員や家族が出るからな……」
 ハヤテの父親の持つグラスにワインを注ぎながら、苦笑いするヒカリの父親。
「サンキュー」
 ハヤテの父親はグラスを受け取ると、
「そうか……で、話を聞いてて一つ分かったんだが……」
「ん?」
「お前も十分不器用だな」
 一瞬驚いた顔をするヒカリの父親であったが、フッと小さく笑い、
「かもな」
 父親二人は笑いながらグラスをかかげ、
「何に乾杯する?」
「そうだな……」
 しばし考え込むヒカリの父親は、ハッと何かを思い出しニヤリと笑うと、
「ハヤテとヒカリちゃん「二人の未来」に!」
 チンッ!
 グラスを強引に合わせ鳴らした。
「うん? あぁ、そうだな」
 ヒカリの父親は妙に引っ掛かるも頷き一口飲むと、やはり言動が気になり、
「……なぁ、因みになんで……「二人の未来に」なんだ……?」
 首を傾げるヒカリの父親に、さも平然と「大した話でもない」と言わんばかりに、
「婚約を交わしたからさ」
 サラッと答え、ワインを一口飲むと、
「あぁ~なるほどな、婚約かぁ~~~」
 頷くヒカリの父親であったが、
「こっ、婚約ーーーッ!?」
 あまりの衝撃に言葉を反芻し、両目が飛び出そうな程驚くと血相を変え、
「ウソだぁ! そんな訳あるか! ぱ、パパのお嫁さんになるって!」
「ハイ、どうぞ」
 意地悪な顔したハヤテの父親は、録画した映像をカメラの液晶上で再生して見せつけた。
「ボクは変わらない! ヒカリをいじめるそんな奴は、みんなぶっ飛ばしてやる!」
「ありがと……何もお礼出来ない……だから……」
「ハーくんのお嫁さんに……」
「え? えっ?? えぇーーーーーーっ!?」
「ど、どうしようお父さん!」
「……だめ……?」
「ダメな訳ないだろ!」
 ハヤテの父親が再生を止めると、ヒカリの父親は号泣しながら、
「あぁーーー分かっていたさ! 分かっているさ! 娘はいつか手元を離れるって! しかし……しかし早すぎるだろぉ~~~!」
「刺激が強すぎたかなぁ……」
 予想以上のリアクションに、ハヤテの父親は困惑顔で小さく笑い、
「ま、まあ飲め、まあ飲め! 今すぐ結婚していなくなる訳でもないだろ?」
「お前に娘の父親の気持ちが分かってたまるかぁーーーっ!」
「めんどくさ」
 自分でネタを振っておきながら呆れ顔すると、
「こうなったらヤケだ! 貴様、朝まで付き合えよ! 絶対帰さんぞ!」
「ハイハイ、分かった分かった」

 一方その頃―――
 ハヤテの家で開催されている女子会も盛り上がりを見せていた。
 普段経営者一族から「旧財閥企業の跡取りの世話をしているのだぞ」と言う無言のプレッシャーを強いられていたのか、メイド達はここぞとばかりに開放的に笑い合い、あまり年代の変わらないハヤテの母親も、飲んで食べ、まるで古くからの友人達と話す様に楽しい時間を過ごしていた。
 夫の特殊な職業柄「自分の家も見られているのでは」と疑心暗鬼から警戒され、またハヤテの世間的には奇行としか映らない行動から、ハヤテの母親は団地の中で孤立し、今までまともに話せる相手もいなかったのである。
 それでも文句のひとつ言わずハヤテの前で笑顔を絶やさなかったのは、持って生まれ彼女の気丈な性格からなのか、しかし今日の彼女は今を心から楽しんでいる様であった。
「ヒカリちゃんのお父さん、未婚なんでしょ? あんなにソバにいて、誰か誘われたり、誘ったりしないの?」
 場の雰囲気もあったのだろうが、ハヤテの母親がズバリ質問すると、
「「ないないないないない」」
 笑って全否定するメイド達と、静かにビールを一杯あおり、
「ありませんわ」
 少し酔いが回ったのか、赤い顔で否定するのぞみ。
「会長や社長達はそう言う目論み合って、私達を置いてるみたいですけどねぇ~」
「ねぇ~」
 ケラケラ笑う赤ら顔のメイド達。
「ふ~ん、みんな玉の輿に乗りたいと思わないんだ」
 赤ら顔のハヤテの母親が首を傾げると、
「あんな二時間サスペンスさながらの一族の中に入るのなんて、ちょっとねぇ~」
「ねぇ~。そこそこの給料と待遇ある今で、十分だよねぇ~」
 頷き合うメイド達。
 のぞみは男前にビールをグイッとあおり、ジョッキをテーブルにドンッと置くと、
「ヒカリ様のお母様はよほど良いお方だったのか、樹神様は私達に目もくれません。それに何より、私達にはみなそれぞれ、叶えたい夢がありますので」
 のぞみをはじめ、目を輝かせる二人に感心しながらも、表情には出さなかったものの、
(いいなぁ……)
 胸に小さい針の様な物が刺さる感覚を覚える、専業主婦のハヤテの母親。
 和室で布団に寝かされていたヒカリは、ゆっくり目を開くと、
「……ハー……くん?」
 傍らで手を握り、座ったままコックリコックリ眠る起きるを繰り返すハヤテを見上げ、ヒカリの声と動きに目を覚ましたハヤテは、
「あ、ヒカリ、もう大丈夫?」
 不安気に顔を覗き込むと、
「うん、大丈夫。パパは?」
「となり。のぞみさん達はボクの家に行ってるみたいだよ」
「へぇ~。でも、なんか静か……」
 起き上がろうとするヒカリを、ハヤテは支えながら、ゆっくり起き上がらせ、
「さっきまで酔っ払い二人が、うるさかったんだよ」
「パパが? 酔って騒いでるところ、見た事無いよ。楽しかったのかな?」
「どうだろ……行ってみる?」
「うん」
 薄暗い和室の襖を開け、灯りがこうこうと灯るリビングに幼い二人が入ると、そこには赤ら顔した大の男二人が、ソファーの上でよれた大の字を描き、高いびきをかいていた。
 何とも気持ち良さ気な寝顔と高いびきに、二人は顔を見合わせクスクス笑うと、
「布団をかけてあげようよ。場所分かる?」
「うん」
 二人は力を合わせ、寝室のベッドから掛布団を持って来てヒカリの父親に、来客用の部屋からもう一枚持って来てハヤテの父親に掛けた。
「ふぅ~~~。ヒカリ、大丈夫?」
「うん。ハーくんも、大丈夫?」
「……ハーくん……かぁ~」
「イヤ?」
「嫌じゃないけど……ちょっと照れ臭いかな。でもヒカリが良いなら、それで良いよ」
「うん! じゃあ「ハーくん」で決まり。お部屋のあかりを消すね」
 ヒカリがリモコンでリビングの照明を消すと、二人は足音を忍ばせつつ和室に戻った。
 しかし、和室に戻ったハヤテを新たな問題が待ち受けていた。
「ボク……どうやって寝よう……」
 ハヤテが自身の纏う道着を、困惑した表情で見つめていると、
「ハイ、これ」
 ヒカリが箪笥から、父親のパジャマを取り出し差し出した。
「ん? う、ウン……」
 見た目からして明らかなサイズ違いにハヤテは戸惑いつつ、とりあえず道着を脱ぎ、着てみたが、やはりと言うかブカブカで、手足の裾は「鯉のぼりの吹き流し」の様にだらしなく伸び、その立ち姿は、まるで足の少ないタコの様であった。
「クッ、フフッ」
 ヒカリが思わず小さく笑い、
「笑うなよ~」
 ハヤテが照れ隠しで憤慨して見せると、前触れなくパジャマのズボンがストンと落ちた。
 コントの様な一連の流れに、ヒカリが一応ハヤテを気遣い、笑いを必死に堪えていると、
「もうイイや!」
 ハヤテは脱げて足元たまるズボンを、恥ずかしいのを誤魔化す様に端へ蹴りやった。
 それに、上着だけで膝まで隠れているので「十分だろう」と言う判断でもある。
「さて……」
 更なる問題に直面し、悩むハヤテ。
 袖はまくるで良しとして、問題は布団である。布団は一組一人分のみ。
「どうしたものか」とハヤテが首を傾げていると、先に布団で横になっていたヒカリが、
「ハーくん」
 微笑みながら、ポンポンと自分の隣を叩いて見せた。
「えぇ!?」
 戸惑うハヤテに、尚も微笑むヒカリは、
「はやく」
 誘われたハヤテは幼いながらも恥じらいつつ、
「う、うん……」
 ゆっくり布団に入り、ヒカリの隣に横たわった。
「ハーくん……あったかい……」
 寄り添い、超至近距離で微笑むヒカリの顔を見る事も出来ず、ハヤテは天井を凝視し、
「そ、そうかなぁ? ふ、ふつうだよぉお」
 心臓の鼓動が高鳴り、上ずった声で返事を返すも、ふと気が付けばヒカリは安堵した微笑みを浮かべたまま、すでに穏やかな寝息を立てていた。
 ハヤテは少しホッとした様な、少し残念なような表情でヒカリの寝顔を見つめると、
「やっぱり、かわいいな……」
 思わず口にするも、ドキドキの収まらないハヤテは、
「あれ……? どうしよう……」
 天井を見つめ、
「眠れないよぉ……」
 嘆く様に呟いていた頃、ハヤテの家のリビングでは、食べ散らかし、飲み散らかした女性陣が、男性陣には見せられない惨状の中、あられもない姿で雑魚寝をしていた。

 こうして家族ぐるみの付き合いが始まり、はや二カ月が経過―――
 町は梅雨の時期に入り、この日も朝から気分を陰鬱とさせる、暗くどんよりした雨が降り続いていた。
「今日も良く降るわねぇ」
 ハヤテの母親が、ため息混じりに外を眺めていると、
 ピンポ~~~ン
 部屋の呼び鈴が鳴り、
「はぁ~~~い」
 玄関扉を開けると、胸に抱えた「こだま号」とお揃いの雨合羽を羽織ったヒカリと、畳んだ濡れた傘を手にしたのぞみが立っていた。
「いらっしゃい」
 ハヤテの母親が微笑み、のぞみが会釈するも、不機嫌な顔したヒカリは「こだま号」と自身の濡れた合羽を無言でのぞみに渡し、部屋の中へ駆けて行った。
 いつも明るく礼儀正しいヒカリにしては珍しい、礼節を欠いた態度である。
「ヒカリちゃん、どうしたの?」
 驚きを隠せないハヤテの母親に、
「すみません」
 のぞみは頭を下げ、
「近々、年に一度の検査入院があるのですが、行きたくないと……」
 困惑した表情を見せると、
「ひとまず中に入って、体が冷えちゃうわ」
「いえ、わたくしはただ、ヒカリ様を……」
「お茶でも出すわよ。安物だけどねぇ」
「……すみません。では、お言葉に甘えて少しだけ……」
 再び頭を下げ、靴を脱ぐのぞみに、
「検査って、そんなに時間がかかるものなの?」
「血液検査や胸部レントゲン撮影などがありますから、それなりには……」
「なるほどねぇ~。子供にとっては長時間ね」
「はい。しかも「一日ハヤテ君に会えない」と言うのが、どうにも我慢ならない様でして」
 悩める二人がリビングに入ると、「むくれ顔」したヒカリがソファーの端で小さく丸まっていた。
「ヒカリ様、年に一度の検査は」
「イヤッ!」
 一分の交渉の余地も見せず絶対拒否の姿勢を示すヒカリに、二人が困惑した顔を見合わせていると、
「たっだいまぁーーー!」
 玄関からハヤテの声がし、
「ハーくん!」
 ヒカリは途端に曇り顔をパッと晴れさせ、こだま号をソファーに投げ置き駆け出した。
 哀れな格好をさらす、ヒカリの相棒「こだま号」の姿に、
「これは重症ね」
 ハヤテの母親が苦笑いすると、、
「はい……」
 のぞみがガクリとうなだれると、ハヤテの母親がハッと何か閃いた顔をし、
「ねぇ、のぞみさん」
「何でしょう?」
「ヒカリちゃんて、外出に問題はないの?」
「はい。容態は安定していますし、先日主治医の先生からも「多少の運動はむしろ必要だ」と言われましたので……それが何か?」
「いいえ、ちょっとね」
 ウインクして見せるハヤテの母親に、のぞみが不思議そうに首を傾げていると、
「へぇ~~~。一年に一回、ヒカリはそんな検査するんだ」
「うん。そうなの」
 幼稚園から帰宅したハヤテと共に、ヒカリがリビングへ戻って来た。
「ヒカ~~~リちゃん」
 微笑むハヤテの母親はヒカリの目線まで屈むも、警戒するヒカリはサッとハヤテの背に隠れた。しかしハヤテの母親は攻勢の手を緩めず、
「良いお話があるんだけどな~」
「……いい……お話?」
 誘う様な笑みに、ヒカリが恐る恐るハヤテの背から顔を出すと、
「ヒカリちゃんって、どこか行ってみたい所はない?」
 周囲へ掛ける負担を気にし、幼いながらもよほど我慢していたのか、この一言が琴線に触れたらしく、ヒカリの警戒心は一瞬にして消え去り身を乗り出し、
「遊園地ッ! 水族館! あと町! それと、お祭り! それから、それから!」
「そ、そうなの! い、いっぱいあるのね。実はね、ハヤテとお出かけする予定があるの」
「ボク、人が沢山いる所には」
 余計な事を口走りそうになったハヤテの口を、母親はとっさに両手で塞ぐと、
「残念ねぇ~本当はヒカリちゃんも連れて行きたかったけど……お医者さんに「悪い所ないですよ」って言ってもらえないと、連れて行けないな~~~はぁ~残念だな~~~」
 あからさまに悩んで見せた。
「むっ、むぅ~~~う……」
 ヒカリは「病院に行きたくない」心と、ハヤテと出かける為には「病院に行かなければならない」心の葛藤から一人頭を抱え、ハヤテの母親は「もうひと押し」と判断するや、
「ハヤテだって、ヒカリちゃんとお出かけしたいわよねぇ~」
 止めの一撃をハヤテの口から放たせようと、口を塞いだ手を離すと、
「もちろんだよ……でも……ヒカリが倒れたら、イヤだ……」
 目の前でヒカリが倒れた時の事を思い出したのか、ハヤテは怯えた目でうつむいた。
 大人が思う以上に、心に衝撃を受けていた事を知るハヤテの母親とのぞみ。
 するとヒカリはハヤテの落ち込む姿がワガママ心に刺さったのか、誤魔化す様に逆ギレ気味に、
「聞いて!」
 こだま号をハヤテの前に差し出した。
「ヒカリ様?」
 のぞみが首を傾げ、ハヤテの母親がためらいの表情を見せたが、ヒカリは気に止めず、
「こだま号は何て言ってるの!」
 ハヤテの胸元にこだま号を押し付けた。
「う、うん……分かった。聞いてみる」
 困惑しつつも、ハヤテはこだま号を見つめ、
「こだま号、ヒカリちゃんは先生に診てもらった方が良いと思う?」
 尋ね、何か会話する様にウンウン頷くと、やがて「こだま号」をヒカリの方に向け、
「倒れて入院する事になって離れ離れになるのはイヤだから、「検査はちゃんと受けて」って言ってるよ」
 すると流石にヒカリも観念したのか、
「……ハーくんと「こだま号」が言うなら……分かった……」
 不承不承頷くと、のぞみのスカートにしがみついた。
 のぞみはヒカリの頭をそっと撫で、
「ありがとうございます……でも今のは?」
「…………ハヤテには、その……少し虚言癖が……」
「虚言癖……」
 オウム返しに口をついたのぞみの言葉に、ヒカリが顔を上げ、
「「きょげんへき」って何?」
「ヒカリ様……え~とですわねぇ……おとぎ話を良く言う事です」
「おとぎ話じゃないもん!」
 激高したヒカリが、言われ慣れているのか気にも留めないハヤテの代理をする様に、床を踏み鳴らし、
「おば様もヘン! のぞみさんに、パソコン見せて!」
「パソコン……ですか?」
 不思議そうな顔で見つめるのぞみに、ハヤテの母親は渋々パソコンを立ち上げ、とあるウェブページを開いて見せた。
「「奇跡のフォトグラフ」……ですか……」
 一目で「個人が作った」と思えるレベルのトップページを見つめていると、ハヤテの母親から無言でマウスを手渡され、事情が全く呑み込めないのぞみは、とりあえず「入室ボタン」をクリック。
 しかし掲載されている写真を一枚、二枚と見て行くうちに、次第に顔色を変えた。
画面に映し出されたのは、ポストなど無機物や道端の植物達。
 その命を持たない無機物達が、写真の中では生命を宿し喜怒哀楽を表現しているかの様に見え、植物達も内なる感情をさらけ出し、体現している様にしか見えなかった。
 技術的な事を言えば撮影対象物に対する、絞り、ヒカリの量、光の当たる角度、構図、ホワイトバランス、露出、シャッタースピード等々、幾らでもあるのだろうが、そこには「撮影の仕方」そんな一言では片づけられない、不思議な世界が広がっていた。
「凄いでしょ! みんなハーくんが撮った写真なんだよ!」
「ハヤテ様が、この写真を!?」
 向けられたのぞみの熱視線に、ハヤテの母親が少し辛そうな表情で頷くも、幼いヒカリに大人の複雑な胸中を察する事など出来る筈もなく、自慢気に、
「それにね、ハーくん凄いんだよ! みんなとお話ししながら撮ってるの!」
「お話、ですか? 幻聴? 幻覚……まさかハヤテ様は統合失調症……?」
 恐る恐る窺うのぞみに、ハヤテの母親は首を横に振り、
「「それらしい兆候がないから調べる必要はない」って、内の人が……」
 するとのぞみはしばし考え込み、顔を上げ、
「ハヤテ様のお母様、一つ、試してみてもよろしいでしょうか?」
「試す?」
 戸惑うハヤテの母親に、のぞみはうなずいて見せると、白いレースの飾りのついたエプロンから手帳を取り出し、
「ハヤテ様、これを見ていただけますか?」
 間から出した一枚の写真を、ハヤテの前に差し出した。
「犬の写真だね。それに、一緒に写ってるのは……のぞみさん?」
「左様でございます。この子は、幼少の頃より兄妹の様に育った子ですの」
「へぇ~」
 ハヤテが興味深げに、まじまじ写真を眺めていると、
「ですがこの子……もうこの世におりませんの」
「え? 死んじゃったの……?」
「はい。それでハヤテ様に伺いたいのは、この子が亡くなる一年ほど前、急にわたくしを避ける様になり、更には会うたび唸って吠え……その理由、お分かりになりまして?」
 するとハヤテは困った様に首を傾げ、
「写真の中の犬とじゃ、話は出来ないよ」
「そう……ですわよね……」
 のぞみが少し残念そうに微笑むと、
「ハーくんは嘘なんかついてないもん!」
 今にも泣き出しそうな顔で憤慨し、そんなヒカリにハヤテの母親は優しく微笑み、
「ヒカリちゃん、ありがとう。ハヤテを庇ってくれて」
 頭を撫でようとするも、ヒカリはその手をサッと避け、
「ハーくんは……ウソなんか……」
「「……」」
 うつむくヒカリを、のぞみとハヤテの母親が困惑した表情で見つめていると、
「……この子が持ってた物があればなぁ……」
 写真を見つめるハヤテがポツリと呟いた。
「あります!」
 ハッとしたのぞみは声を上げ、手帳のカバー裏から小さな板状のペンダントを取り出し、
「この子が最期まで首に下げていたペンダントです」
ハヤテに手渡した。
「分かった。聞いてみるね」
 ハヤテはニッコリ笑うと、掌に乗せたペンダントを見つめ、
「話は聞いてたよね? キミは何か知ってる?」
 先程と同様、ウンウンと何かしら会話している様子を見せると、
「分かったよ、のぞみさん」
 ハヤテは静かに顔を上げ、
「この子は自分が病気で、もうすぐ死んじゃう事が分かってたんだって。で、病気がのぞみさんに移るかも知れないって気にしていたのと、自分が死んだ時、のぞみさんが少しでも悲しい思いをしない様にって、わざと遠避けていたんだって」
「……そうですか……」
 誰にでも想像がつく答えであったが、のぞみはハヤテの優しさに、
「ハヤテ様、ありがとうございました」
 微笑み頭を下げペンダントを受け取ると、ハヤテの母親が悲痛な表情で、
「……のぞみさん……ごめんなさい……」
 頭を下げるも、
「いいえ、とんでもございません。事実、気持ちが軽くなりました」
「そう言っていただけると、本当に……」
 ハヤテの母親がうつむくと、
「あ、そうだ! のぞみさん!」
「何か?」
 振り返ると、
「「ゆいごん」を残してるって、言ってるよ」
「「遺言」で、ございますか?」
「うん。「ゆいごん」が何なのか、ボクにはよく分からないけど」
「ハヤテ! もう良いの!」
 珍しく感情を荒げ叫ぶ母親にハヤテはビクリとするも、のぞみはそれを静かに制止し、ハヤテの目線まで屈むと、
「なんでございましょう?」
 ハヤテはチラリと母親の顔色を窺ってから、
「いつも右足の靴下ばかり隠して、ごめんなさいって」
「えっ!?」
「もっと一緒に遊びたかった、そして、もっと笑って欲しかったんだって……」
「そんな……」
「もう辛い時や悲しい時、ソバにいてあげられなくて、ごめん……」
「……ハヤテ……くん?」
「ボクの最後の願いはただ一つ……。ボクがいなくなっても、のぞみがずっと、ずっ~と笑っていられますように。笑っているのぞみは、最高にかわいいから……」
 ハヤテの口を通して語られる亡き愛犬の言葉に、のぞみの目から大粒の涙が溢れ出た。
「あれ!? ご、ごめんなさいのぞみさん! 泣かないで! ボク、酷い事言ったのかな!? どうしようヒカリ! お母さん!」
 うろたえていると、のぞみは力一杯ハヤテを抱きしめ、
「ありがとう……ありがとう……ありがとう…………」
 涙を流し続けたが、
「の、のぞみさん……苦しいよ……」
「あっ! ごめんなさい!」
 慌てて離れると涙を拭い笑顔を見せ、
「あの……のぞみさん……」
 窺うハヤテの母親の声に振り返ると、
「ハヤテ様のお母様! 彼の力は……そう、奇跡ですッ!!」
 赤い目をして微笑み、
「靴下を……あの子はいつも、私の「右足の靴下」ばかり隠したんです。その話は、私の両親しか知らない話です!」
「…………」
 熱く語るのぞみと、複雑な表情を見せる無言のハヤテの母親に、ヒカリは満面の笑顔で、
「ねぇ! 本当だったでしょ!」
「はい、ヒカリ様。ハヤテ様も、疑って申し訳ありませんでした」
 のぞみは、以前より少し柔らかくなった笑顔を二人に向け、
「私の夢は獣医になる事なんです。獣医になれば、あの時、あの子がなんで私を避けたのか分かるんじゃないかと……。でも知った今、私はもっと獣医になりたいと思いました。私と同じように悩んでいる家族は沢山いるハズです。家族と動物達、両方に寄り添える、そんな獣医に私はなりたい」
 目を輝かせていると、ハヤテの母親が聞き取れない位小さな声で、
(……だから何なの……)
「え?」
のぞみが振り返ると、
「のぞみさん、お願い! この事は口外しないで!」
 初めて見るハヤテの母親の鬼気迫る表情に、
「は、はい……」
 困惑しつつ、のぞみはうなずいた。

 それから数週間が経過し、梅雨の晴れ間が広がる土曜日―――
手をつなぎ、余所行きの格好をしたハヤテとヒカリは、
「「お~~~~~~っ!」」
 遊園地の正面ゲートの前で、楽し気なキャラクターで飾られたゲートの屋根看板を、その向こうに見える遊具を、諸手を力強く上げ、両目を輝かせながら見上げた。
「わたくし、こういった場所が不慣れでして……その……色々ご迷惑を……」
 申し訳なさげに頭を下げる和服姿ののぞみに、
「大丈夫よ! それに、鬱屈した気分にさせる梅雨時の良い気分転換になるわよ!」
 ハヤテの母親は、先日見せた暗い顔とは違う、いつも通りの明るい笑顔を見せた。
 すると背後から、
「そうだぜ! 折角みんなで時間を作って来たんだ。楽しまないとな!」
 ハヤテの父親が、目の下にクマを作り、暗い顔したヒカリの父親の背中を引っ叩いた。
「俺、今日の為に徹夜したんだぞ~」
「だからこそ楽しまないと、もったいないだろ!」
 そろそろ梅雨明けが近いのか、雨上がりのスッキリとした青空の下、六人は町の東端、海に面したひなびた温泉町に立つ、ローカルな遊園地に来ていた。
 検査明け「どうしても遊園地に行きたい」と言い張るヒカリの希望をかなえた結果だが、ハヤテの母親には気掛かりな事が一つあった。
「でも……本当に大丈夫かしら……」
「何がですか?」
「だってホラ……」
 見上げる遊具はお世辞にも立派ではなく、種類もさほど多くもなく、メンテナンスも行き届いていないのか、海に面しているせいなのか、いたる所錆だらけであった。
 正面ゲート横にはロープを網目状に組んだ、ちょっとしたアスレチックもあったが、親達は、汚れと今にもちぎれそうな不安から二人に禁止を言い渡したばかりであった。
「通常営業しているのですから、危険はないと思われますが」
 のぞみが和やかな微笑みを浮かべるも、今度はハヤテの父親が、
「まぁ、確かにな……東京育ちのヒカリちゃんには、ちょっと物足りなく感じるかもな~」
 困った様に頭を掻いてゲートを見上げるも、ヒカリの父親は、今まで連れ行ってあげる事が出来なかった不甲斐無い自分に対してか、
「あの子は病院と家を行ったり来たりで、遊園地って物は初めてなんだ。余計な心配さ」
 小さく笑って見せると、
「パパァーーーッ! 早く早く!」
 満面の笑みで手を振るヒカリを見て、
「ほらな」
「だな」
 笑い合う、二人の父親。
 入園料を払い、薄緑色した、乗り物料金代わりの十枚つづりのチケットを購入し、大人達四人はとりあえずテラス席に腰を掛け、荷物を置いた。
ドーム球場何個分……などと言う話とは縁遠い、一個分すらあるか分からない敷地。
子供を放っておいても、迷子や誘拐とも縁遠い、小ぶりな田舎の遊園地である。
「ハーくん、行こう!」
 チケットを握りしめ、興奮気味に叫ぶヒカリに、
「うん! まず何に乗る!」
 するとヒカリは迷わず、
「アレッ!」
 ジェットコースターを指差した。
「待て待て待て待て!」
 慌てたヒカリの父親はバッと立ちあがり、
「い、いくらなんでもだな! 刺激が強すぎる!」
「大丈夫だろ?」
 笑って否定するハヤテの父親に、
「ば、馬鹿言うな「ジェットコースター」だぞ! こう、激しく上がったり下がったり!」
 力説すると、のぞみが「何を言っているんだ」とばかりに、
「では、ご自分が乗って、確認なされたらどうです?」
「え?」
 固まるヒカリの父親。
「あれ、あれぇ~? なになに? お前ジェットコースター怖いの~?」
 ハヤテの父親がニヤッと笑うと、
「あなたも一緒でしょ」
 背後から妻に刺され、
「ちょっ!」
 慌てて振り返るも、
「娘の為だ! 貴様も付き合え!」
「ちょ! ちょっと待てぇーーーッ!」
 腹をくくったヒカリの父親に、ハヤテの父親は引きずられる様に、連行されて行った。
 まな板の上の鯉。座席に固定され、青い顔したオヤジ二人を乗せたカーゴは静かに動き出し、雲一つない澄み切った青空へ、徐々に徐々にと昇って行った。
「おっ、おまえ、恨むからなぁ」
 ハヤテの父親が引きつり、決死の面持ちをしたヒカリの父親が、
「む、娘の為だ! 我が身をも」
 決意を語ろうとした次の瞬間一気に急降下、
「もぉ~~~~~~~~~!!」
「フオォ~~~ァ~~~!!」
 言葉にならない悲鳴を上げるオヤジ二人。
 しかしカーゴは容赦なく再び急上昇。
「や~め~て~~~くれぇ~~~!」
「ヒ、ヒカリィ~~~~~~!」
 急カーブで遠心力に振られ、
「「ヒィ~~~~~~ッ!」」
 悲鳴を上げ、今更ながら後悔していると今度は一回転、少し下がって上がると、
「「……アレ?」」
 カーゴがホームに戻った。
 呆気なく終了し、目が点になるオヤジ二人。
 その頃テラス席では、しびれを切らしたヒカリが、
「まだぁ~~~!」
 駄々をこね始めると、
「帰ったぞ!」
 意気揚々、オヤジ二人が笑顔で手を振り戻って来るなり、
「待たせたなヒカリィ! まぁ~この程度、好きに乗って来ると良い!」
 大事でも成し遂げたかの様に、オヤジ二人は得意満面ポーズをキメ、語って見せた。
「「アレ?」」
 しかし子供達の姿はすでになく、呆れ顔ののぞみが、
「いい加減、待ちくたびれたそうですわ」
 振り向けば、二人を乗せたカーゴは頂上目指し上っている最中であった。
「早……」
 唖然とする夫に、
「レールを見ただけで、怖くないのは分かるわよ」
「良い叫びっぷりでございました」
 クスクス笑うハヤテの母親とのぞみに、ばつが悪そうにうつむき赤面するオヤジ二人。

 二人を乗せたカーゴは微妙なアップダウンを通過し、微妙なループを一回転し、微妙な距離を微妙な時間走り、微妙な顔したハヤテを乗せホームに戻った。
 しかし隣で楽し気な笑顔を見せるヒカリを見て、
(まぁ、良いか)
 カーゴから飛び降り、
「次は何に乗りたい?」
 カーゴから降りるヒカリの手を取りエスコートすると、
「くるま!」
 ヒカリはゴーカートコースを指差し、
「「お兄さん、ありがとぅーーー!」」
 幼い二人は笑顔の係員に手を振ると、階段を駆け下りカート場を目指した。
「勝負する?」
 手を取り走りながら、ハヤテがニッと歯を見せ笑うと、ヒカリは首を横に振り、
「ううん……隣に乗る」
「そう……?」
 微かに見せたヒカリの表情の変化がハヤテは気になったものの、ヒカリと二人乗りカートに乗り込み、一通り係員の説明を聞き終えると、
「じゃあ行くよ!」
「うん!」
 ヒカリが笑顔を返すと同時に、ハヤテはアクセルペダルを思い切り踏み込んだ。
 このカート場はコースにレールが敷かれておらず、車も本格的な形状と、それなりのエンジンを使用している為、結構な速度が出せる。その為、コースには遊園地のゴーカート場とは思えないほど、古タイヤが所狭しと敷き詰められていた。
 ヘルメットも無く、ステアリングを少しでも誤るとタイヤの壁に突っ込む緊張感漂う中、ハヤテが風を切り次々カーブをクリアしていくと、
「ハーくん、凄いねぇ!」
「そんな事無いよ!」
「う~うん! 凄いよ!」
「じゃあヒカリ、行くよ! 最後のカーブを曲がって、最後の真っ直ぐ!」
「「ゴーーールッ!」」
 満面の笑みで叫ぶヒカリとハヤテ。
「ノーミスだ!」
 カートを停止線でピタリと止め、ハヤテはヒカリに、自慢気にガッツポーズを見せた。
 カートを降り、係員に手を振るハヤテはカート場の出口階段を駆け下り、ヒカリに良い所を見せられた事に、満足そうな表情を浮かべ、
「一回お父さん達の所に戻って、飲み物を買ってもらおうよ!」
 立ち止まり振り返ると、
「ハーくん……」
 ヒカリが、表情が見えない程うつむき立っていた。
「……どうしたの?」
「…………」
「ヒカリ……?」
「……大人になったハーくん……運手する車のとなりには」
「ヒカリしかいないだろ!」
 ヒカリの不安を笑い飛ばす様にハヤテは即答し、
「ヘンな事言ってないで、行こう!」
 優しい笑顔と共に差し伸べる手を、ヒカリは両手でしっかり握ると、
「うん!」
 曇り顔をパッと晴れさせ、屈託ない笑顔を返した。

 テラス席で、癖の様に何気なく左足を擦るヒカリの父親。
「痛みますか?」
 のぞみが声をかけると、ハヤテの父親がからかう様に笑い、
「何だぁ~もうバテたのか? 年寄臭いなぁ」
「大きなお世話だ! まぁ、昔ちょっとな……」
 痛みにより呼び起こされた過去を懐かしんでいるのか、ヒカリの父親が小さく笑った。
 するとそこへ、
「「ただいまぁーーー!」」
 疲れ知らずの子供二人が帰還し、
「少し早いが、食事にするか?」
 ハヤテの父親の提案に一同頷くと、何故かヒカリがモジモジし始め、それを見たヒカリの父親は、
「トイレか?」
 デリカシーのない一言に、
 パンッ!
 のぞみのハリセンが後頭部にヒット。
「何する!」
「気になる男の子前で、女の子にハジかかす気ですか!」
 少しお怒り気味ののぞみに、ヒカリの父親はハヤテを見て、
「あっ、そうか! ヒカリごめん!」
 慌てて拝むように両手を合わせると、
「もう! 違う!」
「え? じゃあなんだ?」
 首を傾げる父親を前に、なおもモジモジするヒカリはハヤテの服の裾を引っ張り、そっと何か耳打ち。
「あぁ~そう言う事かぁ~~~!」
 ハヤテは大きく頷くと、
「アメリカンドッグが食べたいんだって」
「「「「えぇっ!?」」」」
 意外な言葉に驚きつつも、大人達は困った様に顔を見合わせた。
「ん? ダメなの?」
 大人達の微妙な反応に、ハヤテが顔を見回しているとハヤテの父親が、
「う~ん……あまり脂質の多い物……えぇ~と分かり易く言うとだなぁ、油が多い物はちょっと良くないんだよ」
 分かっていた事とは言え、現実を突きつけられ、寂しそうにシュンとするヒカリ。
 するとハヤテは、
「半分はダメ?」
「「「「「え?」」」」」
「だから、ヒカリとボクとで半分こ」
 のぞみは伺う様にチラリとヒカリの父親を見て、「たまには」と言わんばかりの顔色に、
「それ位でしたら……」
 答えると、ヒカリの父親がここぞとばかりに、
「それならパパと半ぶ」
「イヤッ!」
 瞬断され、落ち込むオヤジ。
「でもハヤテ良いのか? お前、アメリカンドッグ好きだったよな?」
 しかしハヤテは父親の心配など意に介さず、
「も~んだ~いな~い!」
 テレビでやっていた、お笑い芸人の一発芸を見せた。
「かっこいいじゃねぇか、こんにゃろ!」
 頭を鷲掴みにし、ガシャガシャ手荒く撫で繰りまわすハヤテの父親は、
「男にここまで言わせたんだ、良いよな?」
 笑顔を向けるも、意気消沈、ただただ頷くだけのヒカリの父。
 すると笑顔満面ヒカリが、
「パパ大好きぃーーー!」
 飛び付くと、さっきまでのこの世の終わりの様な顔をしていたヒカリの父親が、
「パパもだよーーー!」
 笑顔全開、抱きしめようとしたが、サッとかわされ両腕は空を切り、かわしたヒカリは、
「ハーくんは、もっと好き!」
 ハヤテに抱き付き、
「「「おぉ~~~!」」」
 大人達はどよめき、ヒカリの父親は固まった。
「はい、どぅ~ぞ」
 母親からアメリカンドッグを受け取ったハヤテは、
「はい、どうぞ」
 当たり前の様に、ヒカリの前に差し出した。
「レディーファースト、ハヤテ様偉いですわぁ~。まったく誰かにも見習わせたいですわ」
 のぞみがヒカリの父親をチラリと見て、
「ほんとう」
 ハヤテの母親もチラリと夫を見ると、
「「めんぼくない……」」
 日頃の行いに思い当たる節があるのか、うつむき、反省しきりのオヤジ二人を横目に、ヒカリは一口頬張ると、
「おいしい!」
 目を輝かせ、
「早く、いっぱい食べられるようになると良いね!」
 ハヤテも一口食べ、目を輝かせた。
 持ち寄った昼食と、売店で購入した昼食を食べ終わると、二人は時間を惜しむかの様に、
「「ごちそうさまでした!」」
 再び駆け出して行った。
 ハヤテの父親は、走り去る二つの小さな背中を見つめ、
「早くいっぱいかぁ……実際の話、どうなんだ?」
「確かにハヤテ君と出会って以来、良い方に傾いて来てはいるが……正直分からん。食事制限と運動制限、薬の摂取と定期的な検査。年齢と共に薬もいらなくなる程回復する人もいるそうだが……正直、悪くならない様に現状維持ってところだな……」
 何もしてやれない自分の不甲斐無さに、呆れる心情を覗かせるヒカリの父親。
「仕方ないさ。俺達は医者でなければ、まして神様でもない」
「……分かってる。分かってはいるが……」
 オヤジ二人、暗く沈む様にうなだれていると、
「あ~もう辛気臭い! あなた達も遊んで来なさい!」
 ハヤテの母親は、オヤジ二人の首根っこを掴むとテラス席から放り出した。
「「えぇ~~~」」
 不服そうな顔するオヤジ二人に、
「さっさと行く! はい! ゴーッ! 駆け足!」
 「散れ」「去(い)ね」と言わんばかりに追い立て、オヤジ二人は不承不承、露骨に面倒臭そうな顔して走り出した。
「まったく、大の男が揃いも揃って」
 呆れた顔をするハヤテの母親はテラス席に戻ると、
「来週には学校が夏休みに入って混み合うでしょうから、来たのが今日で良かったわよ」
「人が少なくて……ですか?」
「そうよ~。だってせっかく遊園地に来て、あんな辛気臭い顔したオヤジ二人いたら、みんないい迷惑、気分台無しでしょ~?」
「そうかも知れませんね」
 笑い合う二人。
 楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、「最後の一つ」と言われたハヤテとヒカリは、観覧車を選択した。
 海沿いに立つ遊園地の更に海側にある観覧車は小ぶりで、さほど高い所まで上がりはしなかったが、幼い二人にとっては十分であった。
「「うわぁ~~~~~~!」」
 傾きかけた陽を反射して輝く海を眼下に臨み、遊園地を、そして次第に小さくなる両親の姿を見つめる二人は、
「また来よう!」
「うん!」
 夏休みに入ったハヤテは朝からヒカリと出かけ、昆虫を追い駆け、草花を眺め写真を撮り、明るく活発になって行くヒカリと同調する様に症状は目に見えて良くなり、それと共に飲む薬の両も徐々に減らされて行った。
 ハヤテもヒカリと言う最良の相棒を得てか、写真が放つ命の輝きが以前より遥に増した。

 そして八月上旬―――
 この地方にとって欠く事の出来ない季節がやって来た。
 ねぶた祭りの期間である。
 町中にねぶたのお囃子が流れ、店店の軒先にはねぶたの跳人の衣装である、浴衣やじゅばんや草履に鈴をはじめ、様々なグッズが所狭しと並び、町行く人々も何やらそわそわと、浮足立っている様に見えた。
 そんな中、初めての夏をこの町で過ごすヒカリは当然、
「見に行きたい!」
 となる訳で、ハヤテの家族一行は、仕事で参加できない哀れなヒカリの父親の代わりにのぞみを保護者とし、ヒカリと共にねぶた祭りを見物に出掛けた。
 夜六時半、祭り開始はまだ先で、陽も未だ落ち切っていなかったが、ねぶたの運行ルートの沿道には続々人が集まり始め、途切れる事のない人々の流れに、各横断歩道では警察官が歩行者の誘導をしている程であった。
 また市役所の前、テレビ局のカメラ用の櫓が組まれ足元の、幅が三メートル近くもある雪国特有の歩道も、すでに見物客で溢れ返っていた。さながら都内でよく見る通勤ラッシュ時の、駅のホームの様である。
「すご~~~い」
 動く壁の様に行き交う大人達を、ヒカリが呆然と見上げていると、
「ヒカリ!」
 立ちはだかる壁をかき分けハヤテが手を伸ばし、ヒカリの手を力強く握り、
「大丈夫か?」
「うん。平気!」
「はぐれるから、手を離すなよ」
「ハーくん、ありがとう」
 ヒカリが微笑むと、人混みの向こうから、
「ハヤテェーーーッ! ヒカリちゃーーーん! こっちだ、こっちぃーーーッ!」
 ハヤテの父親が何度もジャンプして手を振っている姿が見えた。
「行こう!」
「うん!」
 幼い二人は立ちはだかる障害を掻きわけ、やっとの思いで父親の下に辿り着いた。
 そこには青いビニールシートが人数幅広げてあり、その上に、ヒカリの為と思われるキャラクターの描かれた座布団が一枚、置かれていた。
「ハヤテ様、ありがとうございました。ヒカリ様、大丈夫でしたか?」
 するとハヤテとヒカリは頭を下げるのぞみに、
「「もんだいなぁ~い!」」
 お笑い芸人の一発芸の真似をして笑って見せ、と、同時に、
 ヒュ~~~~~~ッ、パンパン!
 ヒュ~~~~~~ッ、パンパン!
 音だけの花火が夜空に数発鳴り響くと、何処からともなくねぶた囃子が聞こえ始た。
 次第に近づく囃子と勇壮な掛け声。
 やがて期待に胸膨らませるハヤテとヒカリの前に、弾け飛ぶ様に踊る大集団の跳人たちが、夜空に光り輝く天にも届きそうなねぶたを引き連れ姿を現した。
「「うわぁ~~~!」」
 両目を輝かせ、驚きと感動で言葉が出ないハヤテとヒカリ。
 独特の音色を響かせる横笛が、手のひらサイズの鐘を擦り鳴らすガガシコの音が、大気を震わせるを大型の太鼓群が、そして夜空に 突き刺さる跳人の掛け声が、跳人の浴衣で激しく鳴り響く鈴の音と相まって、二人の体と心を激しく震わせた。
 呆気に取られる二人の様子に、ハヤテの父親は嬉しそうな顔をすると、
「ハヤテ! ヒカリちゃん! あの人達みたいに「ラッセラー」って叫ぶんだ!」
「「うん!」」
 二人は大きく頷くと、
「「ラッセラァーーーッ! ラッセラァーーーッ! ラッセラッセラッセラァーーッ!」」
 身を振り、手を振り、跳人たちに負けじと声を上げた。
 すると「ねぶたの扇子持ち(ねぶたの動きを誘導する人)」が二人に気が付き、
 ピィーーーーーーッ!
 笛を吹き鳴らし、手にした扇子を横に振ると、
 幅九メートル、高さ五メートルもある光輝く巨大なねぶたが、ハヤテ達の目の前で高速一回転したうえ、ハヤテとヒカリに覆い被さる様に迫って来た。
「キャーーーッ!」
 思わずハヤテに抱き付くヒカリであったが、扇子持ちの意気な計らいに周囲の観客からは拍手が沸き起こり、ハヤテの父親も、
「ありがとうございます!」
 拍手と共に叫ぶと、扇子持ちの男性は笛をくわえたまま、ニッと笑い、
 ピィーーーーーーッ、ピィッ!
 笛を吹きつつ扇子を振ると、山の様なねぶたはゆっくり離れて行き、「曳き手(ねぶたを動かす人)」達は、ハヤテとヒカリに笑顔で手を振った。
 ハヤテも笑顔で手を振り返し、
「バイバァーーーイ!」
 するとハヤテの背に隠れつつ、ヒカリも恥ずかしそうに手を振った。
「私も実物を初めて見ましたが、凄いですねヒカリ様」
 微笑むのぞみに、
「うん!」
 興奮気味に微笑み返すヒカリ。
 するとハヤテが、
「来年、一緒に参加しようよ!」
「「「「「えぇ!?」」」」」
 驚く一同を尻目に、
「踊らなくても良いんでしょ? だって歩いてる人もいる。あの服を着て、一緒にあそこに立とう!」
 跳人の集団を指差すハヤテに、ヒカリはしばし考え、
「うん、約束!」
 小指を差し出し、ハヤテも小指を立てると二人は指切りをした。
「あ~~~ぁ、約束しちまった……アイツになんて言い訳すりゃ良いんだ……」
 ヒカリの父親の苦虫を噛み潰したよう顔を想像し、ハヤテの父親が頭を抱えると、
「わたくしも説得を」
 言いかけたのぞみの言葉をハヤテの母親は遮る様に、
「いいのいいの、のぞみさん。そう言うのは男同士で話付けてね」
 からかう様に、夫に笑って言った。
 しばし祭り見物を楽しんだ後、終了時間である九時まで余裕はあったが、幼い二人をそんな時間まで連れ歩く訳にもいかず、また帰りの混雑も予想して、後ろ髪ひかれるハヤテとヒカリに「露店で買い物させてあげるから」と立たせ、帰りしな約束通り露店で綿あめ一袋を購入、ヨーヨー釣りをして帰路に着いた。
 綿あめ一袋とは当然ヒカリの体の事を考え、ハヤテと中身は半分と言う意味なのだが、こう言った場合パッケージを女の子向けにするか、男の子向けにするかで、もめそうなものであるが、幸いハヤテはそう言った事に無関心でパッケージに興味を示さず「ヒカリの欲しいもので良い」と、サラッと答えた。
 ハヤテの父親が運転する車中、ハヤテが露店でもらった何のへんてつもない透明なビニール袋に、自分の取り分の綿あめを黙々詰めていると、
「ハヤテ~お前ってさぁ、興味の無い事には、ほんと無頓着だよなぁ~」
 バックミラー越し、ハヤテの父親が苦笑いすると、
「天才肌なんですよ、ねぇハヤテ様」
 のぞみが微笑むも、
「ん?」
 カラ返事を返すハヤテは、理想通りの詰め方にならないのが気に入らないのか、ひたすら綿あめをビニール袋に押し込め、
「あぁ~~~」
 母親は、溶けた綿あめでテカテカになったハヤテのを手を見て困惑顔をした。
「何とかと天才は紙一重ってか! アハハハハハハ!」
 大笑いするハヤテの父親と苦笑いする母親とのぞみ。そして綿あめを未だ必死に詰めるハヤテに寄り掛かる、疲れて静かな寝息を立てるヒカリ。

 町を上げての一大イベントも終わり一ヶ月が過ぎた頃―――
 ハヤテは自宅のソファーで頭を抱え丸まり、
「う~ん、う~~ん、う~~~ん……」
 唸り声を上げていた。
 するとそこへ、
「ただいま~」
 ハヤテの父親が取材を終え帰宅し、
「お帰りなさ~い」
 妻の声のするキッチン横を通りリビングに入ると、カメの様に丸まるハヤテを見つけ、
「おぅ? ハヤテどうした~~~?」
 しかし返事が返らず、父親が不思議そうに首を傾げると、
「来月ヒカリちゃんの誕生日なのに、何をあげたら良いのか分からないんだって」
 ハヤテの母親がキッチンから顔を覗かせると、
「かぁ~! いっちょ前に女の悩みかよ~」
 ハヤテなりに、真剣に悩んでいた事をからかわれ、
「いっちょまえ言うな!」
 どすっ!
 憤慨したハヤテは、父親の脇腹に軽く正拳突き入れた。
「分かった、分かった、悪かったよ、からかって」
 父親はハヤテの頭を撫で、片手でネクタイを緩め隣に腰掛けると、
「何をそんなに悩んでるんだ?」
「だって……女の子にプレゼントなんてした事ないから……」
「ふ~ん……魔法少女なんチャラ~みたいのは?」
「ヒカリ、そう言うの興味ないし」
「そういや、ねぶた祭りの時に買った綿菓子もそっち系を選ばないで、動物キャラ物買ってたな~。なら、そういう小物は? ポーチとかあるだろ?」
「もう持ってる」
「なら、ぬいぐみなんてどうだ!」
「「こだま号」がいるからいらないって、前に言ってた」
「こんちくしょ! なら奮発して、一緒に写真撮れるから、デジカメなんてどうよ!」
「どこにそんなお金あるの!」
 すかさずキッチンから妻のツッコミが入り、
「ごもっともで。ヒカリちゃん家お金持ちだから、欲しいならもう買って貰ってるか……」
「……まあねぇ……」
 男二人意気消沈。リビングのソファーの上で男二人は体育座りをして小さく丸まった。
 ペェペシッ!
 ハヤテの母親は、そんな男二人の背中を両手で同時に叩くと、
「何しょぼくれてんの! ご飯出来たわよ!」
「だってよ~」
 困り顔を向ける夫に、妻は呆れた様に笑うとハヤテの隣に座り、
「何だって良いのよ。本命の相手からもらえる物ならね」
 ウインクする母親に、
「喜んでくれなかったら?」
「えぇ!? う、う~ん……」
 返答に困っていると父親がニッと笑い、
「実はハヤテは二番目?」
 ギョッと、驚いた顔のまま固まるハヤテと、呆れ顔で額に手を当てる妻。
「デリカシーのない事言わない! もう! ハヤテがフリーズしちゃったじゃない!」
「……面目ない……」
 反省しきりの父親は、
「そうだ!」
 ポンと手を一つ叩くと、
「二人で記念になる事したらどうだ?」
「あら、たまには良い事言うじゃない!」
「「たまには」ってなんだよ~」
 夫婦漫才している二人を横目に、ハヤテは母親のパソコンに何やらタカタカ打ち込むと、
「こういうの?」
 ヒットした何かをクリックし、モニタを両親に向けた。
「「…………」」
 画面に見入り、言葉を失う二人。
「ダメ? でも漢字の上に「ふたりのきねんびに」って」
「アホか! ヘリコプターナイトクルージングって、どこのセレブだよ!」
「ねぇハヤテ。毎日貰ってるお小遣いって、いくら?」
「え? 百円」
「百円て、ゼロ幾つ?」
「えぇ~と……二つ!」
「じゃあ、これは?」
 母親が、ページ上に書かれたスイート宿泊料、豪華ディナー込料金を指差すと、
「えと……いち、にい、さん、し、ご……ごぉっ!?」
 幼いながらもゼロの多さに驚くハヤテ。
 しかしめげないハヤテは、
「じゃ、じゃあ、こっちは!」
 ページを一覧に戻し、次の検索候補を開いた。
「うんハヤテ、確かにゼロは減ったけど……桁数は増えたな……」
「豪華客船で行く世界一周の旅? 行けるなら、私が行きたいくらいよ~」
「これもダメ? もう分んないよぉ~~~!」
 ふてくされ気味に、大の字に寝転がるハヤテに、
「迷走してるの分かるけど……逆ギレすんな! そんなハヤテには罰として……」
 父親は両手の五指をハヤテに向け、ニヤリとすると、
「お、お父さん! それは!」
 怯え、後退りするハヤテに、
「問答無用ッ!」
 飛び掛かり、
「千年殺しじゃーーーぁ!」
 ハヤテの両わき腹を、くすぐりまくった。
「ヒァハハハハ! くすっ! くすっ! くすぐっ! ご、ごめ~~~ヒァハッハハハ!」
 容赦ない攻めがしばし続き、やがて父親は手を止め、
「勝った」
 こと切れたハヤテを見下ろし、満足気に笑った。
「ヒィ……ヒィ……ヒィ」
 息も絶え絶え、笑い過ぎて引付でも起こしているかの様な涙目のハヤテに、
「冗談はそこまでにして、そんなに悩むなら、ヒカリちゃんに聞いてみたら?」
「確かにな。ハヤテはどう思う?」
「うん……うん……もう……もう、そうする……明日……聞いてみる……」
 未だ、ゼェ~ハァ~ゼェ~ハァ~荒い呼吸をしているハヤテを見て、
「やり過ぎ」
 妻のツッコミに、
「面目ない」
 苦笑いするハヤテの父親。

 一夜明け、ハヤテが朝食を食べ終わった頃―――
 ピンポォ~~~ン
 呼び鈴が鳴ると、
「ごちそうさまでした!」
 ハヤテはイスから飛ぶように降りると、玄関へ猛ダッシュ。
 母親は、そんなハヤテに呆れた様に、一人小さく笑った。
 やがてハヤテが、こだま号を抱いたヒカリと共にのぞみの手を引きリビングに入ると、
「おば様! おはようございます!」
 ヒカリが笑顔を見せ、のぞみが困った様に微笑み、
「おはようございます。すみません、またわたくしまで……」
「構わないわよ。主人は仕事で、朝方早くにもう出かけたし。今お茶入れるわね」
 笑顔を返すハヤテの母親。
 ハヤテはヒカリとのぞみをソファーに座らせると、改まった様に、
「聞きたい事があるんだ!」
 ハヤテの唐突な質問に、二人は顔を見合わせ、
「なぁに?」
「ヒカリは誕生日に何が欲しい? 考えたんだけどさ、分かんなくて熱が出そうなんだ!」
 するとヒカリは一瞬驚いた顔をしたが、やがて小さく笑い、
「お誕生日に、一緒にいてくれるだけで良いの」
 屈託ないその笑顔に、ハヤテはボッと火が付いた様に赤くなり、
「ヒャ~~~」
 釣られて赤くなり、悲鳴にも似た声を上げる恋愛経験希薄ののぞみと、
「ヒカリちゃん、言うわね~~~! ハヤテ、この果報者!」
 親指立てて見せるハヤテの母親であったが、意外な程ヒカリは冷静に、
「だって……今までお誕生日に、お友達がいた事なかったから……」
 小さく微笑んだ。
「「…………」」
 肝心な事を失念していた事に気付く、のぞみとハヤテの母親。
 体の弱いヒカリは永らく本家の屋敷に住み邸外に出た事が無く、また幼稚園への入園も健康診断で病が見つかり叶わず、「同年代の友達」と呼べる者はハヤテが初めてであった。
 大人二人が想像に難くないヒカリの寂しさを想像し、表情を曇らせたが、
「そんな事言うなよ! これからは、僕とずっと一緒なんだぞ!」
 ハヤテが沈んだ空気を吹き飛ばす様に笑って見せ、ヒカリはハヤテの笑顔に、
(私がお母さんのところに行ったらゴメンね)
 小さな声でポツリと呟き、
「え? 何?」
 あまりに小さ過ぎ、聞き取れなかったハヤテが聞き返すも、
「ううん、何でもない!」
 ヒカリも笑顔を返した。
 ハヤテは腑に落ちない思いを残しつつも、ヒカリが今欲している物を探る為、
「こだま号を、ちょっと借りるね」
 こだま号を抱き上げると何か耳打ちし、今度はこだま号の口元に耳を当て、
「ウン……ウン……」
 初めはナイショ話を聞いている風であったが、
「えぇ!?」
 突如驚いた表情でこだま号を凝視し、
「が、頑張ってみる……」
 硬い表情を見せた。
「ハーくん……? こだま号、何て言ったの?」
「ん? いや~えぇ~と、誕生日までナイショ!」
「えぇ~~~」
「ダメだよ! これは、こだま号とボクとの、男と男の約束だから!」
 不服そうな声を上げるヒカリに、ハヤテはニッと歯を見せ笑って見せた。

 ヒカリとのぞみが帰宅したその日の夜―――
 ハヤテは母親のパソコンをひたすら叩いていた。
「ハヤテぇ~夕飯よ~~~」
 母親がキッチンから顔を出し、声をかけるも、
「うん……分かったぁ~~~」
 から返事が返って来るのみ。
 気になった母親がリビングに行くと、ハヤテはパソコンの傍らに置いたノートにウェブ上で知り得た情報を、理解出来た範囲で書きなぐっていた。
 とは言え、未だ幼稚園児、
「え~と……これは……」
 書かれた文字はミミズがはいつくばった様な字で、解読するのは難解そうであった。
 しかし開いているウェブサイトの内容を読むなり、
「あ~そういう事ねぇ」
 頷く母親に、
「できる?」
「う~ん、と……これはちょっと私の手には……のぞみさん達にも協力してもらいましょ。でも、言い出しっぺなんだからハヤテも手伝うのよ」
 悩みながらも微笑みかけると、
「うん!」
 ハヤテも笑顔を返した。

 十月一日、ヒカリの誕生日当日―――
 ハヤテ達家族三人はヒカリの家で、ヒカリの父親やメイド隊と共にリビングのテーブルを囲み、主賓席にはニコニコしっぱなしのヒカリがいた。
 やがてヒカリの父親は改まった様に咳払い一つすると、
「え~今日は」
 すかさずのぞみが、
「おめでとうございます!」
 パンッ!
 クラッカーを鳴らすと、
 パンッ! パパパパァーーーン!
「「「「「おめでとう(ございます)!」」」」」
 ヒカリの父親以外、一斉にクラッカーを鳴らした。
 恨めしそうな顔をするヒカリの父親と相反し、
「ありがとーーー!」
 一層喜びに満ちた笑顔を見せるヒカリ。
 一見すると普通の微笑ましい子供の誕生日会であったが、少し違う所があった。
 テーブルに並ぶ料理である。
 子供が好きそうな唐揚げやフライドポテトなど揚げた料理はなく、野菜や蒸し料理が中心で、バースデーケーキさえ置かれていなかった。
 心臓に持病のあるヒカリにとって、脂質、糖質の過剰摂取は禁忌であり、個々の症状によって個人差はあるものの予防こそ第一で、それは例え年に一度の誕生日であっても例外ではないのである。
 ヒカリ達家族にとってはいつもの事ではあるが、改めて現実を直視する事になったハヤテ達家族は、不平不満ひとつ言わず屈託ないヒカリの笑顔と相まって、グッと胸に迫る物があった。
「ヒカリ様、こちらは私達からでございます」
 笑顔のメイド隊を代表し、のぞみがピンクのリボンで飾られた、ヒカリが手にするには少し大きめの包装紙を手渡した。
「ありがとう。開けてもいい?」
 微笑み、首を傾げるヒカリにメイド達は顔を見合わせ微笑むと、
「「「どうぞ」」」
 三人はヒカリにうなずいて見せた。
 包装紙の中から出て来たのは、ヒカリの好きなハムスターのキャラクターが描かれた、筆箱、鉛筆、消しゴムに数冊のノートなどの文房具一式であった。
「来年からヒカリ様も、小学生でございますから」
 優しく微笑むのぞみに、
「ありがとう」
 ヒカリはラッピングされた文具一式を胸に抱き、微笑み、涙を浮かべた。
 メイド隊も喜んでもらえた事に表情を綻ばせ、
「ヒカリ様、今から泣いては最後まで体がもちませんよ」
 のぞみがハンカチを取り出し、ヒカリの目元を優しく拭うと、
「うん」
 ヒカリが笑って見せ、
「フフン! 次はパパだぞ!」
 今度はヒカリの父親が何やら自信ありげに隣室へ行くと、ラッピングされた、ヒカリが抱きかかえるには大きめな箱と、手のひらサイズの小箱の二つを持って戻って来た。
 ひとまず小箱をテーブルに置き、大きい箱の方の底面辺りを両手で支える様に持ち、ヒカリが開け易い様に屈むと、
「開けてごらん」
「う、うん……」
 自分の上半身程ある仰々しい箱に、少し戸惑いながらも包装を解いたヒカリは、中を見た途端に笑顔を弾けさせ、
「ランドセル!」
「少し早い気はしたがな、なぁ~に、アッという」
 鼻高々語っている間に、
「見て見て、ハーくん!」
 ピンクのランドセルを背負い、ハヤテの前でクルリと回って見せていた。
「うん、凄く似合ってる!」
 ハヤテの笑顔に、キラキラした笑顔(ヒカリの父親の目にはそう見えた)を返すと、
「分かっていたさ! あぁ~分かっていたさ。どうせハヤテ君に勝てない事くらい!」
 ヒカリの父親は悔し涙を流し、そんな姿に、みな苦笑いを浮かべていると、
「パパも大好き!」
 ヒカリは笑顔で振り返り、
「ぱ、パパもだよぉーーーッ!」
 父親は両手を大きく広げ抱き付こうとしたが、ヒカリはその腕をするりとかわし、
「パパ、こっちは何?」
 テーブルに残された小箱を取り上げ、
「……結局、俺はこういう扱いなのね……」
「まあまあ樹神様そうおっしゃらず、仕方ありませんわ。プププッ」
 小馬鹿にした様に笑うのぞみとメイド隊に、
「お前たちなぁ~」
 恨めしそうな顔を向けていると、
「パパありがとう!」
 いきなりヒカリが抱き付き、その手にはランドセルとお揃いのピンク色のデジカメが。
 すると何かに気付いたハヤテの父親が、
「おぉ? そのカメラって……」
「は……ハヤテ君の持っているのと……同じ機種だよ……」
 娘が喜ぶ姿が見たいと言う気持ちと、ハヤテに対する嫉妬のジレンマに囚われ、複雑な表情で何とも歯切れの悪い返事を返すヒカリの父親に、
「お、お前ぇ、わざわざ型落ち機種探して買ったのか?」
 今にも吹き出しそうな笑い顔のハヤテの父親に、
「い、一番喜ぶと思ったんだよ! 悪いかよぉ!」
「アーッハハハハッ! お前、ヒカリちゃん結婚する時、卒倒するんじゃないのかぁ!」
 ハヤテの父親が笑い出すと、
「けっ、結婚っ!?」
 驚愕し振り返った視線の先、顔が付きそうな位並んで笑顔を向け合うヒカリとハヤテの姿が、ヒカリの父親の脳内で一気に変換。
 大人になったヒカリがウエディングドレスを纏い、大人になったハヤテと教会で式を挙げ、ヒカリの父親は手を伸ばし「待ちなさ~い!」追うも、「パパ、お世話になりました」笑顔を残し、ハヤテと微笑みながら明るい方へ歩き去って行く。
「あぁっ、娘のめでたい日に、めぇ、めまいが……」
 妄想に打ちのめされ、フラフラするヒカリの父親に、
「しっかりなさってください樹神様」
 呆れ顔で笑うのぞみが、背中を引っ叩いた。
「次はボク。でもゴメン。プレゼント、みんなで一つになっちゃったんだ」
 ハヤテが頭を下げると、すかさずのぞみが、
「そんな事はありませんわ! ヒカリ様、ハヤテ君も一緒に作ってくれたんですよ」
 周囲の心配をよそに、ヒカリは小さく首を横に振ると、
「気にしないよ。それよりハーくんは、みんなと何を作ってくれたの?」
 少しホッと胸をなで下ろすのぞみは、
「ヒカリ様、少々お待ちいただけますか?」
 そう言い残すと、メイド隊を引き連れリビングを出て行った。
「ねぇ、ハーくん。何を作ってくれたの?」
「ヒヒヒッ、ナイショ」
 イタズラっぽく笑って見せると、突如部屋の明かりが消され、
「えっ?」
 驚いたヒカリはハヤテにしがみついた。
 すると、閉まるリビングの扉の向こうから、
「「「ハッピィバースデー トゥ ユ~~~」」」
 メイド隊の歌声が聞こえ始め、
「のぞみさん?」
 ヒカリが閉まる扉の向こう側、声のする方を見つめると、
「「「「ハッピィバースデー トゥ ユ~~~」」」」
 リビングいた、ハヤテ達も歌い始め、
「え? えぇ? ハーくん!?」
 戸惑っていると、
「「「「「「「ハッピィバースデー ディア ヒカリ(様)ちゃん~」」」」」」」
 歌声は続き、やがてスッとリビングの扉が開き、
「「「「「「「ハッピィバースデー トゥ ユ~~~」」」」」」」
「えぇ!?」
 ヒカリが今日一番の驚きを見せた。
 開いた扉の向こうには、ロウソクの温かいオレンジ色の薄明りに照らされ、ケーキを持つのぞみを先頭に、から揚げなど、揚げ物料理を持つメイド隊が微笑みと共に歌い、立っていたのである。
「…………」
 呆然と見つめるヒカリの前に、のぞみ達は普段口にする事を禁じていたイチゴの乗ったクリームたっぷり真っ白なケーキや、揚げ物料理を並べ、
「さぁヒカリ様、ロウソクの火を」
 微笑むのぞみに、未だ状況が呑み込めないヒカリは、とりあえず言われるがままロウソクの炎を吹き消すと、拍手が起こり、
「ヒカリ! おめでとう!」
「ヒカリ、おめでとう」
「「「「ヒカリ様、おめでとうございます!」」」」
「ヒカリちゃん、おめでとう!」
「おめでとうねぇ、ヒカリちゃん!」
 賛辞の言葉が続き、
「あ、ありがとう……」
 お礼の言葉を返すも、正直、今のヒカリはそれどころではない。
 病が発見されて以来「食べてはいけない」と、口うるさい程に言われ続けていた料理達が、今、ヒカリの目の前に並べられているのである。
「さぁヒカリ様、どうぞ」
 のぞみが切り分けたケーキを皿に乗せ、そっとヒカリの前に置いた。
「あ……ありがとう……」
 目の前に置かれたイチゴの乗ったケーキを、半信半疑に見つめるヒカリ。
 皿には「お誕生日おめでとう ヒカリちゃん」と書かれた板チョコまで置かれていた。
 きつく言われ続けていただけに、ヒカリは伺う様に父親の顔をチラリと見ると、父親はニコリと笑い、ハヤテを、メイド隊を、ハヤテの両親を不安気に見回すと、みな一様に父親と同じく笑顔を浮かべていた。
 子供ながらに「イケない事をしているのでは」と罪悪感にさいなまれつつも、みなの笑顔に動かされ、ヒカリはドキドキしながら小さいフォークをケーキにひと刺し、端を少し切り落とした。
 ヒカリの一挙手一投足を、まるで自分の事の様に固唾を呑み、顔で追い掛けるハヤテ達。
 やがてケーキの一切れが、小さな口の中へ消えると、
 カチャン!
 ヒカリがフォークを落とした。
「あれ!? ごめんヒカリ! おいしくなかった!?」
「すみせんヒカリ様! どういたしましょう! お口に合いませんでしたか!?」
「ヒカリ! 大丈夫か!?」
「ヒカリちゃん、大丈夫か!?」
「ヒカリちゃん、大丈夫!?」
「「ヒカリ様!」」
 動揺し、慌てる一同を尻目に、ヒカリは大粒の涙を流し、
「……おい……しい……」
 ひざに抱えていたこだま号の後頭部に顔をうずめ、泣き出してしまった。
「えと……あと……どうしよう!」
 予想外のリアクションにハヤテがうろたえていると、のぞみがニコリと笑い、
「ハヤテ君、よろしくお願いします」
 ヒカリが一口食べたケーキの乗った皿とフォークを手渡した。
「えぇ!?」
 戸惑いつつ周囲を見回すと、ハヤテの両親とメイド隊はニコリと笑い頷き、ヒカリの父親は仏頂面で「仕方がない」と言わんばかりにうなずいた。
「ヒカリ様、これらの品々は全てハヤテ君が調べてくれた、ヒカリ様の体に優しい料理ばかりなんですよ」
 優しく語るのぞみに、ヒカリは涙顔を上げ、
「ハーくんが……?」
「はい」
 微笑むのぞみに促され、ハヤテの方に振り向くと、
「ま、まったく……マズいのかと思ったじゃないか……」
 照れ臭そうに赤面したハヤテが、ケーキの端をフォークに刺し、
「ホラッ」
 ヒカリに差し出し、
「ありがとう!」
 ヒカリはハヤテに抱き付くと、
「ハーくん大好き!」
 頬にキスをした。
「「「「「おぉ~~~~~~っ!」」」」」
 大人達の歓声が上がると同時に、
「ぱ、パパの前では、止めてぇーーーっ! 現実を突き付けないでぇ~~~!」
 ヒカリの父親が絶叫するも、
「イヤッ!」
「ヒィ~~~~~~ッ!」
 ムンクの「叫び」の様な顔になるヒカリの父親。
 抱き付かれたまま照れまくりのハヤテと、明るい笑いに包まれるリビング。

 やがて盛り上がりが一息ついた頃―――
「しかし今の時代、調べれば色々あるんだな~」
 ヒカリの父親が感嘆しきりに、揚げていない、鶏肉でもない鳥から揚げを頬張った。
「はい」
 頷くのぞみは、
「主治医の先生には一応レシピに目を通していただいた上で、お作り致しましたが、今は体調も良く、年に一度位なら全く問題ないとおっしゃられておりました。ただ流石に毎日と言う訳には……」
 言葉尻を濁らせるも、
「ハヤテ君には正直感謝の言葉も見つからない。あんなに喜んで……我慢していたんだな」
 子供らしく無邪気に料理をほおばる娘を見て、ヒカリの父親が表情を緩めると、ハヤテの父親が、
「子供は感受性が豊かな分、大人が考える以上に感じ、我慢しちまうのかもな~。遥か昔過ぎて、もう覚えてないけどな」
「でもハヤテ君には欲しい物教えて、パパに教えてくれないのは、ちょ~っと寂しいな~」
 イタズラっぽくもあり、皮肉っぽくヒカリの父親が笑ってヒカリを見つめると、
「教えてないと思うぞ」
「え? イヤだって「ケーキ食べたいって」ハヤテ君に言ったから、調べてくれたんだろ?」
 するとヒカリが、
「言ってないよ!」
「じゃあハヤテ君はどうやって?」
「この前、こだま号に聞いたんでしょ?」
 何のためらいもなく言い出すヒカリの口を、のぞみが慌てて抑えるが、
「うん、そうだよ!」
 ハヤテまで言い出し、母親が目にも留まらぬ速さでハヤテの口を塞いだ。
「何だ?」
 二人の異常行動に、ヒカリの父親が不思議そうにしていると、
「え? いえ、ちょっと……ねぇ~のぞみさん!」
「は、はい! 何でもありませんわ、樹神様。オホホホホホホホホ……」
 焦りの表情を浮かべ、とっさに口裏合わせよとしたが、
「そういや話して無かったな。コイツの能力なんだ」
 自慢気に笑って見せるハヤテの父親に、
「ちょ、ちょっと!」
 ハヤテの母親が、ギョッとした表情を見せると、
「構わないだろう? ヒカリちゃんの、お父さんなんだし」
 制止しようとする妻の心の内を気にもせず、サラッとカミングアウトするハヤテの父親。しかしヒカリの父親は一瞬キョトンとした顔をしたが、
「あっ! あぁ~~~そう言う設定なぁ」
 笑って見せると、ハヤテとヒカリは口を塞ぐ両手を強引にほどき、
「「せっていじゃない(もん)!」」
 二人して叫んだ。
「本当かぁ~~~?」
 ヒカリの父親が半信半疑でハヤテの父親の顔を伺うと、ハヤテの父親は「勿論」と言わんばかりに大きくうなずいて見せ、
「ほう~~~じゃあ、この人誰だか分かるかい?」
 ヒカリの父親は懐に忍ばせていた手帳から、一枚の写真を取り出しハヤテに見せた。
「きれいな人だ~」
 そこに写っていたのは二十代前半と思われる長い黒髪を持った、細身で色白な美しい、それでいてどことなくヒカリと似た雰囲気を持つ女性であった。
「誰?」
 尋ねるハヤテに、ヒカリの父親は「当たり前だよな」と言わんばかりに小さく笑うと、
「亡くなったヒカリのお母さんなんだよ」
「きれいでしょ~」
 かなり昔の話なのか、悲しみを見せず自慢気に微笑むヒカリに、
「そうだね」
 ハヤテは頷き、
「だからヒカリちゃんのお父さん、毎日お酒飲みながら悲しそうな顔してるのか……」
 写真を手帳に戻そうとするヒカリの父親の手が、ピタリと止まった。
「いや、でも……ヒカリのお母さんなのは、分からなかったよね」
「だって、その写真くん、ヒカリのお母さんと会った事が無いでしょ?」
「……確かに……この写真は、最近印刷し直した物だが……」
 驚いた顔をハヤテの父親に向けると、ハヤテの父親は静かにうなずいた。
「ハーくんはねぇ、物とお話が出来るの」
 驚きが治まらないヒカリの父親は写真を手帳に挟み終えると、今度は袋になったページから小さなネックレスを取り出しハヤテの前に置いた。
「これ何?」
「何だと思う?」
 するとハヤテは、ペンダントと会話するかの様な動きを見せ頷くと、
「ヒカリのお母さんの首飾りなんだね。首飾り仕舞ってるなんて、のぞみさんみたい」
 笑って見せるハヤテの言葉に、自然と一同の視線がヒカリの父親に集まると、
「……そうだ……」
 ヒカリの父親はポツリ呟き、メイド達はざわつき、のぞみはハヤテの母親に申し訳なさげに頭を下げ、ハヤテの母親は「仕方ないわ」と言わんばかりに、首を横に振って答えた。
「なあ、何か聞いて欲しい事が、あるんじゃないのか? あるから出したんだろ?」
 ハヤテの父親に言い当てられたヒカリの父親は、バツが悪そうに赤面すると、
「こ、こんな事……子供に聞いて良いのか分からんのだが……その……」
 言いにくそうにしていると、
「難しい話は子供には分からないさ。ハヤテはただ物が言っている事を代弁するだけ。気にするだけ損だぞ」
 微笑むハヤテの父親に、ヒカリの父親は静かに頷くと、
「ハヤテ君。ヒカリのお母さんは……その……幸せだったのかな……」
 難しい言葉はあえて選ばずハヤテに尋ねると、意味を理解したヒカリもそっと歩み寄り、ハヤテは頷くとペンダントに向き合った。
「……ウン……そうなんだ……ウン……ウン……」
 再び会話している様な動きを見せると、ハヤテは静かにヒカリの父親の方を向き、
「幸せだったって!」
 笑顔を向けるハヤテに、
「そうか……ありがとうハヤテ君」
 差し障りのない妥当な答えに、少し残念そうな笑顔を返すと、
「……突然あなた達の前からサヨナラも言わず消える私を許して……」
「え?」
「辛い事も沢山あったけど、あなたに会えて、ヒカリに会えて私は本当に幸せでした」
「ハヤテ君……何を……」
「私が階段から転げ落ちそうになったのを庇って痛めた左足、冷やさないでね」
「そんな……」
「私を愛してくれてありがとう……そしてサヨナラ……どうか二人の未来が、幸多き人生でありますように……」
 妻とのかけがえのない時間が、フラッシュバックの様に瞬く間に脳裏に流れ、涙が溢れ出すヒカリの父親。
「ハーくん……今のは……」
 微かな母のぬくもりを思い起こし、ヒカリが潤んだ瞳でハヤテを見つめると、
「ヒカリのお母さんが亡くなる瞬間、首飾り君を握って言ったんだって」
「パパッ!」
 涙を、想いをこらえきれず父親に抱き付くヒカリ。
「ありがとう……ハヤテ君……本当に……本当にありがとう…………」
 長く心につかえていた物があったのか、父と娘は抱き合い涙を流した。

 しばしの抱擁の後―――
「わ、悪い……娘のめでたい日なのに、湿っぽくしちまった」
 ヒカリの父親は晴れやかな顔で笑って涙を拭い、ハンカチでヒカリの涙を拭うと、
「それにしても凄いなハヤテ君は……ヒカリの母親は心臓発作起こして、目の前で突然倒れたんだ……このペンダントを強く握りしめて……」
「ねぇパパ! ハーくん、嘘なんてついてなかったでしょ?」
「そうだな、疑ってすまなかった。ハヤテ君も、申し訳なかった」
 ヒカリの父親が頭を下げると、
「あの!」
 ハヤテの母親が何か言いたげに声を上げ、察したヒカリの父親は、
「分かっています。誰にも言いません。キミ達も、良いね?」
 感極まって一緒に泣いていたのか、目を赤くしたメイド隊も静かにうなずいた。
「次は、ハーくんのお誕生会だね!」
 ヒカリが微笑むと、ハヤテは少し顔色を変え、
「う……うん……」
 何とも歯切れの悪い返事を返した。
 不思議そうにするヒカリがその理由を知るのは、少し後の事である。

 ヒカリの誕生パーティーから一カ月が過ぎた頃―――
 町は暑さ寒さを繰り返しながら着実に雪降る季節へと歩みを進めつつも、ヒカリの体調はますます良くなり、毎日朝晩一回飲んでいた薬の量は、以前より更に少なくなっていた。
 そんなある日の土曜日、ハヤテとヒカリはデジカメを手に、
「「行って来まーーーす!」」
 手をつなぎ、団地を飛び出した。
「今日はあったかいね!」
「うん!」
 多少風があるものの、朝から小春日和と言える暖かさで、ゴワゴワした冬服を嫌った二人は初春の様な軽い装いに、背中に小さなリュックと言う出で立ちであった。
 ヒカリはハヤテに導かれ、交通量は少ないものの、車二台すれ違えるかどうかも危うい道路を駆け抜け、民家の立ち並ぶ中、とある一軒の店の前に立った。
「ハーくん、この店がどうかしたの?」
 建物は三階建て風の縦長長方形で、色も緑色で店と言う事もあり、確かに周囲の民家と比べると一風変わって見えはするが、何故ハヤテがわざわざ連れて来たのか真意が分からず、不思議そうに建物を見上げていると、
 パシッ!
 ハヤテはそんなヒカリを尻目に一枚撮影。
「ヒカリ! これ見て!」
 液晶モニタを見せた。
「あれ?」
 映し出された建物と実物を見比べて、驚きの声を上げるヒカリ。
 そこには、四角ばったアルファベット「A」の様な形をした緑色のモンスターの姿が。
 「A」の上三角の空間の中に、ちょうど三階部分の四角い窓二つがまるで両目の様に。更にはその目が、横にずらした未使用の網戸のせいで左を見ている様に見え、ガラス四枚一列につながった二階の窓は、まるでモンスターがニッと歯を見せ笑っている様に見えた。
「アハハハハ。ハーくん、かいじゅうが笑ってる!」
「だろ!」
 笑い合う二人は再び走り出し、細い道路を駆け抜け、幾つかの曲がり角を曲がると、右手の向こう側に、赤い構造物が規則正しく並んでいるのが見え、
「ハーくん、あれナニ?」
 ヒカリが指を差すと、
「行ってみよ!」
 ハヤテはヒカリの手を引き、赤い構造物に駆け寄った。
「へぇ~~~」
 見上げるハヤテの前に立っていたのは、少し年季の入った神社の鳥居であった。
 こちら側に来た事が無かったハヤテにとっても、初めて見る建造物である。
「奥に行ってみよう!」
 声を上げるハヤテが手を引くも、ヒカリは尻込みし、
「どうしたの?」
「だって……何か……こわい……」
 正面の鳥居から奥に小さく見える社まで百メートルくらいであろうか。
 その参道は木々がうっそうと茂り昼でも薄暗く、その間を縫う様に幾本もの年季の入った、小ぢんまりとした赤い鳥居が等間隔に立ち並び、その奥に見える木々に囲まれた社もまた、遠目にも年季が入っている様に見え、しかも周囲には昼にも関わらず人の気配がまるで感じられない。
 陽が傾きでもしようものなら、大人でも尻込みしそうな雰囲気であり、幼いヒカリが怯えるのも無理からぬ事である。
「分かった!」
 ハヤテは社に向かって頭だけ下げるとヒカリも頭を下げ、二人は再び走り出した。
 道路標識を、ポストや道に転がる空き缶を撮影しながら、見せ合い、笑い合いながら、個人商店の前を駆け抜けた二人は公園に辿り着いた。
 この公園はA市を東西に走る総延長四・五キロにも及ぶ、木々が立ち並び、季節により様々な色の花々に彩られる遊歩道である。
 春になれば空を覆い隠すほどの桜の回廊が姿を現し、夏には新緑の、秋には紅葉の、四季折々の表情を見せてくれるが、すでに紅葉の時期も過ぎた現在、葉は落ち、モノトーンの、雪の訪れを待つばかりとなってしまっていた。
 しかしそんな中にも楽しみはあった。
 ヒカリは遊歩道に入るなり、
「じゅうたん!」
 歓喜の声を上げ、走り出した。
 イチョウである。
 イチョウの落ち葉が降り積もり、まるで黄色いじゅうたんを所狭しと敷き詰めた様に、一面黄色一色に染まっていた。
「すごい! すごい! すごぉーーーい!」
 ヒカリは積った落ち葉を両手いっぱいすくい上げ、満面の笑みで空に散らす様に投じた。
 ヒラヒラ舞い落ちるイチョウの葉たちの中でヒカリが踊る様に回って見せると、今まで人を写した事が無かったハヤテの手が自然と動き、ファインダーにヒカリを捉え、少し赤い顔で輝く笑顔を見せるヒカリをパシリと写した。
(な、何だろ……これ。胸が……なんかドキドキしてる)
 ハヤテは胸に手を当て、真っ赤になっている自分の顔に戸惑いつつも、出来栄えを確認する事を言い訳にプレビューボタンを押し再生、液晶に映し出されたヒカリを見て、
「かわいい……」
 思わず口からこぼれ、
(えっ?)
 言った自身に驚いた。
 と、その時、
 ドサッ!
「ヒカリ?」
 顔を上げると、舞い散るイチョウの葉の中にヒカリが倒れていた。
「ひ、ヒカリィーーーッ!」
 駆け寄ると、ヒカリは苦し気に胸元を握る様に抑え、顔面蒼白で冷や汗を流していた。
「ヒカリッ!!」
「は、ハー……く……ん」
 今にも消えそうなヒカリの声。
「どうしたらっ!!」
 ハッと何かに気付くハヤテ。
 この遊歩道はハヤテ達の住む団地と、ヒカリの掛かりつけの県立病院との、ちょうど真ん中に位置していた事を思い出し、
「そうだ病院! でも右と左、どっち!?」
「ハー……くん……くる……し……」
 そうこうしている間にもヒカリの顔色はますます悪くなり、
「病院がどこにあるか教えて! お願い! ヒカリが、ヒカリが死んじゃうよ!」
 しかし無情にもまともな返事は返らなかったらしく、苦しむヒカリの傍らで口惜し気にしゃがみ込み、
「何で、何でみんな知らないんだよーーーッ!」
 空に向かって絶叫すると、ハヤテの中で、何かのスイッチが入った。
「ごめんヒカリ! もう少し我慢して!」
 目つきが変わり、ハヤテはヒカリを背負うと、一歩一歩踏みしめる様に歩き出した。
 病院は遊歩道沿いにあり、遊歩道は東西に延びている。
 東に行くか、西に行くか、確率は二分の一。
「ごめん……なさい……ハーくん……ごめ……」
「言うな! ヒカリはボクが守るって決めたんだ!」
「……うん……」
 まだ幼いハヤテにとって、自分と同じ体重のヒカリを担ぎ歩く事は容易ではなかったが、ハヤテは弱音一つ吐かず、一歩、また一歩、歩みを進めた。

 どれ程歩いたのか、歩いていないのか、時間も距離ももはや分からなかったが、ヒカリの重さに、流石に膝が震えだし、
(病院は、どこなんだよ!)
 心の中で叫び、顔を上げると、
「……あ……あった……」
 木々の向こう、民家の間に、突如ビルの様にそびえ立つ病院が現れた。
「やった! ヒカリ、やっ!」
 肩越しに振り返ると、返事も出来ない苦悶の表情のヒカリが目に飛び込んだ。
「着いたんだよ! もう少しだからな!」
 ハヤテは最後の力を振り絞り病院の敷地に入ると、
「どうした坊主?」
 病院の利用者であろうか、初老男性が声をかけて来て、
「ヒカリが! ヒカリを!」
 ハヤテの背中で苦しむヒカリを見るなり、
「おい! 子供が大変だ! 誰でも良い!」
 周囲に叫び声を上げ、ハヤテの意識はそこで途切れた。

 しばし後―――
「……あれ? ここは……」
 意識を取り戻したハヤテは、ぼんやり天井を眺めていたが、
「ヒカリッ!」
 飛び起き、
「イテッ!」
 突然の痛みから頭に手をやり、包帯が巻かれている事に気が付いた。
「イテテテ……何だこれ……?」
「倒れた時に頭を打ったの、覚えていないのかい?」
 聞き覚えのある声に振り向くと、ヒカリの主治医の男性がハヤテの傍らに座っていた。
「先生!? ヒカリ、ヒカリは!」
「まったく……自分の心配よりヒカリちゃんかね」
 困惑顔で笑いスッと体を横によけると、隣のベッドにヒカリの姿があった。
 症状が落ち着いているのか、穏やかな寝息を立てている。
「良かった……」
 ホッと胸をなで下ろすと、いきなり扉が開き、
「ハヤテーーーッ!」
 母親が駆け込んで来た。
 その後ろには、対照的に落ち着いた風に見えるのぞみの姿も。
「ハヤテ、ハヤテ、ハヤテ! 大丈夫なの!? 頭は? なんともない!?」
 体を擦り、矢継ぎ早に質問する母の姿に気が抜けたのか、ハヤテは急に泣き顔になると、
「ごわがった……怖かったぁよぉ~~~! ヒカリが! ヒカリが死んじゃうかとおもっだ~~~!」
 ナイトの様な勇姿から一変、大泣きし出して普通の子供の姿に戻った。
「うん、うん、怖かったね」
 抱きしめ、そっと頭を撫でるハヤテの母親に、
「ヒカリが……ヒカリのママみたいに……消えちゃうんじゃないかってぇ……」
 泣きじゃくるハヤテの言葉に、ハヤテの母親とのぞみはハッと思い出した。
 ヒカリの誕生日、ハヤテはヒカリの母親の命が消える瞬間を追体験していた事を。
「大丈夫、もう大丈夫だから……」
 優しく強く抱き寄せるハヤテの母親。
 と、隣のベッドから、
「ここは……」
 ヒカリも意識を取り戻したが、のぞみは容態が安定している事を予め聞いていたのか、
「ヒカリ様」
 さして取り乱した様子もなく微笑むと、主治医が穏やかな表情でヒカリの顔を覗き込み、
「大丈夫かい? ここはねぇ」
 落ち着かせようと声を掛けたが、突如ヒカリが主治医の言葉を遮る様に白衣を掴み、
「先生! のぞみさん! ハーくんは! ハーくんは!?」
 興奮気味に叫んだ。
「ま、まぁ~落ち着きなさい。やれやれ、君達は揃いも揃って相手の心配かねぇ……」
 苦笑いする主治医が体をスッと横によけると、
「ハーくん!」
 ハヤテを視認したヒカリがベッドから飛び降りようとし、
「ひっ、ヒカリ様、いけません!」
 流石に今度は慌てたのぞみに取り押さえられ、
「離してぇーーー!」
 もがいていると、
「これこれ! 体に悪いから暴れちゃイカン! なら、こうしようじゃないか」
 主治医は一まずヒカリに落ち着く様に促すと、
「のぞみくん、ベッドを持ち上げるのを手伝ってくれるかね」
 主治医はのぞみとハヤテの母親三人がかりで、ヒカリごとハヤテのベッドに横付けし、
「さあヒカリ君、横になって。安定しているとは言え、さっきの今。暴れてはいけないよ」
 寝かしつける様な、主治医の穏やかな口調に、
「は~い!」
 横になりつつ返事は良いものの、視線は隣で横たわるハヤテから離れなかった。
 そんなヒカリに、
「やれやれ……恋する乙女は強いねぇ」
 困り顔で頭を掻く主治医の姿に、のぞみとハヤテの母親は顔を見合わせ思わず笑った。
「一旦戻るが、もし何かあったら呼びなさい。まぁ、あの様子じゃ大丈夫じゃろうがな」
 小さく笑う主治医に、
「「ありがとうございました」」
 ハヤテの母親とのぞみが頭を下げると、「構わんさ」と言わんばかりに笑顔で手を振り、横になったままのハヤテとヒカリも笑顔で、
「先生ありがと!」
「ありがとうございました!」
 お礼を言うと、主治医はウンウン嬉しそうに頷きながら部屋を出ていった。
 扉が静かに閉まると、改まった表情したのぞみがハヤテと母親の前にスッと歩み寄り、
「遅ればせながら主に成り代わり、ヒカリ様をお救頂き、本当にありがとうございました」
 深々頭を下げた。
 しかし母親が何か言うより先に、ハヤテがニッと歯を見せ笑い、
「ボクはヒカリのナイトなんだ! ナイトが姫を守るのは当たり前だよ!」
 何の迷いも躊躇もなく言ってのけるハヤテに、母親は一瞬驚いた顔を見せたが、
「だ、そうよ」
 困った様に笑って見せた。
「ありがとうございますハヤテ様。ヒカリ様は幸せ者でございますね」
「うん!」
 満面の笑みを返すヒカリ。
 
 その日の夜―――
 菓子折り持ってヒカリの父親がハヤテの家を訪ねて来た。
「今日は本当に助かった。感謝の言葉もない。本当に、ありがとう」
 リビングのテーブルを挟み、ハヤテ達家族三人に頭を下げるヒカリの父親。
「ヒカリちゃんは、もう大丈夫なのか?」
「あぁ。一過性の物で、暫く安静にしていれば大丈夫だそうだ」
 ヒカリの父親の笑顔に、ホッと胸をなで下ろすハヤテ達。
 するとヒカリの父親は自身の頭を指差し、
「ハヤテ君の方こそ……大丈夫なのかい?」
「名誉の負傷だよな」
 ニヤリと笑う父親に、照れ臭そうに赤くなるハヤテ。
「そう言えばヒカリから聞いたんだが……ハヤテ君、病院の場所を聞けなかったそうじゃないか。どうしてだい?」
「うん、ボク焦って、うっかりしてたんだ。花や木や草、みんなは動けないから、他の場所の事を知らないんだ」
「あっ、なるほど……」
 理にかなった答えに、ヒカリの父親がうなずいていると、
「でもヒカリちゃんの発作、一過性とは言え原因は何でしたの?」
「一番の原因は……精神的ストレスだろうとの事でした」
 過剰な運動と精神的な興奮も要因の一つとして主治医から挙げられてはいたが、それは一番の原因である「精神的ストレス」から誘発された物である事は明らかであった為、遊んでくれたハヤテを気遣い、ヒカリの父親はその部分をあえて伏せた。
「精神的ストレス? 何かあったのか?」
「ハハハハハ……どうもヒカリに、オヤジとの電話のやり取りを聞かれたらしくてな……」
「ん? オヤジと? どんな話だ?」
 ハヤテの父親にツッコまれ、チラリとハヤテを見るヒカリの父親は少し言いにくそうに、
「会長……じい様が過労で倒れたらしくてな、帰って来いとオヤジ達に言われた」
「「「えぇーッ!?」」」
 当然の事ながらハヤテが一番驚き、悲し気で不安気な、複雑な表情を見せると、いくらハヤテをライバル視しているとは言え、ヒカリの父親は子供を持つ一人の親として、幼い子供にそんな顔をさせてしまった事に焦り、
「断った! 断ったんだ!」
 慌てて話を補足すると、逆にハヤテの父親が不安気に、
「そんな事して大丈夫なのか?」
「聞けば疲れが溜まっていただけだと言うし、俺もこっちの会社で、やっと部下達の信頼を得られ始めた所だ。それ位の事で部下達を放り出すなんて、俺には出来ない」
「だとさぁ。良かったなぁ~~~ハ、ヤ、テ」
 思い切り安堵した顔を父親に見られたハヤテは、真っ赤な顔で寝室に逃げ走って行った。
 大人三人、そんなハヤテの背中を微笑ましく見送ると、ハヤテの父親が改まった口調で、
「「今は」……なんだよな……?」
「……確かに。じい様も何だかんだで、いい歳だ。職を退きオヤジが会長に就任すれば、遅かれ早かれ俺も本社に戻り社長職に就かないといけなくなる……」
「そうなるとハヤテとヒカリちゃんは……」
「離れ離れに、なっちゃうわねぇ……」
 しばし重苦しい沈黙の後、
「とは言っても、まだまだ先の話しだし、何よりヒカリが泣く姿を見たくないからな」
「そんな事言って下手したら、先にお前がヒカリちゃんの花嫁姿に涙するかもなぁ」
「だァーーーッ! それを言うなぁ~~~!」
 遠からず来るであろう未来を想い、頭を抱えるヒカリの父親と、そんなヒカリの父親の姿に、微笑ましく笑い合うハヤテの両親。

 それから数日後―――
 何事も無くヒカリは無事退院し、数週間が経過したある日。
「たっだいまぁーーー!」
 ハヤテが幼稚園から帰宅すると、出迎えも無ければ部屋から誰の声も返らなかった。
「ねぇ~みんな! お母さんは? ヒカリとのぞみさん、まだ来てないの?」
 ハヤテは家の物たちに声をかけてみたが、誰も教えてくれないようで、
「え? ナイショって……え? 早く部屋に行け??」
 訳も分からず物達に促されるまま、ハヤテはリビングの扉を開いた。
 と、突然、
 パンッ! パパパパンッ!
 クラッカーが鳴り響くと、カーテンまで閉めて真っ暗にしたリビングに灯りが点けられ、
「「「「「「「ハヤテ君お誕生日おめでとうーーー!」」」」」」」
 明るくなったリビングには、ハヤテとヒカリ両家いつものメンバーが勢揃いし、その中には「今日も一日仕事で不在」と聞いていた父親の姿まであり、色とりどりの飾り付けが施された部屋の壁には「お誕生日おめでとう!」と書かれた横断幕まで下がっていた。
「え? 何? なんで? それに、なんでお父さんが!?」
 驚きのあまり疑問しか浮かばないハヤテを見て、ハヤテの父親とヒカリはしてやったり。
「「さくせんせいこうーーー!」」
 ハイタッチした。
 しかし、次第に状況が飲み込め始めたハヤテは徐々に顔色を曇らせうつむくと、突如、
「やらなくて良いんだよ! 僕の誕生日なんかぁーーーッ!」
 声を荒げ叫んた。
 初めて見るハヤテの怒りの感情に、ヒカリはビクリと身を震わせ、今にも泣きそうな顔をした。
 何とも気まずい静けさが漂うなか、ハヤテの父親は、うつむき、唇をギュッと噛み締めるハヤテの前に屈み、
「お前、昔から自分の誕生日嫌いだったよな……どうしてだ?」
 穏やかな口調で尋ねるも、
「…………」
 何も言わず、うつむいたままのハヤテに、
「人間はそんなに便利な生き物じゃない。言葉にしないと、何も伝わらないんだぞ」
 たしなめる口調ではなく、重ねて来た人生の中で学んだ事を伝えるかの様に話すと、
「……だって……」
 ハヤテは重々しく口を開き始め、
「ん? 「だって」……どうした?」
「……お母さんに……悪くて……」
「えっ? 私に!?」
 驚く母親を気遣う様に、ハヤテはポツリ、またポツリと語り始めた。
「ボクが普通の子と違う……分かってる……でも、そのせいでお母さん……団地に友達……出来ない……し、悪口も言われて……」
「…………」
「……そんなボクの誕生日なんて」
 うつむくハヤテは突如母親に抱き付かれ、
「お母さん?」
「……馬鹿ハヤテ……」
「なんで……泣いてるの……」
「泣かせたのは誰ぇ!」
 涙声で叫ぶ母親にギュッと強く抱きしめられ、自分の間違いを肌で感じ取ったハヤテは、
「お母さん……ごめんなさい……」
「お母さんこそゴメン。気付いてあげられなくて……」
 ハヤテの母親は自分の額を、コツンとハヤテの額に当てると、
「さぁハヤテ、お母さんと一緒に、お祝いを用意してくれたみんなに謝ろう?」
 ハヤテは無言で頷き、母親と二人、不安気に見つめるヒカリ達の方を向くと、
「「ごめんなさい!」」
 するとヒカリが、
「許さない!」
 不服そうに、プイッと横を向いた。
「ご、ごめんてば、ヒカリッ! ど、どうしたら許してくれる?」
 困惑した表情でハヤテが尋ねると、
「んんっ!」
 ヒカリは右頬をハヤテに突き出した。
「ん? なに??」
 首を傾げるハヤテに、
「おわびは、チュウで」
「えぇーーーっ!?」
 ハヤテが思わず後退りすると、母親がハヤテの背中をガシリと抑え、
「女の子にここまでさせといて、男の子が逃げちゃダメよ~」
「で、で、で、でも! ひ、ヒカリのお父さんが怒るんじゃないかなぁ~」
 ハヤテが助けを求めるが如く、チラリとヒカリの父親に視線を送るも、
「ほっ、ほっぺにチュウ位で、お、大人が、怒ったりする訳、な、ないではないかぁ~」
 娘の願いを叶えるべく断腸の思いをひた隠し、努めて平静を装うヒカリの父親であったが、左右に泳ぐその目を見れば、自我を抑え付け我慢しているのは明らかであった。
「ヒカリちゃんのお父さんの、お許しも出たぞ~」
 ハヤテの父親が「漢(おとこ)を見せろ」と言わんばかりに笑ってせ、舞台は整った。
 もはや逃げ場のない事を悟ったハヤテは覚悟を決めると、大人達が熱視線を向ける中、緊張した面持ちで少し、また少し、ヒカリの頬に顔を近づけて行った。
 思わず固唾を呑む一同。
 そしてまた更に、ハヤテの顔がヒカリに近づいた次の瞬間、
「「「「「「「えぇーーーーーーッ!?」」」」」」」
 大人達の目が驚きのあまり釘付けとなった。
 全ては一瞬の出来事であった。ヒカリが突如横を向きハヤテの顔を両手で抑え、唇に直接キスをしたのである。
「のおぉ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!」
 言葉にならない叫びを上げ卒倒するヒカリの父親。
「「「「「ヒィヤァ~~~ッ!」」」」」
 羨ましそうな悲鳴を上げ、身をよじらせる女性陣四人と、ハヤテの父親。
 そんな大人達を尻目に、
「ハーくん、大好き!」
 抱き付き頬擦りするヒカリと、真っ赤な顔で気絶しているハヤテ。

 ハヤテの衝撃の誕生会が終わって数日経った頃―――
 町には雪がちらつき始め、寒さは一層厳しさを増したが、代わりに町は暖かな色とりどりの色のイルミネーションに彩られ、幻想的な空気に包まれていた。
 クリスマスシーズン到来である。
 町のあちらこちらからクリスマスソングが流れ、行き交う人々の表情もどことなく楽し気で、どの店も煌びやかなクリスマスオーナメントで飾り付けられ、店員までもが赤と白のサンタの衣装を身に纏い、町全体が「おとぎの国」の様な様相を呈していた。
 そんな町なかをハヤテの父親が運転する車が駆け抜け、その車内の後部座席では、二人並んだハヤテとヒカリが、現れては後方へ流れ消えて行く光景に目を輝かせていた。
「いい気なもんだなぁ」
 ハヤテの父親がバックミラー越し、後部座席の二人の様子に苦笑いし、
「本当、さっきまであんなに険悪だったのに」
 助手席に座るハヤテの母親も、同意する様に笑うと、
「すみません。折角お休みでしたのに……」
 後部座席でハヤテ達の隣に座るのぞみが頭を下げた。
「アハハハハ。それは言いっこなし、さっきも言ったろ? ちょうどツリーを買おうと思ってたところだったし、それにあの場の空気……とてもじゃないけど気が休まらない」
 ハヤテの父親が辟易した顔をすると、
「そうね」
「確かに、そうかも知れませんね」
 ハヤテの母親とのぞみは笑い合った。

 話は数時間前にさかのぼる―――
「お~い、帰ったぞぉ~~~」
 数日振りに帰宅したハヤテの父親がリビングに入ると、室内は不穏な空気に包まれていた。
 珍しく離れ離れで座り、互いに背を向け仏頂面するハヤテとヒカリ。
 ハヤテの父親は、キッチンから「どうしたものか」と困り顔で二人を見つめる妻に、
「どうした?」
「あら、お帰りなさい。それが、ヒカリちゃんが写真の撮り方教わっていたんだけど……」
「ハーくん、なに言ってるか分かんない!」
「教えてって言うから教えたのに、なんだよそれ!」
「「フンッ!」」
 二人はプイッと、再びそっぽを向いた。
「ハハハハ……こりゃ重症だ」
「すみません」
 頭を掻くハヤテの父親に、平身低頭、ただただ頭を下げるのぞみ。
「まぁまぁ、のぞみさん。ケンカ出来るほどの仲になったとも言えるし、それにハヤテが人に撮り方を教えるのは、ちょっと……」
 ハヤテは物の声を聞き、要求された出来栄えになる様に撮影をしてはいたが、その写真は感覚で撮影した物であり、基本的な撮影技術などは教わっていないのである。「教わらなくても出来てしまう」そう言う表現が的確かも知れない。
 そんなハヤテに、初心者に対するまともな撮影技術のレクチャーなど出来る筈もなく、ハヤテの父親はフッと小さく笑うと本棚から一冊取り出しソファーに座った。
「ハヤテ! ヒカリちゃん! 教えてあげるからおいで」
 するとヒカリは仏頂面から一転、パッと笑顔を弾けさせ、
「はぁ~い!」
 ハヤテの父親の左隣に座った。しかしハヤテは仏頂面を崩さず、
「ボクはいい! 教わらなくても撮れるもん!」
 背を向けたまま、ふてくされて答え、そんなハヤテに父親は誘う様に、
「良いのかなぁ~基本を覚えれば、お前の写真はもっと良くなるのになぁ~。ポストや花たちが喜ぶのになぁ~残念だなぁ~」
「うっ……」
 「もっと良い写真が撮れる」そんな風に言われてハヤテが我慢できる筈もなく、
「ぜ、絶対だね!」
 不服そうではあったが、ハヤテは父親の右隣にドカリと座った。
 父親を中心に、右と左にハヤテとヒカリ。珍しい光景である。
「まずは構図だな」
 本を開くハヤテの父親が手にしていたのは、写真撮影技術の入門書であった。
「「こうず?」」
 二人が首を傾げると、
「撮りたい物を、写真のどこに置くかって話さ。よく使うのは「三分割法」だな」
「さ、さんぶんかつほう?」
 聞きなれない言葉に、ハヤテが険しい顔をして本の内容を食い入るように見つめると、
「そんなに難しい話じゃないさ。そうだなぁ~、撮りたい場面に出会ったら、頭の中で〇×ゲームする時みたいに、♯の線を想像して引くんだ」
 ハヤテの父親は黒マジックを手に、チラシの裏に♯の線を引き、
「で、縦と横の交わるこの点の所に、撮りたい人や物が来る様に撮影するんだ」
「ハーくんのパパさん、そうすると何が良いの?」
「写真に意味が出てくるのさ!」
「「いみ?」」
 ニコリと笑うハヤテの父親の顔を、不思議そうに見上げるハヤテとヒカリ。
 するとハヤテの父親はもう一枚のチラシの中央を、カッターで写真のL版サイズ位に切り抜くと、一人の女性が横を向く写真の上に、ちょうど顔が真ん中に来る位置に被せ、
「何をしてる人に見える?」
「ただ立ってるだけにしか見えないけど……」
 ハヤテが首を傾げると、
「じゃあ……こうしたらどうだ?」
 額縁状になったチラシを少しずつ動かし、女性の頭の位置が三分割法で書いた、右上の交点辺りに来ると、
「「あっ!」」
 何かに気付いた様子見せる二人に、
「ニヒヒヒヒヒヒ」
 父親が嬉しそうに笑うと、
「誰かを見てるみたい!」
「ボクには誰かを待ってる様に見えるよ!」
 ヒカリとハヤテが興味深げに、目を輝かせた。
「じゃあ、これは?」
 今度は右下の交点位置に、頭が来る様に紙をずらすと、
「空から何か降って来るのかな!?」
「空に向かって、祈りを捧げているのよ!」
 ハヤテとヒカリは、一枚の絵から想像を膨らませて行った。
「どうだ、二人とも。これが「意味を持たせる」って事さぁ」
「へぇ~~~」
「おもしろいねぇ」
 写真の奥深さの片鱗に、二人で興味深げに写真を眺めていると、
「ヒカリ! これ、何に見える?」
 ハヤテが、「左上の交点」に女性の頭が来る様に紙を動かした。
「なんか、逃げてるみたい! じゃあハーくん、これは?」
 今度はヒカリが、女性の頭が「左下の交点」に来るように額縁チラシを動かし、
「んん? なんだコレ? しゃがんでる? 後ろから何か飛んで来るのか?」
「答えはねぇ……んとねぇ……アレ?」
「何だよヒカリ、考えてなかったのかよ~」
「ヒヒヒヒヒ」
 呆れ顔で笑うハヤテに、ヒカリはイタズラっぽく笑って見せ、先程までのケンカは何処へやら。屈託なく笑い合う二人に、ハヤテの父親は安堵し小さく笑うと、
「そうやって写真を取れば、見た人が「何だろう?」って思うだろ? 撮る人は「僕は、私は、こう思っているんだ!」って思いながら写真を撮る。それが表現するって事さ」
「ひょうげん……する!」
 新たな言葉との出会いに、ハヤテとヒカリは両目を見開き感情を高揚させると、
「パパさんの説明、とっても分かり易い!」
 ヒカリが嬉しそうに抱き付いた。
「えぇ? そうか? ナハハハハハハ。娘が出来るって、こんな気分なのかなぁ~」
 キッチンの妻に照れ笑いを向けると、
「ちょっと!」
 すかさず妻のツッコミが入り、緩んだ表情の夫が、
「ん? どうしたぁ~?」
 間の抜けた声で振り向くと、困り顔した妻が小さく何かを指差した。
「んん?」
 夫が指差す先をたどると、そこにはムスッと先程以上の不機嫌な顔をしたハヤテの姿が。
「あっ、ヤベッ!」
 気まずい状況を作ってしまった事に気付いたハヤテの父親であったが、笑顔で抱き付くヒカリを無理にほどく訳にもいかず、「どうしたものか」と苦笑いしていると、ハッと何かを思いつき、
「そうだ! 部屋にツリーがないから、みんなでクリスマスツリーを買いに行こう!」
 すると状況を察したのぞみが申し訳なさげに、
「仕事を終えられ、折角お休みでしたのに……よろしいのですか?」
「ハハハハ、どの道こんな空気のままじゃ、気が休まらないし」
 ハヤテの父親が、未だ不機嫌な顔してそっぽを向くハヤテを指差すと、ハヤテは「クリスマスツリーを買いに行こう」などと急に言い出す、父親のあからさまなご機嫌取りに、
「ボクは行かない!」
 更にヘソを曲げたが、
「良いのかなぁ~町はイルミネーションでキラッキラしてるんだけどなぁ~。すんごく綺麗なんだけどなぁ~。写真に撮ったら、ものスッゴイ写真になるんだけどなぁ~」
 ハヤテの父親が誘う様に耳打ちし、
「そ、そんな事言ったって……い、行かないんだもん!」
 一見拒否姿勢を見せるハヤテに「あと一歩」と見るや、ヒカリに聞こえない位の小声で、
「ヒカリちゃんいない時に、他の技をコッソリ教えてやるから」
「絶対!?」
 パッと振り向くハヤテに、父親はこっそり「ナイショ」ジェスチャーしてうなずいた。

 そして現在―――
「着いたぞぉ~」
 ハヤテの父親は、左折しデパートを指差した。
「えっ? あのデパートって!」
 運転席と助手席の間から、ハヤテが嬉しそうに身を乗り出すと、
「ハーくん、どうかしたの?」
「ヒヒヒヒヒ。ヒカリィ~ビックリするなよ~」
 意地悪な顔をヒカリに向けハヤテが笑っていると、ハヤテの父親はデパートの手前、車一台分しか通れない程の狭く薄暗い路地に入り、車一台分ギリギリ幅であろうか、デパート側面に設けられた古めかしく赤錆びの目立つ「青い鉄扉」の前に車を停車させた。
「「え?」」
 のぞみとヒカリが首を傾げると、扉が上下に開き、暗い室内へ車ごと入り再び停車。
「「えぇっ!?」」
 車用の小部屋のような暗く狭い空間に、流石ののぞみも、ヒカリと共に驚きの声を上げ周囲を見回していると、
 ゴウンッ!
 突如車が揺れ、暗闇の中に赤々と点灯する小部屋の警告ライトと相まって、
「は、ハーくん……」
 ヒカリは得も言われぬ恐怖感に苛まれ、ハヤテにしがみついた。
 しかしハヤテは、
「秘密基地みたいで、すごいだろ!」
 男の子らしい興奮を見せると、
 ゴウンッ!
 再び車が揺れスウッと正面扉が開くと、明るい日差しが一気に車中へ差し込んで来た。
 車を静かに前進させ暗闇から抜け出すと、そこはデパートの屋上駐車場であった。
「車用エレベーター……初めて乗りました……」
 驚きを口にするのぞみと、驚きのあまり口をポカンと開いたまま固まるヒカリ。
 そんな二人を尻目に、ハヤテは停車するなりドアを跳ね開け車から飛び降り、
「ヒカリ!」
 未だ状況が呑み込めないヒカリに笑顔で右手を差し出し、
「う、うん……」
 ヒカリは戸惑いつつも差し出された手を取り、車外へ降り立った。
「行こう、ヒカリッ! みんなも早く早く!」
 ヒカリの手を引き駆け出すハヤテに、
「転ぶわよ~」
「まったく、さっきまではあんなに不機嫌だったくせに、現金なヤツだなぁ~」
 呆れた様に小さく笑い合う大人三人は、デパート入り口で「今か、遅し」と待ちわびるハヤテ、ヒカリと合流すると屋内へと入った。
 屋上駐車場階下の一区画は期間限定特別催事場となっていて、今はクリスマス関連商品が所狭しと並べられ、煌びやかな各種オーナメントや、温かくも色鮮やかな光を放つイルミネーションが否応なしにクリスマスムードを盛り上げていた。
 予想以上の豊富な品揃えにハヤテの父親は感心し、
「へぇ~凄いなぁ」
 並べられたオーナメントを眺めていると、
「こ、コレはッ! ひ、ヒカリ様ァ! これなどどうですかァ!」
 クリスマス独特の浮かれた空気にあてられたのか、珍しく異様にテンションの高いのぞみがミニスカサンタの衣装を手に、興奮した表情でヒカリを凝視。
「えぇ? あ、う、うん……」
 少し引き気味のヒカリに気付いたのぞみは意気消沈。
「そ、そうですよね……すみませんヒカリ様……」
 寂し気にうつむくと、ヒカリはのぞみを気遣い微笑みかけ、
「う、ううん。ありがとうのぞみさん、ヒカリの事を考えてくれて」
「そうですか! では!」
 ミニスカサンタコスを再び突き出すと、
「え? うん……でもそれはいらないから……」
「そうですか……」
 残念そうにハンガーに戻した。しかしこの時、ヒカリに見られない様にはしていたが、実はハヤテもまた、残念そうな顔をしたのであった。
 ハヤテ達は笑い合い、意見を出し合い、傍から見ればまるで一つの家族の様に、モミの木を選び、イルミネーションを選び、オーナメントやら小物を選び、一通りの買い物を終わらせ母親がレジにて会計をしていると、父親がハヤテとヒカリの肩に手を添え、
「さて二人とも、おもちゃ売り場にでも行くか?」
 笑って見せるも、ハヤテは激しく首を横に振り父親にしがみついた。
 元々子供の玩具にあまり興味を示さないハヤテではあったが、この時期おもちゃ売り場に行けば、どれ程の混雑に巻き込まれるか分かっていたハヤテは激しく拒否の姿勢を現し、
「いぃ……ボクは……いらない……」
 顔をうずめるハヤテに父親は、
「相変わらずだな」
 困った様に小さく笑いヒカリに視線を送ると、ヒカリものぞみのスカート裾を掴み、眉間にしわを寄せ「断固拒否」の顔。
「ヒカリちゃんもかぁ?」
「……人がいっぱいいるところ……イヤッ!」
 子供二人の頑なな姿勢に、大人三人顔を見合わせ、
「「「類は友を呼ぶ……」」」
 思わずハモリ、笑ってしまった。
「じゃあどこ行きたい? ちょっと早いが、下の階で食事でもするか?」
 父親が「仕方がない」と言わんばかりに、ハヤテの頭をガシガシ手荒く撫でると、
「「SL」の店に行きたい!」
 パッと笑顔で父親の顔を見上げ、ヒカリとのぞみが聞いた事のない店の名に、
「「えすえるの店?」」
 首を傾げると、困り顔を見せるハヤテの父親は、
「う、うぅ~~~ん、今日は買い物、結構したしなぁ……」
 伺う様にチラッと妻を見ると、
「まぁ、たまには良いんじゃないですか?」
「よっしゃあ! 財務省からOKも貰えたし、大手を振って行きますか!」
「ヤッターッ!」
 ハヤテが諸手を上げて喜ぶと、
「来月のあなたのお小遣い、少~し協力させてもらいますけどねぇ」
 妻は夫にウインク。
「え? マジ?」
「マジ!」
 ガクッとうなだれ受け落ち込むも、瞬時に気持ちを切り替え顔を上げると、
「今日はパァーッと、行くぞォーーー!」
 拳を空に突き上げ、
「お前達ィ! 俺様の後に、ついて来ぉーーーい!」
 やけっぱちの「から元気」にしか見えない父親は、先陣切ってズンズン歩き始めた。
「おぉーーー!」
 笑顔で同様に拳を上げ、後に続くハヤテに手を引かれるヒカリは、
「ね、ねぇハーくん! どこ行くの?」
「面白い所だよ!」
 一行はエレベーターで一階まで降り、少し暗くなり始めた外へ出て、横断歩道を渡った。
 コンビニの前を曲がり、年末の買い物客で未だ賑わう駅前大通りに出ると、地元で有名な羊羹を販売する和菓子屋の前を通り過ぎ、全国チェーン店とは違う地元に根付いたデパートの前を通り、地元民なら知らない者はいない、CDや楽器まで販売する本屋の前を通り過ぎ、片道二車線ある駅前大通りの交差点を海側に向かい渡った。
「おにぎり!」
「スイカ!」 
 突如歓声を上げるハヤテとヒカリ。
 一行の眼前に、空に突き刺さる様な三角形をした「観光物産館」が姿を現したのである。
「おぉ~~~!」
 カメラを構え撮影しようとしたハヤテであったが、
「置いてくぞぉ~~~!」
 父親の呼ぶ声に、
「むぅ~~~う!」
 葛藤するも撮影欲より食欲が勝り、
「ハーくん、行こう」
 ヒカリに促された事もあり、両親の下へと走った。
 辿り着いた所は、観光物産館と駅前大通りのちょうど中間に位置する飲食店であった。
「ここは……」
 のぞみは、その「町の飲食店」と謳うには、あまりにも立派な、ちょっとすると老舗料亭の様な店の佇まいに気圧され、
「み、店の幅が広いですわ! い、入り口が二つも! し、しかも何階建てですの!」
思わず後退りした。
 ヒカリの実家は「(大)おお」が付く程のお金持ちではあるが、のぞみ達メイド隊はあくまでA市におけるヒカリ達の生活を支援する為に雇われた身であり、高級な店になど出入りした事は無かったのである。
「あ、あの……わたくしがこんな事を言うのも何なのですが……よろしいのでしょうか?」
 のぞみがハヤテの両親の顔色を伺うも、ハヤテは気に留める風もなくヒカリの手を引き、
「ヒカリ! 面白い物を見せてあげる!」
 店内へ入って行ってしまった。
「あぁッ!?」
 引き止めようと思わず手を伸ばすのぞみであったが、ハヤテの父親はニッと笑い、
「大丈夫。そこまで高くないさ。まあ俺達一般庶民にとって、たまの贅沢って位かなぁ」
 暖簾をくぐり、
「行きましょ」
 ハヤテの母親も微笑み、のぞみを店内へと促した。
「は、はぁ……」
 不安気に頷くのぞみが恐る恐る暖簾をくぐると、室内は外見で感じた以上に広く奥行きがあり、店内はその広さに見合う客席数に関わらず、すでに満席に近い状態であった。
「チビ達は上にいるだろうし、二階に行こうか」
「そうね」
 ハヤテの両親が店内を左右に分断するかの様に設けられたカレーターに乗ると、のぞみも、まるで戦前の大都会に出て来たばかりの地方出身者の様に、挙動不審にあちこち見回し後に続いた。
 二階席は通路に面して高さ五十センチほどの畳敷きの小上がりになっていて、大人四人がテーブルを楽に囲める空間ごと障子の貼られた格子状和風つい立で仕切られ、要所要所に置かれ水槽内では、店内の喧騒など歯牙にもかけない金魚たちが優雅に泳ぎ、壁や柱などいたる所、風景写真のパネルが飾られていた。
 そんな二階席通路の一角に、柱に飾られた写真を見上げるハヤテとヒカリの姿があった。
「魔法みたいだろ?」
「うん。ほんと……」
 見慣れている筈のハヤテも、驚き目を丸くするヒカリと共に写真を見上げていると、
「どうされたのですか?」
 のぞみが不思議そうに歩み寄ると、二人は写真パネルを指差した。
「蒸気機関車……でございますか? あぁ~なるほど、ハヤテ様が言っていたのは……」
 言いかけたのぞみは写真の異変に気付き、言葉を呑んだ。
「動いて……る?」
「「すごいでしょ!」」
 ハヤテとヒカリは笑顔を弾けさせた。
 パネルは蒸気機関車を真正面から撮った写真で、流石に車両全体が動いている訳ではないが、煙突から出る煙が、動輪周辺から出る蒸気が、まるで噴き出し続けているかの様に動いて見えていたのである。
 しかもこのパネル、蒸気機関車独特の動輪の音やスチームの噴き出す音、汽笛まで鳴らし、目と耳から「動いているのでは」と錯覚させる写真であった。
 良く出来た写真パネルを前に、のぞみが感慨深げに見つめていると、いつの間にハヤテの父親が隣に立ち、
「子供騙しかも知れないけど、こう言うの面白いですよね。ハヤテは、この写真が大好きなんです。普通の写真じゃ実現不可能だけど、アイツの写真の理想形は、コレなのかもな」
 嬉しそうに写真を見つめた。
 するといつの間にか窓側の席を確保したハヤテの母親が、
「さあみんな、ご飯にしましょ」
 四人を手招き、駆け寄るハヤテに、
「ヒカリちゃんに、中庭を見せてあげたの?」
「あっ!? そうか!」
 声を上げると、
「ヒカリッ! 来て来てぇ!」
 靴を脱ぎヒカリと座敷に上がると、ハヤテは陽が落ち暗くなった中庭を指差した。
「なに?」
 真っ暗な中庭を見下ろすヒカリであったが、数秒のち、
「…………」
 目の前の光景に驚き、言葉を失った。
 眼下、純和風の中庭に、水中からカラフルな色でライトアップされた大きな池があり、そこに棲む大きな鯉達が、色とりどりの光の中を泳いでいる様に見えたのである。
「きれい……」
 うっとり眺めるヒカリの横顔を、自慢気な顔して見つめるハヤテ。
 窓側にヒカリとハヤテ、通路側にのぞみが座り、向かい合ってハヤテの両親が座り、
「ここは、和食なら大概の物はあるよ」
 ハヤテの父親はヒカリの体の事を想い、まずお品書きをのぞみに差し出した。
「ありがとうございます。こちらのお店、お寿司もあるんですね」
「あ! そう言えば、ハヤテは食べた事無いけど、子供用の寿司セットが確かあったわよ」
 ハヤテの母親がメニューの一部を指差した。
「そうですね。ヒカリ様も、よろしいですか?」
 幻想的な池の光景に目を奪われたままのヒカリは、ハヤテと共に背を向けたまま、
「……うん……」
 のぞみにカラ返事を返すと、そんなヒカリの後ろ姿にのぞみは小さく笑い、
「わたくしも、お寿司にいたします」
 のぞみはお品書きを、ハヤテの両親の前に向きを変え差し出した。
 受け取ったハヤテの父親は、
「ハヤテぇ~お前、今日は「ナニ丼」にするんだぁ~?」
 お品書きに目を通しながら聞くと、
「ボクもお寿司」
「「ええぇーっ!?」」
「な、なんだよ……」
 両親の露骨な驚きのリアクションに、ハヤテが恥ずかしそうに振り返ると、
「そんなに驚かれて……どうかされたのですか?」
 のぞみが不思議そうな顔をすると、ハヤテの父親はニヤリと笑い、
「コイツ、どんなお高い店に連れて行っても、必ず丼ものしか頼まないんだ」
「い、良いだろ、別に! そう言う気分なんだよ!」
 プイッと、そっぽを向くと、
「ニィッヒヒヒヒヒヒ。ヒカリちゃんの前だからって格好つけやがってぇ~」
 父親は赤面したままそっぽを向く、ハヤテの頬をからかう様に突っついた。
 一行は他愛ない話をしながら食事を終え、一息つたところで、
「さぁて、デパ地下に寄って買い物して、帰るとしますかぁ」
 ハヤテの父親は立ち上がりかけると、不服そうなハヤテの視線に気付き、
「おぉっと、その前に、アレだったなぁ」
 誤魔化す様に笑って見せた。
 会計を済ませた一行が、階下出口へ向かう階段を降りながら、階段に沿う様に並べられた金魚が優雅に泳ぐ水槽を眺めていると、ヒカリが踊り場の棚に置かれた何かを見つけ、
「これ何?」
 黄金色の何かがパンパンに詰まった、破裂寸前のビニール袋を指差した。
「ヒカリ様、これは「天かす」です」
「てんかす?」
「天ぷらとか、揚げた物を作った時に出るのよ」
 ハヤテの母親が微笑むと、
「おば様、これは何に使うの?」
「そうねぇ~「うどん」とか「お蕎麦」にまぶしたり……タコ焼きにも入れるわね」
「そうなんだ~」
 手にした袋を興味深げに眺めていると、
「買って帰りましょうか?」
 穏やかな表情を見せるのぞみに、ヒカリは静かに首を横に振り、
「ありがとう、のぞみさん。でも大丈夫!」
 微笑み返すとヒカリは静かに袋を棚に戻し、階段を駆け降りて行った。
 ハヤテはヒカリの背中を見つめ、
「……お父さん……」
「ん? どうした?」
「ヒカリは……天ぷらとかもダメなの……?」
「ダメって事はないが……」
「はい。ヒカリ様の病は、やはり日頃の予防こそが第一で、糖類、脂質の摂取も必要ではありますが、若いうちは特に過剰摂取になりがちですので……」
「そうよねぇ……」
 大人三人表情を曇らせると、
「ヒカリはすごく良い子だよ。そのヒカリが、何でそんな苦労をしないといけないの?」
「「「…………」」」
 無垢なるハヤテの心に、返す言葉が見つからない大人三人。
 するとハヤテは、急に右手で自身の胸元を鷲掴みにし、
「お父さん……胸が痛くないのに痛い……苦しくないのに、なんでこんなに苦しいの……」
 遠ざかるヒカリの背中を見つめ、今にも泣きそうな顔で唇をギュッとかみしめると、
「お前も十分良い子だよ……」
 父親は、息子の頭を誇らし気に撫でまわした。

 先に外へ出たヒカリの後を追いハヤテ達も外へ出ると、さほど遅い時間ではなかったが、外は陽が落ち、すっかり暗くなっていた。 東北の冬は、陽が暮れるのも早いのである。
 そんな重く暗い冬の東北の夜闇の中、一人佇むヒカリが海側を見て目を輝かせていた。
「ヒカリ?」
 視線の先を辿ったハヤテは、ヒカリと共に目を奪われ、言葉を失った。
 そこには、食事前に見た時は色気のない単なるグレーの三角形であった観光物産館が、今は赤や緑に黄色、カラフルなイルミネーションをその身に纏い、まるで巨大なクリスマスツリーの様な姿で輝いていたのである。
 建物の背後には漆黒の闇と化した広大な陸奥湾しかなく、物産館は黒のキャンバスの上に幻想的な輝きを放ち、そびえ立っていた。
「ヒカリ、きれいだね……」
「うん」
 しばしその輝きに見入るハヤテとヒカリ、そして両親達。
 するとハヤテが急に、
「え? 何かあるの?」
 誰かと話す様な、大きな独り言を言い始め、
「ハーくん、どうしたの?」
「三角さんが「面白い物があるから近くに来てごらん」て、言ってる」
「行ってみよ! ハーくん!」
「ウン!」
 輝く物産館を目指し、幼い二人が走り出そうとすると、
「チョイ待ちィーーーッ!」
 二人はハヤテの父親に、襟首むんずと掴まれた。
「な、なんだよ!」
 早く行きたい気持ちを堪えきれず、地団駄踏むハヤテが父親を見上げると、
「毎度毎度お前達は! こんな暗い中、車が来たらどうするんだ? 危ないだろ!」
「「あっ……」」
 至極まっとうな指摘をされ、返す言葉もないハヤテとヒカリ。
「それにハヤテ、お前はナイト様だろ? 姫を危険にさらしてどうする」
「「ごめんなさい」」
 シュンとし、二人が反省を見せると、
「分かればよろしい。後からゆっくり行くから、先に行ってな」
 ハヤテの父親が笑顔を見せると、
「「うん!」」
 二人は元気に返事を返し、手をつなぐと走り去って行った。
「言ってるソバからぁーーーッ!」
 ハヤテの父親が叫ぶも、もはや二人の耳には届かない。
「まったく」
「夢中になると他が目に入らなくなるところ、誰かさん譲りね」
 ハヤテの母親がイタズラっぽく夫を見ると、
「そう~かぁ~?」
 納得いかない素振りを見せると、妻とのぞみは顔を見合わせクスクス笑い合い、
「のぞみさん、私達も行きましょう」
「そうですねぇ」
 女性陣二人、夫を置き去りにするかの様に歩き出し、
「おぉ? ちょ、なんだよそれぇ」
 不服そうな顔したハヤテの父親が、慌てて後に続いた。
 ハヤテの両親とのぞみが物産館の前を横切る、ビルの三、四階ほどの高さの橋梁の下に差し掛かると、
「お父さん、お母さん! のぞみさぁーーーん! 早く早く! 凄いよぉーーーっ!」
 暗い橋梁の下を抜けた先、正面ゲートの前でハヤテがしきりに手を振っていた。
 はしゃぐハヤテの姿に父親たち大人三人は、
「何をそんなに……」
 思わず苦笑いし合ったが、暗い橋梁の下を抜け、開けた視界の先を見るなり目を奪われ、
「「「…………」」」
 言葉を呑んだ。
 通常物産館の西側は一般車を五十台ほど、観光バスを十台ほど駐車する事が出来る広い駐車場である。しかしこの日、この空間はいつ もの無機質な駐車場ではなく、青白い光を放つ木々を有する、幻想的な森へと姿を変えていたのである。
「これは凄いな……」
「ほんとう……」
 ハヤテの両親は感動が感動のあまり言葉にならず、青い光に包まれる森の中、淡い光を放つ木々をただ見上げていた。
「のぞみさん! 見て見てぇ!」
 青く光り輝く森の中が、まるで舞台であるかの様にヒカリは優雅に踊って見せ、
「ヒカリ様、お上手ですよ」
「のぞみさん、ありがとう」
 微笑むのぞみに笑顔を返した。
 青白い光りに照らされ、流れる様に踊るヒカリの姿は、さながら妖精の様であった。
「上手ねぇ~バレエでも教わっているの?」
 感心した様子のハヤテの母親に、
「運動代わりになればと、私が少々。でもヒカリ様、好きこそ物のと言いましょうか」
「大したんもんだ。良かったな、ハヤテ!」
 しかしハヤテは、からかい混じりの父親の声など耳に入らず、気も付かず、カメラを構える事さえ忘れ、青く光る森の中で舞い続けるヒカリをポ~~~ッと見つめていた。
 するといきなり父親がハヤテの頭を鷲掴みにし、
「どぉ~したぁ~?」
 ニヤリと笑い、ハッと我に返ったハヤテが、
「な、何がだよ!」
 父親の手を払いのけると、
「良い子がお嫁さんになってくれて、良かったなって話さ!」
「お、およっ!? ば、ば、ば、ば、ば、ばぁに言ってんだよぉーーー!」
 ハヤテは顔を真っ赤にして逃げる様に走り去り、そんなハヤテに気付いたヒカリは、
「ハーくん、待ってぇ~~~!」
 後を追い、走って行った。
「もう、ヒカリ様ぁ~~~! そんなに走っては、いけませ~~~ん!」
 困り顔で二人の後を追うのぞみと、ハヤテの初々しい反応に、笑い合う両親。

 次の日の早朝―――
 ハヤテは朝食も早々に済ませるとパソコンを置いたテーブルの前に座り、キリッとした表情でマウスを握り、最近撮影した中でお気に入りの写真を印刷したり、ホームページ上にアップしてもらいたい写真の選別をしていた。
 綺麗好きの母親の手によりチリ一つ落ちていなかったリビングは、いつの間にか床一面、足の踏み場もないほどの写真で埋め尽くされ、キッチンからその様子を伺っていた母親は、初めこそ困惑した表情を浮かべていたが、
「まぁ、いいか……」
 一人、小さく笑った。
 写真はリアルな一瞬を捉えた物であると同時に、自分の体を通して生み出された物であり、自己表現を体現化させた作品である。
 しかしハヤテは撮ると言う行為には強い関心を示していたが、出来た作品には興味を示さず、もっぱらホームページ上に上げる写真は母親が選び、自ら印刷した事など今日まで皆無であった。
 本来なら部屋を散らかした事に対して叱る所であるがそうしなかったのは、作品に対して愛情を示す様になった息子の成長が、母親として嬉しかったからである。
 カウンターに頬杖をつき、せっせせっせと作業する息子を微笑ましく眺めていると、
 プルルルルル~ッ!
 家の電話が鳴り、母親はキッチンに置いてある子機を手にした。
「はい、東(あずま)ですが」
 いつもより高めのキー、電話用奥様ボイス。
「あっ、あら、のぞみさん? うん……残念ね……そう、今日はお出掛けするの」
「お出かけ」に反応し、急にハヤテがバッと不安気な顔で振り返ると、心中を察した母親は、通話は続けながらもハヤテに対し「のぞみさんが、お出かけよ」とジェスチャーし、
「うん、それで……そうなの……今日は「かなえ」さんが連れて……えぇ!?」
 母親が驚きの声を上げると同時に、
 ピンポ~~~ン!
 呼び鈴が鳴り、
「ハ~~~く~~~ん!」
 玄関扉の向こうからヒカリの声。
 血相を変えたハヤテの母親は送話口を手で塞ぎ、
「ハヤテッ! マッハで!」
「分かってる!!」
 ハヤテは高速で、とにかく部屋中にバラ撒いた写真を優先的に、片っ端から片付けた。
「よそ様に散らかった部屋は見せられない」と言う母親の焦りもあったが、ハヤテはそれ以上に焦りまくっていた。
 その理由は、印刷した写真のほとんどがヒカリを撮影した物ばかりであったからである。
 未だ通話中の母親も、
「いえいえ大丈夫よ。じゃ、じゃあのぞみさん、気をつけて行って来てねぇ!」
 体良く通話を終えるとシンク周りを光速で片付け、ダスターでササッと汚れを拭き取り、玄関扉に向かいつつ声量を抑え、
(ハヤテ! 良いわねぇ?)
 顔だけハヤテに向けると、ハヤテは神妙な面持ちで頷き親指を立てて見せ、母親も頷き返し、静かに一呼吸すると、
「いらっしゃ~~~い!」
 つい今し方までの鬼気迫る表情は何処へやら、満面の笑みで扉を開けた。
「おば様! おはようございまぁ~~~す!」
 ヒカリは全開の笑顔を残すとそのままリビングへ駆け込んで行き、何と無しに状況を察したかなえは、申し訳なさげに頭を下げ、
「昨日買ったツリーを、早くハヤテ様と作りたいと申して……」
「それ位のワガママは、子供の特権よ」
 微笑むハヤテの母親に、かなえは少しホッとした顔を見せた。
 しかしホッとしたのも束の間、リビングに入ると、そこは不穏な空気に包まれていた。
 怒りの表情で腕組みし、仁王立ちするヒカリ。
「ハーくん、そこに座って!」
「はい……」
 ソファーに座ろうとすると、
「床!」
「……はい……」
 言われるがまま、静々と絨毯の上に正座するハヤテ。
「ハーくん、これはどう言うことッ!」
 ヒカリは怒り心頭バシッと音を立て、テーブルに少女が写る写真を叩き置いた。
「えと……それは……」
 隠しそびれた写真を見つけらたハヤテが口ごもっていると、
「私と言う妻がいながら、他の女の子の写真が部屋にあるって、ハーくんどう言う事ッ!し、しかも……私より、ちょっとカワイイし……」
 ヒカリがすねて横を向くと、
「ヒカリ……勝手に印刷した事を、怒ってたんじゃないの?」
「何言ってるの! カレシが他の女の子の写真を持ってて、怒らないカノジョがいる!?」
「それヒカリだよ」
「え?」
「秋に遊歩道で撮った……ヒカリ……」
「ウソッ!」
 そこに写っていたのはイチョウ舞い散る中、楽し気な笑顔を見せるヒカリの姿であった。 
「私って、超カワイイーーーッ!」
「えぇ!? あ、う、うん……そう、だねぇ……」
 「本人が言うのはどうなんだろ」と思いつつ、ハヤテは複雑な笑顔を返し、二人の様子をはたから見ていたハヤテの母親とかなえは、思わず苦笑いした。
 
 誤解が解け、ハヤテが自分の写真を持っていた事にご満悦の光は、身の丈程のツリーを前にサンタのオーナメントを胸元で握りしめ、
「ハ~く~ん! クリスマスに欲しい物、何かあるぅ~~~?」
 身をくねらせると、
「そうだな~ヒカリがくれる物なら、何でも嬉しいけど……」
 するとヒカリはなお一層喜び、
「もう、ハーくんたらぁ!」
 恥ずかしそうにしながら、ハヤテを突き飛ばすと、
「あぁ! ハーくんごめんねぇ!」
 床に転がるハヤテを慌てて抱き起した。
「今からこれでは……わたくし、二人の将来が不安なのですが……」
 飾り付けを手伝うかなえが、困惑した表情で二人を見つめていると、
「今だけよ。小学生になって他の男の子、女の子と関わりを持つ様になれば、次第に異性として意識したり、恥じらう様になるわよ。私達だってそうだったでしょ? 多分」
「アハハハハハ……あまりに昔過ぎて、自信を持って「そうですね」とは言えませんが、そうかも知れないですね」
 クスクス笑い合うハヤテの母親とかなえ。
「これが最後」
 ハヤテはツリーのてっぺんに乗せる、大きな星をヒカリに手渡した。
「ありがとう」
 ヒカリはハヤテに体を支えられながら、背伸びして木のてっぺんに星を乗せると、
「「出来たぁ!」」
 二人は歓声を上げ、
「じゃあ、電気点けてみるわねぇ」
 ハヤテの母親がコードをコンセントに差し込むと、電球が全点灯して数秒後、ツリーは赤や青、緑やオレンジ色に次々輝き、明滅し始め、
「「うわぁ~~~!」」
 カラフルなツリーの輝きに照らし出される笑顔の二人は、感嘆の声を漏らした。
 するとハヤテの母親はハヤテがツリーに見入っている隙に、ヒカリの耳元で、
「ヒカリちゃん、ハヤテの喜ぶ物はねぇ……」
 そっと何かを囁き、
「え? おば様ほんとう!? それで良いの?」
 驚いた顔を向けると、ハヤテの母親は人差し指を口元に立て、ウインクして見せた。
「ん? 僕が喜ぶ物?」
 異変に気付いたハヤテが振り向くと、ヒカリとハヤテの母親は顔を見合わせ、
「「ナイショ!」」
「むぅ、なんだよ二人してぇ~」
 不服そうな顔を見せたが、
「じゃあ、ヒカリは何が欲しいのさ」
 ヒカリは急に話を振られ考え込むも、やがてパッと顔を上げ、ハヤテにそっと耳打ち。
「えぇ!?」
「ハーくん……出来ない?」
 少し残念そうな、それでいて少し寂しそうな顔で伺うと、
「い、いや……出来るけど……」
「本当に!? じゃあ約束!」
 ヒカリは屈託ない笑顔を見せ指切りするも、ハヤテは反する様に、困惑混じりの笑顔を返した。
 その日の夜、二人での夕食を終わらせたハヤテの母親は、キッチンのシンクで食器の後片付けをしていると、リビングのソファーで、明滅を繰り返すツリーをぼんやり見つめるハヤテに目が留まった。
「なぁ~にぃ~辛気臭いわねぇ~。ハヤテったら、おじいちゃんみたいよ」
 あえてからかう様に声を掛けたがハヤテは何も言い返さず、母親は小さく笑う様に息を吐くと、
「ヒカリちゃんと何か約束してから、ずっとそんな感じね。どんな約束したの?」
「……ハーくんの見てる世界を見て見たいって」
「えぇ!?」
 慌ててハヤテの下へ駆け寄ると、
「ハヤテ! あなた自分が何を約束したか分かってる!? それで本当に良いの!?」
 団地内においてハヤテが奇異な目で見られるのは、その奇行からだけではない。
 むしろ、幼少期に大人からすると奇行と思える行いを子供がする事は、決して珍しい事ではなく、では何故ハヤテが周囲から嫌悪される様になったのか。
 それは、ハヤテが自分の見ている世界を他人にも見せる事が出来るからである。
 団地住まいを始めた頃、ハヤテにも普通に友達がいて、家族ぐるみの付き合いをする家族も複数あった。しかしハヤテの奇行とも思える行動を遊び半分と捉えていた家族達も、ハヤテの世界を目の当たりにするなり驚愕し、怯え、途絶するが如く離れて行った。
 常識と言う名の物差しで測ってみれば「物が動いてしゃべる」などと言う非常識な世界を突如見せつけられた人が、その様な行動に出て仕舞うのはやむを得ない事である。
 ハヤテは母親の憂慮に対し静かに頷くと、
「今じゃなくても、いつかその日は来るよ……うぅ~ん、遅すぎた位かな……」
「いいの!? 昔のお友達みたいに、ハヤテの前からいなくなっちゃうかも知れないわよ?」
「仕方がないよ」
 薄く笑い言いきるハヤテの頬を、
「ボクは……普通じゃないから……」
 一筋の涙がつたい流れ落ちた。
 
 クリスマスパーティー当日の二十五日、いつもより早い時間に起きたハヤテは、自身の心にまとわりつく不安を振り払う様に、一心不乱に空手の稽古に打ち込んでいた。
「エイッ!」
 型の最後、気合と共に突きを繰り出すと、残心しつつ構えを解き「自然立ち」に戻った。
「ふぅ~~~」
 ハヤテが一息つくと、キッチンから不安気に稽古を見ていた母親が、
「ハヤテ……本当に良いの?」
 すると覚悟を決めたつもりが、弱気が頭をもたげてうつむきそうになったハヤテは、慌てて首を激しく横に振り、
「良いんだ! でも……お母さんは良いの?」
「何が?」
「だって! せっかく……のぞみさん達と友達になれたのに、またボクのせいで友達……」
「ヒカリちゃんと約束したんでしょ?」
「……うん」
「だったら、もう悩む事無いわよ。だってお母さん、ハヤテをウソつきにしたくないもの」
「ありがとう……お母さん」
「どういたしまして」
「じゃあ最後に、お母さんの為に演武するから型を選んで! 何でも良いよ!」
「そぅ~お? じゃ、お言葉に甘えて」
 母親は息を吸い、キリッとした表情を見せ、
「抜塞大(ばっさいだい)!」
 声を上げると、
「バッサァイ、ダイッ!」
 ハヤテも後に続き、
「無号令、用意構え!」
 母親の「準備の号令」に、ハヤテは足先をハの字に開いたまま踵を付け、握った右拳を左手で包みながら腹の前に据え、
「始めぇ!」
 「開始の号令」に、ハヤテは右足から体ごと飛び込み体当たりをすかの様に前進、左わき腹に左掌を上に向け添えて、軽く握った右こぶしの小指側を乗せ、前進を止めた瞬間、生じた突進力から転じた慣性力、腰の回転から生じた力、全ての力を右こぶしに伝え、まるで目に見えない何かを弾き飛ばす様に、力強く右縦裏拳を放つ様な動きをした。
 抜塞大とはハヤテが初動で見せた様に、迫る敵を次々なぎ倒してくかの様な、ダイナミックな動の型である。
 モヤモヤした想いに囚われた今のハヤテにとって、心にまとわりつく不安を全て消し飛ばす最高の型であった。
「エイッ!」
 憑き物が落ちた様なスッキリした笑顔で、気合の入った手刀受けを見せるハヤテ。

 時間は流れ、陽が傾き始めた夕刻―――
「帰ったぞぉ~~~!」
 数日振り、土産片手にハヤテの父親が帰って来ると、ハヤテが猛ダッシュで玄関に来て、
「お父さん、お帰り! お仕事お疲れ様! もうみんな来て待ってるよ!」
「お、おう!」
 異常に高いテンションのハヤテに気圧されながらリビングに入ると、
「やっと来たかぁ~~~」
 早々一杯ひっかけたのか、赤ら顔したヒカリの父親が上機嫌で手招きし、
「なんだぁ? ちょ~っと出来上がるの、早いんじゃないのかぁ~~~?」
 ハヤテの父親が苦笑いして見せると、
「お前が遅いんだよ」
 駆けつけ三杯と言わんばかりに、ヒカリの父親がビールジョッキを手渡そうとした。
 するとすかさずのぞみが、
「そこまでです!」
 間に割って入り、
「まずはハヤテ君のお父様、うがい手洗いをなさって、風邪の菌を洗い流して来て下さい」
 ピシャリと指摘され、
「「ごもっとも……」」
 父親二人頭を下げ、ハヤテの父親はスゴスゴ洗面所へ退散して行った。
「ありがとう、のぞみさん」
 ハヤテの母親が笑顔を見せると、
「いいえ……それより、パーティーのお食事をヒカリ様に合わせていただいて、よろしかったのですか? もっと、こう、男の子が好きそうな料理などに……」
「構わないそうよ。あの子、写真意外に対しては、なんのこだわりも持ってないし」
 そこへ部屋着に着替えた父親が戻って来て、
「ハヤテは、ヒカリちゃんさえ喜んでくれれば、何でも良いんだよなぁ~」
 からかうも、
「そうだよ! 悪い?」
 恥ずかしそうに赤面しつつも開き直ったハヤテの態度に、
「あっさり認めやがった。つまんねぇ~~~」
 笑って見せると、室内に笑いが起き、
「ハーくん、ありがとう!」
 ヒカリがハヤテに抱き付いた。
「娘の父親なんて……寂しい……もんさ」
 ビールを更にあおり、つまみをほおばる、良い感じに出来上がったヒカリの父親。
 しかしのぞみは歯牙にもかけず、
「酔っぱらいは放っておきまして、ヒカリ様、ハヤテ君、これはわたくし達三人からです」
 のぞみ達メイド隊三人はハヤテとヒカリ二人に、お揃いの柄の手袋、マフラー、毛糸で編まれた帽子を被せた。
「「ありがとう」」
 お礼を言いつつ、二人は笑顔を見合わせ、
「ハーくん、あったかいねぇ~」
「うん」
 二人の様子にメイド隊も笑顔を見せると、ハヤテの父親は、
「ハヤテ! ヒカリちゃん! 我が家からは、これだ!」
 ニヤニヤしながらステッキ状の伸びる棒を手渡した。
「えぇ~と……お父さん……何これ?」
「なんだハヤテ「自撮り棒」を知らないのか? それでヒカリちゃんとツーショット!」
「あぁ~そうか「殴り棒」。これで「ふざけたお父さん」を殴るんだね」
 冷めた視線を向けるハヤテに、
「アハハハハハハハ、冗談だよ冗談。本当はなぁ……こっちだ!」
 ハヤテとヒカリ、二人に同じサイズと柄の小箱を手渡した。
「「?」」
 二人が顔を見合わせると、ハヤテの母親が微笑み、
「開けてみて」
 言われるがまま、とりあえず包装紙を裂き開梱する二人であったが、中を見るなり笑顔を弾けさせた。
 小箱から色違いの腕時計を取り出し、笑顔の二人が見せ合うと、
「二人とも小学生、お兄ちゃんお姉ちゃんになるんだから、これからは自分で時間を気にする様にしないとねぇ」
「ハーくんが、お兄ちゃん……?」
「ヒカリが、お姉ちゃん……?」
 一人っ子の二人が、考えた事も無かった呼ばれ方に背筋がざわつき身震いしていると、ハヤテの首にヒカリの父親の手がスッと伸び、
「え?」
 振り向くと、ハヤテの首にネックレスが首に掛けられた。
「あ……これって……」
「そう、俺が掛けてたヤツだ。そしてヒカリには……」
 懐からペンダントを取り出し、ヒカリの首にかけた。
「これ、パパが大切にしてた、お揃いのママのペンダント……」
 幼いながらも、大切な物をもらった事を理解する二人が戸惑っていると、
「女物のペンダント持ってたら、今の時代ヘンに思われるだろ? それにペアのペンダントの片方だけ、俺一人が首から下げてるのも可笑しな話だし……だから……イランから二人にやる!」
 照れているのか、酔っているのか、赤い顔してプイッと横を向いた。
「「ありがとう」」
 微笑む二人に、ヒカリの父親は背を向け、
「ふん!」
 さも不愉快そうな素振りでグラスのワインを飲み干し、そのわざとらし過ぎる不機嫌さに、ヒカリはハヤテと顔を見合わせクスクス笑うと、
「じゃあ……次はヒカリから……」
 歩み寄りつつ「この品で本当に良かったのか」不安気に、ハヤテの母親をチラリと見るヒカリの背中を押す様に、ハヤテの母親がウインクして見せると、ヒカリは意を決し、
「ハーくん、コレあげる!」
 後ろ手に隠していた、教科書サイズの「リボン付きの包み」を差し出した。
「ありがとう、ヒカリ。開けても良い?」
「……う……うん」
 少し緊張した面持ちで頷くと、ハヤテは手元を凝視するヒカリの前で包みを開け、
「あぁ! これぇーーー!!」
 中を見るなり満面の笑みで歓声を上げ、手にした品を頭上高く掲げた。
 過剰とも思えるハヤテの喜びように、ハヤテの父親達は、
「なんだ、なんだ?」
 興味深げにのぞき込むも、
「「「「「え?」」」」」
ハヤテが手にした品を見て目が点になった。
 ハヤテが異様に喜んだ物、それはB5サイズの「物の名前図鑑」であった。
「ハーくん……本当にそれで良かったの……?」
 ハヤテの母親のアドバイスを元にしたとは言え、渡した当の本人が戸惑っていると、
「もちろんだよ!」
 図鑑の表紙に目を輝かせ、食い入る様に見入るハヤテ。
「ハーくん……聞いても良い?」
「なに?」
「どうして……この本が良かったの?」
「だって、話をする時、名前が分からないと困るだろ? それに誰だって、名前で呼んでもらえた方が嬉しいと思うんだ!」
 ハヤテの能力に起因している発想とは言えるが、思わず納得する一同。
 するとヒカリが、おもむろハヤテに歩み寄り、
「じゃあハーくん、今度は私との約束」
「う……うん……」
「なんだなんだ~約束って二人して」
 事情を知らないハヤテの父親が、半ば冷やかす様に妻に尋ねると、
「ヒカリちゃん……ハヤテの世界が見たいんだって……」
「えぇ!? 本気か? い、良いのかハヤテ!?」
 日頃ハヤテの能力に理解を示す父親であったが、流石にかつての出来事を思い返し焦りの声を上げるも、ハヤテは静かに頷き、そしてヒカリの手をゆっくり握った。
 のぞみ以外のメイド達は近所づきあいをするに当たり不測の事態に備える為、口外しないことを条件にハヤテの能力について耳にしてはいたが、実際目にするのは初めてで、にわかには信じがたいと言った表情を見せていた。
 一方、娘の一大事にヒカリの父親は何をしていたかと言えば、ペンダントを渡した事で自身も二人の仲を認めた形になり、ヤケ酒をあおり、酔いつぶれ、豪快な寝息を立ていた。
 もし起きていたら、いったいどんな反応を示したであろうか。
「いくよ、ヒカリ」
「う、うん……」
 緊張した面持ちのヒカリが返事を返すと、
「ヒカリ、目をつぶって」
 ハヤテは自身も目をつぶり、ヒカリの額に自身の額を付けた。
 物達と会話する時の事を強くイメージするハヤテ。
 この行為はハヤテが物達と会話する時の「受信の脳波レベル」を、ヒカリの脳に強制的に同期させる作業で、ちょうどラジオで同じ局を選び、同じ放送を聴く様な物である。
 やがてハヤテは、ゆっくり額を離しつつ、
「ゆっくり目を開けて……」
「……うん……」
 期待とわずかな不安から、恐る恐る目を開けるヒカリ。そして固唾を飲み見守る大人達。
 しかし周囲の不安をよそに、ヒカリのリアクションは意外な物であった。
「え? あれ?」
 意外そうな顔で周囲を見回し、
「ハーくん……ふつう……しっぱい?」
 おとぎの国様な光景が眼前に広がると思っていたヒカリは、何の変哲もないいつも通りの景色に首を傾げると、ハヤテはヒカリと向かい合わせに「こだま号」を抱え、
「ヒカリ、話しかけてみて」
「う……うん……」
 半信半疑頷き、
「こ、こだま号……こんにちは……」
 すると普通の「くまのぬいぐるみ」にしか見えなかった「こだま号」が、
「こんにちは、ヒカリちゃん! こうして話すのは初めだねぇ」
 優しく語り掛けて来た。
「ほ、ほんとうに!? こだま号ぅーーー!?」
「いつも大切にしてくれてありがとう。でもたまにハヤテへの八つ当たりの身代わりに叩」
「ダメッーーー!」
 慌ててこだま号の口を塞ぐヒカリに、
「アハハハハ……そんな事してたんだ……」
 ハヤテが苦笑いして見せると、
「た、たまにだもん! ハーくんが、ヒカリを怒らせるような事したのが悪いんだもん!」
 言い訳する様に必死に叫んだ。
「でも……本当にこだま号……なんだ……」
 口を抑えつつも、旧知の友とやっと出会えたかの様に、嬉し泣きで涙を浮かべるヒカリ。
 それはモノ達が本当に語りかけているのか、それとも単にハヤテの中のイメージが、思いの強さで増幅発信されヒカリに受信されているだけなのか。
 何故このような現象が起きるのか、原理は分からない。
 しかしかつて能力を目の当たりにした人々は一様に一瞬の驚きの後、徐々に現状を分析、世間一般と違うハヤテに対する恐怖と嫌悪から次第に顔色を変え、みな去って行った。
(ヒカリと会えるのも、今日で最後か……)
 ハヤテがヒカリに見られない様にこだま号の頭で顔を隠し、悲し気に小さく笑うと、
「ハーくん、スゴ~~~イッ!!」
「え!?」
 予想外の反応に驚くハヤテが、こだま号の背後から顔をのぞかせると、ヒカリが笑顔を弾けさせ、
「ハーくん! こだま号ーーーッ!」
 こだま号を間に挟む様に飛び付き、抱きついた。
「いつも私を見守ってくれて、ありがとう!」
「ぐ、苦じぃ……で、でも……オイラこそ、いつも見守る事しか出来なくてごめんよ」
「そんな事ないもん! こだま号が元気いぃ~っぱいくれてたの、ヒカリ知ってるよ!」
「ぞ、ぞうなの……がぃ?」
「ハーくんが撮ってくれた写真で見たもん!」
「ぞ、ぞぉっがぁ~ハヤテもありが……って、オイッ何泣いてんだぁ?」
 こだま号はきつく抱き締められながらも振り返ると、ハヤテはボロボロ涙をこぼしながら、鼻水まで垂らしていた。
「うわぁハヤテ! キタナァ! お前鼻水つけんなよ!」
「ハーくん、どうしたの? なんで泣いてるの?」
「だってぇ、もうヒカリが居なくなっちゃうんじゃないかと思っでぇ~~~!」
 するとヒカリはニコリと笑い、
「旦那さんを残して、妻が居なくなるハズないでしょう~~~?」
 その言葉にハヤテの涙腺は一気に大崩壊。
「う、うっ、うわぁ~~~~~~~~~!」
 大泣きし出してこだま号を強く抱きしめ、後頭部に顔をうずめた。
「ギャーーーッ! やめろハヤテ何するッ! 鼻水が、は、な、み、ず、がぁ~~~!」
 逃れようともがき絶叫するこだま号と、強く抱きしめ泣きじゃくるハヤテ。
 そしてそんな二人を指差し大笑いするヒカリ。
 一方、何が起きているか分からない大人達は、ただただポカンと口を開けていたが、ハヤテの父親は安堵した様に笑い、
「どうやらヒカリちゃんに関しては、いらぬ心配だったらしいな」
「本当。二人の出会いは、運命だったのかしらね」
 ハヤテの母親も微笑み返し、泣き、笑う、楽し気な子供たちを温かく見守る大人達。
 その傍らで気持ち良さげな高いびきをかき、全く起きる気配すら見せないストレスまみれの大人のヒカリの父親。

 やがて年が明け数ヶ月が経過―――
 町の物陰に、ひっそりと黒ずんだ冬の痕跡が見受けられる、東北地方にも心地良い暖かさをもたらす春が訪れ始めたある日、パイプイスに座るヒカリの父親が、ダラダラ涙を流しながらビデオカメラで何かを撮影していた。
 そんなヒカリの父親にの姿に、隣で一眼レフカメラを構えるハヤテの父親はファインダから顔を離さず、
「みっともないから、泣くか撮るか、どっちかにしたらどうだ……」
 振り向きもせずツッコムと、
「お前も泣いてるだろうがぁ~~~~~~」
 泣きながら逆ツッコミを入れられ、
「何が悪い! だって見ろよあの成長した二人。ちゃんと先生の話聞いてるんだぞ!」
 振り向いたハヤテの父親も、ヒカリの父親以上に号泣していた。
「「親ばか……」」
 呆れ顔で二人を見つめる、盛装したハヤテの母親とのぞみ。
 四人がいる場所は、小学校の体育館内に設けられた保護者席である。
 そして涙に濡れるオヤジ二人がカメラを向けていたのは、同じ年頃の子供達の集団の中にいる、ハヤテとヒカリであった。
「ハーくん……他人のふり、他人のふり」
「分かってる」
 頑なに、一切父親の方を向かない二人。
 今日は二人の入学式。
 大人しく校長先生の話を聞く我が子の姿に、オヤジ二人は感動して泣いていたのである。
 やがて新入生は在校生と保護者からの拍手を持って体育館から送り出され、ハヤテとヒカリも真っ直ぐ前だけ見て、堂々行進しながら明日から学ぶ教室へと移動を始めると、
「ハヤテェーーーッ!」
「ヒカリィーーーッ!」
 人一倍声を張り上げ大手を振るオヤジ二人の姿に、クスクス笑いが起きる保護者席。
 赤面して椅子の上で小さくなるハヤテの母親とのぞみ、そして、
((他人のふり、他人のふり……))
 必至に自身に言い聞かせ、体育館を後にするハヤテとヒカリ。

 ハヤテ達が教室へ入ると、神経質そうな顔立ちをした年配女性が、
「みなさん、名前の書かれた席に着いて下さい」
 少々事務的とも思える言葉遣いで着席を促した。
 女性の佇まいに気おされ、子供達は少しひるむも、各々机にひらがなで書かれた名札を頼りに席を探し着席した。しかし中には「ひらがな」を読む事がまだおぼつかない子もおり、着席に手間取っていると、
「何をしているんです! 早く席に着いて下さい!」
 叱りつける様なその声に、泣き出しそうな子までいたが、何とか全員着席し終えると、
「まったく……」
 教師は不愉快そうにため息を吐いた。
 因みにハヤテとヒカリは、並んで一番後ろの窓側の席。
 これは偶然ではなく、ヒカリの病状、性格から、ヒカリの父親が学校側に依頼した特例措置の様な物であった。
 少し苛立った表情を浮かべる女性教師は、おもむろに出席簿を手に取ると、
「今から名前を呼びますから、呼ばれたら返事をして手を挙げて下さい」
「「「「「「「「…………」」」」」」」」
 「どうしよう」と言わんばかりに、隣近所を伺う生徒達。
 初めて会った大人にいきなり威圧的な態度を取られれば、その様に尻込みしてしまうのは当然である。
 しかし女性教師はそんな事などお構いなしに、
「お返事はァ!」
「「「「「「「ハイッ!」」」」」」
「まったく……では、東ハヤテ君!」
「ハイッ!」
 ハヤテが元気よく手を挙げると、
「…………」
 しばし無言でハヤテを見つめ、やがて隣のヒカリを見ると、
「……そう……あなた達が……」
 口元だけ微笑むその目は笑っていなかった。
「は、ハーくん……」
 その目に、ヒカリが不安そうに小声でハヤテを呼ぶと、
(大丈夫だ)
 小声でヒカリを勇気づけ、女性教師に見られない様、机の下でヒカリの手を強く握った。
 ハヤテとヒカリは、その目をした大人達をよく知っている。
 二人が事あるごとに向けられて来た、心無い一部の大人達の好奇、妬み、嫉み、悪意に満ちた目である。
(この人からヒカリを守らないと!)
 直感的にそう思うハヤテであったが、ハヤテの心配をよそに、それから数日何事も無く経過、二人に話しかけてくれるクラスメイトも出来始めた頃、いつも通りにハヤテとヒカリが二人で登校し、
「「おはよう」」
 教室に入ると、最近ヒカリとよく話す、二人の前の席に座る女の子が振り返り、
「おはようヒカリちゃん、いつも仲が良いいねぇ」
「良いでしょぉ~~~ツバサちゃん」
 ヒカリがニッと笑いかけると、
「ば、ヘンな事言い方するなよぉ」
 すかさずハヤテがツッコミを入れ、女子二人はハヤテの慌てた姿にクスクス笑った。
「まったくぅ! これだから女子ってヤツは」
 照れ臭そうにブツブツ言いながら席に座り、教科書を机にしまっていると、
「あれ?」
 隣でヒカリが、教科書をしまいにくそうにしていた。
「どうしたヒカリ?」
「う、うん……なんかしまいにくい……んだけど……エイッ!」
 無理矢理ギュッと押し込み、
「入ったぁ!」
「教科書かノートが引っ掛かってたんじゃないか?」
「うん。そうだと思う」
 キ~ンコンカ~ンコン、キ~ンコンカァ~ンコ~ン
 飾り気のない予鈴が鳴ると同時に、担任教師が慌ただしく入って来て、
「早く席に着いてぇ! 皆さんにお聞きしたい事があります!」
 女性教師のただならぬ様子に、教室内がざわつくと、
「静かに! 昨日のこのクラスの給食費が袋ごと無くなりました。何か知っている人は、私に報告する様に!」
「「「「「「「ハァ~~~イ」」」」」」」
「「ハイ」は短く!」
「「「「「「「ハイッ!」」」」」」」
「……ではホームルームを始めます。連絡ノートを出して下さい」
「「「「「「「ハイッ!」」」」」」」
 ハヤテとヒカリも机から連絡ノートを取り出すと、
 バサバサバサッ!
 無理矢理詰めたヒカリの机の中から、教科書やノートが床に散らばり落ちた。
「何をしているのですか、東海林さん!」
「ご、ごめんなさい!」
 慌てて拾い集め、ハヤテとツバサも手伝い、
「二人共ありがとう」
 礼を言うと、手伝ってくれていたツバサの手がピタリと止まり、
「ひ、ヒカリちゃん……これ……」
「え?」
 ヒカリが顔を上げると、そこには驚いた様な、怯えた様な顔をするツバサが、その手に給食費を入れる茶封筒を持っていた。
「えっ!? なんでぇ!?」
 青ざめるヒカリが机の中を覗くと、奥にはクラスメイトの人数分と思われる封筒が折り重なり詰まっていた。
「ハーくん……」
 ハヤテに今にも泣き出しそうな顔を向けるヒカリの下へ、血相変えた担任教師が近づき、
「何ですか東海林さんコレはァ! ちょっと来なさい!」
 有無を言わさず、ヒカリの細い腕をむんずと掴み、
「みなさんしばらく自習をして下さい! 静かにですよ!」
「ハーくん!」
 泣き出すヒカリを容赦なく引きずる様に教室を出て行こうとし、
「ヒカリ!」
 ハヤテが後を追うと、
「東君! あなたは教室で自習してなさい!」
 言い放つと扉をバンと勢いよく閉め、ハヤテを教室に残し、ヒカリを連れ去って行った。
(ヒカリがそんな事する筈ない!)
 閉ざされた扉の前、ハヤテが悔しそうに床を見つめていると、
「これってぇ、泥棒じゃん!」
「アイツん家って、金持ちだって母ちゃん言ってたぞ!」
「あんな子だったんだぁ~怖ぁ~い」
「話しなくて良かったぁ~」
 いわれのない誹謗中傷が教室内に沸き上がり、ハヤテはカッと両目を見開くと、
「ウルサァーイッ! ヒカリの事を何も知らない奴らが勝手な事言うなァ!」
 初めて見るハヤテの剣幕に、一瞬静かになる教室内であったが、
「じゃ、じゃあ証拠を見せて見ろよ!」
「そうだそうだ!」
「給食費の袋だって、東海林の机から出たんだぞ!」
「そうだそうだ!」
 今度はハヤテがやり玉に挙げられ、
「ハヤテ君……」
 ツバサが心配そうにハヤテを見つめていると、ハヤテは静かに給食費の封筒を拾い上げ、
(ごめんなさいお母さん……約束、破る……)
 小学校の入学式前日、より高い社会性が求められる学校生活において「みんなと仲良くしたかったら力は絶対使わない様に」と、母親に厳しく諭されていたのであった。
しかし今ヒカリは、かつて無い程の窮地に立たされている。
 一瞬にして母親との約束を破る決意を固めたハヤテは、自身に対するヤジが飛び交う中、
「ヒカリをこんな目に遭わせたのは誰だァーーーッ!」
 手にした給食費袋に叫ぶハヤテの奇行に、教室内は一気に静まり返った。
 しかしハヤテは気にも留めず封筒を見つめて数度頷くと、みるみる怒りで顔色が真っ赤に変わり、
「よ、く、も、ヒカリをォーーーッ!」
 扉を跳ね開け、教室を飛び出しって行った。
「い、今の……なんだよ……」
「……し、知らないよ……」
 怯えた様に顔を見合わせるクラスメイト達。
 その頃ヒカリは校長室内で、校長、教頭、担任教師、怒りと困惑に満ちた大人三人に囲まれ、豪華な革張りソファーの上で泣く事も出来ず、ただただ震えて小さくなっていた。
「もうすぐ君のお父さんも来る。さぁて、どうしてあんな事をしたんだい? お金は何処へやったのかな?」
 丁寧な口調ではあるが、ヒカリを犯人と決めつけ頭ごなしに詰め寄る教頭に、
「まぁまぁ教頭先生そんなに急いては。東海林さんも、正直に話してもらえるかな?」
 教頭をなだめる様な口調ではあるが、校長の目も決して穏やかではなかった。
 それと言うのも、女性教師の過剰とも思える反応に端を発していた。
「校長先生、教頭先生やはり警察を呼びましょう! これは犯罪、「窃盗事件」ですわよ!」
「「窃盗」! いやいや、警察はまずいでしょ!」
「そうですよ! 学校の評判が!」
 及び腰の教頭、校長に、女性教師が苛立ちを更に増長させると、
 バァーーーン!
 校長室の扉が勢いよく開け放たれハヤテが姿を現し、
「ハーくん!」
 ハヤテの姿を見るなりヒカリは大泣きし、ハヤテに駆け寄り抱き付いた。
「な、何だ君は!」
「自習をしていなさいと言ったでしょ!」
 血相を変え怒鳴る校長と担任教師に、怒りの形相したハヤテはひるんだ様子も見せず、
「よくもヒカリを泥棒扱いして泣かせたな!」
「大人の話に首を突っ込むんじゃありません! 一緒にお仕置きしてあげますわァ!」
 担任の女性教師がハヤテに右手を伸ばすと、
 パンッ!
「イタッ!」
 ハヤテはその手を裏拳で弾き、女性教師は手を引っ込め、
「暴力ですわ暴力! 現行犯ですわ! 見ましたわね! 校長、教頭!」
 すると開いたままの扉から、息を切らせたヒカリの父親が、
「何かの間違いです! 娘がそんな事!」
校長室内に駆け込んだ瞬間、図ったかの様にハヤテは女性教師を指差し、
「盗んだのはお前だろーーーッ!」
「なっ!?」
 うろたえる女性担任教師と、驚いた顔をするその場の一同。
 泣いていたヒカリでさえ驚きのあまりに泣き止み、ハヤテの顔を見上げた。
 女性教師を睨み付けるヒカリの父親が、次第に怒りに赤く染まって行き、
「は、ハヤテ君……それは、どう言う事だい……」
「意味は分からないけど、封筒くんが言ってたんだ。この人賭け事が好きで、あちこちの「まちきんゆう」から借金をして「たじゅうさいむ」になってて、今月分のお金も返していないんだって。だから給食費に手を付けたって!」
「あ、アンタ教育者の癖に!」
「こ、子供の戯言ですわ!」
 今にも飛び掛からんとする怒りを持って打ち震える父親の姿に、女性教師がひるむと、ヒカリの父親以上に怒りが収まらないハヤテは追撃の手を緩めず、
「「金持ちで、楽ないい暮らししてるんだから、たまに苦しめばいいのよ」って、どう言う意味さ! ヒカリはお前なんかより、ずっと、ずぅ~と大変なんだぞッ!」
「そ、そこまで言うなら、証拠はありますの証拠は! 証拠もないのに!」
 開き直る女性教師に、
「あるよ!」
「へぇ?」
「ついて来て!」
 ハヤテはヒカリを支える様に抱えたまま、校長室を出て行った。
 ヒカリの父親は怒りを堪えた、静かではあるが強い口調で、
「先生、行きましょうか」
 行き渋る担任に迫ると、校長と教頭も従え高校室を後にした。
 ヒカリを支えるハヤテが足を止めたのは、職員室の扉。
 ハヤテは扉を開けると、
「先生の席はどこ!」
 声を張り上げ、中にいた仕事中の職員達が、
「なんだ?」
「あれ? 校長先生に、教頭先生?」
「何事?」
「誰?」
 戸惑う職員達は誰もハヤテの問に答えず、しかしハヤテは気にした様子も見せずに一人頷くと、一つの席に目をやり近づいた。
「な……なんで、分かるの……」
 今更ながら事の重大さに徐々に気付き始める女性教師に、ヒカリの父親は「容赦はしない」と言わんばかりの目を向け、
「あの子は特別なんですよ」
 やがてハヤテはとある机の前に立ち、
「ヒカリ、ちょっとごめんね」
 優しく微笑むとヒカリから離れ、傍らに置かれたゴミ箱の中身を、机の上にぶちまけた。
「何するのよ!」
 激高し、駆け寄ろうとする女性教師をヒカリの父親は抑え、
「静かに見ていてもらいましょうか!」
 するとハヤテは、ゴミの中から何枚もの似た様な用紙を取り出し広げた。
 それはハヤテが指摘していた通り、数々の消費者金融からの請求書であった。
 しかし女性教師は完全に居直り、
「た、確かに複数の金融会社から融資を受けてますわ! でも、それが何だって言うの!」
 逆ギレ気味に金切り声を上げるもハヤテはそんな女性教師を静かに見上げ、その目に、女性教師は冷たい物が背中をつたい流れ落ちるのを感じ、
「ま、まさか……」
 驚愕声を漏らす女性教師を歯牙にもかけず、ハヤテは静かに引き出しの一つを指差し、
「鍵が掛けてあるから開けて」
 机に手もかけてもいないのに指示するハヤテの姿に、周りの教師達がざわつき始め、
「ぷ、プライバシー侵害だわ! 名誉棄損よ! 訴えてやるわ!」
 支離滅裂喚き出し、断固拒否する女性教師であったが、怖い程冷静なヒカリの父親の、
「開けて下さい」
 言葉に、校長と教頭は周囲の目もあり開けない訳にもいかず、教頭がスペアキーを持って来て引き出しを開けると、
「それだよ」
 ハヤテがきんちゃく袋を指差した。
 半信半疑の教頭が巾着袋を開け、中を覗くと、
「先生……これは流石に……」
 困惑した表情の教頭が振り返り中を開いて見せると、中にはむき出しの百円五百円、そして千円札が無造作に詰めらられていた。
 崩れる様に床に膝間づく、女性教師の前にハヤテは立つと、
「ヒカリがどれだけ苦労してるか分からないクセに、あんな理由でヒカリをイジメるヤツ、ボクは絶対許さない!」
 すると女性教師は急に顔色を変え、
「アンタさえいなければ!」
 両手でハヤテの首を力一杯掴み締め付け、慌てたヒカリの父親達が、
「止めろ!」
 女性教師を引きはがそうとしていると、狂気に囚われた顔をした女性教師は、顔色一つ変えず、声一つ上げず自分を直視するハヤテの目に恐怖を覚え、そして自分を囲む得体の知れない気配に気付き周囲を見回すと、
「ハ~ヤ~テ~に~手を出したなぁ~~~!」
「よくもヒカリちゃんを陥れようとしたわねぇ~!」
「ハヤテに手を出したコイツを許すなぁーーー!」
 机、イス、文房具、ハヤテの服、様々な物達が怒りの形相で迫る光景が目に飛び込み、
「ヒィーーーッ!」
 女性教師は悲鳴を上げハヤテの首から両手を離すと、ヒカリの父親や校長達を押しのけ、
「ばぁ、化物ォーーーッ!」
 物陰に隠れたが、四方八方から物達が迫るのか、職員室からも悲鳴を上げ飛び出した。
「待ちなさぁーーーい!」
 校長達は後を追い、他の職員達も部屋を飛び出して行った。
「ゴホッ! ゲホッ! ガハッ!」
「ハーくん、大丈夫!」
「ハヤテ君、大丈夫かい!?」
 むせるハヤテの背を擦るヒカリとヒカリの父親。
 そのハヤテに首には、両手の後がくっきり浮き出ていた。
 その首を見てヒカリの父親は申し訳なさげに、
「すまないハヤテ君……また助けて」
「ひ、ヒカリは一個も悪くない。ボクは……ヒカリの、ナイトだから……」
 苦しげではあったが笑顔を見せ、
「ありがとう!」
 ヒカリは泣きながらハヤテに抱き付いた。
「でもハヤテ君、あの女性教師に何が起きたんだい?」
「く、クリスマスでヒカリが見たのと一緒……。でも今回、みんなボクと同じくらい、あの先生に、すんごく怒ってた……あの先生、物達を大切にしないんだって。そんな人がボクと、良い子のヒカリに、酷い事したの……許せないって」
「そうか……まさに因果応報……いや……何でもない。物達にも感謝しないとだな……」
 傍らで泣きじゃくるヒカリに、未だ若干苦しそうに見えるハヤテが笑顔を見せていた頃、
「落ち着きなさい!」
 錯乱状態の女性教師が校長達の説得も聞かず、校舎の屋上から飛び降り命を絶った。
 後日知らされた警察の見解で、女性教師は窃盗の証拠を生徒に見つけられ逆上、手に掛けようとした所を止められ「逃れられないと悟り自ら命を絶った」と言う物であった。
 内容が内容だけにマスコミが一斉に飛びついたが、しかしそれ以上に、金に目が眩んだ女性教師が「大企業起業家一族令嬢、窃盗事件」と称して、予めマスコミにリークしていた事が、話題に更に火を点ける皮肉な結果となった。
 教育委員会と学校側は大きくなった騒ぎを鎮静化する為、校長を免職処分、教頭が他校へ移動、学年主任も解任される事となった。
 ハヤテはと言えば、その日のうちにヒカリの父親に付き添われ病院で検査を受け、異常なしとの診断結果を受け、警察での事情聴取後、帰宅。
 ヒカリと父親は自宅まで付き添い、ハヤテの母親に感謝し何度も頭を下げ、そのお陰か、約束を破ったハヤテはビンタ一発で許された。
 しかしハヤテの父親はと言えば、女性教師が亡くなった事には同情しつつも、流石は報道カメラマンと言うべきか、悪事からヒカリを守ったハヤテを、誇らしく褒めていた。
 一時期「なぜ担任教師の窃盗が判明したのか」、「なぜ生徒が手を掛けられそうになったのか」関係者全てにかん口令が敷かれていた為、憶測が憶測を呼び、ネット上はお祭り騒ぎとなっていたが、人の噂も七十五日。次から次へと飛び込む新たなニュースに、次第に人々の関心も移り忘れ去られて行った。
 
 やがて季節が幾つか移り、ハヤテとヒカリは事件が起きた後に赴任して来た新米教師と共に、小学生として二度目の春を迎えていた。
 二年生の教室へと移ってはいたが、二人の座席は一年と同様、二人並んで一番後ろの窓側の席。
 一年生の間、席替えの度に生徒から異論が出たものの、今の教師が理由を一つ一つ丁寧に説明した結果、今ではその事がこのクラスの常識となっていた。
 当初異論が出た理由の一つに、「ハヤテが可愛いヒカリを独占している」と言う、男子のやっかみがあった事も事実はであるが。
 それでもヒカリにちょっかい出そうとした強者も数名いたが、男女間の恋愛話に関して目の鋭い女子。二人に余計な手出しはさせまいと男子を監視していた。
 しかしそれでもなお立ち上がる勇者もいたが、彼らを待っていたのは希望ではなく、
「ハーくん以外、絶ッ対イヤッ!」
 ヒカリの容赦ない一言であった。
 この一年、二人の間に入り込む余地など皆無である事を、身を持って知らされた男子達。
「はぁ~~~い、みなさぁ~~~ん! 席に着いて下さぁ~~~い!」
 始業の鐘と共に呑気な声で、黒ぶち眼鏡をかけた若い女性が教室に入って来た。
 二十代前半と思わる女性ではあるが化粧っ気がなく、服装からもオシャレな感じはしないものの、人柄であろうか、子供達が近寄り易いふんわりとした空気を漂わせていた。
「じゃあ授業始めるわよ~。えぇ~と、ニ十ページだったかしら~」
 ページをめくると、
「先生! 違うよ!」
 男子生徒が声を上げ、
「え? あぁ~ゴメンなさい、二十五ページだったわねぇ」
 テヘッと、可愛く舌を出すと、前に座る女子生徒が、
「あさちゃん先生!」
「もう、あさま先生って呼びなさいって、言ってるでしょ」
 ぷうっと、不満気にむくれた顔を見せると、
「先生、今は国語よ」
「またまたぁ~そうやって、みんなで騙そうとしてぇ~。先生、騙されないわよぉ~」
 生徒達の手元を見回し、
「あれぇ? 算数じゃ……」
 振り返り時間割を見て、
「先生、火曜日と勘違いしてたぁ~! だからテレビでクイズやってなかったんだ~!」
 頭を抱えると、教室内が明るい笑いに包まれた。
 おっちょこちょいなこの女性、新人と言う事もあり、当初は他のクラスの副担任をしていたのだが、事件後ハヤテとヒカリのクラス担任を決める会議でみな尻込みする中、
「こんな時に私達教師が尻込みしていてどうするんです!」
 会議で名乗りを上げ、他の教師達は「やれるものならやってみろ」と言わんばかりに、「どうぞ、そうぞ」と就かせたが、いざ授業が始まってみると彼女の性格もあってか、あっという間に信頼を得て、授業を受ける生徒達の生き生きした表情からは心のゆとりさえ感じ、事件前の常にピンと張り詰めた教室内とはまるで別物であり、そんな彼女にハヤテとヒカリも信頼を寄せていた。
 唐突に前の席の少女が振り返り、
「先生って、いつも面白いよね」
 笑って見せたのは、ツバサであった。
 そんな彼女に、ハヤテはわざと意地悪い顔して、
「くじ引きで席決めてるのに、またツバサなんだよなぁ。「ふせいそうさ」ってヤツか?」
「こう言うの「くされえん」って、言うんだって。お父さんが前に言ってた」
 意味が分かっているのいないのかツバサが微笑み返すと、ハヤテは不快そうな顔して、
「なんかそれ腐ってそうで、イヤだな……」
 しかし隣の席のヒカリはニッコリ笑い、
「細かいこと気にしないの。仲良く一緒にいられればそれで良いのよ」
「「ねぇ~~~」」
 ヒカリとツバサは笑い合った。
「そんなもんかねぇ」
 笑顔が眩しいヒカリに内心嬉しくも、怪訝そうなフリして二人を見つめるハヤテ。

 やっと訪れた穏やかな日々を送るハヤテ達の下に、二学期が始まる直前、新たなさざ波が立ち始めていた。
 ハヤテの父親の旅立ちである。
 かねてより「戦火にまみれる子供達の現状を世界に知らせたい」と言っていたハヤテの父親であったが、例の事件により一年先延ばしになっていた海外行きが、状況が安定した事でついに決行される事となったのである。そしてもう一人、旅立ちを迎える人物が。
 出発前日、ハヤテの家ではいつもの二家族のみでのささやかな壮行会が催された。
「今日の主賓は、お前達二人だな」
 ヒカリの父親は「ハヤテの父親とのぞみ」を、主賓席側へと押しやった。
 共に主賓席へと追いやられたハヤテの父親が、
「のぞみさん、国立大学受けるんだって?」
「はい。獣医を目標に、明日から入試に向けて新天地で追い込みです」
「そうか。体に気を付けてな」
「はい。ハヤテ君のお父様も、お気をつけて」
 健闘をたたえ合う二人が握手を交わすと、珍しく酔ったハヤテの母親が、
「そぅ~よ~まったく! 人の気も知らないで! ねぇ~ハヤテぇ~~~」
 ハヤテに抱き付つくと、
「うわぁ、お母さんお酒臭い! 酔っぱらいは、シッシッ!」
 鼻をつまんで邪険に追い払った。
「ハハハハ。大丈夫だって。何度も言うが、俺が行くのは戦場の外側なんだ。ヤバくなったらすぐ逃げるさ。俺が伝えたいのは戦場じゃなくて、それに苦しむ子供達の姿だからな」
 しかし赤ら顔の妻は、今度は夫に抱き付き、
「屁理屈言うなぁ~」
「なんか、のぞみさん悪いね」
 珍しく妻が見せる酔った勢い任せの醜態に、夫が苦笑いすると、のぞみは首を横に振り、
「お気持ちお察しします。外側と言えど戦場である事に変わりなく、安全が保障されている訳ではありませんもの……」
 気遣いを見せつつ、静かになったハヤテの母親の顔を覗き込むと、
「あれ? 寝てしまわれたようですわ」
「えぇ? しょうがないヤツだなぁ~。みんなスマン、先に始めてくれ。寝かせて来る」
 ハヤテの父親は妻を抱きかかえ寝室へと姿を消すと、ヒカリの父親は咳払いを一つし、
「じゃあ、まあそう言う事なら……では改めて、二人の成功を祈ってぇ、カンパーイ!」
「「「「「「カンパァーーーイ!」」」」」」
 一同は手にしたグラスを掲げた。

 早目に終了となった壮行会から一夜明けた次の日の朝―――
 玄関には、これから海外へ行くとは思えない程の荷物しか携えていないハヤテの父親が、妻と息子を前に立っていた。
「本当に……空港まで送らなくて良いの?」
 言いたい言葉が色々あった筈の妻であるが、いざその時が来ると、そんなありがちな言葉しか出て来ず、つなぐハヤテの手をただギュッと握りしめた。
 そんな、自身を歯がゆく思う妻の気持ちを察してか、
「空港まで来られたら泣いちまうからな……俺が」
 夫はニッと歯を見せ冗談めいて笑って見せ、そして終始無言のハヤテの目線まで屈み、
「お母さんを頼むぞハヤテ。お母さんは、俺にとってのヒカリちゃんなんだ」
 ハヤテが母親のスカートをしっかり掴み、唇をギュッと噛み締め、無言で頷くと、
「ヒカリちゃんを守ってあげるんだぞ。ナイトのハヤテ!」
 父親は、ハヤテの涙を見せない様、目に力込めて涙を堪え、無言で何度も頷く姿に、
「行って来る!」
 決意を固めた表情で立ち上がり扉を開け、一人、光の中へと足を踏み出した。
「……いってらっしゃい、あなた……気を付けて……」
「おう!」
 玄関扉が閉まる瞬間、振り返った夫がニッと歯を見せ笑い、扉はバタリと閉まった。
 暗く、静かになる玄関に残される、妻と息子。
「くうぅ……くうぅ……」
 手で口元を抑え嗚咽を漏らす母親の姿を見上げた瞬間、両親を気遣い、涙を堪えていたハヤテも、緊張の糸が切れた様に声を上げて泣き出した。
 しかしこの時ハヤテは知らなかった。ヒカリにも不穏な気配が忍び寄っていた事を。
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