閻魔の庁

常嗣帖

　　　　　　　　　　　　　　　一



　桓武天皇の子供たちが私怨をさらけ出した〈薬子の乱〉は、兄の平城を打ち破り弟の嵯峨が勝利した。さりとて兄院を攻め落とした良心の呵責は、嵯峨天皇の心の内にも渦巻いていた。
「……兄弟骨肉」
　そんな歴史の繰り返しを苛むように、早良親王は嵯峨天皇の枕元に夜な夜な姿を見せては、恨めしそうに見つめるのであった。薬子の乱を鎮定した最大の指導者である嵯峨天皇が、藤原薬子の怨霊に魘われなかったのも、次元の問題と思われる。冤罪により悲劇で怨霊への道を歩んだ早良親王と異なり、薬子は明らかに罪を帯び生命を玩んでいる。
（そんな者とは同じにされては困る）
　早良親王の怨霊が、あるいは薬子の怨念を防いでいたのかも知れない。
　生者も死者も、自尊心があり、格というものがあるのだろうか。そんなこんなで治世を円滑に進めることだけに、このときの嵯峨天皇は心を砕いていた。それでいて書を嗜む嵯峨天皇は、怨霊退散を通じて弘法大師空海とも親交を深めた。
　この当時の
「三大達筆」
として、空海・橘逸勢と並び評されたのが嵯峨天皇であった。

　薬子の乱より一三年。
　嵯峨天皇は早々に帝位を譲り渡して政権の座から退く。嵯峨天皇の後をうけて即位したのは、弟宮・大伴親王である。大伴親王は淳和天皇となるのだが、この即位に際し公卿大伴氏は
「新帝と同じ名を冠するは、まことに以て畏れ多いこと」
と、その姓より〈大〉を除き、伴氏と改めた。
　淳和親政時に台頭してきたのが、橘氏とこの伴氏である。橘氏は没落した貴族であったが、嵯峨上皇妃檀林皇后が橘氏出身ということで頭角を現した。更にいえば淳和天皇妃正子内親王は、嵯峨上皇と檀林皇后の間に生まれた姫殿下である。橘氏の基盤は天皇家縁戚を以て俄に隆盛を迎えた。伴氏については大伴改姓の一件もあって、淳和天皇から信頼をされたことから、立身に繋がった。
　このような門閥を面白くないと臍を噛んでいたのが、右大臣・藤原冬嗣である。冬嗣は内麻呂の次男で、父譲りの野心家であった。
（藤原以外の輩は宮中に留め置かず）
　その野心を発動させるには、まだまだ時間が必要であった。そして野心を発揮する暇もなく冬嗣は没し、その志は嫡子・良房へと受け継がれていくのである。