21 / 33
常嗣帖
しおりを挟む
三
当時の倭国……ニッポンが、外国と認識しているのは朝鮮国と唐天竺くらいのものである。
そのなかでも文化学問政治の模範とされてきたのが、唐国であった。かつて聖徳太子の時代には遣隋使という使節団があり、倭国は隋国へ多くの留学生を派遣した。隋が滅び唐国になると、今度は遣唐使を派遣したのである。
淳和天皇の治世は僅か一〇年。
次帝は嵯峨天皇の皇子・正良親王、のちの仁明天皇である。この仁明天皇の御世に行なわれた歴史的セレモニーのひとつが、第一三回遣唐使である。この遣唐使の副使という大役に、小野篁は任じられた。
しかし小野篁のことを
(小賢しい輩)
と、存在そのものを疎んじる者がいた。
参議勘解由長官藤原常嗣。藤原北家の血統で前中納言葛野麻呂の六男である。彼は藤原門閥で朝廷を一色に染めようという良房の権謀術数により、遣唐大使に任じられたのだが
(物識りぶって、博学をひけらかす奴)
と、小野篁のことをかなり毛嫌いしていた。だから何かしら問題をみつけて失脚させてしまおうと、常嗣は虎視眈々と狙い続けていた。
そんななか、夜な夜な小野篁が鳥辺野へ赴く事実が明るみになった。さては下賎な遊び女を匿っておいでかと、常嗣は人を使って後を追わせた。しかし小野篁の行方は六道の辻で必ず消えてしまう。
そのうち奇怪な噂が流れた。
「弾正小野巡察使は閻魔庁の役人なり」
その噂はたちまち貴族たちの間に駆け抜けた。しかし当の小野篁は、何喰わぬ顔で涼しげに受け流すだけであった。
(何とも気味の悪い……)
常嗣はいよいよ小野篁を嫌悪するのであった。
承和五年(838)七月五日、第一三回遣唐使が出発した。しかし、このとき小野篁は遣唐使節副大使の任を拒否し、随行をしていない。実はこれに先立ち遣唐使の船出をしたところ、舟が難破するという事故が発生した。そこで小野篁は舟を修繕し再出発しようと試みたのだが
「舟は遣唐大使の所有物たるが正しきことなり」
と、いきなり常嗣が横槍を入れて舟を横取りしてしまったのである。このことに激怒した小野篁は、大使である常嗣と真っ向から対立し、副大使の立場を忘れて乗船拒否を示したのだ。理由はどうあれ、勅命に叛いたことは事実である。
「断じて赦すまじ」
予てから篁の秀逸ぶりを毛嫌いしていた嵯峨上皇は、極刑を以て罰せよと息巻いた。この窮地を救ったのが、仁明天皇である。嵯峨上皇へ直接意見出来るのは、やはり帝しかいない。しかし仁明天皇をそうさせたのは、内蔵助藤原良相だ。良相と篁は一切の面識もない。しかし、篁の非は仕事大事から出た言葉であり、乗船拒否はその末に生じたことに過ぎぬ。
「あまりにも哀れである」
と、必死に直訴へ及んだのだ。位階の低い内蔵助の立場でありながら藤原良相が直訴できたのは、他ならぬ藤原北家の者だったからだろう。藤原良相は冬嗣五男で権中納言藤原良房の弟である。策謀家の多い藤原家にあって、彼は稀にみるほどの潔癖な人間であった。
「小野弾正にも理由があってのこと。ましてや相手が藤原家の者とあらば、一方的に罪を迫るは理不尽至極」
そう仁明天皇に訴えたらしい。その意を帝は汲んでくれ
「朕の御世で極刑は致したくない」
と嵯峨上皇を説得したのだ。更にこのとき仁明天皇を援護したのは、他ならぬ檀林皇后であった。この二人の哀訴となれば、いかに嵯峨上皇といえども
「我を通す」
ことは慎まねばならない。
結局、小野篁は隠岐流刑の沙汰となった。承和五年一一月五日の出来事である。
当時の倭国……ニッポンが、外国と認識しているのは朝鮮国と唐天竺くらいのものである。
そのなかでも文化学問政治の模範とされてきたのが、唐国であった。かつて聖徳太子の時代には遣隋使という使節団があり、倭国は隋国へ多くの留学生を派遣した。隋が滅び唐国になると、今度は遣唐使を派遣したのである。
淳和天皇の治世は僅か一〇年。
次帝は嵯峨天皇の皇子・正良親王、のちの仁明天皇である。この仁明天皇の御世に行なわれた歴史的セレモニーのひとつが、第一三回遣唐使である。この遣唐使の副使という大役に、小野篁は任じられた。
しかし小野篁のことを
(小賢しい輩)
と、存在そのものを疎んじる者がいた。
参議勘解由長官藤原常嗣。藤原北家の血統で前中納言葛野麻呂の六男である。彼は藤原門閥で朝廷を一色に染めようという良房の権謀術数により、遣唐大使に任じられたのだが
(物識りぶって、博学をひけらかす奴)
と、小野篁のことをかなり毛嫌いしていた。だから何かしら問題をみつけて失脚させてしまおうと、常嗣は虎視眈々と狙い続けていた。
そんななか、夜な夜な小野篁が鳥辺野へ赴く事実が明るみになった。さては下賎な遊び女を匿っておいでかと、常嗣は人を使って後を追わせた。しかし小野篁の行方は六道の辻で必ず消えてしまう。
そのうち奇怪な噂が流れた。
「弾正小野巡察使は閻魔庁の役人なり」
その噂はたちまち貴族たちの間に駆け抜けた。しかし当の小野篁は、何喰わぬ顔で涼しげに受け流すだけであった。
(何とも気味の悪い……)
常嗣はいよいよ小野篁を嫌悪するのであった。
承和五年(838)七月五日、第一三回遣唐使が出発した。しかし、このとき小野篁は遣唐使節副大使の任を拒否し、随行をしていない。実はこれに先立ち遣唐使の船出をしたところ、舟が難破するという事故が発生した。そこで小野篁は舟を修繕し再出発しようと試みたのだが
「舟は遣唐大使の所有物たるが正しきことなり」
と、いきなり常嗣が横槍を入れて舟を横取りしてしまったのである。このことに激怒した小野篁は、大使である常嗣と真っ向から対立し、副大使の立場を忘れて乗船拒否を示したのだ。理由はどうあれ、勅命に叛いたことは事実である。
「断じて赦すまじ」
予てから篁の秀逸ぶりを毛嫌いしていた嵯峨上皇は、極刑を以て罰せよと息巻いた。この窮地を救ったのが、仁明天皇である。嵯峨上皇へ直接意見出来るのは、やはり帝しかいない。しかし仁明天皇をそうさせたのは、内蔵助藤原良相だ。良相と篁は一切の面識もない。しかし、篁の非は仕事大事から出た言葉であり、乗船拒否はその末に生じたことに過ぎぬ。
「あまりにも哀れである」
と、必死に直訴へ及んだのだ。位階の低い内蔵助の立場でありながら藤原良相が直訴できたのは、他ならぬ藤原北家の者だったからだろう。藤原良相は冬嗣五男で権中納言藤原良房の弟である。策謀家の多い藤原家にあって、彼は稀にみるほどの潔癖な人間であった。
「小野弾正にも理由があってのこと。ましてや相手が藤原家の者とあらば、一方的に罪を迫るは理不尽至極」
そう仁明天皇に訴えたらしい。その意を帝は汲んでくれ
「朕の御世で極刑は致したくない」
と嵯峨上皇を説得したのだ。更にこのとき仁明天皇を援護したのは、他ならぬ檀林皇后であった。この二人の哀訴となれば、いかに嵯峨上皇といえども
「我を通す」
ことは慎まねばならない。
結局、小野篁は隠岐流刑の沙汰となった。承和五年一一月五日の出来事である。
1
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
それなりに怖い話。
只野誠
ホラー
これは創作です。
実際に起きた出来事はございません。創作です。事実ではございません。創作です創作です創作です。
本当に、実際に起きた話ではございません。
なので、安心して読むことができます。
オムニバス形式なので、どの章から読んでも問題ありません。
不定期に章を追加していきます。
2025/12/24:『おおみそか』の章を追加。2025/12/31の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/23:『みこし』の章を追加。2025/12/30の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/22:『かれんだー』の章を追加。2025/12/29の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/21:『おつきさまがみている』の章を追加。2025/12/28の朝8時頃より公開開始予定。
2025/12/20:『にんぎょう』の章を追加。2025/12/27の朝8時頃より公開開始予定。
2025/12/19:『ひるさがり』の章を追加。2025/12/26の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/18:『いるみねーしょん』の章を追加。2025/12/25の朝4時頃より公開開始予定。
※こちらの作品は、小説家になろう、カクヨム、アルファポリスで同時に掲載しています。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる