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第一話 鎌倉の火種 2
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二
応永一九年、武田伊豆守信春は鎌倉府にいた。脇に従う嫡男・安芸守信満は、老いた父を支えるように出仕した。上杉氏憲の婚姻以来の鎌倉だった。
「歳は取りとうねえな」
「は?」
「鎌倉は、年々遠く感じるで」
「隠居してから、父上は文句が増えましたな」
「大きなお世話だ」
信春は南北朝統一に至るまで、甲斐国内の乱に向き合ってきた苦労人だった。南北朝の混乱は甲斐の国土を疲弊させた。国人たちはお互いの信じるところに分裂し、戦いは日常茶飯事だった。
「さりとて、南北朝など今は昔ではござらぬか」
「そこよ」
信春は、信じるものの強さが如何に恐ろしいかを、切々と説いた。考えてもみよ、敬う帝がなくなることで、道に迷う者がどれほどいようか。
「さりとて鹿苑入道(足利義満)様の世に、両朝は統一されました」
「錦の御旗がなくなることの恐ろしさは、常軌を逸するところ。甲斐にもおかしい連中がいるだろう」
「ああ、逸見の奴ら」
三代将軍・足利義満により、天皇家としての統一は表向き達成された。しかし、不服の後南朝に同調する不満分子は諸国に点在した。甲斐国も例外ではない。
「逸見が後南朝へ加わり乱を起こすとまでは思わぬが、あの一党、ただでさえ武田を逆恨みしておるで。気が許せぬわ」
信春は、ぼそりと呟いた。
鎌倉府の長である関東公方・足利持氏は、武田父子を丁重に迎えた。いざというときは、敵にしたくない。武田の武勇は天下に響いていた。
「甲斐の国内はどうか?」
この頃、逸見という国人が頼まれもせぬのに勝手に文を送ってくる。あれは何物かと、持氏はその正体を質した。
「もとは甲斐源氏の氏族です。しかし、長いこと武田に従わぬ者です」
「ほう、それでか」
持氏は口元を曲げた。信春は訝しげに、じっと目を細めそれを見た。
「その者曰く、本来ならば逸見こそが甲斐源氏の棟梁にて、いつかは甲斐守を取り返したいというのだ」
「馬鹿馬鹿しい」
逸見が甲斐守護職を称したことなど一度もない。
「お相手にすることはございません。無駄なことにて」
と、信春は顔を顰めた。
「甲斐のことはお任せあれ。それよりも我らが励むべきは、鎌倉府の安泰です。東国が平らかであれば、飢餓にも苦しむことはございますまい。安泰がなによりにござる」
信満が申し出た。
これは、婿である上杉氏憲との関係を遠回しに示唆したものだ。持氏は心と裏腹に、笑みを浮かべながら
「他意はない」
と明言するのであった。
帰途、武田信春は馬上で呟く。
「あれは、逸見と通じているな」
「やはり」
信満も頷いた。自分からは敵にしたくない。が、見て見ぬふりは出来る。足利持氏の魂胆は信春の見抜いた通りだ。それも、すべては、犬懸上杉氏憲の縁戚だという理由だけだろう。
「上杉の婿殿は、しっかりと現実をみておる。非なんぞ、ない」
信満は忌々しく吐き捨てた。
「しかし、関東公方というものは、東国の将軍だからな。あんな浅慮丸出しでは、諫めることもひと苦労であろうよ」
「はい」
「だから隙をみせず、むしろ奴らの非を見つけるのだ。我らの手で逸見を滅ぼしてしまえばいい。それだけで、関東公方には、甲斐源氏を敵にしないという戒めとなる。八郎には武才があるからな、任せれば、喜んで逸見を滅ぼすぞ」
信春は明言した。
甲斐守護職に対する謀叛をでっちあげ、その建前で逸見一族を根絶やしとすれば、少なくとも武田家への火の粉は払えるだろう。そのためにも、こちらが隙を作ることだけはあってはならぬ。
この夜、武田父子は犬懸上杉氏憲のもとで一泊し、翌日、鎌倉を発った。足柄峠を経て、籠坂峠を越えたところで日は落ちた。山中で一泊して、翌日に国中へと戻った。
留守中、甲斐には特に変わったこともなかったようだ。
「ああ、疲れた」
信春は塩ノ山の麓の湯治場で、暫く逗留しながら
「逸見の動向を調べよ。何でもいい、気がついたことを報せるべし」
と、家中の者へ命じた。このことは、国内に潜伏する手の者により、逸見一族の知るところとなった。武田から動くということは、余程のことだ。足利持氏からの警告が下手をしたのではあるまいか。とにかく隙を見せてはならない。
腹の探り合いは一年ほど続いた。
応永二〇年(1413)、『塩山向獄禅菴小年代記』によると、武田の屋敷が乱で焼けたとされる。逸見という記述はないが、何物かを扇動した可能性は否定できない。武田信春は柳沢へ移り、この乱の平定を急いだ。
この転居の頃から、信春は健康を害した。
「よもや、毒を盛られたのではあるまいな」
信満は真っ先に疑った。が、どうやら加齢が原因という診立てだった。
「戦さは儂が采配する。父上には静養が必要じゃ」
加齢は病ではない。しかし、死を伴う。これは人の運命だ。信春は療養に徹し、代わって信満が委細を取り仕切った。しかし寿命には逆らうことが出来なかった。武田信春が没したのは、応永二〇年(1413)一〇月二三日のことである。信武以来、南北朝動乱期にしっかりと甲斐を束ねた三代目の最期は、何かやり残したような無念を滲ませるような心地だった。
民政に心を砕いた武田信春の死を悼む領民は多く、甲斐国は悲しみに沈んだ。
信春の戒名は
「護国院殿花峯春公大居士」
とされ、その葬儀は盛大なものだった。
「おじいは立派だった。親父も立派だ。これからも団結しねえとな、兄上」
信長はボロボロと泣きながら、信重をみた。
「儂はお前ほど甘え上手ではない」
「別に甘えたつもりはござらぬ」
「甘えというより、おじじ様は八郎を無性に可愛がっていたものな」
「兄上は世継ぎだから厳しかったのだろう?」
「そうかもな」
信春の葬儀が済むと、信重と信長は館の周囲を厳重に固め、自ら甲冑に身を固めた。信春の死を知り、いつ、誰が攻め入るかわからぬ。そういう気運が漂っていた。
しかし、信満の武勇は周知のとおりだ。攻めてくる者は、まともではあるまい。常軌を逸する者、すなわち逸見一族。武田の家中では、そう囁かぬ者はない。面白くないのは逸見側だろう。勝手に爺が死んで、勝手に敵視されている。ならば相手の望み通りにしてやろうか。
「早まるな」
足利持氏は厳しくこれを制した。逸見一族が決起を留まったのは、ただそれだけの理由だ。戦って勝とうというのではなく、ただ不満を晴らすために荒らす。そのことに実りはないことを、持氏は強く説いたのだ。
そうでありながら、自身はどうか。
(犬懸の小賢しい奴め)
そのことについては、持氏こそ、まったく自制の出来ないではないか。逸見のことをどうこういえる立場ではないのだ。
持氏が犬懸上杉氏憲に接する態度は、全く合理性に欠けるものだ。
(あいつ、気に入らない)
ただただ感情論でしかない。嫌いだから疎遠とした、それだけのことなのだ。
鎌倉府という行政府を中立に運営することは、公正な人物が重要である。関東管領として、たしかに上杉氏憲は中立な立場を意識していた。ここでいう中立とは、係争のときの仲介を円滑に行ううえで必要なことだ。私利私欲もない、申し分のない官吏といえる。
足利持氏の本意は、幕府への不服だ。
(父も祖父も抱いた不服である。儂の一存ではない。それが、鎌倉公方家なのだ)
犬懸上杉氏憲の立場は、公平だ。
(涼しい顔で将軍家にもさらりと付入る。どっちの味方か、知れたものではない)
ねじれた私見だ。が、気に入らないという気持ちは本当なのである。こればかりは仕方のないことだった。
応永一九年、武田伊豆守信春は鎌倉府にいた。脇に従う嫡男・安芸守信満は、老いた父を支えるように出仕した。上杉氏憲の婚姻以来の鎌倉だった。
「歳は取りとうねえな」
「は?」
「鎌倉は、年々遠く感じるで」
「隠居してから、父上は文句が増えましたな」
「大きなお世話だ」
信春は南北朝統一に至るまで、甲斐国内の乱に向き合ってきた苦労人だった。南北朝の混乱は甲斐の国土を疲弊させた。国人たちはお互いの信じるところに分裂し、戦いは日常茶飯事だった。
「さりとて、南北朝など今は昔ではござらぬか」
「そこよ」
信春は、信じるものの強さが如何に恐ろしいかを、切々と説いた。考えてもみよ、敬う帝がなくなることで、道に迷う者がどれほどいようか。
「さりとて鹿苑入道(足利義満)様の世に、両朝は統一されました」
「錦の御旗がなくなることの恐ろしさは、常軌を逸するところ。甲斐にもおかしい連中がいるだろう」
「ああ、逸見の奴ら」
三代将軍・足利義満により、天皇家としての統一は表向き達成された。しかし、不服の後南朝に同調する不満分子は諸国に点在した。甲斐国も例外ではない。
「逸見が後南朝へ加わり乱を起こすとまでは思わぬが、あの一党、ただでさえ武田を逆恨みしておるで。気が許せぬわ」
信春は、ぼそりと呟いた。
鎌倉府の長である関東公方・足利持氏は、武田父子を丁重に迎えた。いざというときは、敵にしたくない。武田の武勇は天下に響いていた。
「甲斐の国内はどうか?」
この頃、逸見という国人が頼まれもせぬのに勝手に文を送ってくる。あれは何物かと、持氏はその正体を質した。
「もとは甲斐源氏の氏族です。しかし、長いこと武田に従わぬ者です」
「ほう、それでか」
持氏は口元を曲げた。信春は訝しげに、じっと目を細めそれを見た。
「その者曰く、本来ならば逸見こそが甲斐源氏の棟梁にて、いつかは甲斐守を取り返したいというのだ」
「馬鹿馬鹿しい」
逸見が甲斐守護職を称したことなど一度もない。
「お相手にすることはございません。無駄なことにて」
と、信春は顔を顰めた。
「甲斐のことはお任せあれ。それよりも我らが励むべきは、鎌倉府の安泰です。東国が平らかであれば、飢餓にも苦しむことはございますまい。安泰がなによりにござる」
信満が申し出た。
これは、婿である上杉氏憲との関係を遠回しに示唆したものだ。持氏は心と裏腹に、笑みを浮かべながら
「他意はない」
と明言するのであった。
帰途、武田信春は馬上で呟く。
「あれは、逸見と通じているな」
「やはり」
信満も頷いた。自分からは敵にしたくない。が、見て見ぬふりは出来る。足利持氏の魂胆は信春の見抜いた通りだ。それも、すべては、犬懸上杉氏憲の縁戚だという理由だけだろう。
「上杉の婿殿は、しっかりと現実をみておる。非なんぞ、ない」
信満は忌々しく吐き捨てた。
「しかし、関東公方というものは、東国の将軍だからな。あんな浅慮丸出しでは、諫めることもひと苦労であろうよ」
「はい」
「だから隙をみせず、むしろ奴らの非を見つけるのだ。我らの手で逸見を滅ぼしてしまえばいい。それだけで、関東公方には、甲斐源氏を敵にしないという戒めとなる。八郎には武才があるからな、任せれば、喜んで逸見を滅ぼすぞ」
信春は明言した。
甲斐守護職に対する謀叛をでっちあげ、その建前で逸見一族を根絶やしとすれば、少なくとも武田家への火の粉は払えるだろう。そのためにも、こちらが隙を作ることだけはあってはならぬ。
この夜、武田父子は犬懸上杉氏憲のもとで一泊し、翌日、鎌倉を発った。足柄峠を経て、籠坂峠を越えたところで日は落ちた。山中で一泊して、翌日に国中へと戻った。
留守中、甲斐には特に変わったこともなかったようだ。
「ああ、疲れた」
信春は塩ノ山の麓の湯治場で、暫く逗留しながら
「逸見の動向を調べよ。何でもいい、気がついたことを報せるべし」
と、家中の者へ命じた。このことは、国内に潜伏する手の者により、逸見一族の知るところとなった。武田から動くということは、余程のことだ。足利持氏からの警告が下手をしたのではあるまいか。とにかく隙を見せてはならない。
腹の探り合いは一年ほど続いた。
応永二〇年(1413)、『塩山向獄禅菴小年代記』によると、武田の屋敷が乱で焼けたとされる。逸見という記述はないが、何物かを扇動した可能性は否定できない。武田信春は柳沢へ移り、この乱の平定を急いだ。
この転居の頃から、信春は健康を害した。
「よもや、毒を盛られたのではあるまいな」
信満は真っ先に疑った。が、どうやら加齢が原因という診立てだった。
「戦さは儂が采配する。父上には静養が必要じゃ」
加齢は病ではない。しかし、死を伴う。これは人の運命だ。信春は療養に徹し、代わって信満が委細を取り仕切った。しかし寿命には逆らうことが出来なかった。武田信春が没したのは、応永二〇年(1413)一〇月二三日のことである。信武以来、南北朝動乱期にしっかりと甲斐を束ねた三代目の最期は、何かやり残したような無念を滲ませるような心地だった。
民政に心を砕いた武田信春の死を悼む領民は多く、甲斐国は悲しみに沈んだ。
信春の戒名は
「護国院殿花峯春公大居士」
とされ、その葬儀は盛大なものだった。
「おじいは立派だった。親父も立派だ。これからも団結しねえとな、兄上」
信長はボロボロと泣きながら、信重をみた。
「儂はお前ほど甘え上手ではない」
「別に甘えたつもりはござらぬ」
「甘えというより、おじじ様は八郎を無性に可愛がっていたものな」
「兄上は世継ぎだから厳しかったのだろう?」
「そうかもな」
信春の葬儀が済むと、信重と信長は館の周囲を厳重に固め、自ら甲冑に身を固めた。信春の死を知り、いつ、誰が攻め入るかわからぬ。そういう気運が漂っていた。
しかし、信満の武勇は周知のとおりだ。攻めてくる者は、まともではあるまい。常軌を逸する者、すなわち逸見一族。武田の家中では、そう囁かぬ者はない。面白くないのは逸見側だろう。勝手に爺が死んで、勝手に敵視されている。ならば相手の望み通りにしてやろうか。
「早まるな」
足利持氏は厳しくこれを制した。逸見一族が決起を留まったのは、ただそれだけの理由だ。戦って勝とうというのではなく、ただ不満を晴らすために荒らす。そのことに実りはないことを、持氏は強く説いたのだ。
そうでありながら、自身はどうか。
(犬懸の小賢しい奴め)
そのことについては、持氏こそ、まったく自制の出来ないではないか。逸見のことをどうこういえる立場ではないのだ。
持氏が犬懸上杉氏憲に接する態度は、全く合理性に欠けるものだ。
(あいつ、気に入らない)
ただただ感情論でしかない。嫌いだから疎遠とした、それだけのことなのだ。
鎌倉府という行政府を中立に運営することは、公正な人物が重要である。関東管領として、たしかに上杉氏憲は中立な立場を意識していた。ここでいう中立とは、係争のときの仲介を円滑に行ううえで必要なことだ。私利私欲もない、申し分のない官吏といえる。
足利持氏の本意は、幕府への不服だ。
(父も祖父も抱いた不服である。儂の一存ではない。それが、鎌倉公方家なのだ)
犬懸上杉氏憲の立場は、公平だ。
(涼しい顔で将軍家にもさらりと付入る。どっちの味方か、知れたものではない)
ねじれた私見だ。が、気に入らないという気持ちは本当なのである。こればかりは仕方のないことだった。
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