選ばれなかった者の記録 ——復讐令嬢は王を超える

SALT

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第17話 証拠なき赦し、正義の亀裂

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人は、赦される資格がなければ――
赦されることそのものを、どこかで恐れてしまう。

 

グラウス・エインレッドは今、
その恐れを“自分にはないと思っていた感情”として、初めて知ろうとしていた。

 

***

神聖図書塔・第三階層。封印文献の間。

 

選ばれた高位司書と学士のみが立ち入れる、静謐な空間。
グラウスは一冊の法学文献を前に、微かに指を止めていた。

 

幾度も読み返してきた本。
彼の信念を支える“根”のような言葉が並ぶ中で――
今日は、たったひとつの注釈だけが、妙に目に留まった。

 

《赦しとは、証拠に基づかない判断である。
ゆえに、赦しを与える者は、神の資格を持たねばならぬ》

 

それは正式な法文ではない。
誰かが私的に記したにすぎない、余白の言葉だった。

 

けれどそこに、“触れてはいけない静かな真実”が潜んでいた。

 

「……感情論だ」

 

そう言ってページを閉じようとする。
だが――指先は、動かなかった。

 

心のどこかが、まだその続きを読ませたがっていた。

 

“法の外にある正しさ”。
それが、彼の中にほんの少しだけ、軋みを生んでいた。

 

***

数日後。私室。

 

再び、差出人のない封書が届いた。

 

けれど、香りも紙の手触りも――覚えていた。
あのとき、手にしたものと同じだった。

 

封の中には、詩のような短い言葉と、一枚の写本が添えられていた。

 

『記録は嘘をつかない。
けれど、人は記録をつくる。
ならば、誰が“嘘をつかなかった”と証明できるのか』

 

写本に記されていたのは、かつて彼自身が処理した記録。
――レイナ・アルヴィレスの最終証言。

 

確かに、見覚えがある。
だが、末尾には見慣れない印が押されていた。

 

《この証言は、第三者の圧力によって成立した可能性あり》

 

それは王印ではなかった。
けれど、王宮の内部にしか存在しない、特殊な記録印だった。

 

「……どうして、今さら……」

 

呟く声は、弱くはなかった。
ただ、戸惑いを含んだまま――空気を裂くように響いた。

 

否定したかった。
けれど、あのときの彼女の顔が、どうしても離れなかった。

 

レイナは泣いても怒ってもいなかった。
ただ、静かに――笑っていた。

 

まるで、“この未来を、すでに知っている”かのように。

 

***

その夜、眠れなかった。

 

何度も証言記録を開き、証人の名を追い、文書の細部を検証する。
だが――揺れていたのは証拠ではなかった。

 

揺れていたのは、“自分の正しさ”。
それを支えていた足場そのものだった。

 

「……なぜ、あのときあの女は、あんな顔をしていた……?」

 

誰に向けたわけでもない。
けれどその声には、かすかに震えが混じっていた。

 

正義に生きてきた。
証拠に基づいて裁いてきた。
――それは、正しいはずだった。

 

でも、もし。

 

もしその証拠が、誰かに歪められていたとしたら?
もし自分が、“仕組まれた決定”の一部だったとしたら?

 

そして――今。
あの女が、赦されようとしているとしたら?

 

それはつまり――
「自分が間違っていた」と認めること。

 

そしてそれこそが、彼にとって――
最も深く、最も静かな罰だった。

 

正義に生きた者が、何よりも赦せないもの。
それは、**“過去の自分”**だった。

 

***

グレイド村。夜。

 

レイナ・アルヴィレスは、報告書を閉じ、
静かに紅茶を口に含んでいた。

 

向かいに立つセレノの横顔は、相変わらず整っていて――
どこか、“語るより先にすべてを理解している”ように見えた。

 

その静けさは、決して冷たくはなかった。
近づくことを許さぬ美しさ。
それでも尚、そっと隣に寄るような、やわらかな距離感。

 

「……心が壊れる音って、案外静かなのね」

 

レイナがつぶやく。

 

セレノは黙って頷いた。

 

「彼のような人には、“証明できない赦し”が一番深く届く。
それは、“神に否定された”と等しい意味を持ちます」

 

「……彼はいずれ、自分から過去を否定する」

 

その声はやさしかった。
けれど、その奥にあるものは――容赦ではなかった。

 

「そのとき、彼の“正義”は、静かに空っぽになる」

 

レイナは、ひとつだけ息を吐いた。
それは疲労でも達成でもない。小さな余白のような吐息だった。

 

「そうして初めて、彼は“ただの人間”になるのよ。
……もっとも、私はその彼を、赦すつもりはないけど」

 

机の上には、すでに次の封書が用意されていた。
今度は黒――まるで喪に服すような、沈黙の色。

 

それは、誰かが“死ぬ”ための色ではなかった。

 

――信じてきたものが、静かに終わるための色だった。
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