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第36話 記されぬ名、崩れゆく証
しおりを挟む地位とは、証明だ。
名とは、証拠だ。
だが――それが“記されなくなる”とき、
人はようやく、自分が“空白”になっていく恐怖を知る。
***
王都・文官庁舎。
朝。職員たちはいつも通り、文書処理に取りかかっていた。
異変は、音もなく始まった。
「……この書類、署名欄が空白です」
「昨日、局長が直接確認して、押印したはずですが……」
「印も、名前も……ん? あの人、誰だったっけ?」
一人、また一人と、“名前を思い出せない”者が現れる。
昨夜までは確かに存在していた署名。
それが、朝にはすべて――消えていた。
「昨日、確かに見たんです。目の前で。
でも……名前が、頭から抜けてしまって……」
職員たちは、“記録の空白”に言葉を失っていった。
***
“逆書”の効果は、確実に広がっていた。
ただし、それは毒のように――ゆっくりと、静かに。
まず消えるのは、文書に記された“名前”。
次に、人々の記憶の中にある“名前の輪郭”が曖昧になっていく。
そして最後には、その人物の痕跡そのものが――霞んでいく。
部屋。
席。
声。
記録された行動や証言。
すべてが、“証明できない存在”へと変わっていく。
存在していても、証明されなければ――
この国では、“存在しなかった”とされる。
それこそが、制度に刻まれた最悪の呪いだった。
***
「……想像以上ね」
グレイド村。
レイナは届いた報告書をめくりながら、小さく呟いた。
「名前が消えるという現象が、
ここまで“制度の神経”を侵すなんて」
セレノが頷く。
「この国では、“存在の証明”が書類に依存しています。
人が“人”であるためには、“記録されている”ことが絶対条件です」
「つまり――名前を消すという行為は、“存在の剥奪”と同義」
レイナの前には、新たな黒紙が置かれていた。
次の対象の名前が、そこに記されようとしている。
だが、彼女はまだ“逆書”を発動しなかった。
「気づいたのよ」
「名前を消された者は、自分の“証”がなくなったことに気づけないの」
セレノの目が細められる。
「……つまり、消えながらも、“自分はまだそこにいる”と錯覚する」
「そう。でも、周囲は違う。
“確かにいたはず”という、ぼやけた違和感だけが空気に残るのよ」
その微細な違和感こそが、もっとも深く効く毒。
“確信が持てない”という形で、組織の芯から蝕んでいく。
***
王都・法務審議会 記録室。
青年職員が古文書の一冊を手に取り、眉をひそめた。
「この署名……政令にも、判例にも出てきません」
「でも、この文書の処理印は……誰が押したんだ?」
「……わかりません。
記録に、“その名”が存在していません」
その一言が落ちた瞬間、
記録室の空気が、きしむように凍りついた。
この国の者なら誰もが知っている。
記録がなければ、それは“存在しなかった”ことになるのだと。
***
「記されないということは――
この国では、“存在しない”ということ」
焚き火の前。レイナは揺れる火に目を落とし、静かに言った。
「でも、本当に恐ろしいのは……
“いないことに、誰も気づかない”こと」
風が止む。沈黙が、火の粉を運ぶ。
レイナの手には、一枚の紙。
そこには、まだ記されぬ“次の名”が眠っていた。
「次は、“制度をつなぐ者たち”。
記録を横断し、全体を設計した者たちへ――」
焚き火が、小さく弾ける。
その火は、これから焼かれる“名の重さ”を知っていた。
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