京に忍んで

犬野花子

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第三章

忍び寄る

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 慶時が常御所を宣耀殿から登花殿に移ることになって数ヶ月経ち、色々様変わりをせざるをえなくなっていた。

 火事による死者はなかったものの、火を消そうと動いた者達に負傷者は多い。さらに呑み込まれるように焼け落ちていった建物をさら地に戻し、再建する為にも男手がいくらあっても足りない。

 宣耀殿で東宮の元に仕えていた者達はほとんどがそこに当てられるようになった。東宮の変わり身をしていた忠明も、度々借り出されるのなら入れ替わりの身をここで止めたい、と訴えてきた。自分が東宮のままでいて、慶時親王が忠明として工事組に加わるのはどうしても我慢できぬと力説され、慶時も折れた。人員がすべて入れ替わり、顔を知らぬ者が入るタイミングも重なったのもある。

 そしてその入れ替わりにより、多くの女房が当てられるようになった。一気に周囲が女の世界となってしまったのだ。
 きっと帝の何かしらの意向が加わったのであろうと、慶時も忠明も苦笑した。

「東宮の身だと、仁子姫の元へ通えぬではないか」
 慶時は御簾の中の御座上で愚痴を溢した。
「ではわたくしが代わりに伺いましょうか」
 御簾越しに意地悪く微笑む忠明を、慶時は笑った。
「さては、わたしに労働させられぬと、しおらしい事を言っておいて今まで思うように動けなかった仕返しかな」
「恐れ多いことを」
「思っていないであろう」
 男二人で笑い合う。

 その秘めやかに語らう様子を、囲む女房達は頬を染め静かに熱く見つめている。
 彼女達は、今まで未開だった東宮の元に運良く滑り込むことが出来た身分高い貴族の娘達である。
 どんなに危ぶまれようとも、現東宮であることには代わりなく、さらには眉目秀麗である。忠明も顔立ちの良い男であった為、二人が楽しそうに語らう姿は女房達にはたまらなく至福眼福であった。

 そして、少しでもその二人の目に止まるよう、親や親族から追い立てられるまでもなく、自ら最高級の衣を纏い、美しく身を整え侍るのだ。

 その中のひとり、光子という女房もまた、誰よりも美しく着飾りたてていた。
 贅の限りに手をかけられ、蝶よ花よと育てられ、自分は誰よりも天上に立つ者の側にあることを信じて疑わなかった。
 その光子の瞳はトロトロと蕩けるかのごとく、熱くひたむきに御簾の奥へ注がれていた。
 美しくかつ最高の地位に立とうとする慶時親王は、自分と結ばれるさだめであると信じて疑わなかった。


 ある夜、光子は東宮付きの女房達に与えられた登花殿のすぐ南に位置する弘徽殿の北のつぼねで、体を休めるでもなく燈台の明かりを見つめて、時を迎えていた。

 コトリ、と僅かな音がしたと思うと、ストンと目の前に身軽な姿の男が落ちてきた。
 光子はその、顔を隠したままの不審者に怯えるでもなく、力強く見つめあげた。
「いよいよですね」
 力の籠った光子の声に男はフッと嗤った。
「ああ、待たせたな。これを、強く握ってから置いておくといい」
 男から渡された小袋を光子は受け取ると、懐にしまった。

「香を嗅ぐなよ。なるべくな」
「わかりました」
 スクリと立ち上がった光子は、燈台の火を消して局を出た。簀子に出て庭を横切る長廊下を北に向かう。暗闇の中点々と灯されている松明の明かりを頼りに進む。時折庭を巡回している男の松明に照らされるが、内裏の中にいる女房をわざわざ呼び止める無粋な者はいない。

 長い板張りの廊下を突っ切ると、登花殿の簀子へと入る。するとほのかに香のかおりが漂ってくる。光子は衣の裾でなるべく吸い込まぬように口鼻を覆って進む。
 どんどんけぶるほどの香の強さになる頃、登花殿の東側の簀子で見張りとおぼしき狩衣姿の男が二人、ウトウトと頭を揺らしているのに気付き、止まることなくその間をすり抜け孫廂内に入り込む。その中も、パタリパタリと男達が眠気に負け、倒れこんでいた。御簾を潜りさらに奥へと迷いなく御簾や几帳を縫っていく。

 東宮の寝所を目の前に光子はようやく足を止めた。そしてすぐさま女房装束を脱ぎ捨ててゆく。下級貴族であれば、とうてい手の入れられない高価なひとえも無造作に脱ぎ捨てて、ついには小袖姿になる。
 ゆっくりと足を忍ばせ、御帳をめくる。静かな寝息を立てる慶時親王の美しい顔に、光子は胸をときめかせた。このままいつまでも見つめていたいのだが、長居は許されていない。光子自身も香を嗅ぎすぎると本望を遂げられぬからだ。

 再び鼻を袖で覆いつつ、ゆっくりと慶時に掛けられている単をめくると、薄い小袖の生地から匂い立つような男の肉感の盛り上がり、筋肉の流線が飛び込み、ゾクゾクとしたものが背中を這う。
 光子は恍惚とした表情でゆっくりと手のひらをその胸元に滑らせていき、頬を寄せた。
 しばらくうっとりと堪能してから、懐に隠していた小袋を強く握りしめてそっと、慶時の顔のそばに置く。そして自分の腰紐に手をかけた。静まり返った空間にいやに響く衣擦れの音が、さらに鼓動を早める。
 晒された白い裸体は、躊躇なくまとわりつくように慶時の身体に被さっていった。

 闇に溶け込むような姿の男は、天板の隙間からその様子を確認したのち、静かに姿を眩ました。

 そして現れたのは翌朝、六条大宮邸と呼ばれる大納言宗鷹の邸であった。
 広い敷地内の中央にある寝殿の母屋で、多くの女房を侍らせた丸い体に厳つい顔の男が、粥を口に運ばせながら腹を満たしている。
 その遊惰で婀娜めく空間を物怖じもせず静かに縫って進むと、大納言の前に座った。
 簡易の地味な服に顔まで覆ったその男に女房達は不気味がるが、大納言本人は視線を投げるでもなく粥の乗る匙を口に入れ、しっかり味わってから濁声で問う。

「どうだ?」
「はい。済みました」
「ちゃんと最後まで確認したか?」
「そんな悪趣味は勘弁です。だけど、お香はしっかり調合してますんで、目が覚めても興奮した状態のまま明け方まで及ぶかと」
「はっはっはっ! それは良い。ワシも今度使ってみよう、なあ?」
 大納言は匙を持つ女房の顎をスルリと撫でた。女がしなをつくるのをニヤつきながら唇を重ねる。

「もう、いいですかね?」
 呆れ声を隠しもせず覆面の男が立ち上がると、大納言は顔を少しだけ向けた。
「おお、また褒美はしっかり与える。子が出来たならお前に最高の席を作ってやろう、風助」

 風助と呼ばれた男は首をすくめてみせるとまた静かに出ていった。
 しかし簀子に出る前にひとつの屏風の裏へスルリと入り、人影がないことを確認して身軽に天井の梁に飛び付き足から消えていった。

 そしてまた現れたのは寝殿の廂の一部、ストンと落ちてくるとなんの模様もない纏っていただけの布を剥ぎ取った。狩衣姿に豊かな黒髪を後ろで縛った、野性的な見目良い男となった。

「趣味の悪い男だぜほんと」
 大納言に仕えているというのに、露骨に吐き捨てたその男は、風太郎であった。
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