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第四夜 この感情の正体は
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鳳城学園の校舎から歩いて十五分ほど。
大きな邸宅の立ち並ぶ閑静な住宅街は、夜更けになると一層しんと静まり返っていた。
遠くで犬が一声、短く吠える。
「……ここです」
悠生が足を止めたのは、立派な屋敷の並びを抜けた先にひっそりと建つ、古びた二階建てのアパートだった。
外壁の塗装はところどころ剥がれ落ち、雨樋が少し歪んでいる。
階段の鉄骨は錆びつき、踏板を上がるたびに軋んだ音が響いた。
扉を開けると、狭い玄関にすぐに背の高い本棚が迫ってきていた。
靴を脱いで上がれば、六畳ほどの居間と、その奥に小さなキッチンが見える。
壁際には高さも色も揃わない本棚がぎっしり並び、理科や化学の専門書、論文集、図鑑、辞書に混じって、古びた計算尺や顕微鏡まで置かれている。
机の上には、古い型のラップトップPCが置かれていた。
「うわ、本、多いな」
蓮が感嘆の声を漏らす。
「狭いですよね、すみません。ほとんどは父のものです。大学で非常勤の研究員をしてて……家にも資料とか持ち帰ってて」
悠生は苦笑するように言いながら、窓際のスタンドライトを点けた。
「へえ、お父さんは研究者なんだ。血は争えないな」
蓮が悠生を見つめて微笑みながら言った。
「研究者……でした。4年前に亡くなりました」
悠生はなるべく重くならないよう、何気ない調子を装って言った。
研究者だった父は、実験や仕事に追われるあまり、自分の体調に気を配ることがなかった。
気が付いたときには、すでに病は深く進行していた。膵臓がん──それは静かに忍び寄って、最後はあっけないほどあっさりと父を奪っていった。
「……そうだったのか」
蓮は言葉を失い、申し訳なさそうに目を伏せた。
悠生はその空気をやわらげるように、慌てて笑顔を作る。
「でも、父が残してくれたものや教えてくれたことは、僕にとっては宝物です。たぶんそれがなかったら、鳳城にも受かってなかったと思いますし」
蓮の視線がもう一度、狭い部屋をぐるりと見渡す。
何かを言いたげに悠生をじっと見つめてから、蓮は何も言わずに頷いた。
長身の蓮が畳に腰を下ろすと、六畳間は一気に窮屈に見えた。
「お母さんは?」
ふと尋ねた蓮に、悠生はグラスに麦茶を注ぎながら答える。
「今夜は夜勤です。看護師をしているので……夜いないことが多いんです」
手渡されたグラスを蓮は無言で受け取る。
二人の間にしばし沈黙が流れた。
そのとき、不意に──ぐう、と低い音が響く。蓮の腹の虫だった。
蓮が、ばつが悪そうに眉を寄せる。
悠生は一瞬きょとんとしてから、思わず小さく笑った。
「先輩、お腹すいてるんですか」
「……悪い」
蓮がわずかに肩をすくめる。
「昼から何も食ってなくて」
「えっ、じゃあ……」
悠生は慌てて立ち上がった。
「ちょっと待っててください。簡単なものでよければ、何か作ります」
冷蔵庫を開けると、中には卵、昨夜の残りごはん、少しの野菜しかなかった。
悠生は迷わず食材を取り出すと、慣れた手つきでまな板の上に並べる。
包丁が軽快にまな板を叩く音が、狭い部屋に響いた。
フライパンに火を入れると、すぐに油のはぜる音と香ばしい匂いが広がる。
蓮は黙ったまま、その背中を見ていた。
やがて食卓代わりの机に置かれたのは、卵チャーハンと野菜スープだった。
「……本当に作ったんだ」
「当たり前ですよ。母は夜勤でいないことが多いですし、自分で作らなきゃ食べられないですからね」
悠生は照れくさそうに笑いながらスプーンを差し出した。
蓮は一口、チャーハンを口に運ぶ。
そしてゆっくり噛みしめると、顔をほころばせていった。
「……うまい」
「……よかったぁ」
蓮の様子を伺うように見つめていた悠生が、安心して頬を緩める。
スプーンを動かしながら、蓮がふと呟いた。
「手料理なんて……久しぶりだ」
その声には、どこか寂しさが滲んでいた。
悠生が不思議そうに首を傾げる。
「ご家族は……?」
「いるよ。でも……ほとんど会うことはないな。同じ家に住んでても顔を合わせるのは週に一度か二度って感じ」
チャーハンを見下ろしながら、蓮は小さく笑った。
「いるけど、いないも同然」
その声は、普段の蓮の軽さとは違い、妙に重たく響いた。
悠生は何も言えず、ただじっと耳を傾ける。
「……だから、こうやって誰かが作った飯食うの、ほんと久しぶりなんだよ」
蓮はスープをひとくちすすり、深く息を吐いた。
その後、ふと蓮が悠生を見つめて問いかけた。
「……なあ。悠生は、なんでそんなに勉強してるんだ?」
悠生は一瞬言葉に詰まり、それからゆっくりと息を吸った。
「……僕、理科の先生になりたいんです」
唐突に聞こえたのか、蓮が眉を上げる。悠生は気にせずに続けた。
「……小学生のころ、学校で怪談が流行ってたんです。『トイレの花子さん』って知ってますか?」
蓮が小さく頷くのを見て、悠生は続ける。
「僕の通っていた小学校は古い校舎だったのもあって、全体的に暗くて薄気味悪かったんですよ。それで、さらに誰もいないのにトイレの個室の鍵がかかっていたり、扉を叩くと『はい』って声みたいなのが返ってきたりして……。僕の同級生に、それが怖くてトイレに行けなくなって、授業中に失敗しちゃって、そのせいでいじめられて、学校に来れなくなっちゃった子がいたんです。もしあのとき、ちゃんと理由を説明できてたら……幽霊なんていない、って言ってあげられてたらって……」
一瞬、言葉が途切れる。
蓮は黙って聞いていた。
「それが悔しくて。今なら分かるんですよ。中に誰もいないのに鍵がかかる仕組みも、水道管や配管が共鳴して人の声みたいに聞こえることも。でも、あのときの僕は説明できなかった。科学って、世界の仕組みをちゃんと説明してくれるでしょう? 知識があれば、ただ怖いとか不安だとかじゃなくて、ちゃんと理由を知れる。そうすれば、世界の見え方が変わるはずなんです」
悠生は視線を落とし、指先で机をなぞった。
「父は研究者だったから、僕にもっと最先端のことをやってほしいと思ったかもしれません。でも、僕は……身近なところで、人の学びを助けたい。将来は理科の先生になって、子供たちの世界の見え方を広げたいんです」
そこまで言うと、悠生は照れ臭そうに笑い、肩をすくめた。
「……なんか、力説しちゃいましたね」
気恥ずかしそうに頭をかく。
蓮はスプーンを持つ手を止め、悠生をじっと見つめた。
「……すごいな、お前」
低く、感心したような声。
そして、少し間を置いて呟いた。
「俺には、そんな風に言えるような、したいことなんかない」
その言葉に、悠生は思わず目を上げた。
「ないって……先輩、将来の夢とかは?」
問いかけると、蓮は視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと口を開く。
「……昔はあったんだけどな、こうなりたい、みたいなのが」
蓮の声には、どこか懐かしさが滲んでいた。
机の縁を指でとん、と叩く仕草は、まるで何かを探しているようだ。
「何になりたかったんです?」
「……言わない」
「何でですか! いいですよ、当てます」
悠生が身を乗り出すと、蓮はわずかに口の端をゆがめる。
「当てられるのかよ」
「観察と推理は得意なんです。……ピアニスト、ですか?」
その言葉に、蓮の瞳に動揺の色が揺れた。
やがて蓮は低くつぶやいた。
「……あたり。でも、もうピアノは弾かない」
そう言いながら、視線は机の木目をなぞるように落ちていく。指が鍵盤を叩くように机の上で踊っていた。
「小さいころからずっと弾いてたんだ。発表会に出たり、コンクールで賞をもらったこともあった。……でも、今はもう関係ない」
さらりと口にしたその横顔には影が差している。
「……どうして?」
問いかけると、蓮は一瞬だけ顔を上げ、悠生の目をまっすぐに見返した。
けれどすぐに視線をそらし、どこか遠くを見るようにして顔をゆがめる。
「俺があまりにもピアノに夢中になりすぎたからね。ピアニストを目指すなんて言い出すとは、親も思ってなかったんだろうな。今じゃもう家のピアノも売っぱらわれたよ」
悠生は眉をしかめて、思わずこぶしを握る。
「でも! ……先輩のピアノ、すごかったです」
思い出すだけで、胸が熱くなる。
「あの夜、僕、初めて生のピアノをちゃんと聴いて……全身が震えました。呼吸もできなくなって、心臓がばくばくして。あんなに綺麗で、力強くて、胸を揺さぶられる音楽があるなんて思わなかった」
悠生はさらに身を乗り出す。
「だから……『弾かない』なんて、絶対にもったいないです」
言いながら、自分の言葉が熱を帯びすぎていることに気が付いて、悠生は少し頬を赤らめた。
それでも、あのとき胸に響いた旋律の記憶は今も消えていなかった。
蓮はその視線から逃げるように小さく肩をすくめ、机の縁に置いた指を止めた。
「……もう終わった話だよ」
顔を背けた蓮の横顔が、それ以上の追求を拒むように硬く閉ざされていた。
悠生は唇を噛み、何も言えなくなってしまった。
窓の外では、空がうっすらと明け白み始めている。
徹夜に近い時間を過ごした疲労もあり、悠生は思わず小さくあくびを漏らした。
「悪いな、話が長くなった」
蓮が言う。悠生は慌てて首を振った。
「そんなことないです。……でも、もう寝ましょうか」
悠生はそう言いながら、押し入れから布団を出した。
「僕は床で寝ますから、先輩は布団どうぞ」
「なんでだよ。ここ、お前の家だろ」
「でも、先輩はお客様ですし」
「俺は別に、どこでも寝れる」
蓮は譲らない調子で言い返す。悠生も負けじと声を張った。
「僕だってどこでも寝れます!」
少し声が裏返ってしまう。悠生と蓮は互いににらみ合うように見つめあった。
どちらも引かないまま、短い沈黙が流れる。
そして、耐えきれなくなったように悠生が言った。
「あぁもう! じゃあ、一緒に寝ますか!?」
勢い余って口から出た言葉は、自分でも驚くほど大きく畳の部屋に響く。
気が付けば一歩前に出ていて、至近距離で蓮を見上げていた。
蓮は一瞬、目を見開き、喉の奥小さく息を飲んだ。
そして慌てるように目をそらすと、ぶっきらぼうに言った。
そして、慌てて目をそらして言った。
「……狭いとか、文句言うなよ」
目をそらしたまま布団に潜り込む蓮の動作は、妙にぎこちない。
悠生は電気を消すと、遠慮がちにその隣に横になった。
畳の匂いと洗い立ての布団の、よく知っている匂いがする。
その中に混じる、柑橘系の、慣れない香り。
互いの肩が、触れるか触れないかの距離。
蓮の息遣いが耳元に伝わり、悠生はなぜかぎゅっと唇を閉じて自らの息を止めようとした。
────どうしてこんなことになったんだろう。
眠ろうとしても、眠れない。
冷蔵庫のブーンという低い駆動音が、やけに耳にまとわりつく。
普段なら気にならないはずの、秒針の刻むカチリ、カチリという音が響く。
肩のあたりが、蓮に触れている。
(そもそも、なんで僕は先輩を家に誘ったんだろう)
あの図書館の帰り道、街灯に照らされた蓮の顔があまりにも寂しそうで、放っておけなくなって。
気が付けば口から、「泊まりにきませんか」なんて言葉がこぼれていた。
(そして、なんで先輩は僕についてきたんだろう)
本名は何という名前で、どこの誰で、どんな生活をしていて────そんなことは、何一つ知らない。
もっと近づきたくて、もっと知りたくて、手を伸ばしたいのに、踏み込むことができなくて。
解き明かせない怪異のように、得体の知れない感情が、ずっと胸の奥に渦巻いている。
触れることが怖くて、近づくことが不安で。
この気持ちの正体が解き明かせれば、この恐怖もなくなるのだろうか────
そんなことをぐるぐると考える。
天井の照明から垂れ下がった紐が、薄闇の中でゆらりと揺れていた。。
布団の中で足の先がわずかに触れ合う。
全身の神経がそこに集中して、自分の全身が足の親指になったような気がした。
悠生が息を詰めたまま動けずにいると、不意に蓮がもぞもぞと身じろぎをし、ごろりと寝返りを打った。
床がきしむ音が響く。
至近距離で、目の前に蓮の顔がある。
闇に慣れた悠生の視界に、蓮の整った顔が迫る。
閉じられた長い睫毛の影が頬に落ちて、呼吸するたびに揺れているのが見える。
そのわずかな呼吸が、悠生の前髪を揺らすほどの距離。
「……起きてますか」
そっと尋ねると、目を閉じたままの蓮が口を開いた。
「寝てる」
「……起きてるじゃないですか」
暗がりの中で、蓮の唇がわずかに笑みの形に歪んだのが分かった。
閉じられたままの目が、柔らかく緩んでいるように見える。
「悠生」
蓮が悠生の名前を呼ぶ。
そして、ゆっくりと言った。
「……今日はありがとな」
悠生の胸が、どくんと大きく脈を打つ。
体の奥底から何かがこみあげてきて、泣きそうな気持ちになる。
たった一言で、こんなに胸を揺さぶられるのは、何故だろう。
「おやすみなさい、先輩」
悠生はそう呟くと、ぎゅっと目を閉じた。
そして、ほんの少しだけ布団の中で体を動かす。
ほんの数センチだけ、体を寄せる。
目を閉じたままの蓮が、それに気が付かなければいいと願いながら。
瞼を閉じても、暗闇に浮かぶ金髪が、いつまでもきらきらと輝いているような気がした。
得体の知れない感情は、いまだまだ解き明かせない。
それでもそれは、恐怖ではなく、確かな熱となって、悠生の中に広がっていった。
大きな邸宅の立ち並ぶ閑静な住宅街は、夜更けになると一層しんと静まり返っていた。
遠くで犬が一声、短く吠える。
「……ここです」
悠生が足を止めたのは、立派な屋敷の並びを抜けた先にひっそりと建つ、古びた二階建てのアパートだった。
外壁の塗装はところどころ剥がれ落ち、雨樋が少し歪んでいる。
階段の鉄骨は錆びつき、踏板を上がるたびに軋んだ音が響いた。
扉を開けると、狭い玄関にすぐに背の高い本棚が迫ってきていた。
靴を脱いで上がれば、六畳ほどの居間と、その奥に小さなキッチンが見える。
壁際には高さも色も揃わない本棚がぎっしり並び、理科や化学の専門書、論文集、図鑑、辞書に混じって、古びた計算尺や顕微鏡まで置かれている。
机の上には、古い型のラップトップPCが置かれていた。
「うわ、本、多いな」
蓮が感嘆の声を漏らす。
「狭いですよね、すみません。ほとんどは父のものです。大学で非常勤の研究員をしてて……家にも資料とか持ち帰ってて」
悠生は苦笑するように言いながら、窓際のスタンドライトを点けた。
「へえ、お父さんは研究者なんだ。血は争えないな」
蓮が悠生を見つめて微笑みながら言った。
「研究者……でした。4年前に亡くなりました」
悠生はなるべく重くならないよう、何気ない調子を装って言った。
研究者だった父は、実験や仕事に追われるあまり、自分の体調に気を配ることがなかった。
気が付いたときには、すでに病は深く進行していた。膵臓がん──それは静かに忍び寄って、最後はあっけないほどあっさりと父を奪っていった。
「……そうだったのか」
蓮は言葉を失い、申し訳なさそうに目を伏せた。
悠生はその空気をやわらげるように、慌てて笑顔を作る。
「でも、父が残してくれたものや教えてくれたことは、僕にとっては宝物です。たぶんそれがなかったら、鳳城にも受かってなかったと思いますし」
蓮の視線がもう一度、狭い部屋をぐるりと見渡す。
何かを言いたげに悠生をじっと見つめてから、蓮は何も言わずに頷いた。
長身の蓮が畳に腰を下ろすと、六畳間は一気に窮屈に見えた。
「お母さんは?」
ふと尋ねた蓮に、悠生はグラスに麦茶を注ぎながら答える。
「今夜は夜勤です。看護師をしているので……夜いないことが多いんです」
手渡されたグラスを蓮は無言で受け取る。
二人の間にしばし沈黙が流れた。
そのとき、不意に──ぐう、と低い音が響く。蓮の腹の虫だった。
蓮が、ばつが悪そうに眉を寄せる。
悠生は一瞬きょとんとしてから、思わず小さく笑った。
「先輩、お腹すいてるんですか」
「……悪い」
蓮がわずかに肩をすくめる。
「昼から何も食ってなくて」
「えっ、じゃあ……」
悠生は慌てて立ち上がった。
「ちょっと待っててください。簡単なものでよければ、何か作ります」
冷蔵庫を開けると、中には卵、昨夜の残りごはん、少しの野菜しかなかった。
悠生は迷わず食材を取り出すと、慣れた手つきでまな板の上に並べる。
包丁が軽快にまな板を叩く音が、狭い部屋に響いた。
フライパンに火を入れると、すぐに油のはぜる音と香ばしい匂いが広がる。
蓮は黙ったまま、その背中を見ていた。
やがて食卓代わりの机に置かれたのは、卵チャーハンと野菜スープだった。
「……本当に作ったんだ」
「当たり前ですよ。母は夜勤でいないことが多いですし、自分で作らなきゃ食べられないですからね」
悠生は照れくさそうに笑いながらスプーンを差し出した。
蓮は一口、チャーハンを口に運ぶ。
そしてゆっくり噛みしめると、顔をほころばせていった。
「……うまい」
「……よかったぁ」
蓮の様子を伺うように見つめていた悠生が、安心して頬を緩める。
スプーンを動かしながら、蓮がふと呟いた。
「手料理なんて……久しぶりだ」
その声には、どこか寂しさが滲んでいた。
悠生が不思議そうに首を傾げる。
「ご家族は……?」
「いるよ。でも……ほとんど会うことはないな。同じ家に住んでても顔を合わせるのは週に一度か二度って感じ」
チャーハンを見下ろしながら、蓮は小さく笑った。
「いるけど、いないも同然」
その声は、普段の蓮の軽さとは違い、妙に重たく響いた。
悠生は何も言えず、ただじっと耳を傾ける。
「……だから、こうやって誰かが作った飯食うの、ほんと久しぶりなんだよ」
蓮はスープをひとくちすすり、深く息を吐いた。
その後、ふと蓮が悠生を見つめて問いかけた。
「……なあ。悠生は、なんでそんなに勉強してるんだ?」
悠生は一瞬言葉に詰まり、それからゆっくりと息を吸った。
「……僕、理科の先生になりたいんです」
唐突に聞こえたのか、蓮が眉を上げる。悠生は気にせずに続けた。
「……小学生のころ、学校で怪談が流行ってたんです。『トイレの花子さん』って知ってますか?」
蓮が小さく頷くのを見て、悠生は続ける。
「僕の通っていた小学校は古い校舎だったのもあって、全体的に暗くて薄気味悪かったんですよ。それで、さらに誰もいないのにトイレの個室の鍵がかかっていたり、扉を叩くと『はい』って声みたいなのが返ってきたりして……。僕の同級生に、それが怖くてトイレに行けなくなって、授業中に失敗しちゃって、そのせいでいじめられて、学校に来れなくなっちゃった子がいたんです。もしあのとき、ちゃんと理由を説明できてたら……幽霊なんていない、って言ってあげられてたらって……」
一瞬、言葉が途切れる。
蓮は黙って聞いていた。
「それが悔しくて。今なら分かるんですよ。中に誰もいないのに鍵がかかる仕組みも、水道管や配管が共鳴して人の声みたいに聞こえることも。でも、あのときの僕は説明できなかった。科学って、世界の仕組みをちゃんと説明してくれるでしょう? 知識があれば、ただ怖いとか不安だとかじゃなくて、ちゃんと理由を知れる。そうすれば、世界の見え方が変わるはずなんです」
悠生は視線を落とし、指先で机をなぞった。
「父は研究者だったから、僕にもっと最先端のことをやってほしいと思ったかもしれません。でも、僕は……身近なところで、人の学びを助けたい。将来は理科の先生になって、子供たちの世界の見え方を広げたいんです」
そこまで言うと、悠生は照れ臭そうに笑い、肩をすくめた。
「……なんか、力説しちゃいましたね」
気恥ずかしそうに頭をかく。
蓮はスプーンを持つ手を止め、悠生をじっと見つめた。
「……すごいな、お前」
低く、感心したような声。
そして、少し間を置いて呟いた。
「俺には、そんな風に言えるような、したいことなんかない」
その言葉に、悠生は思わず目を上げた。
「ないって……先輩、将来の夢とかは?」
問いかけると、蓮は視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと口を開く。
「……昔はあったんだけどな、こうなりたい、みたいなのが」
蓮の声には、どこか懐かしさが滲んでいた。
机の縁を指でとん、と叩く仕草は、まるで何かを探しているようだ。
「何になりたかったんです?」
「……言わない」
「何でですか! いいですよ、当てます」
悠生が身を乗り出すと、蓮はわずかに口の端をゆがめる。
「当てられるのかよ」
「観察と推理は得意なんです。……ピアニスト、ですか?」
その言葉に、蓮の瞳に動揺の色が揺れた。
やがて蓮は低くつぶやいた。
「……あたり。でも、もうピアノは弾かない」
そう言いながら、視線は机の木目をなぞるように落ちていく。指が鍵盤を叩くように机の上で踊っていた。
「小さいころからずっと弾いてたんだ。発表会に出たり、コンクールで賞をもらったこともあった。……でも、今はもう関係ない」
さらりと口にしたその横顔には影が差している。
「……どうして?」
問いかけると、蓮は一瞬だけ顔を上げ、悠生の目をまっすぐに見返した。
けれどすぐに視線をそらし、どこか遠くを見るようにして顔をゆがめる。
「俺があまりにもピアノに夢中になりすぎたからね。ピアニストを目指すなんて言い出すとは、親も思ってなかったんだろうな。今じゃもう家のピアノも売っぱらわれたよ」
悠生は眉をしかめて、思わずこぶしを握る。
「でも! ……先輩のピアノ、すごかったです」
思い出すだけで、胸が熱くなる。
「あの夜、僕、初めて生のピアノをちゃんと聴いて……全身が震えました。呼吸もできなくなって、心臓がばくばくして。あんなに綺麗で、力強くて、胸を揺さぶられる音楽があるなんて思わなかった」
悠生はさらに身を乗り出す。
「だから……『弾かない』なんて、絶対にもったいないです」
言いながら、自分の言葉が熱を帯びすぎていることに気が付いて、悠生は少し頬を赤らめた。
それでも、あのとき胸に響いた旋律の記憶は今も消えていなかった。
蓮はその視線から逃げるように小さく肩をすくめ、机の縁に置いた指を止めた。
「……もう終わった話だよ」
顔を背けた蓮の横顔が、それ以上の追求を拒むように硬く閉ざされていた。
悠生は唇を噛み、何も言えなくなってしまった。
窓の外では、空がうっすらと明け白み始めている。
徹夜に近い時間を過ごした疲労もあり、悠生は思わず小さくあくびを漏らした。
「悪いな、話が長くなった」
蓮が言う。悠生は慌てて首を振った。
「そんなことないです。……でも、もう寝ましょうか」
悠生はそう言いながら、押し入れから布団を出した。
「僕は床で寝ますから、先輩は布団どうぞ」
「なんでだよ。ここ、お前の家だろ」
「でも、先輩はお客様ですし」
「俺は別に、どこでも寝れる」
蓮は譲らない調子で言い返す。悠生も負けじと声を張った。
「僕だってどこでも寝れます!」
少し声が裏返ってしまう。悠生と蓮は互いににらみ合うように見つめあった。
どちらも引かないまま、短い沈黙が流れる。
そして、耐えきれなくなったように悠生が言った。
「あぁもう! じゃあ、一緒に寝ますか!?」
勢い余って口から出た言葉は、自分でも驚くほど大きく畳の部屋に響く。
気が付けば一歩前に出ていて、至近距離で蓮を見上げていた。
蓮は一瞬、目を見開き、喉の奥小さく息を飲んだ。
そして慌てるように目をそらすと、ぶっきらぼうに言った。
そして、慌てて目をそらして言った。
「……狭いとか、文句言うなよ」
目をそらしたまま布団に潜り込む蓮の動作は、妙にぎこちない。
悠生は電気を消すと、遠慮がちにその隣に横になった。
畳の匂いと洗い立ての布団の、よく知っている匂いがする。
その中に混じる、柑橘系の、慣れない香り。
互いの肩が、触れるか触れないかの距離。
蓮の息遣いが耳元に伝わり、悠生はなぜかぎゅっと唇を閉じて自らの息を止めようとした。
────どうしてこんなことになったんだろう。
眠ろうとしても、眠れない。
冷蔵庫のブーンという低い駆動音が、やけに耳にまとわりつく。
普段なら気にならないはずの、秒針の刻むカチリ、カチリという音が響く。
肩のあたりが、蓮に触れている。
(そもそも、なんで僕は先輩を家に誘ったんだろう)
あの図書館の帰り道、街灯に照らされた蓮の顔があまりにも寂しそうで、放っておけなくなって。
気が付けば口から、「泊まりにきませんか」なんて言葉がこぼれていた。
(そして、なんで先輩は僕についてきたんだろう)
本名は何という名前で、どこの誰で、どんな生活をしていて────そんなことは、何一つ知らない。
もっと近づきたくて、もっと知りたくて、手を伸ばしたいのに、踏み込むことができなくて。
解き明かせない怪異のように、得体の知れない感情が、ずっと胸の奥に渦巻いている。
触れることが怖くて、近づくことが不安で。
この気持ちの正体が解き明かせれば、この恐怖もなくなるのだろうか────
そんなことをぐるぐると考える。
天井の照明から垂れ下がった紐が、薄闇の中でゆらりと揺れていた。。
布団の中で足の先がわずかに触れ合う。
全身の神経がそこに集中して、自分の全身が足の親指になったような気がした。
悠生が息を詰めたまま動けずにいると、不意に蓮がもぞもぞと身じろぎをし、ごろりと寝返りを打った。
床がきしむ音が響く。
至近距離で、目の前に蓮の顔がある。
闇に慣れた悠生の視界に、蓮の整った顔が迫る。
閉じられた長い睫毛の影が頬に落ちて、呼吸するたびに揺れているのが見える。
そのわずかな呼吸が、悠生の前髪を揺らすほどの距離。
「……起きてますか」
そっと尋ねると、目を閉じたままの蓮が口を開いた。
「寝てる」
「……起きてるじゃないですか」
暗がりの中で、蓮の唇がわずかに笑みの形に歪んだのが分かった。
閉じられたままの目が、柔らかく緩んでいるように見える。
「悠生」
蓮が悠生の名前を呼ぶ。
そして、ゆっくりと言った。
「……今日はありがとな」
悠生の胸が、どくんと大きく脈を打つ。
体の奥底から何かがこみあげてきて、泣きそうな気持ちになる。
たった一言で、こんなに胸を揺さぶられるのは、何故だろう。
「おやすみなさい、先輩」
悠生はそう呟くと、ぎゅっと目を閉じた。
そして、ほんの少しだけ布団の中で体を動かす。
ほんの数センチだけ、体を寄せる。
目を閉じたままの蓮が、それに気が付かなければいいと願いながら。
瞼を閉じても、暗闇に浮かぶ金髪が、いつまでもきらきらと輝いているような気がした。
得体の知れない感情は、いまだまだ解き明かせない。
それでもそれは、恐怖ではなく、確かな熱となって、悠生の中に広がっていった。
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すれ違っていた二人が、甘々な「週末冒険者夫婦」になるまでの、勘違いと溺愛のハッピーエンドBL。
イケメン後輩のスマホを拾ったらロック画が俺でした
天埜鳩愛
BL
☆本編番外編 完結済✨ 感想嬉しいです!
元バスケ部の俺が拾ったスマホのロック画は、ユニフォーム姿の“俺”。
持ち主は、顔面国宝の一年生。
なんで俺の写真? なんでロック画?
問い詰める間もなく「この人が最優先なんで」って宣言されて、女子の悲鳴の中、肩を掴まれて連行された。……俺、ただスマホ届けに来ただけなんだけど。
頼られたら嫌とは言えない南澤燈真は高校二年生。クールなイケメン後輩、北門唯が置き忘れたスマホを手に取ってみると、ロック画が何故か中学時代の燈真だった! 北門はモテ男ゆえに女子からしつこくされ、燈真が助けることに。その日から学年を越え急激に仲良くなる二人。燈真は誰にも言えなかった悩みを北門にだけ打ち明けて……。一途なメロ後輩 × 絆され男前先輩の、救いすくわれ・持ちつ持たれつラブ!
☆ノベマ!の青春BLコンテスト最終選考作品に加筆&新エピソードを加えたアルファポリス版です。
陰キャな俺、人気者の幼馴染に溺愛されてます。
陽七 葵
BL
主人公である佐倉 晴翔(さくら はると)は、顔がコンプレックスで、何をやらせてもダメダメな高校二年生。前髪で顔を隠し、目立たず平穏な高校ライフを望んでいる。
しかし、そんな晴翔の平穏な生活を脅かすのはこの男。幼馴染の葉山 蓮(はやま れん)。
蓮は、イケメンな上に人当たりも良く、勉強、スポーツ何でも出来る学校一の人気者。蓮と一緒にいれば、自ずと目立つ。
だから、晴翔は学校では極力蓮に近付きたくないのだが、避けているはずの蓮が晴翔にベッタリ構ってくる。
そして、ひょんなことから『恋人のフリ』を始める二人。
そこから物語は始まるのだが——。
実はこの二人、最初から両想いだったのにそれを拗らせまくり。蓮に新たな恋敵も現れ、蓮の執着心は過剰なモノへと変わっていく。
素直になれない主人公と人気者な幼馴染の恋の物語。どうぞお楽しみ下さい♪
何故よりにもよって恋愛ゲームの親友ルートに突入するのか
風
BL
平凡な学生だったはずの俺が転生したのは、恋愛ゲーム世界の“王子”という役割。
……けれど、攻略対象の女の子たちは次々に幸せを見つけて旅立ち、
気づけば残されたのは――幼馴染みであり、忠誠を誓った騎士アレスだけだった。
「僕は、あなたを守ると決めたのです」
いつも優しく、忠実で、完璧すぎるその親友。
けれど次第に、その視線が“友人”のそれではないことに気づき始め――?
身分差? 常識? そんなものは、もうどうでもいい。
“王子”である俺は、彼に恋をした。
だからこそ、全部受け止める。たとえ、世界がどう言おうとも。
これは転生者としての使命を終え、“ただの一人の少年”として生きると決めた王子と、
彼だけを見つめ続けた騎士の、
世界でいちばん優しくて、少しだけ不器用な、じれじれ純愛ファンタジー。
ブラコンすぎて面倒な男を演じていた平凡兄、やめたら押し倒されました
あと
BL
「お兄ちゃん!人肌脱ぎます!」
完璧公爵跡取り息子許嫁攻め×ブラコン兄鈍感受け
可愛い弟と攻めの幸せのために、平凡なのに面倒な男を演じることにした受け。毎日の告白、束縛発言などを繰り広げ、上手くいきそうになったため、やめたら、なんと…?
攻め:ヴィクター・ローレンツ
受け:リアム・グレイソン
弟:リチャード・グレイソン
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